混浴奇譚

――万座の湯に消えた幻影――



〜まえがき〜

人は歳を重ねるほど、立派な思い出ばかりを語るようになります。

仕事で成功した話。
褒められた話。
人に自慢できる話。

けれど、本当に心に残っているのは案外そういうものではありません。

失敗したこと。

恥をかいたこと。

仲間と腹を抱えて笑ったこと。

そして今となっては、誰にも説明できないほどくだらなかったこと。

本作は、そんな記憶の物語です。

温泉の話です。

バイクの話です。

そして何より、男たちの青春の話です。

もし読み終えたあと、昔の友人の顔がひとりでも浮かんだなら、作者としてとても嬉しく思います。




第一章 境界線の曖昧な時代に

最近、本当に分からなくなった。

街を歩いていると、前を歩く人物が男なのか女なのか判別できないことが増えた。

長い髪。
細い肩。
すらりとした体型。

振り向くまで答えが分からない。

時代が変わったのか。

それとも還暦を過ぎた僕の目が、世界の輪郭についていけなくなったのか。

そんなことを考えていると、決まって思い出す出来事がある。

鼻の奥を刺す硫黄の匂い。

山道に響く大型バイクの排気音。

そして湯煙の向こうに消えた幻影。

若い頃、僕らは温泉を求めて走っていた。

いや。

正直に言おう。

温泉ではない。

混浴である。

男ばかりのバイク仲間が集まれば、話題など単純だった。

「おい、この宿、混浴らしいぞ」

その一言だけで全員の目が輝く。

今思えば実に馬鹿だった。

しかし、あの頃の僕らは真剣だった。

若さとはそういうものだ。

くだらないことほど真面目に追いかける。

だから楽しかったのだ。



第二章 鉄馬の季節

仲間は四人いた。

タカ。
マコト。
シンジ。
ユウスケ。
そして僕。

タカは無口な整備士だった。バイクの調子が悪くなると必ず直してくれる。しかし自分のことはほとんど話さない。感情があるのかどうかも定かでない。たまに笑う。その笑いが妙に嬉しかった。

一方、マコトは正反対だった。毎週のように温泉雑誌を読み漁り、「ここは混浴率が高い」「この宿は期待できる」と得意げに語っていた。その情報は八割方外れた。残りの二割は行く前に廃業していた。

シンジは慎重派だった。旅館の予約もガソリン残量も天気予報も全部確認する。出発の三十分前にはすでに集合場所にいて、地図を広げている。だが混浴になると急に判断力が消える。「あそこに誰かいる……女かも……」それだけで顔が赤くなり、思考が停止する。繊細な男だった。

ユウスケは笑い上戸だった。どんな失敗も笑い話に変えてしまう。自分がズッコケても、仲間がズッコケても、まず笑う。後で心配する。

そして僕らは毎週末になると国道沿いのコンビニに集まった。缶コーヒーを飲む。煙草を吸う。くだらない話をする。それからエンジンをかける。

大型バイクの排気音が朝の空気を震わせる。

あの瞬間が好きだった。

旅が始まる音だった。

目的地はいつも温泉だった。そしてほとんどの場合、敗北した。

男。男。また男。

湯煙の向こうにいるのは僕らと同じ夢破れた男たちばかり。それでも翌週になるとまた走り出す。今度こそ奇跡が起きると信じて。



第三章 最初の大事件――道に迷った男たち――

混浴遠征を語るには、まず僕らの「航法能力」について説明しなければならない。

当時はカーナビなど存在しなかった。スマートフォンなど影も形もなかった。あったのは昭和の折りたたみ地図と、マコトの「勘」だけだった。この組み合わせは最悪だった。

最初の大事件は、群馬の某山奥温泉を目指していた時に起きた。

「ここを右だ」

マコトが自信満々に言った。全員が右に曲がった。

三十分後。僕らは林道の行き止まりに突っ込んでいた。前方には鬱蒼とした森。後方には狭い砂利道。

「……どこだここ」

シンジが地図を広げた。

「現在地は?」「分からん」「分からんって何だ、お前が持ってる地図は」「昭和五十二年版だ」「古すぎるだろ!」

地図と現実の地形が三十年ずれていた。

それだけではない。タカのバイクが、その場でエンジンを止めた。何の前触れもなく。静かに。

「タカ、どうした」「ガス欠だ」

全員が沈黙した。

「……言えよ、早く」「言う暇がなかった」「林道に入る前に言えよ!」

タカは表情を変えずに言った。「分かった。次から言う」

この男はいつも事後報告だった。

結局、全員でバイクを押して砂利道を三キロ戻った。夏の午後だった。汗だくだった。虫がたかった。

ユウスケは笑い転げながら押していた。

「なんでお前は笑えるんだ」シンジが怒る。「だって楽しいじゃないか」「どこが楽しいんだ!」「全部」

そう言えるユウスケが羨ましかった。

結局その日、温泉には辿り着けなかった。帰り道、国道沿いのドライブインで定食を食べた。揚げ物盛り合わせ。漬物。味噌汁。何でもなかった。しかしあれほど美味い定食を食べたことがない。失敗した日の飯はなぜか美味い。



第四章 湯煙のヴィーナス

その日も敗北するはずだった。

古びた山奥の温泉宿。木造の廊下。軋む床。薄暗い岩風呂。

ガラガラと引き戸を開けた瞬間だった。

「……マジか」

ユウスケが呟いた。全員の視線が一点に集まる。

そこには後ろ姿があった。

細い肩。白い背中。長い黒髪。うなじ。

どう見ても女性だった。百人いたら百人がそう答える。僕らの脳内では祝砲が鳴り響いていた。

だが誰も近づかない。勇気がない。結局、僕らは岩になった。湯に沈み。存在感を消し。静かに見守る。

今思えば気持ち悪い集団である。しかし当時は必死だった。

「どうする」シンジがギリギリの声量で囁く。「どうするって何を」「話しかけるか」「お前が行け」「俺は無理だ」「マコトは」「俺も無理」「タカは」

タカは既に目を閉じていた。「タカ、寝るな」「寝てない。考えてる」「何を」「後ろ姿の採点」「何点だ」「九十五点」

誰も動かなかった。

数分後。ついにその時が来た。ヴィーナスが立ち上がった。僕らの鼓動は最高潮に達する。

そして振り向いた。

その瞬間。宇宙が裏返った。

そこにあったのは。

僕ら全員を圧倒するほど立派なイチモツだった。

完全敗北である。

ユウスケが湯を吹き出した。マコトは目を閉じた。シンジは天井を見上げた。タカだけが静かに言った。

「後ろ姿は優勝だな」

僕らは笑うしかなかった。男は堂々と歩き去った。その後ろ姿は最後まで美しかった。

その日以来、彼は僕らの間で『湯煙のヴィーナス』と呼ばれることになる。



第五章 脱衣所の悲劇

ヴィーナス事件から二ヶ月後。懲りもせず僕らは温泉へ向かっていた。

今回の目的地は長野の小さな湯治場だった。マコトの情報によれば「混浴の名所」らしかった。

「信頼度は何割だ」僕が聞く。「今回は高い。雑誌に載ってた」「何年の雑誌だ」「……去年だ」「本当に去年か」「……一昨年かもしれない」「捨てろそんな情報」

しかし行った。結局いつも行ってしまう。

件の湯治場に着くなり、最初の事件が起きた。シンジが脱衣所で転んだのである。

原因は単純だった。入り口の板が濡れていた。シンジはそれに滑り、見事に足を取られた。

「うわっ」「シンジ!」

僕が駆け寄る前に、シンジは棚を掴んだ。棚が傾いた。積み上げられていた籐籠が崩れた。籐籠の中身が散乱した。

見知らぬ誰かの財布。見知らぬ誰かの腕時計。見知らぬ誰かのパンツ。

「すみませんすみません!」

シンジは地べたに正座して謝り始めた。脱衣所には他に二人の男性客がいた。一人は無表情。もう一人は苦笑い。

ユウスケは脱衣所の外で肩を震わせていた。「笑うな笑うな笑うな」僕がユウスケの肩を叩く。「笑ってない!笑ってない!あはははは!」

全然笑ってないとは言えない笑い声が廊下に響いた。

結局シンジは他の客に謝り続け、僕らが風呂に入れたのはそれから十分後だった。

そして例によって風呂には男しかいなかった。

「今日こそはと思ったのに」シンジが湯の中で呟く。「お前は転ぶ前から負けてた」マコトが言う。「転んでから更に負けた」タカが付け加える。「うるさい」

それでも笑っていた。五人全員で。



第六章 マコトの大誤算

僕らの歴史において、マコトの「外れ情報」は伝説的だった。中でも最大の事件は「幻の混浴旅館」事件である。

ある春の週末。マコトが珍しく興奮した様子で現れた。「今日は絶対に行くべき宿がある」「何割の信頼度だ」「百割だ」

「お前が百割と言ったことは過去一度もない」「今回が初めてだ」

それは確かに本物の信頼感だった。マコトは温泉雑誌ではなく、なんとその宿の女将から直接話を聞いたというのだ。

全員の目が輝いた。走った。山を越えた。林道を抜けた。二時間かけて辿り着いた。

宿はあった。確かにあった。

しかし。

玄関の前に看板が立っていた。

「改装工事のため休業中 再開予定 来春」

全員が看板の前で固まった。沈黙が三十秒続いた。

「……マコト」「……知らなかった」「女将のお墨付きは」「……去年の話だったかもしれない」「去年!」

しかし怒るだけ無駄だった。タカが看板を静かに読んだ。「来春か」「ああ」「来年来ようか」

全員が頷いた。

この楽観主義だけで、僕らは十五年間走り続けた。



第七章 ユウスケの独断遠征

ユウスケには稀に独断行動をする癖があった。ある夏の夜のことだ。

「……実は先週、一人で偵察に行ってきた」「どこへ」「伊豆の某所」「一人で?」「うん」「混浴の?」「うん」

全員が身を乗り出した。

「情報通りだった。ちゃんと混浴だった」「女性はいたか!」「いた」

全員が叫んだ。

「でも」「でも?」「その女性の連れが、ご主人だった」

沈黙。

「完全な夫婦だった。仲良さそうだった。羨ましかった」「羨ましいって何が」「混浴を有効活用できてることが」「お前は何を偵察してきたんだ」

ユウスケは笑った。「敗北の実態調査だ」

「でも温泉自体は最高だった。また行きたい」「来週行くか」「行くか」「行こう」

目的は変わっていなかった。仲間と走ることの楽しさだけは、いつも変わらなかった。



第八章 万座温泉の潜水艦たち

僕らの温泉遠征史上、最大の作戦行動は万座温泉だった。

その名前を聞くだけで、今でも硫黄の匂いが鼻の奥によみがえる。

ある秋の日だった。空は高く澄み、山々は赤や黄色に色づいていた。標高が上がるにつれ空気は冷たくなる。大型バイクのエンジン音が山々に反響し、まるで自分たちが世界の果てへ向かっているような気分になる。

先頭を走るのはマコトだった。「今回は違う」休憩のたびにそう言った。「何が違うんだ?」「勘だ」「またそれか」

全員が笑った。だが誰も否定しない。なぜなら全員同じことを思っていたからだ。今日こそは。今日こそ奇跡が起きる。若さとは根拠のない期待でできている。

万座温泉へ到着したのは午後だった。濃厚な硫黄の匂いが辺りを包んでいる。白い噴気が地面から立ち上る。まるで山全体が巨大な温泉装置のようだった。

露天風呂へ向かった僕らは、思わず言葉を失った。広い。とにかく広い。山肌に沿って幾つもの湯船が並んでいる。上流は鮮やかな黄色。下流へ行くにつれ乳白色へ変化する。自然が作った芸術作品だった。

「これはすごいな……」珍しくタカが感心した。

僕らはゆっくりと湯へ浸かった。熱い。しかし気持ちいい。身体の芯まで温まる。

そして十分後。問題が発生した。向こうから若い男女のカップルが現れたのである。

その姿を見た瞬間。僕ら五人は無言になった。そして誰からともなく沈み始めた。鼻まで。ギリギリまで。目だけを残して。

潜水艦である。いや。潜望鏡である。

「来るか?」ユウスケが囁く。「何が」タカが答える。「奇跡だよ」シンジが吹き出しそうになる。しかし誰も笑わない。本気だったからだ。

五分。十分。十五分。誰も来ない。二十分。三十分。やっぱり誰も来ない。

代わりに僕らの体力がどんどん奪われていく。万座の湯は強烈だった。皮膚がツルツルになる。顔が真っ赤になる。頭がぼんやりする。もはや混浴どころではない。

「もうダメだ……」最初に浮上したのはユウスケだった。「沈没する……」そう言い残して岸へ向かう。続いてマコト。さらにシンジ。最後まで粘ったタカも、無言で撤退した。

五人全員が岸に上がり、呆然と景色を眺めていた。

その時、向こうのカップルが立ち上がった。二人はどこかへ消えていった。

タカが口を開いた。「あのカップルは行ってしまった」「ああ」「俺たちが上がった直後に」「ああ」「……つまり俺たちが沈んでる間にも、何も起きなかったということだ」「ああ」「最初から勝ち目がなかったということだ」

誰も答えなかった。しかし誰もが知っていた。温泉が好きだから。バイクが好きだから。仲間が好きだから。それだけだった。



第九章 タカのバイク哲学

タカは無口だが、バイクのことになると違った。

ある夜、旅館の談話室で全員が酒を飲んでいた時のことだ。「なあタカ、お前はなんでバイクに乗るんだ」

タカは少し間を置いた。「走っている間は、何も考えなくていいからだ」

「仕事のこととか?」「全部だ。将来のこと。金のこと。人間関係のこと。走っている間は何もない。排気音だけだ。景色だけだ」

珍しい告白だった。全員が静かに聞いていた。

タカが続けた。「混浴に行くのも似たようなもんだと思ってる。女がいるかどうかより、行く理由があることが大事だ。理由がなかったら俺たちは集まらない。温泉という理由があるから走れる。混浴という夢があるから遠くまで行ける。目的地がなかったら出発できない」

ユウスケが言った。「じゃあ混浴って、実はどうでもいいのか」タカが答えた。「どうでもよくはない。あったら嬉しい」「それだけか」「それだけだ」

全員が笑った。「じゃあ来週も走るか」「走る」「温泉に行くか」「行く」「混浴を期待するか」「……する」

タカが最後に言った時、全員が爆笑した。お前もか、と思った。全員同じだった。



第十章 シンジの秘密作戦

シンジが最後の作戦を立案したのは、全員が三十代も後半に差し掛かった頃だった。

「作戦名・オペレーション・ラストチャンス」「名前が重い」「重くていい。これが最後だ」

「俺たちも来年には四十だ。男四十は老化の折り返し点だと医者が言っていた」「そんなこと言う医者がいるか」「俺の解釈だ」「解釈がひどい」

「とにかく、このままでは終われない。一回くらい、本当の意味での奇跡を起こしたい」

「作戦の内容は」「まず行き先を徹底的に調べる。有名どころではなく、穴場の混浴を探す。女将さんへの直接取材も含む。そして平日に行く」「平日」「そうだ。平日の午前中は一般の若い女性観光客が入りやすい。俺が週単位でリサーチした」「いつの間にそんな調査を」「三ヶ月かけた」

全員が感心した。シンジは真剣だった。

作戦は実行された。行き先は山形の某温泉。平日の木曜日。全員が仕事の休みを取った。

温泉に着いた。確かに人が少なかった。露天風呂に入った。静かだった。いい温泉だった。

そして湯の中には。

老夫婦が一組。一人の老人。僕たち五人。

「……シンジ」「うん」「作戦の結果は」「……惨敗だ」「お疲れ」「三ヶ月間の調査が」「お疲れ」「完全に」「お疲れ」「無意味だった」「お疲れ」

シンジは肩を落とした。その姿を見て、全員が笑った。

でも三ヶ月間、混浴のことを調べながら、楽しかったんじゃないか。

シンジは最後に笑いながら言った。「でも温泉は最高だったな」「最高だった」「また来るか」「来る」

結局そういうことだった。



第十一章 温泉宿の怪談

バイク旅の夜には必ず「語り」の時間があった。旅館の部屋で布団を敷き終えると、誰かが話し始める。

ある秋の夜、古い旅館の一室でマコトが言い出した。「この旅館、出るらしいぞ」「何が」「幽霊が」「どこで聞いた」「フロントのおばちゃんが教えてくれた」「フロントが自分で宣伝するな」

「でも本当らしい。この部屋の隣の四号室に出るって。夜中に廊下を歩く足音が聞こえるって」

その時だった。廊下から足音が聞こえた。コトッ。コトッ。コトッ。全員が硬直した。

「……来た」「落ち着け、人間だ」「でも——」コトッ。また鳴った。今度はすぐ近く。

「やばい!」シンジが布団を被った。成人男性が布団を被った。

ユウスケが笑いをこらえながら、こっそり廊下へ出た。三十秒後に戻ってきた。「……猫だった」「え?」「野良猫が廊下を歩いてた。おそらくどこかから入り込んだんだろう」

シンジが布団の中から顔を出した。「猫……」「でかい猫だったぞ。三毛だ」「……三毛なら出ないだろ」「なぜ三毛なら出ないんだ」「なんとなく」

全員が爆笑した。

その夜は遅くまで笑い転げた。明け方近くまで話し続けた。翌朝、全員寝坊した。それもまた、いい思い出だ。



第十二章 勝利のビール

その夜だった。旅館の食堂で、僕らは生ビールを注文した。

ジョッキが運ばれてくる。表面には細かな泡。水滴が光っている。誰も喋らない。まずは飲む。ゴクッ。

「うまい……」ユウスケが呟いた。全員が深くうなずく。

あれほど美味いビールを、僕は今でも知らない。温泉でのぼせ。山道を走り。一日中笑い続けた身体に染み込む。まるで生命そのものを飲んでいるようだった。

二杯目に入る頃には、いつもの反省会が始まる。

「今日も成果ゼロだったな」シンジが言う。「いや、景色は良かった」マコトが反論する。「温泉も良かった」タカが言う。「でも混浴は負けた」ユウスケが笑う。

そして全員が笑った。

結局いつもそうだった。成果なんてない。戦果もない。武勇伝もない。あるのは失敗談だけ。なのに、なぜこんなに楽しいのだろう。

その時は分からなかった。今なら分かる。僕らは温泉を探していたんじゃない。仲間と笑う理由を探していたのだ。

そしてその夜。酔いが回った頃、マコトが珍しく真面目な顔で言った。「俺たちさ、十年後もこうしてるかな」

誰も答えなかった。できると思っていたからだ。

若さとは、終わりを想像できない時間のことなのだ。



第十三章 最悪の天気と最高の一日

バイク乗りにとって、天気は最大の敵だ。晴れの日は最高。曇りの日はまあまあ。雨の日は……修行だ。

ある春の週末、僕らは完全に騙された。出発時は快晴だった。「今日は完璧だ」マコトが空を見上げた。「雲一つない」シンジが天気予報の紙を取り出した。「予報も晴れだ」

大丈夫ではなかった。二時間後、山に入ったところで土砂降りになった。前が見えない。轟音。バイクのシールドを雨粒が激しく叩く。

「道の駅!」誰かが叫んだ。全員が路肩の道の駅へ飛び込んだ。

びしょ濡れだった。頭から爪先まで。ジャケットの中まで水が入っていた。靴の中で水がチャポチャポ鳴っていた。

「最悪だ」ユウスケが笑いながら言った。「なんで笑えるんだ」「だってみんな同じ顔してる」

確かに全員が、落ち武者みたいな同じ顔をしていた。

道の駅の軒下に五人が肩を寄せ合って座った。雨音が激しかった。結局、食堂で二時間過ごした。天ぷらそばを食べた。コーヒーを飲んだ。土産物コーナーを三周見た。四周目は買うものを選び始めた。

「こんな時に何買ってんだ」「だって時間があるから」「確かに」

全員で土産を買った。家族へ。親へ。自分へ。

雨が上がったのは夕方だった。僕らは濡れたジャケットのまま、夕日の中を走って帰った。温泉には行けなかった。しかしその日の帰り道の夕日を、僕は今でも覚えている。

「綺麗だな」誰かが無線で言った。「ああ」全員が短く答えた。それだけで十分だった。



第十四章 少しずつ変わる景色

だが時間は流れる。誰にも平等に流れる。

タカが結婚した。マコトに子どもが生まれた。シンジは転勤した。ユウスケは家を建てた。僕も仕事が忙しくなった。

気づけば毎週集まっていた僕らは、年に数回しか顔を合わせなくなっていた。

それでも会えば昔に戻れた。ヘルメットを被る。エンジンをかける。それだけで二十代に戻れる気がした。

けれど少しずつ変化は始まっていた。「腰が痛い」「肩が上がらない」「健康診断で引っかかった」そんな会話が増えていく。

笑いながら話していたけれど、本当はみんな気づいていた。

若さには終わりがある。永遠だと思っていた週末にも終わりがある。

それでも走った。走ることだけは変わらなかった。



第十五章 最後のツーリング

最後に全員が揃ったのは、秋の終わりだった。

待ち合わせ場所は昔と変わらない。国道沿いのコンビニ。二十年以上通った場所だった。

朝七時。僕が着くと、すでにタカがいた。缶コーヒーを飲みながらバイクにもたれている。やがてシンジが現れた。少し腹が出ていた。ユウスケは相変わらず騒がしく登場した。最後にマコトがやってきた。

「お待たせ」そう言ってヘルメットを脱いだ時、僕は少し驚いた。白髪が増えていた。きっと僕も同じだったのだろう。

それでもエンジンをかけた瞬間、不思議なことが起きる。二十代に戻るのだ。

排気音が響く。風が身体を抜ける。山道を走る。信号待ちで並ぶ。笑う。ふざける。昔と何も変わらない。

目的地は小さな温泉宿だった。もちろん混浴だった。そしてもちろん、何も起きなかった。

男。男。また男。いつも通りである。

「最後まで安定してるな」ユウスケは笑った。「期待する方が悪い」マコトも笑った。

その帰り道。タカが言った。「俺たちって結局一度も混浴で成功しなかったよな」「そうだな」「二十年以上走って」「一度も」「おかしくないか」

タカが静かに言った。「おかしくない。成功しなかったことが俺たちらしいと思う。もし最初に成功していたら、こんなに長く続けなかったかもしれない。失敗し続けたから、ずっと走れた」

「何それ、まるで人生みたいだな」「人生だからそう感じるんだろ」

帰り道。五台のヘッドライトが夜の国道を照らしていた。何度も見た景色。しかし、その光景はなぜか胸に焼き付いた。

結局、それが全員揃っての最後の旅になった。誰かと喧嘩したわけではない。事故があったわけでもない。人生が、それぞれ別の道を走り始めただけだった。

別れとは案外そういうものなのだ。



第十六章 それぞれの現在地

タカは今、息子にバイクの整備を教えているらしい。先日、久しぶりに電話があった。「息子が原付を買った」「何歳だ」「十八だ」「早いな」「俺も早かった」

少しの間があった。「混浴には行ったか」「行くか、息子と」タカが笑った。珍しく。「……それはやめておく」「そうだな」

マコトはメールをたまに送ってくる。温泉の情報が書いてある。今でも温泉雑誌を読んでいるらしい。「ここ、混浴らしいぞ」「信頼度は」「七割」「また下がってる」「でも今度こそ」「来月どうだ」「都合を聞く」

まだ走れるかもしれない。

ユウスケは遠い街で元気にしているらしい。ある日、SNSで写真が投稿されていた。大きな露天風呂。誰もいない温泉。コメントには一言。「混浴でした(残念)」

変わらないな、と思った。それが嬉しかった。



最終章 万座の幻影

今でもガレージには古いヘルメットが残っている。傷だらけだ。何度も雨に打たれた。何度も転びそうになった。それでも捨てられない。

それを見るたび、思い出す。

万座温泉の黄色い湯。乳白色の露天風呂。強烈な硫黄の匂い。潜水艦になった男たち。そして湯煙のヴィーナス。

あの長い黒髪。あの白いうなじ。そして衝撃の結末。

脱衣所で転んだシンジ。林道で迷ったあの夏。道の駅で雨宿りした春。廊下を歩く猫に怯えた秋。

思い出すたびに今でも笑ってしまう。

人生は不思議だ。成功したことより失敗したことの方がよく覚えている。真面目に頑張った日々より、馬鹿をやった日の方が輝いて見える。

若い頃の僕らは何も持っていなかった。金もなかった。地位もなかった。未来の保証もなかった。それでも毎週末が楽しかった。仲間がいたからだ。笑い合える相手がいたからだ。

今、その時間は戻らない。あのツーリングも。あの温泉も。あの混浴も。もう戻らない。

けれど失われたわけではない。記憶の中に残っている。ガレージのヘルメットの中に残っている。そして心のどこかで、今も湯煙の向こうに揺れている。

万座の幻影はきっと消えない。

それは長い黒髪のヴィーナスではなく、僕らが置いてきた若さそのものだからだ。



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〜あとがき〜

この物語を書きながら、私は何度も昔の週末を思い出しました。

待ち合わせ場所のコンビニ。缶コーヒー。山道の風。温泉の匂い。仲間たちの笑い声。

当時は特別だと思っていませんでした。来週も。再来週も。その次の週も。ずっと続くと思っていました。

しかし人生は想像以上に速く過ぎていきます。気づけば最後のツーリングは終わっています。

だからこそ思うのです。何気ない週末こそ宝物だったのだと。失敗した旅も。迷い込んだ林道も。雨に打たれた山道も。全部が、かけがえない時間でした。

混浴に成功したことは一度もありませんでした。しかし、失敗し続けたことが最高の成功だったのかもしれません。なぜなら、失敗し続けたおかげで、僕らはずっと走り続けられたのですから。

この物語が、皆さま自身の大切な思い出を振り返るきっかけになれば幸いです。

そして今でも週末になるとバイクに乗っている方、温泉を目指して走っている方へ。あなたの旅はまだ続いている。それだけで十分です。