タイムマシンよ、と彼女は微笑んだ
— ある邂逅の物語 —
〜まえがき〜
人は、ときどき過去に戻りたくなります。
あの日、違う言葉を選んでいたら。
あの日、勇気を出して会いに行っていたら。
あの日、素直に「ごめん」と言えていたら。
誰の人生にも、そんな「もしも」があるのではないでしょうか。
けれど現実には、時間は巻き戻りません。
時計の針は前に進み、季節は巡り、人は歳を重ねていきます。
それでも、不思議なことがあります。
忘れたはずの記憶が、ある日突然よみがえることがあります。
何十年も会っていない人の笑顔を、昨日のことのように思い出すことがあります。
そして、その記憶は時として、本当のタイムマシンよりも遠くまで私たちを運んでくれます。
この物語は、四十五年前に別れた二人の小さな約束から始まります。
人生の途中で失われたもの。
それでも心のどこかに残り続けたもの。
そして、人が誰かを想うということの不思議について書いた物語です。
読み終えたあと、あなたの心の中にも、懐かしい誰かの笑顔が浮かんでくれたなら、作者としてとても嬉しく思います。
序章 そっくりさん
昨日、ショッピングモールで、昔の彼女を見掛けた。
それはあの頃の姿のまま若く、はっとして、私は彼女の姿を目で追った。
それは、もちろん、そっくりさんで。
まさか、なんて思うはずはないが、あまりのその姿に、瞬時にあの日に連れ去られた。
でも、それだけだったはずだった。
――そう、それだけだったはずだった、と私は今でも自分に言い聞かせている。けれども、その小さな出来事から始まったいくつかの夜と朝のあいだに、私は四十五年という歳月を一度だけ、たしかにまたいで歩いたのだ。
夢だったのか、現実だったのか。あるいはその両方だったのか。
いまだに、私には分からない。
ただひとつ言えるのは、彼女が最後に微笑んで言ったあの言葉が、いまも私の胸の奥のいちばん柔らかい場所で、ときどき小さな音を立てて鳴ることだ。
あたしよ。タイムマシンよ。
その声を思い出すたび、私は六十八歳の自分の手のひらを見つめ、それから、まだ二十二歳だった頃の彼女の細い指先を思い出す。
そして、ようやく息を吐く。
これは、そういう物語である。
第一章 モールの午後
その日は、土曜日だった。
十一月の、薄曇りの午後だ。
空は乳白色のフィルターをかけたように均質で、風はほとんどなく、街路樹のケヤキはすでに葉のほとんどを落としていた。コートを羽織るには少し早く、しかしジャケット一枚では肩のあたりがうっすらと寒い、そんな中途半端な気候だった。
妻の節子が、ふと思いついたように言ったのだ。
「あなた、今日、新しいモールに行ってみない?」
朝食の片付けを終えた手でエプロンの紐をほどきながら、彼女は窓の外に視線を投げていた。隣町に大きなショッピングモールができたのは半年ほど前のことで、開店当初の混雑が落ち着いた頃合いを、彼女はずっと見計らっていたらしい。
「ちょうど、冬物の下着が欲しかったの。あなたのセーターも、襟のところがもう毛玉だらけよ」
「ああ、いいよ」と私は答えた。退職してから三年、私の予定はたいてい妻の予定でできている。それが嫌だと思ったことは、不思議と一度もない。
車で三十分ほど走った郊外に、そのモールはあった。
駐車場に入るスロープを上がっていくと、白いアーチを描いた屋根の下、まだ新築の匂いを残した巨大な建物が現れる。三階建ての吹き抜けが二か所、外光を取り入れる大きな天窓、植栽として並べられたシュロや観葉植物の鉢。すべてが、流行りの、明るく無機質な「ファミリーの幸せ」を演出する記号として、整然と配置されている。
節子は嬉しそうに、案内板の前で店舗一覧を眺めていた。
「先にユニクロに寄って、それから、二階のカフェでお茶しましょうよ」
「ああ」
「あなたは本屋さんでも見てる?」
「いや、付き合うよ」
節子は私の横顔をちらりと見て、ふふ、と小さく笑った。
「今日はやけに付き合いがいいのね」
「そうかな」
「そうよ」
私は、なぜそんな答え方をしたのか、自分でも分からなかった。普段なら、ユニクロのレディース売り場で迷子の老人のように立ち尽くす自分が嫌で、「本屋で待ってる」と言うはずだったのだ。けれども、その日はなぜか節子のそばを離れたくなかった。何か、理由のない予感のようなものが、私の背中に手をあてて、彼女のそばに残らせていた。
いま思えば、それは予感だったのかもしれない。
吹き抜けの中央には、低いベンチがコの字に並べられていた。家族連れがアイスクリームを舐め、若いカップルがスマートフォンを覗き込み、ベビーカーを押した母親が同年代の友人と立ち話をしている。私はそのベンチのひとつに腰を下ろし、節子が買い物袋を提げて隣のフロアから降りてくるのを待っていた。
時計を見ると、三時十五分だった。
その瞬間、私は、彼女を見た。
最初は、視界の右端を、淡い水色のワンピースが横切っただけだった。
次の瞬間、私の首は、自分の意志とは無関係にそちらを向いていた。
まるで、誰かが私の顎の下に細い糸をかけて、ぐい、と引っ張ったかのように。
彼女は、二階のフロアから、エスカレーターでこちらに向かって降りてくるところだった。
肩のあたりで揃えられた、まっすぐな黒髪。
うすい眉のかたちと、その下にある、少しだけ哀しそうな目。
左の口角だけが、何かを言いかけてやめたみたいに、ほんの少し上がっている。
胸の前で軽く抱えた、生成りの帆布のトートバッグ。
白いスニーカー。
水色の、ノースリーブの上にカーディガンを羽織った、季節を半歩先取りしたみたいな出で立ち。
ぜんぶ、ぜんぶ、あの頃のままだった。
私の心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
跳ねた、というよりも、何か別の生き物が胸の中で目を覚まして、ぱたん、と尻尾を床にぶつけたような、そういう感じだった。
彼女は、エスカレーターのいちばん下に着地すると、案内板のほうへ顔を向け、それからすぐに私のいるベンチのほうへ、まっすぐ歩いてくる。
私は呼吸を止めた。
まさか。
まさか、まさか、まさか。
脳の奥のほうで、誰か――それは若い頃の私自身の声だった――が、その三文字を何度も鳴らしていた。
しかし、私の理性は、すでにその答えを用意していた。
まさか、なんて思うはずはない。
彼女は四十五年前の、二十二歳の真島理沙であって、いまここを歩いているのが彼女であるはずは、ない。
もし生きていれば、彼女もまた、私と同じ、六十七歳のはずなのだ。
それでも、私の目は、彼女から離れなかった。
彼女は私のすぐ前を通り過ぎていった。
すれ違うとき、ふわっと、洗いざらしの洗濯物のような匂いがした。柔軟剤と、ほんの少しの汗と、誰かの家の朝の匂い。
その匂いに、私はもう一度、心臓を蹴られた。
彼女のうなじに、小さなほくろがあった。
左の耳の下、ちょうど髪の生え際の終わるところに、米粒よりも小さい、けれども確かに見える、黒い点。
私はそのほくろを知っていた。
知っているはずだ。なぜなら、私は二十一歳のある夏の夕暮れ、まさにその場所に、唇をあてたことがあるからだ。
私の手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
その「そっくりさん」は、私の前を通り過ぎ、本屋のほうへと歩いていく。後ろ姿の肩のラインも、歩くときに少しだけ右肩が下がるくせも、ぜんぶ、あの頃の理沙のままだった。
私は思わず立ち上がりかけて、しかし、すぐに自分を止めた。
立ち上がって、どうするというのだ。
「あの、すみません」と呼び止めて、なんと言うのだ。
「あなた、四十五年前の私の恋人にそっくりですね」とでも?
そんな台詞は、滑稽を通り越して、ほとんど狂気のようにすら聞こえるだろう。
私は、もう一度、ベンチに腰を下ろした。
膝に置いた両手が、自分のものではないみたいに微かに震えていた。
その時、エレベーターのほうから節子の声がした。
「お待たせ。下着、いいのが見つかったわ」
彼女は両手にユニクロの紙袋を提げて、満足げに笑っていた。
「あら、どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「いや、なんでもない」
「立ちくらみ? お水、買ってきましょうか」
「大丈夫だよ。ちょっと、ぼうっとしてただけだ」
節子は私の顔をのぞき込んで、それから、本屋のほうへちらりと視線を送った。私の視線の方向に気づいたのか、気づかなかったのか、彼女はとくに何も言わずに、隣に腰を下ろした。
「カフェ、行きましょうか」
「うん。行こう」
立ち上がって歩き出した私の目は、それでも、最後にもう一度、本屋の入り口のほうを探していた。
しかし、水色のワンピースは、もうどこにもなかった。
彼女は、まるで吹き抜けの天窓から落ちてくる光に紛れて、最初からそんな人はいなかったみたいに、消えてしまっていた。
そっくりさん、ね。
私はそう、心の中で何度も呟いた。
ただの、そっくりさんだ。
世界には、似た顔の人間が三人いるという。八十億の人類のうち、二十二歳の頃の理沙に似た娘がひとりやふたりいたって、ふしぎではない。
それは、もちろん、そっくりさんで。
そう、それだけのはずだった。
それだけだったはずだった。
けれども、私の心はすでに、四十五年前のあの日の坂道の途中に、置き去りにされていた。
第二章 文学サークルの夏
真島理沙と初めて会ったのは、私が二十歳、彼女が十九歳の春のことだった。
私はその年、地方の国立大学の文学部に入学したばかりで、サークル選びに迷っていた。父からは「下宿代と学費を出してやるかわりに、四年間は遊ぶな」と釘を刺されていたが、そう言われたところで、生まれて初めて親元を離れた青年が、何の遊びもせずに過ごせるはずもなかった。
四月の半ば、サークル勧誘の立て看板が並ぶ中庭で、私は「文学サークル《青磁》」と書かれた一枚に立ち止まった。
青磁、というのは陶磁器の青磁から取った名前らしく、看板の隅には、ぼんやりと青みを帯びた茶碗の絵が描かれていた。
「あの、興味あります?」
そう声をかけてきたのが、理沙だった。
彼女はその時、白いブラウスに紺色のスカート、肩に布の手提げ袋をかけていた。化粧はほとんどしておらず、髪は肩のあたりで切りそろえられていて、薄い眉と、少しだけ哀しそうな目が印象的だった。けれども、彼女が笑うと、その「哀しそうな目」は、夕立のあとの空みたいにすっと晴れた。
「ええ、まあ……」と、私はもごもごと答えた。
「うちのサークル、合評会と読書会と、たまに合宿があるだけなんですけど。あなた、何が好きですか?」
「えっと……三島由紀夫とか」
「うっわ、難しいの読むんですね」
彼女はそう言って、声を立てずに笑った。その笑い方に、私は不覚にもどきりとした。
「あなたは?」
「私は、芥川と、太宰と、最近は中原中也かなあ」
「中也、僕も好きです」
「ほんと? 何が好き?」
「『汚れつちまつた悲しみに……』とか」
「ああ、王道ね」
彼女はそう言って、首を傾げた。その仕草の角度がやけに私の記憶に残ったのを、いまでも覚えている。
その日、私は《青磁》に入会した。
入会届を書いている間も、横で待っている理沙のサンダルの片方が、こつ、こつ、と地面を小さく叩いているのが聞こえた。私は彼女の足元をちらりと見て、彼女の白いくるぶしに、薄く青い血管が透けていることに気がついた。
春の光の下で、その青さは、まるで磁器の釉薬みたいだった。
《青磁》には、男子が四人、女子が三人、合わせて七人の部員がいた。
部室は、文学部棟の三階の隅、北向きの六畳ほどの小さな部屋で、一年中、湿った紙の匂いがしていた。誰かが置きっぱなしにした文庫本、誰かが書き散らした原稿用紙、誰かが忘れていったマグカップ。そういうものたちが、互いに少しずつ寄り添うようにして、その部屋を埋めていた。
私たちは週に一度、その部屋に集まって、誰かが書いた短編や詩を持ち寄り、合評をした。批評は厳しく、しばしば容赦がなかったが、それでも互いを傷つけることが目的ではないことを、皆、なんとなく分かっていた。
理沙は、詩を書いていた。
彼女の詩は、決して技巧的ではなかったが、ひとつひとつの言葉が、よく磨かれた小石のように、確かな重みを持っていた。
たとえば、こんな詩があった。
――もしも、あなたが
今夜、夜更けに目を覚まして
水を一杯、飲むことがあったら
その水の冷たさのなかに、
私のことを、
ほんの少し、
含ませてください
二十歳の私は、その詩を読んで、椅子の上で身じろぎひとつできなかった。
なぜなら、それは、彼女が「私に」あてた詩のように思えてならなかったからだ。
もちろん、そんなはずはなかった。私たちはその時点で、ろくに口もきいたことのない、ただのサークルの先輩と後輩だった。
けれども、私は、その夜、自分のアパートに帰ってから、ガラスのコップに水道水を注いで、ゆっくりと飲んだ。
冷たかった。
ほんとうに、冷たかった。
そしてその冷たさのなかに、私は、誰かを、たしかに含ませた。
夏が来た。
《青磁》には、毎年夏に、合宿の習わしがあった。
四年生の先輩の実家が、海から少し離れた山あいの温泉町で旅館を営んでいて、私たちはその一室を二泊三日、格安で借り上げるのが恒例になっていた。
その年の合宿が、私と理沙の決定的な転換点だった。
夜、二日目のことだ。
合評会と打ち上げを終え、酔った先輩たちが寝静まったあと、私は、なぜだか目が冴えてしまい、廊下に出た。
古い旅館特有の、木の軋む廊下の先に、小さな縁側があった。蚊取り線香の匂いと、夜の山の冷えた空気がそこにはあった。
縁側に、理沙が座っていた。
浴衣の襟元から覗く首筋が、廊下の電球の薄黄色い光に照らされていた。
彼女は私に気づくと、振り返って、静かに笑った。
「眠れないの?」
「ええ、まあ」
「私も」
「隣、いいですか」
「どうぞ」
私は彼女の隣に腰を下ろした。
体の半分ほどを空けて。
彼女はしばらく黙って、暗闇の中の山の稜線を見ていた。私もそれを見ていた。月のない夜で、山は、星空との境目だけが、わずかに墨色に滲んでいた。
「ねえ、志村くん」
彼女が、そう私の名前を呼んだのは、その夜が初めてだった。
「は、はい」
「私ね、たぶん、あなたのこと、好き」
その瞬間、蚊取り線香の煙が、ふっ、と縁側のほうへ流れて、私の鼻先をかすめた。
私は、何も言えなかった。
心臓が、耳の中で、太鼓のように鳴っていた。
「返事は、いま、しなくていいから」
彼女はそう言って、私の顔を見ないまま、続けた。
「ただ、合宿のあいだに、いちど、言葉にしておきたかったの。言葉にしないと、消えてしまいそうな気がして」
「真島さん」
「うん」
「僕も」
「うん」
「僕も、たぶん、あなたのこと、好きです」
「うん」
「たぶんじゃない。好きです」
「うん」
彼女は、それでも私の顔は見ず、ただ、自分の浴衣の膝のあたりを、両手でぎゅっと掴んでいた。
その手の甲に、ぽたん、と何かが落ちた。
涙だった。
彼女は泣いていた。
うれしくて泣くという表情が、本当に世界に存在することを、私はその夜、初めて知った。
それから私たちは、付き合うようになった。
二十歳の春から、二十二歳の冬まで。
実質的には、二年弱。
四十五年の月日からみれば、ほんの一瞬のような時間だった。
けれども、その一瞬は、私のその後の人生のすべての場面に、薄く透明な箔のように、貼り付いて離れない。
付き合っているあいだ、私たちはよく、大学のそばの川辺を歩いた。
春には桜が咲き、夏には蛍が出、秋には鴨が渡ってきて、冬にはかじかんだ指を、互いのコートのポケットに突っ込んで温め合った。
大したことは、何もしていない。
ただ、歩いて、ただ、笑って、ただ、つまらない冗談を言い合って、ただ、ときどき喧嘩をして、ただ、ときどき抱き合っていた。
彼女は、私の知らないことをたくさん知っていた。
たとえば、彼女は星の名前を、私の十倍は知っていた。
たとえば、彼女は鳥の鳴き声から、その鳥の種類を当てることができた。
たとえば、彼女は紅茶を淹れるのが、私の母よりも上手だった。
たとえば、彼女は、人が黙っているときの、その沈黙の意味を、たいてい正確に読み取った。
夏のある夕暮れ、川辺の土手で、私は初めて彼女のうなじの、髪の生え際のあたりに、唇をあてた。
そこに、米粒よりも小さな、ほくろがあった。
彼女は、くすぐったそうに首をすくめて、「やめてよ」と笑った。
でも、その「やめてよ」は、「もう一度して」と同じ意味なのだということを、私はすでに知っていた。
あのほくろを、私は、いまでも目を閉じれば描ける。
そっくりさんの彼女の、左の耳の下にあった、あのほくろのことを思い出しながら、私は、自宅のソファに座って、両手で顔を覆っていた。
夜の十時を回っていた。
節子は、すでに寝室に入って、本を読んでいる。
居間の天井の照明は、いちばん暗い段に落としてあった。
テレビは消えていて、ただ、加湿器の水蒸気を吐き出すかすかな音だけが、部屋に満ちていた。
ただのそっくりさんだ、と私はもう一度、自分に言い聞かせた。
しかし、誰がそんな偶然を、たやすく信じるだろう。
四十五年前の、彼女の、あの夏のうなじのほくろの位置と、今日見た娘のうなじのほくろの位置とが、ぴたりと一致していたとしたら。
偶然というには、あまりにも精度が高すぎた。
私はソファから立ち上がり、書斎に向かった。
書棚のいちばん下、奥のほうに、私はある古い封筒の束をしまっていた。
節子と結婚するときに、私は過去のラブレターのたぐいをすべて処分したつもりだったが、ただ一通だけ、捨てきれずに残してしまったものがあった。
その封筒のなかに、一枚の白黒写真が入っていた。
二十一歳の理沙。
川辺の土手で、こちらを振り向いて、はにかむように笑っている。
肩のあたりで切りそろえられた、まっすぐな黒髪。
うすい眉と、少しだけ哀しそうな目。
左の口角だけが、何かを言いかけてやめたみたいに、ほんの少し上がっている。
私は、その写真を、震える指でつまみあげた。
今日、モールで見た「そっくりさん」と、まったく同じ顔だった。
まったく、同じ、顔だった。
偶然なんかじゃない。
心の奥のほうで、誰かが、はっきりと、そう囁いた。
それは、たぶん、四十五年前の私自身の声だった。
第三章 三十の約束
別れは、ある冬の夜、本当にあっけなく訪れた。
いまになって思えば、別れの理由は、別れたあとに何度も自分で組み立て直した「理由」であって、その瞬間にはっきりとした理由などなかった。
あるのはただ、二十二歳の私の、傷つきやすく、そのくせ、自分が傷つけられたときにはすぐに刃を抜いてしまう、未熟で硬い心だけだった。
きっかけは、ほんとうに、些細なことだった。
その日、私は理沙との約束に三十分ほど遅刻した。
その前の週、ゼミの教授に呼び出されて、卒業論文のテーマについて長々と説教を食らった私は、明らかに苛立っていた。教授は私の選んだテーマを「気取りすぎている」「お前のような学生がやるべきテーマではない」と切り捨て、最後には「親に学費を出してもらっている分際で、何様だ」と吐き捨てた。
その台詞が、私の心に妙に深く刺さって抜けなかった。父から「四年間は遊ぶな」と釘を刺されていた、あの春のことを思い出した。私は、自分が誰かに「何様だ」と言われるたびに、内側から少しずつ削られていくような気がしていた。
待ち合わせの喫茶店に着くと、理沙はすでに、温かい紅茶を二杯、私の分まで注文して待っていた。
「ごめん、遅くなって」
「うん」
彼女はそう言って、しかしどこか、よそよそしい笑顔を浮かべていた。
私は腰を下ろし、紅茶に口をつけた。
もう、ぬるくなっていた。
その「ぬるさ」が、なぜだか、私の苛立ちを最後の一線まで押し上げた。
「悪い。先に飲んでてくれて、よかったのに」
「ううん。あなたと飲みたかったから、待ってたの」
「だけど、ぬるくなっちゃったじゃないか」
「……」
彼女は、何も言わなかった。
私はその沈黙の意味を、もちろん知っていた。
彼女が黙っているとき、それはたいてい、私が間違っていて、しかし彼女が私を責めたくないときの、沈黙だった。
私はその沈黙を、解きほぐすこともできず、ただ、自分の言葉でさらに自分を追い詰めていった。
「最近、お前、なんか、変だよな」
「変?」
「うん、なんていうか……重い」
その単語を、私はその瞬間まで、口に出すつもりはなかった。
しかし、いったん口に出してしまうと、私はその単語を引き返すことができなかった。
「私、重い?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味」
「だから、なんていうか……」
「もういい」
彼女は、紅茶のカップをソーサーに戻した。
その音は、それまでの会話のどの言葉よりも、はっきりと、私の耳に残った。
「ごめん、今日は、もう帰る」
「おい、待てよ」
「あなたといると、私、自分が誰なのか、わからなくなる」
「……」
「私はあなたを、重くしたくない」
「だから、そういう意味じゃないんだって」
「うん。わかってる」
彼女は、椅子の背にかけてあったコートを羽織り、財布から自分の紅茶の分の小銭を出し、テーブルに置いた。私は、そのコインの小さな塔を、いつまでも見ていた気がする。
「またね」
その「またね」を、私は今でも覚えている。
あれは、「またね」ではなくて、「さよなら」だった。
翌週も、その翌週も、彼女はサークルに来なかった。
電話をしても、当時はまだ家の固定電話の時代だ、彼女の下宿のアパートの呼び出し音が虚しく鳴るだけだった。
手紙を書こうかと思ったが、書くべき言葉が見つからなかった。
「悪かった」と書けば済む話だったのかもしれない。
しかし、二十二歳の私の喉には、その三文字が、どうしても通らなかった。
たぶん、彼女は彼女で、私からの「悪かった」を待っていたはずだ。
たぶん、彼女もまた、自分から「あの時はごめんね」とは言えないでいたはずだ。
私たちは、互いに、相手から先に手を伸ばしてくることを、待ちすぎた。
一か月ほど経った、ある寒い夕方、私は、彼女のアパートの下に立っていた。
二階の、左から二番目の窓。
その窓には、明かりがついていた。
しかし、私はそのドアを叩くことが、どうしてもできなかった。
なぜ?
いまでも、よくわからない。
ただ、私は、その階段を上る勇気を、その夕方、ぜんぶ失ってしまっていた。
あるいは、勇気ではなく、若さの傲慢さだったのかもしれない。
「あいつから謝ってくるべきだ」
「俺は悪くない」
「俺のほうがもっと傷ついている」
そういう、二十二歳の若い男の、馬鹿げた論理が、私の足を、その階段の最初の一段に置かせなかった。
私はその夜、彼女のアパートの下から、何も告げずに帰った。
いま思えば、あれが、私たちの最後のチャンスだった。
翌月、彼女はアパートを引き払い、大学にも来なくなった。
風の噂で、家庭の事情で実家に戻った、と聞いた。
彼女の実家がどこにあるのか、私は知らなかった。
二年も付き合っていたのに、私は、彼女の実家の住所さえ、知らなかった。
いや、知ろうとしなかった、というほうが正確だ。
私たちは、互いの「いま」だけを見つめていて、互いの「過去」と「家」の話を、ほとんどしなかった。
それは若い恋人たちの特権でもあり、同時に、彼らの最大の盲点でもある。
卒業の日、私は《青磁》の最後の合評会に出た。
理沙の席は、空いていた。
その席の上に、誰かが、白い小さな花を一輪、置いていた。
誰がそれを置いたのかは、誰も口にしなかった。
ただ、私たちは、その花を、長い長い時間、誰も動かさずに、見つめていた。
ところで、「三十の約束」のことを、私はずっと書き忘れていた。
いや、書き忘れていたのではない。
書きたくなかった、というほうが正確だ。
あの約束を文字にしてしまうと、私のその後の四十数年間が、まるごと、ある種の「裏切り」のような色に染まってしまう気がして、私はそれを書くことを、ずっと、避けてきたのだ。
あの約束は、まだ私たちが幸せだった頃、二十一歳の夏のある夜に、交わされた。
大学の近くの、小さな丘のうえに、夜景の見える公園があった。
その公園のベンチに、私たちは並んで座っていた。
眼下に広がる街の灯りは、夏の蒸し暑い空気のなかで、ぼんやりと滲んでいた。
「ねえ、悠介くん」
彼女は、私のことを、ふたりきりの時には「悠介くん」と呼んだ。
「うん」
「あのね、変なこと、言ってもいい?」
「うん」
「私たちって、これからどうなるんだろう」
「どうなる、って」
「結婚、とか」
その単語を、二十一歳の彼女は、まるで遠い国の天気の話でもするみたいな、軽やかな声で口にした。
「ああ……うん。したい、よな」
「うん。私もしたい。けど」
「けど?」
「私たち、まだ若いし、お互いに、これから、いろんなことがあるじゃない?」
「うん」
「だからね、決めない?」
「何を」
「もしも――」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
遠くで、誰かの花火の音が、ぽん、と小さく上がった。
「もしも、私たちが三十歳になった時、お互いがひとりだったら――」
「ひとりだったら?」
「その時には、もう一度、出会いなおして、結婚しよう」
彼女はそう言って、私の顔を、ちらりと見た。
「いまの関係が、もし、何かの理由で、続かなかったとしても」
「うん」
「三十歳になった日に、お互いに、まだひとりだったら、もういちど、迷わずに、結婚するの。どう?」
「……いいね」
「ほんとに?」
「うん。約束する」
「指切り、する?」
「するよ」
彼女は私の小指に、自分の小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本飲ます、指切った」
その夜、二人の指は、ぴったりと組み合わさって、しばらく離れなかった。
あの約束を、私はその後、二十代のあいだ、ずっと、心のどこかで握りしめていた。
大学を卒業し、地方都市の公立高校の国語教師として赴任して、三年が過ぎても、五年が過ぎても、私は彼女のことを、忘れることができなかった。
いや、忘れようとはしていたのだ。
しかし、街でふっと、似たような後ろ姿を見るたびに、川辺で蛍が舞うのを見るたびに、誰かが中原中也を口にするたびに、私は、彼女に「会いに行ってしまった」。
心が、勝手に。
二十六歳の頃、職場の同僚に、ある女性を紹介された。
節子だった。
彼女は、隣町の総合病院の看護師で、明るく、よく笑い、そして、私の沈黙のなかにある「重さ」を、決して責めない人だった。
私が、ふいに窓の外を見て、しばらく言葉を失っているとき、彼女はその沈黙の中に、無理に踏み込んでくることなく、静かに私の隣にいてくれた。
そういう女性だった。
節子と付き合い始めて、二年ほど経った、二十八歳の冬。
彼女は、私にこう言った。
「あなた、ときどき、ここにいないみたいな顔をするよね」
「……そうかな」
「うん。ずっと遠くを、見てるみたいな目になる」
「気のせいだよ」
「いいの。気のせいじゃなくても、いいの」
「え?」
「あなたのその、遠くを見る目のことを、私は、これからも、責めないから」
「……」
「だから、結婚、してください」
そう、プロポーズしたのは、彼女のほうからだった。
私は、その夜、即答することができなかった。
なぜなら、私の頭の中には、まだ、二十一歳の夏の、丘の上の公園のベンチでの、もうひとつの約束があったからだ。
「もしも、私たちが三十歳になった時、お互いがひとりだったら――」
しかし、その時、私はもう、二十八歳になっていた。
私は、本気で、自分に問いかけた。
「あと二年、節子に待ってもらって、それで、三十歳の日に、理沙からの連絡が来るのを待つのか?」
その問いに、私は、答えを出せなかった。
もしかすると、答えはとうに出ていたのに、私が、その答えを認めるのを拒んでいただけだったのかもしれない。
節子のプロポーズから三か月後、私はようやく、彼女に「はい」と答えた。
そのとき、私の中で、二十一歳の私と、二十二歳の私と、そして、二十八歳の私とが、それぞれ別々の方向に、静かに、頭を下げた。
二十一歳の私は、丘の上のベンチに、ひとり、置き去りにされた。
二十二歳の私は、彼女のアパートの階段の前で、最初の一段を踏めずに、立ち尽くした。
二十八歳の私は、節子の手を取り、明日からの自分の人生のほうへ、歩き出した。
節子との結婚式は、二十九歳の春に行われた。
そして、三十歳の私の誕生日は、結婚一年目の、平穏で、慎ましく、幸せな日として、過ぎていった。
その日、私は誰からも電話を受けず、誰のもとへも電話をかけなかった。
ただ、節子が焼いてくれたショートケーキのいちごを、いつもより少しだけ長く、口の中で噛んでいた。
あの約束は、もはや、無効になった。
そう、自分に言い聞かせながら。
しかし、人間の心というのは、約束を結ぶときには軽くて、約束を解くときには、思いのほか、重い。
あの夜以来、私は、「三十歳になった時、もしお互いがひとりだったら、また出会って結婚しよう」という、あの細い、しかし固く絡まった小指の感触を、本当に消し去ることができただろうか。
いま、六十八歳の自分にあらためて問えば、私は、首を横に振らざるをえない。
あの約束は、解かれていなかった。
ただ、表面の埃をかぶせて、見えないところに、しまわれていただけだったのだ。
書斎の机の上に、私は、四十数年前の理沙の写真を置いていた。
その横に、ショッピングモールで見たあの「そっくりさん」の残像が、まるでもう一枚の写真のように、宙に浮いていた。
二枚の写真は、私の目の中で、しずかに重なり、ひとつになった。
壁の時計が、零時を打った。
私は、もう寝なければならない、と思いながら、しかし、その夜は、なかなか寝つけなかった。
翌朝、私が「夢から生還する」までには、まだ、もう少し、時間があった。
第四章 夢からの生還
今朝、私は、夢から生還した。
「生還」という言葉を、私はこの朝、初めて、夢に対して使った。
夢から「目覚める」のではない。
夢から「戻ってくる」のでもない。
夢のなかで、自分の命が、いちど確かに別の時間へ持ち去られ、そこから、ぎりぎりのところで、戻ってきた。
そういう感覚だった。
目覚まし時計は、まだ鳴っていなかった。
寝室のカーテンの隙間から、ほのかに白い光が漏れていて、隣のベッドの節子は、規則正しい寝息をたてていた。
私は、しばらくのあいだ、自分の身体のどこにも力を入れることができなかった。
ただ、天井のクロスの白さをじっと見ていた。
白い、しかし、その白さの中に、何か、ごく薄く、桜色のような滲みがあった。
たぶん、それは、私の網膜に残った、夢の最後の光だった。
夢は、ショッピングモールから始まった。
あの、昨日のショッピングモール。
吹き抜けの中央のベンチ。
乳白色の十一月の午後の光。
すべてが、昨日と寸分違わぬまま、夢のなかにあった。
私は、ベンチに座っていた。
節子の姿は、なぜか、見当たらなかった。
しかし、私は、彼女を探そうとはしなかった。
なぜなら、私の意識は、すでに、エスカレーターの一点に、釘付けになっていたからだ。
彼女は、降りてくる。
水色のノースリーブと、肩のあたりで揃えられた黒髪と、白いスニーカー。
昨日と、まったく同じ姿で、彼女は、エスカレーターの上から、こちらへと降りてくる。
私は、目を見開いて、彼女を追った。
夢のなかの私は、不思議と、恐れることがなかった。
昨日の現実の私は、彼女を「そっくりさんだ」と理性で押さえつけ、立ち上がることもできなかった。
しかし、夢のなかの私は、彼女が「そっくりさん」ではなく、「あの理沙」なのだということを、最初から、知っていた。
知っているのに、口に出して呼ぶことができない。
知っているのに、立ち上がることができない。
ただ、目で、彼女を追うことだけは、できた。
彼女が、エスカレーターの最後の一段を踏み降りる。
昨日と同じく、案内板のほうへ顔を向ける。
しかし、ここから、夢は、現実と分岐する。
夢のなかの彼女は、案内板のほうではなく――。
不意に、私のほうを、振り向いた。
目が、合った。
その瞬間、彼女の顔は、ぱっ、と、夜空にひらく花火のように、笑顔に変わった。
次の瞬間には、彼女は走り出していた。
白いスニーカーが、磨きあげられたモールの大理石の床を、軽やかに鳴らした。
彼女は私のいるベンチに向かって、まっすぐ、駆けてくる。
ああ。
ああ、私の胸の中で、何かが、もう、抑えきれずに、あふれ出していた。
昨日、押し殺した「まさか」が、夢の中で、ようやく、自分の翼を広げて飛び立とうとしていた。
彼女は、私の前まで来ると、何の躊躇いもなく、ベンチに座る私の肩に、両腕を回した。
胸に、彼女の頬が押し当てられた。
私の鼻先に、洗いざらしの洗濯物の匂いと、ほんの少しの汗と、誰かの家の朝の匂いが、押し寄せた。
昨日の通り過ぎざまの匂いと、まったく同じだった。
しかし、夢のなかでは、その匂いは、ずっと近く、ずっと濃く、私の体のなかにまで、入り込んできた。
「探したのよ! あれからずっと……」
彼女は、私の肩のあたりに顔をうずめながら、そう言った。
その声は、二十二歳の理沙の声よりも、ほんの少しだけ、低かった。けれども、間違いなく、彼女の声だった。
私は、自分の声が出るのを、しばらく待った。
喉の奥のほうで、いくつもの言葉が渋滞していた。
しかし、ようやく出てきたのは、こんなに間の抜けた、平凡な台詞だった。
「えっ? だってあれから、もう四十五年……」
彼女は、私の肩から顔をあげ、まっすぐに、私の目を見た。
二十二歳のままの目だった。
哀しそうな、しかし、いまは、夕立のあとの空のように、晴れている目。
そして、その目で、彼女は、笑った。
「あたしよ。タイムマシンよ」
その瞬間、私の周りの、ショッピングモールのすべての音が、ぴたり、と止んだ。
吹き抜けのざわめきも、エスカレーターのモーターの音も、誰かのアナウンスも、子供の泣き声も、ぜんぶ、消えた。
残ったのは、ただ、彼女の声の余韻と、私の心臓の、はっきりとした、たしかな、鼓動だけだった。
「タイムマシン……?」
「うん」
「君が……?」
「うん」
「どういう、意味」
「あたしが、タイムマシンなの。あたしが来たから、あなたは、もう一度、あの日にいるのよ」
彼女は、そう言って、私の頬に、自分の手のひらをあてた。
その手は、温かかった。
夢の中の物がこれほどはっきりとした温度を持つことができるのか、と私は心の奥のどこかで、ぼんやり驚いていた。
彼女の手のひらは、二十二歳の頃よりも、ほんの少しだけ、皮膚が薄くなっていた。
その薄さに、私は、四十五年という時間の、たしかな重さを感じた。
ということは、と私は思った。
彼女もまた、二十二歳から、ぴったり四十五年分、歳を取ってきている。
ということは、彼女は、私と同じく、六十七歳の真島理沙であって、しかし、姿だけは、二十二歳のままで、ここに、いる――?
「覚えてる?」
と、彼女は言った。
「うん」
「三十歳になった時」
「うん」
「もしも、お互いがひとりだったら、その時には、また出会って、結婚しよう、って」
「うん」
「約束した、こと」
彼女は、その台詞を、まるで、神社の鈴を鳴らすときのように、ひとつ、ひとつ、丁寧に区切って、口にした。
「ああ」
と、私はようやく答えた。
答えた、というよりも、その音節が、私の喉から勝手にこぼれ落ちただけだった。
彼女は、寂しそうに、しかし、責めるのではなく、ただ、事実を確認するように、続けた。
「でも、あなたには、もう、家族がいた」
「……」
「あたし、待ってたのに」
その「待ってたのに」の語尾を、彼女は、ふっ、と空気のなかに溶かした。
責めていたわけではない。
恨んでいたわけでもない。
ただ、待っていた、というだけのことを、ただ、伝えた。
しかし、その「ただ」が、私の胸を、刃物よりも、深く、切った。
「すまん」
と、私は言った。
「うん」
「でも、しかし……」
その「でもしかし」を、私は、最後まで言えなかった。
最後まで言えるはずがなかった。
なぜなら、その「でもしかし」のあとに続けるべき言葉が、四十五年経っても、私の中には、用意できていなかったからだ。
「でも、しかし……?」
彼女は、私の言葉を、優しく、しかし、しっかりと、引き取った。
「うん。続きを、言ってみて」
「でも、しかし……俺は、節子に、出会ってしまった」
「うん」
「節子は、いい人だった。彼女のことを、愛していた」
「うん」
「あの時、二十八の俺は、もう、君のいない人生に、慣れ始めていた」
「うん」
「だから――」
私は、そこで言葉を切った。
彼女は、私の頬から手を離し、隣のベンチに、すとん、と腰を下ろした。
私たちは、二人並んで、ショッピングモールの吹き抜けの空間を、しばらく、見ていた。
吹き抜けの天井から差し込む光は、もう、午後三時の光ではなかった。
それは、もっと、夕方に近い、橙色の光に変わっていた。
「いいの」
と、彼女は言った。
「いいの」
「うん」
「責めにきたんじゃないの」
「うん」
「あたしは、責めにきたんじゃない。ただ、もう一度、会いに来ただけ」
「……」
「四十五年、待った。三十歳のとき、来なかったあなたの代わりに、今日、あたしのほうから、来た」
「ごめん」
「あやまらなくていい」
「いや、ごめん」
「うん」
彼女は、しばらく、黙っていた。
その沈黙のあいだに、私は、彼女の横顔を見た。
二十二歳の理沙の横顔だ。
しかし、その横顔には、二十二歳にはまだ存在しなかった、ある種の「澄んだ重み」が、加わっていた。
それは、たぶん、四十五年という時間が、彼女の魂の奥に、しずかに沈殿したものだった。
「ねえ、悠介くん」
「うん」
「ひとつだけ、聞いていい?」
「うん」
「節子さんって、いい人?」
「……うん」
「あなたを、ちゃんと、愛してる?」
「うん」
「あなたも、節子さんを、ちゃんと、愛してる?」
「うん」
「そう」
彼女は、それを聞くと、目を細めて、ふっ、と笑った。
その笑い方は、夏の縁側で、「私ね、たぶん、あなたのこと、好き」と告白した、あの夜の理沙の笑い方と、まったく、同じだった。
「よかった」
と、彼女は言った。
「よかった……?」
「うん。よかった」
「君は、それで、いいのか」
「うん。あたしは、それで、いいの」
彼女は、立ち上がった。
「ねえ、悠介くん」
「うん」
「いまの台詞、四十五年前にも、聞きたかったな」
「……ごめん」
「ううん。聞けてよかった。今日、聞けたから、もう、いい」
彼女は、私の前にもう一度、しゃがみこみ、私の両手を、自分の両手で包んだ。
その手のひらは、やはり、温かかった。
しかし、その温かさは、来た時よりも、心なしか、薄くなっているような気がした。
まるで、彼女が、いま、少しずつ、ここから、別の場所へ、戻ろうとしているかのように。
「行くね」
「……どこへ」
「どこへ、だろうね」
「待って」
「待たないよ」
「待って」
「待ったのは、あたしのほう」
「……」
「あなたは、ちゃんと、帰って」
「どこへ」
「節子さんのところへ」
「……」
「ちゃんと、帰って」
彼女は、そう言うと、私の頬に、もういちどだけ、手をあてた。
そして、その手で、ゆっくりと、私の頬の涙をぬぐった。
ぬぐわれて初めて、私は、自分が泣いていることに気づいた。
「ばいばい」
「ばいばい」
「もう、夢でも、会わないかも」
「うん」
「でも、心の中には、ずっと、いる」
「うん」
「あたしは、あなたの中の、タイムマシンだから」
「……」
「行ってきます、じゃなくて、行きます」
「うん」
「行きます」
「うん」
その瞬間、私の周りのショッピングモールの景色が、ふっ、と、薄くなった。
まるで、ガラスの板の向こう側に、ぜんぶの景色が、引いていくみたいだった。
彼女の姿も、その光景のなかに、しずかに、紛れていった。
最後に、私の視界に残ったのは、彼女のうなじだった。
左の耳の下の、髪の生え際にある、米粒よりも小さなほくろ。
そのほくろが、二十二歳のままの位置で、二十二歳のままの色で、そこに、たしかにあった。
そのほくろの黒い点が、私の目のなかで、ぽつん、と、最後の星のように残った瞬間に、私は、夢から、生還した。
ベッドのなかで、私は、長いあいだ、動けなかった。
頬を、そっと、自分の指でぬぐってみた。
濡れていた。
夢のなかで彼女がぬぐった涙とは別の、現実の涙が、たしかに、私の目尻から、こめかみへと、流れていた。
時計を見た。
まだ朝の五時前だった。
節子は、規則正しい寝息を立てて、隣で眠っていた。
私は、節子の寝顔を、しばらく見ていた。
六十五歳の、私の妻。
四十年近く、私の隣で、私の沈黙のなかにある「重さ」を、決して責めなかった人。
彼女の頬には、加齢による細かいシミと、目尻には、笑い皺があった。
私は、その笑い皺を、しずかに、しずかに、見つめた。
夢のなかの理沙が、最後に私に言った言葉が、頭のなかで、ゆっくりと再生された。
――節子さんのところへ、ちゃんと、帰って。
私は、節子の頬に、ほんの少しだけ、自分の手のひらを近づけた。
しかし、起こしてはいけない、と思って、その手を、空中で止めた。
ただ、彼女の呼吸の温かさが、私の手のひらに、わずかに伝わった。
それで、十分だった。
しかし、その朝、ベッドから起き上がりながら、私の頭の中には、ひとつ、どうしても消えない問いが残っていた。
あれは、本当に、ただの夢だったのか。
夢の中の彼女が、私の手のひらに残した「温度」は、本当に、私の脳が作りあげた幻覚だったのか。
それとも、四十五年の時間と、いくつかの偶然と、私の心の奥に沈んでいた約束が、ある形で、何かの「乗り物」になって、彼女を、私のところに、ほんの一瞬、運んできたのか。
ふと、夢の中の彼女の台詞が、もう一度、耳の奥で鳴った。
あたしよ。
タイムマシンよ。
彼女自身が、タイムマシンだった。
その理屈は、現実の科学では、説明がつかない。
しかし、それでも、私は、その理屈を、否定しきれないでいた。
なぜなら、夢の中の彼女の言葉は、私が二十二歳の頃の理沙の論理と、あまりにも、よく似ていたからだ。
彼女は昔から、世界の不思議を、難しい数式ではなく、ひとつの優しい比喩で説明することのできる人だった。
私は、寝室を出た。
まだ薄暗い廊下を、足音をたてずに歩き、洗面所で、顔を洗った。
鏡のなかには、六十八歳の私の顔があった。
しかし、その顔の奥に、二十二歳の私の顔が、いまだに、薄く、透けているような気がした。
そして、ふと、思った。
もしかすると、これから、もう一度、確かめに行かなければならない場所が、あるのかもしれない。
それは、あのショッピングモールだ。
第五章 タイムマシンの理屈
その日から、私の中で、いくつかの「日常の手続き」が、変わった。
朝、節子と一緒にコーヒーを淹れる。
そのコーヒーの香りを、私は、これまでよりも、注意深く、吸い込むようになった。
散歩のついでに、近所の和菓子屋で大福を買って帰る。
その大福を、節子が「あら、嬉しい」と言いながら受け取る、その瞬間の彼女の頬のあがり方を、私は、これまでよりも、よく見るようになった。
夜、寝る前に、節子が読んでいる本の背表紙を、何気なく確認する。
その背表紙のタイトルを、私は、これまでよりも、心に留めるようになった。
ぜんぶ、ささやかなことだ。
しかし、夢のなかの理沙が、私に課した「宿題」は、たぶん、そういう、ささやかなことの集まりなのだろう、と私は思っていた。
しかし、それと同時に、私の中には、もうひとつ、別の動きがあった。
あの夢は、なんだったのか。
そして、昨日のモールで見た「そっくりさん」は、ほんとうに、ただのそっくりさんだったのか。
その問いを、私は、ひとりで抱え続けた。
もちろん、節子には、話せなかった。
節子に話したら、彼女は驚いたりはしないだろう。たぶん、いつも通り、しずかに私の話を聞き、「そう」と一言だけ言って、それから、私の肩に、そっと手を置くだろう。
しかし、それでも、私は、節子には話せなかった。
なぜなら、その話は、節子にとって、たぶん、私が思っているよりも、ずっと、痛い話だからだ。
彼女の優しさに甘えて、その痛みを差し出すことを、私は、もう、しなくてもいい年齢になっていた。
その代わり、私は、自分の書斎に閉じこもって、夢のなかの彼女の台詞を、何度も書き起こした。
「あたしよ。タイムマシンよ」
「あたしが、タイムマシンなの」
「四十五年、待った。三十歳のとき、来なかったあなたの代わりに、今日、あたしのほうから、来た」
その言葉を、私は、原稿用紙に、ボールペンで、ひとつひとつ、書きうつしていった。
書きうつしながら、私は、ある仮説を、心の中で立てていた。
もし、世界に、たくさんの「平行する時間」が、流れているとしたら。
たとえば、こんな世界があるとしよう。
ある世界では、二十二歳の私は、彼女のアパートの階段を、ちゃんと上った。
その夜、私はドアを叩き、「ごめんなさい」と言った。
彼女もまた、「ううん、私こそ」と言って、私を中に迎え入れた。
二人は、その夜から、もう一度、やり直した。
二人は、二十五歳で結婚した。
二人は、二十七歳で子供を授かった。
その世界の私は、いま、六十八歳になっても、まだ、隣に二十二歳ではなくなった理沙を伴って、どこかの公園を、犬と散歩しているのかもしれない。
ある世界では、二十六歳の私は、節子と出会わなかった。
あるいは、出会ったが、彼女のプロポーズを、断った。
その私は、二十九歳の冬、ふと、思い立って、理沙の実家のあった県のほうへ、長い長い旅に出た。
駅を降りて、見ず知らずの町を歩き、商店街の小さな喫茶店に、何の根拠もなく入り、そして、その喫茶店のレジに立っていた女性が、四年ぶりの理沙だった――。
そんな、まるで、安っぽい小説のような偶然が、起こったのかもしれない。
ある世界では、二十一歳の夏の夜、二人は「三十の約束」など、しなかった。
その世界の私たちは、二十二歳の冬に、もっと丁寧に、互いを傷つけずに別れて、それからは、それぞれの人生を、後悔少なく歩み続けたのかもしれない。
ある世界では、二人とも、もう、生きていない。
ある世界では、二人とも、まだ、二十二歳のままで、永遠の若さのなかに、留まっている。
ある世界では、私が女で、彼女が男だ。
ある世界では、私たちは、人間ですらない。
量子力学の本を、私は、現役の頃に、何冊か読んだことがあった。
国語教師でありながら、私は、若い頃から、なぜか、宇宙論と量子論の入門書を、ときおり、本屋で買い集めるのが、好きだった。
《多世界解釈》《並行宇宙》《量子もつれ》――そういう概念たちを、私は、もちろん、専門家のように厳密には理解していない。
しかし、それでも、その概念たちは、私のなかで、いつしか、ひとつの「詩」のように、住みついていた。
そして、今回、夢のなかで彼女が口にした「あたしよ、タイムマシンよ」という言葉を、私は、もしかすると、そのような「詩」として、受け取ることが、できるのかもしれない、と思った。
彼女は、私の中の、四十五年分の「あり得たかもしれない世界」の、すべての可能性の、束のようなものなのではないか。
その束が、ある夜、ある一定の条件――たとえば、ショッピングモールで「そっくりさん」と出会ったときの、私の感情の強い波――が揃ったときに、ふっ、と、私の夢のなかに、降りてきた。
彼女自身が、四十五年分の、別の世界線をすべて飛び越えて、私の前まで、運ばれてきた。
彼女自身が、「乗り物」、つまり、タイムマシンだった。
そう考えてみると、夢のなかの彼女の論理は、奇妙なほど、整合していた。
彼女は、私に何かを要求しなかった。
彼女は、私に「やり直そう」と言わなかった。
彼女は、ただ、「来た」だけだった。
来て、「節子さんのところへ、ちゃんと、帰って」と言って、去っていった。
もし、彼女が、本当に、生きている六十七歳の真島理沙であったなら、もしかすると、もっと別の台詞を言っただろう。
恨み言を言うかもしれないし、いや、恨み言なんて言わずに、ただ笑って、「お互い、いろいろあったね」と肩を叩くかもしれない。
しかし、夢のなかの彼女の「澄み方」は、生きた人間の「澄み方」とは、少し、違っていた。
あの「澄み方」は、たぶん、四十五年分の、すべての「あり得たかもしれない」を、それぞれ少しずつ含んだ、彼女の「総体」の澄み方だった。
私は、原稿用紙の余白に、こう書いた。
――彼女は、私の人生のもう一つの「答え合わせ」として、来てくれたのだ。
その「答え合わせ」は、こうだった。
もしも、二十二歳のあの冬、彼女のアパートの階段を、ちゃんと上っていたら。
もしも、三十歳のあの誕生日、節子のショートケーキを食べる代わりに、彼女に電話をかけていたら。
もしも、もしも、もしも――。
その、すべての「もしも」の総体としての彼女が、夢のなかで、私に微笑んで、こう言った。
「あなたを、ちゃんと、愛してる?」と私が訊かれて、「うん」と答えた。
「節子さんを、ちゃんと、愛してる?」と訊かれて、「うん」と答えた。
彼女は、「よかった」と笑った。
あれは、たぶん、私の中の、すべての「もしも」たちの、合議の結果だったのだ。
そう思うと、私は、ようやく、息を、深く吐くことができた。
しかし、それでも、ひとつだけ、解けない疑問が、私のなかには、残っていた。
昨日のショッピングモールで見た、あの「そっくりさん」のことだ。
あれは、ほんとうに、ただのそっくりさんだったのか。
彼女の左の耳の下の、髪の生え際にあった、米粒よりも小さなほくろは、ほんとうに、偶然の一致だったのか。
彼女は、もしかすると――。
ここまで考えて、私は、首を振った。
たとえば、こんな仮説があった。
あれは、理沙の、孫娘かもしれない。
四十五年も経っているのだから、彼女に、もし子供がいて、その子供にまた子供がいたとしたら、その孫娘は、いま、二十歳前後だ。
遺伝というのは、不思議なほど、顔だけでなく、ほくろの位置や、歩き方や、髪の癖まで、再現する。
もしも、あの娘が、理沙の孫娘だったとしたら――。
その仮説は、私をしばらくのあいだ、混乱させた。
しかし、混乱の底のほうで、私の中の、より冷静な部分が、こう囁いていた。
もう、確かめる必要はない、と。
もし、あの娘が、本当に理沙の孫娘だとしても。
もし、あの娘が、本当に、四十五年前の理沙そのものだとしても。
もし、あの娘が、ただの偶然のそっくりさんだとしても。
答えは、もう、変わらないのだ。
私は、節子のところへ、帰る。
節子のところに、いる。
節子のところで、これから先の人生を、生きる。
その答えは、夢のなかの理沙からの「合議」で、すでに、確認されたのだ。
しかし、それでも、それでも、私は、もう一度だけ、あのショッピングモールに、行ってみたかった。
その理由を、私は、自分でも、うまく説明できない。
なんとなく、彼女に、もう一度だけ、お礼を、言いたかった。
いや、お礼ではない。
なんと言えばいいのか。
たぶん、私は、「ありがとう」よりも、「いってきます」と言いたかったのだ。
彼女の「いきます」に対する、私の「いってきます」を。
その「いってきます」は、過去の私に向けた挨拶でもあり、二十二歳のあの冬に置き去りにしてしまった、ひとりの少年への、たぶん最後の挨拶だった。
第六章 節子の沈黙
あの夢を見てから、三日が経った日の夜のことだった。
節子が、夕食のあとの食卓で、湯のみを両手で包みながら、ふと、こう言った。
「ねえ、あなた」
「うん」
「最近、ちょっと、優しいわね」
「えっ?」
「いつもより、優しい」
「……そうかな」
「うん。そうよ」
私は、湯のみのなかの煎茶を見ていた。
淹れたてよりも、少し色の濃くなった煎茶のなかに、台所の蛍光灯のあかりが、ぼんやりと映っていた。
「なんか、あったの?」
「いや、なんにも」
「ふーん」
彼女はそう言って、湯のみに口をつけた。
その「ふーん」の音程の中に、私は、彼女のすべての「気づき」が、含まれていることを、知った。
節子は、もう四十年近く私の隣にいる。
彼女が、私の小さな変化に気づかないわけが、なかった。
私は、自分の湯のみを、両手で握り直した。
話そうか、と一瞬、思った。
しかし、まだ、話せなかった。
話すなら、もう少しだけ、自分の中で、整理が必要だった。
節子は、私のそうした「整理のための沈黙」を、いつも、責めなかった。
その夜も、責めなかった。
「美咲が、来月、こっちに来るってさ」
彼女は、話題を、まるで穏やかな川の流れのように、自然に変えた。
「孫の遥菜の運動会、見に来てって、こっちに来るときに、ついでに寄るって」
「ああ、いいな」
「あなた、運動会、行きたい?」
「行きたいよ」
「じゃあ、はりきって、お弁当作らなきゃね」
「うん」
「あなたの卵焼き、また、入れる?」
「うん。入れる」
「遥菜、おじいちゃんの卵焼き、好きなのよね」
「うん」
その会話の流れのなかで、私はもう一度、「これでよかったんだ」と、心の奥のほうで、しずかに思った。
夢のなかの理沙が「節子さんのところへ、ちゃんと、帰って」と言ったとき、彼女が見ていたのは、たぶん、こういう、なんでもない、夜の食卓の光景だったのではないか。
湯のみの煎茶。
来月の運動会。
孫の遥菜の好きな卵焼き。
そういう、ちいさな、確かな、生活の手触りのことだったのではないか。
夢のなかの理沙には、こうした手触りが、なかった。
あの「澄み方」は、生きた人間の澄み方ではなかった、と私はもう一度思った。
生きた人間は、もっと、湯のみの煎茶のように、少しずつ濁って、少しずつ味が深くなる。
四十五年、生きてきた人間が、二十二歳のままの澄み方をしていることなど、ありえない。
あれは、やはり、私の中の「もしも」の総体だったのだ。
その夜、私はベッドに入りながら、ふと、節子に、ひとつ、訊ねた。
「節子」
「うん」
「もし、俺が、いつか、急にいなくなったら、どうする?」
「いなくなる、って?」
「いなくなる」
「死ぬってこと?」
「死ぬっていうか、まあ、そんな感じ」
節子は、しばらく、天井を見ていた。
そして、ふっ、と笑った。
「あなた、変な質問するわね」
「うん」
「うーん、そうねえ」
「うん」
「しばらくは、たぶん、めちゃくちゃ泣くわ」
「うん」
「で、しばらくは、たぶん、めちゃくちゃ怒るわ」
「怒る?」
「うん。あなたに、置いていかれたことを」
「ああ」
「で、そのあと、しばらくは、たぶん、めちゃくちゃ寂しがる」
「うん」
「で、そのあと、たぶん、いろんなことが、少しずつ、わたしの中で、薄れていく」
「うん」
「でも、ぜんぶは、薄れない」
「うん」
「あなたが、卵焼きを焼いていた、あの背中とか」
「うん」
「あなたが、ときどき遠くを見ていた、あの目とか」
「……」
「そういうのは、たぶん、ぜんぶは、薄れない」
「そっか」
「うん」
節子は、それを言うと、私のほうを向いて、もう一度、ふっ、と笑った。
その笑い方は、四十年近く前、彼女が私に「結婚、してください」と言った夜の、まっすぐな笑い方と、本質的には、まったく同じだった。
「で、最後にはたぶん、ちゃんと、思い出す」
「何を」
「あなたが、ちゃんと、私を、愛してくれたってことを」
「……」
「だから、いま、急にいなくなっても、まあ、しょうがないわよ」
「しょうがない、って」
「冗談よ」
「冗談か」
「半分はね」
「半分は、本気か」
「うん。半分は、本気」
節子は、そう言って、しずかに目を閉じた。
私は、しばらく、彼女の閉じた瞼を見ていた。
その瞼の裏側に、もしかしたら、節子もまた、彼女なりの「もしも」を、ひそかに飼っているのかもしれない、と思った。
節子にも、過去があった。
私と出会う前の、彼女の二十代があった。
もしかしたら、彼女にも、二十一歳のころに丘の上のベンチで誰かと指切りをした、彼女なりの「三十の約束」があったのかもしれない。
私は、それを、訊ねなかった。
いま、訊ねるべきことではない、と思ったからだ。
ただ、私は、節子の瞼のうえに、自分の唇を、ほんの一瞬だけ、あてた。
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
節子はそう言って、寝返りを打った。
その背中の、肩甲骨のあたりの、少しだけ盛り上がった布の影を、私は、見ていた。
その夜、私は、もう夢を見なかった。
あるいは、見たのかもしれないが、覚えていなかった。
覚えていない夢は、たぶん、見なかった夢と、人生の収支のうえでは、たぶん、同じだ。
第七章 モール、再び
一週間が経ったある土曜日、私はもう一度、あのショッピングモールに行くことにした。
節子は、その日の朝、町内会の集まりがあって、午前中は外に出ていた。
「夕方には帰るから、ひとりでお昼食べておいてね」
「ああ」
「冷蔵庫に、煮物があるから」
「うん」
「散歩でもしてきたら?」
「うん。そうする」
私は、玄関で、いつもよりも、ほんの少しだけ、丁寧に、靴ひもを結んだ。
車のキーを手に取って、しばらく、迷った。
あのモールまでは、車で三十分。
しかし、車で行ってしまうと、なんとなく、この用事の「軽さ」が損なわれる気がした。
結局、私は、最寄りの駅まで歩き、そこから電車で、隣町のモールへ向かうことにした。
駅まで歩く道のりは、十一月の、薄曇りの午前中だった。
風はほとんどなく、街路樹のケヤキは、すでに葉のほとんどを落としていて、その枝の隙間から、白い空が、よく見えた。
あの日の景色と、ほとんど、同じだった。
電車に揺られながら、私は、窓の外を、長い時間、見ていた。
二駅、三駅、と、見慣れた風景が、後ろへ流れていった。
時々、線路ぎわの民家の庭に、子供が干した、明らかにサイズの合わない大きすぎる靴下が、二足、並んで揺れていたりした。
そういうものを見るたびに、私は、二十二歳の自分を思い出した。
二十二歳の自分は、こういう、なんでもない景色を、いちいち、心の奥のほうにしまっていた。
モールに着いたのは、午後一時を少し回ったころだった。
平日ではないが、土曜日の昼間にしては、混雑はそれほどでもなかった。
日差しの調子も、あの日とよく似ていた。
乳白色の、十一月の午後の光。
吹き抜けの天窓から、その光が、まっすぐに、磨かれた大理石の床へと、降りていた。
私は、あの日と同じ、コの字に並べられた低いベンチのひとつに、腰を下ろした。
わざわざ、同じベンチを探した。
その甲斐があったのか、なかったのか、私には分からなかった。
ただ、座ってみると、不思議と、心が、しずかに鎮まっていく感じがした。
私は、待った。
何を待っていたのか。
たぶん、何も待っていなかった。
しかし、何かを待たないでこんなところに来るほど、私は退屈な人間ではなかった。
時計を見た。
一時十五分だった。
その時、私の視界の右端を、ふっ、と、何かが横切った。
私の首は、自分の意志とは無関係に、そちらを向いた。
水色のワンピース、ではなかった。
その日、彼女は、生成りのワンピースを着ていた。
白いカーディガンを羽織って、肩のあたりで揃えられた、まっすぐな黒髪。
胸の前に、生成りの帆布のトートバッグ。
白いスニーカー。
ほぼ、あの日のままの姿で、彼女は、エスカレーターを降りてきた。
私の心臓が、また、ひとつ、跳ねた。
しかし、あの日の跳ね方とは、少しだけ、違っていた。
あの日の跳ね方は、まるで、見知らぬ獣に出会ったときの、警戒の跳ね方だった。
今日の跳ね方は、長く会わなかった旧友に偶然出会ったときの、再認の跳ね方だった。
彼女は、エスカレーターの最後の一段を降り、案内板のほうへ顔を向けた。
あの日とまったく同じ動作だった。
しかし、その時、案内板の前には、もう一人、人がいた。
杖をついた、初老の女性だった。
その女性は、案内板の文字が、よく読めずに困っているようだった。
「あの、すみません」
水色の――いや、今日は生成りのワンピースの彼女は、ためらわずに、その初老の女性に声をかけた。
「どこか、お探しですか」
「ええ、あの、補聴器の電池を売っているお店を、ちょっと」
「補聴器の電池ですね。たぶん、二階の家電量販店に、置いてあると思いますよ。よかったら、ご一緒に上がりましょうか」
「あら、いいんですか。すみませんねえ」
「いいえ、私もちょうど、二階に上がろうと思ってたところで」
彼女のその、初老の女性に対する応対の仕方には、四十五年前の理沙そのままの「優しさの作法」があった。
声のトーン、頭の傾け方、相手の目を見る角度。
ぜんぶ、私の知っているままだった。
しかし、私は、もう、椅子から立ち上がろうとはしなかった。
立ち上がって、彼女のそばに行こうとはしなかった。
ただ、その光景を、ベンチから、すこし離れたところで、見守っていた。
二人がエスカレーターのほうへ向かったとき、彼女がふと、こちらを振り向いた。
あの日と同じ、二十二歳の理沙の顔だった。
彼女は、ベンチに座っている私を、ちらりと見た。
目が、合った。
私は、心の中で、こう呟いた。
「ありがとう」と。
もちろん、それは、彼女に対して言った「ありがとう」ではない。
彼女は、私のことを知らない。
彼女は、ただの、四十五年前の理沙によく似た、誰かの娘である。
私が言った「ありがとう」は、彼女の向こう側にいる、もう一人の、四十五年前の理沙に対する「ありがとう」だった。
彼女は、ふっ、と、微笑んだ。
その微笑みが、誰に向けられたものだったのか、私には、本当のところは、分からない。
たぶん、彼女自身も、なぜ自分が、ベンチに座っているこの老人に微笑んだのか、本当のところは、分かっていなかっただろう。
しかし、その微笑みは、たしかに、私にも、届いた。
二人はエスカレーターに乗って、上の階へと運ばれていった。
彼女の白いスニーカーが、エスカレーターの段のうえで、こつ、と、小さな音を立てた。
私は、しばらく、その後ろ姿を見送って、それから、ベンチから立ち上がった。
立ち上がるとき、私は、自分の足腰に、何か、軽さのようなものを感じた。
その軽さは、たぶん、四十五年分の、何かが、私の中から、しずかに「卒業」していった軽さだった。
モールを出るときに、私は、一階の本屋に、立ち寄った。
文学のコーナーで、私は、中原中也の詩集を、一冊、手に取った。
古いタイプの装丁の、文庫本だった。
その帯には、「汚れつちまつた悲しみに……」というフレーズが、白い文字で印刷されていた。
私は、その詩集を、レジに持っていった。
帰りの電車のなかで、私はその詩集をひらき、目次を見て、それから、いちばん最後のページを、まずひらいた。
「奥付」の上に、出版社の名前と、初版発行年が、記されていた。
「昭和四十九年」と書かれていた。
ちょうど、私と理沙が、《青磁》で出会った頃の年だった。
もしも、と、私は、ふと、思った。
もしもあの夢が、本当に、彼女自身がタイムマシンとなって、私の前に降りてきたものだったとしたら。
彼女は、いまも、どこかの世界線で、二十二歳のまま、私を待っているのかもしれない。
その世界線のなかでは、私もまた、二十二歳のまま、彼女のアパートの階段を、いま、まさに、上ろうとしているのかもしれない。
しかし、その想像は、もう、私を、苦しませなかった。
むしろ、ある種の、しずかな祝福のように、私の胸に、降りてきた。
二十二歳のままの私と理沙が、いまも、どこかの世界線で、丘の上の公園で、星の名前を数えている。
六十八歳の私と節子が、こちらの世界線で、夕方の食卓を囲み、明日の運動会のお弁当の話をしている。
その、二つの世界が、いまここで、しずかに並んで存在している、と思うだけで、私は、不思議と、安心することができた。
電車を降りた頃には、空はすでに夕焼けに染まっていた。
冬の夕焼けは、夏のそれとは違って、橙色のあとに、すぐに紺色が降りてくる。
私は、自宅までの道を、いつもよりも、少しゆっくり、歩いて帰った。
玄関のドアを開けると、台所から、味噌汁の匂いが、ふっ、と漂ってきた。
節子が、もう、夕食の準備を始めていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「散歩、どうだった?」
「うん。よかった」
「そう」
「うん」
「明日、運動会、お弁当、何にしようか」
「やっぱり、卵焼き、入れよう」
「うん。入れる」
彼女はそう言って、にっこり笑った。
私は、買ってきた中原中也の詩集を、自分の書斎の机の上に、そっと置いた。
その横に、書棚の奥から、もう一度、四十五年前の理沙の白黒写真を取り出して、並べた。
二つの紙の長方形が、机のうえで、しずかに、肩を並べていた。
夜、私は、書斎の電気を消す前に、その写真をもう一度、見つめた。
それから、机の引き出しのいちばん奥に、その写真を、丁寧に、しまいなおした。
もう、取り出すことは、たぶん、ない。
しかし、それは、捨てるという意味ではない。
ちゃんと、しまう。
ちゃんと、ここにある場所を、私は、私の中に、用意した。
そうやって、人は、何かを「持ち続ける」のだと、私はその夜、しずかに、納得した。
続く…

