タイムマシンよ、と彼女は微笑んだ

―― 夢の中の純愛 ――

著者 田中誠二の手記より



〜まえがき〜

人生には、不思議な瞬間があります。

何十年も忘れていたはずの記憶が、ある日突然、目の前に現れることがあります。

街角で見かけた誰かの横顔。
ふと耳にした懐かしい曲。
古い写真の片隅に映る風景。

それらは時間という厚い壁を軽々と飛び越え、私たちを遠い過去へ連れ去ります。

この物語は、そんな「記憶のタイムマシン」の話です。

主人公の田中誠二は六十八歳。
妻も子どもも孫もいる、ごく普通の人生を歩いてきた男です。

しかしある日、ショッピングモールで昔の恋人によく似た女性を見かけたことから、四十五年間心の奥に眠っていた想いが静かに目を覚まします。

若い頃に愛した人。
果たせなかった約束。
伝えられなかった言葉。

それらは消えてしまうものではなく、私たちの人生の一部として静かに残り続けます。

忘れなくていい。
ただ、それと一緒に生きていけばいい。

そんな想いを込めて、この物語を書きました。

どうか最後まで、誠二と春子の旅にお付き合いください。



原詩 ―出発点―

昨日
ショッピングモールで
昔の彼女を見掛けた
 
それはあの頃の姿のまま若く
はっ! として
彼女の姿を目で追った
 
それは
もちろん そっくりさんで
 
まさか! なんて
思うはずはないが
あまりのその姿に
瞬時にあの日に連れ去られた
 
でも
それだけだったはずだった
 
今朝
夢から生還した
 
それはまさかの
その彼女の夢で
 
彼女は
あたしよ
タイムマシンよ と微笑んだ…





プロローグ ―ショッピングモールの午後―


それは土曜日の午後のことだった。


田中誠二は妻に頼まれた日用品を買い求めるために、郊外の大型ショッピングモールへ出かけた。六十八歳。退職してすでに三年が経ち、こうした買い物の使いっぱしりが、今では生活の一部になっていた。それほど嫌いではなかった。人の流れを眺めながら歩くのは、案外悪くない時間の使い方だと思っていた。


洗剤、シャンプー、それからティッシュペーパー。妻の書いたメモを上着のポケットから取り出しながら、誠二は人混みのなかをゆっくりと歩いた。週末のモールは若い家族連れで賑わっていた。子どもたちが走り回り、母親たちが叱り、父親たちが疲れた顔でその後ろをついていく。自分もかつてそうだったと、遠い記憶を眺めるように思った。


その時だった。


視界の端に、何かが引っかかった。


誠二は立ち止まった。人の流れに逆らうように、その場に固まってしまった。


女が、いた。


二十代の、若い女だった。ベージュのワンピースを着て、長い黒髪を肩に流して、少しうつむき加減にスマートフォンを見ながら歩いている。人混みのなかに、その女だけが静止しているように見えた。いや、逆だ。周囲の全てが止まって、その女だけが動いているようだった。


心臓が、一拍、遅れた。


誠二の口の中で、ある名前が形を作った。声には出なかった。出せなかった。


――春子。


四十五年前に別れた女の名前だった。


もちろん、そんなはずはない。あの春子が今も二十代のままであるはずがない。彼女だって今頃は六十を超えているはずだ。頭でわかっていた。わかっていながら、体は言うことを聞かなかった。足が動かず、目が離せなかった。


女は誠二に気づかないまま、人の流れに消えていった。


誠二はしばらく、そこに立ち尽くしていた。


胸の奥で、何かが動いた。長い年月をかけて固く閉じていた何かが、蝶番の錆びた扉のように、きぃと音を立てて、少しだけ開いた気がした。


それだけだった、はずだった。


――――――――


第一章

夢の中で、君は走ってきた


翌朝、誠二は夢から覚めた。


目を開けた瞬間、まだ夢の余韻が体の中に残っていた。心臓の動きが、まだ少し速かった。隣に妻の和子が眠っていた。規則正しい寝息が聞こえた。カーテンの隙間から、六月の朝の光が細く差し込んでいた。


夢だった。


それは、昨日のショッピングモールだった。夢の中でも、誠二は同じように買い物のリストを持って歩いていた。そして同じように、人混みの中にあの女を見つけた。


だが、夢の中では、それだけで終わらなかった。


誠二が女を目で追うと、女は立ち止まった。そして、振り返った。


目が、合った。


次の瞬間、女は走り出した。人混みをかき分けるようにして、こちらへ向かって走ってくる。誠二は動けなかった。夢の中でも足が動かなかった。ただ、その女が近づいてくるのを、呆然と見ていた。


女は誠二の胸に飛び込んできた。


細い腕が、背中に回された。


「探したのよ」


女の声が、耳のそばで聞こえた。泣きそうで、笑っているような声だった。


「あれからずっと、探してたの」


誠二は、その声を知っていた。四十五年という時間を超えて、体の奥底に刻み込まれた声だった。


「春子……」


名前を呼んだ。夢の中で初めて、声が出た。


女は顔を上げた。あの頃のままの顔だった。二十三歳の、春の終わりに別れた日の、あの顔だった。


「そうよ」と彼女は微笑んだ。「あたしよ」


「でも、どうして」


「タイムマシンよ」


彼女はいたずらっぽく笑った。かつて何度も見た、あの笑い方だった。左の口角が右より少しだけ高く上がる、そのひとかけらの表情を、誠二は忘れていなかったのだと知った。


「覚えてる?」と彼女は言った。「あの約束」


誠二の胸に、何かが込み上げた。


「覚えてる」


それが夢だということは、夢の中でもわかっていた。わかっていても、涙が出そうになった。


目が覚めた。


誠二は天井を見つめた。六畳の寝室の天井。結婚して四十年以上、ずっと見てきた天井。和子の寝息が聞こえた。柱時計が五時を打った。


「すまん」と誠二は、声に出さずに言った。


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


――――――――


第二章

春子という名の、春


田中誠二と桜田春子が出会ったのは、一九七六年の春だった。


誠二は当時、東京の小さな印刷会社に就職して二年目だった。二十三歳。地方から出てきて、まだ東京に馴染みきれていない頃だった。週末になると、同僚に連れられてあちこちへ行った。その夜も、渋谷のジャズ喫茶だった。


春子は、カウンターの端に座っていた。


最初に気づいたのは、その横顔だった。薄暗い照明の中で、グラスを両手で包むようにして持ち、じっとステージを見ていた。笑いもせず、しかし暗くもなく、ただその音楽の中に溶け込んでいた。


誠二は気がつくと、その横顔を見続けていた。


「声、かけてみれば?」と同僚の村田が肘でつついた。


「いや、そんな……」


「モジモジすんなよ。俺が席、開けてやるから」


村田は勝手にカウンターの隣の席に陣取り、誠二を押し込んだ。


「すみません」と誠二は言った。緊張で声が裏返った。


女は横を向いた。


「ジャズ、お好きなんですか」


平凡な問いかけだった。誠二は自分の言葉に、言い終わった瞬間から後悔した。しかし女は怪訝な顔もせず、少し考えてから答えた。


「好きというか……聴かずにいられないんです、この人の演奏は」


その答えが、誠二の心を動かした。


「桜田春子です」と彼女は名乗った。


「田中誠二です」


それが始まりだった。


春子は印刷会社から四駅離れたデパートに勤めていた。婦人服売り場の販売員だった。誠二より一つ年下の、二十二歳。北海道の出身で、上京して三年になるという。


「地元、帰りたいと思いませんか」と誠二は聞いた。二度目に会った時だったか、三度目だったか。


「帰りたいって思う時もあるけど」と春子は言った。「でも、戻ったら戻ったで、また出てきたくなると思う。そういうものじゃないですか、ふるさとって」


「なんか、わかる気がします」


「田中さんは?」


「僕は……たぶん、居場所がどこにあるのかわからないだけです」


春子はしばらく誠二を見ていた。


「それは正直な答えですね」と彼女は言って、少し笑った。その笑い方が、左の口角が右より高く上がる、あの笑い方だった。


誠二はその時、この人と付き合うことになると確信した。根拠のない確信だったが、外れなかった。


二人は付き合い始めた。


毎週末、どちらかの部屋で過ごした。映画を見に行ったり、公園を歩いたり、近所の定食屋で夕食を食べたりした。特別なことは何もしなかった。それで十分だった。むしろ、それ以上を求めなかった。


春子は、物静かな女だった。賑やかな場所より、静かな場所を好んだ。大勢でいるより、二人でいることを選んだ。誠二もそうだったから、二人はよく合った。


誠二の部屋で、春子が読書をしている。誠二がその隣でラジオを聴いている。それだけの時間が、誠二にとって何にも代えられないものだった。


「誠二さん」と春子はある夜、本から顔を上げずに言った。


「うん」


「ずっと、こんなふうでいられたらいいな」


誠二は春子の横顔を見た。


「いられるよ」と言った。


「ほんとうに?」


「ほんとうに」


それが嘘だとは思っていなかった。その時は。


――――――――


第三章

約束という名の、かせ


別れは、唐突に来た。


正確には、唐突ではなかった。後から思えば、兆候はいくつもあった。ただ誠二が、それを見ないようにしていただけだった。


付き合い始めて二年が経った頃、誠二の会社の業績が傾き始めた。それほど大きな危機ではなかったが、若手社員はいつ整理されるかわからない空気が漂い始めた。誠二は仕事に追われるようになった。残業が増え、週末も出勤することが増えた。


春子とゆっくり話す時間が減った。


「最近、ちゃんと眠れてる?」と春子は聞いた。


「眠れてるよ」と誠二は答えた。眠れていなかった。


「無理しないでね」


「してないよ」


してた。そして春子もわかっていたはずだった。


決定的だったのは、春子の父親が倒れた時だった。脳梗塞で、後遺症が残った。春子は故郷の北海道に帰らなければならなくなった。


「しばらく、帰ります」と春子は言った。


「わかった」


「誠二さんは、仕事、頑張って」


「うん」


それだけだった。その時は。


しばらくが、長くなった。父親の回復が思わしくなく、母親一人では看護が難しかった。春子は仕事を辞めた。デパートを辞めて、地元の小さな店に再就職した。


電話で話した。手紙を書いた。会いに行ったこともあった。一度だけ、函館まで飛んだことがある。冬だった。函館山から見下ろした夜景が、あの時の春子の顔とともに、今でも誠二の瞼に焼きついている。港の向こうに広がる津軽海峡の黒い水面と、街の灯りが。しかし距離は、物理的な距離だけではなかった。互いの生活が、別々の方向へ歩き始めていた。


別れ話を切り出したのは、春子だった。


「このまま続けていても、誠二さんに申し訳ない」


誠二は電話口で、何も言えなかった。


「あたし、当分は実家から離れられない。誠二さんには東京での生活がある。このままじゃ、お互いが宙ぶらりんになってしまう」


「宙ぶらりんでも、いい」


「よくない」と春子は言った。きっぱりと。しかし優しく。


誠二は何度か言い返そうとして、やめた。春子の言っていることは正しかった。正しいとわかっていて、それでも諦めたくなかった。


「……わかった」


最後にそう言った時、自分の声が遠くに聞こえた。


「ひとつだけ、お願いがある」と誠二は言った。


「なに?」


「三十歳になった時。もしお互いがまだひとりだったら、もう一度会おう。そしてその時、もし気持ちが変わっていなかったら……結婚しよう」


長い沈黙があった。


「それは」と春子は言いかけて、止まった。また沈黙。


「いいよ」


静かな声だった。


「約束ね」と春子は言った。「でも、誠二さんが素敵な人を見つけたら、それで終わりにしてもいいから」


「そんなこと、しない」


「わからないよ」


「わからなくない」


また沈黙があって、春子は小さく笑った。あの、左の口角が上がる笑い方が、電話越しでも伝わるような気がした。


それが、最後の会話だった。


電話を切って、誠二はしばらく受話器を持ったまま立っていた。アパートの薄い壁の向こうから、隣の部屋のテレビの音が聞こえた。誰かが笑っていた。


三十歳になった時、誠二にはすでに婚約者がいた。


同じ職場の女性だった。優しく、真面目で、誠二の母親にも気に入られた。二十八の時から付き合い始め、三十になる少し前に結婚を決めた。


春子に連絡はしなかった。


するべきだったかもしれない。しかし、できなかった。あの約束のことを考えると、指が動かなかった。春子がひとりでいるかもしれないという可能性が、電話番号を押すことを妨げた。


知らないままでいることを選んだ。


それは逃げだったと、後から思った。今でも思う。


翌年、誠二は結婚した。


式の日、晴れた。白いドレスを着た和子は美しかった。誠二は心からそう思った。そして、幸せになろうと思った。春子のことは、過去のことだと思った。


思うことと、感じることは、違う。


それを誠二が知ったのは、ずっと後になってからのことだった。


――――――――


第四章

四十五年という、重さ


誠二と和子の結婚生活は、おおむね穏やかだった。


子どもが二人生まれた。長女の恵と、長男の哲也。恵は今、横浜で夫と暮らしている。哲也は大阪にいて、去年孫が生まれた。誠二にとって初めての孫だった。


仕事は印刷の会社を三十五で辞め、取引先に転職した。そこで定年まで働いた。特別に出世したわけではないが、それなりの仕事をしてきたと思っている。


和子とは、よく喧嘩もした。子育てのことで、金のことで、親の介護のことで。しかし別れようとは思わなかった。これが夫婦というものだと思っていたし、事実そうだったと思う。


春子のことを、忘れたわけではなかった。


ただ、思い出すことが少なくなっていった。一年に一度、何かの拍子に。それが五年に一度になり、十年に一度になった。思い出した時、胸に刺さるものは確かにあったが、それを掘り起こすことはしなかった。


そうやって、四十五年が経った。


退職してからの三年間、誠二は自分の中に奇妙な空白を感じるようになった。仕事という目的を失い、子どもたちは独立し、老いた体と二人きりで向き合う日々。和子とは相変わらず仲が悪くはないが、二人で過ごす時間が増えすぎると、かえって互いの輪郭が曖昧になるような気がした。


何かを、探していた。


何を探しているのかは、わからなかった。


あのショッピングモールでの出来事は、そんな時に起きた。


それだけのことだった、と誠二は思おうとした。若い頃の恋人に似た女を見た。それだけのこと。誰にでも起こりうる、よくあること。


だが、夢は正直だった。


夢の中で春子は言った。「探したのよ」と。「あれからずっと」と。


誠二の心の奥底で、ずっと眠っていたものが動いていた。


春子は今、どこにいるのだろう。


考えるべきではない、と思った。考えても何にもならない。過去は変えられない。現在もある。和子がいる。孫がいる。これ以上何を望む必要がある。


そう思いながら、考えずにはいられなかった。


翌日、誠二は図書館に行った。目的があったわけではない。ただ、家にいると和子と顔を合わせ続けることになり、何かを考えている顔を見せるのが嫌だった。


図書館の窓際の席に座り、何を読むでもなく、窓の外を見ていた。


梅雨の前の、六月の空だった。雲が多く、光が柔らかかった。


春子は、こういう天気が好きだと言っていた。晴れすぎていない日が好きだと。「曇りの日は、影がなくなるから」と言っていた。「影がないと、全部同じように見えて、安心するの」


変わった理由だと誠二は思ったが、春子らしいとも思った。


今でも同じことを思っているだろうか。


六十七歳の春子は、どんな顔をしているだろうか。


誠二は目を閉じた。


若い頃のあの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。笑っていた。あの、左の口角が上がる笑い方で。


「田中さん」


誰かに呼ばれた気がして、目を開けた。


もちろん、誰もいなかった。隣の席のおじいさんが新聞を読んでいるだけだった。


誠二は、自分が何を求めているのかを、その時初めて正直に認めた。


春子に会いたかった。


ただ、会いたかった。


――――――――


第五章

手紙の宛先


誠二は、その日の夜、久しぶりに引き出しの奥を開けた。


結婚する時に荷物を整理して以来、ほとんど開けていない引き出しだった。古い名刺、使い古しの万年筆、大学ノートの切れ端。そして、手紙の束。


春子からの手紙だった。


別れた後、しばらくやり取りが続いた時期があった。短い手紙だった。いずれも、近況を伝えるだけの、淡々とした文章だった。父親の容態のこと、新しい仕事のこと、地元の季節のこと。


誠二は一通を取り出した。


色褪せた便箋だった。薄い青色。春子は青い便箋を好んで使っていた。


文字を読んだ。


懐かしかった。ただ、懐かしかった。


最後の手紙は、別れてから一年後だった。


「お元気ですか。父の体調は少しずつ落ち着いてきました。私も新しい生活に慣れてきました。誠二さんもお元気で」


それだけだった。住所が書いてあった。北海道函館市の、春子の実家の住所だった。


今も、その住所に春子はいるだろうか。


いるはずはない。四十五年も経てば、引っ越しもするだろう。結婚したなら姓も変わる。


誠二は手紙を封筒に戻した。


手紙を書こうとは思わなかった。何を書くのか。何を求めているのか。そもそも、届かないかもしれない。


ただ、封筒を手の中に持っていた。紙の感触が、指に残った。


「何見てるの」


振り返ると、和子が部屋の入口に立っていた。


「古い手紙」と誠二は言った。


「誰の?」


一瞬、迷った。


「昔の知人」と答えた。嘘ではなかった。


和子は特に気にした様子もなく、「お茶、入れたよ」と言って去った。


誠二は手紙を引き出しに戻した。


しかし、翌朝、また取り出した。


そして、便箋を出した。


自分でも驚いたが、書き始めた。宛名は書かなかった。届けるつもりはなかった。ただ、書かずにはいられなかった。


「春子へ」


しばらく、それだけで止まった。


「元気ですか。こちらは元気です。先日、ショッピングモールで、あなたに似た人を見かけた。それだけのことなのに、翌朝まだあなたの夢を見た。夢の中で、あなたは走ってきた。そして言った。探してた、と。あれからずっと、と。」


「夢なのはわかっていた。でも涙が出そうになった。夢でも泣けるのだと、六十八にもなって初めて知った。」


「あなたは今、どこにいますか。幸せですか。あの約束のことを、覚えていますか。」


「三十歳の時、私には婚約者がいた。あなたに連絡しなかった。できなかった、と言えば言い訳になる。怖かったのかもしれない。あなたがひとりでいることを知ったら、どうしていいかわからなかった。だから、知らないことを選んだ。」


「すまなかった、と今でも思う。四十五年経っても、それだけは変わらない。」


ペンを置いた。


便箋を読み返した。


丸めて捨てようとした。


できなかった。


引き出しに入れた。手紙の束の中に。春子からの手紙の隣に。


送ることのない手紙が、そこに加わった。


――――――――


第六章

六月の雨の日に


梅雨が来た。


雨の日が続いた。誠二は濡れた窓ガラスを眺めながら、コーヒーを飲んで過ごすことが多くなった。和子はリビングで録画したドラマを見ていた。二人で同じ空間にいながら、それぞれの時間を過ごしていた。


それは悪いことではないと誠二は思っていた。四十年以上連れ添えば、こういうものだ。お互いの沈黙に慣れている。それは長い年月の証明だと思うようにしていた。


ある雨の日の午後、誠二は一人で喫茶店に入った。


チェーンではない、古い個人経営の喫茶店だった。木のカウンターと、革張りの椅子と、古いジャズのレコードが流れていた。誠二がたまに来る店だった。


コーヒーを注文して、窓際の席に座った。


雨の中を、人々が傘をさして歩いていた。


ふと、隣のテーブルに目がとまった。


六十代後半か七十代初めと思われる、女が一人でいた。白髪交じりの黒髪を短く切り、シンプルなグレーのセーターを着ていた。本を読んでいた。


その後ろ姿に、誠二はしばらく目を留めた。


わかっていた。春子ではない。そんなわけがない。ただの偶然の一致だ。


しかし体が正直だった。心拍が少し上がった。


女が顔を上げた。本から目を離して、窓の外を見た。横顔が見えた。


違った。当然だった。


誠二はコーヒーを飲んだ。苦かった。


自分が滑稽だと思った。六十八歳の老人が、四十五年前の恋人の面影を街の女に探している。何をしているのか。


だが、滑稽だとわかっていても、やめられなかった。


夢の春子が言った言葉が、まだ耳に残っていた。


「探したのよ。あれからずっと」


あれは夢だ。誠二の深層心理が作り出した幻だ。実際の春子がそう言ったわけではない。


でも。


もしも実際の春子も、どこかでそう思っていたとしたら。


誠二は頭を振った。


妄想だ。四十五年も前に別れた女が、今も自分を思っているなどという都合のいい話があるはずがない。春子はとっくに誰かと結婚して、子どもや孫がいて、穏やかに暮らしているだろう。それが正しい、普通の人生というものだ。


コーヒーを飲み干した。


「もう一杯、いかがですか」


マスターが声をかけてきた。六十絡みの男で、いつも落ち着いた声で話す人だった。


「いただきます」


「お一人ですか、今日は」


「ええ」


「こういう雨の日は、一人が似合いますね」


「そうかもしれません」


マスターはコーヒーを淹れながら、続けた。


「ジャズは、雨の日に聴くのが一番いい。昔からそう思ってます」


誠二は流れているレコードに耳を傾けた。


ピアノのトリオだった。


「ジャズで、誰かと出会ったことがあります」と誠二は言った。


「そうですか」


「若い頃。ジャズ喫茶で」


「素敵ですね」


「素敵でした」と誠二は言った。「今も、素敵だったと思っています」


マスターは何も言わなかった。コーヒーを置いて、静かに離れた。


誠二は新しいコーヒーを飲んだ。今度は、苦さの中に少し甘みがあるような気がした。


――――――――


第七章

和子の知っていること


その夜、和子が珍しく話しかけてきた。


夕食の後、誠二が洗い物をしていると、和子がキッチンの椅子に腰掛けた。テレビも見ずに、ただそこに座っていた。誠二は少し不思議に思いながら、洗い物を続けた。


「ねえ」と和子は言った。


「うん」


「最近、何か考えてることある?」


誠二は手を止めた。


「なんで?」


「なんかぼーっとしてること、多いから」


「そうかな」


「そうだよ」と和子は言った。責める調子ではなかった。ただ、確認するような口調だった。


誠二は洗い物を再開した。しばらく間があった。


「ちょっと、昔のことを考えてた」


「昔?」


「結婚する前のこと」


また間があった。今度は和子の沈黙だった。


「誰かのこと?」と和子は聞いた。


誠二は驚いて振り返った。和子は平静な顔をしていた。


「なんで……」


「引き出しの手紙。昔に見たことある」


誠二は言葉を失った。


「見たって」


「結婚してすぐの頃。あなたが出かけてる時に、引き出しを整理してて。ごめんね、開けちゃって」


「和子」


「読んだわけじゃないけど」と和子は続けた。「女の人からの手紙だってことはわかった。随分前のもので、もう終わった話なんだろうと思ったから、聞かなかった」


誠二はしばらく、何も言えなかった。


「ごめん」と最終的に言った。


「謝ることじゃないと思う」と和子は言った。「誰だって、結婚前には誰かがいる。それだけのこと」


「和子」


「ただ」と和子は続けた。「最近また引き出しを開けてるでしょ。その手紙の」


誠二は答えなかった。


「あなたが何かを考えてるのはわかる。でも、私には言いたくないならそれでいい。ただ、あなたが変になっていくのは嫌だ。それだけ」


変になっている、というのは当たっているかもしれないと誠二は思った。


「春子という女だ」と誠二は言った。


言うつもりはなかった。しかし言ってしまった。


和子は黙っていた。


「二十代の頃に付き合っていた。別れた後、三十になったらまた会おうという約束をした。でも僕はその時にはもうお前と婚約していた。連絡しなかった。それからずっと……」


「ずっと?」


「気になっていた、というほどじゃない。ただ、どこかに引っかかっていた。そしてこの前、モールでその子に似た若い女を見て……夢を見た」


和子はまだ黙っていた。


誠二は続けた。


「申し訳ない。お前に、こんな話を」


「謝らなくていい」と和子は言った。その声は穏やかだった。「あなたが誰かを好きだったことを、私は消せない。消す必要もない」


「……お前は、怒らないのか」


和子はしばらく考えてから、言った。


「怒っても、仕方ない。ただ……あなたがその人のことを四十五年も持ち続けてきたことは、少し悲しいと思う。でも、それはその人への気持ちじゃなくて、謝れなかったことへの気持ちなんじゃないかと思う」


誠二は、妻の顔を見た。


四十年以上連れ添った、六十六歳の妻の顔。見慣れた顔。しかし、今この瞬間、誠二はこの人のことを本当に知っているのだろうかと思った。


「和子」


「うん」


「ありがとう」


和子はふっと笑った。


「お茶、入れてくる」と言って、立ち上がった。


――――――――


第八章

春子の、今


誠二は、探すことにした。


和子との会話の翌日、誠二は娘の恵に電話をかけた。恵はパソコンに詳しかった。


「お父さん、SNSなんて興味なかったじゃない」


「そうだけど」


「誰かを探したいの?」


「昔の知人を」


恵は少し間を置いた後、「わかった、今度教えてあげる」と言った。


一週間後、恵が来た。スマートフォンの操作を教えてくれた。フェイスブックという仕組みがあること、名前で検索できること、ただし個人情報の問題で全ての人が見つかるわけではないこと。


恵が帰った後、誠二はスマートフォンを持って、「桜田春子」と入力した。


同名の人物が、いくつか出てきた。


一人一人を見ていった。プロフィール写真。年齢。居住地。


三人目だった。


写真は小さく、顔がはっきりとはわからなかった。しかし、「北海道在住」とあった。年齢の欄はなかったが、投稿の内容から察するに、六十代後半頃に思えた。


投稿を見た。


「今日は父のお墓参りに行ってきました」


「庭のトマトが赤くなりました」


「昔の同僚とランチ」


日常の断片が、そこにあった。


姓は変わっていなかった。「桜田春子」のままだった。


それが何を意味するのか、誠二にはわからなかった。結婚して旧姓に戻ったのか。あるいは結婚しなかったのか。SNSだけでは読み取れなかった。


一つの投稿が目にとまった。


「六十七になりました。こんなに長く生きるとは思っていなかった。でも、生きているといいこともある。今年も梅雨明けを楽しみにしています」


六十七歳。誠二より一つ下。一致する。


写真を見た。


庭の写真だった。緑の植物と、その向こうに人影があった。逆光で、顔はわからなかった。ただ、短い白髪の女性だった。


誠二はしばらく、その写真を見ていた。


手が、微かに震えていた。


メッセージを送る機能があると、恵に教わっていた。


誠二は画面を見つめた。


長い時間、見つめた。


最終的に、スマートフォンを置いた。


送れなかった。


何と書けばいい。「田中誠二です、覚えていますか」と。四十五年ぶりに突然メッセージを送りつけて、何を求めているのか。謝罪か。再会か。それとも、ただ声を聞きたいだけか。


どれも正直だったが、どれも不純だった。


誠二は窓の外を見た。夕暮れが近かった。空が、橙と紫の間の色になっていた。


春子は今、同じ空を見ているだろうか。


六十七歳の春子は、梅雨明けを楽しみにしていると書いていた。誠二は、それを読んで少し嬉しくなった自分に気づいた。春子が今も何かを楽しみにして生きているということが、嬉しかった。


それで、十分かもしれないと思った。


いや、十分ではないと思った。


わからなかった。


――――――――


第九章

夢の続き


その夜、また夢を見た。


今度は、ジャズ喫茶だった。あの、渋谷のジャズ喫茶。四十五年前に春子と出会った場所。


誠二は二十三歳に戻っていた。体が軽かった。頭の中が、今より澄んでいた。


春子がいた。カウンターの端に座っていた。あの頃のまま、二十二歳の姿で。


誠二は近づいた。


「春子」


彼女は振り向いた。微笑んだ。あの笑い方で。


「やっと来た」と彼女は言った。


「やっとって、どういう意味だ」


「ずっと待ってたって、いう意味」


誠二は隣に座った。懐かしい音楽が流れていた。あの夜と、同じ曲が。


「春子、聞きたいことがある」


「なに?」


「三十歳になった時……あの約束のこと、覚えていたか」


春子はグラスを両手で包んだ。あの仕草。


「覚えてたよ」


「待ってたか」


しばらくの間があった。


「待ってた」と彼女は言った。「でも、来なかった」


「ごめん」


「謝らなくていい」と彼女は言った。「来なかった、ということは、そういうことだから」


「そういうことって」


「誠二さんに、誰かいたんでしょ」


誠二は答えられなかった。


「それでよかったのよ」と春子は言った。「本当に」


「よくない」


「よかったの」と彼女は繰り返した。「だってそうじゃなかったら、あたしはずっと待ち続けることになってた。待ち続けることで、止まってしまっていたかもしれない」


「それで……お前は、どうした」


春子は笑った。


「生きたよ」


「生きた?」


「生きた。ちゃんと生きた。泣いたり、笑ったり、誰かを好きになったり、嫌いになったり。ちゃんと、自分の人生を生きた」


誠二は春子の横顔を見た。


「幸せだったか」


春子は少し考えた。


「幸せって、難しい言葉ね。でも……後悔は、ない。あたしの人生は、あたしのものだったから」


「春子」


「誠二さんも、そうでしょ」


誠二は窓の外を見た。夢の中の渋谷は、あの頃の渋谷だった。昭和の街並み。


「……そうかもしれない」


「後悔してることがあっても、それを含めて、自分の人生」


「……ああ」


「ねえ、誠二さん」


「うん」


「あたし、今でも覚えてるよ。あの夜のこと。あの音楽のこと」


「俺も」


「それでいいじゃない」と春子は言った。「全部消える必要はないんだよ。忘れなくていい。ただ、それと一緒に、生きていけばいい」


誠二は目を閉じた。


涙が出た。夢の中で、六十八歳の男が泣いた。


「すまん」と誠二は言った。


春子の手が、誠二の手の上に重なった。


「謝るより」と彼女は言った。「ちゃんと生きて」


目が覚めた。


朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。和子が隣で眠っていた。


誠二はしばらく天井を見ていた。


頬が、濡れていた。


――――――――


第十章

梅雨明けの朝


七月の初旬、梅雨が明けた。


天気予報が「梅雨明け宣言」を告げた朝、誠二は早起きして庭に出た。日差しが眩しかった。夏の匂いがした。


縁側に腰掛けて、空を見上げた。青かった。雲ひとつなかった。


誠二は引き出しから、あの送ることのない手紙を取り出した。


読み返した。


「三十歳の時、私には婚約者がいた。あなたに連絡しなかった。できなかった、と言えば言い訳になる。怖かったのかもしれない」


紙を折りたたんだ。


しばらく、手の中に持っていた。


そして、裏庭の隅に置いてあった小さな火鉢に入れて、火をつけた。


紙はすぐに燃えた。薄い煙が上った。


誠二はその煙を見ながら、「行ってくれ」と心の中で言った。どこへ行くのか、自分でもわからなかった。ただ、そう言いたかった。


煙は、夏の空に溶けた。


「何してるの」


和子が縁側に出てきた。


「手紙を燃やした」


「ああ」と和子は言った。それだけ言った。


二人で並んで、空を見た。


「今日、散歩しない?」と和子が言った。


「どこへ」


「どこでも。久しぶりに一緒に歩きたい」


誠二は和子を見た。


白髪が増えた。顔に皺が増えた。それでも、誠二が三十歳で選んだ女だった。四十年以上、一緒にいた女だった。


「行こう」と誠二は言った。


二人は近くの公園まで歩いた。夏の日差しの中を。


公園のベンチに座った。


「ねえ」と和子が言った。


「うん」


「その人のこと、もう大丈夫?」


誠二は少し考えた。


「大丈夫、とは少し違う。忘れたわけでも、なかったことにしたわけでもない」


「うん」


「ただ……ちゃんと持っていられる気がする。引きずるんじゃなくて」


和子は黙って聞いていた。


「あの頃の自分が好きだった人のことを、あの頃のこととして、大事にしまっておける気がする」


「それでいいと思う」と和子は言った。


「お前は……」と誠二は言いかけた。


「なに?」


「……優しいな」


和子はふっと笑った。


「あなたが思うほど、私は優しくない。ただ……四十年以上一緒にいれば、いろいろ諦めることも覚える」


「諦め、か」


「そう。でも諦めって、悪いことばかりじゃない。諦めた分だけ、残るものが見えてくる」


誠二は公園の木を見た。夏の葉が、風に揺れていた。


「俺も、そろそろちゃんと生きないといけない」


「ちゃんとって?」


「前を向いて、という意味かな」


「あなた、ずっとちゃんと生きてたよ」と和子は言った。「後悔があっても、ちゃんと」


誠二は和子の言葉に、夢の中の春子の声が重なるような気がした。


「後悔してることがあっても、それを含めて、自分の人生」


「……そうだな」と誠二は言った。


二人はしばらく、ベンチに座っていた。風が吹いた。葉が揺れた。子どもたちが走り回っていた。


誠二は空を見上げた。


青かった。


手紙の煙が行った先の、同じ青だった。


――――――――


エピローグ ―もう一つの朝―


それは、同じ朝のことかもしれない。


あるいは、別の朝のことかもしれない。


北海道函館のある住宅街に、小さな庭のある家がある。その庭に、今年もトマトが実をつけている。津軽海峡から吹いてくる風が、葉を揺らしている。


桜田春子は、縁側に腰掛けて、コーヒーを飲んでいた。


梅雨が明けた朝だった。空が青かった。


春子は空を見上げた。


六十七年の人生の中で、梅雨明けはいつも好きだった。じめじめとした重さが取れて、空気が変わる瞬間。新しい季節が始まる感じがして、毎年少しだけ心が浮き立つ。


スマートフォンに、通知があった。


フェイスブックのメッセージだった。


春子は画面を見た。


知らない名前だった。田中誠二、とあった。


春子は長い時間、その名前を見つめた。


心臓が、一拍、遅れた。


メッセージを開いた。


「突然のご連絡、失礼します。田中誠二と申します。もしかしたら、ご記憶にないかもしれません。一九七六年に渋谷のジャズ喫茶でお会いして……」


春子は読み進めた。


「先日、ショッピングモールで、あなたによく似た方を見かけました。それだけのことなのに、翌朝夢を見ました。夢の中で、あなたは走ってきて、言いました。探してた、と。あれからずっと、と。もちろん夢ですから、実際にそうだったとは思っていません。ただ、ご連絡せずにはいられませんでした。三十歳の時に約束を守れなかったこと、今でも申し訳なく思っています。ただ、それだけをお伝えしたくて。お元気でいらっしゃることを願っています」


春子は画面を閉じた。


目を閉じた。


四十五年という時間が、一瞬で押し寄せてくるような気がした。


あの頃の誠二の顔が浮かんだ。まだ若くて、少し不器用で、言いたいことをうまく言えない人だった。


約束のことは、覚えていた。


三十歳になった時、春子はひとりだった。誠二からの連絡を、待っていた。来なかった。


泣いた。少し。


そして、生きた。


それからの春子の人生は、誠二の知らない人生だった。紆余曲折があり、愛した人がいて、別れがあり、また立ち上がった。父の看取りをして、母の看取りをして、一人になった。それでも、生きた。


後悔はないと言えば嘘になる。でも、よかったと思う日の方が多い。


春子はもう一度、画面を開いた。


返信の画面を開いた。


長い間、何も打たなかった。


何を書けばいい。何を伝えればいい。


「待ってたよ」と書くべきか。


「もう遅いよ」と書くべきか。


「よかったよ、元気で」と書くべきか。


どれも正しく、どれも足りない気がした。


春子はコーヒーを一口飲んだ。冷めていた。


空を見た。


誠二も今頃、どこかで同じ空を見ているだろうか、と思った。


春子は、ゆっくりと文字を打ち始めた。


それが何を書いたのか、ここには記さない。


ただ、春子の指は止まらなかった。


そして、送信ボタンを押した。


梅雨明けの空の下で。


夏が、始まった。





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〜あとがき〜

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

この物語を書き終えた今、私の心に残っているのは、「時間」という不思議な存在についてです。

私たちは過去へ戻ることはできません。

若かった日の自分に会うこともできません。

言えなかった言葉を伝え直すことも、
果たせなかった約束をやり直すことも、
基本的にはできません。

けれど、人の心だけは少し違います。

何十年も前の出来事が、ある日突然よみがえることがあります。

懐かしい曲を耳にした時。

古い写真を見つけた時。

街で誰かの横顔を見かけた時。

その瞬間、時間はまるで存在しなかったかのように、私たちを遠い記憶の中へ連れ戻します。

それはある意味、本当のタイムマシンなのかもしれません。

誠二と春子は、特別な人たちではありません。

どこにでもいる、ごく普通の男女です。

だからこそ、この物語を書きながら何度も感じました。

人生とは、成功や失敗だけでできているのではない。

叶った夢だけでも、
失った恋だけでもない。

選んだ道と、
選ばなかった道。

手に入れたものと、
手放したもの。

そのすべてを抱えながら、人は生きていくのだと。

誠二は四十五年間抱えてきた後悔と向き合いました。

しかし、それは過去を取り戻すためではありません。

残された人生を、より正直に生きるためでした。

年齢を重ねるということは、何かを失うことではなく、人生を少しずつ理解していくことなのかもしれません。

もしこの物語を読んで、あなたの心にも誰かの顔が浮かんだなら。

昔好きだった人でも、
もう会えなくなった人でも、
今そばにいてくれる大切な人でも構いません。

その人との時間は、きっとあなたの人生を形づくっている大切な一部です。

忘れなくていい。

無理に消さなくていい。

ただ、それと一緒に生きていけばいい。

私自身も、そう思っています。

そしていつか、人生の終わりに近づいた時、

「あれでよかった」

と静かに微笑めたなら。

それがきっと、幸せなのだと思います。

あなたの人生にも、穏やかな夏の日が訪れますように。