『バックミラーの君に、タイムマシンを』



〜まえがき〜
誰の心にも、決して開けてはならない「記憶の引き出し」があるのではないでしょうか。
若さゆえに不器用で、けれど世界で一番熱かったあの頃の恋。

携帯電話もインターネットもなく、ただお互いの声を求めて受話器を握りしめていた時代。

もしも、あの日のままの姿で、かつての恋人が目の前に現れたら。
そして、「あの時の約束を守るために、時間を超えてきた」と言われたら、あなたはどうしますか?

本作は、日常のふとした瞬間に訪れた「奇跡」と「戸惑い」から始まった物語です。45年という歳月の残酷さと、それでも色褪せない人間の想いの美しさを、ひとつの形に編み上げました。

今を生きるすべての大人の胸に眠る、あの頃の切なさに寄り添う一冊となれば幸いです。どうぞ最後まで、二人の時間の旅をお楽しみください。




第1章:日常の亀裂、あるいは夢からの生還

その日、地元のショッピングモールは、週末のありふれた喧騒に包まれていた。
色とりどりの広告、家族連れの笑い声、BGMの軽いポップス。すべてがいつも通りの、見慣れた日常の風景だった。

初老を迎えた私は、妻に頼まれた買い出しのメモを片手に、エスカレーターを降りていた。手すりに軽く手をかけ、流れていく景色をぼんやりと眺めていた、その時だった。
すれ違う上りのエスカレーターに、その女性は乗っていた。

はっ、として、心臓が大きく跳ね上がった。

長い黒髪、少し意志の強そうな眉、ベース型に近い輪郭、そして独特の、どこか遠くを見るような瞳。
それは、45年前に別れたきり、私の記憶の底に沈んでいたはずの恋人――麻衣(まい)の姿だった。

しかも、信じられないことに、彼女は「あの頃の姿のまま」若かった。
10代の終わり、私たちがすべてを捧げて愛し合っていた、あの輝かしい季節のままの姿で、そこに立っていた。

「麻衣……?」
声にはならなかった。私は慌ててエスカレーターを逆走しそうになり、思いとどまって踊り場へと急いだ。上りのエスカレーターの先を目で追う。しかし、休日の混雑するフロアの人波に紛れ、彼女の白いワンピースの裾は、またたく間に見えなくなってしまった。

息が切れていた。胸の奥が、痛いほどに激しく脈打っている。
「まさか。そんなはずはない」
私は自分に言い聞かせるように、深く息を吐き出した。

あれから45年だ。もし彼女がどこかで生きていたとしても、私と同じように歳を重ねているはずだ。あれは、あまりにもよく似たそっくりさんか、あるいは、歳をとった私の目が、青春の幻影を見てしまっただけ。

そう、ただそれだけのこと。現実には、それだけのはずだった。
だが、その夜、私はあまりにもリアルな夢の深淵へと連れ去られることになる。

暗闇の向こうから、あのショッピングモールの喧騒が聞こえていた。私はまた、あの場所に立っていた。周囲の人間たちの動きが、まるでスローモーションのように遅く、音も奇妙に歪んで聞こえる。

その時、人混みの向こうに、昼間見掛けた彼女の姿を見つけた。私は弾かれたように、彼女を目で追った。激しい胸騒ぎが私を突き動かす。

「待ってくれ!」
叫ぼうとした瞬間、彼女がふっと振り向いた。
……目が、合った。

次の瞬間、彼女の瞳に驚きと歓喜の色が広がり、彼女はスカートの裾を翻して、こちらに向かって走り寄ってきた。まっすぐに、迷いなく。

ドサリ、という軽い衝撃とともに、私の胸に柔らかな温もりが飛び込んできた。彼女が私に、強く抱きついたのだ。
「探したのよ! あれからずっと……!」
耳元で響いたのは、紛れもない、あの頃の麻衣の声だった。甘やかで、少し鼻にかかった、私が世界で一番愛した声。腕の中に感じる体温も、髪から漂うかすかな潮の香りも、あまりにもリアルだった。

「えっ……? だって、麻衣、あれからもう……45年だぞ?」
私の声は震えていた。私は自分の手を見た。夢の中の私は、皺の刻まれた、初老の男の手をしていた。対する彼女は、みずみずしい肌の、二十歳の麻衣のままだ。

しかし、麻衣は私の言葉に動じることなく、いたずらっぽく微笑んだ。
「あたしよ。タイムマシンよ」
彼女は、まるで「少し遠くから電車で来たの」とでも言うような軽やかさで、そう言った。

「覚えている? 私たちが30歳になった時、もしもお互いがひとりだったら、その時にはまた出会って結婚しようって……約束したこと」
「あぁ……」
記憶のパズルが、一瞬で組み上がった。そうだ。二十歳の夏、逗子の海を見下ろす高台で、私たちはそんな約束をした。

「あたし、その約束を守るために、時間を超えてきたの。あなたに会いたくて」
麻衣の目に、かすかな涙が浮かんだ。しかし、彼女は私の顔をじっと見つめるうちに、ある異変に気づいたようだった。私の白髪交じりの髪、目尻の皺、そして何より、私の佇まいから滲み出る「別の人生の気配」に。

「でも……あなたには、もう、家族がいるのね。あたし、ずっと待ってたのに……。30歳のあなたを探して、時間を飛び越えてきたのに……。すまん、でもしかし……」
そこまで言いかけたところで、私ははっと息を吸い込んで、ベッドの上で目覚めた。
カーテンの隙間から、静かな朝の光が差し込んでいた。それは、あまりにも切ない「夢からの生還」だった。



第2章:45年前の約束

キッチンから漂ってくるコーヒーの香りと、トースターが跳ね上がる軽い音。
いつもと変わらない朝の風景の中で、私は妻と向かい合い、朝食を摂っていた。

妻との結婚生活は、今年でちょうど35年になる。大恋愛というわけではなかったが、お互いを尊重し、穏やかな信頼を積み重ねてきた。子供たちも独立し、今は二人で静かな老後を迎えている。この人生に不満などあるはずがなかった。

しかし、私の胸の奥には、妻にも決して明かしていない「空白の10年」がある。それが、麻衣という女性の存在だった。

45年前。私たちは二十歳だった。
世界は今よりも少し不便で、そのぶん、今よりもずっと熱を帯びていた。麻衣と出会ったのは、原宿のキャットストリートの裏手。長い黒髪と、どこかこの世界に馴染みきれていないような、儚げな佇まいの彼女に、私は一目で心を奪われた。

付き合い始めてからの日々は、瑞々しい青春そのものだった。私の運転する中古のサニーで、カセットテープから流れるシティポップを聴きながら、週末ごとに湘南の海へ向かった。麻衣は時折、現代の街並みを眺めながら、「未来はもっと静かになるのかな」と、まるですでに未来を知っているかのような口ぶりを見せることがあった。

「もし、時間が自由に行き来できたら、健一(けんいち)はいつに行きたい?」
ある日、逗子の海を見下ろす高台で、彼女がそんな質問をしてきた。
「今、麻衣と一緒にいるこの時間が一番いいよ」と私が答えると、麻衣は少し寂しそうに微笑み、私のシャツの袖をぎゅっと握りしめた。

「私はね、未来に行ってみたい。もし、運命の悪戯で二人が離れ離れになっちゃっても、未来に行けば、またあなたに会えるかもしれないでしょう? もしも、私たちが30歳になった時――10年後だね。その時にお互いがまだひとりだったら、もう一度この場所で出会って、結婚しよう」
それは、永遠に続くと思っていた若さの、ほんの気まぐれな約束のはずだった。

しかし、約束を交わしたその年の秋。麻衣は突然、私の前から姿を消した。
昨日まで一緒に笑っていたアパートの部屋は、ある日突然、もぬけの殻になっていた。大家に聞いても、「最初からそんな娘は住んでいない」と怪訝な顔をされるだけだった。
私は狂ったように彼女を探したが、彼女の形跡は世界のどこにも残っていなかった。

そして、約束の「30歳」の年。私は一人で、あの逗子の高台に足を運んだ。一日中、海を眺めて待っていた。しかし、麻衣は現れなかった。
「やっぱり、あれは若い日の幻だったんだな」
そう自分を納得させ、私は麻衣への想いに区切りをつけた。その後、今の妻と出会い、家庭を持ち、平凡だが温かい幸せを手に入れた。麻衣の記憶は、心の奥底の引き出しに仕舞い込まれた。
それから、さらに35年の歳月が流れたのだ。



第3章:交錯する時間

「ごちそうさま。ちょっと散歩に行ってくるよ」
朝食を終えた私は、妻にそう告げて家を出た。どうしても、じっとしていられなかった。

頭では否定しながらも、私の足は自然と、昨日のショッピングモールへと向かっていた。
日曜日の午前中、モールはまだそれほど混雑していなかった。私は昨日、彼女を見失った広場の中央に立ち、周囲を見渡した。

まさか、いるはずがない。昨日の目撃はただの幻で、昨夜の夢はただの願望の表れだ。
そう思い、踵を返そうとした、その時だった。

時計台のふもと、白いベンチに、ぽつんと座っている人影があった。
白いワンピース。長い黒髪。
私の心臓が、痛いほどの音を立てて脈打ち始めた。私は一歩、また一歩と、吸い寄せられるようにそのベンチへと近づいていった。

ベンチの女性が、足音に気づいて顔を上げた。
「……あ」
彼女の小さな唇から、かすかな声が漏れた。
夢ではない。光の差し込む現実の、初夏の空気の中で、二十歳の麻衣がそこに座っていた。彼女の肌の透明感も、風に揺れる髪も、45年前のあの夏とまったく同じだった。

「健一……君、なの?」
麻衣はベンチから立ち上がり、信じられないものを見るような目で私を見つめた。彼女の視線が、私の白髪交じりの髪や、目元の皺をゆっくりと、なぞるように動いていく。
「本当に、健一君なのね……。どうして、そんなに……おじいさんになっちゃったの?」
彼女の声は、悲しみと混乱に震えていた。

「麻衣……お前、本当に麻衣なのか? どうしてあの頃のままなんだ?」
私は声を絞り出した。麻衣は震える手で、小さな金属製のキューブのような機械をポケットから取り出した。

「私ね、あの年の秋、どうしても逆らえない事情で、時間を旅する実験の被験者に選ばれちゃったの。私の父が、その研究者だった。私はすべてを失うのが怖くて、あなたとの約束だけを胸に抱きしめて、タイムマシンに乗った。私にとっては、あなたと別れてから、まだほんの数ヶ月しか経っていないの。30歳になったあなたに会うために、時間を設定したはずだったのに……」
麻衣の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「計算が狂っちゃったみたい。私がたどり着いたのは、30歳のあなたのいる世界じゃなくて……こんなに遠い、45年後の未来だったなんて……」

20歳の彼女と、60代の私。広場を行き交う人々は、おじいさんと若い娘の奇妙な会話を、怪訝そうな目で見守りながら通り過ぎていく。私たちの間には、あまりにも残酷な、埋めようのない時間が横たわっていた。



第4章:愛の選択

「どこか、静かなところへ行こう」
私は彼女を促し、車に乗せた。かつてのサニーではなく、最新の静かなミニバンだ。麻衣は助手席で、窓の外を流れる見知らぬ高層ビルや、人々が持つスマートフォンを、怯えたような、しかしどこか諦めたような目で見つめていた。

私が向かったのは、あの逗子の海だった。
45年の歳月を経て、周囲の道路や建物はすっかり変わってしまったが、高台から見下ろす海の青さだけは、あの頃と同じだった。
私たちは、かつてのように並んで海を眺めた。

「健一君、私ね、ずっとあなたを待っていたのよ。30歳になったら、また出会って、結婚しようって……あの約束だけを生きがいにして、暗い時間の狭間を耐えてきたの」
麻衣は私のシワだらけの手を、ぎゅっと握りしめた。彼女の手は温かく、柔らかかった。

「でも、今のあなたには……守るべき人がいるのね」
私は、昨夜の夢の中で言えなかった言葉を、今度こそ現実の言葉として紡ぎ出さなければならなかった。胸が引き裂かれるように痛かった。目の前にいるのは、私がかつて命がけで愛し、そして突然奪われた、最愛の女性なのだ。

「すまん、麻衣。本当にすまない」
私は静かに首を振った。
「お前が消えたあと、俺は狂うほどにお前を探した。30歳の時も、ここで一日中待っていた。だけど、お前は来なかった。俺は、お前を失った絶望から這い上がるために、必死に生きていくしかなかったんだ」
私はポケットから財布を取り出し、中に忍ばせてある家族の写真を見せた。妻と、独立した子供たちの笑顔がそこにあった。

「今の妻と出会って、俺は新しい人生を築いた。彼女は、お前を失って殻に閉じこもっていた俺を、根気強く支えてくれたんだ。子供たちが生まれ、育て上げ、今の俺がある。この45年は、俺が現実の世界で、一歩一歩必死に積み重ねてきた足跡なんだ。だから……俺は今の家族を裏切ることはできない。お前の元へ、あの頃の俺へと戻ることは、できないんだ」

麻衣は写真を見つめ、静かに涙を流した。彼女の細い肩が、小刻みに震えている。
「そう……よね。健一君は、ちゃんと生きてきたのよね。私だけが、時間に取り残されて……」
「違う」
私は彼女の肩をそっと抱き寄せた。白髪の老人が、若い娘を抱きしめる。その光景は歪だったかもしれないが、そこにあるのは純粋な愛と、過去への決別だった。

「俺の心の中から、お前が消えた日は一日もない。お前とのあの輝かしい日々があったから、俺は大人になれたんだ。麻衣、お前が時間を超えてまで約束を守ろうとしてくれたこと、俺は世界一の幸せ者だと思う。ありがとう」
麻衣は私の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。

その時、彼女の持っていた金属製のキューブが、微かに青い光を放ち始め、不規則なアラーム音を鳴らした。
「……時間の、限界みたい」
麻衣は涙を拭い、無理に笑顔を作った。
「このタイムマシンは、この時代に長くは留まれないの。放っておくと、時空の修正力が働いて、私はどこか知らない次元に吹き飛ばされちゃう。元の時代に……1980年に、戻らなきゃ」
「戻ったら……お前はどうするんだ?」
「わからない。でも、もう一度、今度は間違えないように時間を設定し直すわ。30歳のあなたがいる、あの日の逗子を目指して」
彼女はそう言って、私に最後の微笑みを向けた。

「でも、もし次も失敗して、またこの時代に来ちゃったら……その時は、またこのショッピングモールのベンチで、私をお茶に誘ってくれる?」
「あぁ。何度でも誘うよ。世界で一番、心を込めて」

「健一君、約束、覚えててくれてありがとう。私、やっと大人になれる」

麻衣はキューブを強く握りしめた。彼女の身体が、淡い光の粒子に包まれていく。
「バイバイ、健一君。私の大好きな人。ちゃんと幸せになってね」
「お前もな、麻衣。元気で――」
次の瞬間、眩い閃光とともに、彼女の姿はかき消えるように消え去った。

助手席には、ただ初夏の潮風だけが吹き抜けていった。
第5章:未来への生還
夕暮れ時、私は自宅への帰路についていた。
車を走らせながら、バックミラーを見る。そこには、赤く染まった夕片付けの空と、いつもと変わらない街並みが映っている。もう、あの日のサニーも、二十歳の恋人も、そこには映っていない。

家に戻ると、妻が玄関で迎えてくれた。
「おかえりなさい。ずいぶん長かったのね。お散歩、どこまで行ってたの?」
妻はいつもの穏やかな笑顔で、私のコートを受け取ってくれた。
「あぁ……ちょっと、昔の思い出の場所までね」
私はそう言って、妻の手をそっと握りしめた。妻は少し驚いたような顔をしたが、嬉しそうに微笑み返してくれた。

私の胸にあるのは、もう喪失感ではなかった。
45年という歳月をかけて、私はようやく、麻衣との別れを本当の意味で受け入れることができたのだ。彼女は今も、時間の海を旅している。私との約束を果たすために、どこかのタイムラインで、30歳の私と出会っているのかもしれない。
私は、私が選んだこの現実の未来を、妻と共に生きていく。

翌週、私は再びあのショッピングモールへと向かった。
相変わらずの喧騒の中、私は広場の時計台のふもと、あの白いベンチをチラリと見た。
ベンチには誰も座っていなかった。
しかし、私の耳には、確かにあの甘やかな声が聞こえたような気がした。

――あたしよ。タイムマシンよ。
私は小さく微笑み、前を向いて、新しい日常の人波の中へと歩き出した。

(完)


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〜あとがき〜

この物語は、日常の風景であるショッピングモールの中の、ほんの一瞬の残像から生まれました。すれ違ったそっくりさん、そしてその夜に見た「生還した夢」。その断片が、45年という壮大な時空を飛び越える物語へと私を連れ去ってくれました。

作中、主人公の健一は「すまん、でもしかし……」と言葉を詰まらせます。

若き日の純愛を肯定することは、裏を返せば、自分がこれまで歩んできた現実の人生や家族を否定することになりかねない。その葛藤は、私たちが人生を懸命に生き、歳月を重ねてきたからこそ生じる「重み」そのものです。

タイムマシンで過去からやってきた麻衣と、現実の時間の一歩一歩を積み重ねてきた健一。二人の選択が、ただの悲恋ではなく、お互いの人生への深い敬意と肯定として読者の皆様の心に届いたなら、著者としてとても嬉しく思います。

最後に、この本を手に取り、共に時間を旅してくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。あなたの日常にも、時折、優しい過去の風が吹きますように。