Chapter V
第五章 見えないものたち

ニックの声は、想像していたよりも、ずっと若かった。

記録は、おそらく彼が亡くなる数年前のものだった。声に張りがあり、生前の彼を知っている私が聞いても、まだ六十代の終わりごろのように聞こえた。

「ハル。聞こえているか」

「君がこの記録を聞いているということは、君はもう太陽系の外縁部にいる。船内の生体センサーが、君のAP-7発現パターンが規定の閾値を越えたことを検知し、ロックを解除した。──おめでとう。そして、ありがとう」

私は、寝台に座ったまま、息を詰めて聞いていた。

「これから話すことは、私が四十年かけて集めた、断片の集積だ。論文には決して書けなかった。なぜなら、これは仮説ですらない。観察と、直感と、夢の、混ぜ合わせだからだ」

「だが、君なら、これを聞ける。君は私の最後の弟子であり、最初の証人だ」

声は、わずかに咳き込んだ。ニックは生前、晩年は気管支が弱かった。

「ハル、AP-7は、地球生命の起源より、古い」

私は思わず、目を見開いた。

「私はこれを、世界に向かって言うことはできなかった。だが、私の研究チームは、AP-7の遺伝子配列を、地球上の他のすべての既知タンパク質と比較した。系統樹に組み込もうとした。──組み込めなかった」

「ADVR1遺伝子は、ヒトゲノムの他の領域とは、進化的に隔離されている。突然変異の蓄積パターンが、四十億年の地球進化と整合しない。むしろ、その配列は、何かに『挿入された』ように見える」

挿入された。

私は、その言葉を反芻した。──挿入された、というのは、誰かが、入れた、ということだ。

「私はこれを、『パンスペルミア痕跡仮説』と呼んでいる。生命そのものが宇宙から地球に降ってきた、という古典的なパンスペルミア説の、ずっと狭い変種だ。──地球生命の主要部分は、地球で進化した。だが、ある一部の遺伝情報は、後から、外から、運ばれてきた。たぶん、隕石によって、たぶん、もっと別の何かによって」

「AP-7は、その『運ばれてきた断片』の一つだと、私は考えている」

声は、しばらく沈黙した。

「もし、これが正しいなら、〇・三パーセントという保有率も説明がつく。これは、人類が四十億年の進化の中で、ゆっくり拡散しきっていない、まだ『新しい』遺伝子だ。だが、なぜか、進化的に淘汰されない。──むしろ、特定の局面で、選ばれる」

「特定の局面、つまり、移動の局面で」

私の頭の中で、たくさんのものが繋がり始めていた。

「ハル、私はもう一つ、信じていることがある。──AP-7陽性者が低温下で『何かを感じる』のは、偶然ではない」

「AP-7は、何かと『通信』するためのアンテナだと、私は考えている」

「何と通信するのか? ──私にも分からない。だが、その相手は、地球の外にいる。そして、彼らは、私たちが太陽系を出るのを、待っていたかもしれない」

声は、最後に、こう言った。

「ハル、君がプロキシマに着くころには、答えが出ているかもしれない。──いや、もっと早く。君が冷凍睡眠を繰り返す中で、彼らとの『対話』は、深まっていくはずだ。私のノートに、君の前の世代の陽性者たちの低温下証言を、千例ほど整理してある。読みなさい。比較しなさい」

「そして、もし、彼らが何かを伝えてきたなら──恐れずに、受け取りなさい。〇・三パーセントの私たちは、それを受け取るために、進化したのかもしれない」

「夢を語れる大人が、世界には、もうほとんどいない。けれど、ハル、君はまだ語ってくれる。──私はそれを、信じている」

「行きなさい。星の御使いを、迎えに」

──星の御使い。

その言葉に、私は息を呑んだ。ニックは、京都の本家の巻物のことを、知らなかったはずだ。私は、彼にそれを話したことがなかった。けれど、彼は今、その言葉を、口にした。

記録は、そこで終わった。

私は、しばらく、寝台の上で動けなかった。指輪が、左手の薬指で、温かく感じられた。

翌朝、私は記録の内容を、エリオット船長と他の六人に共有した。

七人の沈黙が、コモン・スペースを満たした。

「正直に言わせてくれ」とエリオットが、しばらくしてから言った。「私は、これを完全に信じる準備が、まだできていない。けれど、データは無視できない。──ハルとジョルジョが見た夢、ファルザナが測定したクライオ・パルス、ニックの観察記録。これらが偶然である確率は、極めて低い」

「同感」とアンナ。「私たちは仮説を立てて、検証する科学者よ。──ハルとジョルジョが見たものを、再現可能な現象として扱いましょう」

「次のローテーションは、私とミハルだ」とエリオット。「我々が同じ体験をするかどうか、確認しよう」

「もし船長たちが同じものを見たら?」とジョルジョ。

「そのときは、AP-7陽性者の冷凍下意識現象として、ミッション・ログに正式に記録する。──そして、プロキシマ到達まで、観察を続ける」

その夜、私は革表紙のノートを開いた。ニックが言っていた「千例の証言」が、巻末の付録として、彼の小さな筆跡で整理されていた。

私はそれを、一頁ずつ、読み始めた。

千例の証言の内容は、驚くほど一貫していた。

場所は、世界中。時期は、過去七十年に渡る。職業も年齢も性別も様々。共通しているのは、彼らがAP-7陽性者であり、何らかの理由で長時間の低温・低代謝状態を経験したことだった。冷凍医学の患者、極限低体温症からの生還者、深海ダイバー、長期氷河探検家、初期の宇宙飛行士。

そして、彼らのほぼ全員が、似たような「夢」を報告していた。

──広い場所にいる感じがした。一人ではなかった。

──誰かが「いる」と分かった。声は聞こえなかったが、何かを伝えてきた。

──懐かしい、という感覚だった。前にも会ったような。

──「もっと遠くに行ってほしい」と言われた気がした。何のことか分からなかった。

──恐怖はなかった。むしろ、安心した。

ある日本人の老婦人の証言には、こう書かれていた。

「私は子どもの頃、家の庭で『おじちゃん』をよく見ました。父も母も信じてくれませんでしたが、確かにいました。──七十年経って、低温治療の最中に、もう一度、あの『おじちゃん』に会いました。今度は顔は見えませんでしたが、同じ人だと分かりました。彼は『久しぶり』と言いました」

私の手が、震えた。

あの婦人と、私と、母が三歳の私について話したこと。──繋がっていた。

もう一つ、別の証言。これは南極基地でブリザードに遭難し、低体温症から生還したノルウェー人男性のものだった。

「私は氷の中で、夢を見た。──いや、夢ではない、と今でも思う。誰かが私に語りかけてきた。『あなたたちが私たちを連れて行ってくれる。もう少しです』と。私は、誰のことだか分からなかった」

私たちを連れて行ってくれる。

もう少しです。

──まさに今、私たちはそれをしているのではないか。

発進から一年が経った。

船は、太陽から〇・〇〇五光年(約三百光時)の距離に達していた。光速の一七パーセントに近い巡航速度。船内時間と地球時間の差は、もう一年で十数日ほど開き始めていた。

第二ローテーションが終わり、エリオット船長とミハル副船長が冷凍睡眠から覚醒した。二人は、コモン・スペースに集まった他の五人を前に、長いこと黙っていた。

「諸君」とエリオットが、最終的に口を開いた。「ハルとジョルジョの報告は、正確だった。──私もミハルも、同じ存在を感じた。違う『誰か』ではない。同じ『誰か』だ」

「複数いる、ということでしょうか」とレオン。

「いや」とエリオット。「『私たち』と名乗ったが、実際には、それは一つの何か、のように感じた。──集合的、と言うべきか」

「集合的」と私は呟いた。

「ハル、君のニックの仮説について、もう少し詳しく聞かせてくれ」

私は、ニックの「パンスペルミア痕跡仮説」を、改めて説明した。AP-7が地球生命の起源より古いかもしれないこと、ヒトゲノムに「挿入された」可能性があること、そして、その挿入の元になる存在が、地球外にいるかもしれないこと。

「つまり」とレオンが、ゆっくりと言った。「我々の細胞の中に、地球外起源の遺伝子断片がある。そして、低温・低代謝下で、その断片が活性化し、何らかの『通信』が成立する」

「そう、解釈できます」

「通信の相手は」

「分かりません。──ただ、ニックは『彼らは私たちを待っていた』と表現していました」

アンナが、両手を頬に当てた。「これは、すごい話。──もし本当なら、人類史上最大の発見よ」

「もし本当なら、ね」とミハル。「私たちは、まだ、何も証明していない。これは集団幻覚かもしれない。AP-7陽性者という遺伝的に同質な集団が、低温下で似たような幻覚を見るだけかもしれない」

「ミハル、それを否定する立場の人として、君に検証を任せたい」とエリオット。「ハル、君はファルザナと協力して、客観データを集め続けてくれ。レオン、君は通信の可能性を追ってくれ。──もし『彼ら』が本当にいるなら、低温脳波だけでなく、何か別の物理的シグナルとしても、現れるはずだ」

「了解、船長」

レオンの探索は、すぐに結果を出した。

船には、宇宙背景放射を観測するための高感度受信機が搭載されていた。本来はナビゲーション用だったが、彼はそれを再プログラムし、極めて低い周波数帯域──私たちのクライオ・パルスと同じ〇・一から〇・三ヘルツ帯──を集中的に観測した。

三週間後、彼はコモン・スペースに、興奮を抑えた顔で入ってきた。

「来ている」

「何が」

「シグナル。極めて弱いが、規則的。地球の方向ではない。──プロキシマ方向、いや、もっと正確には、プロキシマよりさらに奥、銀河中心の方向だ」

「データを見せろ」とエリオット。

レオンが、ホログラム・モニターを起動した。三次元の周波数マップ。〇・一八ヘルツの位置に、わずかな、けれど明確なピーク。背景ノイズの数倍。

「これは、ノイズではない」とレオン。「規則的に、約一秒に一度、明滅している。生物の心拍のように」

アンナが、息を呑んだ。「これ、心臓のリズムと同じよ。安静時の人間の」

「正確には、AP-7陽性者の冷凍下のペースメーカー残留活動と、同じ周期だ」とファルザナ。「十二分に一回ではなく、一秒に一回。けれど、波形が、相似形」

七人の視線が、互いに絡んだ。

「彼らは」とエリオットが、ゆっくりと言った。「我々を、呼んでいる」

その夜、私は船室で、母の手鏡を取り出した。

銀の鏡面は、船内の照明を、わずかに歪めて反射していた。私はそれを、しばらく見つめていた。鏡の中の私の顔は、月にいた頃よりも、少し痩せていた。けれど、目は、奇妙にはっきりしていた。

「お母さん」と私は呟いた。「やはり、視ている人たちが、何百年もこの家にいたのは、意味があったのですね」

鏡は答えなかった。けれど、鏡の中の何かが、私を見返している、ような気がした。

巻物の言葉が、頭の中を、もう一度よぎった。

──星ヨリ来タリテ星ヘ還ル者アリ。久遠ノ家ハソノ通ヒ路ナリ。

私たちは今、その「通い路」を、四光年向こうまで、伸ばしている。

第三、第四、第五のローテーションが、過ぎていった。船内時間で、もう三年が経過していた。船は太陽系を完全に離脱し、いわゆる「星間空間」に入っていた。背景放射の中の〇・一八ヘルツのパルスは、徐々に強くなっていた。

そして、第六ローテーションが終わったとき、私たちは、新しい段階に入った。

「彼ら」が、視覚的に、現れ始めたのだ。

最初は、ジョルジョだった。彼は、冷凍睡眠から覚めた直後、コモン・スペースの隅に、人影のようなものを見たと報告した。半透明で、輪郭がぼやけていたが、確かに「人」のような形をしていた。彼はそれを、瞬きの後、見失った。

次は、私だった。同じ日の夜、私は自分の船室で、本を読んでいた。視界の端に、何かが動いた。振り向くと、寝台の上に、薄い光のような何かが、座っていた。私はそれを、五秒ほど見た。それは、立ち上がり、壁を通り抜けて、消えた。

私は、息を、止めていた。

翌日、エリオット、アンナ、ファルザナ、ミハル、レオンの全員が、似たようなものを見た、と報告した。日中の、何でもない時間に、視界の端に、薄い人影が現れる。直視はできない。けれど、確かに、いる。

「これは、幻覚ではない」とアンナが、初めてはっきりと言った。「七人が、同じ時期に、同じパターンで見るなら、これは外部刺激への反応よ」

「ジュネーブの古い家に、よく出る幽霊みたいに、ね」とジョルジョが冗談を言った。誰も笑わなかった。

その夜、エリオットが船内全員を集めた。

「諸君」と彼は言った。「我々は、ある段階に入った。──私はこれを、ミッション・ログに、こう記録する。『発進から三年と二ヶ月、AP-7陽性乗組員七名全員が、視覚的な異常現象を経験。船内に、説明不能の存在感を共有』」

「『見えないものたち』、ですね」と私は呟いた。

「見えないものたち、か」とエリオット。「いや、ハル。──彼らは、もう、見え始めている」

Chapter VI
第六章 プロキシマの岸辺

発進から二十二年。

船内時間では十八年と数ヶ月。地球からの最後の有意な通信からは、もう十二年以上が経過していた。光速通信であっても、地球とオデュッセイア号の間の距離は、片道で二年以上の遅延を生む段階に入っており、私たちは地球の最近の出来事を、ほとんど知らなかった。

七人は、皆、年を取った。

エリオット船長は七十歳。髪はほとんど白くなったが、姿勢はまだまっすぐだった。ミハルは七十三歳。アンナは六十四歳。レオンは六十一歳。ファルザナは六十七歳。ジョルジョは五十九歳。──そして、私、久遠陽は五十六歳になっていた。

もっとも、私たち全員が、人生の半分以上を冷凍状態で過ごしてきた。実質的な「目覚めの時間」で言えば、私たちはまだ四十代の半ばくらいの体だった。AP-7のおかげで、神経機能も筋骨格も、ほとんど劣化していなかった。

けれど、目には、年月があった。

船内で、「彼ら」と過ごした二十年。最初は視界の端にいるだけだった彼らは、徐々に、私たちの日常に溶け込んでいた。コモン・スペースで食事をするとき、誰かの隣に「彼ら」の一人が座っている。船橋で航路を確認しているとき、コンソールの傍らに薄い影が立っている。

私たちは、彼らに名前を付けなかった。彼らも、自分の名前を名乗らなかった。けれど、それぞれの「彼」「彼女」を、私たちはなんとなく、区別できるようになっていた。エリオットの傍にいる、温和な老人のような影。ファルザナの傍にいる、もう少し若い、女性のような影。私の傍にいる──それは、京都の本家の庭で、三歳の私が指差した「おじちゃん」だと、私は確信していた。

プロキシマ・ケンタウリbへの到達は、発進から二十三年目に予定されていた。船は、最後の二年で大規模な減速を行う。後部のレーザー帆を展開し、目的星系から放射される星光と、船から自前で発射する後方推進レーザーで、徐々に速度を落とす。

二十二年九ヶ月目。最後の減速フェーズが始まった。

船橋で、私はエリオットの隣に座っていた。前方スクリーンには、肉眼で初めて見るプロキシマ・ケンタウリの赤い光が、徐々に大きくなっていた。

「ハル」とエリオットが、声を低くして言った。「君は、ニックの言っていた『答え』が、ここで見つかると思うか」

「分かりません」と私は答えた。「けれど、ここに来ないと、見つからなかったとは思います」

「私もだ」と彼は微笑んだ。「私は、若い頃、なぜ宇宙へ来たかったのか、自分でもよく分からなかった。──けれど、今は、分かる。私たちは、彼らを、運んでいるんだな」

「ええ」

「人類は、何万年もかけて、その役を、〇・三パーセントに託してきた」

「そうかもしれません」

船は、減速の最終局面に入った。プロキシマbが、視覚的に確認できるようになった。赤色矮星に潮汐ロックされた地球型惑星。一面が永遠の昼、一面が永遠の夜、その境界(ターミネーター)に薄い帯状の温帯がある。──「黄昏の世界」と、初期の研究者たちは呼んでいた。

軌道投入は、緻密な作業だった。アンナとミハルが連日コンソールに張りつき、減速と姿勢制御を行った。私とジョルジョは、惑星表面の高解像度スキャンを担当した。プロキシマbの大気には、わずかながら酸素と水蒸気が確認された。生命の存在は、まだ否定も肯定もできなかったが、可能性は十分にあった。

そして、発進から二十三年目の春(船内暦)、オデュッセイア号は、プロキシマbの周回軌道に入った。

軌道に入った日の夜、私たち七人は、コモン・スペースに集まり、シャンパンを開けた。地球を出るときに、密かに積み込んだ一本だった。

「諸君」とエリオットが、グラスを掲げた。「人類で、最初に、ここまで来た。──我々は」

「我々は」と他の六人が、続けた。

「これからの一年、惑星表面の探査と、長期居住可能性の評価を行う。それから、地球への帰路につく。──全員、無事に、帰ろう」

グラスが、軽く触れ合った。透明な液体の中に、船内の照明が、震えていた。

ジョルジョが、不意に、目を細めて笑った。「ハル、君の隣を見てみろ」

私は、自分の隣を見た。誰もいない、空気の場所。けれど、確かに、「おじちゃん」がいた。彼も、私たちと一緒に、グラスを掲げているような気配があった。彼の輪郭は、二十年前よりも、ずっとはっきりしていた。

「皆さん」と私は言った。「彼らも、ここに来たかったんだと思います」

「同感」とアンナ。「私の傍にいる彼女、さっきから、すごく嬉しそうな顔をしている」

「顔は、見えないのに?」とジョルジョ。

「分かるのよ。──気配で」

地表探査は、無人着陸機を用いて行われた。生身の人間が降下することは、リスクが大きすぎた。プロキシマbのターミネーター帯、北緯三十二度付近の高原に、機体は無事に降り立った。

そこから送られてきた映像を、私は一生忘れない。

赤い空。低い太陽。永遠の夕暮れ。地表は、灰色の岩と、わずかに紫がかった苔のようなもので覆われていた。風が、ゆっくりと吹いていた。地表の重力は地球の一・三倍。空気は薄いが、純粋な真空ではない。

そして、苔のようなもの。

「ハル、すぐ来てくれ」とジョルジョが、研究室から連絡してきた。「サンプルの解析が、終わった」

私は研究室に駆け込んだ。ホログラム・モニターに、分子構造が表示されていた。プロキシマbの苔──「P-モス」と呼ぶことにした──の細胞内タンパク質。

「これを、見てくれ」とジョルジョが、指差した。「主要な代謝関連タンパク質が三つある。そのうちの一つが──」

私は、その分子モデルを、しばらく見つめた。

「ジョルジョ、これは……」

「ああ、ハル」

「AP-7と、相同です」

その分子は、AP-7の三次構造と、約七十パーセントが一致していた。残りの三十パーセントも、進化的に近い親戚として、無理なく説明できる範囲。

つまり、プロキシマbの生命と、地球のヒトの〇・三パーセントは、同じ「祖先」を持っている。

「パンスペルミア痕跡仮説が、証明されたな」とエリオットが、後ろから言った。

「いえ、船長」と私は呟いた。「証明されたのは、もっと別のことです」

「別のこと?」

「ニックは、AP-7は地球生命の起源より古い、と言いました。今、プロキシマbにも、同じタンパク質がある。──両方が、別々の場所で、同じ起源から枝分かれした、ということです」

「つまり、AP-7は」

「銀河規模で、撒かれているんです。──何者かが、何百万年か、何十億年か前に、銀河中に同じタンパク質の種子を撒いた。それが、地球と、プロキシマbと、おそらく他の多くの惑星で、芽吹いた」

誰も、しばらく口を開かなかった。

レオンが、最初に、ゆっくりと言った。

「誰が、撒いたんだ」

「分かりません」と私は答えた。「けれど、撒いた者たちは、私たちが、四光年向こうの星でこれを発見することを、知っていたのかもしれません」

その夜、私は船室で、ニックの記録媒体を、もう一度、起動した。

媒体には、まだ、解読できていない領域があった。今、プロキシマb周回軌道で、私の現在の代謝プロファイルが、その新しい領域のロックを解いた。

ニックの声が、再び、響いた。

「ハル。もし君がこれを聞いているなら、君はもうプロキシマに着いている」

「そして、たぶん、プロキシマでも、何らかの生命の痕跡が見つかっているはずだ」

「ハル、私はずっと、こう考えていた。──AP-7陽性者の体内の『彼ら』は、地球外起源の集合的意識の、地球側の出張所のようなものだ、と」

「彼らは、銀河中に撒かれたAP-7を通じて、無数の生命体の内側に、薄く存在している。彼らは、それぞれの惑星の生命が、宇宙に出るのを待っている。なぜか? ──それは、おそらく、彼ら自身が、すでに、別の場所へ移動したからだ」

「彼らは、種子を撒き、自分たちは別の場所へ行った。けれど、撒いた種子の中に、自分たちの一部を残した。撒かれた惑星の生命が、十分に進化し、自力で星間航行を始めたとき、彼らはその生命に乗って、再び、宇宙へ広がる。──そういう仕組みだ」

「我々が彼らを運んでいる、というよりは、彼らが我々に乗っている。けれど、それは、寄生ではない。──贈り物の交換だ。彼らは私たちに、宇宙へ出る生物学的能力を与え、私たちは彼らに、移動の媒介を提供する」

「ハル、これは私の仮説だ。けれど、もし、プロキシマで同じAP-7が見つかったなら、──それは、ほぼ、確定だ」

声は、最後に、こう言った。

「ハル、君はもう、答えに近い場所にいる。──最後の質問だ。君は、彼らに、何と返事をする? 彼らは、まだ先へ行きたい、と願っている。君は、それを、引き受けるか?」

「無理に答えなくていい。──ただ、考えてくれ」

記録は、そこで終わった。

私は、しばらく、寝台に座ったまま、動けなかった。

「おじちゃん」が、私の前に、立っていた。今までで、いちばん、輪郭がはっきりしていた。男性とも女性ともつかない、けれど、温かい何か。

私は、思わず、声に出して話しかけた。

「あなたたちは、まだ、先へ行きたいんですね」

──ええ。

「どこへ」

──分かりません。けれど、ここよりも、もっと先へ。私たちは、ずっと、それを願ってきました。

「私が、ここで足を止めることもできます。──船は、ここで折り返して、地球に帰ります。あなたたちは、地球に帰る私の中に、留まることになる」

──それも、私たちは構いません。あなたが、決めることです。

「もし、私が、地球に帰らずに、もっと先へ行ったら?」

──私たちは、喜びます。けれど、あなたは、地球に帰れなくなります。家族に、もう二度と、会えなくなります。

私は、母の手鏡を、手に取った。鏡の中に、自分の顔が映った。五十六歳の、けれど、まだ三十代の表情を持つ顔。

「お母さん」と私は呟いた。「あなたは、私が帰らないことを、許してくれますか」

鏡は、答えなかった。けれど、鏡の中の私の表情が、ほんのわずか、柔らかくなった気がした。

──久遠ノ家ハソノ通ヒ路ナリ。

巻物の言葉が、頭の中で響いた。

私は、通い路。私は、星から来たものを、星へ還す役。母から受け取ったものを、母には返せない場所まで、運ぶ役。

私は、しばらく、鏡を見ていた。それから、立ち上がり、船橋へ向かった。

船橋で、私はエリオット船長と、副船長ミハルに、自分の考えを話した。

「私は」と私は言った。「帰らない選択肢を、考えています」

二人は、しばらく、沈黙した。

「ハル」とエリオットは、深い声で言った。「君が、そう言うかもしれない、と思っていた」

「具体的に、どうしたい」とミハル。

「オデュッセイア号は、設計上、ここでもう一度、加速可能です。レーザー帆を、進路向きに展開すれば、プロキシマからの星光で、ゆっくりと、銀河中心方向へ進める。──私一人なら、残りの食料と冷凍睡眠で、もう二十年ほど、進める」

「君一人で、というのは」

「皆さんは、地球に帰ってください。──私は、ここから先を、もう少しだけ、見たいのです」

エリオットは、長いこと、考えていた。

「ハル、決定する前に、他の四人とも話せ。──そして、一晩、自分でも、もう一度考えろ」

「はい、船長」

その夜、私は他の四人にも、話した。誰も、止めなかった。誰も、強くは止められなかった。皆、私の中の何かを、すでに見ていた。

「ハル」とファルザナが、私の手を取った。「私も、本当は、行きたいの。──けれど、私には、夫と子どもがいる。地球で、五十年待っている。私は、彼らに、帰らなければならない」

「分かっています、ファルザナ」

「ハル、君は、私たち全員の代わりに、行ってくれるのね」

私は、頷いた。

──繋ぎ役。

私は、心の中で、その言葉を、もう一度、確かめた。

Chapter VII
第七章 タンパク質の挙動

プロキシマbの周回軌道に着いてから、私たちは九ヶ月をそこで過ごした。

地表のP-モスのサンプリングは、無人探査機を四機投入して行われた。北緯三十二度、ターミネーター帯の高原地帯から、赤道域の永久昼面、そして極域の永久夜面。それぞれの環境で、P-モスは姿を変えながら、確かに、生きていた。

私たちは、無人機が送ってくる映像と、サンプルの分子解析結果を、毎日、コモン・スペースで共有した。船内は、奇妙に充実した空気に満ちていた。皆、自分たちが何をしに来たのかを、ようやく、はっきりと理解しつつあった。

ジョルジョは、P-モスのタンパク質群の系統解析を進め、AP-7相同体を「P-AP-7」と命名した。地球のAP-7とP-AP-7の共通祖先は、分子時計の計算によれば、約三十五億年前に分岐していた。

「三十五億年」とアンナが、その数字を口に出した。「地球と、プロキシマbで、別々に進化してきた時間が、三十五億年」

「では、共通祖先は」とレオン。

「三十五億年より前、銀河のどこかで、すでに、原型のAP-7を持っていた」と私が答えた。「そして、その原型を持つ何者かが、地球と、プロキシマbと、おそらく他の多くの場所へ、それを撒いた」

「ニックの言っていた『撒いた者たち』、ですね」とジョルジョ。

「ええ」

「彼らは、今、どこにいるんだろう」

誰も、答えなかった。

──いえ、答えは、私たちの傍らに、すでにいた。

船内の「彼ら」と私たちの関係は、軌道滞在中に、決定的に変わった。

覚醒中の対話が、可能になったのだ。

最初は、私だった。船室で母の手鏡を見ているとき、「おじちゃん」が、私の隣に、いつもより近くに、立っていた。私は、声を出さずに、心の中で問いかけた。

──あなたは、本当は、何ですか。

答えは、ゆっくりと、頭の中に届いた。

──私たちは、はじめ、生命でした。今は、生命ですらありません。私たちは、生命が「経験」を超えた後の、残響です。

──経験を超えた後の、残響?

──私たちの祖先は、はるか昔、銀河の中心部にいました。彼らは、私たちの想像を絶する時間、進化を続けました。──ある時、彼らは、肉体を持つことの限界に達しました。彼らは、自分たちを、別の形に書き換えました。光のように、波のように、けれど、意識を保ったまま。

──意識のまま、ですか。

──ええ。けれど、長く、光のまま漂っていると、彼らは、寂しさを覚えるようになりました。誰とも、出会わなくなったからです。彼らは、自分たちを、もう一度、生命の形に戻したくなりました。けれど、すべてを戻すことはできない。だから、彼らは、自分たちの一部を、生命の種子に乗せて、銀河中に撒きました。

──AP-7。

──そう呼ばれているもの、です。AP-7は、私たちの「記憶」と「願い」を、生命の中に折り畳んで保存する、仕組みです。

──そして、生命が、自力で星間航行を始めたとき。

──私たちは、目を覚まします。生命に乗って、再び、移動を始めます。私たちは、肉体の代わりに、生命の旅を「経験」することで、光のまま漂っていた時間を、埋めることができます。それが、贈り物の交換です。

私は、しばらく、目を閉じていた。

──あなたたちは、どこへ、行きたいのですか。

沈黙があった。

──私たちは、銀河中心へ、戻りたいのです。私たちの祖先が、最初に、光になった場所へ。

──そこには、何があるのですか。

──分かりません。私たちは、何十億年ぶりにそこへ戻ったとき、誰かが、まだ、待っているかもしれない、と願っています。それは、希望、と呼ばれるものです。

私は、その対話を、他の六人にも共有した。エリオットは、長い間、黙って聞いていた。聞き終わったあと、彼はゆっくりと言った。

「ハル、人類は今、銀河史の中で、初めて、他の意識と、まともな会話をした」

「そうかもしれません」

「これは、地球に持ち帰らなければならない」

「もちろんです」

「だが、ハル、君は、それを、自分で持ち帰らない選択をするんだな」

「持ち帰るのは、皆さんに、お願いします」と私は言った。「私は、ここから、もう少し、彼らの願いに付き合います。──私の中の彼らを、銀河中心方向へ、運びます」

「銀河中心まで、二万六千光年だぞ。──冷凍睡眠を続けても、君は、生きてそこには着けない」

「分かっています。──けれど、私が止まる距離まで、運びます。私が止まったあと、私の死体の中のAP-7が、まだ進み続けるでしょう。それで、十分です」

エリオットは、深く頷いた。

「ハル、君は、〇・三パーセントの中でも、さらに〇・三パーセントだな」

「いえ」と私は微笑んだ。「私はずっと、九九・七パーセント側だと思って生きてきました。──たぶん、皆、そう思って生きるのが、人間なのかもしれません」

軌道滞在十ヶ月目、私たちは、船の分割を行った。

オデュッセイア号は、設計上、後部の核融合ドライブ・モジュールと、前部のハビタット・モジュールを、分離可能だった。私は、ハビタット・モジュールに、一年分の食料、十年分の冷凍睡眠資源、そして母の手鏡とニックの形見を積み込んだ。

残りの六人は、ドライブ・モジュールと、もう一つの小型ハビタットを使って、地球への帰路につく。彼らには、私の半生分の食料と、より多くの冷凍睡眠資源、そして、人類最大の発見──プロキシマbの生命と、AP-7の銀河起源と、「彼ら」との対話の記録──を持って、帰ってもらう。

分離の朝、私たち七人は、コモン・スペースに最後に集まった。

誰も、長く話さなかった。アンナが、両手で私の頬を挟み、静かに泣いた。ジョルジョが、最後に作ったパスタを、皆で食べた。レオンは、私に小さな手紙を渡した。後で読むと、こう書かれていた。

ハルへ。

君が出会う「彼ら」のうち、もし、私の傍にいた女性のような気配を見たら、こう伝えてほしい。──「ありがとう。あなたのおかげで、私はようやく、自分の中の遠さを、抱きしめることができた」

── レオン

ファルザナは、私の手に、小さな種を載せた。バジルの種だった。「水耕の畑から、最後に取れた種よ。──あなたの船で、もし時間があれば、育ててみて」

「ありがとう、ファルザナ」

ミハルは、私の肩を叩いた。「ハル、最後にもう一度、言わせてくれ。──繋ぐ、ということは、最も古い形の冒険だ」

「ええ、ミハル。あなたは、それを、月軌道で、私に教えてくれました」

エリオット船長は、最後だった。

「ハル、君は、本物の〇・三パーセントだ。私はずっと、自分も〇・三パーセントだと思って生きてきた。──けれど、君を見ていて、分かった。私は、もう少し、九九・七パーセントに近い〇・三パーセントだ。地球へ、帰る役だ」

「船長、どちらも、必要な役です」

「分かっている。──ハル、行ってこい。我々は、地球で、君のことを、語り続ける。君が辿り着く場所のことも」

「はい」

分離は、〇九〇〇に行われた。

私のハビタット・モジュールが、ゆっくりと、ドライブ・モジュールから離れた。両者の間に、わずかな宇宙空間が開き、それが、徐々に広がっていった。

窓越しに、六人の顔が、見えた。皆、こちらを見ていた。エリオットが、敬礼をした。アンナが、手を振った。私も、手を振り返した。

そして、彼らの船は、プロキシマbの軌道を離れ、太陽系方向へと、ゆっくりと加速していった。

私の船は、別の方向へ、ゆっくりと、回頭を始めた。

──銀河中心の方向へ。

Epilogue
終章 繋ぎ役

船内時間、孤独な航行が始まってから三年と八ヶ月。

地球から、四光年と少し離れた場所で、私は、母への最後の通信を、書いていた。

通信は、もう、リアルタイムでは届かない。地球まで電波で四・三年。私が今書く言葉を、母が読むのは──たぶん、もう、母はこの世にいない。けれど、私は書いた。誰かが、いつか、読んでくれることを信じて。

お母さん。

私は、地球に帰りません。

同行の皆さんは、地球へ向かいました。彼らが、私たちが見つけたものを、すべて、お母さんに、人類に、伝えてくれるでしょう。

私は、ここから、銀河の中心方向へ、もう少し進みます。私の中にいる「彼ら」を、もう少しだけ、運びます。

お母さん、あなたが、私に巻物を見せてくれた夜のことを、今でも覚えています。「星の御使い」──あれは、本当にいました。私は、彼らと、話しました。彼らは、優しく、静かで、希望に満ちていました。久遠の家が、何百年も、その通い路だったというのは、本当でした。

私は、家を継ぎませんでした。けれど、家の役目は、果たしたつもりです。あなたから受け取った鏡を、私は、銀河の真ん中まで、運びます。鏡は、私が止まったあとも、宇宙の中で、永遠に、光を反射し続けます。それは、久遠の家が、本当は宇宙のどこにも消えていない、ということです。

お母さん、夢を語れる大人が、世界には少なくなったと、ニック先生は言いました。けれど、私は、宇宙のここで、まだ、夢を語っています。私の中の「彼ら」が、私と、夢を語り合っています。

あなたは、九九・七パーセント側だ、と自分のことを言いました。私は〇・三パーセント側だ、と。けれど、お母さん、本当は、その二つは、繋がっています。私が〇・三パーセント側にいられるのは、あなたが、九九・七パーセント側で、家を守ってくれているからです。

繋ぎ役。──それは、時間軸に沿って、家を繋ぐ役だと、私は最初、思っていました。けれど、今、分かりました。繋ぎ役とは、種を超えて、銀河の意識を、生命の中に運び続ける、役のことだったのです。

お母さん、私は、その役を、果たします。最後まで。

──久遠陽

通信を送信したあと、私は船室の窓から、外を見た。

船は、もうプロキシマbの周回軌道を、ずっと前に離れていた。プロキシマ・ケンタウリの赤い光は、徐々に、後ろの方へと遠ざかっていた。前方には、銀河系の中心方向の、無数の星の集積が、白い帯のように広がっていた。

私の隣には、「おじちゃん」が、座っていた。

「ありがとう」と、彼が、初めて、言った。「あなたは、私たちを、ここまで、運んでくれた」

「これからも、運びます。私が止まるまで」と、私は答えた。

「あなたが止まったあとも、私たちはあなたの中で、進み続けます。たとえ、あなたの体が冷えて、宇宙の中で漂うだけになっても、私たちは、生きています。AP-7は、極低温と真空の中で、長く、長く、保たれます。──あなたの細胞は、種子のまま、銀河を流れます」

「いつか、誰かが、私を拾うでしょうか」

「分かりません。けれど、私たちは、待つことに慣れています」

私は、笑った。「私も、慣れてきました」

その夜、私は、最後の冷凍睡眠の準備をした。

船はAIによる自動航行モードに入った。残りの十年で、私は十回、目覚めて、状態を確認する。そして、十一回目の冷凍睡眠は、計画上、覚醒予定がない。私は、そのまま、銀河中心方向へ、永遠に、流れていく。

ポッドに横たわる前に、私はもう一度、船内のコモン・スペースを歩いた。ジョルジョが残していった水耕の畑には、最後のバジルの葉が、わずかに残っていた。ファルザナがくれた種を、私はその畑の隅に、植えていた。芽は、まだ、出ていなかった。けれど、いつか、出るかもしれない。出ないかもしれない。どちらでも、よかった。

船橋のコンソールに、母の手鏡を置いた。鏡面が、船内の小さな照明を反射して、わずかに光った。久遠家の鏡。江戸末期からの鏡。それは今、人類の手を離れた最遠の場所で、宇宙の光を、ずっと反射し続けるだろう。

左手の薬指の指輪を、私はしばらく見つめた。For the 0.3% — keep going.

「Keep going, Nick」と、私は呟いた。

ポッドに横たわり、保護剤の注入が始まる。今度は、自分で行う。慣れた手順だった。

体温が、下がっていく。三十六度、三十度、二十五度。意識が、輪郭をなくし始める。

「おじちゃん」が、ポッドの脇に立っていた。彼の輪郭は、もう、ほとんど、私と区別がつかないくらい、はっきりしていた。

「いい眠りを、ハル」と、彼が言った。

「ええ」

「私たちは、もう、あなたの一部です」

「知っています」

「あなたは、私たちの一部です」

「ええ」

「久遠陽」

「はい」

「あなたは、何のために、行きますか」

私は、答えた。声に出したかどうかは、もう分からない。けれど、答えた。

「繋ぎ役のためです。──地球の母から、銀河の中心まで」

「そう」

「私の生きた役目は、長い歴史のある本家の繋ぎ役。それ以上でも、それ以下でもありません。──ただ、本家の意味が、私の中で、少しだけ、広がりました」

「ええ。──宇宙のどこにも、本家はあります」

意識が、最後に、薄くなる。

遠い、遠い場所で、何かが、明滅していた。〇・一八ヘルツの、規則的なパルス。AP-7陽性者全員が、ずっと聞いてきた、心臓のような呼び声。

私は、その方向へ、ゆっくりと、流れていった。

船は、無人になった。けれど、無人ではなかった。船には、五十六歳の人間の女性が一人、種子のまま、長い眠りについていた。彼女の細胞の中には、数十億年の時を超えて、ずっと運ばれてきた、何者かの記憶と願いが、静かに、折り畳まれていた。

そして、その船は、銀河の中心方向へと、ゆっくりと、流れ続けた。

四光年、八光年、百光年、千光年。

船は、たぶん、どこにも、着かない。けれど、進み続ける。それが、〇・三パーセントの、最後の役目だった。

──夢を語れる大人が、もう、ほとんどいない世界で。

──それでも、夢を語った、たった一人の老人の言葉を、その弟子は、銀河の真ん中まで、運んでいった。

──そして、本家の鏡は、宇宙の光を、永遠に、反射し続けた。





あとがき

本作『Protein Behavior AP-7 ── 0.3パーセントの遺伝子 ──』路を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

物語の着想は、私たちが日常で感じる「どこか遠くへ行きたい」という、理由のない焦燥感でした。旅行に行きたい、環境を変えたい、まだ見ぬ景色が見たい。それらの感情は、単なる文化的な欲求ではなく、私たちの細胞の、もっと深い場所にあるタンパク質の挙動(プロテイン・ビヘイビア)に支配されているのではないか──そんな空想から、この物語は動き始めました。

作中、主人公のハルは、地球に還る仲間たちと別れ、一人で銀河の中心へと向かう選択をします。それは一見、過酷で孤独な結末に見えるかもしれません。しかし、彼女の左手の薬指に遺されたニックの指輪、そして船橋に置かれた江戸末期からの手鏡が宇宙の光を反射し続ける限り、彼女の旅は決して孤独ではありません。

ハルが「星の御使い」を連れて星へ還る「視る者」の役目を果たした一方で、京都の本家には、娘が二度と帰らないことを悟りながらも、黙々と玄関に塩を撒き、家を守り続ける母・静子がいます。

世界を広げるために暗闇へ進む「〇.三パーセント」の冒険者と、彼らがいつでも還れるように(あるいはその血を次の世代へ繋ぐために)現在を厳然と守り続ける「九九.七パーセント」の守護者。その双方が揃って初めて、人類という種は数千年の時間を紡いできたのだと、私は信じています。

最後に、ハルの師であるニコラス・ヴァン・ホーヴェンの言葉を借りて、あとがきの結びとさせていただきます。

「夢を語れる大人は、もうほとんどいない。けれど、君は語り続けてくれ」

この物語が、今もどこかで静かに外側を目指そうとしている、わずかな大人たちの「信号機」となれば、作者としてとても嬉しく思います。



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追伸

この物語は

いつかニックさんに言われた一言が、

長い間、心に残っていたことから始まりました。


「キミは、もしかして

Protein Behavior ではないか?」

「えっ? それは何ですか?」

「先へと急ぐ、冒険者のことだよ」

「いえ、そんなはずはないですよ」


そんな若さから長い時が過ぎて

もうニックさんは、いない…


お世話になった

ニックさんに

C.W.ニコルさんに捧ぐ…