Protein Behavior AP-7

—— 0.3パーセントの遺伝子 ——

「夢を語れる、わずかな大人たちへ。」



まえがき

「夢を語れる大人が少なくなった」と言われて久しい。

私たちが生きる現代社会は、あまりに合理的で、予測可能で、効率的だ。誰もが今を無事に生きることに最適化され、水平線の向こうや、夜空の暗闇の先に何があるのかを真剣に語る者は、いつしか「ロマン主義者」という名の異端児として片付けられるようになってしまった。

しかし、本当に人類はそれだけの存在なのだろうか。

私たちの歴史を振り返れば、飢餓や疫病、氷河期という絶滅の危機に瀕するたび、なぜか「わざわざ危険な外側へと歩みを進めた者たち」がいた。アフリカのサバンナを出た私たちの祖先は、地平線の向こうに何があるかも分からぬまま歩き、海を渡り、世界の果てまで版図を広げた。

本書は、そんな人類の血の中に折り畳まれた「移動衝動」を、分子生物学の視点から見つめ直したSF小説である。

第七番染色体に存在する、わずか〇.三パーセントの人間だけが持つ希少遺伝子「AP-7」。

極限環境下で細胞の崩壊を食い止めるその奇妙なタンパク質は、なぜ人類のゲノムに組み込まれていたのか。それは進化の偶然か、それとも、遥か昔に仕込まれた「星からの呼び声」なのか。

京都・上賀茂の古い家系に生まれた分子神経生物学者・久遠陽(くおん・はる)の旅を通じて、読者の皆様の中にも眠っているかもしれない「〇.三パーセントの呼び声」に、ほんの少しでも耳を澄ませていただければ幸いである。




目次

序章 0.3パーセントの呼び声
第一章 本家の夜
第二章 ニックの遺言
第三章 オデュッセイア計画
第四章 長い眠り
第五章 見えないものたち
第六章 プロキシマの岸辺
第七章 タンパク質の挙動
終章 繋ぎ役





Prologue
序章 0.3パーセントの呼び声

西暦二二四七年、晩夏。

月の裏側、ファーサイド・コロニーの最上層。回転式の観測ドームは無音で天球を巡り、私はその中央で、まもなく自分が乗り込むことになる宇宙船の影を見つめていた。

船の名は、オデュッセイア号。全長四・二キロメートル、最大乗員七名。船体の外殻はアモルファス・チタン合金で覆われ、表面には微細な放熱フィンが鱗のように並んでいる。月面の白い光を反射して、その姿はまるで巨大な深海魚のようだった。明日、現地時間〇五〇〇、人類はあの船に乗って、太陽系の外へと初めて足を踏み出す。

目的地はプロキシマ・ケンタウリb。地球から四・二四光年。これまで何度も無人探査機が送られてきたが、有人での到達は、人類史上初の挑戦である。

巡航速度は光速の一七パーセント。技術的にはもう少し出せる、と推進部の主任は言った。けれど、それ以上の加速は、私たちの細胞そのものが耐えられない。──正確に言えば、私たち七人の細胞だけが、ようやくそこまで耐えられるのだ。

ドームのガラスに、私の顔が薄く映っていた。

久遠陽。三十四歳。京都生まれ。専門は分子神経生物学、特にプリオン様タンパク質の構造解析。十二歳のときに地球連合宇宙機構(UESA)の遺伝子スクリーニングを受け、AP-7陽性の判定を受けた。それから二十二年が経った。私の人生は、その判定の前と後とで、はっきりと色を変えた。

AP-7──正式名称、Adventurer's Protein 7。第七番染色体長腕に存在する希少遺伝子ADVR1から翻訳される、極めて特異な折り畳み構造を持つ細胞内タンパク質。常温では他のシャペロンに紛れて目立たないが、極低温、極端な放射線環境、酸素分圧の急激な変動下において、突如としてその姿を変える。ミトコンドリア膜と核膜の双方に同時に結合し、まるで分子的な錨のように、細胞の崩壊を押しとどめる。

地球上の保有率、〇・二九八パーセント。人類全体で、おおよそ三百人に一人。

その小さな確率の中に、私はいた。

師の声が、不意に蘇った。耳の奥ではなく、もう少し深い場所──喉の裏側のあたり、骨の中の、暗い場所から。

「いいかい、ハル。人類は長い歴史の中で、幾度もの絶滅の危機を乗り越えてきた。氷河期、巨大噴火、隕石、疫病。それを、なんとか潜り抜けてきたのは、僕ら凡人ではない。命懸けで、生きる幅を広げてきた者たちがいたからだ」

「それが、わずかに〇・三パーセント」

「千人に三人ほどの、人類の生き残りの遺伝子──それが、彼らを冒険に導く」

ニコラス・ヴァン・ホーヴェン。私の師であり、人類遺伝学における最後の異端者であり、そして、私の世界で唯一、夢を語ることを恥じなかった大人だった。

彼が三年前に亡くなったとき、私はちょうど月軌道での最終訓練に入っていた。葬儀には間に合わなかった。代わりに、彼の弁護士から小さな桐の箱が届いた。中には一本の指輪と、一枚の薄いポリマーカードと、ロックのかかった小さな記録媒体が入っていた。

指輪は私の左手の薬指に、今もはまっている。婚約のためではない。彼が遺言の中で、「これは形見ではなく、信号機だと思ってくれ」と書いていたからだ。何の信号機なのかは、まだ私にも分からない。

ドームの曲面に、ふと、別の影が映った。

振り返ると、副船長のミハル・ルジャンスキが立っていた。長身、灰色の髪を短く刈り込んだ五十代のポーランド人。彼もまた、AP-7陽性者である。

「眠れないのか」と彼は静かに言った。日本語ではなく、船内公用語の英語で。

「ええ。ニックのことを、考えていました」

「ヴァン・ホーヴェン博士か」ミハルは小さく頷いた。「私も今夜、彼のことを思い出していた。あの男がいなければ、この計画はそもそも存在しなかった」

そう、と私は思った。オデュッセイア計画の核心──恒星間有人航行を可能にする選抜基準そのものを、ニックは作った。AP-7陽性者だけが、五十年に及ぶ部分冷凍航行に耐えられる。彼がそれを証明し、世界中の研究機関がそれを追試し、ようやく、人類はこの一歩を踏み出すことができた。

「ハル」とミハルは言った。「明日、君は何を持って船に乗る? 規定の私物は一・五キロまでだ」

「祖母の鏡を」と私は答えた。「あとは、ニックが遺した記録媒体です。中身はまだ、開けていません」

「開けないのか」

「ロックの解除条件が、特殊なんです。──船が、太陽系を出てからでないと、開けられない」

ミハルは小さく口笛を吹いた。「あの男らしい」

私たちはしばらく、無言で天球を見上げた。

地球は、青かった。あまりに青く、あまりに小さかった。あの青の表面に、八十億人の生命が呼吸し、そのうち約二千四百万人だけが、私と同じ遺伝子変異を持っている。けれど、その全員が宇宙を目指すわけではない。ほとんどの保有者は、自分がAP-7陽性であることすら知らないまま、ごく普通の人生を生きている。

九九・七パーセントは、今を無事に生きて満足する。それで構わない、とニックは言った。それで、世界は回る。けれど、世界が次の千年を生き延びるためには、〇・三パーセントの誰かが、暗い場所へ歩を進めなければならない。

「私は冒険心など、本当はないのですよ、ミハル」と私は呟いた。「ニックに言われて、ここまで来ただけです」

「そうかな」と彼は笑った。「君のような顔をした女性が冒険心がないと言うのを、私は信じない」

笑い返しながら、けれど私は、自分の中の何かが、確かに静かに震えているのを感じていた。それは恐怖でもなく、興奮でもなく、もっと古い、もっと深いもの。血の中に折り畳まれた、〇・三パーセントの呼び声。

遠い遠い祖先のうちの、ほんの一握りが、サバンナの地平線の向こうに何があるのかを確かめに行った。彼らが帰ってこなければ、私たちはまだアフリカの一角にいただろう。彼らの何人かは、二度と帰らなかった。けれど、何人かは帰ってきた。そして、その血が、私の左の薬指の下を流れている。

「ミハル」と私は言った。「私は本当は、ただの繋ぎ役なんです」

「繋ぎ役?」

「家を継ぐ役目です。京都の、古い家の。だから、自分が冒険者だなんて、思ってこなかった」

ミハルはしばらく黙っていた。それから、ふっと真面目な顔になった。「ハル。繋ぐ、ということは──最も古い形の冒険だよ。誰かから何かを受け取り、誰かに渡す。途中で死なないようにする。地球から、四光年先まで、何かを運ぶこと。それも、繋ぐことだ」

私は彼を見上げた。

「明日の朝、〇五〇〇」と彼は言った。「遅れるなよ」

「もちろん」

彼が去った後、私はもう一度、地球を振り返った。

あの青の中の、京都の、苔むした石庭の片隅に、母が一人で座っていることを、私は知っていた。母はもう、この夜空を見上げてはいないだろう。母はもう、私を見送ってしまった。三ヶ月前のあの夜に。

けれど、私の中の何かは、母の方を向いていた。母から受け取ったものを、私はこれから、四光年向こうまで運ぶ。なぜ運ぶのかは、まだ分からない。けれど、運ぶのだ。

夢を語れる大人が少なくなった世界で、それでも語り続けた、たった一人の老人が、私の指に信号機を残した。

明日、その信号機を点けるための、長い旅が始まる。

Chapter I
第一章 本家の夜

発進の三ヶ月前、私は京都の本家へ最後の帰省をした。

新幹線の窓から比叡山の影が見えた瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。これからこの山を見るのは、これが最後かもしれない。たとえ無事に帰還しても、四十二年後。そのとき、私はまだ三十代の顔のままで、京都の街は二〇二〇〇年代の終わりを迎えているはずだ。山は変わらないだろう。けれど、山を見上げる人たちは、入れ替わっている。

京都駅は、私が子どものころからほとんど変わっていなかった。中央改札の天井のガラス格子は、二十二世紀の初頭に改修されたきり、そのままだ。観光客の流れに揉まれながら、私は地下鉄烏丸線のホームへ降りた。乗り換えて、市営の地上電車に乗り、二十分ほど北へ向かう。

本家は、上賀茂神社の北、まだ田畑の残る一角にあった。築二百三十年の主屋は、明治期に一度大きく改修されたものの、骨組みは江戸後期のまま残っている。久遠家。家紋は丸に三つ星。三つ星とは、オリオン座の中央の三星、つまり古名「三つ星さま」のことだと、子どもの頃に祖母から聞いた。

「星を視る家ですよ、私たちは」と祖母は言っていた。「だから、夜更かしを叱らない」

祖母が亡くなったのは、私が大学に入った年だった。葬儀の夜、母は一度も泣かなかった。代わりに、庭の石に向かって長いこと座っていた。

木戸の前に立ち、私はインターホンを押さなかった。代わりに、子どものころから使っていた通用口の鍵を、ポケットから取り出した。鍵は驚くほど冷たく、掌の中で小さく音を立てた。

玄関に立つと、家全体の匂いが、一気に押し寄せてきた。古い畳、白檀、苔、夏草、土。それらすべてが混ざり合った、久遠家の匂い。私はその匂いを、宇宙服のメモリアル・ポケットに入れて持っていきたい、と本気で思った。

「お帰り」

奥から、母の声がした。

母・静子は、奥の間で茶を点てていた。背筋がまっすぐで、五十代半ばに見える。実際は六十八歳。「久遠の女は老けない」とよく言われるが、私の世代になってもこの遺伝形質は健在のようだった。

「お母さん、ただいま」

「茶碗、出しておきましたよ」

母は、私の好きな黒い萩の茶碗を出していた。私は正座して、茶を受け取った。苦みが、舌の奥に静かに広がる。

「本当に、行くのですね」

母の声は、責めても、嘆いてもいなかった。事実を確認するためだけの問いだった。

「ええ」と私は答えた。

「五十年」

「往復で。私の体感では、約四十二年です。時間が、外より少しだけ遅く流れますから」

母は何も言わず、茶碗を持ったまま庭の方を向いた。陽が傾き始めていた。石庭の小さな枯山水の、白砂に引かれた波紋が、夕影で深くなっていた。

「お父さんが生きていたら、何と言ったでしょうね」

「父は、行けと言ったと思います」

「そうかしら」

「父は、私がAP-7陽性だと判定された日、泣いていました。私には見えないところで」

母は驚いたように私を見た。

「気づいていたのか」

「ええ、十二歳でしたが」

「あの人は、嬉しかったのよ。本当に。──そして、怖かった」

父は私が十六のとき、心筋梗塞で急死した。久遠家の男は、なぜか短命だった。「だから、繋ぎ役はいつも女なんですよ」と祖母は言っていた。

夕食の支度を、私たちは二人で並んでした。母は鯖の塩焼きを焼き、私は冬瓜の煮物を温めた。台所の床はひんやりと冷たく、私の足の裏に、家の温度を伝えてきた。

食事のあと、縁側に出た。

夏の夜だった。石庭の向こうの、半ば野生化した庭の隅に、蛍が二匹、三匹と現れ始めていた。光は、明滅と呼ぶには遅く、息と呼ぶには明るすぎた。

「久しぶりに、出ましたね」と母は言った。「数年、見ませんでしたから」

「来てくれて、よかった」と私は呟いた。

母は懐から、古い桐箱を取り出した。三十センチほどの、薄い箱。漆塗りで、蓋に小さく「星」と一文字、彫られている。

「これを、持っていきなさい」

蓋を開けると、銀の手鏡が一枚、絹に包まれて収まっていた。鏡面はわずかに曇り、縁には細かい唐草の彫金が施されている。

「お祖母さまの?」

「もっと前。江戸末期のもの、と聞いています。曾祖父の祖母が、嫁入りに持ってきた」

「重いですね」

「軽くはありません。でも、宇宙船には乗せられるでしょう? 一・五キロまで、と言っていたわね」

「ええ、これは三〇〇グラムくらいです。乗せられます」

母は鏡を私の手の中に押し戻した。「あなたが行くところで、これを使う日が来るかもしれません」

「使う、というのは?」

「私には分かりません。けれど、久遠の鏡は、いつも何かを映すためにあるんです。──ただの姿見ではなく、ね」

その言葉に、私は少し息を止めた。

「お母さん」

「はい」

「私は、何のために行くのだと思いますか」

母は少し考えてから、答えた。

「あなたは、何のために行くと、思っているの」

私はしばらく、蛍を見ていた。

「繋ぎ役のため、です」と、私はやっと言った。「家を継ぐのではなく、もっと長い、もっと古い何かを、繋ぐためです。──私自身、何を繋ぐのか、まだはっきりは分かっていません」

母は黙って、もう一度茶を点て直した。私は茶碗を受け取り、それを両手で挟んだ。

「ハル」と母は言った。「あなたに、見せておきたいものがあります」

母は奥の間に立ち、私を手招きした。仏間の隣の納戸。普段は使われない、母の領分。鍵のかかった桐簞笥の最上段から、母は長い巻物を取り出した。表に「久遠家系図」とあり、もう一巻は「久遠家別記」と書かれている。

「家系図はあなたも見たことがあるでしょう。今日は、もう一巻の方」

畳の上に広げられた「別記」は、ところどころ墨が薄れていたが、まだ読めた。代々の当主名と、その傍らに小さく注記がある。

久遠家忠  応永二十一年 夜空ニ赤キ星見ユルヲ語ル

久遠家継  寛永七年 星辰ノ動キニ異変アリト記ス

久遠家虎  文化九年 西ノ空ニ青白キ光ノ筋ヲ二度視ル

久遠家昭  明治三十二年 夜半ニ庭石ノ上ニ光リ降ル者アリト記述

久遠静蔵  昭和四十一年 ……空ニ視タリ。三度。語ラズ。

静蔵は、私の曾祖父の名だった。

「視ていたのよ、この家の人たちは」と母は静かに言った。「何百年も。何を視ていたのかは、書かれていない。けれど、視ていた」

「お母さんは、視たことはありますか」

母は首を横に振った。「私は、視えない側です。あなたのお祖父さまも。──静蔵お祖父様の後、しばらく視える者は途絶えました。けれどね」

母は私を見た。

「あなたが小さい頃、よく庭の隅を指差していたのを、覚えていますか」

「いいえ」

「三歳でした。あなたは、何もない場所を指して、『あのおじちゃんは誰』と何度も聞きました。私たちには、何も見えなかった」

私は、母の顔を見つめた。母は、笑ってはいなかった。

「お母さん、それは──」

「あなたがAP-7陽性だと知らされた日、私はあのときのことを思い出していました。あの遺伝子の話を、私は信じませんでした。けれど、信じない理由もありませんでした」

外の蛍は、ゆっくりと減り始めていた。

「お母さん、私はあのとき、何を見ていたんでしょう」

「分かりません。──けれど、久遠の家には、視る者と、視ない者がいる。視る者は、たいてい家を継がず、どこかへ行ってしまう。視ない者が、家を守る。それが、何百年も続いてきた」

「それで、私は」

「あなたは、視る者です。本当は」

母の声は震えてはいなかった。けれど、何かが裂けるような響きが、その奥にあった。

「だから、行きなさい。あなたが行かなければならない場所へ。──私は、ここで家を守ります。それが、私の役目です」

私は何も答えられず、母の前にただ座っていた。

その夜、私は一人で本堂に入った。

本家には小さな仏間とは別に、母屋の北側に、本堂と呼ばれる小さな祭祀の間があった。家紋の三つ星と、もう一つ、誰も読めない梵字のような印が、仏壇の奥に彫られていた。

仏壇の引き出しの一番下に、古い巻物が一本あった。私は子どものころから、それを見たことがなかった。母が今日、鍵を渡してくれた。

巻物には、ただ五文字、墨で大きく書かれていた。

星 ノ 御 使 ヒ
その下に、小さな文字で注記があった。

星ヨリ来タリテ星ヘ還ル者アリ。久遠ノ家ハソノ通ヒ路ナリ。視ル者出ヅル時、迎ヘノ仕度ヲセヨ。

私はその巻物を、しばらく膝の上に乗せたまま、動けずにいた。

窓の外で、夜風が松の葉を揺らしていた。私の指の、ニックの形見の指輪が、わずかに熱を持っているような気がした。

細胞の中で、AP-7はいつも静かにしている。けれど何かのきっかけで、それは姿を変える。低温で、放射線下で、酸素が薄くなる場所で。私はふと、思った。──このタンパク質は、本当は、何のために存在しているのだろう。

ニックは生前、こう言っていた。「AP-7の構造には、進化的に説明のつかない部分がある。地球の生態系の中で生まれたものなら、これほど特殊な耐性を、これほど未来の環境のために用意しておく必要はない」

「未来の環境、というのは?」と私は聞いた。

「宇宙だよ、ハル」とニックは笑った。「このタンパク質は、まるで、いつか宇宙へ出るために、ずっと前から仕込まれていたみたいだ」

そのとき私は冗談だと思って笑った。けれど、今、本堂の畳の上で、巻物を膝に乗せて、私はもう笑えなかった。

星ヨリ来タリテ、星ヘ還ル者アリ。久遠ノ家ハソノ通ヒ路ナリ。

もし、それが本当だとしたら。

もし、私の細胞の中のAP-7が、本当に「星から来た」何かの痕跡だとしたら。

そして、それを持つ者が、定期的に「還る」ように仕組まれているのだとしたら。

翌朝、私は早くに荷物をまとめ、玄関に立った。母は奥の間にいたが、出てこなかった。私は声をかけなかった。それが、私たちの作法だった。

木戸を出るとき、振り返った。庭の入り口に、白い塩が小さな山になって撒かれていた。送り出しの儀礼。母が、たった今、撒いたばかりだった。塩の山の傍らに、一本の白百合が置かれていた。

私は塩の山に深く頭を下げ、母に向かって、もう一度だけ礼をした。

京都駅のホームに立ったとき、太陽はもう高かった。私はポケットから、ニックの遺した小さな記録媒体を取り出した。手のひらに乗せると、それは思いのほか冷たかった。

媒体には、極小の文字で、彼の筆跡が刻まれていた。

To Haru ──

太陽系を、出てから、開けなさい。

その前に開けても、何も再生されない。

君がもし、〇・三パーセント側の人間として、本当の意味で「外」に出たとき、これは、はじめて声を出す。

急がなくていい。けれど、行きなさい。

──Nick

私はそれを、胸ポケットの一番奥にしまった。新幹線の到着を告げるアナウンスが、頭上で静かに鳴った。

京都の夏が、私の背中の後ろで、ゆっくりと閉じていった。

Chapter II
第二章 ニックの遺言

ニコラス・ヴァン・ホーヴェンに初めて会ったのは、私が二十二歳、京都大学の修士課程一年目のときだった。

梅雨の終わりかけの、薄曇りの午後だった。私は分子生物学教室のセミナー室で、所定の席に座って待っていた。当時の私の指導教官、岸本教授が「ジュネーブの古い友人が、特別講義に来てくれる」と告知していた。誰も、それが「あの」ヴァン・ホーヴェンだとは思っていなかった。

扉が開き、白髪の老人が入ってきたとき、教室の半分の学生が息を呑んだ。残り半分は、まだ気づいていなかった。

ニコラス・ヴァン・ホーヴェン。当時すでに七十八歳。オランダ・アムステルダム生まれ。三十代でケンブリッジ、四十代でジュネーブのCERN生命科学プログラム、五十代でテキサスにあるバイオシグナル研究所の所長を歴任。「進化的逸脱タンパク質」という、誰もまともに取り合わなかった概念を、二十年かけて学界に承認させた人物。それでもなお、主流の遺伝学界からは「ロマン主義者」と陰口を叩かれ続けていた。

その日の彼の講義タイトルは、こうだった。

"Protein Behavior: Why 0.3% of Us Refuse to Sit Still."

──プロテイン・ビヘイビア。なぜ我々のうち〇・三パーセントは、じっとしていることを拒むのか。

彼は、訛りのある英語でゆっくりと話し始めた。マイクは使わなかった。教室の三十人余りの学生に向かって、まるで暖炉の前で物語を始める老人のように、低い声で。

「人類というのは、奇妙な種だ」と彼は言った。「他のどの哺乳類よりも、移動する。他のどの霊長類よりも、危険な場所へ自ら進む。なぜか? 答えは、ほとんどの場合、文化や経済や宗教で説明される。──だが、私はもう少し下の階層を見たいと思った。タンパク質の挙動だ」

彼は黒板に、ある分子モデルを書いた。複雑な三次構造の、奇妙な対称性を持った折り畳み。私は息を呑んだ。それは、私が修論のテーマにしようとしていた未同定タンパク質と、構造的にほぼ同一だった。

「これが、私の言うAdventurer's Protein、通称AP-7だ。第七染色体長腕、ADVR1遺伝子由来。地球上の保有率は約〇・三パーセント。発現量は通常、極めて低い。けれど──」

彼は黒板を叩いた。

「極端な条件下で、このタンパク質は化け物に変わる。低温、放射線、低酸素、急激な重力変化。普通の細胞なら死ぬ場面で、これを持つ細胞は生き延びる。普通の脳細胞なら壊れる場面で、これを持つ脳は持ち堪える。──そして、何より興味深いのは、AP-7の活性化が、心理的な『冒険衝動』と統計的に強い相関を持つことだ」

誰かが手を挙げた。

「博士、それは循環論証ではありませんか? 冒険的な人が極限環境に行くから、AP-7が活性化されるのでは?」

ニックは嬉しそうに笑った。「素晴らしい質問だ。だが、逆だ。AP-7のベース発現が高い個体ほど、まだ極限環境に晒される前から、行動選択にバイアスがかかる。我々はそれを四万人のコホート研究で確認した。職業選択、配偶者選択、移動距離、リスク許容度──すべて、〇・三パーセントの保有者は、有意に外側へ向かう」

講義の終わりに、私はノートを閉じた。指が、わずかに震えていた。

──私の修論のタイトルは「神経細胞におけるADVR1遺伝子産物の役割」だった。私は、その時点ではAP-7という呼称を知らなかった。けれど、私が解析していた分子と、ニックが提示した分子は、間違いなく同じだった。

そして、私は十二歳のときの遺伝子検査で、自分がAP-7陽性であることをすでに知っていた。

講義後、私は彼に近づいた。

「先生」と私は英語で言った。「ご講義、ありがとうございました。──私は、AP-7陽性者です」

ニックはゆっくりと振り返り、私の顔を見た。

「名前は?」

「久遠陽、と言います」

「クオン・ハル」と彼は繰り返した。「ハル。春という意味だと思っていたが」

「いえ、太陽の陽です」

「ふむ。──ハル、君は何を専攻しているんだ」

「ADVR1の神経細胞内動態を、修論のテーマにしています」

彼の灰青色の瞳が、わずかに見開かれた。「それは、奇遇というには、出来すぎているな」

その日から、私たちの関係は始まった。最初の数年は、メールと年に一度の来日。彼が八十二歳になった年、彼はジュネーブの自宅に私を招き、半年間、客員研究員として滞在させてくれた。

ジュネーブのその家のことを、私は忘れない。

レマン湖を見下ろす丘の中腹に建つ、十九世紀末の石造りの家。一階は彼の私設研究室、二階が住居、三階が客間。客間の窓から、晴れた日にはモンブランが見えた。

朝、私たちはコーヒーを淹れる。彼はベルギー製の古いマシンしか使わない。豆はエチオピア・イルガチェフェ。淹れたコーヒーを片手に、彼は決まって庭に出る。庭にはモミの木が三本立っていて、その下のベンチで、彼は朝の最初の三十分を、ただ座って過ごした。

「思考は、急ぐとよくない」と彼はよく言った。「コーヒーが冷める前に、何かを言おうとしてはいけない。コーヒーが冷めるまで、ただ感じていればいい」

夕方、私たちは研究室で議論をした。AP-7の構造、機能、進化的起源、そして──彼が長年密かに抱いていた、ある仮説について。

「ハル」とある日、彼は言った。彼の机の上には、世界中から集めたAP-7陽性者の分布マップが広げられていた。「このタンパク質には、一つ、奇妙な性質がある。──知っているか」

「分子レベルの、ですか?」

「もっと上のレベル。集団レベル」

「と、言いますと?」

「AP-7陽性者は、ランダムに分布しているわけではない。世界中のどの民族にも、ほぼ均等に〇・三パーセント前後で出現する。けれど、ある条件下では、これが偏る」

「条件、というのは」

「歴史的な大移動の局面だ。──氷河期の南方移住、新大陸への到達、大航海時代の探検家集団、二十世紀末の宇宙開発初期。これらの集団を遺伝子で再構築すると、AP-7の出現率は、平均の数倍から十倍に跳ね上がる」

私は、しばらく彼の言葉を反芻した。

「つまり、AP-7陽性者は……特定の状況下で、自然と『動きたくなる』」

「そう。彼らは集まり、動き、そして、その多くが死ぬ。けれど、その中の何人かが生き延び、人類の地理的版図を広げてきた。──私はこれを、『移動相』と呼んでいる。AP-7という遺伝形質は、平時には沈黙しているが、ある集合的なシグナルが入ったとき、移動相に切り替わる」

「集合的なシグナルというのは、何によって発生するのですか」

ニックはコーヒーを置き、私を真っ直ぐに見た。

「私はそれを、二十年探してきた」

「そして?」

「分からない。──だが、ハル、一つだけ確信していることがある。それは、外部由来のシグナルだということだ」

「外部、というのは」

「地球の外」

私は、息を止めた。

「冗談ですか、ニック」

「半分は」と彼は笑った。「だが、半分は本気だ。AP-7の構造は、地球の生態系の他のどの分子とも、起源が繋がらない。系統樹に綺麗に組み込めない。突然変異の蓄積パターンが、地球の進化的時間スケールに合わない。──いつか、もっと若い世代の誰かが、これを証明する」

「ニック」

「ハル、私はもう若くない。私が見られるのは、ここまでだ。次は君の番だ」

その秋、ジュネーブで雪が早く降った。私は帰国の前夜、彼の書斎で、彼の蔵書の最後の整理を手伝っていた。彼は本棚の最下段から、一冊の古い革表紙のノートを取り出した。

「これを、君に預ける」

「ノートですか」

「私の私的な観察記録だ。二十代から、ずっと書き溜めてきた。論文には書けなかった、考えと、夢と、馬鹿げた仮説の集まりだ。──私が死んだら、開けなさい。それまでは、棚に置いておくだけでいい」

「先生は、まだ……」

「人は誰でもいつか死ぬ、ハル。それは生物学だ」彼は笑った。「ただ、〇・三パーセントの人間は、いつ死ぬかについて、少しだけ強く意識しているだけだ」

その夜、彼は私に、最後の質問をした。

「ハル、君はなぜ、宇宙へ行きたい?」

私は少し考えてから、答えた。

「行きたい、というよりも──行かないと、何かが間に合わない、という感覚があります」

「何が間に合わないんだ」

「分かりません」

ニックは深く頷いた。「いい答えだ。──私もずっと、その感覚と付き合ってきた。それは、AP-7の声だ。脳が、まだ言葉にする方法を知らない、古い古い声だ」

彼は私の手を取り、自分の指輪を外した。

「これを、いつか持っていけ。すぐではない。──君が、本当の意味で『外』に出るときに」

その指輪は、シンプルなチタンの帯に、内側に小さく文字が刻まれていた。後で読むと、こう書かれていた。

For the 0.3% — keep going.

翌朝、ジュネーブ駅で、私は彼に別れを告げた。彼は私の頬に二度キスをし、それから、肩を軽く叩いた。

「ハル、いつか宇宙に出たら、私のために一つ、お願いがある」

「何でしょう」

「太陽系を出たとき、ほんの数秒でいい。──そこに、何かいるかもしれない。耳を澄ましてくれ」

私は笑った。「ニック、宇宙には音はありませんよ」

「音以外のものも、世界にはたくさんある」と彼は言った。「君が一番、それを知っているはずだ」

──三年後、彼は心不全で亡くなった。八十五歳だった。私はちょうど月軌道での最終訓練に入っており、葬儀には間に合わなかった。彼の弁護士から届いた小箱には、彼の指輪と、ロックのかかった記録媒体と、薄いポリマーカードが入っていた。

カードには、彼の筆跡で、一行だけ書かれていた。

ハル、君はもう、私の最後の弟子ではない。私の最初の証人だ。

私はカードを胸に押し当て、宿舎の窓辺で、しばらく立ち尽くしていた。窓の外、月の表面は、息を呑むほど静かだった。地球は四十万キロ向こうで青く光り、その向こうには、まだ誰も触れたことのない、本物の暗闇が広がっていた。

その夜、私は革表紙のノートを、一頁ずつ捲った。

最後の頁には、彼が亡くなる三日前の日付があった。震える筆跡で、こう書かれていた。

ハル、もし君がこれを読んでいるなら、私はもうこの世にはいない。

君の旅は、私の旅の続きだ。けれど、私の旅は、君の旅の始まりでもある。

君が太陽系を出たとき、記録媒体が起動する。あれは、私が四十年かけて集めた、AP-7陽性者の集合的シグナル受信ログだ。

解読の鍵は、君自身の細胞だ。船内の生体センサーが、君のAP-7の発現パターンを読み、それと媒体の信号がマッチしたとき、初めて中身が開く。

そのとき、君は、人類が四万年探してきた答えに、たどり着くかもしれない。

あるいは、何も見つからないかもしれない。

けれど、行きなさい。

夢を語れる大人は、もうほとんどいない。けれど、君は語り続けてくれ。

──Nick

私はノートを閉じ、目を閉じた。月の冷たい光が、窓から、私の左手の薬指の指輪を、静かに照らしていた。

Chapter III
第三章 オデュッセイア計画

オデュッセイア計画の正式な命名は、二二三五年三月。私が二十二歳でニックに初めて会ってから二年後のことだった。

地球連合宇宙機構(UESA)が公表したミッション概要は、こうだった。

目的地:プロキシマ・ケンタウリb(最寄り恒星系の地球型外惑星)

距離:四・二四光年

巡航速度:光速の一七パーセント

所要時間:往復約五十年(地球時間)/船内時間約四十二年

乗員:七名(全員AP-7陽性者)

推進:核融合パルス・ドライブ(ヘリウム3-デューテリウム)+ レーザー帆減速

主要任務:プロキシマ系の生物学的・地質学的探査、長期居住可能性の評価、深宇宙環境下の人類生理学データ取得

──「全員AP-7陽性者」という選抜基準が、当時、世界中の医学倫理委員会から猛烈な批判を浴びた。「遺伝子による差別だ」という主張は、もっともだった。けれど、UESAは譲らなかった。譲らなかった理由は、ニックの提示した実証データにあった。

非陽性者を冷凍睡眠下で長期航行に投入した場合、神経細胞のテロメア損耗が指数関数的に進行し、目的地到達時の認知機能保持率は推定で三十パーセント以下。一方、AP-7陽性者はその同条件で八十六パーセントを維持する。──端的に言えば、それ以外の選択肢は、まだ人類の技術段階では存在しなかった。

選抜は、五年がかりで行われた。世界中の二千四百万人の陽性者から、初期スクリーニング十万人、二次選抜五千人、最終候補三十人、そして、最終七名。

私はその七名の中に、入った。

オデュッセイア号の乗組員七名は、二二四五年の春、地球軌道上のトレーニング・ハブで初めて顔を合わせた。

船長:エリオット・キーン。四十八歳。アメリカ人。元南極基地長、深海有人探査機の操縦経験十年。黒髪に灰色が混じり始めた、穏やかな顔立ちの男。声が低く、何を話していても、まるで物語の最後の章を読み聞かせるような響きがあった。

副船長:ミハル・ルジャンスキ。五十一歳。ポーランド人。元欧州宇宙機関の運用主任。冷静で、皮肉好きで、けれど誰よりも仲間のメンタルケアに気を配る男。

機関主任:アンナ・コルナイ。四十二歳。ハンガリー人。核融合工学博士。ボブカットの茶髪に銀のピアスをいつもつけている。船内で唯一、機関区に独立した私室を持ち、休憩中もそこで核反応のシミュレーションを回している、と噂された。

通信・情報管制:レオン・モリアン。三十九歳。フランス系セネガル人。元軍属の暗号解析者から転じた宇宙通信専門家。背が高く、寡黙で、けれど一度話し始めると止まらない。

医療・生命維持:ファルザナ・サディキ。四十五歳。イラン系カナダ人。宇宙医学博士で、AP-7の医学的応用研究では第一人者の一人。ニックの弟子の一人でもあり、私の先輩格だった。

生物学・地質学(プロキシマ表面探査担当):ジョルジョ・ロッシ。三十七歳。イタリア人。火星でのアストロバイオロジー研究で名を上げた、笑い上戸で食いしん坊な男。船内ではしばしばパスタを巡って騒動を起こすことになる。

そして、私──久遠陽。三十四歳。日本人。分子生物学・神経科学。AP-7研究そのもので、ニックの理論的後継者と目されていた。

七人は、初対面の日、ハブの円形会議室に集まった。中央のテーブルには、誰かが用意した黒いコーヒーポットと、七つのカップが並んでいた。

エリオット船長が、最初に口を開いた。

「諸君。今日から我々は、七人の人類だ。──いや、語弊があるな。明日からは八十億の人類の代表者だ」

誰も笑わなかった。皆、彼の声の重さを聞いていた。

「これからの十年、地球軌道とハブで訓練を行う。十一年目に船に乗る。十二年目に発進する。──そこからの五十年については、誰も保証できない。だが、保証できないからこそ、我々が行く。我々の細胞が、それを許す」

アンナが笑った。「船長、その『細胞が許す』って言い回し、なかなか気に入ったわ」

「ヴァン・ホーヴェン博士の受け売りだ」とエリオットは応えた。

その瞬間、テーブルの七人の視線が、ほんの一瞬、絡まった。全員が、ニックを知っていた。全員が、彼の理論で、ここに集まっていた。

訓練の最初の二年は、地球低軌道で行われた。

機材操作、緊急対応、無重力下での精密作業、船内政治と心理ケア、長期密室環境でのコンフリクト・マネジメント。──これらはすべて、過去の宇宙ミッションで蓄積されたノウハウだった。

真の問題は、三年目から始まる「部分冷凍睡眠訓練」だった。

オデュッセイア号の航行プロファイルは、こう設計されていた。発進後、最初の二年で巡航速度に到達。そこから先は、二人ずつのローテーションで「起動チーム」を組み、六ヶ月ごとに交代しながら冷凍睡眠に入る。常時、船内には二名が覚醒し、ナビゲーションと監視を行う。残り五名は液体窒素温度すれすれの「準臨界冷凍状態」で待機する。

この「準臨界冷凍」が、AP-7の本領発揮の場だった。

通常のヒト細胞は、摂氏マイナス百五十度を下回ると、細胞膜のリン脂質二重層が破断する。氷晶形成による物理的破壊、タンパク質の不可逆的変性、DNAの断片化。これらは従来、グリセロールやトレハロースなどの凍結保護剤で抑えられてきたが、年単位の長期保存には限界があった。

AP-7はその限界を、内側から書き換えた。

低温下で、AP-7分子はゆっくりと核内に移動し、染色体の周囲に薄い殻状の構造を形成する。同時に、ミトコンドリア外膜にも別の集合体を作り、内膜の電子伝達系を「待機モード」に保つ。この間、細胞は代謝をほぼ停止しつつ、構造的同一性を維持する。──まるで、種子が冬を越すように。

「種子だ」とニックは生前、何度も言っていた。「人類のうち、〇・三パーセントは、種子になれる細胞を持っている」

訓練の三年目、私たちは初めて、自分の体でこの「種子モード」を経験することになった。

地球軌道のハブにあった訓練用クライオ・ポッドは、棺のようなものだった。長さ二メートル、幅九十センチ、厚さ六十センチのチタン合金の容器。内側には四十二種類の生体センサーが並び、外側には六系統の冷却回路と、一系統の緊急加温回路が組み込まれていた。

「初回は、二十四時間で目を覚ます」とファルザナが説明した。「次は七日。次は三十日。最終訓練は、一年だ。それを乗り越えれば、君は六ヶ月の本番に耐えられる」

私は最初の試験で、ポッドに横たわった。

静脈に冷凍保護剤を注入され、体温が摂氏三十六度から、ゆっくりと下がっていく。三十度、二十五度、二十度。意識は、ベッドが静かに沈んでいくような感覚で、徐々に遠ざかる。十五度を下回るあたりで、私の意識は、輪郭をなくし始めた。

──そして、私は、夢を見た。

その夢は、地上で見たどの夢とも違っていた。視覚はなく、聴覚もなく、けれど「在る」という感覚だけが、純粋に、私の中に広がっていた。

誰かが、いた。

顔は、見えない。けれど、誰かが、私の傍にいた。それは怖くなかった。むしろ、温かかった。声のないまま、私は問いかけた。

──あなたは、誰ですか。

返事は、なかった。けれど、何かが、確かに、私の問いを受け取った。

そして、私は──覚醒した。

二十四時間後。私は、ポッドの中で目を開けた。ファルザナが、覗き込んでいた。

「ハル、調子は」

「……夢を、見ました」

ファルザナの表情が、一瞬、変わった。

「どんな夢?」

「分かりません。──ただ、誰かがいた、ような気がします」

ファルザナは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。

「ハル、後でゆっくり話しましょう。──個別に」

その夜、ファルザナは私を医務室の奥の小部屋に呼んだ。

「ハル、今日のこと、誰にも言わないで」と彼女は前置きした。

「他の人も、同じ夢を見るんですか」

「全員ではない。けれど、ほぼ三分の二が、似たような報告をする」

「三分の二」

「AP-7陽性者を、過去十年で四千人以上、低温訓練に通している。そのうち、六十七パーセントが、低温下で『誰かがいる』という感覚を報告した。──視覚的なものはない。けれど、確かな『他者の存在』を感じる」

「非陽性者では?」

「報告例はゼロに近い。あったとしても、低温に伴う一般的な意識混濁の範囲内」

私は、しばらく言葉を失った。

「ファルザナ、これは──」

「ニックは、これを知っていた」と彼女は言った。「私が彼の研究室に三年いた間、彼は何度もこの現象に言及した。けれど、論文には書かなかった。書けば、彼の科学者としてのキャリアが、最後に汚れる、と分かっていたから」

「論文にできないほど、現象が曖昧だから?」

「いいえ、ハル。逆よ」

ファルザナは、私の目を見た。

「現象が、強すぎるから」

「強すぎる」

「AP-7陽性者の低温下意識報告には、奇妙な一致がある。報告者の七割以上が、『誰かがいる』だけでなく、『その誰かに、見覚えがある』と言う。──まるで、子どものころに会ったような、誰か」

私は、自分の手をぎゅっと握りしめた。京都の本家の、母の言葉が蘇った。

──「三歳でした。あなたは、何もない場所を指して、『あのおじちゃんは誰』と何度も聞きました」

「ファルザナ。私、子どものころに……」

「ハル、それ以上は、今は言わなくていい」と彼女は遮った。「船に乗ってから、ゆっくり話しましょう。──まだ、ここでは、誰が聞いているか分からない」

訓練の七年目、私たちは月面コロニーへ移った。

そこで、オデュッセイア号の最終組み立てが行われていた。船は月の北極近く、永久影クレーターの縁に建設された月面ドックで、徐々にその姿を完成させていた。

船は、人類が作った最大の有人構造物だった。全長四・二キロ。前部にハビタット・モジュール、中央に冷凍睡眠区画、後部に巨大な核融合ドライブ。前部から後部まで、ナノカーボン製の連結フレームが背骨のように貫いていた。船体の側面には、レーザー帆減速時に展開される直径三百メートルのリフレクター・パネルが、折り畳まれて格納されていた。

初めてその実物を見たとき、私は息を呑んだ。

「美しいですね」と私は言った。

「美しい?」とジョルジョが横で笑った。「機械が、ハル?」

「美しいですよ。これだけのものを、人類が、ここまで作った」

「同感だ」とエリオット船長が、後ろから言った。「あれは、〇・三パーセントが何万年もかけて積み上げた、結晶のようなものだ。我々は、それを動かす役を、たまたま今、引き受けているだけだ」

その夜、月面ドームの観測台で、私は一人、地球を見上げていた。

地球は、青く、優しかった。あの青の中の、京都の本家の母を、私はもう一度思った。

「お母さん」と私は、声に出さずに呟いた。「私は、視る者の役を、果たしに行きます。あなたから受け取ったものを、四光年向こうまで、運びます」

左手の薬指のニックの指輪が、月の冷たい光の下で、わずかに金属の音を立てたような気がした。

発進まで、あと三年。

そして、その三年の後に、長い長い眠りが、私を待っていた。

Chapter IV
第四章 長い眠り

二二四七年八月十四日、現地時間〇五〇〇。

オデュッセイア号は、月面ドックを離れた。

離脱は、私が想像していたよりも、はるかに静かだった。船体が外部から見れば、巨大なドックの腕がゆっくりと退き、係留索が一本ずつ解除され、姿勢制御スラスタの微小な噴射で、船はわずかに浮き上がる。それだけだった。映画のような閃光も、轟音も、英雄的な台詞もなかった。

船橋(ブリッジ)の私の席で、私は外部モニターを見ていた。月面のドック施設が、ゆっくりと、徐々に小さくなっていく。地球が画面の端から、淡い青色の弧として現れる。

船長エリオットの声が、船内通信に響いた。

「全員、ありがとう。我々は今、人類史上初めて、自分たちの太陽系から離れることを意図して、家を出た。──ここから一週間、ハビタットモードで通常運用。二週目から核融合ドライブを段階的に点火する。最初の冷凍ローテーションは、発進後四ヶ月目から開始。それまでは、皆、生きた七人として船を走らせよう」

「了解、船長」

七つの声が、重なって、消えた。

最初の四ヶ月は、奇妙なほど穏やかな日々だった。

船は加速を始めていた。〇・〇五Gから〇・五Gまで、緩やかに増えていく擬似重力の中で、私たちは食事をし、運動をし、書物を読み、ときに口論をした。船内には六十平方メートルほどのコモン・スペースがあり、そこには木製のテーブルと、十二脚の椅子と、小さな水耕栽培のハーブ畑があった。

ジョルジョは到着一週間目に、ハーブ畑のバジルを使って初めてジェノベーゼを作った。アンナは「機関区の燃料圧縮シミュレーションよりも、君のパスタの方が爆発リスクが高いわよ」と冗談を言い、レオンは無言でフォークを動かし、ファルザナは「火星でこれを食べた頃を思い出す」と微笑んだ。

私は、毎晩、自分の小さな船室の窓から、星を見た。

船室は二・五メートル四方の小さな立方体だった。寝台が一つ、机が一つ、本棚が一つ。本棚には、地球から持ってきた十二冊の書物が並んでいた。芭蕉、世阿弥、ヴィトゲンシュタイン、リルケ、レム、そして、ニックの革表紙のノート。窓は厚さ二十センチの強化ガラスで、外には宇宙の暗黒が広がっていた。

地球は、もう、見えなくなり始めていた。

三ヶ月目、私は母にビデオレターを送った。光速通信なので、まだ十数分で届く距離だった。

「お母さん」と私はカメラに向かって言った。「私は元気です。船はとても静かで、ハーブが育っています。皆さんと、思っていたよりも、仲良くやれています」

「私は、毎晩、星を見ています。お母さんが見せてくださった巻物のことを、ずっと考えています」

「来月から、冷凍睡眠が始まります。次にこのレターを送れるのは、半年後です」

「お母さん。──ありがとう」

送信ボタンを押すとき、私の指は、少し震えていた。

四ヶ月目の終わり。最初の冷凍ローテーションが組まれた。

最初に眠るのは、私とジョルジョだった。覚醒のままで残るのは、エリオット船長とミハル副船長、アンナ、レオン、ファルザナ。私たちは六ヶ月後に起き、次のローテーションに入る。

クライオ・ポッドの並ぶ「冬の間」と呼ばれる区画は、船の中央にあった。七つのポッドが、放射状に円を描いて並んでいる。中央には小さな祭壇のような台が置かれ、誰かが──おそらくミハルが──薄い切り花を一輪、そこに飾っていた。

「無事に戻ってきてくれよ、二人とも」とエリオットが言った。

「半年後に」とジョルジョは笑った。「ハル、君の番号は四番だ。隣で寝ようぜ」

「気をつけて起きてください、ジョルジョ」

私はポッドに横たわった。

ファルザナが、保護剤の注入ラインを私の左腕に繋いだ。冷たい液体が静脈に入っていく感覚。ポッドの蓋が、静かに閉じる。透明な強化アクリルの天井ごしに、ファルザナの顔が見えた。

「ハル、いい眠りを」

「ありがとう、ファルザナ」

「夢を、覚えていたら、起きたら教えてね」

「はい」

体温が、下がり始める。三十六度、三十度、二十五度。意識が、輪郭をなくし始める。

──そして、私は、眠りに落ちた。

眠っている間のことを、後で記録から再構成すると、こうだった。

私の体温は、最終的に摂氏マイナス百四十八度まで下がった。代謝は通常の〇・〇〇三パーセントに落ち、脳波は完全に平坦になった。心臓は、十二分に一度、わずかな収縮を繰り返した。──この収縮は、AP-7陽性者だけに見られる「ペースメーカー残留活動」で、通常のヒト細胞では発生しない。

ファルザナの記録によれば、私の脳波の中に、極めて低い周波数の、不思議な揺らぎがあった。〇・一ヘルツから〇・三ヘルツの間で、規則的に明滅する弱いシグナル。通常の脳波計では、ノイズと区別がつかないほど微弱。けれど、AP-7陽性者の冷凍中の脳から、これまで何度も観測されてきたものだった。

研究者の間では、このシグナルは「クライオ・パルス」と呼ばれていた。

──そして、私自身の主観では、こうだった。

私は、夢を見ていた。

正確には、夢と呼ぶには、輪郭がはっきりしすぎていた。視覚はなかったが、空間の感覚があった。広い、奥行きのある場所。そこに、私はいた。一人ではなかった。

誰かが、傍にいた。

その「誰か」は、訓練のときに感じたのと同じ存在だった。けれど、今度は、ほんの少し、輪郭がはっきりしていた。男性とも、女性とも、子どもとも、老人とも分類できない、けれど、確かに「人」のような存在。

──久遠陽。

声が、聞こえた。声というよりは、私の意識の中に直接、文字が置かれるような感じ。

──呼ばれましたか。

──ええ、と私は答えた。

──あなたは誰、と私は問うた。

沈黙があった。

──私たちは、あなたの中に折り畳まれているもの、です。

──AP-7。

──そう呼ぶ者もいます。

──どうして、私のところに来るのですか。

──あなたが、外に出たから。私たちは、外に出ると、目を覚まします。あなたの細胞が、私たちを、起こします。

意識の中の何かが、震えていた。──怖くはなかった。けれど、これが、ニックが探し続けていたものなのかもしれない、と直感した。

──私は、何をすればいいですか。

──運んでください。

──何を。

──私たちを。あなたの中の、私たちを、もっと遠くへ。

──なぜ。

沈黙があった。それから、答えが来た。

──私たちは、ずっと前から、ずっと遠くを目指しています。あなたたちは、その途中の、一つの形です。

その答えは、奇妙に静かで、奇妙に大きかった。私は何も問えなくなった。意識の中で、ただ、その「いる」という感覚に、身を浸していた。

どのくらいの時間が経ったのか、分からない。客観時間で六ヶ月、主観時間では──分かりようがない。やがて、意識は再び輪郭を失い、私は、眠りの底に沈んでいった。

覚醒は、緩やかだった。

体温が、ゆっくりと上がっていく。マイナス百四十八度から、マイナス百度。マイナス五十度。ゼロ度を越えるあたりで、心臓が再び拍動を始める。最初は十二分に一度、それから一分に一度、それから一分に三十回。

意識が戻る。視覚が戻る。アクリルの天井越しに、ファルザナの顔が見えた。

「お帰り、ハル」

「ファルザナ」

「気分は?」

「……夢を、見ました」

彼女は微笑んだ。「教えてくれる?」

私は、ポッドの中で、しばらく天井を見上げていた。それから、ゆっくりと答えた。

「ファルザナ。──彼らが、話しかけてきました」

ファルザナの笑顔が、わずかに揺れた。

「彼ら、というのは」

「分かりません。──けれど、彼らは、自分のことを『あなたの中に折り畳まれているもの』と呼びました」

ファルザナは、長い沈黙の後、こう言った。

「ハル。──ジョルジョも、同じことを言ったの。十二分前に目を覚まして」

ジョルジョと私が同時にコモン・スペースに入ったとき、他の五人が、すでに席についていた。

「諸君、お帰り」とエリオットが言った。「六ヶ月、無事だった。ファルザナから報告を受けた。──ハル、ジョルジョ、まず、君たちの『夢』について、確認したい」

私とジョルジョは、それぞれ自分の体験を話した。驚いたのは、内容がほとんど一致していたことだった。広い空間、声のようなもの、「あなたの中に折り畳まれているもの」という自己呼称、「もっと遠くへ運んでくれ」という依頼。

アンナが、テーブルを軽く叩いた。「これは、データを取らないと」

「もう取っているわ」とファルザナ。「冷凍中の脳波と、保護剤の代謝産物のサンプル。──ハルとジョルジョの脳波には、訓練のときと同じクライオ・パルスが、強い振幅で出ていた」

「訓練のときよりも、強い?」

「桁が一つ違う。地球軌道では、たいてい〇・〇五マイクロボルト程度の振幅だった。今回は、〇・五から〇・八マイクロボルト。十倍以上ね」

レオンが、初めて口を開いた。

「太陽系を、出たからか?」

全員の視線が、レオンに集まった。

「我々の現在位置を確認してくれ、レオン」とエリオット。

レオンが、コンソールを操作した。「現在、太陽から約一・二光時。太陽圏(ヘリオポーズ)からはまだ十光時ほど内側です。──厳密な意味で『太陽系の外』ではない」

「でも、地球からは、もう離れている」とアンナ。「地球の磁気圏や、太陽の主要な太陽風からは、完全に出ている」

「ニック」と私は呟いた。

全員が、私を見た。

「ニックの記録媒体は、『太陽系を出てから』、開けと言っていました。けれど、彼は、解読の鍵は私の細胞だ、と言っていた。──ファルザナ、私の今回の冷凍データを、媒体に近づけてみてもいいですか」

「やってみる価値はあると思う」とファルザナは答えた。「ただし、起こることが何かは、分からない」

その夜、私は自分の船室で、ニックの小さな記録媒体を手に取った。表面には、薄く一筋の青いラインが、これまで見たことのない明るさで光っていた。

媒体を、私の生体センサーリストに近づける。リストは、私の現在の代謝、心拍、AP-7の発現プロファイルを、リアルタイムで送信している。

媒体の青いラインが、点滅を始めた。

そして、媒体の表面に、ニックの声が、初めて流れ出した。

「ハル。──聞こえているか」

私の手が、震えた。



続く…



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