一緒にダサくなろうか
「完璧なスタンスについてのいくつかの考察、あるいは僕たちが本当に手に入れるべきだったもの」
〜はじめに〜
これは失敗の話です。
格好つけようとして転んで、見栄を張って溺れかけて、調子に乗って脚を攣った話です。
完璧なスタンスなんて見つかりませんでした。
でも、転んでも笑える姿勢なら、少しだけ見つかった気がします。
海と山と、冷めたコーヒーの話をします。
あなたの十一月が、少しだけ乾いて、少しだけ楽になりますように。
プロローグ
ダイナーの乾いた風
僕がその男と出会ったのは、十一月だった。
少しだけ寒くなり始め、朝の光が妙に正直になる季節だ。
夏の光というのは、嘘を許す。寝不足も、恋愛の失敗も、根拠のない自信も。
だが十一月の光は違う。
「お前、それ本当に大丈夫か?」
という顔でこちらを見る。
男は古いボルボに乗っていた。
深緑のステーションワゴン。少しくたびれた車体。
エンジンは咳をする老人みたいな音を立てていた。
後部座席には、サーフボード、泥だらけの靴、古本、ロープ、壊れたサングラス。
整理整頓を諦めた人生みたいな車だった。
だが妙に格好よかった。
男自身もそんな感じだった。
日に焼けていて、身体は締まっていて、顔には笑い皺がある。
ただ時々、少し遠くを見る。あまり楽しそうじゃない目で。
僕たちは海沿いのダイナーで知り合った。
理由は忘れた。たぶんコーヒーをこぼした。
人生を変える出会いなんて、案外そういう雑な始まりだ。
「君さ」
男はぬるいコーヒーを飲みながら言った。
「人生、メニューだけ見て満腹になってない?」
初対面にしては失礼だった。僕は少しむっとした。
「どういう意味ですか?」
男は笑った。
「ネット。動画。本。全部便利だ。でもな」
窓の向こうに紫色の海が見えた。
「ステーキの匂いは食った奴しか知らない」
なんだそれ、と思った。でも少しだけ刺さった。図星だった。
僕は画面の向こう側の人生を大量に見ていた。サーフィン動画。登山動画。旅動画。
全部見ていた。そして、少し人生をやった気になっていた。
男は肩をすくめた。
「俺も昔そうだった」
珍しく少し真顔になる。
「格好つけて、山で痛い目見た」
「遭難ですか?」
「言わない」
男は笑った。
「そういうのは本人が酒飲みながら話すもんだ」
それから僕を見た。
「新しいこと、怖い?」
僕は少し黙った。
「怖いです」
男は頷く。
「正常だ」
そして笑う。
「怖くない奴は、だいたい調子に乗って海に負ける」
海に負ける。変な言い方だった。でも妙に格好よかった。
帰り際、男はクシャクシャの紙幣を置いた。
「人生、返品できないだろ」
立ち上がる。
「だったら泥くらいつけた方が得だ」
そう言って去った。ボルボが走る。少し古くさいエンジン音。
なぜか、その音だけ妙に耳に残った。
一章
スープの上の惨事
二週間後。僕は湘南行きの電車に乗っていた。
理由は単純だ。少し格好つけたかった。人生を変えたかった。あと、男に少し影響された。
だがもちろん、不安だった。なので電車で必死に動画を見る。
「初心者サーフィン完全講座」
「五分で立てる!」
「最速上達!」
安心した。理屈は分かった。たぶん、いける。そう思った時点で負けだった。
レンタルショップには潮とワックスの匂いがあった。
そして、いた。ボス。老人。流木みたいな腕。顔が海っぽい。
「初めて?」
「はい」
ここで僕は見栄を張った。
「動画では予習してきました」
老人は数秒黙った。
「へえ」
怖かった。妙に怖かった。
海に入って十五分後。僕は人生最大級にダサかった。
まず寒い。次に怖い。波が思ったよりデカい。そして全然立てない。
というか進まない。ボードの上でバタバタする僕は、完全に溺れかけのアザラシだった。
それでも僕は格好つけた。動画知識を思い出す。
「ここでテイクオフ——」
次の瞬間。前方へ吹っ飛ぶ。鼻に海水。口に海水。耳にも海水。世界が回る。ちょっと泣きそうになる。
砂浜へ戻ると、老人がいた。一言。
「動画先生、死んだ?」
僕は笑った。悔しいのに笑った。情けなすぎて。
老人は肩をすくめた。
「まあ安心しろ」
海を見ながら言う。
「最初は全員バカみたいにダサい」
僕は咳き込みながら言った。
「……教えてください」
老人は少しだけ笑った。
「最初からそう言え」
そこから僕の“地味地獄”が始まった。
スープ。波が崩れた後の白い泡のエリア。初心者用。つまり、夢もロマンもない場所。
ひたすら腹ばい。顎を上げる。胸を張る。前を見る。また転ぶ。また海水。
寒い。疲れる。退屈。
「これ、本当にサーフィンですか?」
僕が訊くと、老人は言った。
「いい質問だ」
少し笑う。
「今やってるのは“死なない練習”だ」
それは妙に説得力があった。派手な技術より先に、溺れない。海に嫌われない。その順番。
何度も波に転がされるうち、頭の中が静かになった。通知も、仕事も、他人の人生も消えていく。
寒い。疲れた。でも、妙に気分がいい。
帰り際、自販機で缶コーヒーを飲んだ瞬間、僕は少し感動した。
うまい。笑うほど、うまい。
老人が隣へ来る。
「うまいだろ」
「はい」
「それが参加賞」
そして海を見ながら言った。
「基本は退屈だ」
少し間。
「でも、退屈を飛ばす奴は、だいたい痛い目見る」
僕は海を見た。たしかに今日は、わりと痛かった。
帰ろうとした時だった。海岸沿いを深緑の古いボルボが走った気がした。
咳き込むようなエンジン音。一瞬だけ。見間違いかもしれない。でも少しだけ嬉しかった。
二章
見栄と重力
サーフィンを始めて数か月。
人間というのは嫌なもので、少しできるようになると急に偉そうになる。僕も例外ではなかった。
ほんの少し波に乗れる。ほんの少し立てる。すると頭の中で変な声が始まる。
——お前、向いてるんじゃない?
完全に危険信号だった。
そんな頃、僕は山へ行くことにした。海の次は山。我ながら雑な人生改革だった。
奥多摩の小さな登山用品店。そこで出会ったのが、小柄な女性だった。
細い。小さい。だが、脚だけ異様に強そう。ふくらはぎに信頼感がある。初対面なのに。
「山やりたい?」
「はい」
彼女は僕のザックを持った。数秒後、眉が動く。
「……重い」
嫌な予感。中身を全部出される。大型ナイフ。意味不明なロープ。高級ランタン。使う予定のないギア。全部SNS映え装備だった。
彼女は黙る。そして言った。
「遭難する気?」
「いや……」
「なら、見栄を捨てな」
床にナイフを置く。カン。音がした。
「見栄って重いんだよ」
妙に刺さった。
初登山の日。僕は完全に舐めていた。山なんて歩くだけ。そう思っていた。
五十分後。地獄だった。息が上がる。汗。脚。坂。終わらない。景色もない。ただ登る。
「つら……」
思わず漏れる。すると彼女が振り返った。
「喋れるなら元気」
怖い。でも少し面白い。
ところが問題はその後だった。少し慣れた僕は思った。
——これ、もっと速く行けるのでは?
嫌な予感その二。僕は先へ出た。少し近道っぽいルート。少し格好つけた。
十分後。脚が攣った。完璧に。芸術的に。
「っ……!」
痛い。ダサい。動けない。森が静かすぎる。
その時、後ろから声。
「あーあ」
彼女だった。怒ると思った。でも笑っていた。
「出たね」
「何がですか」
「初心者特有の“俺いける病”」
笑ってしまった。悔しいけど笑った。彼女は水を渡した。
「山ってのはね」
地面をストックで叩く。
「重力と喧嘩しない場所」
それから歩き方を教わった。足裏。呼吸。力まない。無理しない。
すると変なことが起きた。歩ける。急に歩ける。景色が変わる。風の匂いが深くなる。世界が少し広くなる。
そして山頂。麦茶。空。風。彼女が訊く。
「どう?」
僕は笑っていた。
「世界、広いですね」
彼女は肩をすくめた。
「いや」
少し笑う。
「君が少し小さくなっただけ」
三章
酒と遭難しかけた話
男と再会したのは、次の十一月だった。
場所は同じ、海沿いのダイナー。ただし、季節が一巡した分だけ、僕の靴は少し汚れていた。
「よお」
男は冷めたコーヒーを飲んでいた。相変わらずだ。
「泥つけてるじゃん」
僕の登山靴を見て笑う。
「少しだけ」
僕も笑った。
「あと、海水も」
「いいね」
男は頷いた。
「人間、ちょっとくらい汚れてた方が信用できる」
窓の外は、去年と同じ紫色の海。ただ、去年より少しだけ、僕には優しく見えた。
「なあ」
男が唐突に言った。
「俺の“山で痛い目見た話”、聞きたい?」
僕はコーヒーを吹きそうになった。
「話すんですか」
「酒がある」
テーブルの上。見れば、ウイスキーの小瓶が置いてあった。ダイナーでそれはまずいだろ、と思ったが、男は気にしてない。
「そういうのは本人が酒飲みながら話すもんだって、言いましたよね」
「今、飲んでる」
紙コップにトポトポ注いでいる。確かに飲んでる。
僕は諦めて笑った。
「聞かせてください」
男は少しだけ遠くを見た。あの、あまり楽しそうじゃない目。
「二十代の終わりだった」
そう始めた。
「俺さ、若い頃はバカだった」
男は言う。
「今もバカだけど、当時は“元気なバカ”だった」
山を始めたきっかけは女だったらしい。
「格好つけたくて」
男は肩をすくめた。
「“俺、山やるんだよね”って言いたかった。ただそれだけ」
道具を揃えた。高いやつ。軽いやつ。雑誌に載ってるやつ。
「見栄のフル装備だった」
そして、行った。北アルプス。
「初心者が行く場所じゃない」
僕が言うと、男は笑った。
「だろ? でも“元気なバカ”は行くんだよ。地図もロクに読めずにな」
天気は良かった。最初は順調だった。
「調子に乗った」
男は言う。
「“俺、向いてるんじゃない?”って。お前と同じ病気だ」
道を外れた。
「近道に見えた」
また同じ病気だ。
「それで、ガスった」
白い。何も見えない。風が出てきた。気温が下がった。
「気づいたら、完全に迷ってた」
男は紙コップを干した。
「怖かったよ」
ぽつりと言った。
「海の“怖い”と、山の“怖い”は種類が違う」
「どう違うんですか」
「海は“殴られる”。山は“無視される”」
死ぬかもしれない、と思ったらしい。誰もいない。音もない。助けも来ない。
「人間って、無視されるのが一番怖いんだ」
それで、どうしたんですか、と僕は訊いた。
男は少し笑った。
「泣いた」
「え」
「座り込んで、泣いた。二十六歳。地図握りしめて」
想像して、僕も少し笑った。
「ダサいですね」
「超ダサい」
男も笑う。
「で、泣き止んでから、思った」
男は続けた。
「“ああ、俺、見栄で死ぬんだ”って」
ザックが重かった。ナイフも、ロープも、全部無駄だった。
軽量化とか言いながら、見栄だけ詰め込んでいた。
「本当に必要なのは、水と、防寒と、自分の現在地を知る勇気だった」
結局、男はビバークした。一晩、震えて過ごした。
「星、綺麗だったよ」
嫌味じゃなく言った。
「死ぬかもって思うと、世界、やたら綺麗に見える」
翌朝、ガスが晴れた。遠くに小屋が見えた。
「這って行った」
助かった。
「それからさ」
男はウイスキーをまた注いだ。
「格好つけるのやめた」
「本当に?」
「いや、たまにつける」
僕たちは笑った。
「でも、命に関わらない範囲でな」
男は窓の外を見た。
「山に謝ったよ」
「謝ったんですか」
「“調子乗ってすみませんでした”って。心の中で」
それから僕を見た。
「海に謝れって言っただろ。あれ、俺の経験則」
僕は黙った。少しだけ、胸の奥が熱くなった。
「完璧なスタンスってのが、あると思ってた」
男は言う。
「立つ姿勢。歩く姿勢。生きる姿勢」
「ないんですか」
「ない」
きっぱり言った。
「あるのは、“崩れた時に笑える姿勢”だけだ」
それだ、と思った。
「お前、もう分かってるだろ」
男は言う。
「泥つけて、海水飲んで、脚攣って」
「はい」
「それが入口」
「“向いてません”の通知じゃないんですね」
「逆だ」
男は笑った。
「“お前、こっち側だな”って通知」
ダイナーを出た。駐車場。深緑のボルボ。相変わらず咳き込むエンジン音。
「なあ」
乗り込む前に、男が言った。
「次はお前が誰かに話す番だ」
「え」
「若いのが“動画見てきました”って来るだろ」
ドキッとした。
「その時、格好つけるなよ」
「……はい」
「“俺も昔、超ダサかった”って言え」
男は笑った。
「それが一番、効く」
ボルボが走り出す。見送った。今回は、ちゃんと見送った。見間違いじゃない。
窓から、手が小さく挙がった気がした。
風が吹いていた。乾いた、十一月の風。
僕は駐車場で缶コーヒーを買った。ぬるかった。でも、少し笑えた。
完璧なスタンスは、やっぱりなかった。
あるのは、泥と、海水と、攣った脚と、泣いた夜。
そして、それを笑って話せる自分。
たぶん僕たちは、本当に手に入れるべきだったものを、もう手に入れている。
格好悪いまま、好きでいる才能を。
エピローグ
乾いた風の向こう側
十一月の光は、どうしてこう少しだけ寂しそうなんだろう。
海沿いの駐車場に停めた古いボルボのボンネットに腰かけながら、僕は缶コーヒーを握っていた。
風が乾いている。相変わらずだ。
あの男は言っていた。
「乾いてるってのは悪いことじゃない。湿りすぎると、人間、腐るからな」
意味がわかるような、わからないような話だった。でも、今なら少しだけわかる気がする。
完璧じゃないまま、生きる。たぶん、それだけの話だったのだ。
波は穏やかだった。遠くでサーファーが二、三人、ぷかぷか浮いている。
昔の僕なら、「かっこいいな」と見て終わっただろう。今の僕は少し違う。
「ああ、寒そうだな」
まずそこから考える。成長なのか、老化なのかは知らない。たぶん両方だ。少し笑った。
助手席には、泥だらけの登山靴がある。
あれほど格好よく山を歩きたいと思ったのに、現実は何度も転び、息を切らし、道を間違え、軽く遭難しかけ、膝を笑わせながら下山する人生だった。
海だってそうだ。最初の頃なんか、波に乗る以前に波に殴られていた。いや、本当に。自然って、わりと遠慮がない。
なのに、不思議と嫌いになれなかった。たぶん、うまくいかなかったからだ。
もし最初から全部できていたら、僕はきっとつまらない人間になっていた。鼻持ちならない、語りたがりのおじさんになっていたかもしれない。危なかった。
人生には失敗が必要だ。いや、必要というより、避けられない。
だから最近は少しだけ思う。失敗って、「向いてません」という通知ではなく、「入口はこちらです」の看板だったのかもしれない。
ガチャガチャ音がした。振り向くと、小柄な若い男がサーフボードを抱えて立っていた。二十代前半くらいだろうか。
「すみません」
彼は少し気まずそうに言った。
「この辺って、初心者でも入れます?」
ああ。来た。人生の順番というやつだ。僕は思わず笑った。たぶん昔の自分と同じ顔をしていた。
「入れるよ」
そう言ってから、少し考える。昔の僕なら、知ったふうなことを言いたかった。スタンスがどうとか、波の読み方がどうとか、潮がどうとか。でも今の僕は少し違う。
「でも、多分、最初はボコボコにされる」
男は目を丸くした。
「え?」
「海、容赦ないから」
思わず笑ってしまう。
「たぶん一回、心折れる」
「マジですか」
「うん。でも、それ普通」
彼は困ったように笑った。いい顔だった。期待と不安が半分ずつ入った顔。昔の僕だ。
僕は缶コーヒーを飲み干しながら言った。
「あと、転ぶよ」
「え?」
「山でも海でも人生でも、まあ転ぶ」
「なんか急に深いですね」
「いや全然深くない。普通に転ぶ」
二人で笑った。風が吹いた。乾いた風だった。
男が昔、言っていた。
「教えるってのは答え渡すことじゃない。恥かく場所まで連れてくことだ」
あれも意味不明だった。でも今なら少しわかる。自分で失敗しないと、人は覚えない。悔しさも、怖さも、少し笑えるようになるまで。
「じゃあ行ってみます」
若い男が海へ歩いていく。ぎこちない足取りだった。たぶん盛大に転ぶ。たぶん今日、少しだけ落ち込む。でも、また来る気がする。なんとなくわかる。そういう顔をしていた。
僕はボルボのドアを開けた。エンジンは相変わらず少し機嫌が悪い。古い車だから仕方ない。人間も同じだ。どこか少しガタついているくらいが、案外ちょうどいい。
完璧なスタンスなんて、結局なかった。
いや、あるのかもしれない。ただそれは、転ばない姿勢じゃない。
転んでも、なんとか笑って立ち上がれる姿勢のことだ。
乾いた風が吹いていた。少し寒い。でも、悪くない。
十一月の光の中、海は静かだった。
そして僕たちはたぶん、一生かけて少しずつ下手なまま、何かを好きになっていく。
次に「動画見てきました」って奴が来たら、僕はこう言うつもりだ。
「いいね。じゃあまず、一緒にダサくなろうか」
それが、僕のスタンスだ。
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あとがき
これは僕の話だけど、たぶん君の話でもある。
メニューを見て満腹になってた日。
スープで溺れかけた日。
見栄が重くて歩けなかった日。
全部、入口だった。
「向いてません」の通知じゃなくて、「お前、こっち側だな」って通知。
もし君の近くに「動画見てきました」って顔した奴がいたら、答えを渡さないでほしい。
一緒に、ダサくなってほしい。
それが一番、効くから。
十一月の光は、今日も少しだけ正直だ。
じゃあ行こう。泥つけに。

