ヘイルメリー

〜パラレルワールドに落っこちた天才物理学者の話〜

鈴木透 著


【まえがき】

人生には、「勝率ほぼゼロ」みたいな瞬間があります。

どう考えても無理。合理的に考えれば、諦めたほうがいい。普通に考えれば、負け試合。

それでも人は、ときどき投げてしまう。

「もしかしたら」と。

アメリカンフットボールに「ヘイルメリー」というプレーがあります。第四クォーター、残り三秒、五点差で負けている側が祈るように投げる超ロングパス。

合理的ではありません。でも、投げなければ絶対に届かない。

この物語の主人公・鈴木透も、そんな人です。

天才物理学者なのに不運。論理的なのに雑。量子物理を語りながら床を抜く。

そして懲りずに、また次のパスを投げる。

これは、パラレルワールドの話でありながら、たぶん私たち自身の話でもあります。

失敗して、笑われて、呆れられて、それでも少しだけ前を向く人たちへ。

もしあなたにも、今「第四クォーター」があるなら。

どうか一本くらい、祈りのパスを投げてみてください。

その先で、誰かが受け取ってくれるかもしれません。






一章 神よ、パスを受け取ってください

 鈴木透(すずき・とおる)は天才だった。
 少なくとも、本人はそう信じていた。
 東京大学大学院量子物理学科を首席で卒業し、二十七歳でパラレルワールド理論の基礎方程式「鈴木方程式」を発表。世界中の物理学者が「ノーベル賞確実」と囁き、週刊誌は「令和の天才、宇宙の扉を開く」と書いた。

 問題は、それ以降だ。

 研究室の実験装置を起動したその日の午後、停電が起きた。
 論文を学会に提出しようとしたその朝、メールサーバーが落ちた。
 プレゼン当日、スーツを着ようとしたら、なぜかファスナーが壊れた。

 不運というものは、いつも最悪のタイミングでやってくる。

 そして今夜も例外ではなかった。

 「だから言ったんですよ先生! 電源ケーブル、タコ足はダメだって!」
 研究助手の吉田美咲が、煙の立ち上る装置を前に叫んでいる。
 「タコ足じゃない、オクトパス配置だ。意味は違う」
 「同じです!!!」

 鈴木透・三十四歳。パラレルワールド転移装置の完成まで、あと一週間のはずだった。


二章 ヘイルメリー方程式

 鈴木の研究室は、大学から「危険施設指定」を受けていた。
 理由は主に三つ。一つ、過去六回の謎の爆発。二つ、廊下に常時漂う焦げ臭さ。三つ、鈴木透という人間の存在そのもの。

 それでも彼は諦めなかった。

 「聞いてくれ、美咲くん」
 焦げたノートを広げながら、鈴木は言った。
 「アメリカンフットボールという競技がある」
 「知ってます。先生が夜中にYouTubeで見てるやつですよね」
 「あれはリサーチだ。とにかく聞け。第四クォーター、残り数秒、五点差。負けているチームがとる最後の手段。それがヘイルメリーパスだ」
 「長いパスをエンドゾーンに投げ込んで、誰か取ってくれ、って祈る作戦ですよね」

 透は目を輝かせた。

 「そうだ! 合理的勝率は限りなくゼロに近い。だが投げなければ確実にゼロだ。そして――」
 彼は方程式の最後の行を指差した。
 「この転移装置も、まったく同じ原理で動く」
 「……それ、褒めてるつもりで言ってますか」
 「最大の褒め言葉だ」

 美咲は深くため息をついた。


三章 起動、そして盛大な失敗

 修理に三日かかった。
 起動実験当日の朝、鈴木は装置の前に立った。直径二メートルの円形フレームに、無数のコイルと量子センサーが巻きついている。見た目は「誰かのガラクタ」か「現代アート」か、どちらにも見えた。

 「準備はいいか、美咲くん」
 「避難経路の確認が終わりました」
 「そんなものは要らない」
 「先生のために確認したんじゃないです。私のためです」

 カウントダウン。三、二、一――

 装置が唸り始めた。コイルが振動し、フレームの内側に青白い光の渦が生まれた。鈴木の方程式が現実になる瞬間だった。

 「やった……やったぞ!」

 そして床が抜けた。

 文字通り、床が。

 振動に耐えきれなかった古い床板が、装置ごと鈴木透を飲み込み、地下室へ落下した。光の渦は暴走し、鈴木の体を包み――

 美咲が駆け寄ったとき、そこにあったのは空っぽの地下室だけだった。

 「先生?」

 返事はなかった。


四章 パラレルワールドAの鈴木透

 気がつくと、鈴木は見知らぬ路地に立っていた。
 東京に似ているが、何かが違う。看板の文字は読めるが、ロゴのデザインが微妙に違う。コンビニはある。だが店名が「セブンイレブン」ではなく「セブンヘブン」だ。

 「着いた……パラレルワールドに着いた!!」

 鈴木は拳を振り上げた。

 「うるせー!」
 近くの窓から住民が怒鳴った。
 「すみません!!」

 興奮を抑えつつ周囲を観察する。人々の服装、街並み、空気の質。九割九分は元の世界と同じだ。だが細部が違う。横断歩道の音が「ピヨピヨ」ではなく「ブーブー」だ。なぜ。

 そして鈴木は気づいた。
 自分が白衣のまま転移してきたことに。
 そしてポケットに財布がないことに。
 そして転移装置の帰還ボタンを、床に落としてきたことに。

 「……ヘイルメリーか」

 彼は呟いた。神様、誰かパスを受け取ってくれ。


五章 こっちにも鈴木透がいた

 困り果てた鈴木が路地を歩いていると、見覚えのある顔に出会った。

 自分だ。

 鏡ではない。三次元の、血と肉を持つ自分が、コンビニ袋を持って歩いてくる。

 「あ」と二人は同時に言った。

 パラレルワールドAの鈴木透(以下、鈴木A)は、元の世界の鈴木透(以下、鈴木Z)を見て、まず悲鳴を上げ、次に白衣に気づき、それから落ち着いた。

 「君は……僕か?」
 「僕は僕だ。君が別の僕だ」
 「論理的だ」
 「ありがとう」

 二人は近くのファミリーレストラン(この世界では「ファミリーヘブン」と呼ばれていた)に入り、向かい合って座った。

 驚いたことに、鈴木Aも量子物理学者だった。
 さらに驚いたことに、鈴木Aも「パラレルワールド転移装置」を研究していた。
 最も驚いたことに、鈴木Aの装置も、六回爆発していた。

 「君も?」
 「僕も」
 「床は?」
 「三回抜けた」
 「二回だ。まだ負けてる」

 二人は奇妙な親近感を抱いた。


六章 天才二人、合わせても不運は二倍

 二人の鈴木が協力すれば、帰還装置を修復できるはずだった。

 理論上は。

 鈴木Aの研究室は、なぜか元の世界の研究室よりもさらに散らかっていた。天井から謎のケーブルが垂れ下がり、冷蔵庫の中に基板が入っており、ホワイトボードには「なぜ失敗するのか(第12版)」と書かれていた。

 「この世界の君は、今まで何回失敗した?」
 「数えるのをやめた。美咲くんに怒られるから」
 「こっちにも美咲くんがいるのか?」
 「いる。今日は休みだ。君のためにはそれが幸いかもしれない」

 作業を始めて三十分後、最初の事故が起きた。
 電源ユニットが熱暴走した。

 一時間後、第二の事故。
 計算に使っていたPCが突然アップデートを始め、再起動した。保存していなかった。

 二時間後、第三の事故。
 鈴木Zが「あのケーブルは何ですか」と聞きながら引っ張ったら、天井が一部落ちた。

 「これは……」鈴木Aが崩れた天井を見て言った。「もしかして、二人いると不運が加算されるのかもしれない」
 「量子的不運の重ね合わせだ」鈴木Zが答えた。
 「観測するまでわからなかった」
 「観測したら最悪だった」

 二人は深くため息をついた。


七章 美咲Aの逆襲

 翌朝、美咲A(こちらの世界の吉田美咲)が研究室に来た。

 「先生、天井が……え、なんで先生が二人いるんですか」

 鈴木Aが状況を説明した。説明の途中で美咲Aは三回「はあ?」と言い、一回「正気ですか」と言い、最後に「わかりました」と言った。

 受け入れが早い。さすが鈴木の助手だ。あちらの世界でも、こちらの世界でも。

 「つまり、この先生(鈴木Z)を元の世界に返す装置を、この先生(鈴木A)と一緒に作ればいいんですね」
 「そうだ」
 「何日かかりますか」
 「三日」と鈴木Aが言った。
 「一週間」と鈴木Zが言った。
 「じゃあ二週間ですね」と美咲Aが言った。「先生二人分の不運がかかりますから」

 二人の天才は黙った。正論だった。

 「ひとつ聞いていいですか」美咲Aが続けた。「先生方って、なんでいつもこんなに不運なんですか」
 「才能と不運は表裏一体だ」鈴木Zが答えた。
 「ギャンブラーの誤謬ではないですか」
 「……美咲くんはこちらの世界でも鋭いな」
 「褒め言葉として受け取っておきます」


八章 第四クォーター、残り三秒

 二週間後。装置は九割完成していた。

 残り一割が問題だった。

 「量子安定化コイルが足りない」鈴木Aが言った。「この世界には売っていない」
 「元の世界から持ってくる方法は?」鈴木Zが聞いた。
 「それができるなら最初から帰れてる」
 「そうか」

 三人は研究室で沈黙した。東側の窓から夕陽が差し込んでいた。美咲Aが淹れたコーヒーの湯気が上がっていた。

 「ヘイルメリーだ」鈴木Zが突然言った。

 「また始まった」と美咲Aが呟いた。

 「聞いてくれ。量子安定化コイルの代替品として、理論上は家庭用電子レンジのマグネトロンが使える。鈴木方程式の第七項を書き換えれば」
 「……鈴木方程式を書き換えるんですか」鈴木Aが目を丸くした。「自分の方程式を」
 「勝率は低い。でも投げなければゼロだ」

 鈴木Aは長い間、沈黙していた。そして言った。
 「……わかった。僕のマグネトロンを使っていい」
 「なぜ研究室に電子レンジがあるんですか」美咲Aが言った。
 「夜食用だ」
 「二個ありますね」
 「二個必要なんだ、夜食に」
 「怒りたいけど今は我慢します」


九章 神頼み、発動

 電子レンジ二台とジャンク基板と鈴木方程式改訂第八版で組み上げた装置は、見た目だけで言えば「廃品回収業者が夢で見る何か」だった。

 起動直前、鈴木Zは鈴木Aに向かって言った。
 「ありがとう」
 「礼は要らない。同じ僕だ」
 「そうだな」
 「でも一つだけ頼みがある」
 「なんだ」
 「元の世界に帰ったら……美咲くんに少し優しくしてやってくれ。僕たちは天才かもしれないけど、支えてもらってばかりだ」

 鈴木Zは振り向いて、美咲Aを見た。彼女は照れたような顔をして「どうせ元の世界の美咲さんに言ってあげてください」と言った。

 カウントダウン。三、二、一――

 装置が唸り始めた。電子レンジ由来の特有の音がした(「チン……」という音がしたのは気のせいではないと鈴木Zは思った)。青白い光が広がり、鈴木Zの体を包んだ。

 「帰るぞ!」

 光が炸裂した。研究室の窓ガラスが全部割れた。電子レンジが完全に消滅した。そして鈴木透の姿が、パラレルワールドAから消えた。

 「……また窓ガラス代、請求しなきゃ」美咲Aはため息をついた。


十章 ヘイルメリー、着地

 元の世界の研究室。
 美咲は三日間、ほとんど眠れていなかった。

 警察は「行方不明」として処理した。大学は「事故」として処理しようとした。美咲だけが「絶対に帰ってくる」と言い続け、装置の残骸の前で待ち続けた。

 理由は一つだ。
 先生は天才だから。
 天才というのは、どんなに不運でも、最後に帰ってくる。

 光が炸裂したのは、三日目の夜明けだった。

 白衣姿の鈴木透が、ゴミ箱の上に降り立った。そのままゴミ箱ごと倒れた。典型的な鈴木透だった。

 「先生!!」

 美咲が駆け寄った。鈴木は頭を押さえながら起き上がり、周囲を確認し、そして言った。

 「ただいま」

 美咲は泣かなかった。代わりに言った。
 「コーヒー、冷めてますよ」
 「温めてくれ」
 「電子レンジ、なんか消えてます」
 「……知ってる」

 窓の外では、朝日が昇り始めていた。
 東京の、いつもの朝だった。
 特別なことは何もない。ただ鈴木透が帰ってきただけの、普通の朝。

 それでも鈴木透は思った。
 ヘイルメリーパスは、誰かが取ってくれた。
 今回も。

 天才というのは、神様に好かれているのか、嫌われているのか。
 おそらく両方だ。
 だから面白い。

 鈴木透はノートを開き、新しい方程式を書き始めた。
 タイトルは「パラレルワールドB探索計画・第一稿」。

 美咲はそれを見て、深く、深く、ため息をついた。


       ――了――


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【あとがき】

『ヘイルメリー』は、「祈りながら投げる」という言葉に惹かれて生まれた物語です。

勝率は限りなく低い。
でも、やらなければ確率はゼロ。

研究も、仕事も、人間関係も、人生そのものも、案外そんなものかもしれません。

鈴木透という男は、かなり困った天才です。

床を抜くし、研究室を爆発させるし、助手に呆れられる。
なのに、懲りずに次の世界を目指す。

たぶん彼は、「失敗する才能」があるのです。

そして、その失敗の向こうにしか見えない景色があることを、どこかで知っている。

美咲のように支えてくれる誰か。
呆れながらも見捨てない誰か。
そういう存在が人生には時々いて、だから人は少しだけ無茶をできるのかもしれません。

この本が、笑ってもらえる時間になっていたら嬉しいです。

そしてもし今、あなたが人生の第四クォーターで、少し苦しい場所にいるなら。

勝率なんて、いったん忘れてください。

投げなければゼロ。

でも、投げればゼロじゃない。

今日のあなたのヘイルメリーが、どこかで誰かに届きますように。