週に10冊までのKindle掲載から

今週 漏れたものをひとつ…



K O K O M O
〜 地 図 に な い 楽 園 〜



【まえがき】

夏なんて、もういらない。

近年の猛暑に辟易しながら、そんなことを口にするようになったのは、いつ頃からだったろう。

若い頃、夏は特別な季節だった。海へ向かうだけで胸が高鳴り、一曲の音楽で世界が変わり、ほんの少し誰かに優しくされただけで未来が眩しく見えた。

けれど歳を重ねると、人は季節を“消費”するようになる。暑い、疲れた、しんどい。気づけば感動は減り、記憶ばかりが増えていく。

そんなある日、CD棚の奥から、長い間忘れていた一枚を引っ張り出しました。

『KOKOMO』。

あのイントロが流れた瞬間、三十数年前のハワイの風が吹いた気がしました。

ノースショアの強い日差し。塩の匂い。マツモトシェイブアイスの甘さ。そして、ひとりの少女の「Aloha」という声。

人生には、報われない恋があります。

叶わなかったからこそ、忘れられない時間があります。

そして不思議なことに、そんな想い出ほど、長い年月を経て自分を支えてくれていることがあります。

これは、そんな“ある夏”の記憶の物語です。

もしあなたにも、CD棚の奥や心の片隅に、誰にも言えない「ココモ」が眠っているなら——。

少しだけ、一緒に旅をしていただけたら嬉しく思います。




プ ロ ロ ー グ
C D 棚 の 奥 の 夏

あまりの暑さに、かつてあれほど大好きだった夏を、そろそろ「いらん!」とすら思った今年だっ
た。

五月だというのに、アスファルトを容赦なく焼き焦がす暴力的な日差し。街を行き交う人々は、ま
だ衣替えも十分に済んでいないというのに、誰もが疲弊した表情で日陰を探して歩いている。

温暖化だとか、異常気象だとか、テレビの中の気象予報士は毎年同じような言葉を繰り返しているが、僕に
とってはそんな科学的な理由は副次的なものに過ぎなかった。

ただただ、身体が、そして何よりも心が、この過剰な熱量に追いつかなくなっている。それだけの話だった。

六十歳という年齢が、僕のど
こかにそんな諦念を植え付けたのかもしれない。
それでも、季節は忘れることなく巡るものである。

あんなに頑なだった熱気が、ある朝を境にふっと息をひそめ、夕暮れの風の中に冷ややかな芯が混ざり始める。気がつけば、ベランダから見える空の青は高くなり、すでに秋の気配がそこかしこに漂っていた。

あの忌々しかったはずの暑さが遠のくと、今度は現金なもので、胸の奥に奇妙な空白が残される。何かをやり残したような、大切なものを
どこかに置き忘れてきてしまったような、そんな割り切れない寂しさだった。

毎年、夏の入り口には、僕なりの儀式があった。「音楽もまた、着替えねばと」。
それは誰に教わったわけでもない、僕が二十代の頃からずっと続けてきたささやかな習慣だった。

現代のように、スマートフォンの画面を二、三回タップすれば、世界中のあらゆる音楽が瞬時に鼓膜へと届けられる時代には、ひどく前時代的で、無駄な手間に思えるかもしれない。

だが、僕にとって音楽を聴くということは、単に音の波形を消費することではなく、その音が持っている「時間」と「空気」を物理的に手繰り寄せ、身に纏うことだった。

リビングの壁一面を占領している、木製のCD棚へと歩み寄る。いつの間にか膨大になっちまったその棚は、僕の人生の地層そのものだった。

若かった頃に全財産をはたくようにして集めたロックのレコードをCDで買い直したもの、三十代の忙しい日々に心を癒やしてくれたジャズ、四十代でなぜか傾倒したクラシック。それぞれのディスクが、それぞれの時代の僕の記憶を閉じ込めて、静かに呼吸している。

その棚の、最も奥深く、普段は指を伸ばすことさえ忘れている暗がりに、僕の探す「夏」は入り込んでいた。数年、あるいは十数年もの間、誰の目にも触れることなく眠っていたプラスチックのケース。

人差し指を隙間に差し込み、周囲のディスクを傷つけないように慎重に、しかし確実な意志を持って、その一枚を表側へと引っ張り出す。

指先に残る、わずかな埃の感触。それをシャツの袖で軽く拭き取ると、色褪せたジャケットが鮮やかに蘇った。
ヤシの木、どこまでも青い海、そして若き日の男たちの弾けるような笑顔。

ザ・ビーチ・ボーイズ。

トレイにディスクを載せ、再生ボタンを押す。スピーカーがわずかに震え、一瞬の静寂のあと、あの軽快で、どこか哀愁を帯びたスチールドラムのイントロが部屋を満たした。

その瞬間、部屋の空気が一変する。エアコンの効いた無機質な空間が、一時にして南国の気怠い、しかし生命力に満ちた熱を帯びるようだった。

そして、僕らは毎度、その身体に、その心に、夏へと向かう準備を施すのだ。どんなに年齢を重ねても、どんなに「もう夏なんていらん」と毒づいたとしても、このイントロを聴いた瞬間に、細胞の一つひとつがかつての輝きを思い出し、背筋が伸びるのを感じる。

♪ Off the Florida Keys / There's a place call kokomo ♪

毎年、この時期になると、なぜか申し合わせたようにラジオからもこいつが流れてくる。自分でかけるだけでなく、街のどこかで不意にこの歌に出会うとき、僕の夏は本当の意味で始まっていた。

夏を意識し始める曲のひとつで、気持ちはそこから、一気に夏に変わる。いや、変わってしまうのだ。

現実の僕の身体は、年老いた家具のようにソファに深く沈み込んでいるというのに、気分だけが先に、あの遙かなる夏へと向かって駆け出していく。

目を閉じれば、スピーカーから流れる波の音が、僕を三十数年前のあの場所に、あの強烈な日差しの中に、そして、あの少女の目の前にへと、連れ去っていくのだった。


一 章
ア ロ ハ と 「 A l o h a 」

一九八八年の夏、僕はオアフ島にいた。

世の中はバブル景気の絶頂期で、日本中が狂騒の中にあった。誰もが高級車を乗り回し、夜な夜なシャンパンを開け、未来は右肩上がりに輝き続けると盲信していた時代。

大学四年生だった僕もまた、その熱気の中に身を置いていたが、どこかでその実体のない狂乱に疲れ果ててもいた。

周囲の友人たちが大企業の内定を競い合うようにして獲得し、仕立ての良いスーツを着て東京の街を闊歩する中、僕はどうしてもその輪に入ることができず、大学最後の夏休み、貯金のすべてをはたいて航空券を買った。

逃げ場所として選んだのが、ハワイだった。しかし、ガイドブックに載っているような、日本人観光客で溢れかえるワイキキのビーチや、免税店のきらびやかなブティックには興味がなかった。

僕が求めていたのは、もっと静かで、もっと乾いた、本物の「アメリカの果て」だった。

ザ・ビーチ・ボーイズやウェストコーストの音楽が内包している、あのカラリとした、しかしどこか孤独な空気感を肌で感じたかったのだ。

オンボロのレンタカーを借りて、僕は島を北へと走らせた。パイナップル畑の間を突き抜ける一本道をひたすら進むと、やがて視界が開け、巨大な波が打ち寄せる海岸線が見えてくる。

ヒッピーカルチャーとサーフ音楽の残香が濃く漂う街、ノースショアのハレイワ。そこが僕の滞在先となった。

ハレイワの街は、ワイキキとは全く違う時間が流れていた。木造の低い建物が並び、通りを歩く人々は誰もが裸足に近いサンダル履きで、小麦色に日焼けした肌をさらけ出している。強い貿易風がヤシの葉を激しく揺らし、空気の中には常に塩の匂いと、どこか甘い熱帯の植物の香りが混ざり合っていた。

ある日の午後、僕はヴィンテージのアロハシャツを探して、街の端にある小さなセレクトショップへと迷い込んだ。

看板は日差しで完全に色褪せており、入るのを一瞬躊躇うような、鄙びた佇まいの店だった。重い木製のドアを押し開けると、カウベルがチリンと涼しい音を立てた。

店の中は、外の強烈な光とは対照的に、心地よい日陰になっていた。天井でゆっくりと回るシーリングファンが、木と古着の匂いを孕んだ空気をかき混ぜている。そして、店の奥に置かれた安っぽいラジカセかは、まさにその夏、世界中で爆発的なヒットを記録していた『KOKOMO』が流れていた。
スチールドラムの音が、狭い店内に心地よく反響している。

「あ……」

ラックに並んだ色鮮やかなアロハシャツに手を伸ばそうとした時、店の奥から一人の少女が姿を現した。

その瞬間、僕の心臓は場違いなほど大きな音を立てた。いつだったかのハワイのセレクトショップの店員の娘。彼女の姿を、僕は今でも信じられないほどの解像度で思い出すことができる。

アジアと白人のハーフだというその顔立ちは、言葉を失うほどに魅力的だった。西洋風のくっきりとした目鼻立ちでありながら、瞳と髪は漆黒で、どこか東洋的な神秘性と深い憂いを湛えている。

日焼けした健康的な肌に、白いシンプルなタンクトップと、穿き古したデニムのショートパンツ。気取った
ところなど微塵もないのに、彼女がそこに立っているだけで、店全体が特別な空間のように思えた。

僕は完全に気圧されてしまい、アロハシャツを探すフリをしながら、横目でチラチラとキミの姿を追いかけた。

彼女はカウンターに肘をつき、ラジカセから流れる音楽に合わせて、小さく身体を揺らしている。その長い黒髪が、シーリングファンの風に揺れて、かすかにきらめいた。

このまま何も話さずに店を出てしまえば、僕は一生後悔する。バブルの東京で培った、薄っぺらな度胸を総動員して、僕は彼女に近づいた。

喉がカラカラに渇いていた。英語が堪能なわけではなかったが、とにかく声をかけなければ始まらない。

「Hello!!」

上擦った僕の声が、店内に響いた。今思えば、なんと工夫のない、硬い挨拶だったろう。

彼女は驚いたように丸い目を向け、それから僕が日本人旅行者であることを見抜いたのか、悪戯っぽく、しかしこの上なく温かい微笑みを浮かべた。その唇からこぼれ出た言は、僕の耳を、そして心を優しく撫でた。

「Aloha〜」

その一言だけで、僕の周囲にまとわりついていた緊張の結界は、木っ端微塵に砕け散った。ハワイの太陽をそのまま溶かしたような、深く、心地よい響き。彼女の「Aloha」は、僕がそれまで耳にしてきた観光地の手垢のついた挨拶とは全く違っていた。まるで、僕という存在をそのまま受け入れてくれるような、そんな包容力があった。

その店の古いラジカセからは、繰り返し、繰り返し、ビーチ・ボーイズの『KOKOMO』が流れていた。

バミューダ、バハマ、ジャマイカ……南国の楽園の名前を連呼するその歌は、当時の僕にとって
は、目の前にいる彼女そのものを象徴する音楽となった。

アロハシャツを一枚選んで支払いを済ませるまでのわずかな時間、僕らはいくつかの他愛のない言葉を交わした。

僕の名前、彼女の名前がエミリであること、日本は今とても暑いのかということ。エミリが話す英語は、ローカル特有の少し訛りのあるピジン英語が混ざっていて、それがまた僕を心地よく惑わせた。

店を出た時、ノースショアの強い光が再び僕を襲ったが、僕の頭の中はエミリの笑顔と、ラジカセから流れていたスチールドラムの音で完全に占領されていた。

気持ちはそこから、完全に夏に変わっていた。東京での悩みも、未来への不安も、すべてがどうでもよくなるほど、僕は彼女に、そしてハ
レイワの夏に、深くのめり込んでいった。


二 章
マ ツ モ ト シ ェ イ ブ アイ ス の 約 束

それからの僕は、まるで何かに憑りつかれたように、毎日ハレイワの街へと通い詰めた。

目的はただ一つ、エミリに会うこと。しかし、毎日セレクトショップに行ってシャツを買い続けるわけにもいかない。
僕はただの貧乏な学生であり、不審者のように店の前をうろつく度胸もなかった。
だから、僕は彼女が店を出る時や、昼休憩のタイミングを見計らって、街のあちこちを彷徨い歩いた。

そーそー、ノースショアの、ハレイワの、『MATSUMOTO』っていうかき氷屋さんにも、綺麗な娘がいたっけな。

当時のハレイワは、今ほど洗練された観光地ではなく、マツモトシェイブアイスも、地元の子供たちが小銭を握りしめて集まるような、素朴な日用雑貨店(ジェネラルストア)の面影を強く残していた。

それでも、サーファーたちの間ではすでに有名で、店の前にはいつも色とりどりのサーフボードが立てかけられ、賑やかな声が溢れていた。

ある日の午後、あまりの暑さに耐えかねて、僕はマツモトシェイブアイスの長い列に並んでいた。並んでいる人々の隙間から、店内でせっせとかき氷を作っている看板娘の姿が見える。確かに彼女も息をのむほど綺麗な娘だったが、僕の目は、無意識のうちに別の影を探してしまっていた。

「Hi」

不意に、背後から声をかけられた。驚いて振り返ると、そこにはストローハットをかぶり、大きなサングラスを頭にのせたエミリが立ってた。

手には小さなトートバッグを持っている。仕事の休憩時間なのだろか。まさかこんな場所で会えるとは思っていなかった僕は、言葉に詰まった。

「エ、エミリ……!」

「カズ、だよね? また会ったね」

彼女は僕の名前を覚えていてくた。それだけで、頭のてっぺんまで血が上るのが分かった。

エミリは僕の隣に並び、「ここのシェイブアイスは、レインボーを頼むのがお決まりよ」と教えてくれた。
僕らはそのまま一緒に列を進み、注文を済ませた。削りたてのふわふわの氷に、ストロベリー、レモン、ブルーハワイの鮮やかなシロップがかけられた、文字通りのレインボー。
それを手にして、僕らは
店の外にある木製のベンチに腰掛けた。

ハワイの強烈な太陽の下では、かき氷はみるみるうちに溶けていく。僕らは競うようにして、プラスチックのスプーンを口に運んだ。冷たさと強烈な甘さが口いっぱいに広がり、こめかみがキーンと痛む。エミリはその痛みに顔をしかめ、それから大声をあげて笑った。彼女の笑い声は、風に乗ってハ
レイワの通りへと溶けていくようだった。

「ねえ、カズ。日本にはこんなかき氷はあるの?」

「あるよ。でも、こんなにカラフルじゃない。もっとシンプルで、イチゴとかメロンとか……」

つたない英語で一生懸命に説明する僕を、エミリは楽しそうに見つめていた。サングラスを外した彼女の瞳は、近くで見ると、まるで深い海の底のように澄んでいた。

僕らはかき氷を分け合いながら、色々な話をした。僕が東京の大学を卒業したら、サラリーマンになること。エミリがこのハレイワで生まれ育ち、一度もオアフ島から出たことがないということ。

「私はね、いつかここを出ていきたいの」

エミリは、溶けかけたシロップの海を見つめながら、ぽつりと言った。

その表情には、セレクトショップで見せる明るい笑顔とは違う、深い孤独の影が差していた。

「ハレイワは素晴らしい場所よ。みんな優しくて、海も綺麗。でもね、ここは狭すぎるの。毎日同じ人が通りを歩いて、同じ音楽が流て……。私は、もっと広い世界を見てみたい。誰も私のことを知らない場所へ行ってみたいの」

彼女の言葉に、僕は何も返すことができなかった。東京という大都会の喧騒から逃げてきた僕にとって、このハレイワは完璧な楽園に見えた。

しかし、ここに生きる彼女にとっては、そこは抜け出すことのできない美しい檻なのかもしれなかった。

隣の店から、またしてもビーチ・ボーイズの『KOKOMO』が風に乗って流れてきた。

「“KOKOMO”……隠された楽園。
地図に載ってない場所。
夏の避暑地。
そんな意味があるんだそ〜で……」

エミリは、歌の歌詞をなぞるように低く呟いた。

「カズ、あなたにとってのココモはどこ? 日本?」

「わからない」と僕は答えた。
「でも、ここに来て、君に会えて、新しいココモを見つけたような気がするんだ」

それは僕の精一杯の告白だった。エミリは一瞬、驚いたように目を見開き、それから切なげな、とても優しい微笑みを浮かべた。
彼女は僕の手をそっと握り、「ありがとう」と言った。その手の温も
りは、ハワイの日差しよりも深く、僕の心に刻み込まれた。

僕らはまた明日も、あの店で会うことを約束して別れた。気分だけが先に、どんどん夏へと向かって加速していく。それが、これから訪れる
切ない嵐の前の、最も輝かしい一瞬だった。


三 章
届 か な い 片 想 い

世の中には、彼女のよ〜な、素敵な娘を射止める、そんな男がいるものかと、羨ましくもあり、悔しくもあり。

楽園のような日々は、長くは続かなかった。エミリとの距離が少し縮まったと自惚れていた僕は、ある日の夕方、冷酷な現実を突きつけられることになる。

その日も僕は、彼女の働くセレクトショップへと足を運んでいた。店のドアを開けようとしたその時、窓越しに見えた光景に、僕の身体は凍り
ついた。

カウンターの中にいるエミリのに、一人の男が立っていた。僕と同じくらいの年齢だろうか。しかし、その佇まいは僕とは根本的に異なっていた。ハワイの強烈な太陽に限界まで灼かれた、見事な小麦色の肌。波の飛沫を浴びて自然に色が抜けたような、くしゃくしゃの金髪。彫刻のように逞しい胸板は、毎日ノースショアの巨大な波に挑んでいる証拠だった。

彼は白いTシャツに、色褪せたサーフパンツを穿き、信じられないほど白い歯を見せて笑っていた。

ローカルのサーファーだった。名前はブランドン。後で知ったことだが、彼はこの界隈では誰もが知る、若き天才サーファーの一人だった。彼の周りには、ハレイワの海そのものが持っているような、圧
倒的な自信と生命力が満ち溢れていた。

エミリは、彼を見上げて笑っていた。僕に見せるような、どこか気遣いのある優しい笑顔ではない。もっと無防備で、もっと熱を帯びた、一人の女としての笑顔だった。ブランドンが彼女の肩に親しげに手を回すと、エミリは嫌がる風でもなく、その胸に小さく頭を預けた。

二人の姿は、まるで一枚の完成された絵画のようで、そこに僕のよな、東京から来た青白い、つなぎの旅人が入り込む余地など一ミリもなかった。

店の外に、ブランドンのものらき、泥に汚れた古いジープが停まっていた。助手席にはワックスの匂いが漂うサーフボードが何枚も積まれている。やがて店が閉店の時間になと、二人は手を繋いで出てきた。ブランドンは僕の存在に気づくこともく、エミリを助手席に乗せると、豪快なエンジン音を響かせて走り去っていった。

夕日に向かって遠ざかっていくジープの後ろ姿を、僕はただ、呆然と見送るしかなかった。
胸の奥が、ぎりぎりと音を立てて軋んだ。羨ましくもあり、悔しくもあり。そんな想いが残った、
そんな夏だったな〜。

自分がどれほど惨めで、場違いな存在であるかを、僕は思い知らさた。

バブルに浮かれる東京で、何一つ自分の力で成し遂げられないまま、ただ現実から逃げてきただけの男。英語もまともに話せず、波に乗ることもできず、ただ彼女の美しさに目を奪われているだけの観光客。

それに比べて、ブランドンはこの土地の自然と一体になり、自分の足でしっかりと立っていた。エミリが求めている「ここではないどこかへ、彼なら彼女を連れていけるのかもしれない。そう思うと、悔しさと嫉妬で涙が出そうだった。

それからの数日間、僕のハワイは灰色に染まった。海は変わらず青く、太陽は眩しかったが、僕の心には冷たい雨が降り続いていた。

エミリの店に行くことはできなくなり、マツモトシェイブアイスの前を通るのさえ苦痛だった。宿のベッドに横たわり、天井で回るファンを見つめながら、僕はただ、帰国の日を待つだけの抜け殻のようになった。

どこへ行っても、あのメロディが追いかけてくる。カーラジオから、ビーチのラジカセから、カフェのスピーカーから。

♪ Bermuda, Bahama, come on pretty mama ♪

その軽快な歌声が、僕の耳にはひどく残酷に響いた。歌の中の男たちは、綺麗な女の子を連れて、南国の島々を自由に旅している。

しかし、現実の僕は、この小さなオアフ島の北端で、届かない片想いに胸を焦がし、自分の無力さに打ちのめされているだけだった。

エミリにとって、僕はただ「Hello」と「Aloha」を交わしただけの、名もなき旅人の一人に過ぎなかったのだ。そんな諦めが、僕の胸を深く抉っていた。


四 章
地 図 に な い 場 所 へ

帰国を三日後に控えた、ハワイ滞在の最後の週末だった。

僕はもうエミリに会うつもりはなかった。このまま静かに荷物をまめ、東京の狂騒へと戻り、普通の就職活動をして、普通の大人になる。

このハワイの夏は、人生の一ページに刻まれた、少し痛みを伴う美しい幻影として処理するつもりだった。

夕方、ハレイワのビーチで、僕は一人で沈みゆく夕日を見つめていた。空が燃えるようなオレンジから、深い紫へとグラデーションを変えていく。その美しさにさえ、胸が締め付けられた。

「カズ」

背後から、聞き間違えるはずのない声がした。幻聴かと思い、僕はゆっくりと振り返った。そこには、夕闇の中に佇むエミリの姿があった。
風が彼女の黒髪を激しくなびかせている。彼女はいつもの笑顔ではなく、どこか張り詰めた、真剣な表情をしていた。

「どうして店に来てくれなくなったの? もうすぐ日本に帰るんでしょう?」

「エミリ……。いや、君にはブランドンがいるし、僕が邪魔をしたら悪いと思って」

僕の本音が、情けない形で口からこぼれた。エミリは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにすべてを察したように、ふっと力を抜いて微笑んだ。
その微笑みには、どこか哀しみが混ざっていた。

「ブランドンは幼馴染よ。素晴らしいサーファーだし、大切な友達。でもね、彼はこのハレイワの海
しか見ていない。私は、もっと遠くへ行きたいの。私の言っている意味、わかる?」
彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。

「カズ、今夜、私とドライブに行かない? 観光客が誰も知らない、特別な場所があるの」

断る理由などあるはずがなかった。エミリが運転する、少し錆びの浮いた古いオープンカーに、僕は助手席に乗った。夜のハワイの風は、昼間の熱気を残しながらも、どこかひんやりとしていて心地よかった。

彼女は手慣れた手つきでハンドルを握り、ハレイワの街を離れて、街灯のない真っ暗な山道へと車を走らせた。カーステレオからは、やはりあの曲が流れていた。でも、今夜の『KOKOMO』は、いつもとは違う
響きを持っていた。まるでおまじないのように、僕ら二人だけの秘密の空間を包み込んでいる。

車は島の最北端、クエラ・ポイントの近くにある、険しい断崖の上で停まった。車を降りると、そこには言葉を失うほどの絶景が広がってた。

満天の星空。天の川がくっきりと夜空を横切り、見下ろす海は、星の光を反射して、まるで黒いビロードの上にダイヤモンドを散りばめたように輝いていた。

波の音が、はるか下方から重低音となって響いてくる。そこはまさに、地図に載っていない、隠された楽園だった。

「ここはね、私が本当に苦しい時に一人で来る場所なの」

エミリは車のボンネットに腰掛け、夜空を見上げながら言った。「私は、アジアの血と、白人の血が混ざっている。この島では、それは珍しいことじゃない。でもね、どこに行っても、私は『半分(ハーフ)』として見られるの。

本当のアメリカ人でもない、
本当のアジア人でもない。
自分がどこに属しているのか、時々わからなくなる。

だから、誰も私のことを知らない、地図に載っていない場所へ行きたいって、ずっと思ってた」

彼女の告白は、僕の胸に深く突き刺さった。バブルの東京で、周囲と同じになれないことに悩んでいた僕の矮小な苦悩など、彼女の抱える孤独の深さに比べれば、砂粒のようなものだった。「言葉が完璧に通じないあなただから、話せたのかもね」と、彼女は少し照れたように笑った。

「エミリ、僕は……」

僕は言葉を探した。
彼女の孤独を癒やすような、気の利いた言葉を。しかし、僕の拙い英語では、胸の中にある爆発しそうな感情を表現することはできなかった。

ただ、彼女の手を強く握りしめるこ
としかできなかった。
エミリは僕の顔を見つめ、その瞳に星の光を映した。そして、静かに顔を近づけてきた。僕らはその夜、星空の下で、静かに唇を重ねた。

それは、生涯忘れることのできない、夜空に溶けるような、甘くて切ないキスだった。
ハワイの夜風が、僕らの髪を優しく揺らしていた。エミリの唇からは、かすかにマツモトシェイブアイスの、あの甘いシロップの香りがしたような気がした。

「私、ここを出て行くよ。自分だけのココモを探しに」

キスを交わした後、彼女は決意に満ちた声でそう言った。その瞳に、もう迷いはなかった。僕は、彼女のその旅立ちを、心から応援しようと思った。たとえ、その未来に僕が一緒にいられなかったとしても。それが、僕のハワイの夏の、本当の終わりだった。


エ ピ ロ ー グ
そ ろ そ ろ 、 出 掛 け よ う か

現代。
曲が終わり、静寂が戻ったリビングルーム。

最後の一音が空気中に溶けて消えると、僕はゆっくりと目を開けた。窓の外には、相変わらず東京の、少し霞んだ秋の空が広がっている。さっきまで肌に感じていた、あのノースショアの激しい潮風も、星空の冷気も、すべては三十数年前の過去の幻影へと戻っていった。

手の中には、ビーチ・ボーイズのCDケースが、確かな重みを持って残されているだけだった。

あれから、僕は予定通り日本に帰り、普通の会社に就職し、バブルの崩壊を経験し、いくつもの恋をして、そして今の年齢になった。

エミリとは、あの夜以来、一度も会っていない。彼女がその後、オアフ島を出てどこへ向かったのか、ニューヨークなのか、あるいはヨーロッパのどこかなのか、それとも、結局ハワイにとどまったのか、僕には知る由もない。携帯電話も、インターネットもない時代の一期一会だ。

一度連絡が途絶えれば、それは永遠の別れを意味していた。
僕の恋は実らなかった。
エミリを射止めたのは僕ではなかったし、彼女の人生の伴侶になることもできなかった。

客観的に見れば、それはただの、若き日の苦い失恋に過ぎないのかもしれない。羨ましくもあり、悔しくもあり。あの時、ブランドンのジープを見送った時の胸の痛みは、今でも思い出すだけで、かすかに胸の奥をチクリと刺す。

けれど、と思う。あの夏の、あの眩しすぎる日差しも、エミリの「Aloha」という声も、マツモト
シェイブアイスの冷たさも、そして星空の下でのあのキスも、すべてが今の僕という人間に血肉を与えてくれている。

あの悔しさがあったからこそ、僕は東京に戻ってから、自分の足で必死に生きていく覚悟ができたのだ。
報われなかった想い出こそが、時として、人間を最も深く、優しく形作ることがある。

「KOKOMO」——地図に載っていない、隠された楽園。

エミリは自分だけの楽園を見つけられただろうか。
今どこかで、素敵な誰かと一緒に、あのスチールドラムの音を聴いているだろうか。
そうであってほしいと、心から願う。そして、僕自身の心の中にも、あの夏以来、誰にも奪うことのできない「ココモ」が、静かに存在し続けている。

このCD棚の奥から、いつでも引っ張り出すことができる、僕だけの聖域だ。
そろそろ、また出掛けたくなったなあ。

僕はソファから立ち上がり、スマートフォンの画面をロック解除した。配信アプリを開けば何でも聴ける時代だが、僕はあえて、航空会社の予約サイトのアイコンをタップした。

行き先を入力する欄には、迷わず「HNL」の三文字を打ち込む。ホノルル国際空港。そこからレンタカーを借りて、再びあのパイナップル畑の道を抜け、ノースショアへと向かうのだ。

あの頃のような若さも、逞しい身体もない。ハレイワの街も、すっかり観光地化されて変わってしまっているかもしれない。

マツモトシェイブアイスには、もっと長い行列ができているだろう。けれど、あの強い貿易風と、塩の匂いは、きっと今も変わらずに僕を迎えてくれるはずだ。

「もう夏なんていらん」と言いながら、僕はまた、次の夏を探しにいく。老け込むには、まだ少し早すぎる。

僕の心の中に、あの『KOKOMO』のイントロが、今も鮮やかに鳴り響いている限り、僕たちの夏は、どこまでも続いていくのだから。

( 了 )




Amazon Kindle




【あとがき】

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

『KOKOMO 〜地図にない楽園〜』は、夏という季節と、音楽が持つ記憶の力について書いてみたいと思ったことから始まりました。

人は年齢を重ねるほど、「あの時こうしていれば」と思う場面が増える気がします。

会いたかった人。
言えなかった言葉。
選ばなかった道。
届かなかった想い。

けれど、それらは失敗だったのかと言えば、必ずしもそうではない。

報われなかった恋も、傷ついた記憶も、悔しさも嫉妬も、振り返れば自分という人間を形作る大切な一部になっている。

主人公のカズにとってエミリは、人生の伴侶にはならなかったかもしれません。しかし、彼女との出会いは確かに彼の人生を動かした。

きっと誰の人生にも、そういう人が一人くらいいるのではないでしょうか。

そして、「ココモ」とは場所ではなく、心の中にある“帰りたくなる記憶”なのかもしれません。

もしこの物語を読み終えたあと、あなたが昔好きだった音楽を久しぶりに聴きたくなったり、少し旅に出たくなったりしたなら、作者としてとても嬉しく思います。

また別の物語でお会いできたら幸いです。