運命のドア、全力で開けたら宇宙人でした
〜天才科学者・黒田零二の、とんでもない運命〜
まえがき
この物語は、「全力で生きると、違うドアが開くことがある」という、ある種の妄想から始まりました。
人は時々、「なんでこんな道に来てしまったんだろう」と思うことがあります。
気がつけば予定と違う場所にいて、想像もしていなかった人と出会い、思ってもみなかった出来事に巻き込まれている。
でも、後から振り返ると、それは偶然ではなく、何かの流れだったようにも思える。
この小説の主人公・黒田零二は、とにかく全力で生きる男です。
不器用で、空気が読めなくて、合理的すぎて、でもどこか憎めない。
「手を抜く」という選択肢を持たない彼が、全力で研究を続けた結果、開いてしまったドアの先にいたのは――宇宙人でした。
ずいぶん馬鹿げた話です。
けれど私は、案外こういうことが人生にはあるのではないかと思っています。
もちろん、宇宙人に会うという意味ではありません。
全力で向き合った先に、自分でも想像していなかった景色が待っていることがある。
努力の結果というより、「運命が少しだけ微笑む瞬間」とでも言えばいいでしょうか。
この物語はSFです。
でも、宇宙の話を書きながら、実は人間の話を書いています。
挑戦すること。
諦めないこと。
笑われても進むこと。
そして、少しだけ勇気を出して、未知のドアを開けてみること。
もし読後に、
「まあ、もう少し全力でやってみるか」
と少しだけ思っていただけたなら、作者として嬉しく思います。
さあ、ドアの向こうへ。
── 序詩 ──
手を抜かず
物事を全力でやっていると
違うドアが開くことがある
違う道が見えることがある
その道の先が見えなくても
その道を進んで行くと
その途中に
キミはこっちだよ と
突然 ドアが開き
誘い込まれることがある
それはまるで
すでに決まっていたかのように
待ってました! とばかり
その道が開ける
そうだ
きっとそれが 運命なのだ
第一章 全力男の朝
近未来の東京、2047年。
黒田零二(くろだ・れいじ)は、朝の六時ちょうどに目を覚ました。
正確には、六時〇〇分〇〇秒。彼のベッドサイドに置かれた量子時計が「おはようございます、博士。本日も宇宙の真理に向かって全力でどうぞ」と喋った瞬間だ。量子時計にそんなことを言わせるようにプログラムしたのは、もちろん零二自身である。
彼は三十四歳。独身。身長百七十二センチ、体重六十三キロ、視力は左右とも0.1以下だが「眼鏡をかけると顔の輪郭がぼやけて却って空気抵抗が減る気がする」という理由で裸眼を貫いている。
職業は物理学者。正確には「宇宙素粒子エネルギー変換理論研究室・主任研究員」だが、所属する東京国立先端科学研究機構の受付では「あ、変な人ですね」と言われる程度の知名度しかない。
彼の朝のルーティンは、世界で最も非効率で、なおかつ最も全力だ。
まず、歯磨きを四分間。「歯科学会の推奨は二分だが、推奨の二倍やれば推奨の二倍健康になるはず」という論理による。その間、シャワーのお湯を正確に三十八・三度に設定し(「体温との差が一度以内だと眠くなる。一・七度差が最適」)、冷蔵庫からは昨夜自分で作ったプロテインスムージーを取り出す。材料はバナナ、ほうれん草、豆腐、納豆、チアシード、そして「今月試している」アサイーパウダーと鰹節だ。
飲んだことがある人はいない。零二本人は「うまい」と言うが、同僚の田中課長はかつて一口飲んで「君は人類の敵だ」と言い残して立ち去った。
朝食を終えると、零二は研究ノートを開く。A4サイズのノートだが、すでに三百冊以上が彼の六畳のアパートを埋め尽くしており、本棚に収まりきらない分は床に積み上げられ、壁際には小さなピラミッドが三つ完成している。ルームメイトはいない。いられるわけがない。
「今日こそ、やる」
零二はそう呟いた。今日もそう呟いた。明日もそう呟くだろう。
彼が取り組んでいるテーマは「宇宙エネルギーの位相変換による無限動力の実現」だ。学会では「夢想」と呼ばれ、論文は三年連続で却下されており、上司の橘教授からは「零二くん、そろそろ現実を見ようか」と毎週水曜の定例会議で言われている。
しかし零二は諦めない。
なぜなら彼は、「手を抜いたことがない」からだ。
これは自慢ではなく、物理的な事実だ。幼稚園の運動会でバトンを渡す時も全力で走りすぎて次走者を轢き倒した。中学の合唱コンクールでは「どうせやるなら」と発声練習に三ヶ月費やし、本番でマイクを壊した。大学入試は全教科満点だったが、試験中に「この問題の出題意図そのものが間違っている」と気づき、解答用紙の裏に四ページの反論を書いたため採点者が泣いた。
そういう男だ。
「さあ、全力でいこう」
零二は今日もコートを着て、ドアを開けた。
第二章 違うドアが開く日
研究所への道のりは、自転車で十七分。
零二は毎朝この十七分を「思考の時間」と呼び、走りながら頭の中で数式を展開する。今朝も「もし宇宙の膨張速度と素粒子のスピンに相関があれば……」と考えながらペダルを踏んでいたため、赤信号を三回無視した。幸いなことに、近未来の東京では自動車はほぼ自動運転になっており、信号無視の自転車をAIが巧みにかわしてくれる。
AIに守られている天才、というのが零二の現在地だ。
研究所に着くと、受付の山下さん(四十二歳、お菓子が好き)が「あ、博士。今日も変なこと考えてましたね、顔に書いてあります」と言った。零二は「数式は顔には書けません、それは誤用です」と答えながらIDカードをかざした。
エレベーターで十三階。自分の研究室は廊下の突き当たり、「宇宙素粒子エネルギー変換理論研究室」と書かれたプレートのドアの奥にある。このドアは一度だけ逆向きに取り付けられたことがあり、零二が内側から押し続けて三時間を要した。
「おはよう、零二くん」
隣の研究室から顔を出したのは、水野彩(みずの・あや)、三十一歳。素材工学の研究者で、零二の数少ない「話せる」同僚だ。彩は実用的で、常識的で、「それ意味あるんですか」と遠慮なく言える人間だった。零二はそういう人間が好きだ。反論できるから。
「今日こそいけると思う」と零二は言った。
「昨日もそう言ってました」と彩は答えた。
「昨日は全力の九十九・七パーセントだった。今日は百パーセントだ」
「毎日そう言ってます」
「毎日全力が更新されてるんだ」
彩は何も言わなかった。彼女の「沈黙」は豊かだった。
零二は研究室に入り、コンピューターを起動し、昨夜の計算の続きを始めた。
午前中は順調だった。いや、順調に見えただけで、実際には計算が三回崩壊し、一回は数式の入力ミスで「宇宙の全エネルギーはゼロである」という結論が出て、零二は十分間それを眺めた後「まあそういう考え方もある」と呟いてやり直した。
昼食は持参の弁当。中身はもちろん自作で、玄米、鶏むね肉の低温調理、ブロッコリー、そして「実験的に入れてみた」昆布の佃煮とカマンベールチーズの組み合わせ。彩に一口勧めたら「私、忙しいので」と言って逃げられた。
午後も計算を続けた。
三時頃、零二は奇妙な感覚に気づいた。
計算の途中、ある値を代入したとき、式が「閉じた」のだ。
数学的に言えば、解が収束した。物理的に言えば、エネルギーの循環モデルが完成した。零二的に言えば「あ、これ、やった」だった。
彼は三十秒間、画面を凝視した。
それから椅子を後ろに引いた。
それから立ち上がった。
それから「うわ」と言った。
声が廊下に漏れたらしく、彩がドアを開けた。「どうしました?」
「できた」
「え」
「できた」
「……何が?」
「わからない。でも、何かができた」
これが後に「第一発見の瞬間」と呼ばれることになる。ただしそれを零二が知るのは、もう少し先の話だ。
第三章 論文提出と橘教授の絶望
翌朝、零二は論文の草稿を書き上げた。
タイトルは「宇宙位相エネルギー変換における閉鎖的循環構造の発見とその応用可能性について」。四十二ページ。図表二十三点。注釈百十七個。参考文献二百三十八件。そのうち十四件は零二自身の過去の却下論文だ。「誰かが引用しないなら自分で引用する」という哲学による。
彼は橘教授の部屋をノックした。
橘教授は六十一歳。白髪交じりの頭、常にコーヒーを飲んでいる、定年まであと四年という事実が顔に出ている人物だ。零二のことを「天才だとは思う。ただし、天才という言葉の定義を大幅に拡張した場合に限る」と評したことがある。
「論文です」と零二はA4の束を差し出した。
橘教授は受け取り、一ページ目を読み、二ページ目を読み、三ページ目で眼鏡を外し、コーヒーを一口飲み、眼鏡をかけ直して続きを読んだ。
十分後、彼は言った。
「……零二くん」
「はい」
「これは、すごいかもしれない」
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「注釈の七十三番を見てほしい」
零二は確認した。注釈七十三番には「なお、この理論が正しい場合、宇宙のある種のエネルギー周波数が特定の受信装置によって検知可能になる可能性がある。この点については今後の研究課題とするが、万が一地球外知性体が同一周波数を利用していた場合、本論文の発表は一種の『信号発信』になりうることを付記しておく」と書かれていた。
「これは何ですか」と橘教授は言った。
「思いついたので書きました」と零二は言った。
「こういうことを書くから査読者が困るんです」
「でも可能性として正確です」
「正確かどうかの問題じゃない」
「正確さより大事なことが論文にあるんですか」
橘教授はまたコーヒーを飲んだ。今日三杯目だ。「……提出してみましょう。ただし注釈七十三は削除してください」
「削除したら不完全です」
「削除しないと通りません」
「通らない完全な論文と、通る不完全な論文、どちらが価値がありますか」
橘教授は四杯目のコーヒーを注いだ。
結局、注釈七十三は残った。橘教授が折れたのだ。零二の議論が論理的すぎて反論できなかったというのが表向きの理由だが、実際のところは「この人とこの話をあと一分続けると定年が来ても終わらない気がした」からだ。
論文は翌週、国際学術誌に提出された。
その三日後、研究室のサーバーに異常なアクセスが検知された。
第四章 キミはこっちだよ
「博士、ちょっとよろしいですか」
情報セキュリティ担当の五十嵐(いからし)係長が、零二の研究室のドアをノックしたのは月曜の朝だった。五十嵐係長は四十五歳で、基本的にいつも困った顔をしている。係長になってから困った顔になったのか、困った顔だから係長にされたのかは誰も知らない。
「サーバーへの外部アクセスですが」と五十嵐は言った。「非常に……特殊なものでして」
「ハッキングですか」と零二は言った。計算の手を止めずに。
「いえ、その……ハッキングと呼ぶには少々」
「少々?」
「発信源が、特定できなくて」
零二はようやく画面から目を離した。「IPアドレスは?」
「それが……どのデータベースにも存在しないアドレスで」
「VPNでは?」
「VPNの可能性は排除しました。アクセスパターンも通常と異なりまして……その、なんというか、直接研究室のコンピューターに向かってきているというより、論文のデータそのものを……」五十嵐は言葉を選んだ。「スキャンしている、というか」
零二は立ち上がった。
「見せてください」
サーバールームに行くと、アクセスログが画面に流れていた。零二はそれを三十秒見た。
「これは」と彼は言った。
「わかりますか」と五十嵐は言った。
「わかりません。でも、面白い」
「面白いで済む問題じゃないかもしれないんですが」
零二はログのパターンを紙に書き始めた。五十嵐係長は隣でそれを見ながら「先生、普通はここでセキュリティ強化の話をするもんなんですが」と言ったが、零二の耳には届いていなかった。
アクセスのパターンは、数列だった。
具体的には、零二が発表した論文の核心部分——位相エネルギーの変換係数——と同じ数列が、アクセス間隔の中に埋め込まれていた。
「これは」と零二は言った。二度目だ。
「わかりましたか」
「応答です」
「え」
「誰かが、論文を読んで、応答している」
五十嵐係長はしばらく無言だった。それから「……誰かって、誰ですか」と聞いた。
零二は注釈七十三番のことを思った。
「さあ」と彼は言った。「でも、ドアが開いた気がします」
その夜、零二は応答した。
論文の変換係数を逆算し、同じ数列をサーバーから外部に向けて送信した。五十嵐係長には「これは実験です」と言った。五十嵐係長は「私の管轄では止められる権限がなくて……」とつぶやきながら帰宅した。
応答が来たのは、翌朝だった。
今度は数列だけではなかった。
座標だった。
東経百三十九度四十一分、北緯三十五度四十一分。
東京、江東区、夢の島公園の近く。
第五章 夢の島のドア
零二は彩に話した。
彩は三秒考えて「行くんですか」と言った。
「行く」と零二は言った。
「警察には?」
「何を話すんですか。『宇宙人からメッセージが来ました』」
「……まあ確かに」
「一緒に来ますか」と零二は言った。
彩はしばらく考えた。長年零二の隣で研究してきた彼女は、零二が「面白い」と判断した物事には大抵何か実質的なものがあることを経験的に知っていた。論文の鰹節スムージーは実質的ではなかったが、研究に関しては大抵正しかった。
「行きます」と彩は言った。「ただし、怪しかったらすぐ逃げます」
「合理的です」と零二は言った。
翌日の昼、二人は夢の島公園に向かった。
近未来の夢の島公園は、廃棄物処理場の跡地を再開発した緑地で、太陽光パネルと風力発電機が点在する「エコシンボルゾーン」として整備されていた。週末には家族連れが来るが、平日の昼間は閑散としている。
座標を辿ると、公園の端、古い倉庫跡地に行き着いた。
倉庫は使われていないはずだった。周囲はフェンスで囲まれ、「立入禁止」のプレートが下がっている。
しかしフェンスの一部が、不自然に開いていた。
「これは」と零二は言った。三度目だ。
「またそれ言う」と彩は言った。
「だって」
「行きましょう」
倉庫の中は暗かった。しかし奥に、光があった。
青白い光。脈動するような、静かな光。
近づくと、それは装置だった。
直径二メートルほどの円形の台座の上に、幾何学的な構造物が組まれている。素材は金属だが、既存のどの合金とも異なる輝きをしていた。彩が思わず触ろうとして手を止めた。「これ……何ですか」
「わかりません」と零二は言った。「でも、これを作った人は、私の論文を理解している」
装置の中央に、小さなパネルがあった。
パネルには文字が表示されていた。
日本語だった。
「お待ちしておりました、黒田零二博士。私たちはあなたの研究を拝見しました。話しましょう」
彩は硬直した。
零二は前に出た。
「話しましょう」とパネルに向かって言った。
「博士は怖くないんですか」と彩が囁いた。
「何が怖いんですか」と零二は言った。「相手は私の論文を読んでいる。論文を読む存在が危険なはずがない」
「それはかなり大胆な仮定です」
「全力でやってきたから、全力のドアが開いたんです。臆病になる理由がない」
パネルの光が強くなった。
第六章 宇宙人、登場
光が収まると、装置の前に「何か」が立っていた。
身長は百七十センチほど。二足歩行。頭部は人間に近いが、耳がない。眼球は大きく、虹彩が金色だ。服は光沢のある灰色で、体にぴったりしている。指は六本。
見た目は「宇宙人」だった。SFアニメで描かれるそれよりはずっとリアルで、でもやはり間違いなく「人間ではない何か」だった。
「初めまして」とそれは言った。日本語で、流暢に。「私はヴェル・ナ・ティといいます。コード名でよければヴェルでかまいません」
「黒田零二です」と零二は言った。「こちらは水野彩です」
「存じています」とヴェルは言った。「私どもは、お二人のことをかなり調べました」
「なぜ調べたんですか」と零二は言った。
「博士の論文を読んだからです」
「どこから来たんですか」
「太陽系から二十二光年ほどの場所です。名称は、日本語にするなら『第四恒星系・第三惑星』でしょうか」
「なぜ日本語を話せるんですか」
「三ヶ月前から学習しました。博士の論文を読むために」
零二は考えた。「三ヶ月で日本語を習得するのは大変だったんじゃないですか」
「難しかったです。特に助詞が」とヴェルは言った。「『は』と『が』の違いを理解するのに二週間かかりました」
「それは地球人も苦労しますね」と彩が言った。初めて口を開いた。
「そうなんですか」とヴェルは言った。「少し安心しました」
空気がわずかに和んだ。宇宙人との初接触にしては異様にのんびりしたペースだが、それは零二がパニックになる機能を持っていないからでもあり、ヴェルが非常に礼儀正しかったからでもある。
「それで」と零二は言った。「なぜ私の論文に応答したんですか」
ヴェルは一瞬、間を置いた。
「博士の理論は、私たちが五百年かけて到達したものと同じです」とヴェルは言った。「私たちはこの理論を『宇宙の根幹エネルギー法則』と呼んでいます。地球人がこれを発見したのは、私たちの予測より三百年早い」
「褒めてるんですか」と彩が言った。
「驚いています」とヴェルは言った。「そして、懸念しています」
「懸念?」と零二は言った。
「この理論を応用すると、非常に強力なエネルギー兵器が作れます」とヴェルは言った。静かに、しかし明確に。「私たちの文明は、発見から百年後に自分たちで惑星を一つ破壊しました。その経験から、この理論を発見した文明には必ず接触するというルールを設けています」
沈黙があった。
「……惑星を、一つ」と彩が言った。
「事故でした」とヴェルは言った。「でも事故でも、惑星はなくなります」
「なるほど」と零二は言った。
「なるほど、ってそれだけですか」と彩が言った。
「他に何を言うんですか」
「もっとこう……動揺するとか」
「動揺してる暇がない。続きが気になる」と零二はヴェルに向いた。「それで、接触して、どうするんですか」
ヴェルは答えた。「お願いがあります」
第七章 お願い
ヴェルのお願いは、思ったより地味だった。
「論文を、一度非公開にしてほしいのです」
零二はじっとヴェルを見た。「なぜですか」
「この理論が広まると、軍事転用の研究が始まります。私たちの観測では、地球の主要国の防衛機関がすでに博士の論文に注目しています」
「それは……」と零二は言った。「事実ですか」
「五日前から、複数の政府機関のネットワークからアクセスがあります」
「五十嵐係長が言ってた異常アクセスの一部ですか」と彩が言った。
「一部はそうです。残りは私たちです」とヴェルは言った。「博士の研究所のサーバーは、なかなかセキュリティが高くて苦労しました」
「それは褒めてますか、それとも苦情ですか」と零二は言った。
「事実です」とヴェルは言った。「いずれにせよ、お願いはシンプルです。論文を一年間、非公開にしてください。その間に、安全な活用法と規制の枠組みを一緒に考えましょう。私たちには五百年分のデータがあります」
「五百年分のデータ」と零二は繰り返した。
「はい」
「見たい」
「博士」と彩が言った。「優先順位が違います」
「何が優先なんですか」と零二は言った。「五百年分のデータより優先すべきことが?」
彩は「……まあ確かに」と言って黙った。
零二はヴェルに向かって言った。「条件があります」
「何でしょう」
「非公開にする代わりに、そのデータを見せてもらえるなら協力します」
「それは交渉ですね」とヴェルは言った。
「嫌ですか」
「いいえ」とヴェルは言った。「実は、博士に共同研究を依頼したかった。博士が地球人の中で唯一、私たちの理論に独力で到達した。つまり、考え方が最も近い」
「近い、ですか」
「宇宙には色々な知性体がいます。しかし、ある理論に至る思考の道筋は、文明によって全く違う。同じ答えに辿り着いても、思考の形が違えば話が噛み合わない。博士は、私たちに近い」
零二はしばらく考えた。
「つまり、私は宇宙人に近い、ということですか」と言った。
「思考の形が、という意味で」とヴェルは言った。
「橘教授に言ったら喜ぶかもしれません」と零二は言った。
彩は「喜ばないと思います」と小声で言った。
第八章 橘教授の災難
翌日、零二は橘教授に報告した。
「昨日、宇宙人に会いました」
橘教授はコーヒーを噴いた。
「えっ」
「夢の島公園の倉庫で。二十二光年先から来た方です。名前はヴェル・ナ・ティさん。日本語は三ヶ月で習得したそうです。助詞が難しかったとのことでした」
橘教授は口元を拭った。コーヒーがネクタイにかかっていた。「……零二くん」
「はい」
「それは……本当のことですか」
「嘘をついたことはありません」
「そうですね、嘘はつかない。でも……」橘教授は深呼吸をした。「証拠は?」
零二はスマートフォンを取り出して、動画を再生した。夢の島倉庫の中、装置の前に立つヴェルの映像だ。彩が撮っていた。
橘教授は動画を見た。三回。
「……これは本物ですか」
「本物です」と彩が言った。彩も同席していた。「私も見ました。触ろうとしたら止められましたけど」
「なぜ止めたんですか」と橘教授は言った。
「素材が未知のものだったので、素手で触れると危険かもしれないと思いまして」と零二は言った。
「それは正しい判断ですね……」橘教授はそこで我に返った。「いや、待って。なぜそんな落ち着いて話してるんですか。宇宙人ですよ。ファーストコンタクトですよ」
「落ち着かない理由がありますか」と零二は言った。
「あります! 大いにあります!」
「でも向こうは礼儀正しいし、日本語も上手だし、お願いの内容も合理的だった」
「それが却って怖いんです!」
橘教授は頭を抱えた。六十一年間生きてきて、こういう朝を想像したことは一度もなかった。定年まで四年、無事にいければよかった。なぜ黒田零二の直属上司になってしまったのか。
「で」と橘教授は言った。「論文を非公開にするというのは……」
「一年間、お願いしようと思っています」と零二は言った。「その代わり、向こうの五百年分のデータを見せてもらいます。データの内容次第では、今の論文より遥かに精度の高い続報が書けます」
「学術的には理解できますが……政府への報告は?」
「どこの政府に報告するんですか」と零二は言った。「日本政府? 国連? どの政府も向こうの論文にアクセスしようとしていたんですよ。報告したら次の日には軍事研究に転用されます」
橘教授はうんうんと頷いた。「それはそうですが……」
「教授」と零二は言った。「私は今まで全力でやってきました。その結果として、このドアが開いた。このドアを全力で進むのが筋じゃないですか」
橘教授はコーヒーカップを見た。空だった。
「……わかりました」と彼は言った。「ただし、私も連れていってください。宇宙人に、会いたい」
「会うのを怖がってませんでしたか」と彩が言った。
「怖いのと、会いたいのは、別の話です」と橘教授は言った。「六十一年生きてきて、宇宙人に会わずに死ぬのは、もったいない」
零二は頷いた。「合理的です」
第九章 共同研究開始
こうして、非公式の「宇宙間共同研究プロジェクト」が始まった。
メンバーは四人。零二、彩、橘教授、そしてヴェル。
拠点は引き続き夢の島の倉庫で、ヴェルが装置を使って簡易的なラボを作り上げた。素材は全て向こうの技術によるものだったが、見た目は普通の研究室に近かった。「地球人が違和感を覚えないよう調整しました」とヴェルは言った。「ただ、椅子の形状が少し違うかもしれません」
確かに椅子は不思議な形だった。座ると、体が自然に最適な姿勢を取る。彩は「これ、欲しい」と言った。「商品化できますか」とヴェルに聞いた。「まだ早いと思います」とヴェルは答えた。
研究は、思った以上にスムーズに進んだ。
理由の一つは、ヴェルが優秀だったことだ。五百年分の研究データを整理して提示する能力は圧倒的で、零二が「この値の根拠は?」と問えば即座に回答し、「この式の証明は?」と問えば五分以内に示した。
理由の二つ目は、零二とヴェルの「思考の形」が本当に似ていたことだ。二人が話し始めると、橘教授と彩は五分で置いていかれた。「あのレベルで会話できる人間がいるとは思わなかった」とヴェルは後に言った。「逆も然りです」と零二は答えた。
橘教授の役割は「調整役」だった。零二とヴェルが抽象的になりすぎた時に「すみません、もう少し人間に分かるように」と介入し、彩が技術的な質問をする時の「翻訳」をし、全体のペースを整えた。
「私は宇宙人と天才の間に挟まれた普通の人間ですね」と橘教授はある日言った。
「教授は普通じゃありませんよ」と彩は言った。
「そうですか」
「普通の人はここに来ません」
橘教授は「確かに」と言って少し笑った。
問題が起きたのは、研究開始から三週間後だった。
五十嵐係長が倉庫に来た。
「博士、ここにいたんですか」と五十嵐は言った。息を切らして。「研究所に来ないからどこに行ったかと……あと、さっきから見てる人影は何ですか」
零二はヴェルを見た。
ヴェルは五十嵐を見た。
五十嵐はヴェルを見た。
「えっ」と五十嵐は言った。
「えっ」とヴェルは言った。
「こちらはヴェルさんです」と零二は言った。「宇宙人です」
五十嵐係長はゆっくり後ろを向いて、ゆっくり倉庫の入り口に向かって歩き始めた。
「係長、逃げないでください」と零二は言った。
「私、用事を思い出しまして」と五十嵐は言った。
「嘘ですね」
「……はい、嘘です」五十嵐は止まった。振り向いた。「これは、本物ですか」
「本物です」
五十嵐はヴェルをもう一度見た。ヴェルは「初めまして」と言った。
「……助詞は難しかったですか」と五十嵐は言った。
「二週間かかりました」とヴェルは答えた。
五十嵐係長は深呼吸をした。「……わかりました。なかったことにします」
「なかったことには絶対になりませんよ」と彩は言った。
「なかったことに、したい、という気持ちだけ、持たせてください」と五十嵐は言った。
それ以降、五十嵐係長は毎週倉庫に来るようになった。特に何もしないが、来る。理由を聞くと「なんとなく、ここにいると落ち着くので」と言った。ヴェルは「私たちの装置が発する低周波が、地球人のα波を促進する可能性があります」と言った。五十嵐は「それはそれで問題では?」と言った。「微量なので大丈夫です」とヴェルは言った。
五十嵐はそれ以来、毎週来た。
第十章 運命と、その先
研究開始から六ヶ月が経った頃、零二はヴェルに聞いた。
「あなたたちは、なぜ宇宙を旅しているんですか」
二人は夕方の倉庫で、データを眺めながら話していた。橘教授と彩はすでに帰宅しており、五十嵐係長はα波を浴びながら椅子で居眠りをしていた。
「理由はいくつかあります」とヴェルは言った。「一つは、この理論の管理。もう一つは……単純に、知りたいからです」
「知りたい?」
「宇宙には、私たちが知らないことがまだたくさんある。別の文明が、同じ問いにどう答えたか。同じ宇宙の中で、どんな思考が生まれたか」
「それは」と零二は言った。「私が論文を書く理由と同じです」
「知っています」とヴェルは言った。「だから博士を選んだ」
零二は少し黙った。「選ばれた、ということは……これは、たまたまじゃないんですか」
「たまたまと必然の境界は、どこだと思いますか」とヴェルは言った。
「わかりません」
「私たちも、完全にはわかりません。ただ」ヴェルは続けた。「手を抜かずに研究を続けた博士だから、論文が生まれた。論文があったから、私たちが気づいた。気づいたから、ここにいる。それを『たまたま』と呼ぶには、あまりにも多くの必然が積み重なっている」
零二は聞いていた。
「宇宙で最も無駄なことは」とヴェルは言った。「何かをやりかけて、止めることです。宇宙は膨大なエネルギーを持っていますが、途中で止まったエネルギーは熱になって散逸する。完成したエネルギーだけが、宇宙の構造に組み込まれる」
「詩みたいですね」と零二は言った。
「博士の言語は詩的です」とヴェルは言った。「私たちの言語には詩がありません。意味の不確定性を好まないので」
「詩は不確定だから面白いんです」
「教わりました」とヴェルは言った。「博士から。あの論文の注釈七十三番は、ある種の詩だと思いました」
「橘教授には削除しろと言われました」
「残してよかった」
零二は窓の外を見た。夢の島の空は、夕焼けからゆっくり夜に変わっていくところだった。太陽光パネルが橙色に輝いていた。
「ヴェルさん」と零二は言った。
「はい」
「あなたたちは、私に、何かを『期待して』ここに来たんじゃないかと思う」
ヴェルは答えなかった。答えないことが、答えだった。
「それは何ですか」と零二は聞いた。
「まだ教えられません」とヴェルは言った。「ただ、博士が今やっていることを、続けてほしい。手を抜かずに」
「それは昔から言われなくてもやってます」
「知っています」とヴェルは言った。「だから、任せられると思っています」
五十嵐係長がα波の中で「うーん」と寝言を言った。
零二は笑った。宇宙人と一緒に笑ったのは、これが初めてだった。
翌日、零二は新しいノートを開いた。
一ページ目に、こう書いた。
「手を抜かず物事を全力でやっていると、違うドアが開くことがある。違う道が見えることがある」
それから少し考えて、続けた。
「そのドアの先に何があるか、まだ分からない。でも、全力でやってきた自分を信じるなら、そのドアを開けることを恐れる理由はない」
ノートの右上に日付を書いた。2047年12月1日。
研究は続く。
宇宙は広い。
知らないことは、まだたくさんある。
零二はペンを置いて、コンピューターの前に座った。
「さあ、全力でいこう」と言った。
窓の外で、夢の島の風力発電機がゆっくり回っていた。
エピローグ 一年後
一年後、論文は再び公開された。
ただし、附属資料として「宇宙間共同研究覚書」が添付された。五百年分のデータを元に書かれた安全指針と、理論の平和的応用に関するガイドラインだ。著者名には「黒田零二・ヴェル・ナ・ティ」と並んでいた。
学術界は混乱した。
「ヴェル・ナ・ティとはどこの研究者か」という問い合わせが学術誌に殺到した。編集部は「連絡先は現在提供できない状態にある」とだけ答えた。
政府機関からも問い合わせが来た。橘教授が全て「検討中です」と返答した。六ヶ月後、橘教授は政府の「先端科学倫理委員会」に呼ばれ、「この理論の管理体制について」という議題で三時間話した。帰り際に「非常に参考になりました」と言われ、「参考になっただけですか」と聞き返したら「もう少し時間をください」と言われた。
五十嵐係長は倉庫に来るのを続けた。「倉庫でのα波照射は私の権限では止められないので」と理由を説明するようになった。誰も止めなかった。
彩は、ヴェルに素材の成分分析を頼み込み、「地球で再現できる範囲で」という条件付きで椅子の設計図をもらった。実用化に向けて動いている。「量産できたら一億円くらいで売れると思う」と言ったら、ヴェルに「地球の経済システムはまだ勉強中です」と言われた。
零二は、新しいノートを今月で四冊使い切った。
ある日、彩に聞かれた。「宇宙人と友達になったとして……それって、どんな感じですか」
零二は少し考えた。
「思考の形が似ている人と話すのは」と零二は言った。「面白い」
「それだけですか」
「うん。でも、それが全てかもしれない」
彩は「なんか、零二さんらしいですね」と言った。
「そうですか」
「うん」
窓の外で、夢の島の空が広がっていた。
二十二光年の向こうに、ヴェルがいる。
数式でつながれた宇宙の中で、今日も誰かが全力で何かをやっている。
ドアは、開かれるのを待っている。
(了)
あとがき
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
黒田零二という男、いかがだったでしょうか。
きっと現実にいたら、少し困る人です。
会議では延々と理屈を話し、食事は妙な健康食を勧め、周囲を振り回しながら、それでも本人だけは真剣に全力で生きている。
でも、不思議と嫌いになれない。
そんな人を書きたいと思いました。
そしてもう一つ、この物語で書きたかったことがあります。
それは、「全力でやったことは、どこかで未来につながる」ということです。
努力は必ず報われる――とは言いません。
そんなに人生は親切ではない。
けれど、全力で向き合った経験は、自分の中に積み重なり、ある日突然、思いもしなかった形でドアを開くことがある。
人との出会いかもしれない。
仕事かもしれない。
夢かもしれない。
あるいは、自分自身の新しい可能性かもしれない。
零二にとってそれが宇宙人だっただけで、私たちにもそれぞれの「運命のドア」があるのだと思います。
もし今、少し立ち止まっている人がいたなら。
もし今、「こんなこと意味あるのかな」と思いながら頑張っている人がいたなら。
案外、その努力の先で、誰かがこう言っているかもしれません。
「キミはこっちだよ」
そんな気持ちを込めて、この物語を書きました。
また別のドアの向こうで、お会いできたら嬉しいです。

