時限の峠
—宇津ノ谷 記憶の道—

神崎誠一の旅は、先祖が仕込んだ
時限装置によって始まった。
「この峠を知ったのは 遥か昔」
——宇津ノ谷峠にて


【まえがき】

人は、ある年齢になると、なぜか昔の道を歩きたくなることがあります。
神社仏閣を巡りたくなったり、古い街道を歩いてみたくなったり、歴史の本を手に取ったり。
若いころには興味もなかったのに、なぜだろう。
この物語を書きながら、私はふと、そんなことを考えていました。
もしかしたら、それは偶然ではないのかもしれません。
遠い昔、誰かが歩いた道。
命がけで峠を越えた人々。
その記憶が、血のどこかに静かに残り、ある日突然、時限装置のように動き始める。
「お前も歩いてみろ」と。
『時限の峠 ― 宇津ノ谷 記憶の道 ―』は、そんな想像から生まれた物語です。
静岡と焼津を結ぶ宇津ノ谷峠。
平安の昔から、人が歩き、恐れ、越えてきた道。
そこには、言葉にならない記憶が積もっている気がしました。
もしこの本を読み終えたあと、少しだけ旅に出たくなったり、古いアルバムを開きたくなったり、誰かに電話をかけたくなったなら——
作者として、とても嬉しく思います。
どうぞ、神崎誠一と一緒に、時を越える峠道へ。




第一章 蔦の細道

道の駅「宇津ノ谷峠」の駐車場に車を停めたとき、午前十時をわずかに過ぎていた。
神崎誠一は五十二歳になっていた。白いものが増えた髪を短く刈り込み、膝の悪い左足をかばうように歩く癖がついてからもう五年になる。妻の久子は去年の春に家を出た。息子の亮は大阪で自分の家族を持ち、盆と正月にしか顔を見せない。
誠一は今日、ひとりでここへ来た。
理由を問われれば、うまく答えられなかっただろう。強いて言えば——何かに呼ばれた、としか言いようがない。
子供のころ、ラジオから流れる落語を聴いた。談志師匠が語る慶安太平記。峠に潜む山賊、鼻を摘ままれてもわからない闇、旅人の命をさらう魔の道。誠一は布団の中で身震いしながら、その話を聴いた。宇津ノ谷という名前が、そのとき初めて胸の奥に刻まれた。
三十数年が流れた。
去年、神田伯山の講談を寄席で聴いた。またしても宇津ノ谷が出てきた。まるで、あのころの記憶の封蝋が、ゆっくりと溶け始めたかのように。
誠一は登山用の靴紐を結び直し、ザックを背負った。
静岡側の入り口に、古い石碑が立っていた。「蔦の細道」と刻まれている。平安のころから続く道だという。
一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
木々の密度が急に増し、空が細くなった。五月の光が葉の間から落ちてくるが、その光は地面に届くころにはもう青ざめている。足元は湿った落ち葉と剥き出しの根が入り組んでいて、確かに危ない。膝をかばいながら歩くには、神経がいる。
誰とも会わなかった。
十分ほど登ったところで、誠一は足を止めた。
汗をぬぐい、水を飲む。木立の向こうに、静岡の街並みがかすかに見えた。遥か下に見えるその光景は、どこか非現実的だった。あちらが現実で、こちらが——
そのとき、誠一は見た。
道の脇、大きな杉の根元に、何かが光っていた。
土の中から、半分だけ顔を出している。金属ではない。石でもない。光そのものが、その形をとっているような——
誠一は膝をついた。
触れると、ひどく冷たかった。冬の水のような冷たさ。だが、手を離せなかった。指先から、何かが流れ込んでくる。映像ではない。音でもない。強いて言えば——記憶、だった。
自分のものではない記憶。
藁草履の感触。重い荷物。雨の臭い。そして恐怖。深い、純粋な恐怖。
誠一が意識を失ったのは、その直後だった。

第二章 享保十七年の峠

目が覚めると、道が変わっていた。
同じ山道だった。だが、アスファルトの欠片も、ガードロープも、案内板もない。土の道が、ただそこにあった。
誠一は立ち上がり、周囲を見回した。空は同じ五月の空だった。しかし光の質が違った。もっと直接的な、フィルターのない光。
足元を見ると、自分の足が草鞋を履いていた。
パニックになる前に、誠一は深呼吸をした。五十二年間生きてきて身についた、冷静さの習慣。まず状況を把握する。
登山靴は消えていた。ジーパンとウィンドブレーカーは残っている。ザックもある。だが中身を確かめると、スマートフォンは砂のようにぼろぼろと崩れて消えた。
代わりに、草鞋があった。
「おぬし、どこから来た」
声がした。
振り返ると、道の脇の木陰に、老人が座っていた。笠をかぶり、杖を持ち、旅装束をしている。年は七十前後か。顔に深い皺が刻まれているが、目だけが妙に鋭かった。
「……静岡から、です」
正直に答えた。嘘をつく理由が思い浮かばなかった。
「ほう。府中から来たか」老人は頷いた。「この峠を越えれば、岡部だ。気をつけて行くがよい」
「あの——今は何年ですか」
老人は不思議そうに誠一を見た。「何年? 享保十七年じゃ。なんだ、正気か」
享保十七年。西暦に直せば一七三二年。
誠一は、それでも落ち着いていた。自分でも驚くほど落ち着いていた。まるで——こうなることを、どこかで知っていたかのように。
「この峠は、危ないですか」
「危ない?」老人は低く笑った。「命がけよ。夜は特に。だが昼間でも、ゴマのハエが出る」
ゴマのハエ——旅人を狙う追い剥ぎの隠語だ。慶安太平記で聴いた言葉が、突然リアルな重さを持った。
「いっしょに峠を越えませんか」誠一は言った。
老人はしばらく誠一を見つめ、それから静かに立ち上がった。「よかろう」
老人の名は、惣右衛門といった。江戸から伊勢参りに向かう途中だという。息子夫婦と同居しているが、若いころから続けてきた毎年の伊勢詣でだけはやめられない、と言った。
「息子は心配するが」と惣右衛門は笑った。「わしにはわしの足がある。この足で歩かねば、生きている甲斐がない」
誠一は、何かがちくりと胸を刺すのを感じた。
ふたりは峠道を登った。惣右衛門の足取りは、その年齢に似合わず確かだった。何十回も越えてきた道だというのが、歩き方からわかった。
峠の頂上近くで、突然、茂みが揺れた。
三人の男が飛び出してきた。手に棒を持ち、目に据わった光がある。追い剥ぎだった。
「荷物置いて行け」男のひとりが怒鳴った。「命だけは助けてやる」
惣右衛門は動じなかった。杖を両手で持ち、静かに構えた。老人の目が、さっきとは別の光を帯びた。
誠一は咄嗟に、ザックから水筒を取り出した。ステンレスの重い水筒。武器になるかもしれない。
男たちは一瞬、戸惑った。誠一の装束が、彼らの知っているどんな旅人とも違ったからだろう。
その隙に、惣右衛門が動いた。
杖が空気を切った。先頭の男の手首を打ち、棒を弾き飛ばす。次の一撃が、男の膝を払う。老人の体から、長年の旅と修練で培われた何かが、迸るように放たれた。
残り二人の男は、顔を見合わせ、走って逃げた。
惣右衛門は杖を地面につき、ため息をついた。「やれやれ、困ったものだ」
誠一はしばらく呆然としていた。それから、笑いが込み上げてきた。
「強いですね」
「若いころ、剣術を少し」惣右衛門は照れくさそうに言った。「しかし、あなたの持っているそれは、何です?」
誠一は水筒を見た。「水を入れる、容れ物です」
「鉄でできておる?」
「はい」
「珍しい。よほど裕福な家の方とお見受けする」
誠一は苦笑した。「そういうわけでも……」
峠を越え、岡部側に下り始めたとき、誠一の視界がぐらついた。また、あの感覚が来た。手の届かない場所から、何かに引っ張られるような。
「惣右衛門さん」誠一は立ち止まった。「私は、もうすぐここを離れなければならない気がします」
老人は不思議そうに誠一を見た。「どこへ」
「遠い場所へ。でも——」誠一は一瞬躊躇し、それから言った。「あなたの子孫が、この峠をまた歩くかもしれない。そのとき、怖がらせないでください」
惣右衛門は、長い沈黙のあと、微笑んだ。「変わった方だ。しかし……わかった」
光が強くなった。
誠一の意識が、また遠のいた。

第三章 明治の闇

次に目が覚めたとき、誠一はトンネルの入り口に立っていた。
レンガ造りのアーチ。古い工法で積まれた、赤茶色のレンガが、半円を描いている。内部は真の闇だった。電灯はない。
外の光から推して、夕暮れ時だろう。
草鞋は消え、また登山靴に戻っていた。しかし、周囲の風景は変わっていた。明らかに江戸時代ではない。それでも現代でもない。
石畳の道。洋装の人影がちらほら見える。男たちは洋帽をかぶり、女たちは着物に袴という格好が混在している。
明治——誠一はすぐに判断した。このトンネルは、明治のトンネルだ。道の駅の案内板に書いてあった。明治時代に開通した、東海道初の有料トンネル。
「おい、あんた」
声をかけてきたのは、若い男だった。二十代前半、学生風の洋装をしている。眼鏡をかけ、手に帳面を持っていた。
「このトンネル、今夜は通れないよ。崩落があったって話だ」
「崩落?」
「昨日の雨で。修理に来た人夫が閉じ込められたとかで、今、救助中なんだ」
誠一は状況を飲み込んだ。「閉じ込められた人は何人ですか」
「三人だと聞いた。しかし誰も助けに入れない。危なくてね」
若者は心配そうにトンネルを見ている。誠一は、その横顔を見ながら、妙な既視感を覚えた。
「あなたは?」と誠一は聞いた。
「岡田といいます。東京から来た、記者の卵で」若者は苦笑した。「助けに入りたいのだが、一人では」
誠一はザックから懐中電灯を取り出した。予備の電池も入っている。現代から持ってきた道具が、この時代でも機能しているらしい。
「いっしょに行きましょう」
岡田は目を丸くした。「あなたは?」
「神崎です。——行けば、わかります」
ふたりはトンネルへ入った。
闇は深かった。懐中電灯の光が、レンガの壁を照らす。水が滴る音。遠くから、かすかにうめき声が聞こえた。
百メートルほど進んだところに、崩落があった。天井の一部が落ち、岩と土が道を塞いでいた。しかし完全には塞がれておらず、人が這えるほどの隙間がある。
声を上げると、向こうから返事が来た。三人とも生きている。ひとりが足を怪我しているようだった。
「懐中電灯を渡します。これで向こうから這い出て来られますか?」
作業員の声が返ってきた。「……やってみます」
二十分かかった。三人全員が這い出てきたとき、誠一は岡田とともに彼らを支えて外へ出た。夕空の下で、作業員たちは肩で息をしていた。
岡田は帳面に何かを書きつけていた。「あなたの名前を記事に書かせてください。神崎、さん」
「いらないです」誠一は笑った。「私は通りすがりなので」
「しかし——あの懐中電灯。あれは何ですか。こんなに明るい灯りは見たことがない」
誠一は少し考えた。「未来のものです」
岡田は真剣な顔で誠一を見た。「冗談ですか」
「冗談です」と言いながら、誠一は半分本気だった。
「神崎さん」岡田は言った。「あなたは、不思議な人だ。どこへ行くんですか」
「峠を越えて、向こう側へ」
それが答えのすべてだった。
岡田は深く頭を下げた。「ありがとうございました。いつか——いつか、あなたのような人間になりたい」
誠一は何も言えなかった。二十代のころの自分は、こんなにまっすぐだっただろうか。
また、光が来た。

第四章 大正の雨

大正のトンネルは、雨の中にあった。
誠一が次に立っていたのは、別のトンネルの前だった。コンクリート製で、明治のレンガよりも近代的だが、まだ昭和の匂いはしない。雨が強く降っている。
トンネルの前の小屋に、番人らしい老人がいた。料金所だ——大正時代、このトンネルは有料だったと、案内板に書いてあった。
誠一が近づくと、老人は顔を上げた。
「通行料は二銭だよ」
誠一はポケットを探った。もちろん、大正時代の硬貨など持っていない。困っていると、老人はじっと誠一を見て、首を振った。
「いい。あんたの顔を見れば、わかる。遠くから来た人だ」
「……どうしてわかりますか」
老人は静かに笑った。「儂はね、長くここにいる。時々、あんたみたいな人が来る。この峠から峠へ、ふらふらと歩いてる人が。みんな、同じ目をしてる」
「同じ目?」
「探してる目だよ。何かを」
雨音が強くなった。誠一は老人の小屋の軒先を借りて、雨宿りをした。老人は熱い茶を出してくれた。
「あんたは、何を探してる?」老人は聞いた。
誠一は考えた。正直に答えたい気持ちがあった。
「わかりません。でも——ここへ来なければならない、という気がして」
「そういうもんだよ」老人は頷いた。「この峠はね、人を呼ぶ。先祖が歩いた道を、子孫が歩きたくなる。血の中に、記憶が入ってる。そう思わないかい?」
誠一は動きを止めた。
「儂の父もここを歩いた。江戸から続く家だが、父の父も、そのまた父も、みんなここを歩いたと聞いた。で、儂はここに住み着いた。結局、ここが好きなんだよ」
老人は遠くを見た。雨の向こうに、山の稜線がかすんでいた。
「あんたにも、そういう先祖がいるんじゃないか」
誠一の胸に、何かが広がった。享保の惣右衛門。明治の岡田。——そして、もっと遠い昔の、名も知れぬ誰か。
「いるかもしれません」誠一は静かに言った。
「きっとな」老人は笑った。「だから儂がここにいるのも、あんたがここへ来たのも、たぶん同じことだよ」
雨は小降りになってきた。誠一は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「気をつけて行きな」老人は言った。「この先、まだ峠がある」
誠一は頷き、トンネルへと入った。
コンクリートの壁を伝って、雨水が滴っている。誠一は歩きながら、老人の言葉を反芻した。
この峠は、人を呼ぶ——
時限装置のように。ある年齢になったとき、突然起動して、ここへと向かわせる装置が、血の中に仕込まれている。
そう考えると、自分がここへ来たことが、初めて腑に落ちた気がした。
また、光が来た。

第五章 昭和の記憶

昭和のトンネルは、もっとも長かった。
コンクリートの壁、白い蛍光灯、自動車が通れる幅。一九五〇年代のものだろう——壁の古び方から、誠一は推測した。
このトンネルには、誰もいなかった。
ただ、誠一の足音だけが響いた。
歩きながら、誠一は考えた。
享保の惣右衛門は、生きていたなら今頃とっくに死んでいる。明治の岡田も、大正の老人番人も。しかし、彼らの子孫はどこかで生きているかもしれない。
そして——自分の先祖は?
父は静岡の出身だった。その父の父は、どこの出身だったか。誠一はうまく思い出せなかった。家系の記録を、ちゃんと調べたことがない。
しかし、もしかしたら——
もしかしたら、自分の先祖のうちの誰かが、この峠を歩いたかもしれない。江戸時代に、あるいは平安のころに。重い荷物を背負って、命がけで。そして、その記憶を血の中に刻んで、子孫に手渡した。
そういう「渡し方」があるのだとしたら——
あの杉の根元にあった光るものは、何だったのか。
誠一はザックを下ろし、中を探った。光るものは、まだそこにあった。手に取ると、また冷たかった。しかし今回は、映像が来なかった。代わりに、静かな確信のようなものが、手から伝わってきた。
これは、先祖のものだ——と、誠一は根拠なく確信した。
誰かがここに置いていった。何百年も前に。後の誰かが見つけるように。
「ばかな話だ」と誠一は口に出して言った。それでも、その確信は揺らがなかった。
トンネルの出口に、光が見えてきた。
誠一は歩き続けた。
出口を出ると、現代だった。
アスファルトの道。遠くに高速道路の高架。新幹線のパンタグラフが、稜線の向こうを流れていった。
スマートフォンを取り出すと、画面がついた。午後二時三十七分。入山してから四時間以上が経過していた。しかしバッテリーの残量は、出発時と同じだった。
誠一は峠道を下り始めた。
足が重かった。しかし、不思議と気持ちは軽かった。

第六章 集落の老婆

下山の途中、古い集落を通り抜けた。
石畳の路地。江戸時代から続くという、かつての宿場の名残。建物は現代のものに建て替えられているが、その配置と路地の形は、何百年も変わっていないように見えた。
路地の奥で、老婆がひとり、縁台に座っていた。
八十を超えているかもしれない。小さな体で、膝の上に猫を乗せ、ぼんやりと空を見ていた。
誠一が通りかかると、老婆は視線を向けた。
「峠から来なすった?」
「はい」
「何か、見えました?」
誠一は足を止めた。老婆の目に、普通ではない何かがあった。
「……色々と」
老婆は微笑んだ。「そう。ここはね、見える人には見える。この辺りに長く住んでると、わかるようになる。あの峠は、普通の場所じゃない」
「あなたも、何か見たことがありますか」
「若いころね」老婆は猫の背を撫でた。「戦争が終わる少し前。空襲の音が遠くに聞こえた夜に、峠道を歩いたら——江戸の旅人が見えた気がした。ただの見間違いかもしれないけれど」
老婆の声は静かだった。諦念でも恐れでもなく、ただ穏やかに、その記憶を語っていた。
「でも、怖くなかった。むしろ、ほっとした。世界が終わるような気がしていたとき、ずっとここにいる人たちの姿を見て——ああ、人間はずっとここを歩いてきたんだって」
誠一は、老婆の隣の縁台に腰を下ろした。「少しだけ、座っていいですか」
「どうぞ。お茶でも出しましょうか」
「いえ、結構です。ただ……話を聞かせてください」
老婆は微笑んだ。「珍しいお客さんだ」
ふたりはしばらく、黙って空を見ていた。
「あなたは、この峠に何を求めてきたんですか」と老婆が聞いた。
誠一は正直に答えた。「わかりません。呼ばれた気がして」
「そう。それで十分」老婆は頷いた。「この峠はね、答えをくれる場所じゃない。問いを与える場所。あなたは今日、何かを問われた。その答えは、これから生きていく中で見つける」
「……それは、長い時間がかかりそうだ」
「そうね」老婆は笑った。「でも、あなたはまだ若い」
五十二歳を若いと言われるのは、久しぶりだった。
誠一は立ち上がり、頭を下げた。「ありがとうございました」
「気をつけて」老婆は言った。「また来なさい。この峠は、何度でも呼びますよ」

第七章 時限装置

車に戻ったのは、午後三時を過ぎたころだった。
誠一は運転席に座り、しばらく動けなかった。体は疲れていた。しかし、くたびれた感じとは違った。使い切った、という感じだった。
あれは夢だったか。
ザックの中を探ると、光るものはまだあった。手に取ると、今はもう光っていなかった。ただの石のように見えた。小さく、平べったく、表面がなめらかな、灰色の石。
しかし——冷たかった。
やはり、冷たかった。
誠一はその石を手のひらに乗せ、しばらく見つめた。
惣右衛門は実在したのか。岡田は。大正の老番人は。
確かめる方法はない。しかし、誠一には確信があった。彼らは実在した。この峠を歩いた無数の旅人のうちの、ほんの三人にすぎないが、確かにそこにいた。
そして——自分もまた、その連鎖の中にいる。
誠一の父は、若いころに東海道を自転車で旅したと言っていた。宇津ノ谷は通ったが、当時はトンネルしかなくてと言っていた。その父の父は、終戦直後にこの道を歩いて東京に戻ったと聞いた。
では、その前は? その前の前は?
記録は途絶えている。しかし、記憶は途絶えていない。血の中に、密かに刻まれて、世代を超えて手渡されてきた。
ある年齢になったとき、時限装置のように、それが破裂する。
「呼ばれた気がして」と誠一は今日、老婆に言った。それは正確な表現だった。誰かに呼ばれたのだ。正確には——先祖たちに。
あんたの番だぞ、と。
この道を歩いて来い、と。
そうして、誠一はここに来た。
彼は石をポケットにしまい、エンジンをかけた。
帰る前に、もう一度だけ峠のほうを振り返った。山は静かだった。五月の光の中で、緑が揺れている。
また来る——と誠一は思った。
次は、小夜の中山に行ってみよう。それとも、箱根のもっと奥か。
先祖たちが歩いた道は、まだたくさん残っている。
時限装置は、まだ働き続けている。

終章 峠は待っている

その夜、誠一は自宅に戻り、父の遺した古い写真を引っ張り出した。
段ボール箱の底から出てきたアルバムをめくると、白黒の写真が並んでいた。父の若いころ。父の父。さらに古い、明治か大正のころの——誠一には面識もない遠い先祖たち。
みな、まっすぐカメラを見ている。
誠一は写真を一枚一枚眺めながら、今日の峠道を思い返した。
この人たちの誰かが——と誠一は考えた。この人たちの誰かが、宇津ノ谷を歩いたかもしれない。藁草履で、重い荷を背負って、闇と山賊を恐れながら。
しかし歩いた。歩き切った。そして、その記憶を血の中に残した。
何のために。
後の誰かが、同じ道を歩けるように。
誠一は写真を閉じ、ポケットから石を取り出した。
冷たさは、もう消えていた。
室温と変わらない、ただの石になっていた。
役目を果たした、のかもしれない。
誠一はその石を、窓辺に置いた。月明かりの中で、石は静かに光を受けていた。
明日、亮に電話してみよう——と誠一は思った。大阪で子育てに忙しい息子に。宇津ノ谷の話をしてみよう。興味を持つかどうかはわからない。しかし、種を蒔いておくのも悪くない。
いつかあの子も、ある年齢になったとき——
時限装置が破裂して、峠へと向かうかもしれない。
峠は、待っている。
平安のころから、江戸のころから、明治大正昭和を経て、今もそこに立ち続けて。
蔦の細道は今日も薄暗く、旅人を待っている。
神崎誠一は窓の外を見た。
空に、満月が出ていた。
同じ月を、惣右衛門も見ただろう。岡田も。大正の老番人も。戦争の夜に峠を見上げた老婆も。
そして、誠一の知らない先祖たちも、みんな——この月を見上げて、峠を越えてきた。
誠一は、ゆっくりと笑った。
疲れた体が、少し軽くなった気がした。

——了——


宇津ノ谷峠



【あとがき】

最後まで峠道をご一緒いただき、ありがとうございました。
宇津ノ谷峠は、実際に歩くと不思議な場所です。
現代の道路やトンネルのすぐそばに、平安から続く古道があり、江戸、明治、大正、昭和、そして現代が、まるで地層のように重なっています。
少し歩くだけで、「時間」が目に見えるような感覚になります。
この物語の主人公・神崎誠一は五十二歳です。
若くはない。でも、まだ終わっていない。
仕事、家族、老い、孤独、そしてこれからの人生。
ふと立ち止まり、「自分はどこへ向かうのだろう」と思い始める年齢です。
そんな時、人は案外、未来ではなく過去に導かれるのかもしれません。
先祖の歩いた道、父が語った記憶、自分が忘れていた風景。
それらに触れることで、もう一度、自分の歩く道が見えてくる。
神崎にとって宇津ノ谷がそうだったように、読者の皆さまにも、それぞれの「呼ばれる場所」があるのではないでしょうか。
峠でも、海でも、故郷でも、一冊の古い本でも。
もし思い当たる場所があるなら、ぜひ足を運んでみてください。
案外そこに、次の人生へ向かう小さな時限装置が眠っているかもしれません。
またどこかの峠道で、お会いできますように。



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