箱根八里
異世界道中膝栗毛

― 石畳、踏めば江戸也 ―

「馬でも越すが、現代人は迷子になる」


作:山田彦八(会社員・三十七歳) 記



【まえがき】

箱根という場所は、不思議な場所です。

温泉があり、山があり、歴史があり、そしてなぜか、人間を少しだけ立ち止まらせる力があります。

私もある日、箱根旧東海道の石畳を歩きました。

最初は軽い気持ちでした。「歴史の道でも歩いてみるか」そんな程度の気持ちです。

ところが歩いてみると、思いのほか足が痛い。石畳は想像以上に険しく、江戸の旅人たちを尊敬せざるを得ませんでした。

そしてふと思ったのです。

もし、この石畳のどこかに、“時代の隙間”みたいな場所があったらどうだろう。

もし、歴史上の人物が、どこかで時間に取り残されていたら。

もし、坂本龍馬が言葉どおりに「日本を洗濯」していたら。

もし、赤穂浪士が討ち入り前夜に団子に負けていたら。

そんな妄想から、この物語は始まりました。

これは異世界の話です。

でも、もしかすると異世界というのは遠い宇宙ではなく、私たちが普段見過ごしている景色のすぐ横にあるのかもしれません。

少し疲れた人。毎日を何となく過ごしている人。仕事も人生も「まあこんなもんか」と思っている人。

そんな誰かに、石畳を一緒に歩く気分で読んでいただけたら嬉しいです。

ただし、七十三枚目だけは、くれぐれもお気をつけください。




登場人物

◉ 山田彦八(やまだひこはち)
本名・山田浩二。神奈川県某市在住の会社員、三十七歳。妻なし、子なし、ローンあり。課長に名前を覚えられていない。存在感の薄さにおいて社内で右に出る者なし。口癖は「え、マジすか」と「あとでいいですか」。スマホの電池が常に残り三パーセントという現代的な宿痾を抱える。見た目は普通の、ごく普通の男。

◉ 神崎与五郎重成(かんざきよごろうしげなり)
赤穂四十七士の一人。元禄十五年の討ち入り前夜、「少し休んでいこう」と立ち寄った箱根の茶屋で団子を食べ、気づけば三百年以上が経過している。本人はまだ「今夜討ち入る」つもりでいる。団子への執着は異常の域を超えており、もはや求道の境地に達している。目が鋭いが、団子の前では子供のように目を細める。

◉ 茶屋のおばば
齢のほどは縄文から江戸にかけてという感じで、見当もつかない。腰が九十度に曲がっているが、その曲がり方が完璧すぎて威厳がある。石畳の主であるという噂がある。お茶を勧めるのが仕事で、断られると静かに拗ねるが、翌朝にはケロッとしている。正体不明。ただし団子は本当に旨い。

◉ 坂本龍馬(さかもとりょうま)
幕末の志士。「日本を今一度、洗濯いたさんにゃ」という言葉を文字通り解釈し、石畳を雑巾がけしている。おかげで旧街道の石畳は幕末より美しい。現代の観光客が「保存状態が素晴らしい」と感嘆するのはこの男のおかげである。なぜ箱根にいるのかは本人も把握していないが、雑巾がけをやめる気はない。

◉ 山田甚兵衛(やまだじんべえ)
浩二の六代前の先祖。天保年間に江戸から京へ向かう途中、この茶屋に立ち寄り、お茶を一杯飲んでそのまま居着いた。女房と子供三人を江戸に残してきた事実に対して、本人は「しょうがない」という顔をしている。普段は縁台で居眠りをしているが、団子と酒の話になると突然元気になる。

◉ 行基(ぎょうき)
奈良時代の高僧。石畳を六十九枚で止まると出てくる。とても良い人なのだが、説法が長い。一度話し始めると三時間は止まらない。弟子を二十人ほど連れており、弟子たちも話が長い。

◉ 清少納言(せいしょうなごん)
平安時代の女流作家。石畳を七十五枚踏むと出てくる。言葉が通じないのかと思いきや、現代語にも対応している。何かにつけて「をかし」と言う。浩二のスマホを見て三十分固まった。


序 幕

序の一
五月晴れの箱根、されど地獄の渋滞
― またの名を「来るんじゃなかった」の段 ―

時は令和。五月の連休。

世に言うゴールデンウィークとは、一体誰が名付けたのか。金色に輝く休日のはずが、どこへ行っても人だらけ、道は詰まり、飯屋は満席、駐車場は三時間待ち。ゴールデンどころか、業火で炙られているような状況である。

山田浩二、三十七歳。神奈川県某市在住の会社員。妻なし、子なし、ローンあり。会社では「ヤマダくん、今日来てたっけ?」と課長に言われ続けて十二年。存在感の薄さにおいては社内で右に出る者なし。というより、誰も右も左も向いていない。

そんな男が、なぜ箱根の旧街道を目指しているのか。

理由は単純かつ、非常に馬鹿馬鹿しい。

友人の神崎誠二から、こんなメッセージが届いたからだ。


【神崎(LINE、午前九時十七分)】
来い。箱根旧東海道。茶屋がある。うまい。


以上。情報量が江戸時代のかわら版以下である。「うまい」の一言が指すものが食事なのか景色なのか人物なのか、まったく不明なまま、浩二はなぜかその日の午前十時には小田急線に乗っていた。

「行かなくていい」という選択肢は、浩二の脳内に存在しなかった。これを世間では「押しに弱い」と言うが、浩二はそれすら気づいていない。ただ「神崎が来いと言った」という事実だけがあり、気がつけば電車の中だった。電池は三パーセント。いつも通りだった。

新宿からロマンスカーに乗り換え、窓の外を流れる相模の山々を眺めていると、悪くない気分になってきた。久しぶりの旅の気分、というより、久しぶりに家の外に出た気分だった。去年の連休も、一昨年の連休も、家でゲームをして終わった。その前の年はゲームすらせず、ただ寝ていた。だから今年は実質三年ぶりの「外出」と言っていい。


【浩二(心の声)】
箱根か。風情があっていいな。温泉でも入れればもっといいんだが。神崎の奴、どんな茶屋を見つけたんだ。


などと思っているうちに、ロマンスカーは箱根湯本に着いた。

改札を出た瞬間、浩二の心の中の「風情」は、音を立てて崩れ落ちた。

人である。人、人、人。どこを向いても人。家族連れ、カップル、団体旅行客、外国人観光客、そして浩二のように「とりあえず来てしまった」系の迷い人。駅前の通りは芋洗い状態で、名物の温泉まんじゅう屋には長蛇の列が出来ており、列に並んでいる人々の顔には「並んでいる自分への疑問」が滲んでいた。

浩二はスマホを取り出して神崎に「着いた」と送ろうとした。電池三パーセント。節電モードに切り替えた。送った。既読がついた。返信がなかった。

これも日常だった。

【注】箱根湯本は神奈川県足柄下郡箱根町の温泉地。年間三〇〇万人以上が訪れる人気観光地であり、ゴールデンウィーク中は特に混雑する。浩二が来た日の箱根湯本の人出は、観測史上三番目に多かったという記録がある(出典:浩二の主観)。

駅前から県道を少し歩くと、旧東海道への案内板が出てきた。浩二はそれを読み間違えて、最初の三十分、温泉街を迷走した。案内板の「→旧東海道」という矢印を「←」だと思い込んでいたのが原因である。なぜそう思い込んだのかは、浩二自身にもわからない。

三度道を誤り、一度は旅館の玄関に迷い込み(「チェックインはまだですか」と言われた)、ようやく旧街道の入口にたどり着いたのは、箱根湯本に着いてから四十分後のことだった。

入口に、木製の標識があった。「旧東海道」と書かれた、古びた木の標識。その向こうに、石畳が続いていた。


序の二
石畳の道、その静けさについて
― 江戸の気配を感じ始める前に足が痛くなる話 ―

石畳に入った瞬間、世界が変わった。

観光客の声が、ぷっつりと消えた。

正確には、消えたのではなく遠くなった。でも石畳の道の中にいると、それは別の世界の音のようで、自分には関係がないように感じられた。杉の木が空を狭め、木漏れ日が石の上に細い光の筋を引いている。踏み出すと、足の裏に石の硬さと、わずかな凹凸が伝わってきた。

古い。

これは、古い。

浩二は立ち止まって、足元の石を見た。黒く、少し艶のある玄武岩。雨に濡れたような光沢があるが、今日は晴れだ。この艶は雨ではなく、何万という人間の足が長い年月をかけて磨いた艶だ。

江戸時代、ここを何十万もの人間が歩いた。参勤交代の大名行列が、旅の商人が、脱藩する志士が、逃げる罪人が、嫁入りの駕籠が、巡礼の老人が、みんなここを通った。その足が、この石を磨いた。

浩二はしゃがんで、石に触れた。ひんやりとして、硬くて、少しだけ湿っていた。

……と、詩的な感慨に浸ったのも、最初の五分だけである。

石畳というものは、見た目は趣があっていいが、歩くとなると話が違う。表面が均一ではなく、石と石の継ぎ目に足をとられる。傾斜がある。急である。浩二の履いているスニーカーは底が薄めのタイプで、石の硬さが足の裏にダイレクトに来る。さらに右足の小指の付け根あたりが、わずかに靴擦れし始めていた。

【注】箱根旧東海道の石畳は、江戸時代のものを保存している区間と後世に整備された区間が混在している。傾斜がきつい箇所も多く、底の薄い靴での挑戦は推奨されない。浩二のスニーカーは昨年のセールで三千円で購入したものであり、石畳対応とはとても言えない代物だった。

それでも浩二は歩いた。なぜなら引き返す理由が思いつかなかったからだ。

前に進む積極的な理由も特にないが、引き返す理由もない。こういう時、人間は前に進む。進んでいる方が、少なくとも「何かをしている」という気分になれるからだ。

浩二は歩きながら、石畳を数えることにした。特に意味はない。ただ、なんとなく数えたくなった。

一枚、二枚、三枚……

木々の間から差し込む光が、時間によって角度を変える。十枚を過ぎる頃には、周囲の人影が完全に消えていた。前後に誰もいない。風の音と、遠い鳥の声と、自分の足音だけが石畳の道に響いていた。

二十枚、三十枚、四十枚……

足が慣れてきた。石の凹凸のリズムが、少しずつわかってきた。どこが平らで、どこが少し傾いているか。最初は怖かったのに、今は心地よかった。

五十枚、六十枚、七十枚……

七十枚目を踏んだあたりで、浩二の頭の中に何かが引っかかった。数字、七十三。なぜか「七十三」という数字が、理由もなくぼんやりと浮かんでいる。意味はわからない。ただそこに、在る。

七十一枚、七十二枚——

そして浩二は、七十三枚目の石畳を踏んだ。


ずぼんっ。


石が沈んだ。

いや、石が沈んだのではなく、浩二が沈んだ。足が、膝が、腰が、肩が、頭が、順番に石畳の中に引き込まれていく。溺れるような感覚ではなく、むしろ蛸壺に吸い込まれるような、するっとした感触だった。

最後に見えたのは、木漏れ日の中に揺れる一本の杉の梢だった。


第 一 幕


一の一
石畳の裏側、宇宙の底にて
― 転落の詳細、および茶屋との邂逅 ―

落ちた。

いや、落ちたというより吸い込まれた。あるいは迎え入れられた。表現が違うだけで現象は同じで、とにかく浩二は今、石畳の下にいる。

周囲は暗いが、完全な暗闇ではない。どこからとも知れない淡い光が満ちており、それが石畳を照らしている。石畳は、ここにもある。螺旋を描きながら下へと続く石畳の上に、浩二はへっぴり腰で立っている。

見上げると、穴がある。小さな穴の向こうに、木漏れ日が見える。自分は穴に落ちたということだが、この穴の直径は明らかに浩二の体より小さい。なぜ入れたのかが既に謎だ。

スマホを取り出した。電池三パーセント。圏外。通知ゼロ。

【注】圏外になったことで、浩二はむしろ安堵した。神崎への返信を考えずに済む。会社のチャットも来ない。世界から切り離された、ある種の自由。現代人がこれほど安堵するということは、日常がいかに通知に支配されているかの証左である。

しかし安堵している場合ではない。

浩二は螺旋の石畳を、一段ずつ降りた。

一段目。杉の香りが濃くなった。

二段目。空気がひんやりとした。

三段目。遠くで風の音がした。方向がわからない。

五段目。土と草の匂いが混じった。

七段目。馬の匂いがした。現代では嗅いだことのない匂いだが、なぜか「馬だ」とわかった。

九段目。煙の匂い。藁を燃やしたような。

十一段目。どこかで三味線の音がした。一曲弾いて、途切れた。

十三段目。子供の笑い声がかすかに聞こえ、すぐ消えた。

十五段目を踏んだ瞬間。


ぱあっ。


光が広がった。

眩しさに目を細め、次の瞬間には、浩二は土の地面の上に尻餅をついていた。お尻が痛い。柔らかい土の痛みだった。

目の前に、茶屋があった。

茅葺き屋根の、小さな茶屋。軒先に「甘酒・団子」と書かれた木の板が下がっており、縁台が三つ並んでいる。縁台の一つに、侍が腰掛けて団子を頬張っている。腰には刀。月代を剃った、四十がらみの男。

侍は浩二が目の前に現れても、特に驚いた様子がなかった。団子を食べながら、視線だけを向けてきた。


【侍】
「おう。また出てきたか。今度は何時代の者じゃ」

【浩二】
「……令和です」

【侍】
「れいわ。聞いたことがないの。明治の次の次の次くらいか。まあよかろう。団子を食うか」

【浩二】
「あの、ここはどこですか」

【侍】
「箱根じゃ。そなたが今まで居た場所と同じ山よ。ただ、時代が少々違う」


侍は名乗った。神崎与五郎重成。浩二でも名前くらいは知っている。忠臣蔵の四十七士の一人だ。


【注】神崎与五郎重成(一六六〇〜一七〇三)。赤穂藩士。大石内蔵助を中心とする四十七士の一員として吉良邸への討ち入りに参加したとされる。史実では本懐を遂げ、のちに泉岳寺に葬られている。……はずだが、この物語では討ち入り前夜に箱根の茶屋に立ち寄ったまま三百年以上が経過している。史実との齟齬については読者のご想像に委ねる。


【浩二】
「神崎与五郎さん……本物ですか」

【与五郎】
「本物以外のなんじゃ。赤穂の神崎与五郎重成じゃ。討ち入りは今夜の予定じゃ」

【浩二】
「今夜……三百年前の今夜では」

【与五郎】
「細かいことを言うな。団子を食え。醤油だれで、絶妙じゃ」


強引な話題転換だった。しかし団子は確かに美味そうだった。焦げ目のついた餅に、テリとした醤油だれ。香ばしい匂いが漂ってきた。

浩二の腹が、軽く鳴った。スニーカーで石畳を七十三枚歩いた後である。カロリーが要る。

しかし浩二はまだ、状況を整理できていなかった。


【浩二】
「えっと……整理させてください。ここは箱根で、時代は江戸で、あなたは神崎与五郎で、討ち入りは今夜の予定で、でも三百年経っていて、でも今夜の予定なんですね」

【与五郎】
「左様じゃ」

【浩二】
「……はあ」

【与五郎】
「難しく考えるな。ここでは時間というものが、少々怪しい」


少々怪しい、というのは随分と控えめな表現だと浩二は思ったが、黙っていた。与五郎が六串目の団子を食べ始めていたからだ。六串。一串に四つとして二十四個。それを、いつから食べているのか。

浩二は縁台に腰を下ろした。別の縁台の端に、もう一人いることに気づいた。上半身裸で鉢巻きを巻いた、大柄な男が、雑巾を手に持って、石畳の前にしゃがんでいた。


一の二
茶屋のおばばと、魔のお茶について
― 飲んだら最後、されど旨そうな件 ―

茶屋の奥から、おばばが出て来た。

のれんを手でかき分けて出てきたのだが、そののれんが風もないのにゆらりと揺れ続けているあたりから、既に怪しかった。

齢のほどは見当もつかない。「見当もつかない」という言葉は普通の範囲のことを指すが、おばばの場合は「見当をつけようとすると頭が痛くなる」という領域に達している。顔のしわが、地図のようだった。どこか遠い異国の地図のような、無数の細い線が、顔全体に走っている。でも目だけが、子供のように黒く澄んでいた。

腰は九十度に曲がっている。しかしその曲がり方が完璧すぎて、むしろ「意図的に曲げている」という印象を受けた。腰が曲がっているのではなく、曲がることを選んでいる。そういう雰囲気があった。

おばばは浩二を見て、にっこりした。そのにっこりに含まれる情報量が、異常に多かった。「よく来た」「また来た」「知ってた」「さあどうする」が全部、一つの笑顔に入っていた。


【おばば】
「おや、また迷い人かえ。今度はどこから来たの」

【浩二】
「え、令和から……箱根湯本の駅から来ました」

【おばば】
「令和ねえ。聞いたことない時代じゃ。最近の子はみんな元気そうじゃの。さ、お茶をお飲み。特別においしいやつじゃよ」


有無を言わさず、湯呑みが浩二の手の前に置かれた。

緑色のお茶だった。若草色というより少し深い、苔のような緑。しかし透き通っていて、底の白い湯呑みが透けて見える。湯気がゆっくりと立ち上り、その中に甘みのある香りが混じっていた。茶葉の香りに、何か別のものが混じっている。花のような、土のような、古い木のような、でも嫌な匂いではなく、むしろ懐かしいような香り。

旨そうだ。

非常に旨そうだ。

浩二が湯呑みに手を伸ばしかけた瞬間、隣から小声が飛んできた。


【与五郎(小声)】
「飲むな」

【浩二(小声)】
「え」

【与五郎(小声)】
「飲んだら最後じゃ。時が止まる。ここを出られなくなるぞ」

【浩二(小声)】
「え、じゃあ与五郎さんはなんで飲んだんですか」

【与五郎(小声)】
「……旨そうだったのじゃ」

【浩二(小声)】
「それだけですか」

【与五郎(小声)】
「それだけじゃ。飲んでみたら本当に旨くてな。二杯目を飲んだら出られなくなっておった」


二杯飲んだのか、と浩二は思った。一杯目でやめておけばよかったのでは。しかしそれを言うとまずい気がして、黙っていた。

浩二は湯呑みを手にしたまま、周囲を改めて観察した。鉢巻きの男が近くに来ていた。


【鉢巻きの男】
「おお、新顔か。ワシは坂本龍馬じゃ。土佐の。よう来た」

【浩二】
「坂本龍馬……本物ですか」

【龍馬】
「本物以外のなんじゃ。ワシは日本を今一度、洗濯いたさんにゃと思うておる」

【浩二】
「洗濯といえば、その雑巾は」

【龍馬】
「石畳を磨いておる。洗濯じゃ」

【浩二】
「……洗濯というのは、その、比喩的な意味で、日本の政治を刷新するという意味では」

【龍馬】
「比喩? 何が比喩じゃ。石畳は磨かなければ苔が生える。苔が生えたら滑る。滑ったら旅人が転ぶ。旅人が転んだら旅が滞る。旅が滞ったら商いが止まる。商いが止まったら民が困る。民が困ったら国が揺らぐ。国が揺らいだら日本が危ない。だから磨くのじゃ。石畳を磨くことがすなわち日本を磨くことじゃ。何がおかしい」


論理が一周して、確かに通っているように聞こえた。

龍馬は雑巾を持ち直し、縁台の前の石畳をごしごしと磨き始めた。本当に磨いていた。丁寧に、熱心に、愛情を込めて磨いていた。その磨き方から、本気であることが伝わってきた。

【注】坂本龍馬(一八三五〜一八六七)。土佐藩士。薩長同盟・大政奉還に尽力した。「日本を今一度せんたくいたし申候」は姉・乙女宛書簡の一節。龍馬がこれを文字通りの洗濯と解釈していたかどうかは歴史的に不明。なお、龍馬の雑巾がけのおかげで旧東海道の石畳は文化財として極めて良好な状態を保っている。


一の三
先祖の甚兵衛、案外元気な件
― 血筋とはかくも面倒なもの、の段 ―

茶屋の奥の暖簾が、また揺れた。

出てきたのは、着流し姿の男だった。五十がらみ。顔立ちが、なんとなく浩二に似ている。いや、似ているというか、浩二が老けたら多分こうなるだろうという感じがした。鼻の形が同じで、眉の太さが同じで、目の間隔が同じだった。

男は浩二を見て、「おや」という顔をした。それから「やっぱりな」という顔をした。それから団子を一串つかんで縁台に腰を下ろした。


【着流しの男】
「また子孫か。今度は何年の者じゃ」

【浩二】
「え……令和です」

【着流しの男】
「令和。聞かぬ時代じゃ。わしは天保の人間じゃ。おぬし、山田の血筋か。顔が似ておるの」

【浩二】
「……先祖、ですか」

【着流しの男】
「甚兵衛という。山田甚兵衛じゃ。おぬしから見れば……六代前かの。天保の頃に江戸から上方へ向かう途中でここに立ち寄った。良い茶屋じゃと思うてお茶を一杯飲んだら、出られなくなった」


先祖だった。

しかも極めて気軽に「また子孫か」と言っている。感動の再会のはずが、甚兵衛は既に何串食べたか数える気にもなれない団子を食べており、追加の一串を今まさに完食したところだった。


【浩二】
「六代前……天保というと、西暦でいつくらいですか」

【甚兵衛】
「西暦かえ。天保十二年、おぬしらの言い方では一八四一年じゃ。おぬしが生まれる百八十年ほど前じゃな」

【浩二】
「百八十年……それから、ずっとここに」

【甚兵衛】
「左様。団子が旨くてのう」

【浩二】
「団子が旨くて百八十年ここに居るんですか」

【甚兵衛】
「それだけではないが、まあ、団子が旨いことは確かじゃ」


浩二は少しの間、甚兵衛を観察した。

怒っているわけでも、悲しんでいるわけでも、喜んでいるわけでもなかった。ただ、穏やかだった。縁台に腰を下ろして、団子を食べて、時々居眠りをして、子孫が迷い込んでくると「また来たか」と声をかける。それが甚兵衛の日常になっていた。


【浩二】
「江戸に……女房と子供を残してきたんですよね」

甚兵衛の手が、少し止まった。


【甚兵衛】
「……おるよ。女房と、子が三人。一番下はまだ五つじゃった」

【浩二】
「帰りたくなかったんですか」

【甚兵衛】
(少しの間があって)「なりたかったよ。最初の頃は毎日思うた。女房の顔が浮かんだ。子供らの声が聞こえた気がした。でも、出られなかった。おばばがお茶を勧めてくる。断ろうとするんじゃが、断れなくて、飲んでしまう。飲むたびに時が止まる。気づいたら幕末になっておった」

【浩二】
「そのあとも、ずっと」

【甚兵衛】
「そのあとも、ずっとじゃ。与五郎殿が来てな、一緒に団子を食べるようになって、それからは、まあ、悪くないと思うようになった」


甚兵衛は視線を遠くにやった。


【甚兵衛】
「おぬしが生まれたことは、知っておるよ。子孫が迷い込んでくるたびに、聞いておる。浩二という名も知っておる。女房も子も孫も、ここから見えるわけではないが、なんとなく、わかる。ここはそういう場所じゃ」


浩二は何も言えなかった。

甚兵衛は団子を一串、浩二の前に差し出した。


【甚兵衛】
「食べるか。食べても、ここには居残らんよ。食べるだけなら大丈夫じゃ。お茶だけが駄目なんじゃ」


浩二は団子を受け取った。

一口食べた。

……旨かった。

醤油だれが絶妙で、外側がほんのり焦げていて、中がもちもちしていて、甘さと塩辛さのバランスが完璧だった。こんな団子は、令和の東京では食べたことがない。


【与五郎】
(遠くから)「旨かろう」

【龍馬】
(雑巾を磨きながら)「旨いぞ」

【甚兵衛】
「旨いじゃろ」


全員が同意していた。これが三百年以上、彼らをここに繋ぎとめてきた団子だった。

浩二は二串目に手を伸ばした。


第 二 幕

二の一
おばばの正体について、あるいは推測
― 石畳の主は何者か、の段 ―

お茶を断り、団子を食べ続けながら、浩二はおばばのことが気になり始めた。

与五郎も龍馬も甚兵衛も、来たきっかけがある。与五郎は討ち入り前夜に立ち寄った。龍馬は幕末に何かの用で通りかかった。甚兵衛は江戸から京へ向かう途中だった。みんな、旅の途中でここへ来た。

でもおばばは違う。おばばは「最初からここにいる」という雰囲気がある。茶屋の主として、ずっとここにいる。


【浩二】
「おばばさん。少し聞いていいですか」

【おばば】
(茶を点てながら)「なんじゃえ」

【浩二】
「おばばさんはいつからここに居るんですか」

【おばば】
「さあのう。覚えておらん」

【浩二】
「覚えていない?」

【おばば】
「最初から居たような気もするし、誰かが来る前から居たような気もするし、石畳が出来た時からのような気もする」


石畳が出来た時から。

箱根旧東海道の石畳は、江戸時代初期に整備された。三代将軍・家光の時代、一六一八年頃のことだ。とすれば、おばばはここに四百年以上いることになる。

しかしおばばの目を見ると、もっと長い気もした。


【浩二】
「石畳より前から居るんですか」

【おばば】
「さあのう。でも石畳は好きじゃよ。あれが出来てから、いろんな人が来るようになったから」

【浩二】
「いろんな人が……迷い込んでくる人が、ということですか」

【おばば】
「そうじゃ。石畳を踏む人が、ここへ来る。七十三枚目を踏んだ時に、心のどこかに隙がある人がな」


隙。


【浩二】
「隙、ですか。俺は隙があったんですか」

【おばば】
「あったよ。大きな隙じゃった。ぽっかりと穴が開いておる感じの」


それは傷ついた、と浩二は思ったが、否定もできなかった。ポッカリ穴が開いているのは自覚があった。妻もいない、子もいない、課長にも名前を覚えられていない。三十七歳の、ゴールデンウィークを一人で過ごしている男。ポッカリどころか、ガランドウかもしれない。


【浩二】
「その隙を……埋めに来る、ということですか」

【おばば】
「埋めるかどうかはその人次第じゃ。ここに居残る人もいるし、帰る人もいる。帰る人でも、ここで見たものは持って帰れる」

【浩二】
「見たもの」

【おばば】
「会った人、食べた団子、感じた空気。時間は止まっておるが、記憶は持って帰れる」


おばばはそう言って、また茶を点て始めた。

浩二はその手元を見た。細い、皺だらけの手が、茶筅を動かしている。その動きは、迷いがなかった。何百年も繰り返してきた動きだった。


二の二
龍馬の語る夜、そして星空
― 石畳の番人の話 ―

夕方になった。

空が橙色に染まり、杉の木の向こうに夕日が沈んでいく。時間の感覚がおかしくなっていたが、空の色だけは正直だった。

甚兵衛は縁台で居眠りを始めた。与五郎は「そろそろ討ち入りの時刻を確認しなければ」と言いながら、八串目の団子を頼んでいた。その団子が届いたら十分は動かないだろう。

浩二の隣に、龍馬が腰を下ろした。雑巾はのれんに干してある。


【龍馬】
「おぬし、なんで来た」

【浩二】
「友達に呼ばれて」

【龍馬】
「それだけか?」

【浩二】
「……それだけ、ですね」

【龍馬】
「特に目的もなく、誘われたから来たのか」

【浩二】
「はい」


龍馬はしばらく空を見上げた。夕日が沈んで、空が紫色になっていく。


【龍馬】
「わしも似たようなもんじゃった。ここへ来た時」

【浩二】
「龍馬さんも?」

【龍馬】
「京へ行く途中じゃった。急ぎの用があったんじゃが、この道を通ったら、なんとなく寄り道したくなった。理由はなかった。ただ、なんとなく。そしたらここへ出た」

【浩二】
「お茶を飲んで、出られなくなった」

【龍馬】
「そうじゃ。飲んでしまった。ただ……後悔はしておらんぞ」


龍馬の声が、少し変わった。


【龍馬】
「ここに居ると、いろんな時代の人間に会える。おぬしみたいな令和の人間にも、甚兵衛殿みたいな天保の人間にも、与五郎殿みたいな元禄の人間にも。みんな同じ石畳を踏んで、同じ団子を食べて、同じ空の下に居る。時代は違うても、人間はそんなに変わらん」

【浩二】
「変わらない……ですか」

【龍馬】
「腹は減る。旨いものは旨い。疲れたら休みたい。誰かと話したい。それは、江戸も令和も一緒じゃ」


空が暗くなった。星が出てきた。

箱根の山の星空は、令和の街では見られない星の数だった。天の川が、薄く白く、夜空を横切っている。

浩二はそれを見上げながら、東京で自分がいつ最後に星を見たか、思い出そうとした。思い出せなかった。


【浩二】
「龍馬さん。石畳を磨いているのは……本当に日本のためですか」

龍馬は少し黙ってから、笑った。


【龍馬】
「半分はそうじゃ。もう半分は……まあ、やることがないとおかしくなるからの。何かをやっておった方が、気持ちが落ち着く」

【浩二】
「わかります、それ」

【龍馬】
「おぬしも、仕事をやっておる方が気持ちが落ち着くか」

【浩二】
「…………微妙ですね。仕事はあんまり好きじゃないですが、でも何もしないと不安になる」

【龍馬】
「それじゃ。それが人間というもんじゃ。わしも同じじゃ。石畳を磨いておれば、少なくとも石畳はきれいになる。きれいになったものを見て、悪い気はしない。それで十分じゃ」


龍馬は立ち上がり、干していた雑巾を取った。夜になっても磨くのかと思ったが、おばばが「そろそろ夜じゃ、休みなさい」と言って、龍馬は素直にしまった。

おばばの言うことだけは聞くらしかった。


二の三
与五郎の本音と、討ち入りの行方
― 三百年の覚悟とは何か ―

夜の茶屋は、昼間と違う雰囲気があった。

行灯に火が灯り、その橙色の光が縁台を照らしている。虫の声がする。山の虫だ。甚兵衛は縁台の端で毛布をかけて寝ている。龍馬はおばばに草履を渡されて奥へ下がった。

残ったのは、浩二と与五郎だった。

与五郎は団子を食べ終えて、珍しく手を止めていた。行灯の光の中で、刀の柄に手をやり、遠くを見ている。


【浩二】
「与五郎さん。聞いてもいいですか」

【与五郎】
「何じゃ」

【浩二】
「討ち入りのことを……後悔していますか」


与五郎はすぐに答えなかった。行灯の炎がゆれた。


【与五郎】
「後悔、のう……」

【浩二】
「史実では、あなたは討ち入りに参加して、本懐を遂げたことになってます。忠臣蔵の英雄として、今でも語り継がれています」

【与五郎】
「そうか。ワシが参加したことになっておるか」

【浩二】
「はい。赤穂四十七士の一人として」


与五郎は少し黙った。


【与五郎】
「……おかしな話じゃ。ここにこうして居るのに、討ち入りに参加したことになっておる」

【浩二】
「そうですね。どういうことなんでしょう」

【与五郎】
「おばばに一度聞いたことがある。そうしたら『そうなっているのじゃ』と言われた。理由は教えてもらえなかった」


与五郎は刀の鍔を、親指で軽く押した。


【与五郎】
「後悔しているかと聞かれれば……正直、わからん。ここへ来た時は討ち入りの覚悟があった。仇討ちをして、腹を切って、それで終わるつもりだった。でも団子を食べて、お茶を飲んで、時が止まって、気づいたら百年、二百年、三百年」

【浩二】
「それで、どうですか」

【与五郎】
「……楽になった、とは思う。仇討ちは果たせなかったが、命は続いた。苦しまなかった。団子は旨かった。それが正しかったのかは、わからん。でも、悪くはなかった」


浩二は少し考えてから、言った。


【浩二】
「俺、忠臣蔵の話が好きなんです。四十七人が一人の主君のために、一年以上かけて仇討ちをする。その話が好きだった。でも、ここで会って……その人が団子を食べながら三百年を過ごしていると知って、なんか、もっと好きになりました」

【与五郎】
「なぜじゃ」

【浩二】
「わからないですけど……完璧じゃない方が、人間らしい気がして」


与五郎は少しの間、浩二を見た。それから、くっと笑った。


【与五郎】
「お世辞がうまいの。まあよかろう。団子をもう一串、食うか」

【浩二】
「食います」


二人で、夜の茶屋で団子を食べた。

行灯の光の中で、江戸の侍と令和の会社員が、並んで座っている。時代が違っても、団子の旨さは同じだった。


第 三 幕

三の一
七十三枚の帰路、蚊と数え間違いの恐怖
― 与五郎の注意点、全十七項目 ―

翌朝。

茶屋の縁台で目を覚ました浩二は、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。天井が茅葺きで、枕がなくて、横に与五郎が座って朝一番の団子を食べていた。

そこで思い出した。

ここは箱根旧東海道の茶屋で、江戸時代(の何か)で、自分は現代から石畳を通じて来た迷い人だった。

スマホを見た。電池三パーセント。変わらない。圏外も変わらない。時間表示は「::」になっていた。時刻不明。


【浩二】
「おはようございます。与五郎さん」

【与五郎】
「おう。朝の団子は格別じゃ」

【浩二】
「そうですね……あの、そろそろ帰ろうと思うんですが」

【与五郎】
(団子を噛みながら)「そうか。七十三枚、忘れるなよ」


与五郎は団子を置き、改まった顔をした。


【与五郎】
「帰り方について、いくつか注意がある」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「まず、声に出して数えること。心の中だけで数えると、途中で他のことを考えた時にリセットされる」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「次に、振り返ってはならん。後ろを向くと最初から数え直しになる」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「蚊に刺されても止まるな。止まると数えている部分がずれる」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「六十九枚目で止まると奈良時代に出る。行基殿が居てな、良い人じゃが説法が長い」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「七十一枚で止まると室町時代に出る。言葉は通じるが、物価が全然違うので混乱する」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「七十五枚踏みすぎると平安時代に出る。清少納言が居てな、言葉は通じるが、何かにつけて『をかし』と言われる」

【浩二】
「はい」

【与五郎】
「八十枚踏むと縄文時代に出る。言葉は通じない。でもおばばの知り合いが居るから助けを求めれば何とかなる」

【浩二】
「おばばさん縄文時代に知り合いが……」

【与五郎】
「以上じゃ。七十三枚、しっかり数えろ」


注意事項は六つだった。与五郎はそれを「いくつか」と言った。六つを「いくつか」と言う人間は多い。

浩二はスマホのメモアプリを開き、注意事項を打ち込んだ。電池三パーセントで動いていることに改めて感謝した。

甚兵衛が奥から出てきて、欠伸をした。


【甚兵衛】
「帰るのか、子孫よ。元気でな」

【浩二】
「はい。甚兵衛さんも元気で」

【甚兵衛】
「元気じゃよ。ここ三百年ほど、ずっと元気じゃ」


龍馬が朝の雑巾がけを始めていた。すがすがしい顔で、石畳を磨いている。


【龍馬】
「気をつけてな。七十三枚、しっかり数えろよ」

【浩二】
「ありがとうございます。龍馬さんも、洗濯を」

【龍馬】
(にやりと笑って)「任せとけ。日本はワシが磨く」


おばばが、最後にお茶を差し出してきた。

桜の花びらが一枚浮いていた。五月の茶屋で、なぜ桜の花びらが。でも綺麗だった。


【おばば】
「一杯だけ。持って帰れるもんがあるよ」

【浩二】
(少し考えて)「……ありがとうございます。でも、今日は遠慮しておきます」

【おばば】
「そうかえ」(少しだけ寂しそうな顔)

【浩二】
「また来ます。今度はちゃんと、お茶をいただきに」

【おばば】
(少し明るくなって)「待っておるよ」


嘘ではなかった。本当にまた来る気がしていた。

浩二は石畳の前に立ち、深呼吸した。


三の二
七十三枚、声に出して数える
― 蚊、登場 ―

「一」

声に出して、浩二は登り始めた。

来た時と同じ石畳だった。黒くて、艶があって、わずかに凹凸がある。でも今は朝で、光の差し方が違った。昨日の午後の光より、朝の光の方が白く、清潔だった。

「二」「三」「四」「五」

リズムが出来てきた。一、二、三、四、と踏むたびに声を出す。踏切板を踏むように、一定のリズムで。

「六」「七」「八」「九」「十」

十枚目で、遠くに茶屋の屋根が見えた。振り返りたかったが、与五郎の注意が頭に響いた。「振り返ってはならん」。浩二は前を向き続けた。

「十一」「十二」「十三」

十五枚目あたりで、風が吹いた。山の風だ。杉の香りを含んだ、ひんやりとした風。

「十六」「十七」「十八」

その時。

蚊が飛んできた。

耳の横で、ぶん、と鳴いた。


【浩二】
(手で払いながら)「……っ、十八! 十八だ、十八! 間違えてない! 十八!」


蚊は耳の横をうろうろしていた。払っても払っても来る。「私はここにいる」という主張が強い蚊だった。

「十九」(手で払いながら)

「二十」(耳を傾けながら払いながら)

「二十一」(蚊がいなくなった)

蚊が去った。刺されていない。良かった。数もずれていない。良かった。

「三十」「四十」「五十」

五十枚目を踏んだあたりで、空気が変わってきた気がした。石畳の色が少し変わる。江戸時代の黒から、現代の灰色へ。

「六十」「六十一」「六十二」

六十三枚目で、鳥の声がした。聞き覚えのある鳥の声。令和の山にいる鳥の声だ。

「七十」「七十一」「七十二」

立ち止まった。

一歩前に、七十三枚目の石畳がある。

浩二は少し深呼吸した。

団子の味が、口の中に残っていた。甚兵衛からもらった、あの醤油だれの団子の味が。

与五郎の目を思い出した。龍馬の笑顔を思い出した。甚兵衛の「また来い」という顔を思い出した。おばばの「待っておるよ」を思い出した。


七十三。


足が、前へ出た。


ぽん。


木漏れ日の中に、浩二は立っていた。

令和の五月の、箱根旧東海道の石畳の上に。

鳥の声が近くで聞こえた。スマホを取り出した。電池三パーセント。圏内。LINEの通知が百十四件。全部、神崎からだった。


【神崎(LINEの通知一覧から抜粋)】
「どこおるん」「返事して」「まじか」「電話する」「出ない」「え死んだ?」「いや大丈夫か」「ごめん探す」「山岳救助呼んでいい?」「いや待って」「連絡くれ」「本当に心配してる」「怒らんから連絡くれ」「てかどこ」(以下一〇〇件、内容ほぼ同じ)


浩二は「いた」とだけ打った。

三秒後、「は?」という返信が来た。

生きている。


第 四 幕

四の一
帰路、団子の味を想う
― 食べていない場合と食べた場合の相違 ―

箱根湯本の駅前で、現代の神崎誠二が立っていた。

友人・神崎誠二、三十五歳。中肉中背。普段は穏やかな顔をしているが、今日は目が三角になっていた。怒っているのか、心配しているのか、あるいはその両方なのか。全部だと思う。


【神崎】
「どこ行っとったん。一日以上経ってるで。茶屋も宿も閉まったわ。てか泊まったん?」

【浩二】
「一日以上……そんなに」

【神崎】
「そんなに。昨日の昼に旧街道に入ったの見てから、全然連絡なくなったやん。心配するやろ普通」

【浩二】
「ごめん。ちょっと遠くへ行ってた」

【神崎】
「どこへ」

【浩二】
「……茶屋まで」

【神崎】
「茶屋ってあの一軒のやつ? 閉まってたやろ」

【浩二】
「入れた」


神崎が浩二をじっと見た。何かを感じ取ったのかもしれない。でも何も言わなかった。


【神崎】
「顔色悪いな。腹減ったやろ。何か食べようか」

【浩二】
「うん。……あと、団子が旨かった」

【神崎】
「茶屋の? 入れたんやったら食べたんか。どんな味やった」

【浩二】
「醤油だれで、外がちょっと焦げてて、中がもちもちで、甘さと塩のバランスが絶妙で」

【神崎】
「めっちゃ詳しいやん。旨そうやな」


詳しいのは、甚兵衛からもらって食べたからだ。浩二は笑ってごまかした。

神崎は「温泉まんじゅう食べよ」と言って、駅前の茶屋に浩二を引っ張っていった。


四の二
温泉まんじゅうと、語られなかった話
― 現代の神崎、案外鋭い ―

温泉まんじゅうは旨かった。こし餡が上品で、皮がふんわりとしていた。でも浩二の頭の中には、昨夜の団子の味が居座っていた。甚兵衛からもらったあの団子。と、与五郎と並んで食べた、夜の団子。

同じ醤油だれなのに、昼に食べたものと夜に食べたものでは少し味が違った。昼の方がさっぱりしていて、夜の方が甘みが濃かった。こんな細かいことを覚えているのは、それだけ印象が深かったからだろう。


【神崎】
「で、どうやったん。旧街道」

【浩二】
「良かった。すごく良かった」

【神崎】
「何が」

【浩二】
「空気が。石畳が。あと、人が」

【神崎】
「人? あんな誰もおらんとこで?」

【浩二】
「……まあ、いたんだよ」


神崎がまた浩二を見た。じっくりと見た。


【神崎】
「浩二、なんかあったん」

【浩二】
「なんかあった、というか……石畳を七十三枚数えたら、面白いことがあった」

【神崎】
「七十三枚? 数えたん? なんで」

【浩二】
「数えたくなったから」

【神崎】
(少しの間)「……お前、変わったな」

【浩二】
「え? 変わった?」

【神崎】
「昨日より、なんか顔が違う。ちょっと生き生きしとる」


生き生き。

浩二はその言葉をしばらく転がした。存在感が薄いと言われ続けて十二年の自分が、生き生きしている。石畳の裏側で、江戸時代の侍と侍と先祖と高僧予備軍の話をして、団子を食べて、星空を見て、帰ってきたら、生き生きしているという。


【浩二】
「そうかな」

【神崎】
「そうやで。来てよかったやろ、箱根」

【浩二】
「来てよかった」


本当にそう思った。

温泉まんじゅうを食べ終えて、二人は駅へ向かった。ゴールデンウィーク最終日の夕方、箱根湯本の人混みは少し落ち着いていた。帰り客が多いせいか、人の流れが一方向になっていた。

駅のホームで電車を待ちながら、浩二は旧街道の方を見た。木々の向こうに、山がある。その山の中に、あの石畳がある。七十三枚目の石の下に、茶屋がある。与五郎が団子を食べている。龍馬が石畳を磨いている。甚兵衛が居眠りしている。おばばが茶を点てている。

「待っておるよ」という声が、聞こえた気がした。


四の三
電車の中で先祖について考える
― 血筋というものの不思議 ―

帰りの電車の中で、浩二は窓の外を流れる相模の山々を見ていた。

神崎は隣でスマホをいじっている。連休の疲れからか、少し目が重そうだった。

浩二は窓に映る自分の顔を見た。甚兵衛の顔に似ていた。鼻の形、眉の太さ、目の間隔。そのまま老けたら多分あんな顔になる。百八十年以上前の先祖と、令和の子孫が、同じ顔をしている。

血というものは、面白い。

甚兵衛は天保十二年に江戸を出て、箱根でお茶を飲んで出られなくなった。女房と子供三人を残して。その子供が浩二の五代前の先祖で、その子供の子供の子供の子供の子供が浩二だ。

甚兵衛が居なくなった後も、血は続いた。子は育ち、孫が生まれ、ひ孫が生まれ、令和にたどり着いた。甚兵衛の女房は、夫の帰りを待っただろうか。待ちながら、子供を育てただろうか。

わからない。でも、その血が今、この電車の中にある。


【浩二(心の声)】
甚兵衛さん。俺、来ましたよ。会えましたよ。元気でしたよ、あなた。団子と、星空と、与五郎さんと龍馬さんと一緒に、ちゃんとやってましたよ。


スマホのメモアプリを開いた。「73枚」というメモの下に、書き足した。


【浩二(メモアプリ)】
・73枚目を踏む(声に出して数える) ・振り返らない ・蚊に気をつける ・69枚で止まると奈良時代→行基(説法が長い) ・75枚踏みすぎると平安時代→清少納言(をかし連発) ・80枚で縄文時代→言葉通じないがおばばの知り合いがいる ・次回持参物:トレッキングシューズ、充電100% ・お茶は……来た時に考える


最後の一行を少し考えてから、消さずに残した。

来た時に考える。それが今の正直な気持ちだった。


【神崎】
(スマホから目を離さず)「浩二、来月も箱根行く?」

【浩二】
「行く」

【神崎】
「はよ言い過ぎやろ。即答やな」

【浩二】
「石畳を数えてみて。七十三枚目を、慎重に踏んで」

【神崎】
「なんで」

【浩二】
「行けばわかる」


神崎は「意味わからん」と言いながら、また笑った。

電車は小田原を過ぎ、平塚を過ぎ、藤沢を過ぎた。窓の外から山が消え、街が現れた。

令和の、五月の夕暮れ。

浩二はスマホを充電器に繋ごうとして、充電ケーブルを持ってきていないことに気づいた。電池は三パーセントのまま、変わらない。

来月こそ、百パーセントにして行こう。

それだけは、確かだった。


終 幕

終の一
某月某日、会社にて
― 存在感が増した気がする月曜日 ―

翌週の月曜日。

浩二は会社に行った。いつも通りの月曜日だった。いつも通りに電車に乗り、いつも通りに会社に入り、いつも通りに自分のデスクに座った。

しかし、何かが違った。

「何か」が何なのか、浩二にはわからなかった。でも違う感じがした。デスクに座っても、浮いていない感じがした。椅子と床と自分が、ちゃんと繋がっている感じ。

九時に課長が来た。


【課長】
「おはようヤマダくん。あれ、先週どこかで会ったっけ」

【浩二】
「金曜にいましたよ」

【課長】
「あ、そうか。いたっけ。ゴールデンウィークどこか行った?」

【浩二】
「箱根に行きました」

【課長】
「箱根か。いいね。温泉?」

【浩二】
「旧東海道を歩きました」

【課長】
「旧東海道? 珍しいね。石畳のとこ?」

【浩二】
「はい。七十三枚あります」

【課長】
「……そんな細かいとこ数えたの? 変わってるね」


変わってる、と言われた。

でも課長の顔が、少しだけ浩二に向いていた。十二年間、名前を覚えてもらえなかった課長が、今日は少し、浩二を見ていた。

これを変化と呼んでいいのかどうか、浩二にはわからなかった。でも悪くなかった。


終の二
トレッキングシューズの購入、および準備
― 来月への計画、着々と ―

月曜の夜、浩二はAmazonでトレッキングシューズを注文した。

口コミが良くて、石畳対応と書いてあるやつを選んだ。値段は一万二千円。三千円のスニーカーの四倍だ。でも迷わなかった。あの石畳を七十三枚歩くために、一万二千円は安い。

火曜日には、大容量のモバイルバッテリーを買った。容量が二万ミリアンペア時のやつ。これでスマホを五回は充電できる。もし次に石畳の裏側へ行っても、電池切れの心配をしなくていい。

水曜日には、忠臣蔵の本を三冊買った。神崎与五郎の章を重点的に読んだ。史実の与五郎は、討ち入りに参加し、本懐を遂げたことになっている。

でも浩二は知っている。

与五郎は今も箱根の茶屋で、団子を食べている。行灯の光の下で、刀の鍔を押さえながら、遠くを見ている。「悪くはなかった」という顔をしながら。

それが史実と矛盾するかどうかは、もう気にしない。

木曜日には、甚兵衛について調べた。山田甚兵衛という人物の記録は、どこにも残っていなかった。天保年間に江戸を出て行方不明になった山田氏の記録も、見つからなかった。

でも浩二の中に、甚兵衛はいる。鼻の形と眉の太さと目の間隔の中に、確かにいる。

金曜日の夜、神崎からLINEが来た。


【神崎(LINE)】
「来月、箱根行こうぜ。今度こそ茶屋に入ろう。てか石畳七十三枚って本当? 数えてみたら七十一枚しかなかったんやけど」


浩二は少し考えてから、返信した。


【浩二(LINE)】
「七十三枚あるよ。もう一回数えてみて。七十一枚でやめたら、奈良時代に出るから気をつけて」

【神崎(LINE)】
「意味わからん。てか奈良時代って何」

【浩二(LINE)】
「行基がいる。説法が長い。気をつけて」

【神崎(LINE)】
「浩二お前、大丈夫か? 箱根で何があったん」

【浩二(LINE)】
「行けばわかる。来月、一緒に行こう」


神崎は「わかった」と返信してきた。それ以上は聞かなかった。

浩二はスマホをモバイルバッテリーに繋いだ。電池が三パーセントから少しずつ増えていくのを、画面で確認した。

来月、百パーセントにして行こう。

七十三枚目を、もう一度踏もう。

おばばのお茶のことは……まあ、考えながら行こう。


終の三
箱根八里は馬でも越すが
― それでも越えたくなる道について ―

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」

そんな唄がある。東海道で最大の難所は箱根の険しい峠ではなく、川渡りが命がけだった大井川だ、という意味だ。

しかし浩二は思う。

あの石畳の道は、馬でも大変だったはずだ。あの急勾配、あの凹凸、あの滑りやすい岩。蹄が石に当たって、音を立てながら一歩ずつ登る馬の苦労は、スニーカーで登った浩二にもわかる気がする。

でも、それでも越えた。

何十万もの人間が、何十万もの馬が、この道を越えた。商人も、武士も、大名も、志士も、逃げる者も、向かう者も、みんなこの石畳を踏んで、峠を越えた。

そしてその中に、浩二の先祖もいた。

六代前の甚兵衛が、ここを歩いた。お茶を飲んで出られなくなってしまったが、少なくとも七十二枚目までは歩いた。七十三枚目で止まってしまったが、七十二枚は確かに踏んだ。

石畳は変わっていない。

江戸時代の石畳が、今もここにある。変わらずに、ここにある。踏む人間は変わるが、石は変わらない。それが歴史というものの、一番分かりやすい形かもしれない。

浩二はそんなことを、帰りの電車の中で考えた。

考えながら、少し眠った。

夢の中で、また石畳を踏んでいた。

一枚、二枚、三枚……

そして七十三枚目を踏もうとしたところで、目が覚めた。

新宿だった。

急いで電車を降りながら、浩二は思った。

来月、ちゃんと踏もう。七十三枚目を、ちゃんと踏もう。


◆ ◆ ◆




箱根旧東海道石畳は、今日も静かに
時代と時代の間に横たわっている。
踏む者が百人いれば、百の物語がある。
されど七十三枚目には、くれぐれも気をつけられたし。

――茶屋のおばばより
箱根八里 異世界道中膝栗毛 ― ―



Amazon Kindle







【あとがき】

山田浩二という、少し存在感の薄い会社員が、箱根の石畳で少しだけ人生を動かされる物語でした。

人間というのは不思議なもので、劇的な出来事がなくても、誰かと少し話したり、景色を見たり、美味しいものを食べたりするだけで、ほんの少し前向きになれたりします。

この作品で言えば、それは団子でした。
そして石畳でした。

与五郎の不器用さも、龍馬の雑巾がけも、甚兵衛の眠そうな顔も、おばばのお茶も、全部どこかで「人生ってそんなに悪くない」と言ってくれている気がしています。

もちろん、実際の箱根旧東海道に七十三枚目の異世界入口があるわけではありません。

……多分。

ただ、歩いていると「何かありそう」と思えてくる空気は、本当にあります。

もしこの本を読んで、「箱根へ行ってみたい」と思ってくださったなら、とても嬉しいです。

そしてもし石畳を歩くなら、履き慣れた靴をおすすめします。

これは本当に大事です。

最後になりますが、この物語に出てくる歴史上の人物たちは、史実を少し横に置いて、だいぶ自由に歩いてもらいました。

歴史好きの方には笑って許していただき、そうでない方には「こんな人いたんだ」と楽しんでもらえたら幸いです。

ではまた、どこかの石畳で。

もし再会した時は、一緒に団子でも食べましょう。