まあだだよ狂騒曲

──「お迎え拒否症候群」顛末記──


著 山田 六平(68)

元・区立中学校 技術家庭科教員



まえがき

この本を書くことになったいきさつを、まず正直に申し上げなければならない。
私は別に作家ではない。生まれてこのかた、技術家庭科の教員として四十二年を過ごし、定年退職後は孫の相手と畑仕事と、週三回の麻雀だけを生きがいとしていた、どこにでもいる老人である。
それがなぜ本など書いているかというと、理由はひとつだ。
「お前が体験したことは、人類史上おそらく前例がない。記録しておく義務がある」
そう言ったのは、国立遺伝子科学研究所の黒川博士である。五十代で、いつも白衣の袖口にカレーの染みをつけている人物だ。権威というものが服を着て歩いているような雰囲気があるが、麻婆豆腐が好きすぎて学会発表中に取り寄せたことがあるらしい。
その黒川博士に「義務」と言われたので、仕方なく書いている。
なお、この話には宇宙人が出てくる。本当のことである。
あと、死んだ友人たちも出てくる。これも本当のことである。
最後に、私はまだ生きている。これが最も重要なことである。

山田 六平 記




第一章 夢の中の同窓会


夢を見た。
いや、夢というのは語弊がある。あれは夢にしては解像度が高すぎた。光の具合も、匂いも、ビールの泡がグラスの縁を伝う感触も、すべてが妙にリアルだった。
場所は、どこかの居酒屋だった。よく見ると、四十年前に横浜の鶴見にあった「三平」という店に似ていた。あそこは煮込みが絶品で、ホルモンを頼むと必ずキャベツが多すぎた。
テーブルを囲んでいたのは、全員が死んでいる人たちだった。
正直に書く。驚かなかった。
というより、夢の中では「あ、そういえば死んでたな、こいつら」という程度の認識で、それ以上でも以下でもなかった。
正面に座っていたのが、木村だ。中学からの腐れ縁で、五年前に胃がんで逝った。いつも通りの仏頂面で、焼き鳥の砂肝を食べていた。
「遅い」と木村が言った。
「何が」と私は聞いた。
「お前が来るのが、だよ」
私はビールを一口飲んだ。旨かった。死後の世界のビールは泡のきめが細かいのか、と妙なことを考えた。
「まだ来ないよ」と私は答えた。
「なんで」
「孫が生まれたんだ」
木村は少し黙って、また砂肝を食べた。
「ほう」
「会いに来たわけじゃないのか」私は聞いた。
「まあ、そういう話もある」木村はぼそっと言った。「でも今夜は飲みたかっただけだ」
そう言って木村は笑った。あいつが笑うと、右の口角だけが上がる。生前からそうだった。それがまた妙にリアルで、私は少し胸が痛くなった。



夢の中には木村の他にも、大勢の顔があった。
小学校の担任だった田中先生(八十七歳で大往生)、隣に住んでいた中島のおばさん(去年の冬)、工業高校の恩師である坂本先生(退職後に富士山に登って心臓発作、本望だったと奥様が言っていた)。
それから、名前を思い出せない顔もいくつかあった。でも夢の中では、なぜかその人たちのことをよく知っていた。知っているのに名前がない、というのは不思議な感覚だ。
みんな楽しそうに飲んでいた。
誰かが「そろそろか」と言った。
誰かが「まだだろ」と言った。
木村がこちらを見て、「用意できてるから、いつでも来い」と言った。
私は「わかった」と言いそうになって、やめた。
「まあだだよ」
私がそう言ったとき、居酒屋の景色がゆっくり消えた。
木村が何か言ったが、聞こえなかった。ただ右の口角だけが上がっているのが見えた。
私は目を覚ました。



朝の六時だった。
布団の中で天井を見ながら、私はしばらく何も考えなかった。
窓の外でスズメが鳴いていた。台所で妻の由美子が何かを切る音がした。ニンジンか大根か、どちらかを刻む音に似ていた。
夢だったな、と思った。
でも、全員の顔が思い出せた。
それが引っかかった。
私は夢を見ない人間だ。正確には、見ても覚えていない。起き抜けに「あ、夢を見たな」とわかるだけで、内容は霧の中である。それが、今朝は違った。全員の顔が、名前が、声が、砂肝の味まで、鮮明に残っていた。
木村の「まあだだよ」のときの顔も。
私はもう一度、声に出してみた。
「まあだだよ」
特に何も起きなかった。
台所から由美子が「起きたの、朝ごはんできるよ」と呼んだ。
私は「はーい」と答えて、布団から出た。
この時点では、何も知らなかった。

第二章 朝の変化


変化は、三日後に始まった。
最初に気づいたのは由美子だった。
「あなた、最近顔色良くない?」
朝食の味噌汁をすすりながら言われた。褒めているのか心配しているのかわからないイントネーションだった。由美子はよくそういう言い方をする。四十一年の結婚生活で慣れた。
「そうか」と私は答えた。
「なんか、若返ってる気がする」
「六十八歳が若返っても困る」
「困らないでしょ。良いことじゃない」
そういうものかと思って、私は特に気にしなかった。
しかし一週間後、かかりつけの医者、藤田先生に血圧を測ってもらったところ、「山田さん、何かしました?」と言われた。
「何も」
「血圧が正常値ど真ん中ですよ。三年ぶりじゃないですか、こんな数値」
藤田先生は五十代で、いつも眠そうな目をしているが腕は確かだ。その藤田先生が、珍しく目を見開いていた。
「薬、変えてないですよね」
「変えてない」
「運動、始めました?」
「してない」
「食事は?」
「変えてない」
「…じゃあ何ですかね」藤田先生は首をひねった。「まあ、良いことですけど」
私も首をひねった。



さらに二週間後、私は朝、鏡を見て少し固まった。
顔のしわが、減っていた。
正確には、消えているわけではない。でも、明らかに薄くなっていた。去年の誕生日に息子が撮った写真と比べると、五歳は若く見える。
白髪も、なんとなく減っている気がした。
私は洗面台の前でしばらく自分の顔を見た。
「どうしたの」由美子が通りかかった。
「しわが減ってないか」
由美子は顔を近づけて私の顔を見た。
「…あ、本当だ」
「変だろ」
「変ね」由美子は少し考えて言った。「でも良いじゃない。私のほうが老けて見えたら困るけど」
「そっちか」
「そっちよ」
由美子は笑って台所に戻った。私は引き続き鏡を見た。
何かおかしい、と初めて本気で思った。



私が「まあだだよ」と声に出してから、三週間が経っていた。
その夜、私は再びあの夢を見た。
今度は木村だけだった。
場所は「三平」ではなく、中学のときに二人でよく行っていた駄菓子屋の前だった。木村は学生服を着ていた。私もおそらく着ていた。
「おい」と木村が言った。
「なんだ」
「お前、まあだだよって言ったな」
「言った」
木村は少し困った顔をした。あいつが困った顔をするのは珍しかった。
「あれ、まずかったかもしれん」
「何が」
「…こっちの話だ」
木村は何かを言いかけて、やめた。それから「まあ、元気でいろ」とだけ言った。
「お前もな」と私は答えた。
死んでいる人間に「元気でいろ」も何もないが、夢の中ではそれが自然だった。
「でも、近いうちに誰かが来るぞ」木村は最後に言った。「俺じゃない人間が」
「誰だ」
「それは俺にも言えない。でも……まあ、びっくりするなよ」
木村は右の口角を上げて、消えた。

第三章 黒川博士と染みついたカレー


「近いうちに誰かが来る」という木村の予告は、八日後に現実になった。
しかも来たのは一人ではなかった。
玄関のチャイムが鳴ったのは、平日の午前十時である。由美子は買い物に出ていた。私は縁側で新聞を読んでいた。正確には読んでいなかった。日向ぼっこをしながら新聞を持っていた。
ドアを開けると、白衣を着た五十代の男が立っていた。
袖にカレーの染みがあった。
「山田六平さんですか」
「そうです」
「国立遺伝子科学研究所の黒川と申します」男は名刺を出した。「少し、お時間をいただけますでしょうか」
私は名刺を見た。「黒川誠一郎 遺伝子老化制御学部門 主任研究員」とあった。
「遺伝子科学研究所が、私に何用ですか」
「それが、その……」黒川博士は少し言いにくそうにした。「山田さんのDNAについて、調べさせていただきたいことがありまして」
「私のDNA」
「ええ。実は、山田さんの担当医の藤田先生から、ご紹介いただきまして」
あの眠そうな目の藤田先生が、国立研究所に話を持ち込んだらしかった。
「上がってください」と私は言った。



緑茶を出すと、黒川博士はありがとうございますと言ってから、カバンから分厚いファイルを取り出した。
「単刀直入に申し上げます」博士はファイルを開いた。「山田さんの細胞が、老化を止めています」
「止めてる」
「いえ、止めているどころか、若返っています。テロメアの長さがですね──」
「テロメアというのは何ですか」
「染色体の末端にある構造でして、細胞分裂のたびに短くなるんです。つまり老化のカウントダウンタイマーみたいなものなんですが、山田さんのテロメアが、この三週間で長くなっているんです」
「長くなるのはいけないんですか」
「いけなくはないんですが、そんなことは普通は起きないんです」博士はカレーの染みのある袖でファイルをめくった。「通常、テロメアは短くなる一方で、長くなるのはがん細胞か、あるいは──」
博士はそこで止まった。
「あるいは?」
「理論上は、特定の遺伝子スイッチが入ったときに起こりうるとされているんですが……実際に観測されたのは初めてでして」
私は緑茶を一口飲んだ。
「要するに、私は若返っているということですか」
「若返っているというか……このペースで続くと、理論的には老化が完全に停止する可能性があります」
沈黙があった。
庭でスズメが鳴いた。
「それは困りますね」と私は言った。
黒川博士は少し間の抜けた顔をした。「え?」
「古希で麻雀仲間に惜しまれながら死のうと思っていたので」
博士はしばらく何も言えなかった。



黒川博士が帰ったあと、私は縁側に戻って、また新聞を持って日向ぼっこをした。
テロメアとか遺伝子スイッチとか、よくわからない話だった。しかし要するに、三週間前に私が「まあだだよ」と言ったあたりから、私の体が何かおかしくなっているらしい。
私は声に出してみた。
「まあだだよ」
何かが、体の中で反応した気がした。
気のせいかもしれない。でも、何かがぴくりと動いた感覚があった。
木村が夢の中で「まずかったかもしれん」と言っていたことを思い出した。
どうもあの言葉が、何かのスイッチを押してしまったらしい。
私はため息をついた。
技術家庭科の教員をしていると、たまにスイッチを入れてはいけないものを入れてしまう生徒がいた。コンデンサを逆向きに接続するとか、電源を入れる前に確認しなければならない手順を飛ばすとか。
老後になって自分がそういうことをするとは思わなかった。
由美子が買い物から帰ってきた。
「ただいま。黒川さんって方から電話あったけど、明日また来てもいいかって」
「はあ」
「何の人なの」
「遺伝子の人らしい」
「遺伝子?」由美子は首をかしげた。「あなた、何かしたの?」
「まあだだよって言っただけだ」
「……何それ」
「私もよくわからない」

第四章 「お迎え拒否症候群」と命名される


黒川博士は翌日も来た。その翌日も来た。三日目には助手らしき若い女性も連れてきた。助手の名前は平田さんといって、院生らしく、いつもリュックにぬいぐるみをつけていた。パンダだった。
二人は私の血を少し採って帰ることを繰り返した。
一週間後、博士は興奮した顔でやってきた。袖のカレー染みが右から左に移動していた。別の染みだった。
「山田さん、わかりました」
「何が」
「山田さんの症状の、原因というか……メカニズムというか」博士はファイルを広げた。「学術的にはまだ命名されていない現象なんですが、便宜上、私どもは『お迎え拒否症候群』と呼んでいます」
「お迎え拒否症候群」
「はい。人間は死期が近づくと、ある種の細胞信号が活発化するんです。それがいわゆる『お迎え』の生理学的基盤だと考えられているんですが──」
「それが、私には出ていないと」
「逆です」博士は言った。「出ています。強く出ています。でも山田さんの場合、その信号に対して、別の信号が強く上書きしているんです。『まだだ』という信号が」
私は少し考えた。
「つまり、お迎えが来たが断った、ということですか」
「生物学的には、そういうことになります」
「断り方があったのか」
博士は困った顔をした。「普通はないんです。でも、山田さんは何か言いましたか。その、三週間前の朝に」
「まあだだよ、と言いました」
博士と助手の平田さんが同時に顔を見合わせた。


詳しい話を聞くと、こういうことらしかった。
人間の細胞には、「寿命遺伝子」と研究者が呼んでいる一群の遺伝子群があって、それが一定の条件下でオフになる仕組みがある。その条件は長い間謎だったが、最近の研究で「死の受容」と深く関係していることがわかってきた。
「死の受容というのは」私は聞いた。
「自分の死を、心理的に受け入れること、です。逆に言えば、強く『まだ死なない』という意志を持つと、その信号が遺伝子レベルで作用する可能性があるんです」
「気合いで長生きできると」
「気合いというより……かなり根本的な、存在レベルの意志、とでも言いますか」博士はカレーの袖を見た。「ただ、ここまで明確に遺伝子が反応したケースは初めてでして」
「なぜ私だけ」
「それが最大の謎です。同じような境遇で、同じような夢を見て、同じように『まあだだよ』と言った人がいたとしても、ここまでの反応が出るかどうかは……」博士は少し言いにくそうにした。「何か、特別な何かがあったのかもしれません」
「特別な何か」
「よほど、強い理由があったのではないでしょうか。まだこちらにいる理由が」
私は縁側の外の庭を見た。
去年の夏に生まれた孫の翔太が、よちよち歩きで歩き回った庭だ。今は冬で花は何もないが、春になれば梅が咲く。翔太はまだ梅の花を知らない。
「孫が生まれたんです」私は言った。
博士は静かにうなずいた。



その日の夕方、博士が帰ったあと、私は由美子に一連の話をした。
由美子は夕飯のカレーを作りながら(博士と話していたせいでカレーが食べたくなったのかもしれない)、黙って聞いていた。
「つまり、あなたは不老不死になるかもしれないってこと?」
「不死かどうかはわからないらしい。でも、しばらく老化が止まるかもしれないと」
由美子は少し考えてから言った。「それって、どっちが先に死ぬかわからなくなるってこと?」
「そういうことになる」
「困るわね」
「そうだな」
「わたしが先だったら、あなたが残るじゃない。困るわ、家事できないんだから」
「私だって困る」
「じゃあやめてよ」
「やめ方がわからない」
カレーの良い匂いが台所から漂ってきた。
「しょうがないわね」由美子は言った。「まあ、翔太の成長は見たいわよね、私も」
「そうだな」
「じゃあ当分は仕方ないんじゃない」
「そうかもしれない」
由美子はそれ以上何も言わなかった。私も言わなかった。
カレーは旨かった。

第五章 宇宙からの電話


「近いうちに誰かが来る」という木村の言葉には、続きがあったらしかった。
黒川博士が毎日来るようになって二週間が経ったある夜、私の携帯電話に知らない番号から電話がかかってきた。
夜の九時だった。麻雀から帰ってきて、風呂に入ろうとしたところだった。
「もしもし、山田六平さんでよろしいですか」
声は日本語だったが、少し妙な抑揚があった。外国人が話す日本語の感じに似ていたが、それとも違った。どこか、機械的な滑らかさがあった。
「そうですが、どちらさまですか」
「申し遅れました。私どもは、地球管理局第七区担当の者でございます」
私は少し待った。
「地球管理局」
「はい。ご説明が必要でしょうか」
「必要です」
「簡潔に申し上げますと、私どもは地球における生命活動の管理・調整を担当している組織でございます。銀河連合の傘下機関でございます。日本語で申しますと、まあ……お迎え担当部署、とでも言えば近いかと」
私はソファに腰を下ろした。
「お迎え担当部署が、なぜ私に電話を」
「山田様が、登録スケジュールから外れてしまったためでございます」



「登録スケジュール」というのは、要するに死亡予定表らしかった。
電話の相手──「担当のスズキ」と名乗った──によると、地球上の生命体には全員、おおまかな「寿命プログラム」が設定されており、それを管理している組織が宇宙のどこかにあるのだという。
「宇宙人が地球の死亡管理をしているということですか」
「宇宙人というご表現は少し……私どもは管理職でございまして。生命体ではありますが、地球の皆様とは多少構造が異なります」
「それはどうでもいい。要するに私は、死ぬはずの時期が過ぎているということですか」
「おっしゃる通りでございます」スズキさんは言った。「山田様の場合、三ヶ月ほど前がご予定でございました。ただ、脳内で強力な拒否信号が発生しまして……システムが一時的に機能停止しております」
「まあだだよ、と言ったやつですか」
「……おわかりなのですね」
「先生から聞きました」
「はあ」スズキさんは少し間を置いた。「実は山田様のようなケースは、極めてまれでございまして……弊局としても対応に困っておりまして」
「だから電話してきた」
「はい。率直に申し上げますと、ご交渉をさせていただきたいと思いまして」
「交渉」
「はい。山田様のお気持ちも大切にしながら、その……スケジュールを、なんとか調整できないかと」
私は少し考えた。
「スズキさん」
「はい」
「明日、うちに来られますか。直接話したい」
長い沈黙があった。
「……直接、ですか」
「電話では埒が明かない」
また沈黙があった。
「かしこまりました。明日の午後二時ではいかがでしょうか」
「結構です」
「……お茶などは、必要でしょうか」
「出します。緑茶でいいですか」
「……いただきます」
電話が切れた。
私は由美子に言った。「明日、お客さんが来る。宇宙人だ」
由美子は「また?」と言った。先週は黒川博士が来ている。
「今度は宇宙人らしい」
「お茶菓子、買ってきましょうか」
「頼む」
由美子は特に驚かなかった。四十一年の結婚で、大抵のことには驚かなくなっていた。それはそれで素晴らしいことだと思う。

第六章 あいつのこと


スズキさんが来る前に、少し木村のことを書いておきたい。
木村正則とは、中学一年の春に出会った。
入学式の日、私は靴箱の場所がわからなくて廊下をうろうろしていた。そこへ「おい」と声をかけてきたのが木村だった。
「上履き、まだ買ってないのか」
「買ってある。箱がわからない」
「こっちだ」
そう言って木村は歩き出した。私はついていった。それだけのことだったが、それ以来ずっと友人だった。
木村は口数が少なくて、愛想もなくて、しかし必要なことは必ずやる人間だった。
高校は別れた。大学も別れた。でも年に数回は会って、酒を飲んだ。結婚してからも、由美子と木村の奥さんの洋子さんが仲良くなって、家族ぐるみで付き合った。
木村は六十三歳で逝った。胃がんだった。見つかったときにはもうかなり進んでいて、告知から八ヶ月後だった。
末期の病院で会いに行ったとき、木村は「お前のほうが先に死ぬと思っていたぞ」と言った。
「なんでだよ」と私は言った。
「お前のほうが不摂生だから」
「お前だって飲んでたじゃないか」
「俺は適度だった」
「嘘をつくな」
木村は少し笑った。右の口角だけが上がった。
それが最後に見た笑顔だった。



木村が死んで、私はしばらく元気がなかった。
由美子が「木村さんのこと、引きずってるわね」と言った。
「引きずってはいない」
「じゃあ何」
「…なんだろうな」
引きずっているというより、何かがぽっかり空いた感じだった。友人というのは、長く付き合えば付き合うほど、いなくなったときに空白が大きい。
木村との最後の会話で、私は言い忘れたことがあった。
あいつが「さよなら」という言葉を言いそうになったとき、私は「そんなこと言うな」と先にくだらないことを言ってしまった。「さよなら」を言わせたくなかったから、先手を打った。
でも本当は、「See You」と言えばよかった。
さよならじゃなくて、また会おう、と。
それを言い忘れたことを、五年経った今でも少し後悔している。
だから、夢の中で木村が右の口角を上げて消えたとき、私は黙っていなかった。
「See You」と、声に出して言った。
夢の中で木村が何か言った気がした。聞こえなかったけれど。



木村との最後の約束の話も、書いておかないといけない。
あいつが死ぬ二ヶ月前、まだ少し元気だったころ、病院の廊下で木村がふと言った。
「良い女と美味い酒を用意して待ってるから、お前が来たときには宴会にしよう」
私は「バカなことを言うな」と言った。
「約束だぞ」
「わかった、わかった」
その約束が夢の中でよみがえった。木村は「約束通り、用意したからいつでも来い」と言っていた。
木村らしい話だった。死後の世界でも宴会の準備をしているとは。
私はその宴会に行きたいような、まだ行きたくないような、複雑な気持ちだった。
翔太の顔が浮かんだ。去年の秋に息子の家で会ったとき、翔太はハイハイで私の膝まで来て、私の指をぎゅっと掴んだ。あの小さな手の感触を、まだ覚えている。
木村には悪いが、もう少し待っていてもらわなければならない。

第七章 交渉


翌日の午後二時、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、スーツ姿の中年男性が立っていた。
見た目は完全に普通の人間だった。五十代くらいで、少し背が高くて、眼鏡をかけていた。頭が少し薄かった。
ただ、目の色が少し変だった。黒というより、深い藍色に近かった。
「山田様でいらっしゃいますか。スズキでございます」
「どうぞ」
スズキさんはお茶菓子(由美子が買ってきた柿の種の詰め合わせ)をひとつ摘んで食べた。「おいしいですね」と言った。
「食べられるんですね」
「地球に来るときは、この形を取ることが多くて。食べることも、一応できます」
「そうですか」
「本来の形ではないんですが、この形のほうが話しやすいかと思いまして」
「助かります」
しばらく緑茶を飲んで、柿の種を食べたあと、スズキさんは本題に入った。
「山田様。率直に伺います。何年ご要望でしょうか」
「何年?」
「延長年数でございます。山田様のご予定は、本来三ヶ月前でしたが……まあ、現実的にはある程度の延長はやむを得ないかと思っておりまして」
「やむを得ない、とはどういう意味ですか」
スズキさんは少し困った顔をした。「山田様の現在の状態は、私どものシステムでは強制執行が難しい状態でして……その、お気持ちが強すぎて」



「つまり、私を無理やり連れていく力がない」
「…そのような言い方をされると語弊がありますが……はい、現時点では、山田様のご意志が非常に強力で、システムが機能しない状態です」
「孫が生まれたからですか」
「それが主な理由かと思われます。生命体としての継承意識、というものが、お迎えシステムへの最も強力な拒否信号になるんです」
私は少し考えた。
「黒川博士に聞いたのですが、私の細胞が若返っているそうです。これはどう説明しますか」
スズキさんはため息をついた。「それが、その……想定外の副作用でございまして」
「副作用」
「本来、お迎えシステムへの拒否反応は、精神的なもので終わるはずなんです。でも山田様の場合、それが遺伝子レベルまで波及してしまって……このまま放置すると、理論的には山田様は不老不死に近い状態になる可能性があります」
「それは困るということですか」
「弊局としては……困ります、はい。地球の生命管理サイクルが乱れますので」
「私一人で乱れますか」
「山田様お一人では乱れません。ただ、前例ができてしまいますと……他の方が真似をされる可能性がありまして」
「まあだだよと言えば不老不死になると広まると」
「そういうことになります」スズキさんは柿の種をもう一粒食べた。「実は、すでに一部で噂が広がっておりまして……先週だけで、世界中で三千件ほど試した方がいらっしゃいます」
「効きましたか」
「効いていません。山田様が特殊なケースでして。ただ、弊局としては対応に追われておりまして……」



「何が欲しいですか」私は聞いた。
スズキさんは少し面食らった顔をした。「は?」
「交渉とおっしゃった。交渉というのは、お互いに何かを出して、合意する話でしょう。あなた方が欲しいのは、私がいつかちゃんと死ぬことだ。私が欲しいのは、時間です。こちらの要求を言いますから、向こうの提示を聞かせてください」
スズキさんはしばらく固まっていた。
それからゆっくりうなずいた。
「…おっしゃる通りです。では山田様の、ご要望をお聞かせください」
私は少し考えてから言った。
「孫の翔太が、自分で歩けるようになるまで」
「それは……大体一年から一年半でしょうか」
「それだけあれば十分です。その後は、ちゃんと行きます」
スズキさんはメモを取った。本当に手帳にメモを取った。宇宙の担当者も手帳を持っているらしかった。
「翔太様が自立歩行を確立した時点、ということでよろしいですか」
「結構です」
「かしこまりました。では、弊局に持ち帰りまして……」
「スズキさん」
「はい」
「木村という友人に、連絡は取れますか」
スズキさんは少し驚いた顔をした。
「…取れなくはないですが、何を?」
「宴会の準備をしてくれているそうなので。もう少し時間がかかると伝えてください」
スズキさんは藍色の目をゆっくりまばたきした。
「…伝えます」
「あと、See You とも伝えてください」
「See You…ですね。かしこまりました」
スズキさんは丁寧に頭を下げて帰っていった。
由美子が台所から出てきた。「宇宙人、帰った?」
「帰った」
「どんな人だった」
「普通の人みたいだった。柿の種が好きらしい」
由美子は「そう」と言って、台所に戻った。

第八章 条件


スズキさんから電話があったのは、三日後だった。
「弊局で検討いたしました。山田様のご要望を受け入れることは可能です」
「ありがとうございます」
「ただ、条件が一つございます」
「何でしょう」
「翔太様が歩けるようになった後、スケジュールを実行する際に……山田様に、ご協力をお願いしたいんです」
「協力というのは」
「山田様が自然な形で逝けるよう、その……精神的に、受け入れていただく必要がありまして」スズキさんは言いにくそうだった。「現在の状態が続くと、強制執行ができないんです。山田様が『まあだだよ』の状態を維持されると、私どものシステムが機能しません」
「つまり、私に納得して死んでほしいということですか」
「おっしゃる通りです。大変失礼な言い方なのですが……」
「失礼ではありません。正直で助かります」
私は少し間を置いてから言った。
「それは、やってみないとわかりません」
「は?」
「今は翔太がまだ歩けないから『まあだだよ』です。歩けるようになったときに、その後どう思うかは、そのときにならないとわかりません」
スズキさんは沈黙した。
「それは……困ります」
「でも正直なところです。嘘をついて約束しても意味がないでしょう」
また沈黙があった。
「…そうですね」スズキさんはため息をついた。「山田様は、正直な方ですね」
「一応、教員でしたので」



「では」スズキさんは言った。「こういうことでいかがでしょうか。翔太様が歩けるようになった時点で、改めてお話をしましょう。そのときの山田様のお気持ちを伺って、対応を決めます」
「それで構いません」
「その間、山田様のお体の状態は……現状維持ということになります。老化は止まります」
「老化が止まるのはあまり好きではないのですが」
「なぜですか」
「麻雀仲間に惜しまれて死にたいと申しましたでしょう。あまりに若返ると、麻雀仲間が先に死んでしまいます」
スズキさんはしばらく黙った。
「……それは、難しいご要望ですね」
「できれば、ゆっくり老けていく程度にしてもらえると助かります」
「……調整してみます」
「お願いします」
「かしこまりました。では、翔太様の歩行状況を確認しながら、改めてご連絡します」
「よろしくお願いします。あと、木村への伝言は届きましたか」
「届きました。木村様からの返信もございます」
私は少し心臓が跳ねた。「何と言っていましたか」
スズキさんは少し間を置いてから、言った。
「『わかった、待ってる。それから、See You』とのことです」
私は電話を持ったまま、しばらく黙っていた。
「山田様?」
「…ありがとうございます」
「いえ。では、また連絡します」
電話が切れた。
私は縁側に出て、冬の庭を見た。梅の木がまだ裸のままだった。春になれば咲く。翔太は初めての春を、今年迎える。



その夜、夢を見た。
居酒屋「三平」だった。全員がいた。
木村が正面に座っていて、砂肝を食べていた。
「スズキから聞いたぞ」と木村は言った。
「何を」
「孫が歩くまで、だそうだな」
「そうだ」
木村はビールを飲んだ。「まあ、それくらいなら待てる」
「すまん」
「謝るな」木村は言った。「お前がそういうやつだってことは、ガキのころから知ってる」
「どういうやつだ」
「引き受けたことはちゃんとやる、面倒くさいやつだ」
「それは褒めているのか」
「褒めている」
木村は砂肝をひとつ、私に差し出した。
夢の中の砂肝は、本当に旨かった。
「See You」と私は言った。
「See You」と木村も言った。
今度は、ちゃんと聞こえた。

第九章 まあだだよ


それから七ヶ月が経った。
翔太は今、よちよちと二、三歩歩いてはしりもちをついている段階だ。息子夫婦が毎週末に来て、縁側で翔太を歩かせる。しりもちをつくたびに翔太は泣きそうな顔をして、でもすぐにまた立ち上がって歩こうとする。
「どうして転んでもまた立つんですかね」と息子が言った。
「歩きたいからじゃないか」と私は言った。
「単純ですね」
「単純なことのほうが、大体強い」
息子は少し笑った。
翔太は私の顔を見ると笑う。なぜ笑うのかはわからない。でも笑う。それだけのことだが、それだけのことのために生きているんだな、と私は思っている。



黒川博士は今でも週に一度来る。
私のテロメアは、スズキさんとの約束通り、ゆっくりと適度に短くなっているらしい。「ゆっくり老ける」という調整が効いているようだ。
博士は「前例のないデータが取れている」と言って、毎週楽しそうにしている。袖のカレー染みは右だったり左だったり、たまに両方だったりする。
「山田さん、本を書いてください」と博士は言った。
「私が?」
「山田さんの体験を記録しておくことは、科学的にも、人類史的にも、非常に意義があります」
「大げさな」
「大げさではありません。山田さんは、お迎えと交渉して延長を勝ち取った、地球上でおそらく唯一の人間です」
「交渉というほど大したものでもない」
「書いてください」
というわけで、私はこれを書いている。



友達の数が自分だと、誰かが言っていた。友達の質も自分だと。
私の友達は、木村みたいなやつだ。口数が少なくて、愛想がなくて、死んでも宴会の準備をしているような人間だ。
それが私だということなら、まあ悪くはない。
新しい友達は、もう要らないと思っていた。でもスズキさんと黒川博士と、あと平田さん(パンダのぬいぐるみつきリュックの助手)のことは、まあ友達と言っても良いような気がしている。宇宙人と国立研究所員と院生という珍妙な顔ぶれだが、人生も終盤になるとそういうことになる。
翔太がもうすぐ歩く。
そうしたらスズキさんから電話が来て、改めて話し合いをすることになっている。そのときの私がどんな気持ちかは、今はまだわからない。
「まあだだよ」と言うかもしれない。
言わないかもしれない。
どちらにせよ、木村が待っている。良い女と美味い酒を用意して。
それはそれで、悪い話ではない。
ただ、もう少しだけ、こちらにいさせてもらいたい。
翔太が歩くのを、見てから。



エピローグ 

孫の話


この原稿を書き終えた翌週、翔太が歩いた。
縁側から庭まで、よちよちと、でも一度も転ばずに歩いた。七歩だった。息子が数えた。
翔太は庭に出ると、裸の梅の木に近づいて、幹を両手でぺたぺたと触った。それから振り返って私を見て、笑った。
私も笑った。
その夜、スズキさんから電話が来た。
「翔太様の歩行、確認いたしました。改めてご意向を伺いたいのですが」
私は少し考えた。
庭に梅の花が咲いたら、翔太に見せてやりたい。あの子はまだ梅を知らない。
「スズキさん」
「はい」
「梅が咲くまで、もう少しだけ待ってもらえますか」
長い沈黙があった。
それから、スズキさんは言った。
「…かしこまりました」
少し、笑っているような声だった。
「ありがとうございます」
「なお山田様」
「はい」
「弊局の規定では、このような延長対応は本来できないことになっておりますので……ご内密に願います」
「わかりました」
「それと」スズキさんはまた少し間を置いた。「翔太様の初めての桜も、良ければ。その頃にまたご連絡します」
電話が切れた。

窓の外で、スズメが鳴いていた。
縁側に出ると、梅の木に小さな蕾がついていた。
まだ咲いていない。もう少しで咲く。



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謝辞

黒川博士、毎週ありがとうございます。カレーの染みは右袖のほうが味があります。
平田さん、パンダのぬいぐるみ、翔太が気に入っていました。
スズキさん、あなたのことを友人だと思っています。宇宙人に友人と言うのが失礼であれば謝ります。
木村、待たせてすまん。See You。
翔太、じいじはもう少しここにいる。

山田 六平 記