続々 男の時間 女の時間
目次
⑨〜ホームセンター・男の覚醒〜
⑩〜スーパー特売・夕方五時の攻防〜
⑪〜引っ越し・捨てる捨てないの二十五年〜
⑫〜海外旅行・ハワイ五日間の攻防〜
⑬〜銀婚式・二十五年目の買い物〜
男の時間 女の時間⑨
〜ホームセンター・男の覚醒〜
今日こそ、健一の時間だ。……のはずだった。
まえがき
ホームセンター。
工具、木材、園芸、ペット、自動車用品、塗料。
男にとっての聖地であり、DIYの夢が詰まった場所。
健一はここに来ると、目が輝く。
由美子はここに来ると……ガーデニングコーナーで覚醒する。
どちらが「待つ側」になるかは、入口を入ってみないとわからない。
第一章 棚が壊れた
書斎の棚が壊れた。正確には、棚受けのネジが緩んで、棚板が傾いた。
「直せる?」と由美子が言った。
「直せる。ホームセンターでネジと棚受けを買ってくれば」
「ホームセンター! 私も行く」
「ネジ二本と棚受け四個だぞ」
「でもガーデニング用品も見たくて。プランターが割れちゃったし」
健一は頷いた。今日は自分の用事でホームセンターに行く。これは違う。今日は健一が主役だ。棚のネジを選び、棚受けを選び、ついでに前から気になっていた電動ドライバーも見てみよう。
「任せろ」と健一は言った。珍しく、頼もしい口調で。
第二章 工具コーナーという楽園
ホームセンターに入ると、健一は工具コーナーへ一直線に向かった。
電動ドライバー、ドリル、のこぎり、水準器、クランプ。壁一面の工具が健一を迎えた。
「かっこいい……」と健一はつぶやいた。
マキタの電動ドライバー。バッテリー式で、トルク調整ができて、LEDライト付き。これがあれば棚の修理も楽になる。いや、棚だけじゃない。家中の小修理がDIYでできるようになる。
「健一、ネジどこにある?」と由美子が聞いた。
「奥の方だと思う。先に見てて」
「健一は?」
「少し見てから行く」
由美子が先に行った。
健一は電動ドライバーを手に取った。重さを確かめた。グリップの感触を確かめた。
これは……いい。
「すみません、これのバッテリー持続時間は?」と健一はスタッフに声をかけた。
アウトレットでコーチのバッグを前に輝く由美子と、今の自分が、完全に重なった。
第三章 棚受けよりも電動ドライバー
二十分後、健一はスタッフから電動ドライバーの詳細説明を受け終えた。
由美子が来た。
「健一、何してるの?」
「電動ドライバーを」
「棚のネジを買いに来たんじゃないの?」
「それも買う。でもこれがあると棚だけじゃなくて家中——」
「いくらするの?」
「一万二千円」
「高い!」
健一は聞き覚えのある言葉を聞いた気がした。
「でも長く使うから。一年あたり——」
「それ、私がよく言う計算じゃない」
「そうだな」
「……棚の修理以外に何を直すの?」
「玄関のドアノブが少し緩んでる。洗面台の棚も増やしたい。あとウッドデッキを——」
「ウッドデッキ!? うちにウッドデッキなんてない」
「作れる。材料を買えば」
「健一……」由美子は少し考えた。「まあ……ドアノブは確かに気になってたし」
「だろ?」
「……わかった。買おう」
健一は勝利を感じた。由美子を説得した。これは歴史的快挙だ、二度目の。
第四章 ガーデニングコーナーの女王
電動ドライバーをカゴに入れ、ネジと棚受けを探しに行こうとしたとき、由美子が言った。
「ちょっとガーデニングコーナー見てもいい? プランター割れたし」
「ああ、一緒に行く」
ガーデニングコーナーに入ると、由美子が変わった。
目が輝いた。足が速くなった。
「このプランター、形がかわいい! あ、この多肉植物も! ローズマリー! 育ててみたかったんだよね」
健一は工具コーナーでの自分を思い出した。完全に同じ現象が起きている。
「プランター、何個必要なの?」
「割れたのは一個だけど……これとこれと……」
「由美子」
「なに?」
「俺、さっきの工具コーナーで由美子の気持ちがわかった気がした」
由美子が振り返った。
「好きなものが並んでると、全部欲しくなるんだろ」
由美子は少し笑った。
「……やっとわかってくれた?」
「まあ」
「じゃあプランター三個でもいい?」
「……好きにしろ」
第五章 木材コーナーという夢
ネジと棚受けを見つけ、ついでに健一は木材コーナーを覗いた。
ここには可能性がある。二×四材、合板、OSB、集成材。これらを組み合わせれば、棚も、収納ボックスも、テーブルも作れる。
「健一、何してるの?」
「DIYでいろいろ作れないかと思って」
「何を作るの?」
「まずは書斎の本棚。それから——」
「本棚はIKEAで買ったばかりじゃない」
「もう一個あってもいい」
「なんで?」
「……本が増えてるから」
由美子は健一を見た。
「健一、DIYしたいんだ」
「まあ」
「電動ドライバーも買ったし」
「そういうことだ」
由美子は少し考えた。
「……書斎なら好きにしていいよ。でも私の部屋には何も作らないで」
「なぜ」
「なんか不安」
健一は笑った。由美子も笑った。
第六章 レジと積載
レジに並んだ。
電動ドライバー、ネジセット、棚受け四個、プランター三個、ローズマリーの苗、培養土、ガーデニング用手袋、木材二枚(「とりあえず」)、木材用ニス(「色を塗りたい」)。
「どっちが多く買ったかな」と由美子が言った。
「……五分五分くらいか」
「電動ドライバーが高いから、金額は健一の方が上かな」
「プランター三個と土と苗と手袋もなかなかだぞ」
合計、二万三千円。
「棚のネジを買いに来たのに」と由美子が言った。
「お互い様だな」と健一が言った。
二人は顔を見合わせた。
「アウトレットと同じだ」と由美子が言った。
「そうだな」と健一が言った。
今日だけはどちらが「待つ側」でもなかった。二人とも、自分の好きなコーナーで、自分の好きなものを見ていた。
エピローグ 棚と花壇
帰宅後、健一は書斎の棚を直した。電動ドライバーは確かに便利だった。ネジが一瞬で締まった。
「速い!」と由美子が驚いた。
「これが工具の力だ」
「玄関のドアノブも直してよ」
「後でやる」
由美子は庭でプランターにローズマリーを植えた。
「育てたことあるの?」と健一が覗いた。
「ない。でも挑戦してみる」
「枯らすなよ」
「枯らさない!……たぶん」
ローズマリーは、三ヶ月後も元気に育っていた。
由美子は毎朝水をやり、「大きくなった!」と報告した。
健一の書斎には、新しい本棚が増えた。ニスを塗った板で作った、不格好だが丈夫な棚だ。
「かっこいいじゃない」と由美子が言った。
「そうか?」
「うん。健一が作ったんだって思うと、なんかいい」
男の時間と女の時間が、ホームセンターでは同じ速度で流れた。
それが今日の発見だった。
(了)
あとがき
ホームセンターは、男女の「好きなもの」が交差する稀有な場所だ。
工具コーナーで男が輝き、ガーデニングコーナーで女が輝く。
互いの「好き」を初めて理解できる場所、それがホームセンターかもしれない。
DIYは、自分で作ることの喜びだ。
ガーデニングも、自分で育てることの喜びだ。
形は違えど、同じ喜びだと、健一は気づいた。
全国のホームセンター愛好家に捧ぐ。
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男の時間 女の時間⑩
〜スーパー特売・夕方五時の攻防〜
半額シールは、人の理性を溶かす。
まえがき
夕方五時。
スーパーのお惣菜コーナーに、店員が現れる。
手には黄色いシール。「半額」と書かれた、あのシールだ。
このとき、スーパーにいるすべての人の目が変わる。
主婦も、サラリーマンも、学生も。
みんな、半額シールに向かって動き出す。
田中夫妻も、例外ではない。
第一章 夕食の使命
「今夜、何食べる?」と由美子が言った。
「なんでもいい」
「なんでもいいって言ったら何でも作るよ?」
「……魚かな」
「じゃあ一緒にスーパー行こう。夕方に行くと半額になってるし」
半額。
健一はこの言葉に弱い。定価で買うより安い。同じものが半分の値段で手に入る。これは合理的だ。
「行こう」と健一は即答した。
夕方五時のスーパーは、独特の空気があった。仕事帰りの会社員、買い物袋を持ったお年寄り、子連れの主婦。みんな少し急いでいる。お惣菜コーナーの前に、人だかりができていた。
「来た! 来た!」と由美子がつぶやいた。
店員が黄色いシールを持って、惣菜の前に立った。
由美子の目が、鷹のように光った。
第二章 半額シール争奪戦
店員がシールを貼り始めた瞬間、由美子は動いた。
健一が「え」と言う間もなく、由美子は惣菜コーナーの前列にいた。
鮭の塩焼き、半額。カゴに入った。
エビフライ、半額。カゴに入った。
肉じゃが、半額。カゴに入った。
「由美子、今夜は二人だぞ」
「わかってる! でも半額だから!」
「エビフライと鮭と肉じゃが、全部食べられない」
「冷凍すればいいじゃない」
健一は由美子の動きを眺めた。アウトレットで見た動きと同じだ。目的物をすばやく確保し、次へ移動し、判断を瞬時に下す。
スーパーの半額コーナーも、由美子にとっては戦場だった。
「健一、あのコロッケ、まだある?」
健一は指さされた方向を見た。コロッケに店員がシールを貼り終えようとしていた。
「あ、残り二個!」
「取って!」
健一は反射的に手を伸ばした。コロッケ二個を確保した。
「ナイス!」と由美子が言った。
健一は自分がチームの一員として機能していることに、奇妙な充実感を覚えた。
第三章 男のスーパーと女のスーパー
健一が一人でスーパーに行くとき、所要時間は十五分だ。
必要なものをメモし(または記憶し)、売り場を直線的に移動し、カゴに入れ、レジへ。迷わない。比べない。余計なものを買わない。
由美子と来ると、所要時間は四十五分から一時間になる。
理由:特売品のチェック、産地の確認(「同じ価格なら国産の方が」)、新商品の発見(「これ見たことない!」)、お菓子コーナーでの熟考、ヨーグルトのメーカー比較。
「由美子、魚売り場は?」
「あ、そうだった! 先にお肉見てきていい?」
「今日は魚じゃなかったの?」
「魚も買うけど、牛肉がタイムセールで——」
カゴに牛肉が入った。
今夜のメニューが、鮭から牛肉中心に変わった。
健一は追いかけた。
第四章 産地と値段と「なんとなく」
野菜コーナー。
由美子はトマトを手に取った。
「国産と輸入、どっちがいい?」
「どっちでも」
「国産の方が高いけど安心だよね」
「まあ」
「でも輸入の方が大きくて安くて……」
「由美子が決めてくれ」
「健一が食べるんだから健一が決めて」
「俺はどっちでもいいんだが」
この循環は横浜の中華街でも起きた、と健一は思った。
「国産」と健一は言った。
「でも輸入の方が大きいから料理しやすいかな……」
「なら輸入で」
「でも産地が……」
「由美子!」
「……国産にする!」
国産トマトがカゴに入った。
健一は「じゃあ最初からそうしろ」とは言わなかった。由美子は考えるプロセスが大事なのだ。それは今ではわかっている。
第五章 レジという審判の場
レジに並んだ。
カゴの中:鮭(半額)、エビフライ(半額)、肉じゃが(半額)、コロッケ(半額)、牛肉(タイムセール)、国産トマト、豆腐、卵、ヨーグルト(新商品)、お菓子(「健一の分」)、パン(「明日の朝用」)。
「今日はお得に買えたね」と由美子が言った。
「半額が四品あったな」
「合計でいくら節約できたかな……鮭が三百円引きで、エビフライが二百円引きで、肉じゃがが百五十円引きで、コロッケが五十円引きで、全部で七百円引き!」
「でも牛肉は当初の予定にはなかったぞ」
「でもタイムセールで安かったし!」
「今夜、全部食べられるのか?」
レジが打ち終わった。四千二百円。
「多かったな」と健一は言った。
「でも七百円お得だよ?」
「四千二百円払ったが」
「節約した七百円に注目して!」
健一はエコバッグに商品を詰めながら、この会話を何度したかを数えようとして、やめた。
第六章 夕食の食卓
帰宅して、由美子が夕食を作った。
鮭の塩焼きと、牛肉の炒め物と、肉じゃが。エビフライとコロッケは翌日用に冷蔵庫へ。
「品数多いな」と健一は言った。
「半額だったから」
「いや、それは知ってるが……美味そうだ」
食卓に並んだ料理は、確かに豊かだった。
鮭を食べた。新鮮だった。牛肉を食べた。柔らかかった。肉じゃがを食べた。ほっとした。
「美味いな」と健一は言った。
「でしょ? 半額でもちゃんと美味しいんだよ」
「半額だから美味いんじゃなくて、由美子が作るから美味いんだろ」
由美子が少し驚いた顔をした。
「……珍しいこと言うね」
「たまには言う」
「もっと言って」
「……たまにしか言わない」
由美子が笑った。健一もビールを一口飲んだ。
エピローグ 日常という積み重ね
翌日、エビフライとコロッケを食べた。
前日より少し衣がしんなりしていたが、由美子がトースターで温め直してくれた。
「ちゃんと美味しい」と健一は言った。
「でしょ! 半額を使い切った!」
「完勝だな」
「でしょ?」
スーパーの夕方特売は、毎週の小さな戦場だ。
半額シールを前に、由美子は戦略家になり、健一はカゴ持ち兼コロッケ確保要員になる。
二人でスーパーに行くと、一人より品数が増えるが、食卓も豊かになる。
男の買い物は最短距離。女の買い物は探索の旅。
でも毎日の食卓を豊かにするのは、その探索の旅の方かもしれない、と健一は思った。
言わないけれど。
(了)
あとがき
夕方のスーパーは、日本の日常の縮図だ。
半額シールを前に、普段は穏やかな人々が少しだけ真剣になる。
その真剣さは、家族のために少しでもいいものを、少しでもお得に、という気持ちから来ている。
買い物は生活だ。生活は毎日だ。
毎日の積み重ねが、夫婦の時間を作る。
今夜の食卓も、誰かが考えて、誰かが買ってきて、誰かが作っている。
日本中の夕食を作るすべての人へ。
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男の時間 女の時間⑪
〜引っ越し・捨てる捨てないの二十五年〜
モノは増える。でも、思い出も増える。
まえがき
夫婦が引っ越しをするとき、二つの価値観が激突する。
男の哲学:使わないものは捨てる。
女の哲学:思い出があるものは捨てられない。
この二つは、どちらも正しい。
だからこそ、一番難しい。
田中夫妻、二十五年間の「もの」と向き合う一日。
第一章 引っ越しの決意
きっかけは、健一の転勤だった。
勤続三十年、初めての地方赴任。大阪支社への異動が決まった。
「大阪か……」と由美子は言った。
「二年か三年で戻れると思う。単身赴任にするか、一緒に行くか——」
「一緒に行く!」と由美子は即答した。
「荷物、どうする? 全部持っていくのか」
「持っていく!……でも多すぎるよね、二十五年分」
「そうだな。引っ越しはいい機会だ。使わないものは全部捨てる」
由美子の顔が少し曇った。
「全部……」
「二十五年分のものが溜まってるんだぞ」
健一は段ボールを買ってきた。マジックを用意した。ラベルを用意した。整然と、システマチックに、断捨離を進める計画を立てた。
由美子は、押し入れを開けて、固まった。
第二章 押し入れという名のタイムカプセル
押し入れの中から、次々とものが出てきた。
新婚旅行のパンフレット。由美子の母から譲り受けた着物。健一のゴルフトロフィー(部内コンペ、三位)。ハワイ旅行のガイドブック(十五年前)。引き出物でもらったティーカップ。二人で初めて行ったコンサートのチケットの半券。
「捨てるもの、捨てないもの、どっちに分ける?」と健一は言った。
由美子はチケットの半券を手に取った。
「……これ、付き合ってた頃に一緒に行ったコンサートのやつ」
「覚えてる。でも今は使わない」
「捨てられない」
「じゃあ持っていく」
「でも大阪の家は少し小さくなるし……」由美子は半券を胸に抱えた。
健一は黙った。捨てろとは言えなかった。
「……持っていこう」と健一は言った。
捨てる予定の半券が、持っていくものに変わった。
これが一日に何度も繰り返されることを、健一はこの時点ではまだわかっていなかった。
第三章 男の断捨離と女の断捨離
健一の断捨離は速かった。
着ない服→捨てる。壊れた家電→捨てる。読まない本→古本屋へ。使わないゴルフクラブ(古いセット)→売る。判断が速く、迷いがない。
午前中で、健一サイドの荷物整理は八割完了した。
由美子の断捨離は、進まなかった。
一つのものを手に取るたびに、記憶が呼び起こされる。
「これ、結婚式の引き出物のティーカップ。まだ使えるよね」
「二十五年前のカップを今も使うのか?」
「でも思い出があるから」
「思い出はカップの中にあるのか?」
「……ある!」
ティーカップは持っていくものに分類された。
「由美子、このぬいぐるみは?」健一が押し入れの奥から大きなクマのぬいぐるみを引っ張り出した。
「あ!! くまちゃん!!」
由美子は走り寄った。クマを抱きしめた。
「これ、大学のとき付き合ってた——」
「誰から?」
「……友達から」
「友達」
「友達! 持っていく」
クマは持っていくものになった。
第四章 二十五年分の服という山脈
クローゼットを開けた。
服が、溢れていた。
「由美子、これ全部由美子の服か?」
「半分はそう。あとはシーズンオフのとか、思い出があるとか」
「着てない服は捨てよう」
「着てないのには理由があって、痩せたら着ようと思ってるやつと、また流行りが来るかもしれないやつと——」
「痩せたら着るやつ、いつから痩せる予定なんだ?」
「……いつかは痩せる!」
「流行りが来るやつは、いつ来る?」
「……ファッションは繰り返すから!」
健一は一着のワンピースを取り出した。派手な花柄。
「これは?」
「それは!……三十代の頃よく着てたやつ」
「今も着る?」
「……着ない。でも」
「捨てよう」
「でも! これ着てた頃の私、元気だったな〜って」
健一はワンピースを見た。確かに、由美子はよく着ていた。明るくて、若くて、よく笑っていた。今も笑っているが、あの頃の笑顔は少し違った。
「……持っていこう」と健一は言った。
「え?」
「持っていっていい。捨てなくていい」
由美子の目が少し潤んだ。
「……ありがとう」
第五章 健一の引き出しから
健一の書斎の引き出しを整理したとき、由美子が覗いた。
「これ何?」
古い封筒が出てきた。
「……手紙」と健一は言った。
「誰からの?」
「由美子からの。付き合ってた頃の」
由美子が固まった。
「捨ててないの?」
「捨てられなかった」
二十五年前の手紙。由美子の若い字で書かれた手紙。健一は一枚も捨てていなかった。
「……見てもいい?」と由美子が言った。
「自分で書いたやつだろ」
「でも恥ずかしくて」
「見なくていい」
「見る!」
由美子は手紙を一枚取り出した。読み始めた。しばらくして「恥ずかしい……」と言った。
「捨てるか?」
「捨てない!! 持っていく」
手紙は持っていくものになった。
「健一、捨てないでいてくれてありがとう」と由美子は言った。
「……なんとなくな」と健一は言った。
なんとなく、ではなかった。でも、そうとしか言えなかった。
第六章 捨てるものと持っていくもの
夕方、整理が終わった。
捨てるもの:壊れた家電、読まない本、使わない食器(大量)、古い雑誌、サイズの合わない服(一部)。
持っていくもの:コンサートの半券、由美子への手紙、花柄のワンピース、クマのぬいぐるみ、ティーカップ、ゴルフトロフィー(三位)、新婚旅行のパンフレット。
「思ったより捨てられなかったな」と由美子が言った。
「思ったより捨てなくていいと思った」と健一が言った。
「……そう?」
「使わないものは捨てる。でも思い出は捨てなくていい」
「最初と言ってることが違う」
「……変わった」
由美子は笑った。
「大阪、楽しみだね」
「そうか?」
「二人で新しい街に行くの、なんかわくわくする」
「新婚みたいだな」
「そう! 第二の新婚生活!」
健一は少し笑った。
「大阪にもアウトレット、あるかな」
「調べる! 絶対ある!」
由美子はすでにスマートフォンを取り出していた。
第七章 新しい街と古い記憶
大阪の新居に引っ越して一ヶ月後。
棚の上に、クマのぬいぐるみが置かれていた。
クローゼットの奥に、花柄のワンピースが掛かっていた。
健一の書斎の引き出しに、手紙の束が入っていた。
ティーカップは食器棚の、一番取り出しやすい場所に置かれた。
「なんかいい家だね」と由美子が言った。
「ものが減ったからすっきりしたな」
「減ったけど、大事なものは全部ある」
「そうだな」
健一は窓の外を見た。大阪の街が広がっていた。東京とは違う、少し賑やかな空気があった。
「大阪、どこに買い物行こうかな」と由美子が言った。
「もう調べてるんだろ」
「もちろん! なんばと梅田と、りんくうアウトレットが——」
「りんくう……」
「広いらしいよ!」
健一は深呼吸をした。
新しい街でも、由美子は由美子だった。それが、なぜか安心した。
エピローグ 二人の荷物
男は使えるものを残す。女は思い出があるものを残す。
どちらも、大事なものを残している。形が違うだけで。
健一が捨てなかった手紙は、二十五年分の由美子の言葉だ。
由美子が捨てなかったワンピースは、二十五年前の自分への敬意だ。
引っ越しとは、荷物を運ぶことではない。
何を持っていくかを、二人で決めることだ。
「大阪のスーパー、夕方の半額どうかな」と由美子が言った。
「どこでも半額はあるだろ」
「でも関西は値引き交渉が激しいって聞いた」
「スーパーで交渉はしない」
「するかもよ?」
新しい街で、二人の時間が、また始まった。
(了)
あとがき
引っ越しは、人生の棚卸しだと思う。
二十五年分のものと向き合うとき、それはそのまま二十五年分の時間と向き合うことになる。
捨てることは、整理することだ。
残すことは、大切にすることだ。
どちらも必要だ。
田中夫妻が大阪に持っていったものは、必要最低限ではなかった。
でも、それでいい。
二人の時間が詰まっているのだから。
引っ越しを経験したすべての夫婦へ。
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男の時間 女の時間⑫
〜海外旅行・ハワイ五日間の攻防〜
スーツケースは、帰りに必ず満杯になる。法則のように。
まえがき
ハワイ。
夫婦旅行の王道にして、最高峰の舞台。
青い空、白い砂浜、アロハシャツ
そして免税店、アラモアナショッピングセンター、ABCストア。
健一は海を見に行く。
由美子はショッピングセンターを制覇しに行く。
二人は同じ飛行機に乗って、別の旅をする。
第一章 スーツケースという序章
「五日間だから、スーツケースはこれでいいか」と健一は言った。
中型スーツケース。着替え五日分、水着、日焼け止め、常備薬。半分も埋まっていない。
由美子のスーツケースは、大型だった。
「それ、帰りに入らないと思うが」
「入る!」
「行きですでにいっぱいじゃないか」
「帰りはうまくやる」
うまくやる。この言葉が何を意味するか、健一には見当がついた。
出発前夜、由美子は「もしものため」にエコバッグをスーツケースに入れた。
三枚。
「三枚も?」
「お土産が多くなったとき用。それぞれ別の人に渡すものを分けておくと楽なの」
旅が始まる前から、お土産の仕分け計画が完成していた。
第二章 機内という密室の七時間
羽田からホノルルへ、約七時間。
健一は離陸後すぐに眠った。機内食を食べて、また眠った。着陸前に起きた。これが健一の飛行機の正しい使い方だ。
由美子は眠れなかった。
機内誌を読み、ハワイの観光情報を確認し、地図を頭に入れ、スマートフォンでアラモアナの店舗リストを調べ、お土産リストに追記し、免税店で買うものを考え、ホテルのレストランの評判を調べた。
「眠れなかったの?」と健一が目を覚まして言った。
「眠れなかったけど充実してた!」
「何してたの?」
「調べもの。ハワイのこと全部把握した」
「全部?」
「アラモアナの行くべき店と、お土産で買うものと、ランチのおすすめと——」
「寝ればよかったのに」
「寝てたら損じゃない!」
損。飛行機の中で寝ることが「損」かどうか。
健一には永遠に理解できない感覚だった。
第三章 ワイキキビーチと二つの時間
ホテルにチェックインし、まずビーチへ。
健一はビーチチェアに寝転んだ。
青い空。白い雲。波の音。潮の匂い。
「最高だ……」
これだ。これが旅行だ。何もしない。ただここにいる。
三十分後、由美子が言った。「ビーチの写真撮ってよ」
健一はスマートフォンを取り出した。由美子がポーズを決めた。撮った。
「もう一枚。こっちから」
「これは?」
「もう一枚。笑顔のやつ」
十枚撮った。
「次、あのヤシの木の前で」
ヤシの木の前でも十枚撮った。
「次、海をバックに」
「由美子、俺も海を見たいんだが……」
「あと一枚!」
健一は思った。由美子の「あと一枚」は、コーチの「最後の一軒」と同じだ。絶対に一枚では終わらない。
結局三十枚撮った後、健一はビーチチェアに戻った。
残りの時間、平和だった。
第四章 アラモアナという名の迷宮
アラモアナショッピングセンター。ハワイ最大のショッピングモール。
由美子の目が、ホノルル空港を降りた瞬間から輝いていた。来ることが決まっていたからだ。
「まずどこから?」
「ノードストロームから! コーチとケイトスペードも見たい、ロコリピとロコレレも——」
「どのくらいかかる?」
「全部回ったら……四時間?」
「四時間!」
「でもここにしかないものがあるし」
健一は入口のベンチに座った。夫族は、ここにも存在した。アメリカ人も、中国人も、韓国人も。みんな同じ顔をして、スマートフォンを見ていた。
国境を超えて、夫族は繁栄していた。
二時間後、由美子が戻ってきた。両手に袋を持っていた。
「もう終わり?」と健一は聞いた。
「まだ半分! 次はハワイアンジュエリーのお店と——」
「コーヒー飲んでていい?」
「どうぞ!」
健一はコーヒーショップでアイスコーヒーを飲み、ハワイの風に当たった。
悪くなかった。
第五章 免税店という最終決戦
帰国前日、空港の免税店へ。
「ここで最後のお土産を」と由美子は言った。
免税店は広かった。お酒、化粧品、チョコレート、マカダミアナッツ、ハワイアンクッキー。
「マカダミアナッツは何個買うの?」
「十個! 会社用と、ご近所用と、姪っ子用と……」
「十個!」
「分けると足りなくなるから多めに」
健一はお酒コーナーへ行った。ハワイのウイスキーが気になった。
「これ、日本で買えない銘柄だな」
「いくらするの?」
「四千円くらい」
「……まあ、お土産だし」と由美子は言った。
由美子がウイスキーを認めた。健一は素直に嬉しかった。
「マカダミアナッツ、一個追加してもいいか? 上司用に」
「もちろん!」
お互いが、相手の買い物を認め合った。
五日間でようやく到達した、ハワイの境地だった。
第六章 スーツケースの奇跡
ホテルの部屋で荷物をまとめた。
由美子のスーツケースに、五日分の戦利品を詰め込んだ。
「入るか?」と健一は心配した。
「入る! 任せて」
由美子は袋を畳み、箱を重ね、隙間に柔らかいものを詰めた。パズルのように、立体的に、無駄なく。
「すごいな、これ」
「パッキングは得意なの」
「そうか」
スーツケースが閉まった。
「入った!!」
「奇跡だ」
「奇跡じゃないよ。計算通り」
健一の中型スーツケースは、行きと変わらなかった。
ウイスキーとマカダミアナッツが加わっただけで、まだ隙間があった。
「健一のスーツケース、もっと使えばよかったのに」
「……そうか?」
「来年はもっと買っていいからね」
「来年も来るのか?」
「来たい!」
健一は窓の外を見た。ホノルルの青い空が最後の光を放っていた。
「……考える」
「また考えるって言った!」
第七章 帰国と荷物整理
帰国。
由美子はお土産を配る作業に、帰国当日から取り組んだ。会社用、ご近所用、姪っ子用、友達用——エコバッグで分けておいたおかげで、スムーズだった。
「あの準備、役に立ったな」と健一は言った。
「でしょ? 三枚持っていってよかったでしょ」
「……そうだな」
健一のウイスキーは、書斎の棚に飾られた。
「飲むの?」
「特別なときに」
「いつが特別なの?」
「……考える」
「また考えてる!」
由美子が笑った。健一も笑った。
ハワイのお土産が、少しずつ日常に溶けていった。
マカダミアナッツは三日で食べ切った。
ウイスキーは、由美子の誕生日に二人で開けた。
「美味しい!」と由美子が言った。
「だろ」と健一は言った。
エピローグ 旅のあとに残るもの
ハワイから帰って一ヶ月後。
由美子はハワイで撮った写真をアルバムにまとめた。
「見て! きれいに仕上がった」
健一はアルバムを開いた。ワイキキのビーチ、ヤシの木の前の由美子、海をバックにした二人の写真、夕暮れのダイヤモンドヘッド。
「誰が撮ったんだ、この二人の写真」
「通りすがりのアメリカ人に頼んだ」
「ちゃんと撮れてるな」
「『Beautiful couple!』って言ってくれて」
「そうか」
健一はアルバムを閉じた。
旅のあとに残るのは、買ったものではない。
写真と、記憶と、「また行きたい」という気持ちだ。
由美子が「また行きたい」と言うのは、ショッピングのためだけではないだろう、と健一は思った。
あのビーチで、二人で並んで海を見た時間のためでもあるはずだ。
「来年、ハワイどうする?」と由美子が聞いた。
「……行こう」と健一は言った。
由美子が驚いた顔をした。
「考えなくていいの?」
「もう考えた」
(了)
あとがき
ハワイは、日本人が最も愛する海外旅行先のひとつだ。
その理由は、気候でも、食事でも、自然でもなく——
「また行きたい」と思わせる何かがあるからではないだろうか。
それは人によって違う。
ショッピングかもしれない。ビーチかもしれない。食事かもしれない。
あるいは、一緒に行く人かもしれない。
田中夫妻のハワイは、二つの旅が一つになった五日間だった。
ハワイを愛するすべての人へ。そして、いつか行きたいと思っているすべての人へ。
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男の時間 女の時間⑬
〜銀婚式・二十五年目の買い物〜
二十五年前、二人は何も持っていなかった。 二十五年後、二人は何でも持っている。
まえがき
シリーズ最終巻。
田中健一、五十三歳。田中由美子、五十歳。
結婚二十五周年——銀婚式の年を迎えた。
由美子は言った。「お祝いしたい」
健一は言った。「……考える」
由美子は言った。「決まり」
今日だけは、二人が主役の買い物だ。
第一章 銀婚式という発見
「ねえ、今年って結婚何年目か知ってる?」と由美子が言った。
健一はコーヒーを飲みながら考えた。
「……二十五年か」
「そう! 銀婚式の年なの」
「銀婚式」
「二十五周年のことよ。お祝いしたいな」
健一は少し考えた。二十五年。長いような、あっという間のような。御殿場アウトレット、横浜、コストコ、IKEA、温泉、家電量販店、薬局、百円ショップ、ホームセンター、スーパー、大阪、ハワイ——気づけば二人でずいぶんいろんな場所を歩いた。
「どうお祝いするんだ?」
「レストランで食事して、衣装も新しいの着て、指輪もせっかくだから新調したいな」
健一の脳内で、今日の買い物リストが展開し始めた。衣装、指輪、レストランの予約。
「……わかった。一緒に選ぼう」
由美子が目を輝かせた。
「本当に!? やった! じゃあまず衣装から——」
健一はコーヒーを飲み干した。今日は長い一日になる。でも、悪くない予感がした。
第二章 衣装選びという二十五年ぶりの儀式
婚礼衣装を扱うセレクトショップに入った。
二十五年前、結婚式の衣装を選んだのもこういう場所だった。あの頃の健一は緊張していた。何を着ればいいかわからなかった。由美子に全部任せた。
今日は違う。
「健一、スーツにする? タキシードにする?」
「スーツでいい」
「ちゃんと選んで! 二十五周年なんだから」
スタッフが案内してくれた。濃紺のスーツ、グレーのスーツ、チャコールブラック。
「こちらなどはいかがでしょう」とスタッフが濃紺を勧めた。
健一は試着した。鏡を見た。
「……まあ、悪くないな」
「似合う!」と由美子が言った。「それにしよう」
「早い」
「似合うんだから早くていいじゃない」
健一の衣装は十分で決まった。
由美子の衣装選びは、そこから一時間かかった。
ドレス、スーツ、和装。試着を重ね、スタッフと話し込み、健一に何度も意見を求めた。
「どれがいい?」
「全部似合う」
「そういうことじゃなくて」
「……二十五年前の結婚式で着てた色、何色だっけ?」
「白……でもそれは結婚式だから。今日は違う色がいいな」
「水色は?」と健一は言った。「由美子、昔よく着てたじゃないか」
由美子がはっとした顔をした。
「……水色のドレス、ある?」とスタッフに聞いた。
第三章 指輪という二十五年
ジュエリーショップに入った。
健一は宝石店が苦手だった。何がいいのか、何が高いのか、何が普通なのか、何もわからない。完全なアウェーだ。
「結婚指輪、新調するの?」
「新調というか……お揃いの記念のを買いたい。銀婚式だから銀のやつがいいかな」
スタッフがシルバーのリングを並べてくれた。細いもの、幅広のもの、石の入ったもの。
「健一、これどう?」由美子がシンプルな細いシルバーリングを指に当てた。
「きれいじゃないか」
「これと同じシリーズのメンズはある?」とスタッフに聞いた。
お揃いのリングが出てきた。
健一は自分の指にはめてみた。二十五年前の結婚指輪はゴールドだった。これはシルバー。二十五年目の色だ。
「いいな」と健一は言った。
「本当に? 気に入った?」
「ああ」
由美子がにこにこした。
「じゃあこれにしよう! お揃いで買うのって、結婚指輪以来だね」
「そうだな」
「二十五年ぶり」
「……長かったな」
「長かった?」と由美子が少し不安そうに言った。
「いや……あっという間だったな」
由美子が笑った。
第四章 レストランの予約という戦い
レストランをどこにするか。これも難問だった。
「どんな店がいい?」と由美子が聞いた。
「なんでもいい」
「なんでもいいって言ったね」
「……言ったが」
「じゃあ由美子に任せる、ということで!」
「そこまでは言っていない」
由美子はスマートフォンで調べ始めた。フレンチ、イタリアン、和食、鉄板焼き。
「銀婚式のお祝いに来るカップルが多い店、どこかな……」
「そんなことまで調べるのか」
「雰囲気が大事じゃない! 二十五年に一度なんだから」
三十分後、由美子が「ここにしよう!」と言った。丸の内の夜景が見えるフレンチレストランだった。
「高くないか?」
「二十五年に一度よ?」
「……そうだな」
「一年あたりで割ったら——」
「それは俺が言う計算だ」
「たまには私も使う!」
二人で笑った。レストランを予約した。
第五章 二十五年前を探す
夕方、帰り道に由美子が言った。
「ねえ、結婚式のアルバム、最近見た?」
「何年も見てないな」
「家に帰ったら見よう」
帰宅して、押し入れの奥からアルバムを出してきた。引っ越しのたびに持ち歩いてきた、重いアルバムだ。
二人でソファに座って開いた。
二十五年前の健一と由美子がいた。
健一は若かった。髪が黒かった。緊張した顔をしていた。
由美子は白いドレスを着ていた。笑っていた。
「若い……」と由美子が言った。
「ああ」
「健一、この頃より老けたね」
「由美子もだ」
「私は変わってない!」
「変わってる」
「どこが!?」
「……まあ、変わってないか」
「急にどっちなの!」
由美子が笑った。健一も笑った。
アルバムをめくった。披露宴、ケーキカット、友人たちとの写真。
「懐かしいね」と由美子が言った。
「ああ」
「この頃は、二十五年後のことなんて想像もしてなかった」
「俺も」
「こんなにいろんなところに行くとは思ってなかった」
「アウトレットに何十回行くとは思ってなかったな」
由美子がくすくす笑った。
第六章 銀婚式の夜
当日。
由美子は水色のドレスを着た。健一は濃紺のスーツを着た。
二人とも、新しいシルバーのリングをはめた。
「きれいだよ」と健一は言った。
「急に!」
「たまには言う」
「もっと言って」
「……たまにしか言わない」
タクシーで丸の内へ向かった。
レストランは静かで、落ち着いていた。窓の外に東京の夜景が広がっていた。
乾杯した。シャンパンが泡立った。
「二十五年、お疲れ様」と由美子が言った。
「お疲れ様」と健一も言った。
グラスが触れ合った。
料理が運ばれてきた。前菜、スープ、魚料理、肉料理。由美子は写真を撮った。健一は「冷める」と言った。由美子は「一枚だけ!」と言ってから五枚撮った。
何も変わっていない。
それが、よかった。
第七章 帰り道のシルバー
食事を終えて、夜の丸の内を少し歩いた。
由美子が健一の腕を取った。
「ねえ、二十五年でどこが一番楽しかった?」
「どこって……」
「御殿場? ハワイ? 大阪?」
健一は少し考えた。
「……どこも、まあ悪くなかった」
「それだけ?」
「由美子と行くから、まあ悪くなかった」
由美子が立ち止まった。健一の顔を見た。
「……健一、今日おかしい。いいことばかり言う」
「銀婚式だから」
「次の二十五年も言ってよ」
「次の二十五年か……」
「八十近くなるね、二人とも」
「アウトレットを歩けるか」
「歩く! 車椅子でも行く!」
健一は笑った。
「……行こう」
由美子がにっこりした。
「決まり!」
エピローグ 男の時間・女の時間・二人の二十五年
翌朝。
健一はコーヒーを淹れた。由美子の分も。
由美子が降りてきた。左手のシルバーリングが光った。
「コーヒー、ありがとう」
「ああ」
二人でコーヒーを飲んだ。
「昨日、楽しかったね」と由美子が言った。
「ああ」
「指輪、気に入った?」
健一は左手を見た。シルバーのリング。二十五年目の色。
「ああ」
「次は金婚式ね。五十周年」
「二十五年後か」
「どこで食べようかな」
「まだ二十五年ある」
「計画は早い方がいい!」
男の三十分は、女の一時間に相当する。
それは二十五年経っても変わらない。
でも二人の時間は、いつも同じ場所に流れ着く。
コーヒーテーブルの前、並んで座って。
「来週、御殿場行かない?」と由美子が言った。
「先週行ったばかりだ」
「秋の新作が入ったって!」
「……考える」
「また考えるって言った!」
「まだ考えてる」
窓の外に、穏やかな朝が広がっていた。
今日も、二人の時間が始まる。
田中健一・由美子の物語、完。
(シリーズ完結)
あとがき
十三巻、書き終えました。
田中健一と由美子は、御殿場アウトレットから始まり、横浜、コストコ、IKEA、温泉、家電量販店、薬局、百円ショップ、ホームセンター、スーパー、大阪への引っ越し、ハワイ——そして銀婚式まで、共に歩きました。
男の三十分は、女の一時間に相当する。
最初に書いたこの一行が、このシリーズのすべてです。
時間の使い方が違っても、目的地が違っても、価値観が違っても——
同じ場所に帰ってくる二人がいれば、それが夫婦というものかもしれません。
次の二十五年も、由美子は「最後に一軒だけ」と言い続けるでしょう。
健一は「考える」と言い続けるでしょう。
そしてまた、同じ場所に流れ着くでしょう。
どこかで健一と由美子に似た夫婦が、今日も買い物に行っていることを願いながら。
長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。

