男の時間 女の時間
〜御殿場アウトレット大作戦〜
田中健一・由美子の夫婦漫才録
まえがき
この小説は、日本全国のあらゆるアウトレットで、毎週末繰り広げられている、ある風景を元にしています。
夫は疲れた顔をしています。妻は生き生きしています。
これは普遍的な真実です。
そして、それでいいのかもしれない、という話でもあります。
第一章 運命のアウトレット
田中健一、五十二歳。大手メーカーの営業部長。週末の朝は静かにコーヒーを飲み、NHKのニュースを見て、午後はゴルフの素振りをする。それが彼の黄金律であった。
その平和な土曜日の朝、妻の由美子が言った。
「ねえ、今日アウトレット行かない?」
健一の右手が止まった。コーヒーカップが宙に浮いたまま、三秒間、時が止まった。
「……アウトレット?」
「そう! 御殿場のアウトレット。秋のバーゲン始まったって、ゆかりちゃんから連絡来てて」
由美子、四十九歳。専業主婦歴二十五年。買い物においては、北島三郎と同じレベルの人間国宝である。彼女が「ちょっと見るだけ」と言った場合、帰宅は必ず日没後になる。これは科学的に証明された事実だ……と健一は確信していた。
「今日は……素振りを」
「ゴルフはいつでもできるでしょ。アウトレットは今日だけよ?」
論理的にはおかしい。アウトレットは明日も来週も存在する。しかし由美子の「今日だけ」には、時空を歪める力がある。健一はそれを二十五年間で学んでいた。
「……わかった」
かくして田中健一の運命の歯車は、ゆっくりと、そして取り返しのつかない方向へと回り始めた。
第二章 出発前の三十分と永遠
「十時に出よう」と由美子は言った。それを健一は「十時に玄関を出る」と解釈した。
しかし由美子の「十時に出よう」の意味は、「十時頃に支度を始めようかな」であった。
健一が玄関で靴を履いたのは九時五十五分。スニーカー、帽子、財布、スマートフォン。所要時間、四分。
「由美子、準備できた?」
「もうちょっと!」
この「もうちょっと」が何分を意味するか、健一には想像もできなかった。五分か、十分か、それとも——
健一は玄関に立ったまま、スマートフォンでゴルフのスコア管理アプリを開いた。先月のラウンドを分析し始めた。七番アイアンのミスショットの傾向について考察していると、
「できた! 行こっか」
時計を見ると、十時三十七分だった。
「……三十七分」
「え?」
「いや、何でもない」
由美子はバッグを三つ持っていた。メインのバッグ、エコバッグ、そして「念のため」の布バッグ。
「バッグ、三つ?」
「だって買ったもの入れないといけないし」
健一は深呼吸をした。まだ何も買っていないのに、買ったものを入れる袋の準備をしている。これが男と女の根本的な違いだと、彼は思った。男は出陣してから武器を探す。女は開戦前に弾薬庫を用意する。
どちらが賢いかは、言わずもがなである。
第三章 東名高速の哲学
東名高速を御殿場に向けて走りながら、健一は「買い物」というものについて深く考えた。
男の買い物とは何か。それは「問題解決」である。靴が古くなった→新しい靴を買う。これだけだ。目的地は明確で、行動は最短ルートを取り、完了したら帰宅する。まるで軍事作戦のようなものだ。
女の買い物とは何か。それは「探索と発見」である。何を買うかは現地で決まる。いや、現地でも決まらないこともある。気分と値段と「なんとなく」が複雑に絡み合い、最終的に「あ、これ!」という天啓のような瞬間が訪れる。それがゴールだ。
「ねえ、今日は何が欲しいの?」と健一は聞いた。夫として、妻の目的を理解しようとする、誠実な試みであった。
「う〜ん……何があるかな〜って」
「何があるかな……」
「去年ジャケット買ったじゃない? あれに合うパンツを探してるんだけど、でもセーターも見たいし、靴も気になってて、あとコーチのバッグがセールになってたらいいな〜って思ってて、でも無理に買わなくてもいいんだけどね」
健一は前方の富士山を見つめた。堂々とした、ぶれない山だ。目的が明確で、頂上が決まっていて、下山路も整備されている。
富士山は偉大だ、と健一は思った。
「健一、なんか考えてる?」
「富士山、きれいだなって」
「もう、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。どのゲートから入るか考えなきゃ」
健一は富士山への敬意を胸にしまい、ナビに目を戻した。
第四章 アウトレット、開門
御殿場プレミアム・アウトレット。日本最大級の規模を誇る、巨大なショッピングの聖地である。
駐車場に車を止めた瞬間、由美子の目が変わった。健一はそれを見た。なんというか……スイッチが入った、というか。瞳の奥に炎が灯ったというか。武将が戦場を見渡す、あの目だ。
「まずコーチから行こう! 混む前に!」
由美子は早足になった。健一は小走りでついていく。
「ちょっと待って、地図で——」
「わかってる! こっち!」
由美子はアウトレットの地図を頭に入れていた。健一は「なぜ地図を事前に記憶しているのか」という疑問を飲み込んだ。
コーチの店舗に入ると、そこはすでに戦場であった。主婦たちがバッグを吟味し、値札を確認し、スタッフに質問を浴びせていた。それぞれが自分の使命を帯びた、プロフェッショナルな顔をしていた。
健一は入口近くに立った。男性客が数名、同じような顔をして同じような場所に立っていた。彼らは自然と無言のシンパシーで繋がり、スマートフォンを取り出し、それぞれの時間を潰し始めた。
これが「夫族」である。
夫族の生態:妻の買い物に同行した夫たちが、店舗の片隅や入口付近で自然発生的に形成するグループ。共通言語はなく、目的も共有しないが、「待つ」という行為によって強固に連帯している。
「健一、こっち来て! どっちがいい?」
健一は呼ばれた。茶色のバッグと黒いバッグ、二つが差し出される。
「……どっちも同じじゃ?」
由美子の目が細くなった。
「全然違うでしょ。このステッチの感じと、持ち手の太さと——」
「黒い方」
「え、でも茶色の方が今年っぽくない?」
「じゃあ茶色」
「でも黒の方が使いやすいか……」
健一は悟った。この質問に正解はない。彼は感想を求められているのではなく、思考の壁打ち相手として機能することを求められているのだ。
「両方似合うと思うよ」
由美子は少し考えてから、笑った。
「でしょ? じゃあもう少し考えよっか」
健一は再び夫族の元へ戻った。
第五章 男の三十分・女の三十分
健一がアウトレットに来て三十分が経った。
健一の三十分の内訳:コーチの店舗前で待機・二十分。由美子に呼ばれてバッグの意見を求められる・五分。夫族の仲間たちと無言の連帯・五分。
健一の精神状態:疲労困憊。足裏の痛み初期症状あり。コーヒーが飲みたい。ゴルフのことを考えている。
由美子の三十分の内訳:コーチにて七つのバッグを試す・十五分。スタッフに詳細な質問・五分。他の客のバッグを観察・五分。健一に意見を求める・三分。もう一度最初のバッグを手に取る・二分。
由美子の精神状態:絶好調。ウォームアップ完了。本番これから。
「健一! 決めた!」
健一は顔を上げた。由美子の手に、茶色のバッグがあった。
「茶色にしたの?」
「そう! やっぱり今年っぽいし」
「……さっき黒にしようとしてなかった?」
「したしたー。でも茶色の方がいい気がしてきた。ねえ、これいくらだと思う?」
値札を見た。定価の四十パーセントオフ、三万八千円。
「三万八千円」
「そう! 定価が六万三千円だから、二万五千円もお得じゃない!」
健一の脳内で電卓が動いた。お得な金額は、支出していない金額だ。三万八千円を払うことは、三万八千円の支出である。
しかし、この論理を口にしてはいけない。これもまた、二十五年間で学んだ知恵だ。
「……よかったね」
「でしょ! じゃあ次、パンツ見に行こ!」
健一の足が一歩、後退した。
「次……?」
「まだ始まったばっかりだよ? この先にラルフローレンとギャップとアディダスがあるし、靴も見たいし」
健一は時計を見た。十一時十五分。帰宅予定……未定。
遠くに富士山が見えた。
第六章 ラルフローレンの試練
ラルフローレンに入った。広い店内に、ポロシャツ、ジャケット、パンツ、スカートが美しく陳列されている。
由美子はまずパンツのコーナーへ。サイズを確認し、色を比べ、生地を触り、着てみたい候補を五本抱えた。
「試着してくる!」
「……うん」
試着室の前に、椅子が置いてある。そこにも夫族が三名、座っていた。
健一は彼らの隣に腰を下ろした。
左隣の男性は六十代くらいで、静かに目を閉じていた。瞑想か、睡眠か。いずれにせよ達人の境地だ。
右隣の男性は三十代で、スマートフォンでサッカーの動画を見ていた。イヤホンをしていないので、スタジアムの歓声が小さく漏れ聞こえていた。
健一もスマートフォンを取り出した。ゴルフのニュースを読んだ。松山英樹の最新情報を確認した。
十分後、由美子が試着室から出てきた。紺のパンツを履いている。
「どう?」
「似合う」
「本当に? お尻大きくない?」
「大きくない」
「でもこのサイズだとウエストがちょっと余るんだよね。一個下にすると太ももがきつくて」
「じゃあ、今のサイズで」
「でも余るのが気になって……」
健一は試着室の奥を見た。カーテンが揺れている。他の女性客も試着中だ。
「ベルトで調整すれば?」
由美子の目が輝いた。
「それだ!! ベルトも見ようか!」
健一はこの瞬間、自分が問題を解決したのではなく、問題を増殖させたことに気づいた。しかし時すでに遅し。
買い物リストに「ベルト」が追加された。
第七章 昼食という名の休戦協定
「お腹すいた」と由美子が言ったとき、健一は心の底から神に感謝した。
時刻、十二時四十分。健一は四十分前からお腹が空いていたが、「もう少し」「あと一軒だけ」の波に飲まれ続けていた。
「どこで食べる?」
「何がいい?」
「なんでもいい」
この「なんでもいい」は地雷である。健一は経験上、それを知っていた。男が「なんでもいい」と言うときは本当になんでもいいが、女が「なんでもいい」と言うときは「いくつかの選択肢の中から好みのものを提案してほしい」という意味だ。
「じゃあ、ラーメンは?」
「うーん、重いかな」
「ハンバーガー?」
「カロリーが……」
「イタリアン?」
「それいい! パスタにしよっか!」
イタリアンレストランの前に着くと、行列ができていた。
「四十分待ちです」とスタッフが言った。
「四十分か……どうする?」
「待とう!」と由美子は即答した。「その間、向かいのお店見てていい?」
健一は列に並んだ。一人で。
四十分後、由美子は袋を二つ持って戻ってきた。
「ちょうどよかった! タイミングばっちり!」
健一の待機中の時間:スマートフォンでニュースを読み、空を見て、足腰の疲れを感じ、帰宅後のビールを夢想した四十分。
由美子の待機中の時間:向かいの店でニットを試着し、靴を試し、スカーフを三枚比較した四十分。
同じ四十分が、全く別の宇宙で流れていた。
パスタは美味しかった。健一はビールも頼んだ。昼からビールを飲むことへの罪悪感は、今日のアウトレットによって完全に相殺されていた。
第八章 値段という宗教
午後の部が始まった。
健一が気づいたことがあった。由美子の「安い」と「高い」の基準が、どうも自分と違う。
「このコート、安い!」
値札を見た。四万二千円。
「……安い?」
「定価が九万円だから、半額以下よ?」
なるほど。定価を分母にして計算するわけか。
しかし健一の価値観では、四万二千円のコートを買うことは「四万二千円の支出」である。それが安いかどうかは、絶対値で判断する。
「高くない?」
「高くないよ! これ、いいブランドだし、長く着れるし」
「何年着る気で買うの?」
「え……三年? 四年?」
「じゃあ一年あたり、一万円くらい」
「そう! そう考えると安いでしょ!」
健一は黙った。この計算が正しいとすれば、価格の高いものほど長く使えば安くなる、という理論が成立する。それならば、百万円の服も、百年着れば一万円だ。
この哲学を指摘するか、しないか。
健一は指摘しないことにした。
一方、健一がゴルフ用品売り場を通りかかり、「このドライバー、試打してみようかな」と言ったとき——
「え、いくらするの?」
「七万円くらい」
「高い!!」
健一は宇宙の不均衡を感じた。四万二千円のコートは「安い」で、七万円のドライバーは「高い」。この宇宙の法則はどこかで書き換えられたのだろうか。
「ゴルフは毎週行ってるんだから、一年で——」
「それとこれとは別! 行くよ!」
由美子は健一の腕を引いた。ドライバーは売り場に残された。
第九章 靴売り場という異次元
靴売り場は別格だった。
由美子は入口で止まり、全体を見渡した。まるで戦略家が地形を読むように、左のコーナーから右のコーナーまでゆっくりと目を走らせた。
「すごい品揃え……」
健一には、それぞれの靴の違いが正直よくわからなかった。茶色い革靴、黒い革靴、スニーカー各種、ブーツ各種。それは確かに多い。しかし、それぞれが何故そこまで違うのか。
由美子は動き始めた。まず白いスニーカーを手に取る。ソールを確認し、内側を触り、においを嗅ぐ(靴のにおいを嗅ぐ?!)、重さを確かめ、そっと棚に戻す。
次のブーツへ。ジッパーを開け、ヒールの高さを測るように指で触れ、色のバリエーションを確認する。
そのまた次へ。
健一はカウンターの端に腰かけ、時間の流れを感じた。
十五分後、由美子が言った。「健一、これ試してみて」
「……え、俺?」
「うん。メンズコーナーに面白いスニーカーあったから」
手渡されたのは、グレーの洒落たスニーカー。健一は自分の靴を見た。三年前に買ったニューバランス。まだ使える。
「別にいらない」
「いいじゃない、履いてみるだけ!」
なぜか健一は靴を試着させられることになった。サイズが合っていた。履き心地が良かった。
「どう?」
「……まあ、悪くない」
由美子の顔が輝いた。
「じゃあ買お!」
「え、俺は買わなくていい——」
「だって似合うじゃない! お父さん、いつも同じ靴ばっかり履いてるし」
レジで健一は自分の靴を買った。予算ゼロで臨んだアウトレットで、靴一足。
由美子は満足そうだった。「健一のも買えてよかった」と言いながら、自分の靴の試着を続けた。
買い物の目的が、いつの間にか健一の靴になっていたことに、健一は気づいた。そして由美子は本来の目的である自分の靴を、まだ選んでいなかった。
第十章 「最後に一軒だけ」の法則
午後三時。健一の足裏は完全に崩壊していた。
持っている袋:コーチのバッグ(茶)、ラルフローレンのパンツ、ニット二枚、スカーフ、ベルト、健一のスニーカー。
由美子の表情:まだ余力がある。
「そろそろ帰ろうか」と健一は言った。
「あ、最後に一軒だけ見てもいい? ずっと気になってたブランドがあって」
最後に一軒。
この言葉を、健一は今日だけで何度聞いただろうか。一軒目の「最後に一軒」は十一時。二軒目は十二時。三軒目は昼食後すぐ。四軒目は靴の後。そして今、五軒目の「最後に一軒」。
「最後、って言ってるのに増えてる」
「え、そう?」
「そう」
「そんなことないよ〜。本当に最後だから!」
由美子の目が少しだけ上を向いた。健一は知っている。上を向くのは「計算中」のサインだ。今、頭の中でまだ見ていない店のリストが更新されている。
「……わかった。一軒だけ」
「ありがとう! 大好き!」
由美子は健一の腕を取った。健一は疲れ果てながらも、悪い気はしなかった。二十五年間、この繰り返しだ。
そして当然のように、「最後に一軒」は三軒になった。
第十一章 帰路と反省と決意
帰路の東名高速。日が傾き始めていた。車内には大小様々な紙袋が積まれていた。
「今日、楽しかった〜!」と由美子が言った。
健一は何も言わなかった。
「健一は楽しくなかった?」
「……疲れた」
「そう? 私は全然まだ動けるのに」
この差は何なのか。同じ場所を、同じ時間、歩き続けた。しかし一方は「楽しかった」で、もう一方は「疲れた」だ。
おそらく、目的と達成感の問題だ。由美子は探索すること自体が目的だから、歩くたびに何かを「見つけ」、試すたびに何かを「体験し」、買うたびに「成功」を感じる。
健一は帰宅すること、それが唯一の目的だった。帰宅するまでの時間は全て「消耗」だ。
「ねえ、来月もどこか行こうよ」
「……」
「今度は幕張か横浜もいいな。あっちにしかないブランドもあるし」
健一の頭の中に、来月の素振りの計画が音を立てて崩れていく音がした。
「一人で行けばいいんじゃないか?」
「え〜、つまんないじゃない。健一と行くのが楽しいんだもん」
健一は由美子の横顔を見た。本当に楽しそうだった。疲れた様子は微塵もなく、すでに来月の計画を立て始めている。
「……考える」
「やった! じゃあ決まりね!」
「決まってない」
「決まったも同然」
富士山が後ろに遠ざかっていった。次のアウトレット遠征の日程が、由美子の脳内で静かに確定されていくのを、健一は感じた。
第十二章 帰宅と清算
帰宅は午後六時二十分。
健一がソファに倒れ込む横で、由美子は買ったものを一つずつテーブルに並べ始めた。
「今日の戦利品〜!」
コーチのバッグ(茶)、ラルフローレンのパンツとニット、スカーフ、ベルト、ジャケット(「最後の一軒」の三軒目で買った)、健一のスニーカー。
「健一の靴も入れると、今日は全部でいくらだった?」
由美子がスマートフォンで計算し始めた。健一は計算結果を聞く勇気が出なかった。
「全部で……ざっくり二十八万円くらい!」
「……二十八万」
「でも定価合計が五十二万円だから、二十四万円お得なの!」
健一は天井を見上げた。二十四万円お得にするために二十八万円使った、ということだ。
「お腹すいたね。何食べる?」と由美子は言った。
「なんでもいい」
「じゃあ昨日の残りのカレーは?」
「カレーでいい」
カレーを温めながら、由美子は今日買ったバッグをまた手に取り、眺めた。満足そうだった。
健一はビールを開けた。冷えたビールが喉を通っていく。今日一日で最も気持ちよかった瞬間だった。
「ねえ、そのスニーカー、明日履いてみてよ」
「ああ」
「絶対似合うから」
「……そうかもな」
カレーの匂いがした。由美子が鼻歌を歌っていた。健一は足を伸ばし、目を閉じた。
疲れた一日だった。
でも、まあ。
悪くもなかった。
第十三章 翌朝の悟り
翌日曜日の朝。健一はコーヒーを飲みながら、昨日買ったスニーカーを眺めた。
由美子はまだ寝ている。珍しく。アウトレットで使い果たしたのか、今日の由美子はなかなか起きてこない。
静かな朝だった。
健一はゴルフクラブを手に取り、リビングで素振りをした。テレビでは日曜のワイドショーがやっていた。
昨日購入した品々が、ちゃんと棚やクローゼットに収まっていた。由美子が夜のうちに整理したらしい。
茶色のコーチのバッグが、玄関の棚に置いてあった。由美子のお気に入りの場所だ。
健一は素振りをやめ、コーヒーをもう一杯淹れた。
男と女の時間は確かに違う。同じ一時間を過ごしても、その密度が違う。由美子の一時間は、百の発見と五十の試みと二十の決断で満たされる。健一の一時間は、一つの目的を達成することで満たされる。
どちらが正しいわけでも、間違っているわけでもない。
ただ、違う。
由美子が階段を降りてくる音がした。
「あ、起きてたの? おはよう」
「おはよう」
「コーヒーある?」
「淹れる」
健一はコーヒーメーカーのボタンを押した。
「今日は何する?」と由美子が聞いた。
「素振り」
「そっか」
由美子はコーヒーを受け取り、窓の外を見た。快晴だった。
「今日もいい天気ね」
「ああ」
「……ねえ、来月の横浜、いつがいい?」
健一は素振りの手を止めなかった。
「……考える」
「考えるって言ったね」
「考えるって言っただけだ」
由美子が笑った。健一も少し笑った。
朝の光の中、コーヒーの香りがした。
エピローグ 田中夫妻の法則
田中健一・由美子夫妻は、その後も月に一度か二度、どこかに買い物に行った。
健一が一人で行くときは所要時間三十分から一時間。目的の物を買い、帰ってくる。
由美子が一人で行くときは所要時間三時間から五時間。何を買うかは現地で決まり、思わぬ発見があり、充実した時間を過ごして帰ってくる。
二人で行くときは……察していただけるだろう。
健一はある日気づいた。自分が由美子の買い物に付き合うのは、実は嫌いではないかもしれない、と。
疲れる。足が痛い。時間が読めない。計算が合わない。
でも、由美子の「これ!」という顔を見るのは、悪くない。
男の時間と女の時間は、永遠に一致しないかもしれない。買い物に対するアプローチは、二十五年経っても根本的には変わらないかもしれない。
しかし二人の時間は、不思議と同じ場所に流れ着く。
夕暮れの駐車場で、荷物を車に積んで、「今日も疲れたね」「楽しかったね」と言い合う、あの瞬間に。
男の三十分は、女の一時間に相当する。
それは本当かもしれない。
でも。
その一時間の中に、男には見えていなかった何かが、きっとある。
田中健一、五十二歳。来月は横浜のアウトレットに行くことが、すでに決まっている。
本人は「まだ考え中」と言っているが。
(了)
あとがき
男と女の「時間感覚の違い」は、長い歴史の中でさんざん語られてきました。
しかし本作を書きながら気づいたのは、この違いは「優劣」ではなく「補完」なのではないかということです。
目的に向かって最短距離を走る力と、道草を楽しみながら意外な発見をする力。どちらかひとつでは、人生はちょっと貧しい。
田中健一は、今日も由美子に引っ張られながら、自分では行かなかった場所に辿り着いています。
そして由美子は、健一の「もう帰ろう」という一言で、無限に続く迷宮から脱出できています。
二人で行くから、ちょうどいい。
日本全国のアウトレットで待ち続けているご主人たちへ、そして夫を引き連れて歩き続けているご婦人たちへ、この物語を捧げます。
なお、登場する価格はすべてフィクションです。実際にはもっと高いかもしれません。

