偶然は必然か
〜縁結び研究所の大騒動〜
著:宮下ドタバタ文庫 編集部
まえがき
人は時々、不思議なことを考えます。
「あの人と出会ったのは偶然だったのか」
「あの日あの場所へ行かなければ、人生は違っていたのではないか」
そんな問いを考え始めると、人生は妙に量子的になります。
右に曲がれば会わなかった人。
一本遅い電車に乗っていたら起きなかった出来事。
なんとなく手に取った一冊、なんとなく選んだ一本のニンジン。
本当に、それは偶然だったのでしょうか。
本作は、「縁」をちょっとだけ科学っぽく、かなり大雑把に、そして少しだけ真面目に考えてみた物語です。
転びながら研究する男。
人や物を丁寧に扱う女性。
そして、人生経験だけは豊富な失敗先輩。
大人になると出会いは減ったように感じます。けれど、もしかすると縁は減ったのではなく、「準備が整うのを静かに待っている」だけなのかもしれません。
もし読み終えたあと、スーパーの野菜売り場で少し立ち止まり、「今日はこの子かな」と野菜を選びたくなったら、著者としてこれ以上うれしいことはありません。
どうぞ肩の力を抜いて、お楽しみください。
プロローグ
二〇四五年、東京・千代田区某研究所
「実験成功! ついにやったぞッ!」
白衣の男が叫んだ瞬間、研究室の天井からスプリンクラーが盛大に水を降らせた。
原因:興奮した男が、ガッツポーズで試験管ラックを吹き飛ばし、それが非常ボタンに直撃したためである。
「ぎゃあああ! データがっ、ノートがっ!」
男の名は、三島タダヒコ。三十四歳。肩書きは「縁量子力学研究者(自称)」。
研究テーマは「人間の縁を物理的に計測・予測する」というもので、所内では「また変なことやってる」と半ば呆れられながらも、なぜか毎年予算をもぎとってくる謎の存在だった。
理由は一つ。彼のドジっぷりが、なぜか重要な発見に繋がるからだ。
今日も、びしょ濡れの計測装置の画面に、史上初めて「縁の反応波形」が映し出されていた。
「……見えた。縁が、見えたぞ」
タダヒコは水びたしの床にひざまずき、震える声でつぶやいた。
その後ろで、同僚の佐々木が消火器を構えたまま固まっていた。
「…タダヒコさん、スプリンクラーは消火器じゃ止められないんですけど」
第一章
縁量子力学とスーパーの野菜売り場
翌朝、ずぶ濡れのままタダヒコは記者会見を開こうとした。
「やめてください」と佐々木が止めた。
「なぜだ。世紀の発見だぞ」
「まず服を乾かしてください。あと靴の中から水が出てます」
ぴちゃ、ぴちゃ、という音をたてながら、タダヒコは研究成果をまとめることにした。
彼の理論はこうだ。
人間は、「縁のある」人・物・場所の前に立ったとき、量子レベルで微細な波動変化を起こす。これを「縁量子反応」と呼ぶ。そしてその反応は、双方の「準備状態」が揃ったときにのみ、共鳴する。
「つまり、人と人の縁というのは、単なる偶然ではない! 準備の整った者同士が、必然的に引き合う現象なんだ!」
「はあ」と佐々木は言った。「で、それをどうやって証明するんですか」
「フィールドワークだ。まず、縁量子反応が最も頻繁に起きる場所に行く」
「どこですか」
「スーパーの野菜売り場」
「……は?」
「人が無意識に縁を選ぶ場所といえば、野菜コーナーだ。誰も教えてくれないのに、無数にある同じような野菜の中から、ある一本を選ぶ。あれは縁量子反応の最もわかりやすい事例だ」
佐々木は二秒考えて「ついて行きます」と言った。タダヒコが一人で外に出ると、三回に一回は何かが起きるからだ。
スーパー「ビッグエコー千代田店」の野菜コーナーにて。
タダヒコは計測器を構え、白衣のまま仁王立ちしていた。明らかに不審者だった。
「お客様、白衣はちょっと…」と店員が近づいてきたその瞬間。
タダヒコの計測器が、けたたましく鳴り響いた。
「反応したッ! 今、縁量子反応が出たッ!」
タダヒコは振り向いた。
そこには、ニンジンを手に取りかけた女性が、目を丸くして固まっていた。
「え、わたし、何かしましたか」
三十歳くらい。紺色のエプロンに「文具店 ことだま堂」のロゴ。おっとりした目。手の中のニンジンを、誰かの宝物でも持つように、両手で丁寧に包んでいた。
タダヒコは計測器の数値を確認して叫んだ。
「あなたの縁量子反応値が、このニンジンとほぼ完全一致している! これは偶然ではない! 必然だ!」
「は、はあ……」
「あなた、ものを丁寧に扱う人でしょう!」
「え……まあ、そうですが」
「やはり! 縁のある物を選ぶ人間は、必ずその物を大切にする! 理論通りだ!」
タダヒコは興奮のあまりバインダーで自分の頭を叩き、倒れた。
佐々木がため息をついた。「すみません、こういう人なので」
女性はしばらく固まっていたが、倒れたタダヒコを見下ろして、静かに言った。
「……大丈夫ですか」
そのとき計測器が、再びピーッと鳴った。
第二章
縁の準備と、大人の出会いの難しさ
女性の名は、ナカガワ・ミホ。文具店「ことだま堂」の店主だった。
タダヒコが床から起き上がると、ミホは「よければどうぞ」とハンカチを差し出した。白地に小さな花柄。明らかに上等な布だった。
「あ、ありがとうございます……汚れますよ」
「ハンカチはそのためにあるんです」
タダヒコはなぜか急に正気に戻った。
その夜、研究室でデータを整理しながら、彼は佐々木に言った。
「縁の反応が出た」
「野菜の話ですか」
「違う。ミホさんとぼくの間で、縁量子反応が双方向に出た。ただし」
「ただし?」
「どちらかの準備が、まだ整っていない」
佐々木は椅子に座り直した。「どっちがですか」
「……たぶん、ぼくだ」
「……自覚あったんですね」
「縁というものは、双方の準備が揃わないと結ばれない。片方だけが引き合っていても、それはただ引き合っているだけで、縁にはならない。人間関係の多くのすれ違いは、タイミングの問題だ」
「研究者らしくなってきましたね」
「ぼくは今まで、研究ばかりで友人すら少なかった。大人になると、出会いが職場だけに狭まる。趣味の場所に出ていって、価値観を共有して、声をかけるというプロセスを、ぼくはずっと省略してきた」
「今さら気づいたんですか」
「今さらじゃない。縁の研究をしていたから気づいたんだ」
佐々木はコーヒーをすすった。「じゃあ、どうするんですか」
「準備をする」
「どんな?」
「まず、スーパーで転ばない練習から始めようと思う」
「低い目標ですね」
第三章
二兎追う先輩と、宇宙の返し技
そんな折、タダヒコの先輩研究員・ゴトウ教授(五十一歳・離婚歴二回・現在進行形で二人の女性と連絡を取り合っている)が研究室にやってきた。
「タダヒコくん、縁量子力学で恋愛のタイミングを操作できるんじゃないか?」
「操作はできません」とタダヒコは即答した。
「なぜ」
「縁は引力です。引力を無理矢理操作しようとすると、必ず反発力が生まれる。強引に二つの縁を同時に引き寄せようとすると、どちらも弾き飛ばされる」
「つまり?」
「二兎追う者は一兎をも得ません。これは道徳ではなく、縁量子力学の基本法則です」
ゴトウ教授はしばらく沈黙した。
「……じゃあ、仮に一方を強引に手に入れたとしたら」
「必ず失います」
「必ず?」
「縁が強引に引き離されたとき、それは元の場所に戻ろうとする力を蓄えます。蓄えた力は、必ず解放される。一瞬奪えたかに思えても、必ず奪われます。データもそう示しています」
ゴトウ教授は何かを思い出すように天井を見た。
「……最初の離婚のとき、確かにそうだったな」
「参考になりましたか」
「参考というか……痛かった」
「縁量子力学は、過去の痛みの原因を説明することも得意です」とタダヒコは言った。
その三日後、ゴトウ教授は二人のうち一人に真剣な気持ちを打ち明け、盛大に断られた。
もう一人にも、タイミングが悪く既読スルーされた。
「タダヒコくん、理論通りだったよ」と教授は涙目で報告してきた。
「お気の毒です」とタダヒコは言った。「でも、これで準備ができましたね」
「何の準備が」
「本当に一人の人と向き合う、準備が」
ゴトウ教授はしばらく沈黙してから、「……縁量子力学って、結構きついな」と言った。
第四章
ことだま堂と、声をかけるという勇気
準備をすると決めたタダヒコは、翌週から「ことだま堂」に通い始めた。
初日:万年筆のインクを買いに行き、緊張のあまり五本も買う。
二日目:ノートを買いに行き、同じノートを三冊重ね買いする。
三日目:消しゴムを買いに行き、「消しゴムを三個ください」と言ったつもりが「消しゴムを三十個ください」と言ってしまい、ミホさんに「研究所でそんなに使うんですか?」と優しく聞かれる。
「……研究で、よく間違えるんで」
「それは大変ですね」
「ええ、まあ」
タダヒコは消しゴムを三十個抱えて帰った。
佐々木に報告すると、「声かけましたか」と聞かれた。
「かけた」
「商品以外のことで」
「……かけてない」
「三週間でインク五本・ノート三冊・消しゴム三十個。文具の使いすぎです」
縁量子力学的に言えば、タダヒコとミホの縁の糸は確実に近づいていた。ただし、どちらかが声をかけなければ、始まらない。縁は自動ドアではないのだ。押さないと開かない。
四週目の土曜日、タダヒコは計測器を持たず、白衣も着ずに「ことだま堂」に入った。
「あの」
ミホが顔を上げた。
「もし、よければ……近くに、縁の研究で気になっている場所があって。スーパーなんですが。よかったら、野菜を選ぶところを、観察……いや、あの、一緒に、買い物をしてみませんか」
三秒の沈黙。
「野菜の買い物ですか」とミホは言った。
「は、はい」
「……いいですよ」
タダヒコは「ありがとうございます!」と叫び、ドアに激突して帰った。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫です!!!」
その夜の計測器は、タダヒコ史上最高値を記録した。
第五章
スーパーの野菜売り場、再び
日曜日の午後、「ビッグエコー千代田店」にて。
二人は野菜売り場に並んで立っていた。
「この人参、どれを選びますか」とタダヒコは聞いた。
ミホはしばらく眺めてから、一本を手に取った。
「……これ、かな。なんとなく、こちらから来てくれてる気がして」
「来てくれてる?」
「ものを選ぶとき、自分が選んでいる気がするけど、実はそのものに選ばれてるような感覚、ありませんか」
タダヒコは手が震えた。
「それが、縁量子反応の主観的体験です……!」
「むずかしいことはわかりませんが」とミホは言った。「でも、目の前にあるものには、なんらかの縁があってここに来た気がするんです。だから丁寧に扱わないともったいない」
「それだ」タダヒコは叫んだ。「それが縁の本質だ。偶然そこにあるように見えて、必然的にそこにあるんだ。日用品も、食べ物も、ペットも、友も、パートナーも、みんな——」
興奮したタダヒコはジェスチャーをしすぎて、隣の棚のキャベツを三玉落とした。
どどど、という音が野菜売り場に響き渡り、店員が飛んできた。
「す、すみません!!」
ミホはキャベツを拾いながら笑っていた。声を立てて、楽しそうに。
「……タダヒコさんて、いつもこんな感じですか」
「だいたいこんな感じです」
「縁量子力学の研究者なのに、なんか縁の使い方が下手ですね」
「……おっしゃる通りです」
「でも」とミホは言った。「丁寧に生きようとしてる人だとは思います」
タダヒコの計測器が、ポケットの中で小さく鳴った。
エピローグ
偶然を装った必然の正体
三ヶ月後。
タダヒコとミホは、「縁量子力学フィールドワーク」という名目で毎週日曜にスーパーに行くようになっていた。内実はほぼ買い物デートだった。
研究所では、「縁量子力学論文草稿」が少しずつ書き上がりつつあった。ただし、内容の三割は野菜の話だった。
ゴトウ教授は、断られた後でじっくり自分と向き合い、半年後に新しい縁が生まれた。「準備って大事だな」と彼はタダヒコに言った。
佐々木は「三島さんが外で転ばなくなりました」という観察日誌をこっそりつけていた。
ある夜、ミホが言った。
「縁量子力学って、結局、何を言いたいんですか」
タダヒコはしばらく考えて、答えた。
「偶然は、必然を装って近くにいる。目の前のものを丁寧に扱える人のところに、丁寧な縁が集まる。それだけです」
「シンプルですね」
「複雑に見えるものは、たいていシンプルなことを、人間が複雑にしているだけです」
「タダヒコさんは、縁の研究してなかったら気づきましたか」
「……気づかなかったと思います」
「ニンジンのおかげですね」
「ニンジンのおかげです」
二人はスーパーの袋を下げて、夜の東京を歩いた。
空には星が見えなかったが、タダヒコのポケットの計測器は、終始穏やかに鳴り続けていた。
──了──
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あとがき
「偶然は、必然だったのかもしれない」
そう思う瞬間が、人生には何度かあります。
何気なく入った店。
たまたま隣に座った人。
気づけば長く続いている関係。
あるいは、なぜか忘れられない出来事。
後から振り返ると、「あれが始まりだった」と思えるものがあります。
けれどその始まりは、たいてい派手ではありません。
野菜売り場だったり、文具店だったり、誰かが差し出してくれたハンカチだったりします。
この物語では、「縁」を量子力学っぽく語っていますが、実際に書きたかったのはもっと単純なことでした。
目の前のものを丁寧に扱える人のところには、丁寧な縁がやってくる。
そして縁とは、待つだけではなく、ほんの少し勇気を出して「声をかける」と動き始めるものなのだと。
もし本書が、誰かとの出会いや、自分のタイミングについて考えるきっかけになったなら、とてもうれしく思います。
それではまた、どこかの偶然――あるいは必然の中で。

