共 犯 者
ーー夏の終わりに、あなたと罪を分かち合うーー
まえがき
この物語を書き始めたのは、夏の終わりでした。
夢の中でだけ会える誰かがいて、目が覚めると体温だけが残っている。そんな朝を経験したことがある人は、きっと少なくないと思います。
五十二歳の音響エンジニア・桐島悟と、自由が丘で和菓子店を営む田中真由子。
二人は本来、出会うはずのなかった人間です。片方には夫がいる。片方は七年前に離婚している。接点は、夏のライブハウスで一瞬だけ目が合ったこと。それだけでした。
それでも人は、目が合った瞬間に何かが始まってしまうことがある。
罪だと分かっていても、温もりに手を伸ばしてしまうことがある。
「共犯者」という言葉は、どちらが悪いのかを決めないための言葉です。
裁くでも許すでもなく、二人で罪を分かち合う。
それが救いになる人間もいるのではないか。そんなことを考えながら書きました。
夏の終わりに、あなたと罪を分かち合う。
その一行から始まった物語です。どうか、最後までお付き合いください。
2026年 夏
夢の中でだけ許された
現実逃避な場面は
わずかに切なさを残しながらも
——桐島悟の詩「共犯者」より
第1章 夢の残滓
目が覚めたとき、最初に感じたのは喪失感だった。
夢の切れ端が、覚醒とともにゆっくりと溶けていく。水面に描かれた模様が、指で触れた途端に広がって消えるように。何かを掴もうとすると、それは霧になった。温もりの記憶だけが残り、形は消えた。体の右側だけが、まだ誰かの体温を覚えているような気がした。それが錯覚だと分かっていても、しばらくはそのままにしていた。錯覚でも、温かいことには変わりない。
窓の外、東の空がうっすらと白み始めていた。夏の朝は早い。まだ五時にもなっていないのに、蝉の声はすでに始まっていた。都会の蝉は、山のものとは音が違う。コンクリートと車の排気ガスに慣らされた、少しかすれたような鳴き声。それでも蝉は蝉で、夏は夏だった。七月の末。この暑さはまだ続くが、どこかに終わりの予感が混じり始めていた。夏の匂いのする風が、網戸の隙間から入ってくる。南からの風だろうか。遠い海の匂いがするような気がした。
桐島悟、五十二歳。
ベッドに横たわったまま、天井の染みを見つめる。妻と別れて七年。この世田谷のマンションに一人で住み始めて、もう七年が経つ。入居当初からある天井の染みは、春になるたびに少し大きくなるような気がするが、実際には変わっていないのかもしれない。測ったことはないし、これからも測らないだろう。大家に言えば直してもらえるのだろうが、なぜかずっとそのままにしてある。
理由を考えたことがなかった。だが今朝、ぼんやりとその染みを見ながら、もしかしたら、その染みが一種の時計のような役割を果たしているからかもしれない、と思った。ここに住み始めたときからある染み。悟が一人でいる証のような。取り除いてしまえば、時間が動き出してしまうような気がして、あえて残してあるのかもしれない。あるいはただの怠惰かもしれない。自分のことは、いつもよく分からない。
夢を見ていた。
彼女がいた。
名前は、まだ知らない。
三週間前、代官山のライブハウス「SOLEIL」で仕事をしていたとき、客席の中に彼女を見た。SOLEILは地下にあるライブハウスで、百五十人収容の、この規模にしては音響の良い箱だ。悟が十年以上付き合いを続けているオーナーが、音楽に対して誠実な人間で、設備にも妥協しない。天井の吸音材の配置から、スピーカーの角度まで、細かく相談しながら整えてきた場所だった。箱が持っている固有の音というものがあって、SOLEILの音は少し柔らかく丸い。アコースティック系のアーティストに向いている。だから悟はここの依頼があれば喜んで引き受ける。それが今夜のような夏の終わりの蒸し暑い夜でも。
音響エンジニアとして舞台袖に立ち、モニター音量の微調整をしながら、悟はふと客席に目をやった。アーティストのライブは佳境に入っていた。三十代の女性シンガーが、汗をにじませながら真剣な目でマイクに向かっている。彼女の音楽は、静かに始まって、気づかないうちに人の胸の奥に手を入れてくるような種類の音楽だった。歌詞に過剰な説明がなく、声そのものが語る。今夜は特によかった。本人のコンディションと会場の空気がうまく噛み合っていた。観客が一体になって揺れていた。夏の夜、百五十人ほどの観客が熱を帯びた空気の中に立ち、汗をかきながら体を揺らしていた。
そのとき視界の端に引っかかった。
着物だった。
夏の夜のライブハウスに、涼しい顔で着物を着た女がいた。
紺地に白い朝顔の柄。帯は象牙色。夏物の透ける素材なのだろうが、周囲の若者たちが汗だくになっているのに対して、その女は水の中の石のように静まり返っていた。客席の温度から切り離されているような、別の空間にいるような静けさだった。
だが涼しいのではなかった。揺れていた。音楽に合わせて、内側で。それが外に漏れないだけで、体の奥では確かに何かが動いていた。呼吸のリズム、ほんの微かな頭の傾き。細部を読み取ることに長けていたからこそ悟には分かった。この女は聴いている。全身で。静止しているのは、抑制しているのではなく、全部を内側に受け入れているからだ。感情を外に出すことで失われるものを、出さないことで守っている。そういう聴き方をする人間は珍しかった。
年齢は、悟と同じくらいだろうか。四十代後半か五十代前半。
だが年齢などという野暮な言い方が似合わない女だった。若さとは違う美しさがあった。削ぎ落とされた、研ぎ澄まされた美しさ。人生の経験が顔に刻まれているが、それが翳りではなく光になっているような。時間をかけて磨いてきた道具のように、使い込まれることで美しくなっている。どこかサボらずにやってきたような、一本の筋の通った美しさ。思わず振り返りたくなる、しかし振り返ってもすぐには言語化できないような、そういう美しさだった。
仕事中だというのに、悟は彼女から目を離せなかった。
モニターの数値が気になっていたはずなのに、気づけば彼女を見ていた。何秒だったか、何十秒だったか。プロとして恥ずかしい、と頭の片隅で思いながら、それでも目が離れなかった。
アーティストが最後の曲を歌い切り、拍手が鳴り響いた。会場の照明が変わり、熱気が少しずつ冷めていく。観客が動き始めた。
悟はとっさに舞台袖を出た。スタッフに「少し席を外す」と声をかけて、ロビーへ向かった。自分でも何をしようとしているのか分からなかった。五十二歳の男が、名前も知らない女の後を追う。それがどういう行為か、理解していた。理解した上で足が動いた。
ロビーで彼女の後ろ姿を見つけた。着物の背中。首筋の白さ。まとめた髪がライブの熱気で少し乱れていた。その乱れが、かえって人間らしかった。完璧ではない、ということへの安堵のようなものを感じた。あまりに整いすぎていると、近寄ることもできない。乱れた後れ毛に、近づける気がした。
そのとき彼女がふと振り返り、悟と目が合った。
一秒か、二秒か。
人混みの中で、二人だけが止まったような気がした。音が遠のいた。周囲の人間が動いている中で、その一点だけが静止しているような感覚。
彼女は微かに微笑んだように見えた。測ったような微笑み。計算ではなく、長い人生の中で身についた、距離の取り方のような微笑み。上品で、しかし冷たくはない。それだけだった。次の瞬間、人混みの流れに乗って消えた。
悟は動けないまま、しばらくそこに立っていた。
声をかければよかった。何と言えばよかったのかは分からないが、何か言えばよかった。ただ、名前も知らない。どこの誰かも知らない。会話のとっかかりが、何もなかった。「着物が素敵ですね」では下心が透けて見える。「先ほどのライブ、良かったですね」では普通すぎる。言葉を探している間に、彼女は消えた。
悟は舞台袖に戻り、片付けをした。機材の確認をして、スタッフと少し話して、地下のライブハウスを出た。地上に出ると、夏の夜の熱が体を包んだ。代官山の夜の街は、小ぎれいで静かだった。
帰りの地下鉄の中で、悟はずっと着物の女のことを考えていた。
なぜあれほど引きつけられたのか、分析しようとしたが、うまくいかなかった。美しかった、という事実は分かる。だがそれだけではなかった。あの静けさ。内側で何かが動いているのに外に出さない、あの聴き方。悟が長年音楽の場に立ちながら、ほとんど見たことのない聴き方。
それ以来三週間、悟は夢の中で何度も彼女に会った。
夢の中の彼女は名前を持っていた。素子、と呼んでいた。なぜその名前なのか、起きてからどう考えても分からなかった。夢の中ではすべてが自然で、なぜという問いかけ自体が存在しなかった。素子と呼んで、彼女が振り返る。それだけで十分だった。
夢の中の彼女は、ライブハウスで見た着物姿のこともあれば、洋服のこともあった。場所は毎回違った。どこかの街、どこかの部屋、名前のない場所。それでも彼女だと分かった。声は夢の中でも聞こえなかった。表情だけがあった。
今朝の夢は、これまでと少し違った。
夢の中で、悟は彼女を抱いていた。
詳細は覚えていない。夢とはそういうものだ。場所も状況も曖昧で、ただ体の温もりだけが確かだった。着物の布越しに伝わる熱。呼吸の音。何かを言おうとしたが、声が出なかった。それでも言葉は伝わったような気がした。
眠気と覚醒の境界線で、悟はもう一度その温もりを取り戻そうと目を閉じた。
戻れなかった。
夢とはそういうものだ。
悟は起き上がり、台所でコーヒーを淹れた。インスタントではなく、豆を挽くところからやる。これは七年前に一人になってから始めた習慣だった。二人で暮らしていたときは面倒くさいとさえ思っていたが、一人になってみると、豆を挽く時間が好きになった。
電動のミルではなく、手動の木製のミルを使っている。かつて恵子が誕生日に買ってくれたものだった。離婚後も処分せずにいた。一度捨てようとしたことがあったが、その日は何となく捨てられなくて、翌日にはもう捨てる気持ちがなかった。そのまま引き出しに入っていたのを、ある朝突然取り出して使い始めた。きっかけは特にない。ただ、使いたくなった。
挽きたての粉をドリッパーに入れ、少量のお湯で蒸らす。この三十秒が好きだ。豆が膨らみ、湯気が立ち、香りが台所に広がる。その時間だけは、何も考えなくていい。仕事のことも、離婚のことも、夢の女のことも。ただコーヒーの香りだけがある。
コーヒーを持って、東向きのベランダに出た。朝の空気は、まだ涼しかった。夜通し蓄えた熱を、夜明けの風が少しだけ払ってくれていた。
隣のマンションの壁が東の空を半分隠しているが、見える範囲の空は白から青へと変わりつつあった。雲がひとつある。夏らしい、輪郭のはっきりした白い雲だった。雲の縁が朝日で微かにオレンジに染まっていた。
夏はそろそろ終わりだ、と悟は思った。
感情的な意味でも、季節的な意味でも。
五十二歳の夏に、夢の中で名前も知らない女を抱いた。それが、この夏の総決算だった。
悟は苦く笑って、コーヒーを飲み干した。
台所に戻り、シャワーを浴びた。今日は午後から打ち合わせがある。来月の仕事の話だ。夏が終われば秋のライブシーズンが始まる。依頼は途切れない。音楽があれば、生きていける。それは本当のことだった。
鏡の中の自分を見た。五十二歳の男の顔。白髪が増えた。目の下に線が増えた。三十代の頃と比べれば、確かに老いた。だが七年前と比べれば、穏やかな顔をしている気がした。何かが消えて、何かが残った。消えたのは焦りで、残ったのは、今のところ悪くはない感覚だった。少なくとも自分の顔を見て、憂鬱にはならない。
着替えをしながら、悟は今夜も夢を見るだろうかと思った。おそらく見る。夢の中の素子は、現実の誰かとは似ているようで違う。夢の中だけの存在だ。現実の女は、あの一瞬の微笑みだけを残して、人混みの中に消えた。
だが三週間前に追加公演の依頼が来ていた。同じアーティストの、来週のライブ。本来は別のエンジニアが担当する予定だったが、相手の急病で悟に話が来た。悟はすぐに引き受けた。
仕事のためだけではなかった。もしかしたら、という気持ちがあった。愚かだとは分かっていた。三週間前に一瞬目が合っただけの女が、また同じライブに来るはずがない。それを期待して仕事を受けるのは、プロとして恥ずべき動機だった。それでも受けた。
コーヒーの最後の一口を飲み干して、悟はカップを洗った。水の音が台所に響いた。外では蝉が鳴き続けていた。夏の朝は早い。
夢の残滓は、午後になっても体のどこかに残っていた。
第2章 音の記憶
桐島悟がフリーランスの音響エンジニアになったのは、三十五歳のときだった。
新卒でレコード会社に入り、営業部門を二年、制作補佐を三年やった後、音響スタッフに転じた。音響に移ったのは偶然だった。あるベテランエンジニアの急病で代わりにスタジオに入ることになり、そのとき初めて、音を整えるという行為の面白さを知った。
アーティストが表現したいものを空気の振動に変換し、それを人の耳に届ける。シンプルな説明だが、実際にやってみると奥が深かった。アーティストが何を求めているかを理解し、機材を駆使し、空間の特性を読む。その全てが組み合わさって、初めて音になる。どれか一つが欠けると、全体が崩れる。まるでオーケストラの指揮者のようであり、しかし指揮者と違うのは、悟がいることを客席の誰も知らない、ということだった。音だけがある。作り手は見えない。その匿名性が、悟には合っていた。
会社員時代は順調だった。仕事も評価されていた。上司との関係も良好で、三十代のうちに管理職になれると言われていた。音楽業界の会社員としての出世コースを、悟は問題なく歩いていた。
だが三十五歳の春に、辞表を出した。
きっかけは、ある大型ライブだった。音響担当として携わったとき、音のバランスが明らかに間違っているのに、プロデューサーの判断が優先されて修正できなかった。低音が出すぎていた。中音域が潰れていた。それが客席に届いていった。客は気づかないかもしれない。だがプロが聴けば分かる歪み。
悟には耐えられなかった。
アーティストの表現が、音の歪みによって傷つけられているような気がした。言葉で言えば、誤訳されているような感覚だった。アーティストが伝えたいことが、変換の過程で別のものになってしまう。
帰宅してすぐに、辞表を書いた。
妻の恵子は反対しなかった。「あなたが音楽のために生きているのは知ってる」と言っただけだった。
それが優しさだったのか、諦めだったのか。今となっては分からない。ただ、あのとき恵子が反対していたら、悟は思い止まったかもしれない。反対されなかったから、辞めた。そういう側面もあったと、ずっと後になって気づいた。誰かに止めてほしかったのかもしれない。止めてもらえなかったから、進んだのかもしれない。
独立後、仕事は思ったより早く軌道に乗った。ライブハウスやコンサートホールの音響、レコーディングスタジオでのエンジニアリング、映像作品の音響制作。会社員時代に培った人脈が役に立った。そして仕事が仕事を呼んだ。評判というものは、音楽業界では特に早く広まる。誠実な仕事をする人間の名前は、じわじわと業界に浸透していく。
四十代に入ると、名の通ったアーティストからの依頼も増えた。大きなホールでの仕事も来るようになった。収入は会社員時代を上回り、仕事への満足感もあった。
その代わり、家庭は壊れた。
正確には、壊れたというより、気づいたら空になっていた。悟が仕事に全力を注いでいる間、恵子はひとりで老いていき、ひとりで決断し、ひとりで家を出た。
離婚届は郵送で届いた。弁護士を通じて手続きを進めることになった、という手紙と一緒に。争いにはならなかった。財産分与も、細かい交渉も、揉めることは何もなかった。子供はいなかったから、特に複雑な問題は生じなかった。
子供がいなかったのは、悟の責任だった。正確には、悟が忙しすぎた責任だった。恵子が何度か「そろそろ」という話をしたとき、悟はいつも「来年になったら」と言い続けた。来年は来なかった。来年が来るたびに、また来年を先送りにした。そうしているうちに、時間が過ぎた。
離婚してから、悟はその先送りのことをよく考えた。どこかで、子供が生まれれば自分の生き方が変わるかもしれないと恐れていたのかもしれない。音楽への優先順位が変わることを。だがそれは、音楽への愛というより、変化への恐れだったのかもしれない。
離婚後、悟は世田谷のマンションに越した。近くに公園があり、夜に散歩できる環境が好きだった。音響の仕事は夜が多いので、帰宅後に少し歩くことで気持ちを切り替えるのが習慣になった。三十分ほどの散歩。闇の中の公園を歩く。季節の変わり目を体で感じる。それが一人の生活の中で、大切な時間になっていた。葉が落ちる秋も、雪が降る冬も、悟は公園を歩いた。
だから今、悟には天井の染みとコーヒーメーカーと仕事と、夜の公園散歩がある。それで充分だ、と思うことにしていた。
三週間後。
悟は再び代官山のライブハウス「SOLEIL」にいた。同じアーティストの、追加公演。本来は別のエンジニアが担当する予定だったが、相手の急病で悟に依頼が来た。受けたのは、仕事のためだけではなかった。
もしかしたら、という気持ちがあった。
愚かだとは分かっていた。三週間前に一瞬目が合っただけの女が、また同じライブに来るはずがない。それを期待して仕事を受けるのは、プロとして恥ずかしい動機だった。それでも受けた。
開演三十分前、悟は音響卓の前でリハーサルチェックをしながら、入口から入ってくる客を横目で確認していた。夏の終わりのライブハウス。今夜は少し涼しい。九月に入ったばかりで、まだ残暑はあるが、夜の空気には秋の予感が混じり始めていた。
十数人が入ってきたとき、悟は気づいた。
彼女が来た。
今度は着物ではなく、白いブラウスに細身の黒のパンツだった。シンプルな装いだったが、三週間前と変わらず背筋が通っていた。髪は緩やかにまとめられ、耳に小さな翡翠のイヤリングが光っていた。化粧は薄い。それが却って顔立ちの良さを際立てていた。今夜は一人だった。
悟の心臓が、一拍分だけ速くなった。
五十二歳の心臓が、まだこういう反応をするのか、と悟は少し驚いた。
ライブは好調だった。アーティストのパフォーマンスも、音のバランスも、悟自身の仕事も。今夜は音の乗りがいい。湿度と気温が、音の広がりに影響することがある。今夜の地下の空気は、ちょうどいい具合に音を運んでいた。バランスの調整も少なくて済んだ。
悟は仕事に没入しながら、頭の片隅で彼女の存在を感じ続けた。視野に入らない位置にいるのに、そこにいることが分かった。音楽が場を作り、彼女はその一部になっていた。
終演後、照明が戻った。悟は機材の確認をしながら、視野の端で彼女を探した。いた。一人でゆっくりと出口へ向かっている。急がない歩き方だった。
悟は音響卓を離れた。スタッフの一人に「片付けを頼む」と声をかけ、ロビーへ出た。
彼女はロビーの隅で、上着を羽織っていた。一人だった。スマートフォンを見るでもなく、ただ静かに立っていた。
悟は迷った。三週間前は勇気が出なかった。今夜は出るか。だが足が動いた。
「あの」
声に出してから、何を言おうとしているのか分からなかった。
彼女が振り返った。目が合った。一秒の沈黙。
彼女が微かに眉を上げた。「三週間前も、いらっしゃいましたよね」
悟は息を呑んだ。「覚えていましたか」
「ステージ袖で仕事をされていた方ですよね。音響の」
「ええ。今夜も」
「今夜も」と彼女は繰り返した。彼女は微笑んだ。今夜はもう少し長い微笑みだった。
「田中真由子と申します」
彼女が先に名乗った。悟は一瞬遅れて「桐島悟です」と返した。
真由子という名前は、夢の中の素子とは全然違う。だが不思議なことに、すんなりと馴染んだ。この人はこういう名前だ、と腑に落ちる感覚があった。
「音楽、お好きなんですか」と悟は聞いた。月並みな問いだと分かっていたが、他に言葉が出なかった。
「好きです。月に一度くらいはライブを見に来ます。一人のときも多くて」
「何のお仕事を?」と悟は聞いた。
「和菓子の店をやっています。自由が丘で」
「そうですか」
「あなたは、音響の仕事を長く?」
「独立して十七年になります」
「どんな音楽が好きですか」と真由子が聞いた。
悟は少し考えた。「ジャンルというより、音が空間に溶けていく瞬間が好きで。それが起きる音楽なら何でも」
真由子はその答えを聞いて、少し目を細めた。「面白い答えですね」
「あなたは?」
「聴いたとき、体の中で何かが動く音楽が好きです。今夜みたいな」
「今夜は動きましたか」
「動きました」と真由子は言った。静かに、はっきりと。
そのとき入口の方から声がして、知人らしき人物が真由子を見つけて近づいてきた。どうやら偶然会ったらしく、立ち話が始まった。
「では」と悟は言った。「よいお時間を」
「ありがとうございます」と真由子は言った。
真由子は最後に一度だけ悟を見た。何も言わなかった。ただ、見た。
悟はロビーを出た。
外に出ると、夜の代官山は静かだった。秋の気配が漂う夜風が吹いていた。
田中真由子。自由が丘で和菓子の店をやっている。月に一度ライブに来る。一人のときも多い。
それだけしか分からない。だが声をかけた。名前を交わした。それだけで、三週間分の靄が少し晴れたような気がした。
地下鉄の駅へ向かいながら、悟は考えた。次に会えるとしたら、どこで。自由が丘の和菓子店、という手がかりはある。
五十二歳の男の思考は、思いのほか前のめりだった。
第3章 和菓子と翡翠
田中真由子が自由が丘で「翠庵」を開いたのは、三十五歳のときだった。
最初は、母が経営する和菓子店を手伝っていた。東京の外れにある、小さな街の小さな店。地元の人間が贈り物を買いに来るような、取り立てて特徴のない店だった。だが真由子は、そこで和菓子の基礎をすべて学んだ。母から、そして母が師事した職人から。
和菓子の仕事は、理論より感覚が先行する部分がある。素材の状態、季節の温度と湿度、自分の手の感触。それらを全部受け取りながら、一つの形を作り上げていく。理屈で覚えられることには限りがあって、体で覚えるしかないことの方が多い。真由子は若い頃から、その感覚的な部分に向いていた。数値で説明できないことを、感じ取ることができた。餡の硬さ、求肥の温度、色の配合。師匠が「そう」と言う感覚を、真由子は比較的早くに掴めた。
二十代前半から、真由子は自分の店を持ちたいと思っていた。母の店は大切だったが、自分の菓子を作りたかった。母の菓子ではなく、真由子の菓子を。
二十代後半に、縁あって自由が丘の物件に出会った。古い商店街の外れ、目立たない場所にある小さな空き店舗。以前は洋服の直し屋が入っていた場所で、建物は古かったが、天井が低く、照明の置き場所によって温かみのある空間になる造りだった。ここだ、と思った。借金をして内装を整え、三十五歳の秋に翠庵を開いた。
屋号の由来は、翡翠だった。真由子が十七歳のとき、祖母から翡翠の帯留めをもらった。薄い翠色の石が、光の当たり方によって深い緑にも淡い青にも見える。和菓子の色づかいに似ている、と思った。同じ素材でも、光の当て方、見る角度によって、全く違う表情を見せる。翠庵という屋号は、そこから来ていた。
翡翠のイヤリングを日常的につけるようになったのは、開店してしばらく経ってからだった。翡翠が翠庵のマスコットのような気持ちで。客から「いつも翡翠ですね」と言われるようになり、それが習慣になった。
真由子の専門は上生菓子だった。茶席のために作られる和菓子で、季節の花や自然を象った繊細な細工が施される。白餡や漉し餡を染め、形を作り、細かな模様を施す。一つ作るのに、長い時間と熟練した技が必要だ。だがその手間をかけた分だけ、食べる人の記憶に残るものができる。
一瞬の甘さではなく、後から思い出すような甘さ。翠庵の上生菓子は、そういうものを目指していた。買って帰って、箱を開けて、小さな菓子をそっと手のひらに乗せる。その一連の動作を大切にしてほしかった。
翠庵は、口コミで知る人ぞ知る店になった。メディアに大きく取り上げられたことはない。真由子はあまり宣伝を好まなかった。有名になりすぎると、手が追いつかない。翠庵の菓子が翠庵らしくなくなる。今のままで十分だと思っていた。
夫の田中俊介と出会ったのは、三十歳のときだった。共通の知人の紹介で、最初は食事に行った。俊介は商社の営業マンで、几帳面で優しい人だった。仕事にも誠実で、人の話をよく聞く男だった。
真由子は最初から好意を持ったが、恋愛感情というよりは、信頼感から始まった。この人は嘘をつかないだろう、と思った。その確信は、二年間付き合う中で揺らがなかった。そして結婚した。
子供はできなかった。理由は分からなかった。検査を受けたが、どちらにも特別な問題はないと言われた。ただできなかった。そのことについて、俊介は一度も真由子を責めなかった。「二人で生きていこう」と言ってくれた。それが真由子にとっては、他のどんな言葉よりも救いになった。
三年前、俊介は大阪転勤になった。単身赴任か家族で引っ越すか、という話になったとき、真由子は迷わず単身赴任を選んだ。翠庵を閉めて大阪に行くという選択肢が、頭に浮かばなかった。それが正しかったのか間違っていたのかは、今でも分からない。ただそのとき、翠庵が真由子の一部になっていることを実感した。
単身赴任になってから、生活は大きくは変わらなかった。もともと俊介は仕事が忙しく、夜に帰りの遅い人だった。二人でいても一人でいるような時間が多かった。それが「本当に一人」になっただけで、日常の質感はさほど変わらなかった。
その乾いた感覚が、じわじわと真由子を蝕んでいた。
寂しい、というより、空洞のような感じだった。誰かに言いたいことがあっても、言う相手がいない。誰かと分かち合いたいことがあっても、分かち合う相手がいない。俊介に電話すれば話せるが、大阪の夜は忙しい夫に、細々した感情を伝えるのは気が引けた。それが積み重なると、だんだん電話自体がしにくくなっていく。
それを埋めるために始めたのが、月に一度のライブ通いだった。音楽は以前から好きだった。だが忙しさを理由に、ずっと後回しにしていた。一人になってみると、好きなものを好きなときに追いかけることに、誰に謝る必要もなかった。
そして二ヶ月前、代官山のライブハウスで目が合った男のことを、真由子はよく覚えていた。舞台袖に立って、音を管理していた男。仕事をしているのに、一瞬だけ客席を見た。そのとき目が合った。確かに見ていた。着物の女を、ただ珍しいものとして見るのではなく、何か別の目で見ていた。
真由子は音楽を聴きながら、その目のことを時々思い出した。三週間後の追加公演に行ったのは、偶然ではなかった。
別の夜。
悟がSOLEILで仕事をした翌週、悟は自由が丘に来た。知人のピアニストとの夕食の帰り道、商店街の外れを歩いていた。翠庵の前を通りかかったのは、本当に偶然だった。
だが引き戸の前に立ったとき、中にまだ明かりがついているのが見えた。翠庵。悟は一瞬止まった。まさか、と思った。東京には何百という和菓子店がある。
だが引き戸が開いた。真由子が立っていた。割烹着姿で、髪を後ろでまとめ、手に布巾を持っていた。
二人は数秒、互いを見つめた。
「桐島さん」と真由子が言った。
「田中さん。偶然です。本当に」
「信じますよ」と真由子は言った。「入りますか。もう閉店ですが、お茶くらいなら」
悟は引き戸をくぐった。店の中は、静かで温かだった。カウンター席が三席、小さな丸テーブルが二組。壁には季節の和花の絵が飾られていた。カウンターに向き合い、真由子がお茶を入れた。
「いい店ですね」と悟は言った。
「十五年になります。好きな場所を作れたと思っています」
「繁盛していますか」
「食べていけています。それ以上を求めると、自分の菓子ではなくなるので」
「それ以上を求めない、というのは難しいことです」
「難しいですね。でも続けてきたら、それが当たり前になってきて」
お茶を飲みながら、仕事の話をした。音楽の話をした。そして個人的な話へと流れた。
「ご結婚は?」と悟は聞いた。
「しています。夫は今、大阪にいます。三年前から単身赴任で。月に一度戻ってきます」
「そうですか」
「桐島さんは?」
「離婚しました。七年前に」
「お子さんは?」
「いません」
「私も」
沈黙があった。落ち着いた沈黙だった。外では秋めいた風が商店街の街路樹を揺らしていた。
「夫が単身赴任になってから、生活は変わりませんでした。それが、少し寂しかった。変わらないということが」
「変わった方が良かった?」
「正直、分かりません。ただ、一人になってみて初めて気づいたことがいくつかあって。ライブに行くのが好きだということも、その一つで。夫は音楽が好きじゃないので、行くたびに何となく後ろめたくて。今は誰にも言わなくていいから、気楽です」
「好きなものを好きでいられることは大切なことです」
「そうですよね」
悟は帰り際に、店のショップカードを受け取った。「また来てください」と真由子は言った。「菓子を食べに」「行きます」と悟は言った。
どちらも、それ以上何も言わなかった。言わなくてよかった。言葉にする前の何かが、その夜の翠庵には漂っていた。
悟は夜の自由が丘を歩きながら、ショップカードを指でなぞった。翠庵。田中真由子。縁、というものがあるとしたら、こういうことを言うのかもしれない、と思った。
第4章 秋の通奏低音
十月に入ると、悟は週に一度、翠庵に立ち寄るようになった。
最初は翠庵に菓子を買いに行った。真由子に勧められた秋の新作を食べてみると、それが思いのほか良かった。もみじを象った練り切りで、中は栗の餡。甘さが上品で、後味がきれいだった。栗の風味が、最初は控えめに感じられるのに、食べ終えた後にじわじわと広がってくる。こういう菓子を作れる人間は、何かが分かっている、と悟は思った。その場でもう一つ買い、スタッフに包んでもらいながら、また来ると言った。それが本当になった。
二度目は、閉店間際の時間に行った。真由子が片付けをしていた。「もう閉まりますけど」と言いながら、真由子はお茶を淹れてくれた。カウンターで少し話した。三度目も同じような時間に。
気づけば木曜日の夕方六時過ぎが「翠庵の時間」になっていた。
木曜日を選んだのは、翠庵が早く閉まる日だったからだ。スタッフが早く上がる曜日で、真由子が片付けを終えるのが七時前後。そこに悟が来る。閉店の看板が出た後、悟は引き戸を叩く。真由子が開ける。カウンターで向き合い、お茶を飲む。それだけだった。
だがその時間が、悟にとって週の中で最も大切な時間になっていた。
月曜日から水曜日は、木曜日のための助走だった。仕事の打ち合わせをしながら、ライブの準備をしながら、頭の片隅で翠庵の時間のことを考えていた。こういう経験は、若い頃以来だった。誰かに会う日を指折り数えるような気持ち。五十二歳でまだこういう気持ちになれるのか、と悟は少し驚いた。
会話は、毎回少しずつ深くなった。
最初は当たり障りのない話だった。その週見たライブの話、翠庵の新しい菓子の話、自由が丘の街の変化の話。それが自然に掘り下がり、過去の話、仕事への思い、人生に対する態度へと流れていった。
ある木曜日、真由子が話した。「私、二十代の頃に一度だけ、全部やめようとしたことがあるんです」
「全部とは」
「和菓子も、結婚の約束も、東京も全部。北海道に行こうとしていた。知り合いのいない街で、一から何かを始めたくて」
「行かなかった」
「行けませんでした」と真由子は少し遠い目をして言った。「怖かったんじゃなくて、なんか、もったいなくて。積み上げてきたものが惜しくて。この菓子のレシピも、師匠に教えてもらったことも、お客さんの顔も。置いていけなかった」
「後悔は?」
「今は、ないかな」と真由子は言った。「あのとき行っていたら、今ここにいないから。自由が丘に翠庵がないから。桐島さんと話していないから」
悟の心に、静かに何かが落ちた。水面に石が沈むような感覚だった。
「私も似たようなことがあります」と悟は言った。「三十五歳で独立したとき、妻に別れを切り出されそうになった。言いかけてやめた。あとで聞いたら、あのとき引き止めてほしかったと言っていた。でも私に言わせる気がなかったんだと思う。引き止められたら、独立をやめたかもしれない。だから言わなかったんだと、今なら分かる」
「優しいですね、奥さん」
「優しすぎた。だから壊れた」
真由子は頷いた。
「優しさって難しい」と彼女は言った。「私の夫も優しいんです。怒らないし、束縛しないし、何でも私の好きにしていいと言う。でもその優しさが、何か、乾いている感じがして」
「乾いた優しさ」
「伝わりますか」
「伝わります」と悟は言った。「湿度がない感じ。温度はあるのかもしれないが、触れる気がしない感じ」
真由子は少し驚いた顔をした。「そう。まさにそう。触れる気がしない」
二人の間に沈黙が落ちた。音楽で言えば、休符だった。音と音の間にあって、曲を豊かにするもの。
「桐島さん」と真由子が言った。「私のこと、どう思っていますか」
悟は答えを考えた。正直に言えばいい、と思った。正直でないと伝わらない、ということを、真由子自身が教えてくれた。
「美しいと思っています」と悟は言った。「最初ライブで見たときから。年齢とか関係なく、一本の筋が通っている。サボらずにやってきたような、そういう人だと思っています」
真由子は少し間を置いた。「ありがとうございます。私も、桐島さんのことが気になっています。仕事をしているときの、あの集中した顔が。観客じゃなくて音だけを見ている感じが」
「音を見る、ですか」
「音楽を聴く人って、大抵アーティストを見るじゃないですか。顔や動作を。でも桐島さんは空気を見ている感じがする。音が空間に溶けていくのを追いかけているみたいで。最初に見たとき、不思議だと思って」
悟は少し驚いた。それは、自分でも言語化したことのなかった感覚だった。「よく分かりましたね」
「長いこと、職人仕事をしているので。素材が変化していくのを目で追う習慣があって。似た何かを感じるのかもしれません」
「和菓子の仕事も、そういうものですか」
「ええ。餡が練れていく過程を見るときとか、色が入っていく瞬間とか。変化の途中を見るのが好きで。完成品よりも、なる途中の方が、何かを語っている気がして」
悟は聞きながら、この女の仕事への向き合い方が、音楽への向き合い方に似ていると思った。音も菓子も、完成した瞬間より、完成へ向かっている途中の方が豊かなことがある。
「いつ頃から、和菓子を作りたいと思っていたんですか」と悟は聞いた。
「子供の頃からずっと」と真由子は言った。「母の店の匂いが好きで。餡の甘い匂い、蒸し器の湯気、木の道具の匂い。その組み合わさった匂いが、安心する匂いで。あの匂いの中で仕事したいと、ずっと思っていた」
「今の翠庵も、その匂いがしますか」
「します」と真由子は言った。「だからここが好きです」
その夜、帰り際に引き戸に手をかけたとき、真由子の手が偶然重なった。一瞬だった。二人とも止まった。
真由子は手を引かなかった。悟も離さなかった。三秒か四秒、そのままだった。お互いの手の温度が伝わった。それからどちらともなく離れた。
「おやすみなさい」と真由子が言った。
「おやすみなさい」と悟が言った。
外に出て、夜の自由が丘を歩きながら、悟は手の甲の感覚を確かめた。冷えた秋の夜の空気の中で、その感触だけが温かかった。
若い頃は、こういう場面でもっと巧みに動けた気がする。あるいは動けなかったかもしれない。駆け引きの上手い下手は、年齢とは関係ない。若いときにできたことが今はできず、今できることが若いときにはできなかった。
何ができるようになったか、と悟は考えた。
待てるようになった、と思った。
焦らずに待てるようになった。引き戸の前で手が触れた。それで十分だった。次の木曜日が来る。それを知っているだけで、今夜の帰り道は十分に温かかった。
秋の夜の自由が丘には、通奏低音のような静けさが流れていた。低く、静かに、だが確実に流れているもの。音楽でいえば、演奏が終わった後もホールに残るような響き。その音の中を、悟は歩いた。
第5章 共犯という言葉
十一月の第二木曜日。その夜は、二人の間で何かが変わった。
悟が翠庵に着いたのは、いつもより少し遅かった。仕事で打ち合わせが長引いた。来月の大きなコンサートの準備で、アーティスト側のスタッフとの細かい調整が三時間に及んだ。音の好みというのは非常に個人的なもので、それを言語化して共有するのは難しい。「もっと温かみを」と言われても、温かみとは何か。「空間を感じさせてほしい」と言われても、空間感とはどういう音か。何度も確認し、試し、また確認する。気づけば夜の七時を過ぎていた。
だが翠庵に近づくにつれ、疲れが少し和らいでいくのを感じた。条件反射だ、と悟は自分に言った。木曜日の夜にここに来ることを体が覚えた。
引き戸を叩くと、真由子が顔を出した。だが今夜の真由子は、いつもより表情が曇っていた。
「どうしました」と悟は言った。入る前に顔を見て、分かった。
「今日、夫から電話があって。三月に東京に戻ってくるかもしれないと」
悟は黙っていた。
「嬉しくないんですか」と悟は聞いた。
「複雑です」と真由子は言った。「結婚して二十三年、夫のことは大切に思っています。嫌いになったわけでも、裏切られたわけでもない。でも三年間一人でいて、一人の生活に慣れてしまって。もう一度二人の生活に戻れるのか、分からなくて」
「戻りたくないということではなく」
「ええ。でも、この木曜日がなくなることも、気になっている」
真由子は悟を見た。
「正直に言います」と彼女は言った。「俊介が戻ってきたら、この時間がなくなる。その方が気になっているかもしれない。夫が帰ってくることより、桐島さんとの時間がなくなることの方が。そういう自分が、嫌で」
「なぜ嫌なんですか」と悟は聞いた。
「夫への裏切りを、続けていたいと思っているということだから」と真由子は静かに言った。「そう思う自分が、嫌で。良い妻でいたい、という気持ちもある。でもこの時間も手放したくない、という気持ちもある。両方が本当で、でも両立しない」
悟はお茶を一口飲んだ。これが始まりからずっと、二人の間にあったものだった。言葉にされないまま、木曜日の夜ごとにカウンターの上に漂っていたもの。今夜、言葉になった。
「真由子さん」と悟は言った。名前で呼ぶのは初めてだった。さん付けで、でも苗字ではなく。
真由子はわずかに目を見張ったが、何も言わなかった。
「この関係が何なのか、名前をつけようとするのは、野暮かもしれないですが」と悟は続けた。「あなたのことが好きです。最初にライブで見たときから、ずっと。夢の中でも会っていたくらい」
「夢の中で」と真由子は繰り返した。
「名前を知らなかったから、夢の中で別の名前で呼んでいた。でも確かにあなただった」
「知っています」と真由子は言った。「好きだということは」
「知っていた」
「最初から。舞台袖から見ていた目がそうでした。あの目は、職業的な観察じゃなかった。もっと個人的な何かだった」
「あなたはどうですか」と悟は聞いた。
真由子は少しだけ目を伏せた。
「私は」と彼女はゆっくり言った。「こういうことに、とっくに慣れたつもりでいた。好きになるとか、ときめくとか。五十を前にして、もうそういうことはないと思っていた。翠庵があれば、菓子を作っていれば、十分だと思っていた。でも桐島さんに会って。木曜日が来るのが楽しみになっていた。仕事をしながら木曜日のことを考えていた。そういう自分に気づいたとき、これは何だろう、と思った」
「怖かったですか」と悟は聞いた。
「怖かった。でも止められなかった。木曜日になると、来てほしかった」
悟はカウンターから立ち上がった。真由子は動かなかった。ただ悟を見ていた。
悟が真由子の手を取った。引き戸で触れた、あの手を。今夜は偶然ではなかった。
真由子は抵抗しなかった。手を引かなかった。その手は、いつもより少し冷たかった。夫からの電話の後、緊張していたのかもしれない。
「ずるいですよね、私たち」と真由子は言った。「私には夫がいる。あなたは知っている。それでも、こうなってしまう」
「共犯、ということにしましょう」と悟は言った。
自分でも、どこからその言葉が出てきたのか分からなかった。だが言った瞬間に、それが正しい言葉だと思った。どちらが罪人でもなく、どちらが被害者でもなく、共犯。二人で罪を作り、二人で負う。それなら釣り合っている。
「共犯」と彼女は繰り返した。「どちらが罪人ですか」
「二人とも」
「どちらが誘いましたか」
「最初にライブで引き戸を開けたのはあなたです。二度目も一人で来た。先に名乗ったのもあなた。一人のときも多いと言ったのもあなた。私が声をかけたのは、あなたのその一歩があったからで」
「声をかけてきたのは、あなたで」と真由子は言った。
「だから共犯です」
真由子は笑った。声を出して笑った。初めてだった。小さな笑い声だったが、本物だった。カウンターの上のお茶の湯気が、その笑い声に揺れたような気がした。
「本当に、共犯ですね」と彼女は言った。
その夜、悟は真由子にキスをした。長くなかった。だが確かなものだった。真由子は目を閉じていた。
これが始まりだった。
外の世界では、十一月の風が自由が丘の商店街を吹き抜けていた。落ち葉が舗道を転がる音がした。翠庵の中は静かで、蝋燭も照明もそのままで、二人だけがいた。
始まってしまった、と悟は思った。それを後悔しなかった。
第6章 翠庵の夜
十一月の末、真由子から連絡が来た。
「木曜日、少し遅くに来てもらえますか。夜の翠庵を見せたいので」
メッセージはそれだけだった。悟は時計を見た。夜の翠庵。具体的にどういう意味を持つか、言葉には出ていなかった。だが分かった。分かった上で、「行きます」と返した。
悟が翠庵に着いたのは九時過ぎだった。商店街はもうほとんどの店が閉まり、街灯だけが灯っていた。コンビニの明かりと、遠くのカフェの灯りと、翠庵の引き戸の向こうの薄い光。夜の商店街は人通りも少なく、自分の足音だけが聞こえた。
引き戸を叩くと、中から鍵が開く音がした。真由子が開けた。
白い着物だった。
白地に銀の細い柄、まるで霜が降りたような紋様。帯は深い青。足元は足袋と白木の下駄。耳の翡翠のイヤリングが、いつも以上に映えていた。
悟は言葉が出なかった。
翠庵のカウンターに立つ真由子を、何十回と見ていたはずだった。だが着物姿を見たのは、最初のライブ以来だった。あの夜の紺地の着物とは違う。今夜は白。暗い店の中で、白だけが光を集めていた。
「どうぞ」と彼女は言った。
店の中が変わっていた。テーブルの上に小さな蝋燭が灯り、カウンターの上に二つの器が置かれていた。普段の翠庵の照明はオレンジ色の暖かいものだったが、今夜は少し暗めにしてあり、蝋燭の光との差が縮まっていた。
「冬の新作を、試してもらいたくて」と真由子は言った。「毎年この時期に、新しい上生菓子を作るんです。今年の冬の菓子を、誰かに食べてもらいたかった。おいしいかどうか、正直に言ってくれる人に」
「私が正直と思う理由は」
「あなたの仕事が、正直だから。音は嘘をつけない。嘘をついた音は必ずどこかで破綻すると言っていた。同じように正直に言ってくれる人だと思っています」
器の中に、白い半球状の生菓子があった。直径四センチほど。表面は白く、微かにすりガラスのような質感で、光の当たる角度によって微かに光る。内側に何かが透けて見えた。
「霜夜、という名前を付けようと思っています」と真由子が言った。「霜が降りた夜。寒いけれど、静かで、どこか美しい夜のことを」
悟は一口食べた。
外側は薄い求肥で、中は白餡。だがその白餡の中に、柚子が練り込まれていた。最初の甘さと、後から来る柚子の清涼感。甘さと酸味が、冬の夜の空気のように入り交じる。食べ終えた後、口の中に爽やかさが残った。冷えた夜の空気を吸ったような、清潔な後味だった。
「おいしいです」と悟は言った。
「どんなふうに?」と真由子はすぐに聞いた。
「冬の夜、誰かの家の窓から明かりが見えるような。そこに入っていいのかどうか迷っているような。甘いけれど、少し切ない。中に入れたとしても、永遠にはいられないと分かっているような」
真由子は数秒、悟を見つめた。黙っていた。
「よかった」と彼女はゆっくり言った。「作るとき、そういうことを思いながら作っていたから。窓の向こうに灯りがある冬の夜のことを。その灯りの傍にいられたら、という気持ちを込めて」
「伝わりました」
「伝わる人がいて、よかった」
蝋燭の光の中で、二人は話した。音楽の話。菓子の話。子供の頃の話。
真由子が言った。「着物を着るようになったのは、三十代のときに師匠に言われたからなんです。和菓子は季節の芸術だと。自分の体でも季節を表現しなさいと。それで着物を習い始めて、今では着物の方が楽なくらいになって」
「ライブにまで着ていくのは?」
「好きなものを好きなときに着たいから」と真由子は言った。「夫がいたときは、着物で出かけるのに何となく言い訳が要る気がして。単身赴任になってから、そういうのがなくなった。誰かに言い訳しなくていいことが、こんなに楽なのか、と思った。当たり前のことなのに」
「解放された」
「少し。俊介は着物が嫌いなわけじゃないんです。ただ、興味がない。着物でどこかに行こうとすると、『大変じゃないの』とか言う。悪気はないんですよね。ただ着物が日常じゃないから、相手の手間を心配してしまう。でも毎回そう言われると、何となく着ていきにくくなってしまって」
「それが積み重なる」
「そう。そして気づいたら、普段着なくなっていた。でも好きな気持ちは残っていた。だから単身赴任になったとき、また着始めた」
「私が恵子を一人にしていたのも、似た構造かもしれない」と悟は言った。「私にとって仕事は生きることだったが、彼女にとって私の仕事は不在を意味していた。悪意はないんです。ただ噛み合わなかった。そして気づいたら溝になっていた」
「長く一緒にいると、噛み合わないことが積み重なっていくのかもしれませんね」
「音で言えば、ほんの少しの音程のずれが、時間をかけて不協和音になっていくような」
「そうかもしれない。最初は気にならないくらいの小さなずれが」
「でも耳が慣れると、それが当たり前になる」
「そして気づいたとき、修正できないほどずれていて」
真由子は少し微笑んだ。「音楽で説明すると分かりやすい」
「私の言葉はいつも音楽になる」と悟は言った。「音楽が私の母語みたいなものだから」
「じゃあ、私との時間は、音楽で言えば何ですか」
悟はしばらく考えた。
「アンプラグドのライブ」と悟は言った。「電気的な増幅なしで、楽器と声だけで演奏する。小さいけれど、本物の音だけがそこにある」
真由子はその答えを聞いて、「好き」と言った。「その答えが好き」
やがて話が途切れた。真由子が立ち上がり、蝋燭の一つを消した。残った一本の蝋燭が揺れた。影が壁に揺れた。
悟は真由子の傍に行った。真由子は動かなかった。ただ悟を待っていた。待っていた、ということが、その静止から分かった。
悟は彼女を抱いた。着物の上から、その体の温もりを感じた。夢の中で感じた温もりと、同じだった。夢の中の記憶は幻だったが、この温もりは現実だった。着物の布越しに伝わる温度は、生きている人間の熱だった。
「悟さん」と真由子が言った。初めてその名で呼ばれた。
その夜、二人は翠庵の奥の小さな部屋で、長い時間を過ごした。冬の始まりの夜。外では風が商店街を吹き抜けていたが、翠庵の中は静かで温かかった。
共犯は、完成した。
第7章 乾いた日常
関係は続いた。
月に二度か三度、真由子と過ごした。木曜日の夜が多かったが、昼間に会うこともあった。悟の仕事がない午後、真由子が早じまいをした日。近くの公園を二人で歩いたり、悟の知るコーヒーの店で話したり。
その時間は、二人にとって特別な隔離された世界だった。
悟は仕事を続けながら、その時間を心の支えにしていた。ライブの準備、スタジオでの作業、クライアントとの打ち合わせ。日常の業務をこなしながら、頭の片隅に翠庵があった。真由子の声が、木曜日の夜の翠庵の匂いが、働いている途中に不意に浮かんでくることがあった。
悟は真由子との時間が始まってから、仕事の質が上がったと思っていた。理由を説明するのは難しいが、音に向かうときの集中力が増した気がした。生き方に何かが加わると、仕事にも何かが加わる。そういうことがあるのかもしれない。人が人に影響を受けることの不思議さを、五十二歳になって改めて感じた。
一方で、罪悪感がないわけではなかった。
真由子には夫がいる。大阪で、真剣に仕事をしている夫が。月に一度帰ってくると聞いていた。悟はその夫に会ったことがないが、真由子が「優しい人」と言っていた。乾いた優しさ、とも言っていた。
乾いた優しさ。
悟には、その感覚が分かった。恵子との最後の数年もそうだった。喧嘩はなかった。罵り合いも、涙もなかった。ただ穏やかに、お互いへの関心が薄れていった。それは優しさと呼べるものだったかもしれないが、確かに乾いていた。
湿度のない優しさは、植物に水の代わりに砂糖水を与えるようなものかもしれない。甘いけれど、枯れていく。
十二月に入り、仕事が立て込んできた。年末のコンサートシーズンで、依頼が重なった。大きなホールでの公演が三本、小さなライブハウスでの仕事が数本。忙しい時期だったが、充実していた。充実していながら、一方で罪悪感がないわけではなかった。
十二月の第一木曜日。悟が翠庵に行くと、真由子の顔色が優れなかった。
「今日、夫から電話があって」と真由子は言った。「三月じゃなくて、二月に戻るかもしれないと」
二月。あと二ヶ月だった。
「東京本社に戻る話が、早まったらしくて。二月の中旬か下旬になりそうだと」
「そうですか」と悟は言った。
カウンターで向き合っていたが、いつもの空気とは違った。何かが明確になってしまったような、緊張があった。期限が、形をとって現れた感じがした。
「悟さん」と真由子が言った。「私たちは最初から、これがどういうものか分かっていたはずで」
「分かっていました」と悟は言った。
「分かっていて、続けてきた。それは私が選んだことだから、後悔はしていない。でも俊介が帰ってきたら、どうするか、まだ決められていなくて」
「あなたはどう思いますか」と真由子は静かに聞いた。
「あなたの決めたことに従います」と悟は言った。
真由子は悟を見つめた。
「それは優しさですか」と彼女は言った。
悟は驚いた。
「乾いた優しさですか」と真由子は続けた。言い方は柔らかかったが、目は真剣だった。「あなたの決めたことに従う、というのは、私に決めさせる、ということですよね。それはあなたがどうしたいか、ではなくて」
悟は何も言えなかった。
「ごめんなさい」と真由子は言った。「意地悪なことを言いました」
「いいえ」と悟は言った。「正しいことを言っています」
沈黙があった。
「では聞きます」と悟は言った。「正直に言います。あなたとの時間が、なくなってほしくない。でも、あなたの人生を壊したいわけでもない。どちらも本当のことです。どちらかを選べと言われたら、私には選べない。それが私の正直なところです」
「二つとも言ってもらえた」と真由子は言った。
「あなたが教えてくれたから。正直でないと伝わらない、ということを」
「私も、俊介が帰ってきたら、良い妻に戻ると思う。戻れると思う。二十三年の積み重ねは本物だから」
「それは正しいことです」
「でも今、あなたのことが好きです。それも本当のことで。二つの本当のことが、同時に存在している。それが私の正直なところです」
その夜、二人はいつものように体を重ねた。だが今夜は確認するような、惜しむような空気があった。何かが始まりつつある終わりの予感を、二人とも感じていた。
帰り際、真由子が言った。「私、着物を着てライブに行ったのは、誰かに見てほしかったからかもしれない。夫に見せられない自分を。あなたはちゃんと見てくれた」
「見ていました」
「それだけで、十分でした」
悟は自由が丘の夜道を歩いた。冬の空気が鋭く頬を刺した。
乾いた優しさ。自分はそうではない、と思っていた。だが今夜の「あなたの決めたことに従います」という言葉は、本当に優しさだったのか。それとも、決断を彼女に丸投げしたのか。
男はいつも、決断したと思っているが、本当はどこかで女に決めさせている。
どちらが決断するのか。どちらが罪を負うのか。答えは、共犯、だった。それだけが確かだと思いながら、夜道を歩き続けた。
第8章 女という字
十二月の末、真由子から一通のメッセージが来た。
「大晦日、来られますか」
悟は少し驚いた。大晦日は、真由子が店を閉める日だった。毎年、一人で年越しをすると言っていた。夫の家族は大阪にいるため、俊介が単身赴任になる前も、大晦日は二人で静かに過ごすことが多かったらしい。単身赴任になってからは、真に一人で。
「行きます」と悟はすぐに返した。
大晦日の夜、悟が翠庵に着いたのは九時過ぎだった。商店街はほとんどの店が閉まり、街灯だけが灯っていた。年の瀬の、しんとした空気。除夜の鐘にはまだ早い。悟の足音だけが、静かな商店街に響いた。
真由子が開けた。
赤い着物だった。
深い赤に金の松葉の刺繍。帯は黒地に赤い梅の柄。耳には翡翠ではなく、小さな珊瑚のイヤリングをしていた。白い着物のときとはまた違う真由子だった。赤い着物は、より強くて、より華やかで、しかし今夜の真由子に似合っていた。
「綺麗です」と悟は言った。言わずにいられなかった。
「ありがとうございます。今夜は、ちゃんとしたかった。この一年を、きちんと終わらせたくて。この一年がどんな年だったか、体で覚えておきたくて」
「どんな年でしたか」
真由子は少し考えてから言った。「変わった年でした。三年間変わらなかったものが、変わり始めた年」
「私のことですか」
「あなたのことも。でもあなただけじゃない。私自身が変わり始めた年でした。もう変わらないと思っていたのに、まだ変われるんだと思った年」
店の中には日本酒の用意がされていた。真由子の知人の蔵元から年に一度送られてくるという純米大吟醸。小さな漆の盃が二つ。
「乾杯しましょう」と真由子が言った。
「何に」
「共犯に」と真由子は言った。
二人は微笑んで、盃を重ねた。澄んだ音が店の中に響いた。
酒を飲みながら、真由子が言った。「女という字は面白いと思いませんか」
「どういう意味ですか」
「女という字が入った漢字を考えると。嫁、娘、婦、姉、妹、姫、好、娯楽の娯、始まりの始……どれも、女の別の姿」
「妊、娼、婬という字もある」
「そう」と真由子は頷いた。「全部、女という字から生まれた。でも男という字は、男のまま。田に力、それだけ。変化しない」
「男は変化できないということですか」
「変化しなくていい生き物なのかもしれない」と真由子は言った。「それが羨ましいような、物足りないような」
「あなたは今、どの女ですか」と悟は聞いた。
真由子はしばらく考えた。「妻でもあり、店主でもあり、今夜はあなたの共犯者。どれが本当の姿か、と聞かれると分からない。でも全部が私なんだと思うようにしています。人間って、一つだけでいられないから。たくさんの自分が同時にいる」
「私はあなたの全部を知りたい」と悟は言った。
「全部は怖いですよ」と真由子は笑った。
「なぜ」
「私自身が、まだ全部を知らないから。五十近くなっても、自分のことはまだ分からないことが多い。知っていると思っていたのに、知らなかったことが今年だけでもいくつかあった」
「たとえば」
「まだ誰かを好きになれる、ということ。まだときめける、ということ」
悟は盃を持ったまま、黙っていた。
「あなたに教えてもらいました」と真由子は言った。
「私が教えたわけじゃない」
「でも、あなたがいなければ、知らないままでいた」
年が明けるまで、二人は話し続けた。音楽の話。菓子の話。子供の頃の話。真由子が子供の頃、近所に年老いた菓子職人が住んでいて、縁側で飴細工を作るのを見ていた話。悟が中学生のとき、初めてレコードを買ってそれが自分の音楽の原点になった話。
十二時の鐘の音が、どこかから聞こえた。遠い寺の鐘か、テレビの音か。
「あけましておめでとうございます」と真由子が言った。
「おめでとうございます」
二人は盃を重ねた。
その夜、悟は翠庵に泊まった。初めてのことだった。
元日の朝、外の空が白み始めた頃、悟は真由子の眠っている傍に横たわっていた。真由子は眠っていた。規則正しい呼吸。穏やかな表情。赤い着物は畳まれて棚の前に置かれていた。
元日の朝日が、翠庵の古い引き戸のガラスを通して、床に斜めの光を落としていた。その光の中で、見慣れた翠庵の床が、今朝は少し違って見えた。
真由子が目を覚ました。「おはようございます」と彼女は言った。
「おはようございます」
真由子はゆっくり起き上がり、カーディガンを羽織った。台所でお茶を入れてきた。
二人でカウンターに並んで座り、通りを見た。元日の朝の静かな自由が丘。コンビニ以外の店はどこも閉まっている。商店街に人影はなく、遠くの空だけが明るかった。
「悟さん」と真由子が言った。
「はい」
「夫が帰ってきたら、私はきっと良い妻に戻る。戻れると思う。それが悲しいことなのか、当たり前のことなのか、分からないけれど」
「どちらでもいいと思います」と悟は言った。
「また、それ」と真由子は言った。
「今度は、乾いた優しさじゃありません。本当にそう思っているから。あなたの人生はあなたのものだから。私はそこに少しの間だけ入り込んだ、共犯者だから」
「共犯者」と真由子は言った。「それは正しい」
元日の光が商店街に差し込んできた。その光の中で、真由子の赤い着物が鮮やかに染まった。
悟はその光景を、記憶に焼き付けようとした。カメラを持っていなくても、この一枚を残したかった。翠庵の床に斜めに落ちる冬の朝日と、赤い着物と、元日の静かな朝。
第9章 二月の終章
夫が帰ってきたのは、二月の十四日だった。バレンタインデーだった。それは偶然だったが、悟は知らされたとき少し苦笑した。
真由子からメッセージが来たのは、二月の初めだった。「十四日に田中が戻ります。その前に一度だけ、会えますか」
田中、という苗字での呼び方に、悟は何かを感じた。真由子の夫の名前は田中俊介だった。しかし真由子の苗字も田中だった。「田中が戻ります」という一文は、夫の存在をそう表現するしかないからそうなったのだろうが、それによって急に、夫というものが輪郭を持ったような気がした。
「会いましょう」と悟は返した。
二月十日の木曜日、悟は翠庵に行った。
真由子は普段着だった。細身のウールのワンピース。飾らない格好だったが、それが却って真由子らしかった。着物ではない真由子も、翠庵のカウンターに立つと、やはり真由子だった。どんな格好でも背筋が通っていた。
「こんばんは」と真由子が言った。
「こんばんは」
いつものようにお茶が出た。だが空気は違った。大切な場所に別れを告げに来たような静かさがあった。終わりの気配が、翠庵の中に漂っていた。
「半年間、ありがとうございました」と真由子が言った。
「礼を言うことじゃないと思います」
「言いたいんです」と真由子は言った。「この半年、私にとって本当に大切な時間でした。あなたに出会えてよかった。出会い方はともかくとして」
「私もです」
「寂しくないと言えば嘘になります」と真由子は続けた。「でも後悔はしていない。本当に」
「私もです」と悟はもう一度言った。
しばらく二人は黙っていた。カウンターの上のお茶から湯気が立ち上っていた。翠庵の古時計が、静かに時を刻んでいた。
「一つ聞いていいですか」と悟は言った。
「どうぞ」
「あなたは、夫のことを今でも愛していますか」
真由子は少し考えた。窓の外の夜の商店街を見るように、少し目を逸らした。それから悟を見た。
「愛しています」と彼女は答えた。「別の形で、ずっと。あなたのことも、愛していた。これは矛盾じゃないと思っています。同じ愛じゃないから」
「どんなふうに違いますか」
「俊介への愛は、二十三年かけて積み上げた建物みたいなもの。大きくて、安定していて、傷もある。その建物の中で私は生きてきた。あなたへの愛は、冬の夜に見つけた焚き火みたいなもの。その火の周りにいると温かくて、美しくて、でも焚き火は永遠には燃え続けない。どちらが本物か、じゃなくて、どちらも本当のこと」
「建物に戻ります」と真由子は言った。「焚き火のことを覚えながら」
「覚えていてください」と悟は言った。
「忘れません」
悟は少し迷ってから、言った。「以前、詩を書いていたことがあって」
「知らなかった」
「あなたに会う前の夏に書いた詩があって。夢の中で名前も知らない女を抱いた、という詩で」
真由子は目を見張った。「夢の中で?」
「最初にライブで見かけて、夢で何度も会った。名前を知らなかったから、夢の中で素子と呼んでいた。でも現実では真由子という名前だった」
「私のことを」
「そうだと思います。最初から。だから声をかけたのかもしれない」
「詩の中に、何が書いてありましたか」
「男は永遠に騙されたままでいい、ということが書いてありました。女という字は変化する。嫁にも娘にも婦にも。男という字は変化しない。男は女の全部を知ることができない。それでもいい、その方が美しいものを見ていられる、ということを」
「詩人みたいなことを言う」と真由子は言った。
「音を言葉にしようとすると、詩になることがある。音と言葉は似ているから」
「あなたに見られていた」と真由子は言った。「ライブハウスで。翠庵で。私の知らない私を、あなたは見ていた。それが少し怖くて、でも嬉しくて、矛盾しているけれど」
「人間は矛盾しているものだから」
その夜、二人は翠庵で最後の時間を過ごした。誓いも泣き言も言わなかった。ただ静かに体を重ね、静かに眠り、朝に目覚めた。
真由子が朝食を作った。出汁巻き卵と白湯とご飯。簡単なものだったが、心のこもった朝食だった。
「おいしい」と悟は言った。
「この人に食べてもらえてよかった」と真由子は言った。
帰り際、引き戸の前で、悟は振り返った。
「また、ライブに来てください」と悟は言った。
「行きます」と真由子は言った。「着物を着て」
「見ています」
「知っています」
二人は笑った。
悟は自由が丘の朝の道を歩いた。二月の空は低く灰色だったが、どこかに春の気配があった。
来年の夏、またあのライブハウスで真由子を見かけるかもしれない。そのときは何も起きないかもしれない。ただ目が合って、微笑んで、それだけかもしれない。
それでいい、と悟は思った。
女という字は変化する。男という字は変化しない。でも変化しないことは、貧しいことじゃない。変化しないからこそ、変化するものの美しさが分かる。
悟は歩き続けた。春はもうすぐそこにいた。
続く…

