この世に何かを残して置きたいと

投稿し始めた アマゾンのキンドルも

今週で100冊となりました。

膨大なそこでは

まだまだ埋もれたままですが

しばし投稿を続けてみようかと思っています。

宜しかったら覗いてみて下さい。


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ーー来週 投稿予定ーー



神様との取り引き 

─ 宇宙命運局の大混乱 ─

著:銀河系第三惑星文学協会(仮)


〜まえがき〜

人は時々、少しだけ無茶なことを考えます。

「もし時間を分けられるなら」
「もし寿命を譲れるなら」
「もし、大切な人に少しだけ長く笑っていてもらえるなら」

もちろん、そんなことは現実にはできません。

けれど人は、不思議なもので、どうにもならないときほど、そんな願いを胸に抱きます。

本作は、そんな小さな願いを、宇宙規模で少し大げさに翻訳してみた物語です。

神様がいて、悪魔がいて、宇宙人がいて、命を管理する役所があり、申請書があり、担当者が昼休みで番号札が進まない世界。

少し馬鹿馬鹿しくて、少し可笑しくて、でも、ほんの少しだけ胸が温かくなるような話になればと思いました。

笑って読んでいただいて構いません。

ただ、もし読み終えたあとに、誰かの顔が少し浮かんだなら。

それだけで、この物語はきっと役目を果たしたのだと思います。

それでは、宇宙で最も迷惑な申請書のお話を、どうぞ。




【重要注意事項】
本書に登場する神様・悪魔・天使・宇宙人・官僚・AIおよびその他の存在は、すべてフィクションです。実在の神様との類似は、宇宙の縮退確率の問題上、統計的に避けられない場合がありますが、著者は一切の責任を負いません。なお著者は、本書の執筆中に神様らしき存在と交渉を試みましたが、相手は「多忙につき後日折り返す」と言ったまま現在も連絡がありません。


プロローグ ─ 宇宙で最も迷惑な申請書 ─


宇宙には、多くの人が知らない真実がある。

星が生まれ、星が死ぬ。銀河が衝突し、ブラックホールが時空を歪める。これらはすべて、宇宙命運局(Universal Fate Administration Bureau、略称UFAB)という官僚組織が管理している。

UFABの本部は、天の川銀河の中心から少し外れた、特に景色も良くない小惑星の上に建っている。建物は灰色で、窓は少なく、入口には「ご用の方は番号札をお取りください」という看板が掲げてある。宇宙創造から現在まで、その番号は「第四十七兆八千二百六十億三千万二千九百八十八番」まで進んでいるが、現在窓口で対応中なのは「第四十七兆八千二百六十億三千万二千九百八十六番」のままだ。理由は昼休み中だからである。

宇宙命運局の主な業務は「命の長さの管理」である。

すべての知的生命体には、誕生時に「命のポイント」が付与される。地球人で言えば、おおむね七十年から九十年分。ポイントは毎秒消費され、ゼロになると、その生命体は「寿命終了通知書」を受け取る。受け取りたくない場合でも関係ない。郵便は必ず届く。宇宙郵便局の配達員は、宇宙で唯一、どんな壁も扉もすり抜けられる存在だからだ。ただし彼らは「不在票」を置く習慣だけはしっかり守っている。

問題は、年に数件発生する「命のポイント分割申請」である。

申請書番号TF-ΩΩ-0000001。

UFABの命運管理第七課係長、ベラトリックス・Z・ゴンザレス(性別:不明、年齢:三万七千歳、趣味:書類の角を揃えること)は、その朝、デスクの上に置かれた申請書を見て、珈琲を噴き出した。

申請内容は、こうだ。

【命のポイント分割申請書】
申請者:地球人 山田 太一(以下、太一) 申請番号:TF-ΩΩ-0000001 申請内容:残余命ポイント(推定三十年分)を以下の通り分割することを希望する。  父 山田 正雄 → 十年分  母 山田 花子 → 十年分  申請者本人 山田 太一 → 十年分 理由:「両親に元気でいてほしいから」(原文ママ)


ゴンザレス係長は、もう一度書類を読んだ。

それからもう一度。

三回目に読んだとき、彼女(便宜上そう呼ぶ)は気づいた。この申請は、UFABが過去三万七千年の業務で一度も処理したことのない、完全に前例のない案件だということに。

なぜなら、過去の命ポイント分割申請はすべて、申請者が「自分のポイントを増やしたい」というものだったからだ。名声のために命を燃やす者、権力のために余命を売り払う者、不老不死を求めて悪魔に魂を渡す者。UFABはそういった案件を「悪魔取り引き特別処理班」に回す仕組みを持っている。

しかし太一の申請は違った。

自分のポイントを削って、他人に渡したい。しかも、見返りを求めていない。

ゴンザレス係長は、部下のピプリックス(形状:球体、色:緑、特技:書類を秒速で処理する代わりに中身を一切読まない)を呼んだ。

「ピプリックス。この申請、どの処理コードに分類すればいい?」

ピプリックスは三秒で全マニュアルを検索した。

「該当コードが存在しません」

「じゃあ、前例は?」

「ゼロ件です」

「神様への申請として上げるべきか?」

「神様は現在、別件で宇宙九百九十二番の新規惑星プロジェクトに集中されており、一般申請の受付は停止中です。再開予定は未定です」

ゴンザレス係長は、深くため息をついた。宇宙命運局始まって以来、最大の頭痛案件が、今日の昼前に舞い込んできた。

そして彼女は、自分でも気づかぬうちに、思った。

──これは、誰かが現地に行って、直接確認しなければならない案件だ。

その「誰か」が誰なのかは、次の章で明らかになる。

ヒントを言うと、その「誰か」は、この仕事を全力で嫌がることになる。


第一章 ─ 史上最も不運な特別調査官 ─



フォン・ハウゼン・クロノス・デラックス三世(本人希望の呼び名:クロ、実際に呼ばれる名前:「おい、そこのやつ」)は、宇宙命運局の特別調査官であった。

特別調査官というのは、聞こえはいいが、実態は「誰もやりたくない仕事を押し付けられる係」である。

クロは身長が宇宙標準で一・七三単位(地球換算で百七十三センチ)、外見は地球人の三十代に見えなくもないが、実際は千二百歳で、見た目が変わらないのは種族の特性ではなく、ただ単に新陳代謝が極度に遅いせいだ。髪は常にぼさぼさで、制服は常にシワだらけで、靴は常に左右どちらかが少し緩い。これは彼が怠惰なのではなく、靴を買いに行くたびに「緊急任務」が発生するという、宇宙的な不運のせいである。

彼の相棒は、手のひらサイズの半透明な浮遊型AIアシスタント「ナビ七号」だ。ナビ七号は前任者六機の改良型であり、前任六機は全員クロの任務中に「予期せぬ事態」で機能停止した。ナビ七号はこの事実をよく知っており、クロに対して常にわずかに距離を取って浮遊している。

その朝、クロは休暇三日目だった。

「休暇」と言っても、小惑星の独身寮の自室で横になりながら天井を見つめているだけだが、それが彼にとっては最高の休日である。何も起きない。誰も呼ばない。書類も来ない。

ナビ七号が、部屋の隅で充電しながら静かに浮かんでいた。

──そのとき、ドアが開いた。

「クロノス!」

ゴンザレス係長だった。

クロは天井から目を離さなかった。

「休暇中です」

「緊急任務よ」

「緊急の定義を宇宙標準語で教えてください。僕の辞書では『他の誰かが行くべき案件』と書いてあります」

ゴンザレス係長は、デスクの上に書類を投げた。正確に言うと、重力制御で書類をクロの顔の真上に浮かせた。

クロは仕方なく読んだ。

「……命のポイント分割申請?」

「前例なし。マニュアルなし。担当者なし」

「じゃあ却下でいいじゃないですか」

「却下の場合、申請者本人の命ポイントが即時凍結されるわ。それが規則よ」

クロは起き上がった。

「凍結……というのは?」

「審査中はカウントが止まる。でもね、処理が完了しない限り永遠に止まったまま。申請者は生きているけれど、時間の中で完全に静止した状態になるわ。この申請が出されたのが、地球時間で十五年前」

「十五年前?! なぜ今?」

「書類が処理待ちのまま倉庫に積んであったのよ。ピプリックスが去年、倉庫の掃除をしたときに発見したわ」

ナビ七号が充電コードを抜いて、そっとクロの肩に近づいてきた。珍しいことだった。

「……つまり」クロはゆっくり言った。「この地球人は、十五年間、時間が止まった状態で生きているということですか」

「正確には、命ポイントは止まっているから歳は取らない。でも意識は普通にある。本人は気づいていないかもしれないけれど、時間の流れ方が周囲とほんの少しズレている状態ね」

「ほんの少し?」

「体感時間で言うと、本人には『なんか最近、日が経つのが速い気がする』程度の違和感として現れているはずよ」

クロは眉をひそめた。

「地球に行って、申請内容を直接確認して、処理方針を決めてくれ。担当者が現地確認すれば、凍結は一時解除されて通常状態に戻る。申請処理が完了したら、正式にポイントを配分するか却下するか、上に判断を仰ぐ」

「なぜ僕が?」

「あなた以外、全員が出払っているから」

クロは、自分の左靴が少し緩いことに気づいた。




地球への転送は、小惑星の地下にある転送室から行われた。

転送室は思ったより小さく、壁には「ご利用の際は行先をはっきり声に出してください(訛りがあっても可)」という注意書きがあった。その隣に、小さな文字で「先月、申請者が『チキューのトキオ』と言ったところ、木星のある地点に転送されました。現在も捜索中です」と貼り紙がしてあった。

クロは地球の座標をナビ七号に入力させ、転送装置に乗り込んだ。

「現地での姿は地球人に合わせてあります」ナビ七号が言った。「ただし言語については、地球語は複数存在するため、自動変換フィルターが常時作動します。ただしフィルターは旧型なので、時々、文脈に関係なく古い言い回しが混ざります」

「どの程度?」

「先週のテストでは、『ありがとう』が時々『かたじけない』になりました」

「……なるべく喋らないようにする」

「賢明です」

転送が始まった。クロの体が光に包まれ、次の瞬間──




──クロは、山田太一の家の前に立っていた。

場所は日本のどこかの住宅地。夕方。街路樹が並び、向かいの家から夕飯のにおいがした。空は橙色に染まっていて、電線に雀が三羽止まっていた。

クロは雀を見た。

雀が自分を見た。

雀は飛び去った。

「ここが申請者の自宅です」ナビ七号が耳元でささやいた。サイズを縮小して、クロの胸ポケットに収まっている。「現地時間、午後五時十七分。申請者は在宅中。現在、縁側でお茶を飲んでいます」

「縁側?」

「日本の伝統的な建築様式における屋外と屋内の中間空間です。哲学的に言えば、存在の境界線。機能的に言えば、外に出るほど元気でもないが、中にいるには天気が良すぎる、そういう時に使う場所です」

「なかなか詩的な説明だな」

「ありがとうございます。翻訳フィルターが少し詩的な方向に調整されているようです」

クロは門の前に立った。表札には「山田」とあった。

インターホンを押した。

少ししてから、縁側の方から声がした。

「はーい」

のんびりした声だった。

玄関ではなく、庭の入口の方に回り込んでいくと、縁側に一人の男性が座っていた。年齢は六十前後。白髪交じりで、顔には穏やかな皺があり、手に湯飲みを持って、夕暮れの庭を眺めていた。

山田 太一。申請者本人。

太一はクロを見て、少し不思議そうな顔をした。

「どちら様でしょうか?」

クロは、ゴンザレス係長から渡された名刺を取り出した。名刺には、地球人向けに偽装した肩書きが書いてある。

「宇宙命運局、特別調査官のクロノスと申します」

太一は名刺を受け取り、眺め、また顔を上げた。

「……宇宙命運局」

「はい」

しばらく沈黙があった。

庭の雀が戻ってきて、また去っていった。

太一は湯飲みをゆっくり縁側に置いて、言った。

「お茶、飲みますか?」

クロは、この仕事を始めて千二百年で初めて、「案外悪くないかもしれない」と思った。

むろん、そう思ったことをすぐに後悔する羽目になるのだが、それはまだ少し先の話だ。


第二章 ─ お茶と宇宙と、言えない話 ─



縁側のお茶は、ほうじ茶だった。

クロは縁側に腰を下ろし、湯飲みを両手で持って、庭を眺めた。地球に来て初めてのことが、いくつもあった。夕暮れの橙色。土のにおい。遠くで鳴くカラス。これほど静かな惑星を、クロはこれまで訪れたことがなかった。宇宙のほとんどの惑星は、もっとうるさい。

太一は隣に座って、同じように庭を眺めていた。

「宇宙命運局、というのは」と太一は言った。急かさず、ただ確認するように。「つまり、あの……申請のことで、来られたわけですね?」

クロは湯飲みを置いた。

「十五年前に提出された、命のポイント分割申請の件です」

太一は少し目を細めた。懐かしむような顔だった。

「十五年、ですか。そうか、もうそんなになるのか」

「覚えておられますか?」

「もちろん。あの頃、父が倒れまして。その少し前に母も入院して」太一はゆっくり言った。「両方が同じ時期に、というのは……きつかったですね。年齢的にも、これが最後かもしれないと思いながら、病院と家を往復していた時期がありまして」

クロは何も言わなかった。

「そのとき、ふと思ったんです。もし自分に三十年の時間が残っているなら、それを三等分して。父に十年、母に十年、自分も十年でいい。そう思ったら、なんか楽になりましてね」太一は笑った。「おかしいでしょう? 神様にそんな申請できるわけないのに、申請するつもりで思ったら、気持ちが落ち着いたんです」

「申請は……実際に提出されていましたが」

太一が振り向いた。

「え?」

「夢の中で、書類に記入された記憶はありませんか? 非常に細かいフォントで、宇宙語が混じった書類です。三十七項目ありまして、最後に署名欄が……」

太一は天井を見上げた。しばらく考えた。

「……あ」

「何か?」

「あの夢か。変な夢やなと思ってたんですよ。書類にハンコ押す夢。なんか宇宙みたいな場所で、窓口のお姉さんが『ありがとうございます、後日ご連絡します』って言うて。あれ、本物やったんですか?」

「本物です」

「……そうか」

太一はまたお茶を飲んだ。

クロは、この地球人が、今の話を聞いてどう反応するか、少し心配していた。UFABの現地調査で、申請者がパニックを起こすことは珍しくない。「命の管理」という話題は、多くの知的生命体にとって受け入れ難い。

しかし太一は、驚くほど静かだった。

「で」と太一は言った。「あの申請、どうなりますか?」

クロは正直に答えた。

「審査中です。ただ……前例がないため、処理に時間がかかっています」

「十五年で、まだ審査中?」

「UFABは非常に大きな組織でして。書類が倉庫に……その、いくつかの事情が重なりまして」

「お役所みたいですね」

クロは答えなかった。

「ちなみに」と太一は言った。「父も母も、今は元気なんですよ。二人とも、あの後ちゃんと回復しまして。今は父が八十七で、母が八十三。二人とも、まあそれなりにいろいろありますけれど、笑って暮らしています」

「……それは」

「だからもう、申請は取り下げでもいいんですよ」

クロは固まった。

「取り下げ?」

「だって、あのとき願ったことは、もう叶ってるんだから」太一は穏やかに笑った。「二人とも元気でいてくれた。それだけで、十分です。何も要りません」

クロは、胸ポケットのナビ七号が、わずかに震えたのを感じた。




問題は、その晩に起きた。

クロが近くの民宿(ナビ七号が手配した。名前は「民宿 銀河荘」、偶然だった)に宿泊していると、真夜中にナビ七号が緊急アラームを鳴らした。

「クロノス。緊急通信です」

「何時だ」

「地球時間午前二時十四分です」

「……UFABか?」

「いいえ。発信元の識別コードは……」ナビ七号が少し間を置いた。珍しいことだった。AIが間を置くのは、処理が追いついていないときか、言いたくないときだ。「悪魔取り引き特別処理班です」

クロは飛び起きた。

悪魔取り引き特別処理班──通称DDB(Devil Deal Bureau)。

UFABの中でも異質な部署だ。命と引き換えに名声・権力・不老不死などを望む申請者と、悪魔側の交渉を仲介し、契約を管理する。非常に忙しい部署で、歴史上の著名人の多くが彼らの台帳に名前を連ねている。彼らは自分たちの仕事に誇りを持っており、他の部署を「命の小売業者」と呼んで軽蔑する。

そのDDBが、なぜ今。

クロは通信を繋いだ。

画面に現れたのは、スーツ姿の長身の人物だった。肌は青白く、髪は黒く、笑顔は完璧に整っていた。完璧すぎて、少し怖い。

「やあ、クロノス特別調査官」男は言った。「DDBのメフィスト・P・アンダーソンだ。少し話があってね」

「こんな時間に?」

「こっちの都合でね。悪魔は夜が本番なんだ。ご理解ください」

クロは布団を肩にかけたまま、画面を見た。

「山田太一の件だ」とアンダーソンは言った。「あの申請、うちが引き取ってもいいかな?」

「……引き取る?」

「命のポイント分割は、前例がないと聞いた。処理に困っているだろう? DDBなら引き受けられる。父親と母親のポイントを増やすかわりに、申請者から適切な対価を……」

「対価というのは」

アンダーソンは微笑んだ。

「まあ、通常の悪魔契約の範囲内で。命の一部とか、魂の三分の一とか。うちの標準パッケージだよ」

クロは目が覚めた。完全に。

「断る」

「即答だね」

「あの申請者は、取り下げを希望している。DDBが介入する案件じゃない」

アンダーソンの笑顔が、わずかに変わった。ほんの少し、本物に近い顔になった。

「取り下げ、ね。でも、それで本当にいいのかな? 父親の命ポイントは残り三・二年。母親は四・八年。彼はそれを知っているのかい?」

クロは何も言えなかった。

「UFABのデータは正確だよ。申請者が願ったことは確かに叶った。でも、永遠じゃない。すべては時間の問題だ。彼が本当に大切にしているものが、あと数年で……」

「通信を切る」

「クロノス。これは取り引きだよ。悪魔は嘘はつかない。ただ事実を言うだけだ」

クロは通信を切った。

部屋が暗くなった。

ナビ七号が静かに浮いていた。

「クロノス」とナビ七号は言った。「DDBの情報……確認しますか?」

クロは少しの間、黙っていた。

「……確認してくれ」

データが表示された。

山田 正雄、八十七歳。命ポイント残高:三・二年。

山田 花子、八十三歳。命ポイント残高:四・八年。

クロは窓の外を見た。夜の住宅地は静かだった。どこかの家に、まだ明かりがついていた。



第三章 ─ 正雄さんと、縁側会議 ─



翌朝、クロは山田家を再び訪ねた。

今度は正面玄関から。インターホンを押すと、出てきたのは太一ではなく、白髪の老人だった。小柄だが背筋が伸びていて、目が澄んでいた。

「どなたですか?」

「昨日、太一さんとお話しした者です。クロノスと申します」

老人はクロをじっくり見た。値踏みするわけでも疑うわけでもなく、ただ、見た。

「太一の知り合いか。まあ上がりなさい」

山田 正雄。申請者の父。八十七歳。

家の中は、古い木の匂いがした。廊下に、家族の写真が並んでいた。若い太一、若い両親、子供の太一、孫らしき子供たち。歳月が壁に貼り付いていた。

正雄は台所でお茶を淹れながら言った。

「太一は今朝、買い物に行っとる。ちょうどよかった、二人で話せる」

「二人で、といいますと?」

「あんたが何者か、だいたいわかっとる」

クロは足を止めた。

正雄はお茶を二つ持って、縁側に向かった。昨日と同じ縁側。同じ庭。しかし朝の光の中では、庭の緑が違う色に見えた。

「座りなさい」

クロは座った。

「太一のやつが、昨日の夜、電話してきてな」正雄は言った。「宇宙から来た人が訪ねてきた、と言う。で、どんな話をしたか、全部話してくれた。あいつは昔から、隠し事ができんのですよ」

「……そうですか」

「命の申請をしとったことも、初めて聞いた」正雄は少し笑った。「あほな息子だと思いましたよ。そんな無茶な申請、通るわけがないのに」

「はい」

「でも」

正雄は庭を見た。

「嬉しかったですよ。そういうことを、こっそり願ってくれとったんか、と」

クロは何も言わなかった。言えなかった。

「あんた、本当のことを教えてくれますか?」正雄は静かに言った。「私の残り、どのくらいですか?」

クロは、胸ポケットのナビ七号が、また小さく震えたのを感じた。

「……命ポイントの残高については、本来、開示する規則がないのですが」

「規則の話は聞いとらん。あんたの話を聞いとる」

正雄の目は、まっすぐだった。

クロはしばらく黙っていた。

「……約三年、です」

正雄は、表情を変えなかった。

「そうか」とだけ言った。

庭の雀が、また来ていた。昨日と同じ三羽かもしれない。

「三年あれば、十分だ」正雄は言った。「孫の卒業式にも行けるし、来年の花見もできる。花子と旅行の一つも行ける」

「……正雄さん」

「太一には言わんでくれ。あいつがまた変な申請をしかねん」

正雄は笑った。本当に笑った。しわが深くなって、目が細くなって、お茶をすする音がした。

クロは初めて、自分の仕事が何なのか、少しわからなくなった。




問題は、昼過ぎに起きた。

太一が買い物から帰ってくると同時に、ナビ七号が緊急アラームを鳴らした。

「クロノス。UFABから緊急通信です」

「また緊急か。今日は何件目だ」

「本日三件目です」

「記録更新だな」

通信を繋ぐと、ゴンザレス係長が画面に現れた。普段は冷静な彼女が、珍しく眉間にシワを寄せている。

「クロノス。大変なことが起きたわ」

「DDBの件は報告しました。あれ以上の大変なことが?」

「DDBが上に直接申請を出したのよ。山田太一の案件を、悪魔契約案件として正式に引き取りたいと。それだけじゃないわ。同時に、神様の秘書室からも照会が来ている」

「神様の秘書室?」

「神様が今の仕事を一区切りつけて、この申請を直接見たいとおっしゃっているそうよ。つまり──」

ゴンザレス係長は、珍しく言葉を止めた。

「つまり、一人の地球人の申請をめぐって、神様とDDBが同時に動き始めたということよ。こんなこと、UFABの歴史上、一度もなかった」

廊下の向こうから、太一の声がした。

「クロさん、お昼ごはん食べていきますか?」

のんびりした声だった。

クロは通信画面を見た。ゴンザレス係長の困り顔。ナビ七号の微妙な距離感。そして廊下から漂ってくる、味噌汁のにおい。

「係長」クロは言った。「少し時間をください」

「どのくらい?」

「お昼ごはんが終わるまで」

「……あなたという人は」

通信が切れた。

クロは台所に向かった。

テーブルには、味噌汁と、白いご飯と、卵焼きがあった。

正雄が、すでに席に着いて待っていた。

「遅い遅い、冷めるぞ」

クロは千二百年生きてきて、他人の家のテーブルで昼食をとったことが、これまで一度もなかった。

「……いただきます」

「どうぞ」と正雄は言った。「遠慮せずに」

卵焼きは、少し甘かった。




食後、太一と縁側に並んで座っていると、太一は何気なく言った。

「還暦って、不思議な歳ですよね」

「どういう意味ですか?」

「いろんなことを、ふと思う。今まで生きてきたこと、これから残ってることを。そういうことを考えるのが、全然怖くないんです。むしろ、静かに納得できる感じがして」

クロは庭を見た。

「申請を取り下げると言っておられましたが、本当によろしいのですか?」

太一はしばらく考えた。

「あのとき願ったことは、叶いました。父も母も、こうして笑っている。それだけで十分です」

「……でも」

「でも?」

クロは一瞬迷った。DDBの情報のこと、正雄の残り三年のこと。それを言うべきか。

しかし正雄の言葉が、耳に残っていた。

──太一には言わんでくれ。

クロは何も言わなかった。

「クロさんは」と太一は言った。「神様って、いると思いますか?」

クロは答えに詰まった。

なにしろ、神様の秘書室から今朝照会が来たばかりだった。神様は存在する。それはクロにとって職業上の事実だ。しかし地球人にそれをどう伝えるか。

「……おそらく、います」

「やっぱり」太一は頷いた。「僕も、いると思います。でも神様との取り引きって、本当は難しい話で」

「難しい?」

「取り引きって言うと、なんか打算的に聞こえるじゃないですか。でも、あのとき僕が願ったのは、そういうのじゃなくて。ただ、二人に長くいてほしかっただけで。見返りとか、そういうんじゃない」

クロは、DDBのアンダーソンの言葉を思い出した。

──これは取り引きだよ。悪魔は嘘はつかない。ただ事実を言うだけだ。

悪魔の取り引きと、太一の願いの違いは何か。

クロは、千二百年の経験の中で、これほど根本的な問いを突きつけられたことが、なかった。

「クロさん」と太一は言った。「もう一杯、お茶どうぞ」

縁側に夕暮れが来ていた。

また橙色の空だった。

電線に、雀が三羽。



第四章 ─ 神様の秘書は、お茶の飲み方を知らなかった ─



ガブリエル・S・田中が山田家の前に現れたのは、翌朝の九時ちょうどだった。

几帳面な時間だった。

彼は三十代に見える男性の姿をしていた。スーツは白く、ネクタイは金色で、靴は完璧に磨かれていた。髪は黒く、顔は整っていて、全体的に「神様の事務所で働いている人」という雰囲気があった。実際そうなのだから当然だが。

クロは民宿の前で偶然出くわして、思わず声をかけた。

「ガブリエルさん、ですか?」

相手は振り向いた。

「ああ、クロノス調査官。ちょうどよかった。一緒に行きましょう」

「何しに来られたんですか?」

「神様からの伝言です。直接お届けするよう仰せつかいました」

「……申請者に、神様からの伝言を?」

「ええ。神様は、この申請を大変気に入っておられましてね」ガブリエルは歩きながら言った。「長い宇宙の歴史の中で、自分のポイントを他者に分けたいという申請は、これが初めてなんです。神様は『面白い』とおっしゃっていました」

「面白い、というのは……」

「神様は滅多に面白いとおっしゃらないので、私どもも少し驚きました。前回そうおっしゃったのは、確か地球に初めて笑いという感情が生まれたときでして。その前は、タコが存在することが判明したときです」

「タコ?」

「神様はタコがお好きなんです。理由は聞いたことがありませんが」

クロは何も言えなかった。

山田家の玄関を訪ねると、今度は花子が出てきた。太一の母。八十三歳。小柄で、白いエプロンをしていた。

「あら、昨日の方。今日はお連れさんと?」

「ガブリエル・S・田中と申します」ガブリエルは名刺を渡した。「神様の秘書をしております」

花子は名刺を受け取って、眺めて、顔を上げた。

「……神様の秘書さん」

「はい」

花子は少し考えた。

「お茶、飲みますか?」

こうして神様の秘書は、山田家の縁側に座ることになった。




問題が起きたのは、花子がお茶を出したときだった。

ガブリエルは湯飲みを受け取り、それを見つめ、どう扱えばいいか、明らかにわからない顔をした。

クロは小声で言った。

「飲み物です。口に運んで、飲んでください」

「わかってます」ガブリエルは小声で返した。「ただ……神様の事務所では、飲食をしないので。私、実は飲み物を飲んだことがないんです」

「一度もですか?」

「神様の秘書に任用されたのが千五百年前でして。それ以来、飲食の機会が」

「千五百年」

「地球人の姿をしているのは、現地訪問のときだけなんです。普段は……まあ、概念的な存在といいますか」

花子が「どうぞ」と言って微笑んでいた。

ガブリエルは意を決して、湯飲みを口に運んだ。

一口飲んだ。

固まった。

「……どうですか?」クロが小声で聞いた。

ガブリエルはしばらく答えなかった。

「……温かい」と彼は言った。声が、少し変わっていた。「これが、温かいということか」

花子が「ほうじ茶ですよ」と言った。「うちはいつもほうじ茶なんです」

ガブリエルはもう一口飲んだ。

それから静かに湯飲みを置いて、庭を見た。

「……神様が、この申請を気に入られた理由が、少しわかった気がします」

クロは何も言わなかった。

縁側に朝の光が差していた。




太一が起きてきたのは、それから少ししてからだった。

縁側に見慣れない人物が座っているのを見て、少し目を丸くした。

「おはようございます。あの……?」

「ガブリエル・S・田中と申します。神様の秘書です」

太一は一瞬固まって、それから「ああ」と言った。

「神様、忙しかったんじゃなかったんですか?」

ガブリエルは少し表情を崩した。珍しいことのようで、クロも初めて見た。

「一区切りつきましたので。それで……神様からの伝言をお届けに参りました」

「伝言、ですか」

太一は縁側に腰を下ろした。正雄と花子も、いつの間にか揃っていた。三人が並んで座って、ガブリエルを見た。

ガブリエルは、白いスーツのポケットから小さな封筒を取り出した。封筒は普通の白い封筒で、切手も住所もなかった。

「開けてください」

太一は受け取った。

封を開けて、中の紙を取り出した。

読んだ。

ゆっくり読んだ。

それから、顔を上げた。目が、少し光っていた。

「……何と書いてあるんですか?」クロは思わず聞いた。

太一は紙をクロに見せた。

そこには、こう書いてあった。


「申請、受理しました。ただし分割はしません。 三十年、そのままあなたに返します。 使い方は、お任せします。」


縁側が、しばらく静かだった。

花子が、エプロンの端で目を拭った。

正雄が、庭を見たまま、鼻をすすった。

太一は紙を膝の上に置いて、空を見上げた。

「……かたじけない」

全員が太一を見た。

「え?」とクロが言った。

「いや、なんか自然とそう出た」太一は少し笑った。「ありがとう、ということです」

ナビ七号がクロの胸ポケットでわずかに震えた。翻訳フィルターの問題ではなかった。


第五章 ─ 悪魔も、かつては申請者だった ─



DDBのアンダーソンが再び現れたのは、その日の夕方だった。

今度は通信ではなく、直接だった。

山田家の前の路地に、黒いコートを着た長身の人物が立っていた。昼間の住宅地には似合わない出で立ちだったが、通りかかった近所の人は誰も気にしていなかった。悪魔には、人間の目に映りにくくする機能がある。クロとガブリエルには、しっかり見えた。

クロが先に出た。

「アンダーソン。DDBの申請は、上で却下されたはずだが」

「そうだね」アンダーソンは言った。相変わらず完璧な笑顔だったが、今日は少し違った。どこか、疲れているように見えた。「却下はされた。でも、個人として話がしたくてね」

「個人として?」

「少しだけ、いいかい」

クロは少し考えて、路地の奥に場所を移した。ガブリエルが遠くから見ていた。あちらは割り込まないと判断しているようだった。さすが千五百年の秘書歴だ、状況読みが速い。

アンダーソンは塀に背を預けて、空を見上げた。

「私もね、昔、申請を出したことがあるんだ」

クロは何も言わなかった。

「宇宙の初期、まだDDBもなかった時代。私の家族が病気でね。助けてほしくて、自分の命を差し出す申請を出した。全部あげるから、助けてくれと」

「それは……」

「却下された。当時は今ほどシステムが整っていなくて、そもそも審査されなかったんだ。書類は届かなかった」アンダーソンは静かに言った。「それで家族は……まあ、そういうことだ」

クロは黙っていた。

「だから私は、その後DDBに入った。せめて他の誰かの取り引きを成立させることで、自分の取り引きが届かなかった分の代わりにしようと思って。変な話だろう?」

「変ではない」

「悪魔の仕事だよ? 普通は変だと思うところだ」

「でも」クロは言った。「あなたの最初の申請は、山田太一と同じ種類のものだった。自分を差し出して、誰かを助けたかった」

アンダーソンは少し黙った。

「……そうかもしれない」

路地に、夕暮れの影が伸びていた。

「だからあの申請が引っかかったんだ」アンダーソンは続けた。「私の申請は届かなかった。でもあの地球人の申請は届いた。十五年、倉庫で眠っていたとしても、届いた。そして神様が動いた」

「……ああ」

「羨ましかった、というより」アンダーソンは笑った。今度の笑顔は、完璧ではなかった。「報われたような気がしたんだ。おかしいだろう? 私の話じゃないのに」

クロには、おかしいとは思えなかった。

「一つだけ、教えてほしい」アンダーソンは言った。「神様は、何と言っていた?」

クロは少し迷って、答えた。

「申請、受理しました。ただし分割はしない。三十年、そのままあなたに返す。使い方は、お任せします、と」

アンダーソンは、また空を見た。

長い沈黙があった。

「……そうか」

それだけ言って、アンダーソンは路地を歩き始めた。

去り際に、振り向かずに言った。

「うちの台帳に、山田太一の名前は載せない。念のため」

「ありがとう」

アンダーソンの背中が、夕暮れの路地に溶けていった。




ガブリエルは山田家を辞す前に、花子にもう一杯お茶をもらった。

「図々しいお願いで申し訳ありません」

「いいえ、どうぞ」花子は笑った。「また来てください。いつでも」

ガブリエルはほうじ茶を両手で持って、ゆっくり飲んだ。

「千五百年生きて」彼は言った。「今日初めて、温かいものを飲みました」

花子は少し首をかしげた。

「冷たいものは?」

「それも初めてです」

「じゃあ、次に来たときは麦茶にしましょうか。夏においしいですよ」

ガブリエルは「ありがとうございます」と言って、深くお辞儀をした。神様の秘書が、地球人の老婦人にお辞儀をしていた。

クロは縁側から庭を見ていた。

ナビ七号が肩に近づいてきた。

「クロノス」

「何だ」

「申請処理の報告書を書かなければなりません。処理結果をどう記載しますか?」

クロは少し考えた。

「神様判断による特別処理、で」

「分類コードは?」

「前例なし、でいい。一件目だから」

「備考欄は?」

クロはまた考えた。

「……卵焼きは甘かった、と書いておいてくれ」

「そんな備考で係長に怒られますよ」

「構わない」

ナビ七号は少し間を置いた。

「……かしこまりました」




帰り際、太一が玄関まで送ってくれた。

「クロさん、また来ますか?」

「それは……仕事次第です」

「仕事じゃなくてもいいですよ」太一は言った。「父も母も、話し相手が来るの、喜びますから。ガブリエルさんも、ぜひ」

ガブリエルが後ろで「麦茶、楽しみにしています」と言った。神様の秘書の発言とは思えなかった。

クロは少し立ち止まった。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「三十年を返してもらいました。使い方は任せると言われた。どう使いますか?」

太一は、少し考えた。

考えるのに、そんなに時間はかからなかった。

「そうですね」と彼は言った。「父と母と、もう少し笑って過ごします。孫たちとも。あとは……そうだな、そのうち友達と旅行でも行けたら。大したことじゃないですけど」

「大したことじゃない、とは思いません」

太一は少し笑った。

「クロさんは、千二百年生きてきて、何が一番よかったですか?」

クロは答えに詰まった。

千二百年で、いくつかのことがあった。数え切れない惑星。無数の案件。宇宙の端から端まで飛んだこともある。しかし今この瞬間、真っ先に浮かんだのは、

「……卵焼きが甘かったこと、です」

太一は笑った。

「じゃあ次に来たとき、また作りますよ。母の卵焼きは、特別甘いから」

クロは「ありがとうございます」と言った。

翻訳フィルターは、今回は正確に動作した。

「かたじけない」にはならなかった。


最終章 ─ 倉庫の申請書と、帰り道 ─



UFABに戻ったクロが最初にしたことは、報告書を書くことではなかった。

倉庫に行くことだった。

UFABの倉庫は、小惑星の地下深くにある。エレベーターで十七階分を下り、突き当たりの鉄扉を開けると、そこには天井まで積み上がった書類棚が、見渡す限り続いていた。宇宙創造から現在まで、処理されなかったすべての申請書が眠っている場所だ。

案内してくれたのは、倉庫管理のモズクス(形状:平たい。理由:長年、書類の下敷きになってきたから)だった。

「命のポイント分割申請の棚は、こちらです」

モズクスが案内した棚は、倉庫の奥の奥、一番端にあった。他の棚に比べると、ずいぶん小さかった。

「少ないですね」クロは言った。

「そうですね」モズクスは言った。「宇宙の歴史で、自分のポイントを他者に分けたいという申請は、山田太一さんのもの以前に、十七件しかありません」

「十七件だけ?」

「宇宙全体で、です。全知的生命体の申請の中で、十七件です」

クロは棚を見た。十七冊の申請書が、静かに並んでいた。

ほこりをかぶっていた。

モズクスが、端から順に読み上げた。

「第一号。七億三千万年前。惑星マルクス第四星の知的生命体。配偶者が病気のため、自分の余命を渡したいという申請。処理結果:審査中(未処理)」

「第二号。五億年前。惑星オリオン系の水棲生命体。幼い子供三体のために、自分の命を三等分したいという申請。処理結果:審査中(未処理)」

クロは途中で手を挙げた。

「全部、未処理ですか?」

モズクスは少し間を置いた。

「……十六件が未処理です。処理されたのは、山田太一さんの申請だけです」

クロは棚を見た。

七億年分の、届かなかった願いが、ここに並んでいた。

「なぜ、未処理だったんですか」

「前例がないから、誰も処理できなかった。担当者が決まらなかった。書類が倉庫に回された。それだけです」

それだけです、という言葉が、妙に重く響いた。

クロはしばらく棚の前に立っていた。

「……係長に話す」

「何を?」

「この十六件も、処理する必要があります。申請者はとっくに亡くなっているかもしれない。でも、申請した事実は残っている。記録として、せめて処理完了にする必要がある」

モズクスは少し考えた。

「……担当者は誰にしますか?」

クロは答えた。

「僕が引き受けます」

モズクスが初めて、平たい体を少し丸めた。驚いたときの仕草らしかった。

「……休暇の予定は?」

「当分、ない」




報告書を提出したのは、その翌日だった。

ゴンザレス係長は、報告書を最初から最後まで読んだ。珍しいことだった。彼女は普通、報告書の結論だけを見る。

読み終わって、少し黙っていた。

「備考欄に、何か書いてあるわね」

クロは答えなかった。

ゴンザレス係長は備考欄を声に出して読んだ。

「『卵焼きは甘かった。ほうじ茶は温かかった。縁側の夕暮れに、雀が三羽いた。千二百年生きて、最もよかったことは、他人の家のテーブルで昼食をとったことである』」

部屋が静かになった。

ピプリックスが書類を処理する音だけがしていた。

「……却下する理由が見つからないわ」ゴンザレス係長は言った。「承認します」

「ありがとうございます」

「それと」彼女は続けた。「倉庫の十六件の件、聞いたわ。モズクスから報告があった」

「処理させてください」

「あなた一人じゃ無理よ。七億年分の案件なんだから」

「では、手伝ってもらえますか」

ゴンザレス係長は眉をひそめた。しかし表情は、いつもと少し違った。

「……ピプリックス」

ピプリックスが顔を上げた。

「倉庫の命ポイント分割申請、全件リストアップしてちょうだい。処理チームを作るから」

ピプリックスは三秒で動いた。

クロは、係長が小さくため息をついたのを見た。しかしそれは、面倒くさいため息ではなかった。何か、ずっと気になっていたことに、ようやく手をつけるときのため息だった。




ナビ七号が翻訳フィルターを修理に出したのは、その週のことだった。

修理から戻ったナビ七号は、試運転としてクロに話しかけた。

「クロノス。調子はどうですか」

「まあまあだ」

「修理が完了しました。以後、『かたじけない』が混入することはありません」

「そうか」

「……残念ですか?」

クロは少し考えた。

「少しだけ、な」

ナビ七号は何も言わなかった。

少し間があって、ナビ七号は言った。

「私は、この任務で一度も機能停止しませんでした」

「そうだな」

「前任六機は全員、クロノスの任務中に機能停止しました。私はずっと、それを心配していました」

「知ってた」

「だから、いつも少し距離を取って飛んでいました」

「知ってた」

「……でも今回は」ナビ七号は言った。「距離を縮めてもいいと思っています」

クロは何も言わなかった。

ナビ七号が、肩のすぐそばに浮いてきた。

今まで保ってきた距離より、ずっと近かった。




三ヶ月後、クロは再び地球に来た。

今度は仕事ではなかった。

手土産に何を持っていくかを、転送前の一週間、真剣に悩んだ。ナビ七号に「地球の手土産として適切なもの」を検索させたところ、「菓子類が無難」という結論が出た。しかしどの菓子がいいかについては、検索結果が二万件を超えたため、最終的にクロは自分で決めた。

宇宙港の売店で買った、小さな箱入りのクッキーだった。

「これでよかったですか?」とナビ七号が聞いた。

「わからん。でも悩んで選んだから、いいと思う」

「それは論理的ではありません」

「人の気持ちは論理的じゃないことの方が多い」

ナビ七号はしばらく考えた。

「……そうかもしれません」

山田家の庭には、前と同じように縁側があって、同じように夕暮れが来ていた。

太一が縁側に座っていた。隣に正雄。その隣に花子。三人が並んで庭を見ていた。

クロが「こんにちは」と声をかけると、三人が振り向いた。

「来た来た」と正雄が言った。「待っとったぞ」

「待っていてくださったんですか?」

「太一が今日来るって言うから」と花子が笑った。「卵焼き、作っておきましたよ」

クロは縁側に腰を下ろした。

ナビ七号が肩の近くで静かに浮いていた。

「お土産です」クロはクッキーの箱を差し出した。「悩んで選びました」

「嬉しいわあ」花子が受け取った。「一緒に食べましょう」

庭に夕暮れが満ちていった。

橙色の空に、電線が黒く浮かんでいた。

雀が三羽、戻ってきた。

太一がお茶を飲みながら、空を見上げて言った。

「還暦って、いい歳だと思いますよ」

「どうして?」

「いろんなことが、ちょうどよく見えてくる。遠すぎず、近すぎず。怖くもなく、急いでもない。ただ、今ここにあるものが、ちゃんと見える」

クロは庭を見た。

正雄が目を細めて空を見ていた。

花子がクッキーの箱を開けていた。

太一がお茶をすすっていた。

ナビ七号が、肩のすぐそばで浮いていた。

クロは、千二百年の記憶の中で、この景色をどこにも分類できなかった。

仕事でもない。任務でもない。記録でもない。

ただ、ここにいる、ということだった。

「クロさん」と太一が言った。「卵焼き、どうぞ」

「ありがとうございます」

甘かった。

前と同じように、甘かった。


エピローグ 

─ UFABの倉庫と、まだ届いていない願い ─

宇宙命運局の倉庫では、いま、小さなチームが動いている。

クロノス・デラックス三世(靴の緩みは相変わらず)、ナビ七号(距離は以前より近い)、ゴンザレス係長(書類の角を揃えながら指示を出す)、ピプリックス(中身を読まずに仕分けるので、クロが全部読み直す)。

彼らは毎週、七億年分の未処理申請を一件ずつ開いている。

その多くは、もう申請者がいない。惑星ごと消滅したものもある。申請の意味をなさない案件もある。

しかしクロは、一件一件を読む。

配偶者に命を渡したかった生命体。子供のために分けたかった生命体。親のために削ってもいいと思った生命体。

彼らの名前を、クロは台帳に書き写す。

処理結果の欄には、こう書く。

「確かに、受け取りました」

届かなかった申請も、誰かが読めば、届いたことになる。

クロはそう思っている。

ナビ七号は「それは規則にありません」と言った。

クロは「規則にないことをするのが、特別調査官の仕事だ」と答えた。

ナビ七号は少し間を置いて、言った。

「……かたじけない」

修理したはずの翻訳フィルターが、また少し狂っていた。

でも今回は、誰も修理に出そうとは言わなかった。

─ 了 ─


〜追書き〜

還暦を迎えたある人が、縁側でふと思ったこと。親が倒れたとき、自分の時間を三等分して渡せたら、と願ったこと。その願いが叶って、今も二人が笑っていること。

宇宙規模のドタバタ喜劇に仕立てましたが、伝えたかったことは一つだけです。

見返りのない願いは、宇宙で最も珍しく、最も強い。

悪魔との取り引きは、何かを得るためのものです。

神様への申請は、誰かに渡すためのものでした。

その違いが、七億年分の未処理書類の中で、たった一件だけ、神様を動かしました。

正雄さんの残り三年。花子さんの残り四年八ヶ月。

クロは太一に教えませんでした。

でも太一はきっと、知らなくても、今ここにある時間を大切にするでしょう。

それが還暦という歳の、静かな強さだと、クロは縁側で学びました。

卵焼きは甘かった。

ほうじ茶は温かかった。

雀は三羽、いつも同じ電線に戻ってきた。

神様はきっと、そういうことを見ながら、「面白い」とおっしゃっているのだと思います。

タコと同じくらい、面白いと。


銀河系第三惑星文学協会(仮) クロノス・デラックス三世 記
──ナビ七号、口述筆記


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〜あとがき〜

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

『神様との取り引き ─ 宇宙命運局の大混乱 ─』は、笑い話の顔をした、少しだけ真面目な物語です。

人は人生の途中で、ふと思うことがあります。

「あとどれくらいだろう」
「今の時間を、ちゃんと大切にできているだろうか」
「会えるうちに、会っておけばよかったと後悔しないだろうか」

そんな問いに、真正面から答えようとすると、少し苦しくなります。

だからこの物語では、宇宙命運局という、ずいぶん遠回りな方法を使いました。

神様に申請書を出し、悪魔が営業をかけ、AIが「かたじけない」と誤作動し、縁側で甘い卵焼きを食べる。

そんな少し可笑しな景色の中で、もし何か一つ、

「今ある時間も悪くない」

と思っていただけたなら、作者として嬉しく思います。

時間は増えないけれど、使い方は少し変えられる。

誰かと笑う時間は、案外、宇宙を動かすくらい価値があるのかもしれません。

どうか今日が、少しだけ優しい時間になりますように。