第六章 ―― 二つの月の下で

1

エデン・セカンドで初めて迎えた冬は、地球の冬とは少し違っていた。

気温は下がるが、雪は降らない。草原の草は枯れず、ただ少しだけ色が淡くなる。空気が澄んで、二つの月がより鮮明に見えるようになる。ミナはこの季節が、エデン・セカンドの中で一番好きになった。

リオンとミナが初めて夜の草原を一緒に歩いたのは、その冬の夜のことだった。

「星が多いですね」

ミナは空を見上げながら言った。「地球より多い気がする」

「光害がないからです。居住区の灯りは最小限に抑えられている」

「光害って言葉、なんか好きじゃないんですよね」

「え?」

「人間が作った光のせいで星が見えなくなるって、なんか切なくて。でもここなら、ちゃんと見えるから」

ミナは足を止めて、しばらく空を眺めた。

「ねえ、リオン。あの星、地球から見える?」

「どれ?」

「あの、青白く光ってるやつ」

リオンは空を確認した。「……おそらく見えます。ただし、肉眼では非常に小さく見える」

「地球からこの星を見ると、どんな風に見えるんだろう」

「……ほとんど見えないと思います。この方向の星は、地球からは暗くて小さい点にしか映らない」

「じゃあ、地球にいる人は、エデン・セカンドが存在することも知らないんですね」

「知りません。コンコーダンスは、地球のような発展途上の文明には、宇宙の真の姿を伏せている」

「なんで?」

「……準備ができていない文明が、宇宙規模の存在を知ると、様々な問題が生じるからです。歴史上、何度もそういった事例があった」

ミナはしばらく考えていた。

「難しいですね。知る権利、みたいなものはないんですか」

「……哲学的な問いです。コンコーダンス内でも、議論は続いています」

「リオンはどう思う?」

「私は……」

リオンは珍しく、少し迷ってから答えた。「知ることで傷つくこともある。知らないことで守られることもある。一概には言えないと思っています」

「うん」

ミナは頷いた。「でも、いつかは知る日が来てほしい。そうじゃないと、地球の人たちと私たちは、ずっとすれ違ったままだから」

「……数千年後には、そうなります」

「数千年後か」

ミナは少し笑った。「私はいないけど、子供たちの子供たちの、ずっとずっと後の人たちが、地球に会いに行けるといいな」

「……そう思います」

二人は並んで星空を見上げた。

エデン・セカンドの夜は深く、静かで、どこまでも広かった。

2

アルト・セイはその頃、一つの作業に熱中していた。

位相転写の理論的な拡張研究だ。

現在の位相転写は、回収者本人の意識と能力に依存する部分が大きい。つまり、回収者の精神的・肉体的コンディションが、転写の精度に直接影響する。それは同時に、回収者への負担が大きいことを意味していた。

アルトはその問題を、機械的・システム的に補助することで解決できないかと考えていた。位相フィールドを安定化させる補助装置を開発すれば、回収者の負担を三割から五割減らせると試算した。

「ねえアルト、また遅くまで起きてるの」

同僚のカナが食堂から顔を出した。カナは二十四歳、最近オペレーター部門に配属されたばかりの新人だった。

「もう少しだけ」

「それ、毎日言ってる」

カナは苦笑しながら、アルトの隣に座った。「何の研究?」

「位相補助システム」

「難しそう。ざっくり言うと?」

「回収者が今より楽にミッションをこなせるようにする技術。特に、リオンみたいに百人以上を同時転写するときの負担を下げたい」

「リオン先輩って、毎回あんなに多くの人を一人でやってるんですか」

「そう。あれは本当に負担が大きくて、毎回終わった後の顔色が悪い」

「心配してるんですね、アルトさん」

「……パートナーだから」

カナはにっこり笑った。「それだけじゃないですよね」

「何が言いたいの」

「アルトさんって、リオン先輩のことが、家族みたいに大事なんだなって思って」

アルトは少し黙ってから、端末に視線を戻した。「七年間、一緒にいれば、そうなる」

「いいですね、そういうの」

カナは温かい飲み物を一口飲んだ。「私も、いつかそういうパートナーができるといいな」

アルトは答えなかった。

ただ、端末の画面を見ながら、リオンのことを思った。

彼が少しずつ変わっていっている。それは確かだった。七年間で初めて、自分のために動こうとしている。それが正しいかどうかは、まだ分からない。しかし少なくとも、彼が生きているという実感を持つようになったことは、アルトには喜ばしかった。

任務だけが全てではない。

そのことを、リオンが学んでいくのを、アルトは静かに見守っていた。

3

春が来た。

エデン・セカンドの春は、草原が一気に色づく季節だ。冬の間、淡くなっていた草が鮮やかな緑を取り戻し、見知らぬ花々が一斉に咲き始める。ミナがアオと名付けた青紫の花も、至るところに広がっていた。

「すごいな」

ある朝、草原に出たミナは思わず声を上げた。「去年の春より、アオの花が増えてる」

「……増えています。この花は繁殖力が強い」

「嬉しいな。どんどん広がってほしい。この星全部がアオの花に覆われたら、どんなにきれいだろう」

「……土着の植生とのバランスがあるので、それは難しいと思いますが」

「分かってる。でも想像するのは自由でしょ」

ミナは笑って、足元のアオの花を一輪摘んだ。

「リオン、これあげます」

「……え」

「花を贈るのって、地球では挨拶みたいなものじゃないですか。ここでもそうしていいと思って」

「……受け取り方が分からない」

「持ってれば大丈夫」

ミナは有無を言わさず、リオンの手にアオの花を乗せた。

リオンはしばらく、手の中の小さな花を見つめた。青紫の花びら。細い茎。かすかな香り。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

ミナはもう一輪摘んで、自分の耳元に挿した。「似合いますか」

「……はい」

「本当に?」

「……本当に」

ミナは満足そうに笑った。

その日、リオンはその花を持ったまま母船に戻った。部屋に戻ってから、どこに置けばいいか分からず、しばらく手に持ったままでいた。

結局、小さなコップに水を入れてそこに挿した。

翌朝、花はまだ咲いていた。

4

二人が「一緒にいる」と決めてから、半年が経った。

規則の上では、まだグレーゾーンだった。ヴァルカン指揮官からの接触原則改訂に関する公式な答えは、まだ来ていなかった。組織の意思決定は遅い。それは分かっていた。

しかしリオンとミナの間では、それは関係なかった。

二人は毎日、できる限り時間を共にした。草原を歩き、食事をし、話をした。ミナがコーディネーターとして忙しい日には、夜に少しだけ会うこともあった。リオンが長期ミッションで数日間不在になることもあったが、戻れば必ずミナに報告した。

「今回は何名?」

「四十七名。南アジアの洪水だった」

「みんな無事に来られた?」

「全員。ただし子供が多くて、転写の調整が難しかった」

「子供って、大人と違うの?」

「……位相信号が不安定な傾向があります。子供は体が小さく、また恐怖や興奮による心理的な揺れが大きい」

「でも助けられた」

「はい」

「よかった」

ミナは静かに言った。それだけだったが、その一言の重みがリオンには分かった。彼女は、リオンの仕事の意味を、誰よりも深く理解していた。なぜなら彼女自身が、同じように救われた一人だから。

「リオン」

「何だ」

「いつも、ありがとう」

「……どういう意味で」

「リオンが救ってきた人たちは、ここで新しい生活をしてる。私も含めて。それは、あなたが七年間続けてきたからでしょ。だからありがとうって言いたい」

リオンは少し間を置いた。

「……私はただ、やるべきことをやっている」

「それが一番難しいんだよ」

ミナは言った。「やるべきことを、ずっとやり続けるのが。私は広告の仕事をしてたとき、それが難しくて、何度もくじけそうになった。でもリオンは七年間続けてきた」

「……あなたに言われると、不思議な気持ちになります」

「どんな気持ち?」

「……自分のやってきたことに、意味があったような気がする」

ミナは優しく笑った。「意味がある。絶対に」


第七章 ―― アオという名の星

1

エデン・セカンドで季節が五度めぐった頃、リオンとミナの間に子どもが生まれた。

難産だった。居住区の医療施設に二十時間、リオンはずっとミナの傍についていた。任務を抱えていたが、アルトが代わりのオペレーターを手配してくれた。何も言わずに。

子どもは女の子だった。

「アオにしよう」

ミナは産まれたばかりの赤子を抱きながら、静かに言った。「あの日、見上げた空の青みたいに、澄んだ心を持った子になってほしい」

「アオ」

リオンは小さな顔を覗き込みながら、その名を繰り返した。

子どもは目を閉じたまま、小さな拳を握りしめていた。

「……きれいだ」

それがリオンの感想の全てだった。しかし、その短い言葉の中に、七年間の任務でも一度も感じたことのない何かが含まれていた。

ミナはリオンの顔を見た。いつも乏しい表情に、初めて見る柔らかさが混じっていた。

「リオン、泣いてる?」

「……いない」

「目が赤い」

「……そうかもしれない」

ミナはくすりと笑った。産後の疲労で声はかすれていたが、その笑顔は穏やかで、清々しかった。

「ありがとう、リオン」

「何が」

「ここまで一緒にいてくれて」

「……当然のことだ」

「当然じゃない。でも、ありがとう」

リオンはミナの手を取った。細い指、温かい体温。七年間、任務の中で何百という手に触れてきたが、こんなふうに手を取ったことは一度もなかった。

アオが小さく声を上げた。泣くほどでもない、ただの声。しかしその声は、エデン・セカンドの医療施設の小さな部屋に響いて、リオンの胸を深く揺らした。

2

アオは、エデン・セカンドで育った最初の世代の子どもたちの一人だった。

この星に来た時点ですでに子どもだったレジデントもいたが、エデン・セカンドで生まれた子どもというのは、当時はまだ珍しかった。彼女は「この星の子ども」として、回収者の父とレジデントの母を持つ、唯一無二の存在として育っていった。

幼いアオは活発で、好奇心旺盛だった。

二歳になると、もう走り回っていた。居住区の外に広がる草原が大好きで、引き留めなければどこまでも走っていきそうだった。

「アオ、そっちはだめ」

ミナが追いかけ、リオンが先回りする。三人でそんな鬼ごっこを何度したか分からない。

アオは三歳になると、しゃべることが爆発的に増えた。

「おとうさんは、ふしぎなひとね」

ある日、アオはミナに言った。

「なんで?」

「おとうさん、おそらからきたのに、ことばがへた」

ミナは笑い転げた。「空から来たのに言葉が下手、か。うまいこと言うね」

「ちがうの?」

「合ってる。でも、リオンは言葉より行動で伝える人だから」

「こうどう?」

「うん。おうちに帰ってきたとき、必ずアオの頭をなでるでしょ。あれが、ただいまって言ってるの」

アオは少し考えてから言った。「じゃあ、なでなでがことばなの?」

「リオンにとってはね」

「じゃあわたし、なでなでがすき」

ミナはアオを抱きしめた。「お父さんも、きっとそれが嬉しいよ」

リオンがその会話を偶然聞いていたことを、ミナは知っていた。廊下で少し止まって、それから何事もなかったように中に入ってきたリオンの目が、やけに温かかったから。

3

アオが五歳になったある晩、リオンは任務から帰ってきた。

今回のミッションは、北米大陸の工場地帯で発生した大規模な爆発事故からの回収だった。七十一名。アルトとの息も相変わらず合っており、全員を無事にエデン・セカンドへ転送することができた。

しかし帰還した時、リオンは一人、夜の草原に出た。

任務の後、彼はよく一人になる。感情の整理をするために。百五十名を救った日も、七十一名を救った日も、いつも任務が終わると胸の中に重たいものが残る。救えた命を喜ぶ気持ちと、その背後にある――回収できなかった命への、静かな悲しみ。

クロノ・サルベージャーはすべての命を救えるわけではない。歴史の因果律は複雑で、回収できる対象には条件がある。回収できない人間もいる。そしてその人間たちは、歴史の流れの中に刻まれていく。

今日も、会えなかった人がいる。

工場の爆発で亡くなった人の中に、回収の条件を満たさなかった人が何人かいた。その数はリオンには伝えられない。知ったところで、どうにもできないからだ。

それでも、知らない方がよかったとは思わない。

「お父さん」

声がして、リオンは振り返った。

アオが立っていた。寝間着を着て、裸足で草原に出てきていた。

「眠れなかったのか」

「うん。お父さんが帰ってきたの分かったから」

「……なぜ分かる」

「なんとなく分かる」

アオは自信満々に言って、リオンの隣に来て、空を見上げた。

「ルナ・ブルーとルナ・シルバー。両方見える」

「今夜は珍しく両方が揃っている」

「きれい」

アオはしばらく空を見てから、リオンを見上げた。

「お父さんは、どこから来たの」

リオンは答えに詰まった。

「遠い場所から」

「どのくらい遠い?」

「……とても遠い。宇宙の反対側くらい」

「宇宙の反対側!」

アオは目を丸くした。「じゃあ、宇宙の反対側って、どんなとこなの?」

「……青い星がある」

「お母さんの星?」

「そうだ。お母さんの生まれた星」

「きれいなの?」

「……きれいだ。空が、ここより少し深い青をしている」

「ここの空も好き」

アオはまた空を見上げた。「でも、その星も見てみたいな」

「……いつか、見られるかもしれない」

「ほんとに?」

「約束はできない。でも、そのための道を、大人たちが作ろうとしている」

アオはしばらく考えてから言った。「お父さんも、そのための道を作ってるの?」

「……少しだけ」

「じゃあ、絶対見られるよ。お父さんがやってるんだから」

リオンは娘の言葉に、一瞬、喉が詰まった。

子どもの無邪気な信頼。七年間の任務の中で、これほど無条件に信じてもらったことはなかった。

「お父さん、もっと話して」

アオはリオンの手を握った。小さな手だった。

「その青い星のこと、もっと聞かせて」

リオンは娘の手を握り返して、ゆっくりと話し始めた。

地球という星のことを。空の青さのことを。海の広さのことを。そして、そこで生きていた人々のことを。

草原の風が吹いた。二つの月が夜空を渡った。

アオはやがて眠そうに目をこすりながら、それでも「もっと聞きたい」と言い続けた。

リオンは娘を抱き上げた。

軽かった。こんなに軽い存在が、こんなに大きな何かを自分の中に生み出している。

「また話してあげる」

「約束?」

「約束だ」

アオは満足そうに目を閉じた。

リオンは彼女を抱いたまま、しばらく夜空を見上げていた。

今日も助けられた命がある。今日も届かなかった命がある。それは変わらない。しかし今夜、自分の腕の中には、新しい命がある。自分たちが生んだ、エデン・セカンドの子どもが。

それもまた、意味のあることだと、リオンはゆっくりと理解していった。

4

アオが七歳になった年、彼女は居住区の学校に入った。

エデン・セカンドの学校は、様々な時代の地球から来た子どもたちと、この星で生まれた子どもたちが混在していた。言語の違いは翻訳システムが補い、文化の違いは互いに教え合う形で補われていた。

アオは最初の週から、クラスメートの中心になっていた。

「アオちゃんって、お友達の作り方がうまいよね」

同じクラスの母親がミナに言った。「誰にでも話しかけて、すぐ仲良くなってる」

「そうなんです、でも家ではよく喋るので少し安心しました」

「お父さんは無口だって聞いたけど」

「逆遺伝です」

ミナは笑って言った。

アオはその頃から、クロノ・サルベージャーについて少しずつ理解し始めていた。父がなぜ時々いなくなるのか。どこに行っているのか。帰ってくるとなぜ疲れた顔をしているのか。

「お父さん、どこに行ってたの?」

ある日、アオはリオンに訊いた。

「仕事だ」

「どんな仕事?」

「……遠い星に行って、困っている人を助ける仕事」

「助ける?どうやって?」

リオンはどう説明するか少し考えてから、言った。「その人たちが、本来いるべきじゃない危険な場所にいるとき、安全な場所に連れてくる」

「ここに?」

「そうだ。お母さんも、そうやってここに来た」

アオはしばらく考えてから言った。「じゃあ、お父さんがいなかったら、お母さんはここにいなかった?」

「……そうなる」

「じゃあ、私もいなかった?」

「……そうなる」

アオはまた考えた。「じゃあ、お父さんの仕事はすごく大事なんだ」

「……そう思う」

「私も、大きくなったらそういう仕事したい」

リオンは少し驚いた表情をした。珍しく、表情に出た。

「なぜ」

「お父さんみたいになりたいから」

その言葉を聞いた時、リオンは何も言えなかった。

胸の中に、熱いものが込み上げた。こんな感情が自分の中にあったのかと、驚いた。


第八章 ―― 次の青い空へ

1

アオが十歳になった年、リオンは二つの大きな変化を経験した。

一つは、クロノ・サルベージャー内部での「接触原則改訂委員会」の設置だ。リオンの申請から始まった議論は五年かけてゆっくりと進み、組織内に正式な検討機関が設けられた。まだ原則の変更には至っていなかったが、少なくとも問題が「存在する」として認識されたことは、大きな前進だった。

委員会の第一回会合には、リオン本人も参考人として呼ばれた。

「あなたの場合を、規則の例外として処理することも可能だった」

委員の一人が言った。「しかし指揮官が組織全体の問題として受け取ったことで、この委員会が設けられた。あなたはどのようにこの問題を捉えていますか」

リオンはしばらく考えてから答えた。

「回収者は、命を救う仕事をしています。しかし命を救う者にも、それぞれの命がある。使命を全うすることと、自分自身として生きることが、本来は矛盾しないはずだと思っています」

「それは個人的な見解ですか」

「はい。しかし、この仕事を長く続けるためには、使命だけではなく、生きる理由が必要だと感じています。私にとって、それがミナとアオです」

委員会の場が、少し静かになった。

「あなたは今も任務を続けていますか」

「はい。ミッションの成績は、七年前から落ちていません」

それが全てだった。彼は感情を訴えたのではなく、実績を示した。ミナが「言葉より行動で伝える人」と言ったとおり、それがリオンのやり方だった。

もう一つの変化は、アルトとの別れだった。

「リオン、少し話がある」

ある日の任務後、アルトはいつものように報告を終えてから、静かに言った。

「私、オペレーターを辞めようと思う」

リオンは少し間を置いた。「……なぜ」

「疲れた、というより。やり切った感じかな」

アルトは柔らかく笑った。「七年間、あなたのパートナーで、それ以外にも三百件以上のミッションをこなした。自分の中で、一区切りついた気がする」

「次は何をするんだ」

「研究職に移ろうと思ってる。位相転写の理論研究。もっと効率的な回収方法を見つけることが、私のやるべきことな気がして」

リオンは少し間を置いた。

「……お前がいなければ、今の私はない」

「知ってる」

アルトは笑った。「でもリオン、あなたはもう大丈夫だよ。ミナがいて、アオがいる。新しいパートナーも、きっと良い人が見つかる」

「そうだといいが」

「アドバイスをあげる。次のパートナーにも、ちゃんと感謝の言葉を言うこと。あなた、七年間で私に直接ありがとうって言ったのは三回くらいしかなかったから」

「……すまない」

「いま言ってる」

アルトは声を立てて笑った。

その笑い声が、母船の廊下に響いた。

リオンはその笑いを聞きながら、七年間でこの人がどれほど自分を支えてくれたかを改めて感じた。言葉が出なかった。

「アルト」

「何?」

「……ありがとう。七年間、ずっと」

アルトは笑顔のまま、少し目を細めた。

「うん。こちらこそ」

それで十分だった。七年間のパートナーには、それで十分に通じた。

2

アルトが研究職に移ってから、リオンの新しいパートナーとなったのはカナ・シライだった。

二十四歳。小柄で、よく笑う。アルトとは全く違うタイプだったが、オペレーションの技術は確かだった。アルトが開発した位相補助システムを実際の運用に応用した第一世代のオペレーターとして、新しいアプローチでリオンをサポートした。

「リオン先輩って、本当に無口ですね」

初めてのミッション後に、カナは率直に言った。

「……そうだな」

「でも、通信の指示は明確だから助かります。曖昧な言い方がない」

「余計なことは言わない習慣がある」

「アルトさんに鍛えられたんですか?」

「……逆だ。アルトが私に合わせてくれていた」

「そうなんですか。じゃあ私も合わせます」

カナは笑顔で言った。押し付けがましくなく、しかし前向きな笑顔だった。

リオンはその笑顔を見て、この新しいパートナーとうまくやっていけそうだと思った。

ミナにカナのことを話すと、ミナは「会いたい」と言った。

「何かあったとき、リオンをサポートしてくれる人だから、ちゃんとお礼を言いたい」

それでミナとカナは会うことになった。居住区の広場のカフェで。

リオンは二人が話しているのを隣で聞いていた。

「リオン先輩って、本当に無口なんですね」

「でしょ」

「でも、たまにすごく的確なことを言うんです。こっちがずっと考えてたことを、一言で言い当てる」

「分かる。そういう人なんです」

「先輩のことが好きなんですね、ミナさん」

「はい」

ミナは迷いなく言った。

リオンはコーヒーカップに視線を落とした。耳が少し熱くなった気がした。

3

ミナは、エデン・セカンドで新しい仕事を確立していた。

居住区の広報担当。この星に来た新しいレジデントたちに、エデン・セカンドでの生活を案内し、不安を和らげ、コミュニティへの適応を助けるための情報を発信する仕事だ。

かつて広告代理店で培ったクリエイティブの感覚が、ここでも生きていた。

「今日ね、新しいレジデントが来たんだけど」

ある夜、食卓でミナが言った。「すごく怖がってて、言葉も通じなくて、半日かけてやっと少し笑ってくれた」

「……苦労をかけた」

「苦労じゃない。私も最初はそうだったから、気持ちが分かる。だから助けたい」

アオは二人の話を聞きながら、夕食を食べていた。

「ねえ、その人ってどこから来たの?」

「南米の国から。スペイン語を話すの」

「スペイン語、私も少し覚えようかな」

「あら、なんで」

「友達になりたいから」

ミナはリオンを見た。リオンも彼女を見た。

この子はいつも、そういうことを自然に言う。友達になりたいから覚える。それが当たり前のことのように。

「いい子だな」

リオンは珍しく、口に出して言った。

ミナが笑い、アオが「えへへ」と照れた。

三人でテーブルを囲む夜。こんな夜が、エデン・セカンドで積み重なっていく。

それがリオンにとって、今は最も大切なものになっていた。

4

リオン・カザマが三十九歳になった年、彼は再び地球の空に降下した。

今回のミッションは規模が小さかった。南アジアの農村地帯で発生した地崩れ。対象者は十七名。カナとの共同作業は、今では安定した信頼関係の上で動いている。全員を無事に回収することができた。

任務を終えて母船に戻る転送ゲートに入る直前、リオンは一瞬だけ立ち止まった。

地球の空を、見上げた。

青かった。

深い、透明な青。ミナが生まれた星の空。アオに話して聞かせた、あの青。

空の青さに、理由はない。大気の散乱がそう見せているだけだ。しかしそれでも、この色は特別だとリオンは思った。百五十三名を救ったあの日も、この空の下だった。ミナが生きていた星の、空の色。

いつか、この空の下で、エデン・セカンドの人々と地球の人々が出会う日が来る。

数千年後かもしれない。しかし宇宙のスケールで言えば、それは瞬きのような時間だ。

「リオン。帰還シーケンス、待機中です」

カナの声が耳元に届いた。

「今行く」

リオンは空から目を離した。

そして転送ゲートへと歩き出した。

胸の中には、ミナの笑顔が、そしてアオの「お父さんみたいになりたい」という声が、温かく刻まれていた。



5

その夜遅く、母船に戻ったリオンは、報告書を提出してから居住区へ向かった。

家の灯りがついていた。

ミナはまだ起きていた。窓辺の椅子に座って、本を読んでいた。エデン・セカンドで作られた、地球の言語で書かれた小説だ。様々なレジデントが書いた物語が、居住区の小さな出版グループによって本になっていた。

「おかえり」

ミナは顔を上げて言った。

「ただいま」

「今回は何名?」

「十七名。小規模だったが、山岳地帯で位相信号が不安定だった」

「お疲れさま。アオはもう寝てる」

「そうか」

リオンは外套を脱いで、ミナの隣に腰を下ろした。

「何を読んでいた?」

「コジマさんっていうレジデントが書いた小説。三十年前にここに来た人で、日本の下町の話」

「面白いか?」

「すごく。主人公の気持ちがリアルで。懐かしいような、切ないような」

ミナは本を閉じた。

「リオン」

「何だ」

「ありがとう、今日も帰ってきてくれて」

「……毎回言うな」

「毎回、思うから」

リオンはミナを見た。窓の外、ルナ・ブルーが傾きかけていた。

「私も」

彼は言った。「あなたのいる場所に帰れることが、今の私の、最大の動機だ」

ミナは少し目を丸くしてから、微笑んだ。

「それ、プロポーズみたいな言い方ですね」

「……違います」

「でも嬉しい」

「……そうか」

「うん。すごく」

二人はしばらく、夜の窓の外を一緒に見た。

ルナ・ブルーが傾きかけていた。ルナ・シルバーはまだ高い位置にある。草原の風が窓を揺らした。

「アオが言ってた」

ミナが静かに言った。「地球の青い空を、いつか見てみたいって」

「……そうか」

「叶うかな」

「……分からない。でも」

リオンは窓の向こうの星空を見た。どこかに、太陽がある。その周りを回る、青い星がある。

「叶えるための道を、大人たちが作っている。私もその一部を担っている」

「そうですね」

ミナは彼の肩に頭を乗せた。

「じゃあ、信じて待ちましょう」


終章 ―― 続く物語

1

エデン・セカンドの夜は長い。

二つの月が空を渡り、見知らぬ星々が瞬く。草原の花々が月光を受けて銀色に光り、遠くでどこかの鳥が鳴く。

居住区の小さな家の窓から、ミナは夜空を見上げていた。

アオはすでに眠っている。明日は学校で友人たちとスポーツの大会があるらしく、夕食後に「早く起きないといけないから今日は早く寝る」と言って、珍しく素直に布団に入っていった。十歳のアオはこの頃、学校の友人関係や部活動で忙しく、毎日何かしら話題を持ち帰ってきた。

「お母さん、今日ね」と始まるアオの報告を聞くのが、ミナの一日の楽しみになっていた。

リオンは今夜も任務に出ている。

いつものことだ。ミナはとっくに慣れていた。彼が出ている間、心配しないと言えば嘘になる。しかし同時に、彼がこの仕事をしている間も、どこかの誰かが今夜助けられているという事実が、不思議と安心感を与えてくれる。

私が助けられたように。

ミナは窓際のチェアに深く座り、アオが幼い頃に「アオ」と名付けた青い花を手に取った。今では居住区のあちこちに広まり、すっかりエデン・セカンドを代表する花になっていた。花屋をやっていた母が見たら、なんと言うだろう。「かわいい花ね」と笑うだろうか。

そんなことを考えながら、ミナは窓の外を眺めた。

ルナ・ブルーがゆっくりと傾いていく。この星の夜の長さと、月の動きにも、もう慣れた。五年前は異星の月だと思っていたものが、今は当たり前の夜空になっている。

人間は慣れる生き物だと、ミナは思う。

どんな環境でも、時間が経てば、それが「当たり前」になっていく。最初は怖かったこの星が、今では誰よりも大切な場所になっている。

転送ゲートが光ったのは、深夜を過ぎた頃だった。

「今回は何名?」

ミナは振り返りながら訊いた。

「二十三名」

リオンはコートを脱ぎながら答えた。「小規模だったが、山岳地帯で位相信号が不安定だった。苦労した」

「お疲れさま。お茶、飲む?」

「……ありがとう」

ミナは笑って立ち上がった。

リオンは彼女が部屋を出る前に、その手を取った。

「何?」

「……何でもない」

「何でもないのに手を取るの?」

「少し、このままでいい」

ミナは少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑って、彼の隣に座った。

二人はしばらく、夜の窓の外を一緒に見た。

ルナ・ブルーが傾きかけていた。ルナ・シルバーはまだ高い位置にある。草原の風が窓を揺らした。

「アオが言ってた」

ミナが静かに言った。「地球の青い空を、いつか見てみたいって」

「……そうか」

「叶うかな」

「……分からない。でも」

リオンは窓の向こうの星空を見た。どこかに、太陽がある。その周りを回る、青い星がある。

「叶えるための道を、大人たちが作っている。私もその一部を担っている」

「そうですね」

ミナは彼の肩に頭を乗せた。

「じゃあ、信じて待ちましょう」

信じて待つ。

その言葉は、クロノ・サルベージャーの在り方そのものでもあった。地球の文明が成熟するのを、数千年のスパンで待つ。気が遠くなるような時間だが、宇宙はそのスケールで動いている。

そして今夜も、どこかの地球の空から、誰かが救われてこの星に来る。

混乱し、怖がり、泣きながら。

でもいつか、この星を好きになる。

ミナがそうだったように。

2

アオ・カザマは十歳になった今、自分が特別な存在であることを少しずつ理解し始めていた。

エデン・セカンドで生まれた子ども。回収者の父と、レジデントの母を持つ。地球から三千光年離れた星で育ち、地球の空を見たことがない。それでも、父から聞いた地球の話は、夢の中の景色のように頭の中にある。

「アオはどこの人?」

学校の友達に、外から来た子が時々訊く。

「エデン・セカンドの人」

「ここで生まれたの?」

「そう。ここで生まれた」

「すごいね。ここの子って、あまりいないよね」

「うん。でも、これから増えると思う」

アオはそう答える。

自分の後に生まれた子どもたちが、少しずつ増えていた。エデン・セカンドで生まれ、この星を「故郷」として育つ世代。彼らは地球の記憶を持たない。しかし地球のことを、親や先生や本を通じて知っている。

「いつか地球に行ってみたい」

アオとよく遊ぶ友人のケイが言った。ケイの母も、ミナと同じくレジデントだ。

「私も」

「でも何千年も後でしょ」

「そうだけど、もしかしたら私たちの子供とか、その子供の世代で行けるかもしれないって、お父さんが言ってた」

「そうなのかな」

「分からない。でも、大人たちがそのための道を作ってるって」

ケイは空を見上げた。

「なんか、ロマンがあるね」

「うん」

アオもつられて空を見上げた。

ルナ・ブルーが昼の空にうっすらと浮かんでいた。

この空の下で育ったアオには、もう一つの空がある。父から聞いた、地球の青い空。いつかそれを自分の目で見る日が来ることを、彼女は静かに、しかし確かに信じていた。

3

その頃、アルト・セイの研究は新しい段階に入っていた。

位相転写の補助システムは、すでに実用化されていた。回収者への負担は平均で四割以上減少し、単独での大規模回収の安全性が向上した。その成果は、コンコーダンス全体に共有され、他の星系のクロノ・サルベージャー組織にも採用が広がっていた。

アルトは今、次の研究に取り組んでいた。

位相転写を、回収者の能力だけに依存しない形でシステム化できないか。つまり、特別な訓練を受けていない人間でも、補助を受ければ転写を行えるようになる仕組みだ。

「それができれば」

アルトは同僚の研究者に言った。「降下隊員の数が今の十倍になる。救える命も、今の十倍になる」

「理論的には可能だが、実現するまでに何十年かかるか」

「かかっていい。必要なことだから」

アルトはそう言って、端末に向かった。

リオンが七年前に言ったことを思い出した。

「使命感だけでは足りなくなってきています」

あの言葉が、彼女の研究の出発点になっていた。一人の回収者に全てを背負わせるのではなく、システムが人間を支える仕組みを作る。それが、アルト・セイの使命になっていた。

月に一度、リオンと食事をする。

アオの話を聞く。ミナの仕事の話を聞く。カナとのコンビの様子を聞く。

「アオがね、この前学校で発表があったらしくて」

リオンが言った。

「何の発表?」

「将来何になりたいかという発表だ」

「何て言ったの?」

「……クロノ・サルベージャーになりたいと言ったらしい」

アルトは目を細めた。「そっか」

「……複雑な気持ちだ」

「どういう意味で?」

「誇らしいような、心配なような」

「両方でいいじゃない」

アルトは笑った。「子どもがいる親って、みんなそういうもんじゃないの」

リオンは少し考えてから、頷いた。「……そうかもしれない」

「リオン、あなたは変わったよ」

「そうか」

「七年前のあなたは、絶対そんな表情しなかった。複雑な気持ちとか、誇らしいとか、そういう言葉を使わなかった」

「……ミナとアオが、変えた」

「うん」

アルトは静かに笑った。「良かったと思う、本当に」

4

エデン・セカンドで、新しい朝が来るたびに、物語は続く。

リオンは今日も地球のどこかへ降下する。任務を終えて帰ってくる。ミナに報告して、アオの話を聞いて、食卓を囲む。それが彼の一日の形になっていた。

ミナは今日も居住区のオフィスで、新しいレジデントの案内をする。怖がっている人に話しかけ、困っている人に手を貸し、笑えなかった人が少し笑えるようになるのを見守る。それが彼女の一日の形になっていた。

アオは今日も学校に行き、友人と笑い、新しいことを学ぶ。エデン・セカンドで生まれた子どもとして、この星の「第一世代」として育っていく。それが彼女の、今の時間だ。

「任務完了!」

どこかの母船から、今夜もそんな声が響いているだろう。

「次のターゲット、20XX年……」

物語は続く。

銀河の彼方で、二つの月の下で、いくつもの命が新しい朝を迎えながら。

そして青い星の空の下では、まだ知らない誰かが今日も空を見上げ、明日のことを考えている。

その命を救いに、今夜もリオンたちは降下していく。



数千年後のこと。

地球の文明は宇宙へと広がり、コンコーダンスの基準に達していた。

接触の日が来た。

その日、エデン・セカンドの草原には、大勢の人々が集まっていた。リオンとミナの子孫たちも、その中にいた。アオの子どもたちの、さらにその子どもたちの、長い世代を経た子孫たちが。

地球からやってきた宇宙船が、エデン・セカンドの空に姿を現した。

草原の人々が空を見上げた。

その宇宙船には、アオが名付けた青い花の模様が描かれていた。エデン・セカンドの象徴として、長い歴史の中で伝わってきた花。

空から降り立った人々と、草原で待っていた人々が、互いを見つめた。

どちらも、言葉がなかった。

ただ、長い時間を経て、ようやく出会えたという事実が、その場にあった。

地球の人々の中に、ミナの故郷・東京の下町の出身者がいた。彼女は草原に立つ人々の顔を見て、その中に何か見覚えのある面影を感じた。

「あなたたちは……」

エデン・セカンドの人々は、その問いに答えた。

「私たちは、ここに来た人々の子孫です。数千年前、地球から救われた人々の」

その言葉を聞いた時、地球の女性は涙をこぼした。

なぜ泣いているのか、彼女自身も分からなかった。ただ、この瞬間に、何か大きくて遠い何かが繋がったような感覚があった。

数千年の時を経て、地球とエデン・セカンドは出会った。

それはリオンとミナが、草原の端で初めて言葉を交わした日から始まった物語の、一つの到達点だった。

しかし到達点ではなく、新しい始まりだった。

物語は、続いていく。

ー了ー
 



あとがき


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

この話は最初、リオンの一人称で書き始めました。でもどうしてもミナの視点が必要で、結果的に序章をミナに託したことで物語が動き出しました。彼女が「怖くなくなった」と言えた瞬間、リオンもようやく人間になれた気がします。

アルトというキャラクターは、実は書きながら好きになった人です。主人公の変化を見守り、背中を押す。彼女がいなければ、リオンは規則を破る勇気を持てなかったでしょう。

「アオ」という名前は、書き始めたときから決まっていました。空の青、花の青、娘の青。青はこの物語の希望の色です。数千年後のラストシーンは最初から構想していましたが、そこに辿り着くまでの五十年、七年、一日一日を書いている時間が一番楽しかった。

もしあなたが誰かを救いたいと思ったとき、それは大きなことでなくていい。隣の人に「おかえり」と言うことでも、誰かの今日は変わるかもしれません。

また別の空の下で、お会いしましょう。




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