クロノ・サルベージャー 完全版



まえがき


この物語を書き始めたきっかけは、とても小さな疑問だった。  

「歴史に残る大きな事故で、もし誰か一人でも助かっていたら、その後の世界はどう変わるのだろう」  

でも同時に思った。助かった当人は、どんな気持ちで生きていくのだろう、と。

『クロノ・サルベージャー』は、命を救う者と、救われた者の話だ。  

歴史は変えられない。記録には「死亡」と残る。それでも生きている人がいる。その矛盾を背負いながら、二つの人生が交差したとき、何が生まれるのかを書きたかった。

白い光の中の視線から始まる物語を、どうか最後まで見届けてほしい。  

そして読み終えたとき、あなたの隣にいる人の温度を、少しだけ大切に思ってもらえたら嬉しい。





序章 ―― 崩壊の記憶

その日の空は、息をのむほど青かった。

二〇XX年九月某日、午前十時十七分。東京都心部にそびえ立つ複合オフィスビル群の一棟、南棟の七十八階から見下ろす景色は、秋の澄んだ陽光を受けて輝いていた。眼下には首都高速道路を行き交う車の流れ、その向こうには皇居の緑、さらに遠く、うっすらと富士山の稜線まで望むことができた。

ミナ・エンドウはその景色を眺めながら、コーヒーカップをそっと口に運んだ。二十六歳。広告代理店のクリエイティブ部門に勤めて三年目。仕事はやりがいがあったし、職場の仲間も好きだった。昨日は大切なプレゼンをうまくこなせたし、来週末は大学時代の友人と旅行の計画もあった。

彼女の仕事は、人に何かを伝えることだ。コピーを書き、ビジュアルを考え、見る人の心に何かを残す。三年前に入社したときは、自分の作ったものが街に出て、誰かの目に映るという事実に、毎回胸が高鳴った。今でもその感覚は続いている。慣れたようで、慣れていない。それがこの仕事の面白いところだとミナは思っていた。

窓の外に目を向けると、秋の光が街全体を黄金色に染めていた。この時間帯、窓辺に立つのが彼女の小さな習慣だった。朝のルーティンをこなし、最初の業務に入る前の五分間。ただ外を眺めるだけの時間。同僚には「ぼーっとしてる」と言われるが、ミナにとってはこれが一日のスイッチを入れる儀式だった。

あの日も、そうだった。

窓の外、遠くの空に白い光が走ったのは、そのときだった。

ミナは最初、稲妻だと思った。しかし空は晴れ渡っており、雲一つなかった。光は一瞬で消え、次の瞬間、ビル全体がかすかに揺れた。

地震?

彼女が振り返ると、フロアにいた同僚たちも不安そうに周囲を見回していた。電話をかけていた中年の男性が受話器を持ったまま立ち上がり、デスクの女性が書類を抱えて窓に近づいてきた。

「何か、おかしくないですか」

隣の席の後輩、サキが小声で言った。サキは入社一年目の二十三歳で、いつも明るく、よく笑う子だった。その彼女が珍しく真剣な表情をしていた。

おかしい。確かに。

ミナはもう一度窓の外を見た。遠くのビルの一角から、白い煙が細く昇り始めていた。そしてその煙は、みるみるうちに太くなり――。

彼女が息をのんだ瞬間、世界が白くなった。

目がくらむような光ではない。むしろ逆で、すべての色と輪郭がゆっくりと溶け出すような、穏やかな白さだった。音が消え、重力が消え、時間が止まった――ように感じた。

体が、あるのかないのか分からなかった。痛みはない。恐怖も、実はなかった。ただ、この静寂の中に、自分以外の何かがいるような気がした。

誰かの視線。

それは確かに感じた。フロアの、どこか。見えない誰かが、こちらを見ていた。

それが一瞬だったかもしれないし、永遠だったかもしれない。

気づいたとき、ミナは草の上に立っていた。

足元には鮮やかな緑の草が広がり、その中に見たこともない色の花が咲いていた。青紫と金色が混ざり合ったような花びら、星の形をした赤い花、それとも鐘の形の乳白色の花。どれも地球上では見たことのない植物ばかりだ。

空を見上げると、そこには見慣れない青さがあった。地球の空よりわずかに緑がかった、深い青。そして地平線の向こう、まだ昼間だというのに、一つの月がうっすらと浮かんでいた。

「……え?」

ミナは声を出した。自分の声だと確認できただけでも、少し安心した。

周囲を見回すと、同じように草原に立ち尽くす人々の姿があった。見知った顔もある。先ほどまで同じフロアにいた同僚たちだ。誰もが呆然とした表情で、空を見たり地面を見たり、互いを見たりしている。

サキの姿も見えた。彼女は膝を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。

「サキ」

ミナは駆け寄った。「大丈夫?」

「ミナさん……ここ、どこですか」

サキの声は震えていた。

「分からない。でも、みんないる。とりあえず大丈夫だから」

自分でも分かっていない言葉だったが、サキの肩を抱いてそう言うと、彼女の震えが少し収まった。

「ここは……どこ?」

誰かが呟いた。

誰も答えられなかった。

その後の数時間は、混乱の連続だった。フロアにいた百五十三名が全員、この草原にいることが分かった。怪我人は一人もいない。携帯電話は全て電波が入らず、何らかの翻訳機能が頭の中で働いているのか、外国人の同僚の言葉も不思議と理解できた。

空が暮れ始めた頃、遠くから人々がやってきた。

落ち着いた表情の、男女数名。彼らは流暢な日本語で話しかけてきた。

「皆さん、ご安心ください。ここはエデン・セカンドという星です。地球から三千光年離れた場所にあります。皆さんは安全です」

その言葉を聞いたとき、フロアのあちこちから泣き声が上がった。

ミナは泣かなかった。泣けなかった、というより、何かがまだ処理しきれていなかった。

ただ、あの視線のことを、ずっと考えていた。



その日の空は、息をのむほど青かった。

二〇XX年九月某日の東京で、南棟の七十八階から白い煙が昇り始めたとき、その建物には五百名以上の人間がいた。その日の午前中だけで考えても、エレベーターで移動する人、廊下を歩く人、別のフロアで仕事をする人。

クロノ・サルベージャーが回収できたのは、その中の百五十三名だ。

残りの人々がどうなったのか、ミナは長い時間をかけてゆっくりと理解していくことになる。

そして、それが世界の仕組みなのだと受け入れるまでに、さらに時間がかかった。

その意味を知ったとき、彼女は初めて、本当の意味で泣いた。


第一章 ―― 位相の影

1

リオン・カザマは影の中から世界を見ていた。

正確には、影ではない。彼が存在しているのは「位相のずれた領域」と呼ばれる空間だ。現実世界とほぼ同一の座標を占めながら、時間軸においてコンマ数秒だけずれた層。そこでは光も音も、わずかに遅延して届く。人間の目には見えず、観測機器にも検出されない。クロノ・サルベージャーの隊員たちは、この位相領域に意識を同期させることによって、文字通り「影として」現実世界に存在することができた。

リオンが初めてこの感覚を習得したのは、二十四歳の春のことだ。

訓練施設の薄暗い部屋で、教官のオルテ・カイムに言われた言葉を今でも覚えている。

「位相領域とは、世界を一枚の膜だと思ったとき、その膜の裏側だ。同じ場所にいながら、表の世界とは少しだけ違う時間を生きる。慣れるまでは吐き気がするかもしれないが、それは正常な反応だ。五回やれば慣れる」

実際には十二回かかった。しかし三ヶ月後には、リオンはクロノ・サルベージャーの訓練生の中で最も位相同期の精度が高いと評価されるようになっていた。

七年後の今、彼は七十八階のフロアを静かに歩きながら、その場にいる人々を一人一人確認していた。

百五十三名。

今朝方、母船のオペレーターであるアルト・セイが解析データを送ってきたとき、彼はその数字を三度確認した。百五十三名という数は、今まで彼が単独でこなしたミッションの中でも最大級だった。

「リオン。南棟、七十八階のフロアを捕捉。ターゲットは一五三名。残り時間は百八十秒」

アルトの声が、位相フィールドのノイズ混じりで直接耳の奥に届く。彼女は母船に残り、時空間のデータを管理しながらリオンへのナビゲーションを担当している。二人のコンビはもう七年になる。言葉を交わさなくても息が合うほどだったが、今日は彼女の声にわずかな緊張が混じっていた。

「分かっている」

リオンは低く答えた。

彼は人々を観察した。フロアは大きく開けており、数十のデスクに社員たちが向かっている。ランチ前の午前中、業務のピークタイムだ。電話をかける者、書類を整理する者、パソコンの画面に集中する者。誰もが自分の日常の中にいた。

位相領域から現実世界を見ると、光がわずかに青みがかって見える。音は一テンポ遅れて届く。それでも、人々の表情は鮮明に分かった。中年の男性が電話を切って一息ついた顔。若い女性が画面を見て軽く眉をひそめる表情。誰かが笑って、隣の人も笑う。

その日常が、百二十秒後に終わる。

リオンはこの仕事を七年続けてきたが、それでも毎回、この瞬間は胸が重くなる。人々は何も知らない。笑い、話し、コーヒーを飲み、明日の計画を考えている。その背後に迫っている運命を、誰も知らない。

――いや、知る必要はないのだ。知らなくていい。それが、クロノ・サルベージャーの在り方だった。

「残り百二十秒」

アルトの声が再び響く。

リオンは意識を集中させた。彼の能力「位相転写」は、対象者の肉体と意識を位相領域へと引き込み、現実世界には精巧なダミー――「残像」と呼ばれる位相的複製体を残す。残像は数秒間、本人と同一の質量と物理特性を持ちながら存在するが、その後に訪れる衝撃によって完全に消滅し、現実世界には「その人間が亡くなった」という確かな観測事実を刻みつける。

つまり、地球の歴史には彼らが死亡したという記録が残る。

そして彼らの本体は、別の場所で生き続ける。

位相転写を百五十三名に同時に適用するには、意識の焦点を極限まで分散させなければならない。この技術は訓練に何年もかかり、現在のクロノ・サルベージャーで単独でこなせる隊員はリオンを含めて三名しかいない。

他の二名はそれぞれ別の任務に就いており、今日は彼が一人でこなすことになっていた。指揮部からは「分散させるべきだ」という意見もあったが、今回の事案は発生タイミングが突発的で、他の隊員の調整が間に合わなかった。

「転送座標の調整を」

「完了している。エデン・セカンドの第七居住区、座標A-7からA-12。広大な草原地帯だ。問題ない」

「よし。では始める」

リオンはフロアの中央に立ち、意識を広げた。

ゆっくりと、しかし確実に、彼は意識の網を広げていった。一人一人の位相信号を捕捉する。男性、女性、若い人、年配の人、日本人、外国人。それぞれに固有の生体信号がある。それを束ねて、一斉に転写する。

そのとき、窓辺に立つ一人の女性と目が合った。

正確には、目が合うはずがない。リオンは位相領域に存在しており、通常は現実世界の人間には知覚できない。しかし、その女性――若く、整った顔立ちの、窓から外を眺めていた女性は、一瞬だけリオンがいる方向に視線を向けた。

彼女の瞳は、澄んでいた。

秋の空の色を映したような、深い青みを帯びた茶色の瞳。そこには恐怖も絶望もなく、ただ静かな好奇心と、まだ見ぬ明日への期待が宿っていた。コーヒーカップを持ったまま、少し首を傾げて、こちらを――いや、こちらがいる方向を――じっと見つめていた。

リオンは一瞬、意識の動きが止まりそうになった。

七年間、何百という命を救ってきた。しかし彼はいつも、対象者を「ターゲット」として認識し、感情的な距離を保つことを徹底してきた。それがこの仕事の鉄則だった。感情が入れば判断が鈍る。個人としての感情移入は、ミッションの失敗につながる。

「リオン。残り九十秒」

アルトの声が彼を現実に引き戻した。

彼は意識を再び引き締めた。今は任務だ。あの女性も、百五十三名のターゲットの一人に過ぎない。

「転送準備、完了」

リオンが囁くように言い、能力を発動させた。

2

位相転写が完了するまでの時間は、〇・七秒だ。

百五十三名に同時に適用した場合でも、理論上はその時間は変わらない。ただし、意識の拡散によってリオン自身への負荷が増す。意識を分散させる行為は、喩えるならば一本の糸を百五十三本に分けて編み直す作業に似ている。どの糸も切れないように、均等な力で保持し続けなければならない。

発動の瞬間、彼は軽い眩暈を感じた。

いつものことだ。百名を超えると、この感覚が出る。それでも意識は保ち続けた。網を広げ、一人一人を捕捉し、引き込む。

フロアの光景が、一瞬だけ二重に見えた。

現実の人々と、その位相複製体――残像――が重なる瞬間。次の瞬間には、残像だけがそこに残り、本体は位相領域へと移行している。

百五十三の位相信号が、彼の意識の中に束ねられた。

「転送開始」

アルトの声が響き、座標が確定した。エデン・セカンドの草原へ向けた転送経路が開く。位相領域を経由した空間転移は、物理的な移動ではない。座標を書き換える、というイメージに近い。

〇・三秒後、百五十三の信号が転送先に着地したことをリオンは確認した。

同時に、現実世界では残像たちが衝撃を受けて消滅した。歴史に、百五十三名の死亡が刻まれた瞬間だった。

リオンはゆっくりと息を吐いた。

フロアには誰もいなくなっていた。机の上のコーヒーカップ、途中まで書かれた書類、点灯したままのパソコンの画面。人の気配が消えた空間は、奇妙なほど静かだった。

「全一五三名、転送完了を確認」

アルトの声に、いつもの冷静さが戻っていた。「リオン、帰還シーケンスを開始して」

「了解」

リオンは最後にもう一度だけ、窓辺を見た。

さっきまで女性が立っていた場所。

今はもう、誰もいない。コーヒーカップだけが、窓縁に置き去りにされていた。



3

その日の午後遅く、東京都内の複数のメディアが速報を流した。

「南棟オフィスビルで爆発事故。多数の死亡者か」

詳細は混乱していたが、確認されたことは一つ。七十八階のフロアに残されていた痕跡と、残像の消滅後に残った物的証拠が、百五十三名の死亡という事実を明確に示していた。

歴史の因果律は守られた。

地球の記録には、その日、百五十三名が亡くなったと残る。

真実は、銀河の彼方にある。


第二章 ―― クロノ・サルベージャー

1

銀河系辺縁部、太陽系から約三千光年離れた宙域に、エデン・セカンドと呼ばれる惑星がある。

直径は地球の約一・一倍。重力は〇・九G。大気組成は地球とほぼ同一で、人間が特別な装備なしに生活できる、いわゆる「ハビタブルゾーン」に属する惑星だ。双子の月――小さな銀白色の月と、やや大きな青みがかった月――が夜空を彩り、昼間でもその一方が淡く地平線に浮かんでいることが多い。

大陸の三分の二を占める大草原地帯には、地球の植物に似ているが全く異なる生態系が広がっている。知的生命体は存在せず、大型の捕食動物もいない。豊かな水源と温暖な気候を持つこの星は、ある意味で「完璧な移住地」だった。

クロノ・サルベージャーがこの星を「収容地」として選んだのは、今から百年以上前のことだ。当時、初めてこの星を調査した探検隊の記録には、こう記されている。

「地球人が生存可能な惑星の条件を、これほど完璧に満たした星は他に見当たらない。大気、重力、水、気候。全ての要素が、地球からの移住者を受け入れるに足る。また、既存の知的生命体が存在しないため、倫理的な問題も生じない。ここを収容地として指定することを、強く推薦する」

探検隊の隊長は、コンコーダンスのアルファ・セクターから派遣された科学者だったと記録にある。彼の名前はもう歴史の中に埋もれているが、彼の決断がなければ、今のエデン・セカンドは存在しなかった。

「クロノ・サルベージャー」は、宇宙規模の文明連合体――「コンコーダンス」の傘下にある特務機関だ。その名称は古い地球語で「時の救済者」を意味する。彼らの主な任務は、銀河系各地の文明において発生する「歴史的因果律の保護」だ。

平たく言えば、「歴史の流れを守りながら、しかし不必要な命の損失を最小化する」ことが使命だった。

これは一見、矛盾しているように思える。

歴史には因果律がある。ある事故が起きる、それによって多くの命が失われる、その悲劇が社会を動かし、制度が変わり、文明が発展していく。もしその事故を完全に「なかったこと」にしてしまえば、その後の歴史の流れが変わってしまう。歴史改変のリスクは、計り知れない。

だからクロノ・サルベージャーは「歴史の書き換え」は行わない。

彼らは代わりに「すり替え」を行う。

対象となる人物の肉体を位相転写によって位相領域へと引き込み、現実世界には「残像」を残す。残像は衝撃によって消滅し、外見上は「その人間が亡くなった」という事実が成立する。地球の歴史記録には死亡が刻まれる。しかし本人は生きて、エデン・セカンドにたどり着いている。

命は救われる。歴史は保たれる。

クロノ・サルベージャーはこれを「二重の真実」と呼んでいた。

2

母船「クロノス・ウィング」は、エデン・セカンドの衛星軌道上に常駐している。全長三百メートル、乗員数は約八百名。その大半は分析官、オペレーター、医療スタッフ、そして管理部門の職員だ。実際に地球に降下して任務をこなす「降下隊員」は、わずか五十名足らずだった。

船内は、外見の無機質さとは対照的に、長期間の居住を前提とした設計がなされていた。廊下には観葉植物が置かれ、食堂には大きな窓があって宇宙の星々が見渡せる。個室は狭いが、それぞれ個人の好みに合わせてカスタマイズされており、リオンの部屋には地球の都市景観のホログラム写真がいくつか飾られていた。

アルト・セイは、母船のオペレーション・センターで端末と向かい合っていた。

二十八歳。長い黒髪を後ろでまとめ、大きな目は常に端末の画面を追っている。彼女はリオンのパートナー・オペレーターとして七年間、数百件のミッションを共にこなしてきた。冷静で論理的で、感情を表に出すことが少ない。しかしリオンには、彼女がいつも自分を気にかけていることが分かっていた。言葉ではなく、行動で示すタイプだった。

「転送完了。全一五三名、エデン・セカンド第七居住区への着地を確認」

アルトはモニターを確認しながら、低い声で報告した。

隣の席では別のオペレーターが次のミッションのデータを解析し始めている。クロノ・サルベージャーに休みはない。宇宙は広く、命の危機はどこにでも存在する。

「リオン。帰還シーケンスを開始して」

「ああ」

通信越しに、リオンのくぐもった声が返ってきた。アルトは彼の位相信号を追いながら、帰還用の転送座標を設定した。

数分後、オペレーション・センターの転送ゲートが薄く光り、リオンが姿を現した。

黒い作業着に身を包んだ長身の男。髪は短く、顔立ちは整っているが表情は乏しい。年齢は三十二歳だが、七年間の任務で刻まれた疲労が、時おり実際の年齢より老けて見せることがあった。

「今回も無事完了。お疲れさま」

アルトは振り返って言った。

「一五三名か。新記録だな」

リオンは端末のデータを流し見しながら、淡々と言った。「疲労度は想定範囲内だった」

「でも顔色が悪い」

「いつもこんな顔だ」

「そうだけど、今日はいつもより悪い」

アルトは立ち上がり、引き出しから栄養補給剤のカプセルを取り出してリオンに渡した。こういう小さな気遣いが、彼女のやり方だった。

リオンは黙って受け取り、口に含んだ。

「指揮部から連絡が来てる。次回以降は単独での百五十名超は避けるようにと」

「次回の規模は?」

「まだ確定していない。とにかく今日は休んで」

リオンは頷いたが、アルトには彼がすぐには休まないと分かっていた。

「ところで」

アルトはためらいながら言った。「今回、ミナ・エンドウという女性がいた。二十六歳。東京の広告代理店勤務。回収後の状態は特に問題ない。適応能力が高そう」

「そうか」

リオンは短く答えた。

しかしアルトは、彼の返事がほんの一瞬、間を置いたことに気づいていた。

3

アルト・セイがクロノ・サルベージャーに加入したのは、二十一歳の時だった。

彼女は元々、コンコーダンスの技術研究部門に所属していた。位相工学を専攻し、特に位相フィールドの安定化技術に強みを持っていた。その知識を買われて、クロノ・サルベージャーのオペレーター部門にスカウトされた。

最初の一年間は、先輩オペレーターのアシスタントとして働いた。実際のミッションを横で見ながら、技術を習得した。その頃に出会ったのが、訓練を終えたばかりのリオンだった。

最初の印象は、「感情のない人間」だった。

彼は常に冷静で、感情を表に出さず、必要なこと以外はほとんど話さなかった。最初の共同ミッションのとき、アルトが緊張から手順を一つ飛ばしそうになった時も、リオンはただ「飛ばした」とだけ言って、自分でカバーした。叱りもしなかったが、フォローの言葉もなかった。

「この人、苦手だな」

最初はそう思っていた。

しかし半年後のある任務で、考えが変わった。

その日のミッションは、南米の山岳地帯での回収だった。複雑な地形と不安定な気象条件の中で、アルトのオペレーションミスによって転送座標がわずかにずれた。対象者は無事だったが、リオンが位相領域から帰還する際に、通常より三倍の時間がかかった。

任務後、アルトは彼に謝罪した。

「今日は私のミスで時間をかけさせた。ごめんなさい」

リオンは少し間を置いてから、言った。

「対象者は全員無事だった。それが全てだ」

たった一言だった。しかしその一言の中に、彼の価値観の全てが詰まっていた。

ミスを責めるのではなく、結果を見る。過程よりも、何を守ったかを見る。

それ以来、アルトはリオンのことを見る目が変わった。感情がないのではなく、感情を内に押し込んでいる人間だと理解した。そしてその感情は、使命への純粋な熱意から来ているのだと。

七年間、二人は最高のパートナーであり続けた。

4

クロノ・サルベージャーには、いくつかの厳しい規則がある。

その中でも最も重要なのが「接触禁止原則」だ。

回収された人々――「レジデント」と呼ばれる――は、エデン・セカンドの居住区で新しい生活を始める。彼らは地球の歴史から切り離された存在として、この星で残りの人生を過ごすことになる。そのため、回収者と回収された人々の間には明確な距離が設けられていた。

回収者はレジデントの居住区に立ち入ることができない。回収者はレジデントとの個人的な関係を持ってはならない。万が一、回収者の存在がレジデントに知られた場合は、速やかに任務から外れ、別の部署へ異動しなければならない。

これらの規則は、感情的な理由だけではなく、実務的な理由からも設けられていた。

回収者はミッション中に地球に降下する。もし回収者が回収したレジデントに感情的な執着を持った場合、その執着はミッション中の判断を狂わせる可能性がある。特定の人物への偏重は、他の命の救出を遅らせる。それは許されない。

また、レジデントにとっても、回収者との関係は健全ではない可能性がある。彼らは既に地球の生活を失っており、心理的に不安定な時期にある。そこに「自分を救ってくれた人物」という特殊な存在が現れることで、依存や歪んだ感情が生じるリスクがあった。

規則は、双方を守るためにある。

リオンはこの規則を、七年間、完璧に守り続けてきた。

だから彼は、ミッションの翌日、居住区の外縁を歩いていた自分が何をしているのか、しばらく理解できなかった。

居住区に入ったわけではない。ただ、外側の境界線付近を、歩いていた。

目的はなかった。目的があってはならなかった。

彼は三十分ほど歩いてから、母船に戻った。

夕食のとき、アルトが隣に座った。二人はしばらく黙って食べていた。

「どこかに行ってた?」

アルトが不意に言った。

「散歩だ」

「どこを?」

「居住区の外縁」

アルトは箸を置いた。それから、何も言わなかった。

その沈黙の中に、彼女の全ての言いたいことが詰まっていた。


第三章 ―― 邂逅

1

エデン・セカンドの居住区は、大草原の中に設けられた計画都市だ。

地球のどこかの都市を模して作られたわけではないが、人間が快適に暮らせるよう、長年かけて整備されてきた。道路があり、住宅街があり、広場があり、市場がある。水は近くの川から引かれ、エネルギーは母船からの無線送電で賄われている。言語は各自が地球で話していた言語のまま、翻訳システムが補助している。

ミナが目を覚ましたのは、到着から一日後だった。

居住区のゲストハウスに割り当てられた小さな部屋。清潔なベッド、白い壁、小さな窓からは草原と遠くの丘が見えた。夢のような光景だったが、夢ではなかった。

最初の数日は、多くのレジデントがそうであるように、彼女も混乱と悲嘆の中にいた。残してきた家族のこと、友人のこと、仕事のこと。ここが現実だと理解していながら、それを受け入れられない部分があった。

母のことを特に考えた。

ミナの母は、東京の下町で小さな花屋を営んでいた。父は彼女が十歳の時に他界しており、母が一人でミナを育てた。厳しい人ではなかったが、芯の強い人だった。ミナが広告の仕事に就くと言ったとき、「向いてると思う」と言って背中を押してくれたのも母だった。

その母に、もう会えない。

知らせることもできない。

世界の歴史記録では、ミナ・エンドウは死亡したことになっている。母はきっと泣いたはずだ。友人も、同僚も。自分の死を知った人々が悲しんでいると思うと、胸が締め付けられた。

しかし同時に、生きているという事実がある。

死んではいない。この見知らぬ星で、確かに呼吸をして、心臓が動いている。

ミナはその矛盾を、毎日少しずつ、時間をかけて飲み込んでいった。

一週間後には居住区の地図を把握し、二週間後には市場で顔見知りができていた。エデン・セカンドにはすでに数千人のレジデントが生活しており、様々な時代、様々な国から回収された人々が共存していた。言葉の壁はあったが、翻訳システムがあり、何より「同じ星に来た仲間」という連帯感があった。

居住区のコーディネーターとして働くレジデントたちが、新しく来た人々の適応を助けてくれた。ミナは彼らの仕事ぶりを見ながら、自分もいつかそういう役割を担いたいと思い始めていた。

それでも、あの瞬間のことが頭から離れなかった。

白い光の中に感じた、誰かの視線。

「気のせいかな」

ミナはある朝、草原の端に一人で座りながら、風に揺れる見知らぬ花を眺めながら呟いた。

この場所が気に入っていた。居住区の建物が視界に入らない、ちょうどいい位置。草原の広がりと、遠くの丘。時おり吹く風に、知らない花の香りが混じる。誰もいない静けさ。

「気のせいじゃないかもしれない」

突然後ろから声がして、ミナは勢いよく振り返った。

そこに立っていたのは、知らない男だった。

黒い作業着。短い髪。表情は乏しいが、目には深い何かが宿っている。三十代前半に見えるが、もっと年上のようにも見えた。

「あなたは……」

ミナはしばらく、その顔を見つめた。記憶を探る。どこかで見た気がする。

「あの時」

彼女は声を上げた。「あの時、フロアにいた人ですか?」

リオンは答えなかった。代わりに、少し視線を逸らした。

「私たちを助けてくれたのは、あなたですか」

ミナは立ち上がりながら続けた。確信はなかった。しかし白い光の中に感じたあの視線は、今この目の前にある視線と、同じ質感を持っていた。

目の奥の色、とでも言えばいいか。人の目を見てその人の内側を感じる能力など、ミナには特にない。ただ、この人の目は、あの瞬間に感じた「誰かの視線」と、確かに同じものを持っていた。

「……私は、ただの回収者です」

リオンはやっとそれだけ言った。

「回収者」

ミナはその言葉を繰り返した。「あなたたちが、私たちをここに連れてきた?」

「そうです」

「どうして」

「仕事です」

「仕事」

ミナは少し沈黙した。それから、ゆっくりと息を吐いた。

「そうですか」

怒りでも、感謝でもない声だった。ただ、静かに受け取ろうとしている声。リオンは、その声のトーンが意外だった。多くのレジデントは、最初の数ヶ月、回収者への怒りや恨みを持つことがある。自分たちの意思に関係なく連れてこられたのだという事実は、理解はできても感情的に受け入れるまでに時間がかかる。

「あなたは、どうして私が誰かに助けられたと思ったんですか」

リオンは問い返した。

「分からない」

ミナは正直に言った。「あの瞬間、誰かがいると感じた。見えたわけじゃない。でも確かに感じた」

「……それは、ありえないことです」

「でも感じた」

二人の間に、風が渡った。見知らぬ花が揺れた。

「ありがとう」

ミナは静かに言った。「理由はよく分からないけれど、あなたが来てくれなかったら、私はあそこで死んでいた。だからありがとうございます」

リオンは、返す言葉を持っていなかった。

七年間、何百という命を救ってきた。感謝されたことが全くないわけではなかったが、いつも遠い場所からだった。直接、この距離で、こんなふうに言われたことは初めてだった。

「……無事でよかった」

彼はやっとそれだけ言った。

不器用な言葉だった。しかしミナは微笑んだ。

「あなたの名前を聞いてもいいですか」

「……リオンです」

「リオン。私はミナです。エンドウ・ミナ」

「知っています」

「え、なんで」

「……レジデントの情報は把握しています。任務上の確認として」

「そっか、じゃあ私のこと色々知ってるんですね。不公平だな」

彼女は全く怒っていない様子で言った。

「仕事上の必要から」

「分かった分かった」

ミナはもう一度微笑んだ。「またここに来てもいいですか。あなたに会えるかどうか分からないけど、この場所、好きなので」

リオンは答えに詰まった。「来てはいけない」と言うべきだった。接触禁止原則がある。彼自身が、ここに来るべきではなかった。

しかし。

「……ここは、立ち入り禁止区域ではない」

それだけ言って、彼は踵を返した。

ミナはその背中に向けて、もう一度小さく「ありがとう」と言った。

リオンの足が、一瞬だけ止まった。

2

その日からリオンは、時おり草原の端に行くようになった。

合理的な理由はなかった。ただ、なんとなく、あの場所に足が向いた。

三日後、ミナは再びそこにいた。

「また来たんですね」

彼女は当然のように言った。

「たまたまです」

「ふうん」

ミナは信じていない様子で笑った。「座りますか」

リオンは少し迷ってから、草の上に腰を下ろした。ミナの横、適切な距離を保ちながら。

しばらく二人は黙っていた。草原の風が吹き、星の名も知らない鳥が空を渡った。

「ここの花って、全部名前あるんですか」

ミナが訊いた。

「……植物学班がカタログを作っています。ただ、命名はまだ追いついていないものも多い」

「じゃあ、この青いやつはまだ名前がないんですか」

「おそらく」

「じゃあ私がつけていいですか」

リオンは彼女を見た。

「規則はない」

「ならアオって呼ぼうかな。青くてきれいだから」

「単純ですね」

「シンプルが一番でしょ」

ミナは笑った。リオンは笑えなかったが、胸の奥が、かすかに動いた気がした。

「リオンはここが好きですか」

問われて、リオンは考えた。

好きか嫌いか。七年間、彼はそんな問いを自分に向けたことがなかった。エデン・セカンドは任務の拠点だ。帰る場所であり、出発する場所だ。それ以上でも、それ以下でもなかった。

「……分からない」

「分からない、ってことは嫌いじゃない」

ミナは笑って言った。「それでいいんじゃないかな」

「……あなたは?」

「え、私ですか?」

「この星は、好きですか」

ミナは少し驚いた顔をしてから、草原を眺めた。

「……うん、好きになれると思う。まだ怖いし、寂しいし、母のことを考えると辛くなる。でもこの草原と、知らない花と、二つの月と……なんか、悪くない気がする」

「お母さんがいるんですか」

「花屋をやってます。東京の下町で」

ミナは少し目を細めた。「きっとすごく心配してると思う。でも、もう会えないから」

沈黙が流れた。リオンは何を言えばいいか分からなかった。慰めの言葉を知らないわけではないが、この状況で言うべき言葉が見つからなかった。

「ごめんなさい」

彼は言った。

「え?」

「あなたを……地球から切り離したことへの、謝罪です」

ミナはしばらく彼を見つめていた。それから首を横に振った。

「謝らなくていいです。あなたが助けてくれなかったら、死んでいた。死んでいたら、どんな後悔も何もない。生きているから、寂しいし、悲しい。それは悪いことじゃない」

「……」

「むしろ、ありがとうって言いたい。こんなきれいな場所で、まだ生きていられることに」

リオンは彼女の横顔を見た。

草原の風に髪が揺れていた。遠くの丘を眺める目は、悲しみを帯びながらも、まっすぐだった。

この人は強い、とリオンは思った。七年間で多くのレジデントと間接的に関わってきたが、これほど早く、自分の状況と向き合おうとしている人を見るのは初めてだった。

3

二人が草原の端で話すようになって、一週間が経った。

アルトが気づいたのは、その頃だった。

「リオン」

ある夜の食堂で、アルトは静かに言った。「居住区外縁の監視記録に、あなたの位相信号が四回引っかかってる」

リオンは食事の手を止めた。

「同じ座標。エンドウ・ミナのIDと重なっている」

「……」

「接触禁止原則」

アルトはそれだけ言って、箸を置いた。

「分かっている」

「じゃあなぜ」

「……理由が分からない」

「それは理由にならない」

「そうだな」

食堂には他の乗員もいたが、二人の会話は低く、周囲には聞こえていない。

「彼女は回収したレジデントだ。あなたとは住む世界が違う。彼女はここで新しい生活を築かないといけない。あなたが関わることで、それが歪む可能性がある」

「分かっている」

「分かっているなら」

「分かっていても、足が向く」

アルトは深くため息をついた。

「あと一回でも記録が引っかかれば、指揮部に上がる。私が握れるのはここまでが限界だ。その先は、あなたが任務から外れることになる」

「……分かった」

「本当に分かってる?」

「分かっている」

アルトは彼を見つめた。

「リオン。私はあなたのパートナーだから、あなたに正直に言う。あなたは変わってきている。七年間で初めて、ミッション以外のことに目が向いている。それが悪いことだとは言わない。でも、その変化が任務に影響するなら、私には止める責任がある」

「……影響はさせない」

「それを信じたい。でも人の感情はコントロールできないこともある」

二人はしばらく沈黙した。

「彼女は普通の人間だよ、リオン」

アルトは最後に言った。「あなたは回収者だ。時間のスケールが違う。始まりが違えば、終わりも違う。それを理解した上で、それでも関わるつもりなら、私には止める権限はない。ただ、覚悟を決めてほしい」

リオンは答えなかった。

しかし、その沈黙は肯定ではなく、熟考だった。


第四章 ―― エデン・セカンドの真実

1

リオンがアルトの警告を受けてから、三週間が過ぎた。

その間、彼は草原の端には行かなかった。任務をこなし、データを分析し、訓練をして過ごした。普段と全く同じ日々。ただ、夜になると眠れないことが増えた。

眠れない夜、彼はよく訓練時代のことを考えた。

オルテ・カイムとの日々。

オルテは当時、クロノ・サルベージャーの最も経験豊富な降下隊員の一人だった。位相転写の精度、判断力の速さ、冷静さ。全ての面で、リオンはオルテを目標にして訓練に臨んだ。

「お前には才能がある」

ある訓練の後、オルテはリオンに言った。「しかし才能があることと、この仕事が向いていることは違う」

「どういう意味ですか」

「才能は技術の問題だ。向いているかどうかは、メンタルの問題だ。この仕事は、人の死を間近に見ながら、自分は生き続けることを求められる。その矛盾に、長期間耐えられるかどうかが問われる」

「耐えられます」

「今はな」

オルテは静かに言った。「七年後も同じことが言えるか、考えておけ」

あの言葉の意味が、今なら分かる気がした。

耐えられている。しかし何かが、少しずつ変わっている。使命感は今もある。しかし、それだけで全てを満たすことが難しくなってきていた。

ある夜、リオンは居住区の外縁を歩いていた。立ち入り禁止ではないが、慣習上、回収者が近づく場所ではない。夜の居住区は静かで、遠くに民家の明かりがいくつか見えた。

「こんな時間に珍しいですね」

声がして、リオンは振り返った。

ミナがいた。

手に温かそうな飲み物の入ったカップを持ち、外套を羽織って。

「……ここに来てはいけなかった」

リオンは言った。

「私もここに来てはいけないのかな」

ミナは少し笑った。「眠れなくて、少し歩こうと思って」

「帰ってください」

「なんで」

「規則があります」

「誰の規則?」

「クロノ・サルベージャーの」

「私はクロノ・サルベージャーじゃないから、その規則に従う義務はないかな」

リオンは返す言葉に詰まった。

ミナは彼の隣に立って、夜空を見上げた。

「二つの月って、夜に見るとまた全然違う」

彼女は静かに言った。「昼に見るのも好きだけど、夜はもっと神秘的。あの銀色のが小さい方で、青いのが大きい方、って聞いたんですけど合ってますか」

「……合っています。大きい方はルナ・ブルーと呼ばれています。小さい方はルナ・シルバー」

「きれいな名前。誰がつけたの」

「最初にこの星に来た探検家が」

「センスあるな」

ミナはカップを両手で包んで、飲み物を一口飲んだ。

「これ、ここの草を使ったお茶なんです。居住区の食堂のおばさんが教えてくれて。ちょっと草の香りがするけど、温かくて落ち着く」

「……そうですか」

「リオンも飲みますか」

「いや」

「遠慮しなくていいのに」

「遠慮ではなく、任務中は飲食物の摂取を控えています」

「今は任務中じゃないでしょ」

リオンは少し詰まった。確かに、今は任務中ではない。

「……少しだけ」

ミナはカップを差し出した。リオンは一口だけ受け取った。

確かに草の香りがした。しかし温かく、深みがあった。

「美味しいでしょ」

「……はい」

「でしょ」

ミナは満足そうに言って、カップを受け取り直した。

「リオン、一つ聞いていいですか」

「……何を」

「私たちは、地球に戻れないんですよね」

「はい」

「永遠に?」

「……歴史の保護という観点から、それが原則です。ただし、数千年後、地球の文明がコンコーダンスの基準に達した場合は、接触が可能になります」

「数千年」

ミナはその言葉を静かに繰り返した。「じゃあ私が生きている間は、無理ってことか」

「……はい」

しばらく沈黙があった。

「寂しいですね」

ミナは感情的ではない、ただ静かな声で言った。「でも、仕方ない。あのまま死んでいたことを思えば」

「……」

「ねえ、リオン」

ミナは彼を見た。「あなたは、どうしてこの仕事を選んだんですか」

リオンは答えを持っていた。長い間、考えたことのある問いだったからだ。

「……かつて、救われた人間が身近にいたから」

「どういうこと?」

「私の師匠が、クロノ・サルベージャーの元隊員でした。彼は任務を終えてから、この仕事の意味を私に教えてくれた。歴史の中で失われるはずだった命が、どこかで生きている。その事実に、意味があると」

「師匠は今も?」

「……引退しています。エデン・セカンドで暮らしている」

「そっか」

ミナはまた空を見上げた。

「リオンは、救うことが好きなんですか」

「……好き、という感覚とは違います。それが正しいと思っているから、やっている」

「でも、七年間続けてきた」

「はい」

「七年間、それだけで続けてこられた?」

リオンは少し間を置いた。

「……今まではそうでした」

「今は?」

「今は……少し、分からなくなってきています」

ミナは彼を見た。驚いた顔ではなく、ただ静かに聞いている顔だった。

「私のことを話してくれてありがとう」

彼女は言った。「リオンが、こういう話をするのは珍しいんじゃないかと思って」

「……そうかもしれない」

「なんで私には話してくれるんですか」

リオンは答えられなかった。

自分でも、理由が分からなかった。

「……分からない」

「そっか」

ミナは再び空を見上げた。「私はリオンと話すのが好きですよ。不器用だけど、正直だから」

リオンはその言葉を、胸の奥のどこかに収めた。

2

師匠のオルテ・カイムを訪ねたのは、それからさらに一週間後のことだった。

オルテは、エデン・セカンドの第二居住区に一人で暮らしていた。七十代になった今も背筋は伸びており、かつて現役の降下隊員だったことを示す鋭い目をしていた。

小さな家の居間で向かい合って座り、リオンは全てを話した。ミナのこと。草原の端での会話。アルトの警告。そして自分でも理解できない、あの場所へ足が向く衝動のこと。

「なるほど」

オルテは話を聞き終えて、ゆっくりと言った。「それで、お前はどうしたいんだ」

「……分からない」

「分からないのか、言いたくないのか」

リオンは少し間を置いた。

「……ミナと一緒にいたい、と思っている」

「ならその答えで行けばいい」

「任務は?」

「任務か、個人の幸福か。どちらが上か、という話だな」

オルテは立ち上がり、窓の外を見た。

「私も若い頃に似たような選択をした。結果として、私は任務を選んだ。今でも後悔はしていない。だがお前に同じ選択を勧めるつもりもない」

「師匠は、どうして任務を選んだんですか」

「使命感、だな。一人の幸福よりも、多くの命を救うことの方が、自分には意味があると感じた」

オルテは振り返った。

「お前はどうだ」

「……私にも使命感はある。七年間、それで生きてきた」

「しかし今は?」

「今は、それだけでは足りない気がしている」

老人はしばらくリオンを見つめた後、静かに言った。

「人間は機械じゃない。使命感だけで生きられる人間もいれば、誰かのための温もりがなければ前に進めない人間もいる。どちらが正しいわけでもない」

「師匠は、私がどちらだと思いますか」

「七年間を見てきた私が思うに」

オルテは再び窓の外を見た。「お前は十分すぎるほど、使命のために生きてきた。少しくらい、自分のために生きることを許してもいいんじゃないか」

リオンは、老人の言葉を胸に刻んだ。

「ただ」

オルテは続けた。「一つだけ言っておく。組織と真っ向から対立するな。それはお前にとっても、彼女にとっても、得にならない。もし本当に彼女とともに在りたいなら、それを正々堂々と訴える方法を探せ。こそこそと規則を破り続けることは、長続きしない」

「……組織に対して、そんな交渉ができると思いますか」

「やってみるまで分からん。ただ、お前が黙って従うだけの人間ではないことは、私が一番よく知っている」

オルテは笑った。七年ぶりに見る、師匠の笑顔だった。

3

リオンがヴァルカン指揮官の前に座ったのは、それから数日後のことだ。

「リオン・カザマ」

ヴァルカンは静かに言った。「エンドウ・ミナとの接触が確認されている。計六回」

アルトは彼の隣に座っていたが、リオンを見なかった。

「説明できるか」

「……できません」

「できない、とは?」

「理由を合理的に説明することができない。ただ、事実は事実として認めます」

ヴァルカンは長い間、リオンを見つめた。

「接触禁止原則は、クロノ・サルベージャーの根幹だ。これを侵犯した場合、通常なら任務停止、および別部署への異動。最悪の場合、エデン・セカンドへの移住勧告」

エデン・セカンドへの移住勧告。それは、レジデントとして生きることを意味する。回収者としての任務の永久停止。

「承知しています」

「お前は優秀な隊員だ。リオン、七年間で六百三十七名を救ってきた。この数字は当機関の記録の中でも上位に入る」

「……」

「だからこそ、今回の件が惜しい」

ヴァルカンは腕を組んだ。「今後一切の接触を断ち、任務に戻る。それができるか」

リオンは答えを持っていなかった。

正直に言えば、できると思えなかった。しかし、できないとも言えなかった。

「……検討させてください」

「検討?」

「三日間、時間をいただきたい」

ヴァルカンは、意外そうな顔をした。通常、この場での問いは「はい」か「いいえ」しかない。

「……三日間」

ヴァルカンはしばらく考えた後、頷いた。「与えよう。ただし、その間の任務は停止する。三日後に答えを聞く」



三日後、リオンはヴァルカンの前に再び座った。

「答えを聞こう」

「はい」

リオンは真っ直ぐに指揮官を見た。

「私は、任務を続けます。しかし同時に、ミナ・エンドウとの関係も続けたいと思っています」

ヴァルカンは無表情で彼を見た。

「それは、接触禁止原則を今後も破ると宣言しているということか」

「原則の改訂を申請します。回収者とレジデントの個人的な関係に関する規則は、一律に禁止するのではなく、ケースバイケースで審査する方式に変更していただきたい。その議論の場を設けてほしい」

長い沈黙があった。

「前例がない」

「知っています。しかし、私と同じような状況に将来置かれる隊員が出てこないとも限らない。組織として、この問題に向き合う機会だと思います」

ヴァルカンはアルトを見た。アルトは無表情だったが、僅かに頷いた。

「……検討する」

ヴァルカンは言った。「それまでの間は、接触を公式に認めることはできない。だが監視の強化も行わない。グレーゾーンということにしておく」

「ありがとうございます」

「感謝するな。これはお前への温情ではなく、組織的な課題として受け取っているだけだ」

しかし、その言葉の温度は、決して冷たくはなかった。


第五章 ―― 共に生きる

1

アルトがリオンと二人きりになったのは、会議室を出た直後のことだった。

廊下は誰もいない。母船の灯りが白く、静かに二人を照らしていた。

「よく言った」

アルトは言った。

「…アルト」

「七年間、あなたが自分のために何かをしたのを、私は一度も見たことがなかった。だから言えてよかったと思う」

リオンは彼女を見た。

「怒っているのではないのか」

「怒ってないよ。心配はしてたけど」

アルトは少し笑った。「ただ一つだけ頼みがある」

「何だ」

「ミッション中は、私が信頼できる相棒でいてくれ。それだけ」

「……当然だ」

「なら、文句ない」

アルトはそれだけ言って、廊下を先に歩いていった。リオンはその背中を見ながら、七年間のパートナーが自分のことを誰よりも分かっていることを、改めて感じた。

感謝の言葉を言うべきだと思ったが、何と言えばいいか分からなかった。

それが彼の不器用さだった。

2

ミナにその話をしたのは、翌日のことだった。

草原の端、例の場所。午後の光が草原を金色に染めている時間帯だった。ミナは話を聞きながら、ずっと静かに聞いていた。

「組織と交渉したんですか」

彼女は最後に言った。

「……したとは言えない。申請を出したというだけです」

「でも、組織に対して自分の気持ちを正直に言ったってことじゃないですか」

「……そうなりますか」

「すごいと思います」

ミナは微笑んだ。「私のためにそこまでしてくれたことが、正直に言うと信じられない」

「信じてください」

「信じてます」

ミナはしばらく草原を見つめていた。小さな虫が花の周りを舞い、どこかで鳥が鳴いた。エデン・セカンドの午後は、こんなふうにいつも穏やかだった。

「私、リオンに伝えたいことがあります」

「何を」

「ここに来た最初の頃、怖かった。知らない場所で、何も分からなくて、また仕事ができるのか、友達ができるのか、家族にも二度と会えなくて……全部怖かった」

「……」

「でもリオンが来てくれて、話してくれて、少し怖くなくなった。あなたが私の傍にいてくれる可能性があると思うだけで、この星がずっと温かく感じる」

「ミナ」

リオンは彼女の名を呼んだ。七年間、レジデントを名前で呼んだことは一度もなかった。

「私も」

彼はゆっくりと言った。「あなたの傍にいたい」

ミナは笑った。今まで見た中で、一番明るい笑顔だった。

「じゃあ、いてください」

「……はい」

「約束ですよ」

「……約束します」

二人はしばらく、草原の風の中に座っていた。言葉はなかったが、何かが確かに変わった瞬間だった。

リオンはこの感覚を、うまく言葉にできなかった。七年間、自分の中に閉じ込めてきた何かが、少しだけ外に出た、そんな感じだった。

3

それからの日々は、静かに積み重なっていった。

二人は毎日、草原の端で会うようになった。時間は一定ではない。リオンの任務の都合で、朝のこともあれば夕方のこともあった。ミナも居住区での仕事が入れば来られない日もあった。しかしどちらかが来なくても、次の日にはまた来た。

リオンはミナに、エデン・セカンドのことを少しずつ話した。この星の歴史、コンコーダンスのこと、レジデントがどのように生活を作ってきたか。ミナは熱心に聞き、時に鋭い質問を返した。

「クロノ・サルベージャーの人たちは、いつか地球に帰れるんですか」

「……帰れません。私たちも、この任務が終わればエデン・セカンドかコンコーダンスの別の星に定住します」

「じゃあリオンも、ずっとここに?」

「いつかは。任務が続く間は母船にいますが」

「じゃあ、私たちはいつか同じ場所に住むんですね」

ミナはさらりと言った。リオンはその言葉の意味をかみしめるように、少し間を置いてから頷いた。

「……そうなります」

「それは、いいな」

ミナはまた笑った。その笑顔を見るたびに、リオンの胸の中に、言語化できない温かさが積もっていった。

ミナの方も、少しずつ自分の話をするようになった。

広告の仕事のこと。コピーを考える楽しさと難しさ。締め切りに追われながらも、出来上がったものが世に出たときの達成感。

「言葉って面白いんですよ」

ある日、ミナは言った。「同じことを伝えたくても、言い方一つで受け取り方が全然違う。だから一言一言、すごく考える」

「……そうですか」

「リオンは言葉、少ないですよね」

「……必要なことしか言わない、という習慣があります」

「でもさっき、七年間で一番多く話してくれた気がします」

リオンは少し考えてから言った。「……あなたと話すのは、必要だと感じているのかもしれない」

ミナは一瞬、目を丸くしてから、くすりと笑った。「それ、すごく嬉しいです」



4

季節が一つ変わる頃、ミナは居住区でコーディネーターとしての仕事を始めた。

新しく来たレジデントの案内、生活の相談の受け付け、コミュニティのイベントの企画。彼女の広告の経験が、思わぬ形で生きていた。

「昨日ね、来たばかりの女の子がいて」

ある夕方、ミナはリオンに話した。「十七歳。学校の校外学習中に事故に遭ったらしくて、一人でここに来たの。怖くて、ずっと泣いてて」

「……回収時に未成年が含まれることは、珍しくはない」

「うん。でもね、一人でここにいる十七歳って、想像するだけで胸が痛くて。だから一日中、ずっと一緒にいた」

「彼女は今は?」

「少し落ち着いた。同世代のレジデントと引き合わせたら、すぐ友達になってた。若い子ってすごいなと思って」

ミナは少し目を細めた。「でも、夜に一人になったとき、また泣くと思う。しばらくは気にかけてあげないと」

「……あなたは、こういう仕事が向いていますね」

「そう?」

「人の気持ちを、自然に汲み取っている」

「リオンも、人の気持ちを汲み取るのは得意でしょ。でないとミッションで正確に動けない」

「……それは訓練で習得した技術です。あなたのは、生まれつきのものだと思う」

ミナは少し考えてから言った。「それ、初めて言われた。ありがとう」

リオンは頷いた。それが彼なりの、精一杯の表現だった。

ミナはそれを分かっていた。七年間、言葉を最小限に絞って生きてきた人間のことを、彼女はもう十分に理解していた。

彼が何かを言わないときも、何を感じているかが、だいたい分かるようになっていた。


続く…



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