光の檻
― 影を奪われた人類の、最後の闇  



第十一章「観測者の死」

「世界は、観測者なしには存在しない。
しかし、ただ一人の観測者にとっての世界は、世界ではない。」
――量子認識論メモ
宿坊の戸を蹴り開け、三波が踏み込んできた。

彼は珍しく、息を切らしていた。眼鏡のレンズの内側で、OPTIKIXのリングが、不安定に明滅している。彼の身体は、グリッドのデコヒーレンスを、灯子よりもはるかに強く受けていた。

「灯子……」三波は、ラップトップに伸びる手を、止めるべきか、止めるべきでないか、迷うように、震わせた。「もう、戻せないのか」

「先生」灯子は答えた。「もう、戻すべきでないのです」

参道のさらに向こうから、灯子たちのもとへ、いくつもの人々の声が、波のように届いてきた。それは、悲鳴ではなかった。それは、何十年も忘れられていた、人間の、生の、ざわめきだった。

――空が赤い。

――何だこれは。

――綺麗だ。

――OPTIKが、止まった。

――星が、見える。

宿坊の外、参道の上の空には、夕焼けが急速に深い茜色に変わり、その向こうに、何十年ぶりかに、本物の星が、瞬き始めていた。

三波は、戸口に手をついた。彼の足が、ふらついていた。

「灯子、見えない……何も、見えない。なぜだ。光は、まだあるのに」

「先生のOPTIKが、デコヒーレンスを起こしているのです」灯子は静かに言った。「グリッドからの量子バイアスが消えたことで、OPTIKは、自然光だけでは、画像を構築できない仕様になっています。先生のそれは、初代のIX。ベータ機です。私の知る限り、最も依存度の高い世代です」

三波は、自分の顔に手をやった。彼の右眼の上に、彼自身が触れたのは、長い間、彼の生活の支えになっていた、機械の薄い金属枠フレームだった。

「私の世界が……止まる」

「先生」灯子は近づいた。「あなたの世界は、止まったのではありません。あなたの『観測装置』が、止まったのです。あなたの世界は、まだそこにあります。ただ、それを見るためには、今、あなたは、ご自分の生の目を、もう一度使う必要があります」

彼女は、彼の手を取った。

「外を、見てください。先生」

三波は、ぎこちなく頭を回し、参道のほうを見た。OPTIKの補助なしで、彼が生の目で世界を見るのは、おそらく十年以上ぶりだった。

最初、彼の視界は、ぼやけているようだった。光の輪郭は、彼の脳が予測する形よりも、はるかに曖昧で、はるかにグラデーションに満ちていた。

しかし、徐々に、彼の網膜は、自然光の世界を、思い出し始めていた。

参道に並ぶ宿坊、本堂の屋根、香炉の煙、人々の影、そしてその上の、深い茜色の空――それらが、輪郭を持って、彼の意識に立ち上がってきた。

「これが……」三波は呟いた。「これが、世界か」

「先生。これは、世界の一部です。ただの、ありのままの、一部です。完璧でも、安全でも、最適化されてもいません。けれど、これが、人間が生まれて以来、ずっと、見てきた世界です」

三波の眼から、涙が一筋、こぼれた。

奇妙なことに、その涙は、夕陽の光を反射して、わずかに赤かった。

「灯子、私は……」

その瞬間、宿坊の小窓の向こうに、東京方面の空が、青白く、強い光に包まれた。

緊急再起動エマージェンシー・リブート。フォトン・グリッドの、最後のフェイルセーフだった。中央制御装置が崩壊しても、衛星軌道上のミラー群が、無理やり地表に光を集中させて、グリッドの最低限の機能を維持しようとする、自動防御プロトコル。

「だが」灯子は言った。「それは、もう、もちません」

彼女のラップトップに、別のシグナルが立ち上がっていた。木戸からの暗号メッセージ。Umbraは、衛星制御の地上局に対しても、同時並行で停止信号を送っていた。フォトン・グリッドは、空からも、地下からも、同時に、停止しつつあった。

ホログラフィック原理ホログラフィック・プリンシプルによれば、ある空間領域に含まれる情報のすべては、その境界面に符号化されていると言われている。フォトン・グリッドが二次元の境界面――上空に張られた量子もつれの「膜」――に符号化していた、人類の集合的注意のパターンは、今、その膜が崩壊することで、三次元の現実空間へと、解放されようとしていた。

観測者が、死ぬ。

たった一人の絶対的観測者であったシステムが、たくさんの観測者たち――一人一人の人間――に、解体されていく。

それは、ある意味では、世界そのものの、再生だった。

宿坊の外、参道の上空で、青白い光は急速に弱まり、再び、深い茜色と、そして紫の薄暮はくぼが、訪れた。

人々は、足を止め、空を見上げていた。あるものは、立ち尽くしたまま、子供のように泣いていた。あるものは、隣に立つ人の手を取った。OPTIKが落ち、彼らは、初めて、互いの生の顔を見ていた。

善光寺の境内で、覚円和尚は、本堂の前に立ち、ただ静かに、合掌していた。

彼の世界には、最初から、光がなかった。だから、何も失われなかった。彼の闇は、千三百年、ずっとそこにあった。今、彼の闇が、世界全体に、もう一度、薄く、しかし確実に、戻ってきていた。

第十二章「日没」

「夕暮れは、光と闇の諍いさかいではなく、両者の和解である。」
――『信濃詩抄』
太陽が、西の戸隠連峰の稜線の彼方に、ゆっくりと沈んでいった。

フォトン・グリッドの停止から、すでに三時間が経過していた。

善光寺の境内には、何千人もの人々が、自然に集まり始めていた。長野市内に滞在していた観光客、参道の宿坊や土産物店の主たち、そして、グリッド停止のニュースを聞きつけて、わざわざ「闇が残っている場所」を求めて移動してきた人々。

みな、空を見上げていた。

色を、見ていた。

夕焼けの茜色から、薄紫、青、そして次第に深い藍色へと、空が一刻ごとに変わっていくその諧調かいちょうを、彼らは、人生で初めて、あるいは何十年ぶりかに、その目で追っていた。

フォトン・グリッドが人工的に空を「青空のまま固定」していた間、人々は、夕焼けというものを知らなかった。広告映像やフィクションの中で、それが「かつてあったもの」として語られるのを聞くことはあっても、それが現実の自分の頭上に、毎日、無料で、何の意図もなく現れる現象だということを、彼らは、忘れていた。

「お母さん」と一人の子供が、母親の手を引いて言った。「あれは何? あの、赤いのは」

母親は、しゃがんで、子供の顔を見た。OPTIKが落ちた彼女の目は、戸惑いと、奇妙な解放感に、揺れていた。

「あれは、夕焼けっていうのよ」彼女は言った。「お母さんが、子供のころには、毎日、見ていたものなの」

子供は不思議そうに首を傾げ、それから空を見上げ、しばらく無言だった。

宿坊から出た灯子は、響と共に、参道をゆっくりと歩いた。

三波啓は、宿坊の中に座らされていた。Umbraの数人が彼を見張っていたが、もはや彼が暴れることはなかった。彼の右眼のOPTIKIXは、グリッドの停止と共に、完全に機能を停止していた。彼は、人生のほとんどを、機械の視覚に頼って生きてきた。今、彼に残されたのは、彼自身の、生の眼だけだった。

「先生」と灯子は、宿坊を出る前に、彼に声をかけていた。「先生は、生の眼で、もう一度、世界を学び直さねばなりません。それは、おそらく、辛い数年になるでしょう。けれど、私は、あなたを許そうとは思いません。ただ、あなたが、もう一度、人間として、自分の影と向き合えるように、祈っています」

三波は、何も言わずに、ただ、宿坊の小窓から、参道の人々の影を、見つめていた。彼の頬には、まだ、薄い涙の跡があった。

参道の中央あたりで、灯子と響は、覚円和尚と再会した。

和尚は、本堂の正面、香炉の脇に立っていた。彼は、何時間も前から、その位置から動いていないように見えた。だが、それは盲目の彼にとっては、いつものことだった。世界は変わっても、彼の場所は、変わらない。

「和尚様」灯子は深く頭を下げた。「やりました」

覚円は、薄く微笑した。

「ええ、空気の匂いが変わりました。今日は、お線香の煙が、しっかり東の方向へ流れています。風が、戻ってきたのですね。これまで、グリッドの量子場が、わずかに気流を歪めていたのです。私たち盲人は、風で空間を読みますから、よく分かるのです」

「和尚様。私は、これから……」

覚円は手を上げて、彼女を制した。

「博士。何をなさるかは、ご自身でお決めなさい。私が申し上げることは、一つだけです。これからの世界には、光と闇が、両方、戻ってまいります。人々はしばらく、闇を恐れるでしょう。怖くて眠れない人もいるでしょう。何十年も忘れていた、人間としての悲しみを、思い出す人もいるでしょう」

「ええ」

「ですから、博士のような方が、必要なのです。光を作れる方が、闇を理解した上で、新しい光のあり方を、人々と一緒に考えていく。それが、博士の、おそらく、これからのお仕事です」

灯子は、頷いた。

「和尚様、お戒壇めぐりは……」

「これからも、ずっと、ここにあります」覚円は微笑した。「光が戻った世界においても、闇は必要です。むしろ、光が戻ったからこそ、人々が闇に立ち戻れる場所が、より、必要なのです。お戒壇めぐりは、これまでも、これからも、その場所であり続けるでしょう」

その時、参道の空に、最初の一番星が、姿を見せた。

金星だった。

参道のどこかで、誰かが、声をあげた。

「星が、見える!」

数千人の人々が、一斉に、空を見上げた。

その光景は、灯子の記憶に、生涯、残った。光に支配されていた一つの文明が、自らの作った光を、いったん手放し、生の闇の中で、星を、見直そうとしていた。

「灯子」響が、隣で静かに言った。「あなたは、世界を、止めなかった。世界に、影を、取り戻した」

灯子は、自分の足元の、長く伸びた、自分自身の影を見た。

夕陽が低くなるほど、影は長く伸びる。これは、子供でも知っていた光学の事実だった。だが、彼女は今、そのことに、初めて、感謝した。

影は、自分が、世界に確かに存在している、ということの、もっとも単純な、もっとも豊かな証拠だった。

エピローグ「影もまた光の仕業」

「そう。色もまた、光の仕業で。
影もまた、光の仕業で。
――そして、私たちもまた。」
――ある古い詩より
あれから、三年が経った。

フォトン・グリッドの完全停止から、半年間、日本社会は混乱の中にあった。長らく忘れられていた「夜」が突如として戻ったことで、概日リズム調整薬の処方は急増し、保険制度は緊急に再編された。夜盲症やもうしょうと診断される人々が一時的に増えたが、その大半は、桿体細胞のロドプシン産生能力が、ただ単に十年以上「使われていなかった」だけのことだった。人間の網膜は、思いのほか、生きていた。

灯子の予測したよりも、グリッド停止による死者は少なかった。最終的に確認された関連死は三百八十二名。少ない数ではない。だが、彼女が覚悟していた千人を超えるという最悪の数字には、至らなかった。Umbraと、彼らに賛同した医療従事者たちが、停止前の数日間に、リスクの高い高齢者と心疾患患者への準備を、密かに進めていた結果だった。

白石灯子は、TII政策推進局の解体後に設立された新光環境委員会ニュー・フォトニック・カウンシルの、技術顧問の一人になった。委員会の方針は、シンプルだった。光は、必要な場所に、必要な分だけ、人々の合意のもとで、配置する。グリッドは復活しない。代わりに、各家庭、各都市が、自分たちの「光のあり方」を、選ぶことになった。

三波啓は、不正な被験者試験と、PCH隠蔽に関する罪状で起訴され、有罪となった。彼は刑務所の中で、自分の生の眼で世界を学び直すという、おそらく彼の人生で最も真摯な時間を、過ごしているという話だった。

覚円和尚は、変わらず善光寺のお戒壇めぐりの守人を続けていた。お戒壇めぐりは、フォトン・グリッド以後、観光地としてではなく、「光に疲れた人々のための静養所」として、新しい意味を持ち始めていた。覚円のもとには、世界中から、視覚過敏や知覚失調を抱える人々が訪れていた。

黒田響は、Skotosたちの社会復帰支援センターの責任者となっていた。彼の片眼の視力は、依然として戻らなかった。だが彼は、それを「不幸」と呼ぶことを、もうやめていた。

ある夕方、灯子は、休暇を取って、再び長野を訪れていた。

善光寺の境内、夕暮れ時の光が、本堂の屋根の上に、長い影を落としていた。フォトン・グリッドのない空には、雲があり、雲には陰があり、陰の向こうには、太陽が、ゆっくりと、戸隠連峰の彼方に傾いていた。

参道脇の宿坊の小部屋を、彼女は借りていた。小さな机、座椅子、そして窓。窓には障子が貼られ、開ければ、夕焼けの空が見えた。

机の上に、一冊の古い本があった。

それは、かつて木戸が彼女に渡し、響が大事に保管していた、不詳の詩人の詩集だった。光がフォトン・グリッドで支配される前、二十一世紀の初頭に書かれたとされる、自費出版の薄い詩集である。著者の名は記されていない。ただ、扉に「不詳の詩人による、闇への一通の手紙」とだけ印刷されていた。

灯子は、ランプを灯した。電灯ではなく、本物の灯油ランプだった。木戸が、彼女のお礼にとくれたものだった。芯から立ち上る、橙色の小さな炎。その光だけで、彼女は、部屋の闇の中、本を開いた。

ページをめくる音が、闇の中に、優しく響いた。

ある一篇に、彼女の指が止まった。

光に支配されている。

光があってこそ
多くが見える。

光なくして
何も見えない。

そう
色もまた
光の仕業で
すべての色を持つ光は

すべての物に当たり
僕らが見えるその色だけ
その物体が跳ね返したと言われる。

そう
虹が七色に輝くように
光の中には
すべての色があって……
灯子は、息を呑んだ。

二十一世紀の初頭、すでに、フォトン・グリッドのことを予感していたかのような、この詩。光に支配されている、と詩人は書いていた。それは、TII政策が始まる、遥か以前のことだった。

彼女は、ページを進めた。詩は、不思議な散文のような形式で続いていた。長野の善光寺、お戒壇めぐりの真っ暗闇、極楽の錠前、そして、酔っ払った団体客が「キャー」と叫ぶ場面までが、まるで、彼女自身が体験したことの予言のように、書かれていた。

そして、最後の方に、こうあった。

光あれば
影がある というのは
人生の中にも確かにあって

輝いて見える方ほど
その裏側には
それと同じだけの影もあると

そしてその影は
斜に構えるほど長く伸びて

そう
夕暮れ時の太陽のように
影は長くそこに伸び
いずれ日没と共に
暗闇と化す

そんなことなのだろう
灯子は、ランプの炎の揺らぎに、ゆっくりと顔を上げた。

宿坊の障子の向こうで、参道の人々の声が、遠く、聞こえた。今日も、夕暮れに集まった人々が、何十年ぶりかの夕焼けを、それぞれの言葉で、語り合っていた。

光あれば、影がある。

彼女のフォトン・グリッドは、影を消そうとした。三波先生は、自分自身の暗部から逃れるために、世界中の影を消そうとした。だが、影は、光があるからこそ、生まれるものだった。影を消すには、光そのものを消すしかなかった。そして、光を消した世界は、もはや、人間の世界では、なくなる。

輝いて見える方ほど、その裏側には、それと同じだけの、影もあると。

この詩人は、何を知って、これを書いたのだろう、と彼女は思った。あるいは、何も知らなかったのかもしれない。ただ、夕暮れの長野で、自分の長い影が、地面に伸びていくのを見ながら、これを書いたのかもしれない。

影は、長く、伸びていく。日没と共に、それは闇に溶ける。

しかしそれは、影が、なくなる、ということではない。

闇と化した影は、世界全体に、広がっていく。一人の人間の影が、闇となって、世界に溶け、そしてまた朝が来れば、別の影が、別の人間の足元に、生まれる。

そんなことなのだろう、と詩人は書いていた。

そんなことなのだろう、と灯子もまた、闇の中で、繰り返した。

彼女は、静かに本を閉じた。

そしてランプの火を、そっと吹き消した。

宿坊の部屋に、満ち足りた暗闇が、戻ってきた。障子の向こうから、参道の篝火の橙色の光が、わずかに漏れてきていたが、それは、彼女を脅かす光ではなかった。

闇の中で、彼女は、自分の手のひらを、目の前に持ち上げてみた。何も見えない。何も見えないことを、彼女は、もう恐れなかった。

光は、また昇る。

影もまた、生まれる。

そして人間は、その間で、また、何度でも、自分の手で、自分の小さな錠前を、探し続けるのだ。

――了――




―― 光あれば、影がある。
―― そんなことなのだろう。





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あとがき

光は便利で、正しくて、安心を与えてくれる。
だが、光だけの世界は、どこか息苦しい。
書きながら私は何度も、灯子と同じように「影のある場所」を探していた。

善光寺のお戒壇めぐりは、私自身がかつて体験した“絶対の闇”である。
手を伸ばしても何も見えず、ただ自分の呼吸だけが頼りになる。
その闇の中で、人はなぜか少しだけ自由になる。

この物語は、未来の話でありながら、同時にとても個人的な祈りでもある。
光に照らされすぎた世界で、闇が奪われたとき、人はどこに自分を置けばいいのか。
その問いに向き合ってくださった読者の方々に、心から感謝したい。

最後に。
光があるから影が生まれ、影があるから光は美しい。
その当たり前のことを、忘れずにいたいと思う。