日帰り温泉物語 〜裸の銀河連邦〜


田中ヨシオ(著)


プロローグ 

どうにもこうにもいかなくなった日

どうにもこうにもいかなくなると、人はどうするか。

二十一世紀の人間なら酒を飲んだ。二十二世紀の人間なら脳に直接「幸福パルス」を打ち込む。

しかし田中ヨシオは違った。

ヨシオは温泉に行く。


正確に言うと、「ヨシオは温泉に行こうとする」。

玄関でサンダルを履き、タオルの入ったエコバッグを提げ、扉を開ける。そこには東京湾岸の高層住宅群と、その上空をビュンビュン飛び交う自動運転エアタクシーの群れがあった。空は相変わらず薄曇りで、遠くには銀河連邦の宇宙交通管制塔が七色のホログラムを放ちながらそびえ立っている。

西暦二一〇四年の東京。

それがヨシオの住む世界だ。


「ヨシオさん、また温泉ですか」

声をかけてきたのは隣室のマツダ・ケイコ(四十三歳、フリーランスの脳内コンテンツデザイナー)だった。彼女はドアを開けながら眉をひそめた。

「そうだよ」とヨシオは言った。

「でも先週も行きましたよね」

「十か月ぶりだ」

「え、でも先週——」

「十か月ぶりだと言っている」

ヨシオは頑として譲らなかった。コロナ禍ならぬ「デジタル恍惚症」が世界中に蔓延したこの数年、ヨシオの時間感覚はすっかり狂ってしまっていた。デジタル恍惚症とは、仮想現実に没入しすぎた人類が現実の時間を正確に把握できなくなる病気で、銀河連邦の宇宙人たちは「地球人独特の奇妙な認知障害」と分類していた。

「まあいいや」とヨシオは言い、エレベーターに乗り込んだ。


ヨシオが向かうのは、東京都品川区に残る老舗の日帰り温泉施設「湯けむりパラダイス」である。

周囲がホログラム広告や空中庭園で飾られた二十二世紀の街並みの中で、「湯けむりパラダイス」だけは三十年前と変わらぬ姿で営業を続けていた。自動ドアは手動だし、下足箱の鍵は木製で番号が薄れかけているし、フロントのオバちゃんは毎日同じワイドショーを見ながら番台に座っている。

ヨシオはこの「変わらなさ」が好きだった。

変わりすぎた世界の中で、「変わらない場所」は聖域だった。


ところが——。

この日、「湯けむりパラダイス」の前には、見たことのない看板が立っていた。


【銀河連邦 裸体環境調査局 臨時調査実施中】 本日、当施設は銀河連邦第七条例「有機体入浴実態調査」の対象施設となっております。 ご入浴のお客様は調査員の立ち入りにご協力ください。   ——銀河連邦裸体環境調査局 地球支局


ヨシオはその看板を三秒ほど眺めた。

それから中に入った。

どうにもこうにもいかなくなっているときに、看板を読んで引き返すほど、ヨシオは理性的な人間ではなかった。




第一章 サウナという名の修行場

フロントのオバちゃん——名札には「山田」と書かれているが、ヨシオは十年以上通って一度もその名前で呼んだことがない——は、何事もなかったかのようにヨシオを迎えた。

「いらっしゃいませ。八百円になります」

「あの、外の看板……」

「ああ、あれね」山田オバちゃんは手を振った。「なんか宇宙の偉い人たちが来るんですって。でもうちは普通に営業してますから。タオルは別途百五十円になります」


ヨシオは脱衣所で服を脱ぎながら、自分の身体を眺めた。

五十七歳の身体というのは、正直に言うと、サボっている。

正確に言うと「かなりサボっている」。

さらに正確に言うと「もはやサボることが日常となっており、サボっていることにすら気づかなくなっている」。

腹は出ている。筋肉は消えている。肌の張りというものが記憶の彼方だ。

しかしヨシオは気にしなかった。なぜなら——


脱衣所を見渡すと、サボっちまった身体とサボらなかった身体が、おおよそ九対一の割合でひしめいていた。

ヨシオはこの割合に毎回ほっとする。

「僕だけじゃないじゃないか」という連帯感。裸の民主主義。肉体の平等。

もちろんヨシオも、サボっちまった側だ。笑。


浴場に入り、まず湯船で身体を温める。

それからサウナだ。

ヨシオはサウナが大嫌いだ。

暑いし、息苦しいし、隣のオジサンがたまに「ふぅ〜」とかやかましい声を出すし、木の椅子は熱いし、砂時計はなぜか12分しかなくて、それが体感では一時間くらいに感じられる。

にもかかわらずヨシオはサウナに入る。

なぜか。

サウナから出た後の、あの「復活感」のためだ。


サウナを出て水風呂に飛び込み、外気浴の椅子に座った瞬間、何かが戻ってくる。

ヨシオにはそれが何なのかよくわからないが、とにかく「何か」が戻る。

生きる意志、とでも言うのか。

体内の電池、とでも言うのか。

二十二世紀のバイオハッカーたちは「ミトコンドリア再起動」と呼び、宇宙医学者たちは「有機体の熱ストレス応答による神経伝達物質の最適化」と呼ぶが、ヨシオにとっては単純に「なんとか戻る」だった。


そうやって12分を三回。

ジーッと我慢して、パッと出る。

それを繰り返すと、身体はもう少し大丈夫になる。

らしい。


銀河連邦の調査員、現れる


三セット目のサウナ、九分が過ぎた頃のことだった。

扉が開いた。

入ってきたのは、明らかに「普通の人間ではない」何かだった。

身長は二メートルを超え、皮膚は薄い青みがかった灰色で、耳の先端がわずかに尖っている。全体的な体型は人間に似ているが、関節の数が一つ多い気がする。手の指が六本ある。そして——

白衣を着ている。

サウナで白衣。

手にはホログラムのクリップボードを持っていた。


「失礼します。銀河連邦裸体環境調査局、第三調査部の者です。本日はご協力いただきありがとうございます」

声は流暢な日本語だったが、微妙に音程がロボットに近かった。

サウナ室にいた五人の人間は、全員固まった。

ヨシオも固まった。

しかしヨシオは心の中でこう思った。

(……調査局の人か。まあいいか)

どうにもこうにもいかなくなっているときの人間は、大抵のことに対して「まあいいか」になる。これはデジタル恍惚症の症状ではなく、人間の正常な心理的防衛機制である。


調査員は——ヨシオは後に彼女が「女性」に分類される種族であることを知るが、今は「彼女」と呼ぶことにする——メモを取りながら室内を見渡した。

「現在、サウナ室内に有機体が五名。温度は九十六度。湿度は十二パーセント。うち四名が中等度の発汗状態、一名が——」

彼女はヨシオの方を見た。

「……限界値に近い発汗状態」

「俺のことか」とヨシオは思ったが、言わなかった。


「田中ヨシオさん、ですね」

ヨシオは驚いた。「な、なんで名前を」

「事前調査済みです。あなたは今回の調査における重要参照個体として選定されました」

「……参照個体」

「はい。地球有機体の中でも、特に『標準的なサボり型身体形質』を持つ個体として、銀河連邦データベースに登録されています」

ヨシオは自分の腹を見た。

そうか、と思った。笑えない話だが、笑うしかなかった。


第二章 男湯の宇宙論

調査員の名前はゼフィラ・ク・ナンバー7(通称:ゼフィ)といった。

「七番目の調査員という意味か?」とヨシオが聞くと、「七番目の息子の娘の孫の三番目の分岐クローンという意味です」と答えた。ヨシオは理解を諦めた。


外気浴の椅子に並んで座りながら(ゼフィは白衣のまま、汗一つかいていなかった)、ヨシオは話を聞いた。


銀河連邦が地球に加盟を認めたのは今から三十年前のことだが、加盟以来ずっと「地球の入浴文化」は連邦内でホットなトピックになっていた。

というのも——

銀河系の知的生命体の九十七パーセントは、「入浴」という習慣を持たない。

皮膚の汚れは超音波で除去するか、ナノボットが自動清掃するか、そもそも汚れない素材でできた身体を持っているかだ。

ところが地球人は、わざわざお湯に浸かる。

しかも「気持ちいい」と言う。

さらに「サウナ」という熱い箱に自ら進んで入り、苦しみながら「最高だ」と言う。

これは銀河連邦の中で「地球人の不可解な行動様式トップ5」に毎年ランクインしていた(ちなみに1位は「たこ焼きを熱いうちに食べようとして口の中をやけどし、それでもやめない」だった)。


「それで、調査の目的は何なんですか」とヨシオは聞いた。

ゼフィは少し間を置いた。

「実は……」

「実は?」

「銀河連邦の最高評議会が、地球の入浴文化を『危険指定文化』に分類しようとしているんです」

「危険? 温泉が?」

「はい。評議会の試算では、もし銀河系の全知的生命体が地球式入浴を採用した場合、宇宙全体の水資源消費量が十八パーセント増加し、エネルギーバランスが崩れる、と」

ヨシオはしばらく考えた。

「……ちょっと待て。宇宙全体の水資源って、どんだけあるんですか」

「それはもちろん膨大な量です」

「なのに十八パーセント増加しちゃうんですか、温泉ごときで」

「地球人の入浴への情熱は、我々の予測モデルを超えています」


ヨシオは妙に誇らしかった。


浴場の哲学


湯船に戻ると、いつものように「様々」な人間たちがいた。

デカいのやら。黒いのやら。白いのやら。

被ってのやら、そうでないのやら。

使い込んだようなのやら、これからのやら、今まさに準備中なのやら。


男湯というのは、ある意味で最も平等な場所だ。

外では医者も無職も、エリートも落ちこぼれも、地球人も——今日はゼフィもいるが——服を着ていれば違う顔を持つ。

しかし裸になると、全員が「有機体」になる。

肉の塊になる。

それぞれが違う形の、ただの肉の塊。


ゼフィはフロントのガラス越しに男湯を観察しながらメモを取っていた(さすがに中には入れない)。

ヨシオが湯船から顔だけ出して彼女の方を見ると、ゼフィは不思議そうな顔でこちらを見た。

「田中さん、一つ質問していいですか」

「どうぞ」

「なぜあなたは、この場所が好きなんですか。機能的に言えば、自宅のユニットバスで十分なはずです。温度も湿度も清潔度も、現代技術なら自宅で完全に再現できる」


ヨシオは考えた。

お湯の中で、五十七年分の人生を、ざっくり振り返った。


「他人がいるからかな」

「他人?」

「自分一人だと、自分の身体しか見えない。でもここには、いろんな身体がある。いろんな人生がある。あのデカいおじいさんは、どんな人生を生きてきたんだろう。あの若い子は、どんな未来を持ってるんだろう。……考えるだけで、何か、ほっとするんだよね」

ゼフィは長い間メモを取った。

「それは」と彼女は言った。「銀河連邦の入浴文化調査において、最も予測しにくいパラメータです」

「何が?」

「他者への関心が、自己の安心につながること」


ヨシオはお湯の中で少し笑った。

外では宇宙人が来て、入浴文化が危険指定されそうで、世界はどうにもこうにもいかなくなっているかもしれないが——

今ここでは、いい湯加減だった。


第三章 さっと隠す輩、ブラブラさせる輩

問題が起きたのは、ゼフィが男湯の検査のために中に入ってきてからだ。

「お湯のpH検査と、サウナのマット交換のために立ち入ります」

彼女は入り口でそう宣言した。白衣を着たまま、検査キットを持って。


男湯に女性(あるいは女性に分類される種族)が入ってくるのは、まあ現代でもたまにあることで、ヨシオは慣れている。

しかし問題は、ゼフィが「宇宙人」であることだった。

その時の男湯の反応は、大きく三種類に分かれた。


まず「さっと隠す輩」。

これは健全な羞恥心を持つ人々で、タオルや洗面器をすかさず手に取り、股間を隠す。日本人的シャイネスの正統な継承者たちだ。現在比率でいうと、約四割。


次に「わざとブラブラさせながら歩き回る輩」。

これが約三割。彼らは何らかの理由で「見せる機会」と解釈しているらしく、突然浴場内をゆったりと歩き始める。外なら完全にアウトなのに、なぜかここではサービスタイム扱いになる。謎だ。ヨシオには理解できない。


そしてヨシオを含む残り三割は「別にどちらでもない輩」だ。

さっと隠す必要もなく——あえて言うなら、隠して誰かに得があるとも思えないし——ブラブラさせる意欲も特にない。

ただそこにいる。


ゼフィはこの三種類の反応を、すべてメモに記録していた。

「興味深い」と彼女はホログラムキーボードを叩きながらつぶやいた。「同じ刺激に対して、個体ごとに異なる行動パターンが出る。銀河連邦の多くの種族は、この種のシチュエーションでは九十九パーセントが同一行動を選択します」

「宇宙人の方々は、こういうとき一斉に隠すんですか?それとも一斉にブラブラさせるんですか?」

ゼフィは少し考えた。

「……一斉に何もしません。なぜなら、彼らに羞恥心という概念がないので」

「それは……さみしいな」

「羞恥心がさみしいんですか?」

「羞恥心がないことがさみしいんだよ。羞恥心があるから、隠したり、見せたり、どうでもよかったり——そういう違いが生まれる。その違いが、人間らしさだよ」


ゼフィはまた長い間、メモを取った。


あぶねえ あぶねえ


さらに問題が起きたのは、その後だった。

脱衣所でのことだ。

一人の男が着替えていた。

年齢はヨシオと同じくらいで、見た目は普通の中年男性だ。

しかし——

下着が女性用だった。


ヨシオは目に入った瞬間、無意識に視線を反らした。

あぶねえ、あぶねえ、と思いながら遠ざかる。

別に悪いことをしているわけではないし、その人を責める気もない。ただ、なんとなく「これは自分の理解の外にある何かだ」と感じて、距離を置く。

それだけだ。


ゼフィはその様子も観察していた。

「あなたは今、回避行動を取りましたね」

「……まあ」

「なぜですか」

「なんとなく、自分には理解できないなと思って」

「理解できないから、遠ざかるんですか」

「そう——でも、嫌いってわけじゃないんだよ。ただ、わからないだけで」


ゼフィはしばらく考えた。

「実は」と彼女は言った。「私が今回この施設を調査対象に選んだのは、そのためです」

「え?」

「日帰り温泉という空間は、銀河連邦のデータベースで唯一、有機体が『完全に素の状態』で他者と共存する場として分類されています。服がない。肩書きがない。財産の差が見えない。そして——様々な身体形質、様々な性自認、様々な存在様式を持つ個体が、同じ湯に浸かっている」

「それが、何か問題なんですか」

「問題ではない。……むしろ、銀河連邦が今最も必要としているモデルケースかもしれない」


ヨシオはぼんやりと聞いていた。

脱衣所には、さっきの男性がまだいた。

彼はごく普通に、ごく自然に、着替えていた。

世の中には、様々おるらしく。

男なのに男の姿で男を好きな方。女の姿で男を好きな方。女の姿で女を好きな方。男の姿で女の下着を好む方。

宇宙人の姿で人間の温泉を調査している方も、いる。

外見では、その中身まで分からない。

だから男湯は、不思議な場所だ。


第四章 銀河会議、温泉で開催

翌日、ヨシオのスマートグラスに一通のメッセージが届いた。

差出人:銀河連邦裸体環境調査局 ゼフィラ・ク・ナンバー7


田中ヨシオ殿 昨日はご協力いただきありがとうございました。 緊急のご連絡があります。 本日十四時、「湯けむりパラダイス」にてお待ちしております。 銀河連邦最高評議会との会議が予定されています。 あなたの参加が必要です。 追記:タオルはご持参ください。


ヨシオは三回読み返した。

銀河連邦最高評議会との会議。

場所は「湯けむりパラダイス」。

タオル持参。


まあいいか、と思い、ヨシオはエコバッグにタオルを詰めた。


評議会、現る


「湯けむりパラダイス」に着くと、フロントの山田オバちゃんが困り顔で出迎えた。

「田中さん、来ましたね。なんかよくわかんないけど、うちの貸切をするって言う宇宙の偉い人たちが来てて……」

「どこに?」

「大浴場に」


大浴場に入ると——壮観だった。

湯船の周りに、七体の「何か」が立っていた。

種族はそれぞれ違う。一体は巨大なタコに似た形状だった(湯船には足を八本浸けていた)。一体は透明で、体内の臓器が全部見えた(おかげで裸なのか服なのか全くわからない)。一体はどう見ても地球人の子供の姿だったが、目が四つあった。

全員が裸だった。

あるいは全員が「何も纏っていない状態」だった。

そしてゼフィが中央に立ち、ホログラムのプレゼン資料を空中に展開していた。


「田中さん、来てくれましたね」とゼフィが言った。「こちらが銀河連邦最高評議会のメンバーです。本日は『地球入浴文化の危険指定可否』について最終審議を行います」

「俺がここにいる必要、ある?」

「あります。あなたは評議会が選定した『地球人代表証人』です」

「俺が?」

「標準的なサボり型身体形質を持ち、十年以上当施設に通い、入浴文化への偏愛を持つ個体として」

「……それが代表なのか」ヨシオはため息をついた。「地球人代表が俺で大丈夫か」

「大丈夫かどうかはわかりませんが、あなたしかいません」


ヨシオは服を脱いで湯船に入った。評議会のメンバーも、それぞれの「入り方」で湯に触れていた(タコ型の評議員は八本足を全部浸けて恍惚とした表情をしていた)。


証言


「田中ヨシオ」と四つ目の評議員が言った。「あなたは地球の入浴文化を代表して証言してください。なぜ地球人は、わざわざお湯に浸かるのですか」


ヨシオは少し考えた。

お湯の中で、じんわり温かくなりながら。


「どうにもこうにもいかなくなるから、ですかね」

「もう少し詳しく」

「仕事がうまくいかないとき。人間関係がこじれたとき。世界が変わりすぎて、自分がどこにいるかわからなくなったとき。……そういうとき、ここに来ると、なんとか戻るんですよ」

「戻る、とは?」

「自分に戻る、ってこと。身体に戻る。今ここにいる感覚に戻る」


評議員たちがざわめいた(それぞれの種族のざわめき方で。タコ型は足を波打たせ、透明な評議員は体内の臓器をぐるぐると動かした)。


「なるほど」と四つ目が言った。「では、もし地球から入浴文化がなくなったら?」

ヨシオは少し笑った。

「どうにもこうにもいかなくなったとき、戻れる場所がなくなる。それは……つらいな」


沈黙があった。

長い沈黙。

湯けむりが漂う中の、長い沈黙。


タコ型の評議員が突然言った。

「これ、最高ですね」

全員が彼を見た。

「このお湯。最高です。私の星には液体に浸かる文化がないのですが、これは……素晴らしい」

透明な評議員も言った。「私も同意します。体内の循環系が活性化されているのを感じます」

四つ目も言った。「……まあ、悪くないですね」


ゼフィがホログラムメモに何かを書き込みながら、ヨシオに小声で言った。

「うまくいきそうです」

「何が?」

「地球入浴文化の、危険指定回避が」


第五章 サウナという宇宙

最終審議は、サウナ室で行われることになった。

「より深い体験をしてもらうために」とゼフィが提案した。

「サウナ室は定員六名ですよ」と山田オバちゃんが言った。

「問題ありません。一部の評議員は物理的体積を縮小できます」

「……そうですか」山田オバちゃんはため息をついた。「まあ、うちは昔から変な客が多いし、いいか」


サウナ室に、ヨシオと七体の評議員とゼフィが詰め込まれた。

タコ型の評議員は確かに体積を縮小し、ほぼ茶碗蒸しサイズになってベンチの隅に座った。

透明な評議員は「私は別にどこにいても同じです」と言いながら溶け込むように壁際に立った。

四つ目は四つの目でぐるぐると周囲を見回しながら、ベンチの中段に座った。

ヨシオは上段に座った。

いつもの場所だ。


九十六度。

ジーッと我慢する時間が始まった。


熱の中の真実


三分が過ぎた頃、四つ目が口を開いた。

「正直に言うと……私は今回の審議に最初から反対していた」

「危険指定に?」とヨシオは聞いた。

「いや、地球文化の調査そのものに。地球は銀河連邦の中で最も混乱した星の一つだ。種族内でさえ争い、差別し、互いを理解しようとしない。入浴文化も含めて、参考にする価値があるのか疑問だった」

ヨシオは何も言わなかった。

否定できない部分があるのは確かだったから。


六分が過ぎた。

全員が汗をかいていた。ヨシオも、ゼフィも、評議員たちも——それぞれ違う液体を分泌しながら——同じ熱の中にいた。


「でも」と四つ目は続けた。「今日ここに来て……少し考えが変わった」

「何が?」

「あなたたち地球人は、様々だ。身体も、性質も、嗜好も、生き方も。そしてそれを——完全には理解できないまま——同じ湯に浸かっている。理解できなくても、遠ざかりながらも、同じ場所にいる」

ヨシオは思い出した。脱衣所の男性のことを。さっと隠す人のことを。ブラブラさせる人のことを。みんな違って、みんなここにいることを。


「銀河連邦の理想の一つは」と四つ目は言った。「『多様な種族が共存すること』だ。しかし実際には、理解できない種族とは距離を置く。恐れる。あるいは——危険指定する」

「……それって」

「そう。今回の地球入浴文化への危険指定も、その一例だったかもしれない。理解できないから、危険と分類する」


九分が過ぎた。

ヨシオは限界に近かった。でももう少しだけ我慢できる気がした。


「じゃあ」とヨシオは絞り出すように言った。「結論は?」

四つ目は四つの目でヨシオを見た。

「危険指定——撤回します」


十二分。

砂時計がひっくり返った。

全員でサウナを出た。


水風呂に飛び込んだのはヨシオだけだったが(宇宙人たちは「何をしているんですか」という目で見ていた)、外気浴の椅子に座ったとき、ヨシオはいつものように「なんとか戻る」感覚を感じた。

身体が戻る。

自分が戻る。

それで十分だった。


エピローグ また来ます

銀河連邦最高評議会は、満場一致で「地球入浴文化の保護及び促進に関する決議」を採択した。

これにより、地球の温泉・銭湯文化は「銀河連邦文化遺産」に指定され、宇宙規模の保護対象となった。

さらに翌年から、銀河連邦主催の「星間温泉サミット」が毎年地球で開催されることになった(初回会場は「湯けむりパラダイス」の大広間。山田オバちゃんは「掃除が大変だ」と文句を言いながらも、なんだか誇らしそうだった)。


タコ型の評議員は地球に移住し、「銀河初のサウナ愛好宇宙人」として銀河系中で有名になった。彼が書いた「サウナと宇宙の調和」は百三十七言語(地球語二十三言語含む)に翻訳されてベストセラーになった。

透明な評議員は毎月第一日曜日に「湯けむりパラダイス」を訪れ、露天風呂で瞑想するようになった。

四つ目の評議員は「多様な存在が同じ湯に浸かることの意義」についての論文を銀河連邦機関誌に発表し、高い評価を受けた。


ゼフィは調査報告書を書き終えた後、ヨシオに一通のメッセージを送ってきた。


田中ヨシオ殿 ご協力ありがとうございました。 調査の結論は、あなたの証言なしには出せませんでした。 一つだけ個人的な感想を述べさせてください。 私は今回の調査で初めて「お湯」に浸かりました。 正直に言うと、最初は意味がわかりませんでした。 でも三分ほどで—— なんとか戻る感覚がしました。 何に戻ったのかは、まだわかりません。 でも、悪くなかった。 また来ます。 ゼフィラ・ク・ナンバー7


ヨシオはメッセージを読んで、少し笑った。


その週末、またどうにもこうにもいかなくなったヨシオは、エコバッグにタオルを詰めて「湯けむりパラダイス」に向かった。

空には相変わらずエアタクシーが飛び、七色の管制塔が光っていた。

でも「湯けむりパラダイス」の前には、以前と同じ、変わらない自動ドアがあった。


中に入ると、山田オバちゃんが言った。

「いらっしゃいませ。八百円になります」

「あと、なんか宇宙人の方がもう来てますよ。露天風呂に」

「ゼフィか」

「そう、そのゼフィとかいう方。あと新しく二体来てますね。緑色のやつと、ふわふわしたやつ」

「……まあいいか」


ヨシオは服を脱いで、お湯に浸かった。

そこには様々な「何か」が、それぞれの身体でお湯に浸かっていた。

デカいのやら。緑のやら。ふわふわしたのやら。

使い込んだ身体も、これからの身体も、まったく理解不能な形状の身体も。


でもみんな、同じお湯の中にいた。


ヨシオは目を閉じた。

お湯はいい湯加減だった。

どうにもこうにもいかなくなっても——なんとか戻れる気がした。


(了)



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あとがき

疲れがたまり
「どうにもこうにもいかなくなると、

いつもの近場の日帰り温泉へGo!」となります。

コロナ禍で温泉に行けなかった日々。久しぶりに行ったサウナの12分。脱衣所での人間観察。男湯に入ってくる検査員。「さっと隠す人」と「ブラブラさせる人」と「どうでもいい人」。

そして——様々な身体、様々な人、様々な生き方が、同じお湯の中にいるという事実。

どうにもこうにもいかなくなったとき、人は「戻れる場所」を探します。

それが温泉であれ、銭湯であれ、あるいは宇宙のどこかの星の入浴施設であれ——「素の自分」に戻れる場所の大切さは、きっと宇宙共通ではないかと思います。

宇宙人がサウナに入ったとしても、きっと「なんとか戻る」はずです。

そういう話でした。

田中ヨシオ(著者ではなく、主人公の方)
湯けむりパラダイスの露天風呂にて…