カミさん探偵団

〜モテナイ系男子、幸せを掴むまでの七転八倒〜

田中誠一 著

(聞き書き・構成:無名の友人)



〜まえがき〜

 人は若い頃、「恋」を探す。

 しかし年を重ねると、だんだん違うものを探し始める。

 一緒にいて疲れない人。
 黙って飯が食える人。
 「おはよう」と「おやすみ」を、自然に言える人。

 それは派手な愛ではないかもしれない。
 ドラマチックでもない。
 SNSに載せても、あまり「いいね」はつかないだろう。

 けれど人生の大半は、
 特別な日ではなく、
 なんでもない普通の日でできている。

 本作の主人公・田中誠一は、
 若い頃から妙にそのことに気づいてしまった男です。

 彼は「彼女」ではなく、
 最初から「カミさん」を探していました。

 定食屋で。
 豚汁で。
 里芋で。

 そんな地味な価値観を抱えたまま、
 笑われたり、
 呆れられたり、
 振られたりしながら、
 それでも人生を歩いていきます。

 これは、
 特別じゃない人たちの、
 特別じゃない幸福の物語です。

 もし読み終えたあと、
 少しだけ温かい豚汁が飲みたくなったなら、
 作者としては大変うれしく思います。




 本書に登場する人物は、著者の記憶に基づいており、一部は著者の都合により美化、誇張、または捏造されている可能性があります。ただし、豚汁への愛情はすべて本物です。


第一章 俺はモテナイのではない、選んでいるのだ

 田中誠一が初めて「カミさん」という言葉の意味を真剣に考えたのは、中学二年生の春のことだった。

 クラスの男子どもが教室の隅に集まって、誰が誰のことを好きだとか、ラブレターをどう渡すかとか、バレンタインのチョコの数で男の価値が決まるとか、そういうしょうもない話を毎日毎日飽きもせずやっていた時のことである。

「田中はどうなんだよ。好きな子いないの?」

 問いかけてきたのは、同じクラスの山本だった。山本は身長が高くて顔もそこそこ良くて、すでに三人の女子から告白されたという伝説を持つ男だった。ちなみに三人全員に断っている。理由は「もっとモテたいから」という、中学生とは思えぬ戦略的発言によるものであった。

「いや、別に」と誠一は答えた。

「なんで? 気持ち悪くない?」

「気持ち悪くはないけど、彼女じゃなくてカミさんが欲しいな」

 一瞬、教室が静まり返った。

「は?」と山本が言った。

「カミさん。奥さん。一生一緒にいる人」

「……お前、何歳だよ」

「十四」

「十四でカミさんとか言ってる奴、初めて見た」と山本は言って、以来ずっと誠一を「おじいちゃん」と呼ぶようになった。

 誠一はそれを否定しなかった。

 だって、本当にそう思っていたのだ。クラスの男子が「彼女」を欲しがるのは理解できた。若い本能というやつだろう。しかし誠一の頭には、なぜかいつも「その先」が浮かんでしまうのである。

 彼女ができて、デートして、手を繋いで、キスして、それで?

 別れるの?

 なんで?

 誠一にとって、別れることを前提とした恋愛というのは、どうにも理解しにくかった。家を建てるのに、「とりあえず建てて、気に入らなければ壊しましょう」と最初から言うようなものではないか。それは家を建てているのではなく、砂遊びをしているのだ。

 もちろん、誠一は非常にモテなかった。

 それは誠一自身もよくわかっていた。身長は平均よりやや低め。顔は「悪くはないが良くもない」という、最も評価しにくいゾーンに属していた。運動は苦手で、勉強はそこそこ。特技は、一度聞いた相手の話を数年後でも正確に覚えていることくらいだった。

 しかし誠一は、自分がモテないことを嘆いたことが一度もなかった。

 なぜかというと、「モテる」というのは「彼女ができやすい」ということであり、誠一は「彼女」を求めていなかったからだ。カミさんを求めていた。この二つは似て非なるものである。

 中学を卒業し、高校に入り、大学に進んだ。その間も誠一の方針は変わらなかった。

 合コンには一応参加した。しかし誠一の話題は独特だった。

「田中くんって、休みの日は何してるの?」と隣に座った女子大生に聞かれて、誠一は答えた。

「掃除と料理です。あと、近所のスーパーで特売の日を把握して、食費を月に二万円以下に抑える研究をしています」

 沈黙。

「……えっ、料理できるの?」と女子が言った。ポジティブな反応だ、と誠一は思った。

「はい。肉じゃがと豚汁と、あと鮭の塩焼きが得意です」

「……それ、お母さんが作るやつじゃん」と女子は言って、別の男に話しかけ始めた。

 誠一はひとりでハイボールを飲みながら、「そうか、定番すぎたか」と思った。

 しかし彼は反省しなかった。なぜなら、肉じゃがと豚汁と塩鮭が得意な男というのは、長い目で見ると非常に価値が高いと信じていたからだ。

 合コンに来る女性たちは、だいたい誠一を「面白い人だけど、彼氏にはしたくない」という評価で処理した。

 誠一にとっては大変都合がよかった。彼氏になるつもりはなかったからだ。


 大学三年生の夏、誠一は就職活動と並行して、密かに「カミさん選定基準書」を作成した。

 ノートに書いたそれは、全部で十七項目あった。

 一、価値観が近いこと。
 二、食の好みが似ていること(特に外食より家飯を好むこと)。
 三、無駄遣いをしないこと。
 四、笑いのツボが同じであること。
 五、病気になった時に「大丈夫?」と言える優しさがあること。
 六、逆に自分が病気になった時に過度に心配しすぎないこと。
 七、静かな場所を好むこと。
 八、一人の時間を大切にできること。
 九、人の悪口を楽しみとしないこと。
 十、お互いに「ありがとう」が言えること。

 ……中略……

 十七、容姿については、特に問わないこと。ただし清潔感は必須。

 この最後の項目を書いた時、誠一は自分でも少し笑った。

 容姿については特に問わない。

 これは高尚に聞こえるが、実際のところ誠一は、容姿について云々できるほどの立場にはなかった。棚の上の物はとらないというより、棚に届かないのでとれないのだ。

 しかし誠一は、それが長い目で見ると有利に働くかもしれないと思っていた。

 人間、年を取れば容姿は必ず変わる。若い頃にきれいな人が、そのまま一生きれいとは限らない。しかし気立てのいい人は、年を取っても気立てがいい。料理が好きな人は、年を取っても料理が好きだ。

 誠一の考えはシンプルだった。

 七十年、八十年と一緒に生きる相手を選ぶのに、二十代の見た目を基準にするのは、計算が合わない。

 もっとも、大学の友人たちにこの話をすると、全員が「お前は哲学者か」という顔をした。そして「でもやっぱりかわいい子がいいよな」と言いながら、次の合コンの日程を確認し始めた。

 誠一はそれを眺めながら、静かにノートをしまった。



第二章 定食屋作戦と、さよならの数々

 社会人になってから、誠一はいくつかのデートを経験した。

 最初の相手は、職場の同僚に紹介してもらった小林さんという女性だった。同い年、事務職、趣味は読書。プロフィールだけ聞くと誠一との相性は悪くなさそうだった。

 誠一は考えた。デートをどこに連れて行くか。

 普通の男なら、こう考えるだろう。「ちょっと洒落たレストランにして、いい印象を与えよう」。

 しかし誠一は違った。

 洒落たレストランに連れて行って、相手が喜ぶのはわかる。しかしそれは、洒落たレストランを喜ぶ女性かどうかの確認にしかならない。誠一が確認したいのはそこではない。

 誠一が確認したいのは、「普通の場所で普通に楽しめる人かどうか」だった。

 なぜなら、人生のほとんどは「普通の場所」で過ごすからだ。

 というわけで、誠一は小林さんを駅前の定食屋に連れて行った。

 昼間から夜まで通しで営業している、カウンターと四人テーブルが三つだけの、壁に手書きのメニューが貼ってある、そういう店だ。看板には「めし処 たかはし」と書いてあった。誠一が毎週通っている店である。

 小林さんは店の前で一瞬だけ固まった。

 しかし何も言わずに入った。これはポジティブな反応だ、と誠一は思った。

 席についてメニューを見た小林さんが「生姜焼き定食にします」と言った。

 誠一は「豚汁セットにします」と言った。

 しばらく沈黙があった。

「ここ、よく来るんですか?」と小林さんが聞いた。

「毎週来ます。大将のだしが好きで」

「大将?」

「あの人です」と誠一は厨房の方を指した。七十近い男性が、黙々と鍋を振っていた。

「……常連さんなんですね」

「はい。誕生日に来たら、大将がサービスで唐揚げ出してくれました」

 また沈黙があった。

 料理が来た。生姜焼き定食と豚汁セット。

 誠一は「いただきます」と言ってから、本当に美味しそうに食べ始めた。

 小林さんもひと口食べた。そして少し目が丸くなった。

「……美味しい」

「でしょう」と誠一は満足げに言った。「大将の生姜焼きは、タレが絶品なんです。甘さと辛さのバランスが、ファミレスの三倍はいい」

「ファミレスの三倍って、どういう単位ですか」と小林さんが言って、少し笑った。

 これはいい兆候だ、と誠一は思った。


 しかしその後、小林さんとの関係は二回目のデートで終わった。

 理由は単純だった。二回目もまた、誠一は定食屋に連れて行ったのだ。

 今度は違う店だった。商店街の外れにある「食堂 まるよし」。ここは煮魚が得意な店で、誠一が特に好きなのは金目鯛の煮付けだった。

 小林さんは黙って入り、黙って食べ、「美味しかったです」と言って帰った。

 三日後、「ご縁がなかったということで」というLINEが届いた。

 誠一はそのメッセージを見ながら、「そうか、二連続定食屋はさすがに早かったか」と思った。

 次に紹介されたのは、西田さんという女性だった。

 今度は誠一も少し考えた。さすがにいきなり定食屋はまずい。初回くらいは普通の店に行こう。

 しかし「普通の店」というのが問題だった。誠一は普段、ほとんど定食屋か自炊しかしないので、「普通のレストラン」のレパートリーが極めて少なかった。

 友人の中村に相談した。

「初デートで行くとしたら、どこがいい?」

「イタリアンじゃないの、普通」と中村が言った。

「イタリアン」

「パスタとか、ピザとか。雰囲気いいし」

 誠一はイタリアンレストランを調べた。駅から徒歩五分のところにある「リストランテ・ベッラ・ヴィスタ」という店が、評判が良さそうだった。コース料理が三種類あって、一番安いので一人六千円だった。

 二人で一万二千円。

 誠一は五秒間考えた。

 一万二千円あれば、大将の定食が十二回食べられる。

 しかし今回は奮発することにした。カミさん探しに投資を惜しんではいけない。

 当日、西田さんは「わあ、素敵なお店」と言って喜んだ。誠一は「よし」と思った。

 コース料理が始まった。前菜、スープ、魚料理、肉料理と順番に出てくる。

 誠一は料理が出てくるたびに、素直な感想を述べた。

「これ、だしが薄いですね」

「……そうですか? 私は美味しいと思いますけど」

「いや、美味しいんですよ。でも一万二千円のコースにしては、だしが薄いと思って」

「……よく気づきますね」と西田さんが言った。笑顔だったが、目が笑っていなかった。

 メインの肉料理が来た。

「これは美味しい」と誠一は言った。「でも、大将の豚汁の方が、トータルで考えると満足度が高いかもしれない」

「大将って誰ですか?」

「行きつけの定食屋のご主人です。七十近くて、無口で、でも料理が本当に旨い人で」

 西田さんはワインを一口飲んだ。

「田中さんって、定食屋が好きなんですね」

「好きというか、人生の基本だと思っていて。毎日食べるものですから、美味しくて、安くて、体に良くて、というのが大事だと思うんです。リストランテは特別な日に来ればいい。でも特別な日は、一年に数日しかないわけで」

「……なるほど」

 西田さんは翌週、「価値観が違うと感じました」とLINEを送ってきた。

 誠一はそのメッセージを見て、「正直な人だ」と思った。そして「確かにそうかもしれない」とも思った。


 その後も、誠一のデートは続いた。

 三人目の相手、佐藤さん(二十八歳・保育士)は、誠一が連れて行こうとした「下町の老舗うどん屋」の前で「ちょっと待ってください、ここ、入り口に猫がいる」と言って固まった。本当に猫がいた。店の飼い猫で、名前はコロと言った。コロは客を選ばなかったが、特定の客に対して異常に懐いた。その日懐かれたのは誠一だった。コロが誠一の膝から離れず、佐藤さんは終始「猫アレルギーで……」と言いながらくしゃみを連発し、うどんが半分しか食べられなかった。翌日、「猫が苦手でごめんなさい」というLINEが届いた。誠一は「謝ることではない」と思ったが、それ以上の連絡はなかった。

 四人目の相手、高橋さん(二十九歳・会社員)は、最初のデートで誠一が「好きな言葉はなんですか」と聞いたのに対して「ラグジュアリー」と即答した。誠一はその言葉の意味を知らなかったわけではないが、好きな言葉として即答できるほど馴染みがなかった。高橋さんはその後、「いつかはパリに住んでみたい」「シャンパンは毎週飲む」「ブランドものは投資だと思っている」という話を三十分続けた。誠一は丁寧に聞きながら、心の中で「価値観が違う」とメモした。二回目のデートはなかった。

 五人目の相手、山田さん(二十七歳・薬剤師)は、誠一が「料理が好きで、休日は三時間くらい台所に立っています」と言ったら「えっ、それって彼女に作ってあげるためじゃなくて、自分のために作るんですか?」と聞いてきた。誠一が「そうです」と答えたら「……なんか、いいですね、それ」と言った。誠一は「ほう」と思った。しかし次の週、山田さんから「実はお付き合いしている人がいて」というLINEが届いた。合コン中から彼氏持ちだったのだ。

 六人目の相手は、誠一の職場の後輩・田村が「絶対合う」と言って紹介してきた斉藤さん(三十歳・パート)だった。

 斉藤さんは待ち合わせ場所に三十分遅れてきた。

「ごめんなさい、電車が遅れて」

 誠一が後で調べたところ、その日、その路線で遅延は発生していなかった。

 しかし誠一は何も言わなかった。

 連れて行ったのは、今度こそ少しグレードを上げた洋食屋だった。定食屋ではない。ちゃんとナプキンがある店だ。

 席につくなり、斉藤さんはスマートフォンを取り出して、料理が来るたびに写真を撮り始めた。

「インスタに上げるんですか?」と誠一は聞いた。

「そうです! フォロワーが最近増えてきて」

「何フォロワーくらいですか?」

「三千人くらい。これくらいになると、お店の人に声かけてもらえることもあって」

「へえ」

「田中さんはインスタやってますか?」

「やってないです」

「えっ、何もやってないんですか? ツイッターも?」

「はい。時間がもったいないと思って」

 斉藤さんは「時間がもったいない」という言葉に引っかかったようで、少し不満そうな表情になった。

 誠一はしまったと思ったが、事実だったので取り消しようもなかった。

 デザートが来た時、斉藤さんが言った。「田中さんって、なんか、すごく普通じゃないですか?」

「普通、ですか」

「なんかこう、キラキラしたものがなくて」

「キラキラしたもの」

「そういう感じです」

 誠一は考えた。キラキラ。自分にキラキラしたものがあるかどうか。

「……ないかもしれないですね」

「やっぱり」と斉藤さんは言って、また写真を撮った。

 一週間後、特に連絡はなかった。誠一からも送らなかった。

 誠一は帰り道、夜風にあたりながら考えた。

 さよなら、がまた増えた。

 でも、これでいい。

 カミさん探しなんだから、合わない人とくっついても仕方がない。

 情が深くなる前に白黒つける。

 それがお互いのためだ。

 誠一は自分に言い聞かせながら、コンビニに寄って缶ビールを買い、家に帰って豚汁を作り、ひとりで晩飯を食った。



第三章 美男美女の罠、裕福の罠

 誠一が三十代に入った頃、周囲の友人たちが次々と結婚し始めた。

 最初に結婚したのは、山本だった。

 山本は前述の通り、中学時代からモテていた男だ。大学に入ってからも、その傾向は続いた。常に彼女がいた。二股をかけていた時期もあった。そして三十一歳の時、ついにモデルのような女性と結婚した。

 結婚式は豪華だった。会場は都内の一流ホテル。テーブルの上には花が盛られ、料理は一皿ずつフランス料理のコースで出てきた。誠一はその料理を食べながら、「大将の豚汁の半分も美味くない」と思ったが、もちろん口には出さなかった。

「いいなあ」と、隣に座っていた中村が言った。「ああいう奥さん、羨ましいよな」

「モデルみたいだもんな」

「お前はどうなんだ、田中。まだ見つからないのか」

「探してる」

「何年探してるんだ」

「十七年くらい」

「長い」

 山本夫婦は確かに絵になるカップルだった。写真を撮れば雑誌の表紙みたいになった。二人で並んでいると、周りの人間が少し引いた。

 そして三年後、二人は離婚した。

 理由は複雑だったようだが、共通の話題がなかった、生活感がまるで合わなかった、という話を山本は後日、誠一に打ち明けた。

「彼女は本当に綺麗だったんだよ」と山本は言った。二人で地元の居酒屋に入って、山本はビールをぐいと飲んだ。「でも、なんか、疲れた。外に出るたびに、ちゃんとしなきゃって思って。家の中でも、なんか気を張ってないといけない感じで」

「うん」

「お前みたいに定食屋行ってさ、無言でメシ食ってさ、それで帰ってくるみたいな、そういう奥さんって、実在すんのかな」

「探してる」と誠一はまた言った。

 山本は黙ってビールを飲んだ。


 二人目の友人は、大学のゼミ仲間だった橋本だ。

 橋本は頭が良くて、大手商社に就職して、二十代で係長になって、三十二歳で年収が一千万を超えた。そして同じく高収入の女性と結婚した。

 結婚式は山本以上に豪華だった。ウエディングドレスはパリで仕立てたと聞いた。引き出物がブランドの食器だった。二次会は丸ごと貸し切りのバーで、シャンパンが飲み放題だった。

 誠一はシャンパンが苦手だったので、こっそりビールを頼んだ。

「田中、お前もそろそろ結婚しろよ」と橋本は言った。ほろ酔い加減で、機嫌が良かった。「うちの会社に紹介できる女性、何人かいるぞ」

「ありがとう」

「年収いくらくらいの人が希望?」

「別に」

「別にって何だよ。大事だろ。生活水準があるだろ」

「うん」と誠一は言いながら、シャンパングラスを眺めた。

 橋本夫婦は、やはり四年後に離婚した。

 理由は、お互いが仕事に忙しすぎて、家にいる時間がほとんどなかったことだという。すれ違いが続き、話し合う時間もなく、気がついたら「この人のことを、もうよく知らない」という状態になっていたらしい。

 橋本は誠一に電話をしてきて、こんなことを言った。

「俺、結婚してから、二人でちゃんとメシ食ったこと、何回あるんだろうって考えたら、片手で数えられるくらいしかなかった」

「そうか」

「お前みたいに定食屋でメシ食う奥さん、いないかな」

 誠一は不思議なことに気づいた。

 みんな最終的に、「定食屋でメシが食える奥さん」の話になる。

 これは定食屋が持つ、何か特別な引力なのかもしれない。


 逆のパターンもあった。

 高校の同級生、中島は、ちょっと変わった男だった。背が低くて、太っていて、見た目は正直言ってパッとしなかった。しかし話が面白くて、気遣いができて、誰とでも仲良くなれる人物だった。

 中島が結婚したのは三十三歳の時で、相手は同い年の田所さんという女性だった。

 田所さんは、会った瞬間、誠一は率直に「地味だな」と思った。悪い意味ではない。派手さがない、というだけのことだ。

 中島夫婦の結婚式は、こじんまりとしていた。会場は駅前のホテルの宴会場で、招待客は三十人ほど。料理は普通だったが、なぜか美味しかった。

「なんか美味しいな」と誠一は隣の山本に言った(山本はすでに離婚していた)。

「同じこと思った」と山本が言った。「なんで?」

「なんか、食べやすいんだよな。変に気取ってないから」

 中島夫婦はその後も、ずっと仲良くやっていた。

 子供が二人生まれ、下町の一軒家を買い、毎年夏には家族で旅行に行き、冬には鍋料理を囲んだ。

 誠一は時々、中島の家に遊びに行った。行くたびに田所さんが出してくれるお茶と菓子が美味しかった。会話に飾りがなく、ちょうどいい距離感があって、気疲れしなかった。

「お前ら、なんで仲いいんだろうな」と誠一はある時、中島に聞いた。

「仲いい? あんまり意識したことないけど」と中島は言った。「なんか、空気みたいな感じで」

「空気みたい」

「いないと困るけど、いても特に何もしてないというか。それが一番楽だなと思って」

 誠一は「空気みたい」という言葉を、手帳の隅にメモした。

 それが答えかもしれない、と思った。



第四章 空気のような女、現る

 田中誠一が三十五歳になった年の秋、事件は起きた。

 職場の先輩である木村さんが「ちょっとうちに来ないか」と言った。「女房の友達が来てるから」と言った。

 誠一は特に期待せず行った。もはや期待しないことを覚えた年齢だった。

 木村さんの家は、駅から歩いて七分の、二階建ての一軒家だった。玄関を開けると、煮物のにおいがした。

 誠一は、まずそのにおいに安心した。

 理由は自分でもよくわからなかった。ただ、煮物のにおいがする家というのは、誠一の感覚では「信頼できる場所」だった。

 通されたリビングで、先に来ていた女性が立ち上がった。

 松本さんだった。

 三十三歳、会社員。顔は「悪くはないが良くもない」という、最も評価しにくいゾーンに属していた。誠一と同じゾーンだ。髪は特に凝った髪型ではなく、服も普通だった。

「松本です」と彼女は言った。

「田中です」と誠一は言った。

 それだけだった。

 木村さんの奥さんが料理を並べ始めた。筑前煮、ほうれん草のおひたし、豚汁、それに白飯。

 誠一は席についてから、松本さんの方を見た。

 松本さんは、特に「わあ」とも言わず、「素敵な料理ですね」とも言わず、ただ「いただきます」と言って箸を持った。

 そして豚汁を一口飲んで、何も言わなかった。

 誠一も豚汁を一口飲んで、何も言わなかった。

 二人の間に沈黙があったが、それは気まずい沈黙ではなかった。


 食事が終わってから、木村さん夫婦がなんとなく席を外した。

 誠一と松本さんが二人になった。

「料理、美味しかったですね」と誠一は言った。

「はい」と松本さんは言った。「特に豚汁が」

「豚汁が好きですか」

「具が多い豚汁が好きです。里芋が入っているやつ」

 誠一は少し前のめりになった。

「里芋派なんですか」

「里芋派、ですね」と松本さんは少し考えてから言った。「こんにゃくも好きです」

「ごぼうは?」

「あれば嬉しいです」

「じゃあ、いわゆる具だくさん派ですね」

「そう言えばそうですね」と松本さんが言って、少し笑った。

 誠一は、この人に豚汁を作ってみたい、と思った。

 その感情は自分でも意外だった。これまで「この人に何かを作ってみたい」と思ったことはなかった。


 その後、誠一と松本さんは連絡先を交換した。

 一週間後、誠一はLINEを送った。

「今度、定食屋に行きませんか」

 三分後に返信が来た。

「いいですよ」

 誠一はその三文字を三回読んだ。「いいですよ」。なんの含みもなく、なんの戸惑いもなく、ただ「いいですよ」。

 これは何かが違う、と誠一は思った。

 当日、待ち合わせ場所に松本さんは時間通りに来た。

「たかはし」に入ると、大将が「いらっしゃい」と言った。

 席についてメニューを見た松本さんが「豚汁セットにします」と言った。

 誠一は一瞬、動きを止めた。

「あの、僕もいつも豚汁セットなんですが」

「そうですか」と松本さんは特に驚かず言った。「じゃあ、二人とも豚汁セットですね」

 料理が来た。二人とも豚汁セットが目の前に並んだ。

 誠一は「いただきます」と言った。

 松本さんも「いただきます」と言った。

 二人は黙って食べ始めた。

 その沈黙は、驚くほど自然だった。

 食べながら、誠一は少しずつ話した。大将のこと。だしのこと。この商店街が最近少しずつ変わってきていること。

 松本さんは聞きながら、時々相槌を打ち、時々自分の話もした。実家の近くに似たような店があったこと。父親がそういう店が好きだったこと。

 気がついたら一時間が経っていた。

 外に出て、少し歩いて、駅の手前で立ち止まった。

「楽しかったです」と松本さんが言った。

「僕も」と誠一は言った。

 一拍の間があって、誠一は聞いた。

「次も、こういう感じでいいですか」

「こういう感じ、好きです」と松本さんは言った。


 三回目のデートの帰り道だった。

 商店街を歩いていたら、通りかかった八百屋の店先に「里芋 一袋百二十円」という看板が出ていた。

 松本さんが立ち止まった。

「安い」と彼女は言った。

「安いですね」と誠一も言った。

「豚汁、作れますね」

「作れますね」

 一秒の沈黙。

「……作りませんか?」と誠一は言った。

「作りましょう」と松本さんは言った。

 二人は里芋を買った。それからこんにゃくと豚肉とごぼうを買った。

 誠一のアパートで豚汁を作った。

 松本さんは勝手がわかっているように台所に立って、里芋の皮をむき始めた。

 誠一はだしを取り始めた。

 二人は特に役割を決めず、ぶつかることもなく、自然に並んで作業した。

 豚汁ができた。

 二人で食べた。

「美味しい」と松本さんが言った。

「うん」と誠一は言った。

 その夜、誠一は松本さんが帰ってから、台所に残った鍋を眺めながら思った。

 これだ。

 空気みたいな感じだ。

 いないと困るけど、いても特に何もしていないというか。


 その後の展開は、これまでの人生とは違うスピードで進んだ。

 五回目のデートが終わった夜、誠一はLINEを送った。

「付き合ってください」

 松本さんから返信が来た。

「はい」

 誠一はその「はい」を三回読んだ。

 そして二年後、二人は結婚した。

 式は小さかった。中島夫婦の結婚式を参考にして、招待客は四十人。会場は普通のホテル。料理は普通に美味しかった。

 誠一が一番印象に残っているのは、披露宴の最後に松本さん(今の妻)が両親への手紙を読んだ場面ではなく、式の翌朝、二人でコンビニにおにぎりを買いに行ったことだった。

「何にする?」と誠一は聞いた。

「鮭」と妻は言った。

「俺も」と誠一は言った。

 二人とも鮭おにぎりを買って、コンビニの前のベンチに座って食べた。

 それが、田中誠一が「これでよかった」と確信した瞬間だった。



第五章 普通が一番、という悟り

 結婚してから、誠一の人生は大きく変わった。

 変わったのに、特に何も変わらなかった。

 これが一番よかったことだ、と誠一は後に思う。

 毎朝、誠一が起きると妻はすでに台所にいた。何か作っているか、作る準備をしているか、あるいはぼんやりお茶を飲んでいるかのどれかだった。

「おはよう」と誠一は言った。

「おはよう」と妻は言った。

 それで十分だった。

 説明が難しいのだが、「おはよう」が二つある家というのは、一つしかない家と根本的に何かが違う。

 一人で「おはよう」と言っても、それは独り言だ。しかし誰かに「おはよう」と言えて、返ってくれば、それは対話だ。毎朝の対話。積み重なって、それが家になる。

 誠一と妻の間には、年を経るにつれてだんだん言葉が減っていった。

 これは仲が悪くなったのではなく、言葉がなくてもわかるようになったからだ。

 妻が「あれ取って」と言えば、誠一には「あれ」が何かわかった。

 誠一が「今日はちょっと」と言えば、妻には「ちょっと」が何かわかった。

 翻訳不要の会話。これが長年連れ添うということか、と誠一は思った。

 子供が二人生まれた。長女と次女。

 二人の娘は、誠一と妻の中間くらいの容姿で生まれてきた。つまり「悪くはないが良くもない」ゾーンの、やや上あたりだった。誠一は内心、これでよかったと思った。

 長女は中学生の頃から、しっかりとした子だった。友達も多く、勉強もそこそこで、特に問題を起こすこともなく成長した。

 次女は少し変わっていた。小学生の頃から料理に興味を持ち、休日には誠一と並んで台所に立った。二人で豚汁を作りながら、次女は「なんでごぼうって洗っても洗っても汚れが出てくるの」と聞いた。誠一は「それがごぼうというものだから」と答えた。次女は「なるほど」と言った。

 二人の娘が成人し、就職し、そして結婚した。

 長女の夫は、誠一と似たような雰囲気の男だった。特に派手なところはなく、でも話してみると誠実で、料理が苦手だと言うから「じゃあこれからうちの娘に教わってください」と誠一は言った。男は素直に「はい」と言った。

 次女の夫は、少し背が高くて、少し口数が多かったが、基本的に次女の話をよく聞く男だった。次女が「鮭の定食が食べたい」と言えばどこか探してくれるし、「今日はくたびれた」と言えばそっとしておいてくれる。

 誠一は二人の娘の結婚式に出席しながら、それぞれ「まあ良かった」と思った。

 派手でも地味でもない。特別でも普通でもない、その中間あたりの結婚だ。

 それで十分だ。それが一番いい。


 六十代になって、誠一は大将の定食屋が閉まったことを知った。

 大将が体を壊して、店をたたんだのだという。

 誠一はそのことを妻に話した。

「そうか、大将の店、なくなったか」と妻は言った。

「うん」

「残念だね」

「うん」

 二人はしばらく黙っていた。

「豚汁、作ろうか」と妻は言った。

「作ってくれ」と誠一は言った。

 妻が台所に立った。

 誠一は座ったまま、台所の方を眺めた。

 里芋を切る音。ごぼうを洗う音。だしが沸く音。

 誠一は思った。

 この音だ。

 毎日繰り返されるこの音が、幸せというやつの正体だ。

 大げさな音ではない。花火でも交響曲でもない。ただ台所で里芋を切る、くぐもった音。

 それが三十年以上、この家に続いている。


 近所に住んでいる山本が、ある日ふらりと遊びに来た。

 山本は離婚後、しばらくして別の女性と再婚し、その後また離婚し、今は一人暮らしをしていた。それでも本人はケロッとしていた。

「田中、お前は本当に変わらんな」と山本は言った。

「そうか」

「奥さんと仲いいの、まだ続いてんの」

「続いてる、というか、特に何もない」

「何もないって、どういう意味」

「仲が悪くもなく、特別良くもなく、ただいるという感じ」

 山本は少し考えた。

「それが一番いいんだろうな、実は」

「たぶん」と誠一は言った。

「俺は二回結婚したけど、毎回ドラマチックだったんだよ。最初はすごく好きで、それから冷めて、気がついたら嫌いになってた。ドラマチックって疲れるな」

「そうだろうな」

「お前みたいに最初から地味に始まって、地味に続けてたら、楽だったかもしれない」

 誠一は何も言わなかった。

 妻が茶と羊羹を持ってきた。

「どうぞ」と妻は言った。

「ありがとうございます」と山本は言った。

 三人でしばらく黙って茶を飲んだ。

 山本が帰ってから、妻が「あの人、また一人なの?」と聞いた。

「うん」と誠一は言った。

「そうか」と妻は言った。

 それで会話は終わった。

 余計なことを何も言わない。それが誠一の妻のいいところのひとつだった。


 七十近くになった誠一は、庭の縁側に出て空を見ることが増えた。

 特に何も考えているわけではない。ただ座って、空を見ている。

 妻は台所にいることが多い。あるいは居間で本を読んでいる。どちらにいても、家の中に人の気配がある。

 それが一番大事なことだと、誠一はようやくわかってきた。

 気配。

 一人でいる時の静けさと、誰かがいる時の静けさは、同じ静けさではない。誰かがいる静けさは、静けさの中に温度がある。

 幸せとは何か、と中学生の頃から誠一は薄々考えていたが、答えはずっと手の届く場所にあった。

 派手でなくていい。キラキラしていなくていい。ラグジュアリーでなくていい。

 隣に誰かいて、豚汁があって、台所から音がして、夜になれば「おやすみ」と言える。

 それだけだ。

 それだけのことが、どれほど難しくて、どれほどありがたいか。

 誠一は縁側で目を細めた。

 庭の端に、妻が植えた小菊が咲いていた。

 特別な花ではない。どこにでもある、普通の花だ。

 しかし今日も咲いている。

 それでいい。

 それが一番いい。



エピローグ 失礼

 誠一の長女から電話があった。

「パパ、この間ね、子供たちと一緒に旦那さんと定食屋行ったんだけど」

「うん」

「なんか、すごく良かった。なんでだろうって思ったんだけど」

「なんでだったと思う?」

「みんなで同じもの食べて、ワイワイして、それで帰って来たんだけど、なんかそれだけで十分だった、みたいな」

「それで十分だよ」と誠一は言った。

「うん。パパがよく言ってた、普通が一番ってこと、最近わかってきた気がする」

「よかった」

「パパは昔から変わってたもんね。中学生でカミさんを探してたって、ママから聞いた」

「そんな昔のこと、話したか」

「面白い話だよ、それ。定食屋で試す、みたいな」

 誠一は少し笑った。

「まあ、結果オーライだ」

「うん。結果オーライだね」

 電話を切ってから、誠一は妻に言った。

「長女から電話だった。幸せそうだった」

「そう」と妻は言って、鍋をかき混ぜた。「晩ご飯、豚汁でいい?」

「いい」と誠一は言った。

 台所から、里芋を切る音がした。

 それだけで十分な夜だった。


――了――


 長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 書いていて思ったのは、幸せというのは「なった」瞬間があるわけではなく、「続いている」ことそのものなのだということです。

 豚汁のだしのように、毎日少しずつしみ込んでいくものが、気がついたら家になり、人生になっている。

 失礼いたしました。

                     田中誠一(作者の友人)




〜あとがき〜

 最後までお読みいただき、
 ありがとうございました。

 書いていて何度も思ったのは、
 幸せというのは、
 「手に入れた瞬間」に完成するものではなく、
 毎日の積み重ねの中に、静かに染み込んでいくものなのだということでした。

 若い頃は、
 どうしても「特別」を求めてしまいます。

 運命。
 刺激。
 ドラマ。
 理想。

 けれど長く生きていると、
 結局、人間を支えるのは

 毎日ご飯を食べることだったり、
 誰かの気配だったり、
 「おかえり」と言えることだったりする。

 そんな気がします。

 田中誠一は、
 決して器用な男ではありません。

 でも彼は、
 自分にとって何が大切なのかを、
 最初から最後まで見失わなかった。

 だからこそ、
 派手ではないけれど、
 静かで丈夫な幸せに辿り着けたのだと思います。

 人生は案外、
 豚汁みたいなものかもしれません。

 豪華ではなくてもいい。
 具だくさんで、
 湯気が立っていて、
 食べると少しホッとする。

 そんな毎日が続くこと。

 それが一番ありがたいのだと、
 最近ようやく分かってきました。

 失礼いたしました。



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〜追〜

誠一はきっと
あの頃の僕です。

最初のデートは
必ず 汚れた定食屋と決めてました。


それは最初からカミさんを
探していたからで
そこで彼女の価値観を知りたかったからで
そんなことを繰り返し


そして…
今のカミさんがいます。


今夜は

豚汁なようです。