Sound of Zen
〜係長、時空を超えて悟りを探す〜
序章
季節は
来るべき時に来て
するべきことをし
去るべき時に去る
まえがき
人は時々、
「このままでいいのだろうか」と思います。
別に大きな不幸があるわけではない。
仕事もある。
住む場所もある。
毎日はそれなりに回っている。
けれど、
何かが少しだけ重い。
朝礼。
会議。
終わらない報告書。
既読にならないメール。
気づけば冷めているコーヒー。
そんな日々の中で、
人はいつの間にか、
「ちゃんと生きること」に疲れてしまうのかもしれません。
この物語の主人公、山田一郎係長も、
そんな一人です。
彼は別に、
悟りを開きたいわけではありません。
ただ、
できれば波風を立てず、
できれば定時で帰り、
できれば静かに生きたい。
それだけです。
しかしある日、
彼のもとに、
宇宙禅宗から招待状が届きます。
時空を超える禅修行。
宇宙ブロッコリー。
AI坊主。
平安京での托鉢。
そして「何もしない」修行。
いったい何の話なのか、
書いている私にも時々よく分からなくなりました。
けれど、
よく分からないまま、
人は案外、生きていけるのだと思います。
この物語が、
忙しい毎日の中で、
ほんの少しだけ呼吸を深くする時間になれば幸いです。
第一章 無を目指す男、山田係長
山田一郎は、東京・大手町にある中堅商社「大宇宙物産株式会社」の第三営業部に勤める、四十二歳の係長である。
彼の人生信条は、「波風を立てるな」「目立つな」「早く帰れ」の三箇条であった。禅の公案に「無」という字があるが、山田の場合、悟りを求めているのではなく、単に存在感を消すことに人生の大半を費やしてきた。その結果として、彼は二十年間、昇進も降格もなく、係長という絶妙な中間地点に、まるで時空のシワのごとく、静かに、ひっそりと、留まり続けていた。
ある水曜日の午後三時十七分——なぜこの時刻を覚えているかといえば、社員食堂の自動販売機でコーヒーを買おうとして百円玉を二枚落とし、一枚を拾い上げたところで運命が動き出したからである——山田係長の机の上に、一通の封筒が届いた。
差出人の欄には、こう書いてあった。
「宇宙禅宗 時空本山 惑星ニルヴァーナ支部」
山田は封筒を手に取り、くるりと裏返し、また表を見た。間違いなく自分の名前が書いてある。山田一郎、大宇宙物産株式会社、第三営業部、係長。
彼は深呼吸をして、封筒をゴミ箱に投げた。
翌朝、封筒はデスクの上に戻っていた。
山田はもう一度ゴミ箱に投げた。
翌々朝、封筒はまたデスクに戻っていた。今度は、追伸が添えられていた。
「山田様、ゴミ箱に投げても無駄です。これは時空郵便です。宇宙の法則により、あなたが開封するまで届き続けます。なお、このまま無視を続けると、宇宙の法則により、第三営業部全体がループ時間に巻き込まれ、永遠に水曜日の午後三時十七分を繰り返すことになります。ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます。敬具。」
山田は封筒を開けた。
第二章 悟りへの招待状(強制)
封筒の中には、一枚の紙と、小さな光る球体が入っていた。
紙にはこう書いてあった。
「山田一郎殿。この度は銀河禅修行プログラム・第九期生として、ご選出させていただきました。本プログラムは、宇宙に散らばる修行者たちが、時空を超えて禅の境地を極めるための、全宇宙公認の修行ツアーです。参加は任意ですが、断った方は今後二十年間、月曜日の朝礼が二時間延長されます。どうかご承諾ください。同封の光球に触れると、旅が始まります。なお、往復交通費・食費・宿泊費は主催者負担ですが、精神的ダメージについては自己責任となります。」
山田は光球を見た。光球は静かに浮かんでいた。
「月曜の朝礼が二時間延長……」
現在でも一時間の朝礼に耐えるために、山田は毎週日曜の夜に禅の呼吸法——というより単なる過呼吸——を行っていた。二時間は、想像するだけで胃が痛くなる。
山田は光球に触れた。
次の瞬間、彼はデスクチェアごと、大宇宙物産第三営業部から消えた。
残されたのは、冷めかけたコーヒーと、「山田係長 本日有休」と書かれたメモだけであった。誰が書いたのかは、永遠に謎である。
第三章 時空バスの混雑状況
山田が気づくと、そこはバスの中だった。
正確には「時空バス」であり、窓の外には宇宙が広がっていた。星雲がゆっくりと流れ、時折、何かの惑星が「ドン」という音とともに窓の外を通過した。
バスは満員だった。
隣の席には、江戸時代の武士が座っていた。刀を膝に置き、腕を組み、目を閉じている。その隣には、古代ギリシャの哲学者らしき老人が、巻物を広げてぶつぶつ何か読んでいた。前の席では、未来からきたらしいロボットが、スマートフォンよりもはるかに薄い端末をスワイプしていた。
山田の右隣には、空席が一つあった。いや、空席に見えたが、よく見ると小さな緑色の生き物が座っていた。見た目はブロッコリーに目と口がついた感じで、どこか禅的な落ち着きを醸し出していた。
「初めてですか」と、ブロッコリーが日本語で言った。
「……はい」
「ご安心ください。皆、最初はそういう顔をします。ちなみに私はゾルグ星の第七惑星から来た禅修行者です。地球年齢でいうと四百歳くらいです。よろしくお願いします」
「山田です。係長です」
ゾルグ星のブロッコリー——仮にブロ吉と呼ぼう——は、うなずいた。
「係長。良い響きです。中間管理職というのは、宇宙において最も禅に近い存在かもしれません。上からも下からも押しつぶされ、責任だけを負い、権限はなく、それでも淡々と機能する。まさに無の体現ですな」
山田は初めて、自分の係長人生を褒められた気がした。なんともいえない気持ちになった。
バスのアナウンスが流れた。
「次は——平安時代京都、午前十時——次は——平安時代京都」
第四章 平安京での托鉢と経費精算
バスは平安時代の京都に停まった。
山田とブロ吉は降りた。他に数人の修行者も降りた。古代ギリシャの哲学者(名前はソクラテスに似ていたが本人ではないと強調していた)と、江戸時代の武士(源田三郎という名で、禅寺の下っ端坊主が嫌になって逃げてきたらしい)の二人も同行することになった。
「本日の修行内容は托鉢です」と、どこからともなく現れた案内係が言った。案内係は蛍光オレンジのベストを着た中年女性で、名札には「田村さん(時空ガイド歴三十二年)」と書いてあった。
「托鉢とは、修行僧が鉢を持ち、街を歩きながら施しを受ける修行です。施しを受けることへの感謝、与えることの意味、そして執着を手放すことを学びます。では出発です」
山田は僧衣を渡された。サイズが微妙に合っていなかった。
平安京の街は、意外と賑やかだった。牛車が通り、市女笠をかぶった女性たちが歩き、物売りの声が飛び交っていた。
「あのう」と山田は田村さんに聞いた。「私たち、浮いていませんか」
「大丈夫です。時空保護フィールドにより、現地の方々には修行者が自然に見えるよう処理されています。ただし、あなたの顔が現代的すぎるため、若干、不思議な顔をされることがあります」
実際、通りがかった貴族風の男性が山田の顔を見て、「なんと薄い顔の坊主よ」とつぶやいて通り過ぎた。
托鉢は思ったより大変だった。
ブロ吉は緑色の外見にもかかわらず、不思議と施しを集めていた。「珍しい坊主じゃ」と言いながら、人々は握り飯や干物を鉢に入れてくれた。
源田は刀を持ったまま托鉢をしようとして田村さんに制止された。
ソクラテスもどきは、施しをもらうたびに、「そもそも施しとは何か」と問い始め、一度で二十分の問答を展開し、相手を哲学的虚無に突き落とした。
山田は、ただ黙って歩いた。
不思議なことに、黙って歩いているだけなのに、一番多く施しをもらった。
「なぜでしょう」と山田は田村さんに聞いた。
「あなたには、存在感がないからです」と田村さんは言った。「存在感がないということは、人々が自分の善意を純粋に発揮できる場を提供しているということです。鏡が磨かれているほど、よく映るように、あなたの無色透明さが、相手の善を引き出しています」
山田は何か大切なことを言われた気がしたが、あまりよく理解できなかった。
夜、修行者たちは宿に集まり、今日の成果を経費精算シートに記入した。宿のルールらしかった。
山田は「握り飯・三個」「干し柿・二個」と書いて提出した。
田村さんが「よくできました」と言ってスタンプを押した。
第五章 江戸の道場と武士の悩み
次の目的地は江戸時代であった。
時空バスの中で、源田三郎——江戸時代の武士——は山田に話しかけてきた。
「山田殿。拙者、実は禅がよくわからんのです」
「私もです」と山田は正直に答えた。
「修行に来ておいて、わからんとはどういうことか、とお叱りを受けるかもしれませんが、実は禅寺で三年修行して、未だにさっぱりなのです。師匠に問うても、石の上に座れと言うか、庭を掃けと言うか、それだけで。その意味が分からんのですよ」
「それ、わかります」と山田は言った。
「わかりますか」
「わかります。うちの上司も似たようなものです。報告書を出すと『もっとシンプルにしろ』と言うだけで、シンプルの定義を教えてくれない。三回直して、三回全部ダメで、四回目にようやくOKが出ても、何が変わったのか自分ではよくわからない」
源田は深くうなずいた。
「それです。まさにそれです。禅もそれと同じなのかもしれませんな」
二人はしばし黙った。
「あるいは」と山田は言った。「禅というのは、答えを出すための修行ではなく、答えを求めることをやめるための修行なのかもしれませんね」
源田は目を見開いた。
「山田殿……それは……」
「いや、さっきブロ吉さんが言っていたことの受け売りです」
「……なるほど」
江戸の道場では、座禅の修行があった。畳の上に正座し、ひたすら壁を見つめる。師範は七十代の老人で、背筋がピンと伸び、目が鋭く、しかしどこか温かかった。
「考えるな」と師範は言った。「考えようとするな。ただ、ここにいよ」
山田は座った。
最初の五分は良かった。
十分を過ぎると、今月の営業目標が頭をよぎった。
十五分で、来週の会議のアジェンダが浮かんできた。
二十分で、昨日のランチが何だったか気になり始めた。
二十五分で、足がしびれた。
三十分で、師範が「終わり」と言った。
「どうでしたか」と師範は山田に聞いた。
「頭の中が騒がしかったです」
「それで良い」と師範は言った。「騒がしさに気づいたということは、静けさを知っているということだ」
山田はまた、何か大切なことを言われた気がした。今度は、少しだけわかった気がした。
第六章 宇宙ステーション「無」での昼食
時空バスは、宇宙空間に浮かぶステーションに停車した。
ステーションの名前は「無」といった。案内板にはただ「無」とだけ書かれており、矢印も説明もなかった。
「このステーションは、宇宙最古の禅修行施設です」と田村さんが説明した。「創設は約三十二億年前。宇宙の知性が禅に目覚めた時代に建てられました。現在も現役で稼働しています」
施設内は、驚くほどシンプルだった。白い壁。白い床。飾りは一切ない。廊下を歩くと、自分の足音だけが聞こえる。
食堂に案内された。
メニューは一種類だった。
「お粥です」と田村さんが言った。「宇宙で最も食べられている食事のひとつです。シンプルであるがゆえに、食べる人の状態をそのまま映します。お腹が空いていれば、世界一おいしいお粥に感じる。心が乱れていれば、味がわからない。今日のみなさんの状態を、お粥が教えてくれるでしょう」
山田はお粥を食べた。
おいしかった。
本当においしかった。いつもランチに食べているコンビニのおにぎりより、吉野家の牛丼より、会社の接待で食べる高級料理より、おいしかった。
「おいしい」と山田は思わず言った。
隣のブロ吉が、うれしそうに葉を揺らした(ブロッコリーなので手がなかった)。
「それは良いことです。山田殿、あなたはいつも、食事を仕事の合間に処理しているでしょう。今日は、ただ食べることだけをしている。だから、おいしいのです」
山田は、そうかもしれないと思った。
食後、ステーションの展望台に出た。宇宙が広がっていた。無数の星。果てのない暗闇。その中に、小さく青い光点が見えた。
「地球ですか」と山田は聞いた。
「そうです」と田村さんが答えた。
山田は地球を見た。あそこに大宇宙物産がある。第三営業部がある。月次報告書がある。コピー機のトナー交換の当番表がある。
なぜか、懐かしかった。
第七章 AIロボット坊主との問答
旅の後半、修行者たちは「未来の禅道場」を訪れた。
西暦二二一七年の京都には、禅寺がそのまま残っていた。ただし、住職はAIロボットだった。
ロボット住職の名は「禅丸Mark-VII」。見た目は金属製の丸い体に、墨染めの衣をまとっており、頭部にはカメラの目が二つついていた。しゃべるとき、胸のスピーカーから渋い声が出た。
「ようこそ」と禅丸が言った。「修行者の皆さん。本日は問答を行います」
問答とは、師と弟子が問いと答えを交わす禅の修行である。
最初は源田の番だった。
「禅丸和尚。悟りとは何でありましょうか」
「それを知りたければ、まず、あなたが悟っていないと思う理由を教えなさい」
源田は考え込んだ。三分後、「わかりませぬ」と言った。
「それが答えです」と禅丸は言った。
次はブロ吉の番だった。
「無とは何ですか」
禅丸は十秒間沈黙した。
「あなたはすでに知っています」
ブロ吉は葉を静かに揺らした。
ソクラテスもどきの番になった。
「禅とは知の探求ですか、それとも知の放棄ですか」
「どちらでもなく、どちらでもある」
「その逆説をどう整合させるのですか」
「整合させる必要がない」
「しかし論理的に——」
「次の方どうぞ」
山田の番が来た。
山田はしばらく考えた。何を聞こうか。
「あのう」と山田は言った。「禅とか悟りとか、正直よくわからないんですが……そのよくわからないまま、生きていっても、いいんでしょうか」
禅丸はしばらく沈黙した。
「山田一郎」と禅丸は言った。「あなたは今、この修行で最も深い問いを発しました」
「え」
「わからないと言える人間は、わかったふりをする人間より、はるかに真実に近い。わからないまま、それでも生きる。それが、禅の出発点です」
山田は黙った。
なんとなく、少し、何かがほどけた気がした。
第八章 時空の乱流と、失われたコーヒー
帰り道、時空バスは乱流に巻き込まれた。
「少々揺れます」と田村さんが平然と言った。「シートベルトをお締めください」
時空バスには、シートベルトの代わりに「執着解放ベルト」というものがついていた。締めると、不思議と不安が薄れる仕組みになっているらしかった。
乱流の中、バスは激しく揺れた。荷物棚から荷物が落ちた。ソクラテスもどきの巻物が吹っ飛んだ。源田の刀がスライドした。ブロ吉は「おおっ」と声を上げて揺れた。
山田の鞄から、何かが落ちた。
拾い上げると、コーヒーの缶だった。大宇宙物産の社員食堂の自販機で買おうとして落とした、あの百円玉で買ったコーヒー——ではなく、その後ポケットに入れていたものだった。
完全に冷めていた。
山田は冷めたコーヒーを眺めた。
時空を旅して、平安時代と江戸時代と宇宙ステーションと未来の京都を訪れて、いろいろなことを考えて、それでも手の中にあるのは冷めたコーヒーだった。
なぜか笑えてきた。
声に出して笑った。
隣のブロ吉が不思議そうに見た。
「どうしました」
「いや」と山田は言った。「なんか、おかしくなって」
「何が」
「全部」
ブロ吉はしばらく考えて、それから一緒に笑った。ブロッコリーが笑うと、葉がぶるぶる震える。
源田も、ソクラテスもどきも、釣られて笑い出した。
田村さんだけは笑わなかったが、少し口の端が上がっていた気がした。
乱流が収まった。
第九章 最後の修行 ——何もしない
旅の最終日、修行者たちは再び宇宙ステーション「無」に戻った。
「本日最後の修行です」と田村さんが言った。「内容は——何もしないことです」
全員が顔を見合わせた。
「何もしない、とは」とソクラテスもどきが言った。「それは活動の否定ですか、それとも——」
「考えることも、しないでください」と田村さんが言った。
ソクラテスもどきは口を閉じた。
修行者たちは、それぞれ好きな場所に座った。山田は展望台の窓際に座った。宇宙が見えた。地球が見えた。
何もしなかった。
最初の十分間、頭の中はいつもどおり騒がしかった。来週の報告書。部下の鈴木くんの失敗談。冷蔵庫の中の賞味期限切れの豆腐。
二十分が過ぎると、少し静かになった。
三十分が過ぎると、もっと静かになった。
四十分が過ぎると——
山田は、ただ、そこにいた。
それだけだった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
宇宙がそこにあった。地球がそこにあった。自分がそこにいた。
何かを達成しようとしていなかった。何かから逃げようとしていなかった。ただいた。
一時間が経った。
田村さんが「終わりです」と言った。
山田は目を開けた。特別な感動はなかった。涙も出なかった。電流が走ったりもしなかった。
ただ、なんとなく、軽かった。
第十章 帰還 そして月曜の朝礼
時空バスは最後の停車地点——現代の東京——に向かった。
「お別れです」とブロ吉が言った。
「また会えますか」と山田は聞いた。
「宇宙は繋がっています。どこかで必ず」
源田と握手をした。源田は「良い修行でした」と言って、江戸時代に降りた。
ソクラテスもどきは「旅についての問いを、これから五年かけて考えます」と言って去った。
田村さんは、「またのご利用をお待ちしています」と言って名刺を渡した。名刺には「時空ツアー 随時受付」と書いてあった。
山田は大宇宙物産の前に降り立った。
ビルは変わっていなかった。回転ドアが変わらず回転し、警備員が変わらず挨拶し、エレベーターが変わらず混んでいた。
第三営業部のドアを開けると、同僚の川崎が「山田さん、昨日有休でしたね。どこか行ったんですか」と聞いた。
山田は少し考えた。
「ちょっと、遠くに」
「どのくらい遠くですか」
「時空を超えたくらい」
川崎は「はあ」と言って仕事に戻った。
月曜日になった。
朝礼が始まった。部長が壇上に立ち、今月の目標を語り始めた。
山田はいつもと同じように立っていた。
しかし、いつもと少し違っていた。
部長の声が、右から左に流れた。目標数字が、空中に浮かんで消えた。
山田はただ、そこに立っていた。
窓の外では、季節が来るべき時に来て、するべきことをしようとしていた。
朝礼は一時間で終わった。
山田は自席に戻り、コーヒーを買いに行った。自動販売機の前で、百円玉を一枚落とした。
かがんで拾った。
立ち上がって、コーヒーを買った。
温かかった。
エピローグ 無名の美学
山田一郎のその後について、特筆すべきことは何もない。
彼は翌年も係長であった。昇進しなかった。降格もしなかった。
報告書は相変わらず上司に三回直された。
コピー機のトナーは相変わらず彼が交換した。
ただ、ひとつだけ変わったことがある。
彼は、昼休みに十分だけ、窓の外を見るようになった。
空が青い日は空を見た。曇りの日は雲を見た。雨の日は雨粒を見た。
何かを考えるわけではなかった。何かを感じようとするわけでもなかった。
ただ、見ていた。
同僚たちは、山田係長が最近なんか変わったと言いあった。何が変わったかは、誰も説明できなかった。
悪い変化ではなかった、ということだけは、みんなが感じていた。
ある日の昼休み、部下の鈴木くんが山田の隣に座り、「山田さんって、禅とか興味あるんですか」と聞いた。
山田は少し考えた。
「どうだろうね」と彼は言った。「よくわからないけど、まあ、いいんじゃないかな」
鈴木くんは「はあ」と言った。
それで十分だった。
窓の外では、季節がまた、来るべき時に来ようとしていた。
誰にも褒められず、誰にも気づかれず、それでも確かに、来ようとしていた。
── 了 ──
あとがき
最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
山田係長は、
最後まで係長のままでした。
世界を救うこともなく、
超能力に目覚めることもなく、
会社を辞めて旅に出ることもありません。
翌年も、
たぶん同じ席に座り、
同じコピー機のトナーを交換していると思います。
けれど私は、
それでいいのだと思っています。
人は必ずしも、
劇的に変わる必要はない。
ただ、
少しだけ軽くなるだけで、
景色は変わる。
昼休みに空を見るようになる。
冷めたコーヒーで笑える。
「分からない」と言える。
それだけでも、
人生は少し呼吸しやすくなるのかもしれません。
禅について書こうと思って始めた物語でしたが、
書き終わってみると、
これは「頑張りすぎた人の休憩所」みたいな話になりました。
もし読後、
窓の外を少し見たくなったなら、
あるいは、
今日は少しゆっくりコーヒーを飲もうと思えたなら、
とても嬉しく思います。
季節は、
来るべき時に来て、
するべきことをし、
去るべき時に去っていきます。
私たちも、
まあ、それでいいのかもしれません。

