チョウチョの心ばかり、

あるいは宇宙規模のブロッコリー黙示録



〜まえがき〜

人は時々、
「優しさ」が世界を良くすると信じたくなる。

虫も命。
自然と共生。
無農薬。
分かち合い。

どれも間違いではありません。

けれど世の中には、
“ほどほど”というものがあります。

本作は、
定年後の男が、
ほんの少しの善意から始めた家庭菜園が、
なぜか宇宙規模の外交問題へ発展してしまう、
極めて迷惑で、
どこか愛おしい物語です。

ブロッコリーを育てたことがある人なら、
きっと一度は思うでしょう。

「まあ、葉っぱくらいなら」

――その瞬間、
宇宙の歴史が動き始めるのです。

どうぞ肩の力を抜いて、
巨大ブロッコリー黙示録の世界をお楽しみください。



【登場人物】

• カズヒサ(62):定年後、のんびりと隠居生活を送る男。若い頃に少しだけ「宇宙言語学」をかじったが、今はただのマイペースな菜園家。座右の銘は「まあ、道楽だから」。

• アオムシ3号(モンシロ星人・分隊長):カズヒサのブロッコリーに不時着(孵化)した、銀河系最恐の貪食種族。地球語(テレパシー)を操るが、地球の食文化の常識は皆無。

• 親父の幻影(マサカズ):カズヒサの脳内、あるいは庭の生垣の向こうから現れる、昭和の超現実主義・頑固園芸家。武器は「ピンセット」。

• カミさん(妻):本作の裏の支配者。巨大化していく事態にも「明日のゴミ出しまでに片付けてね」の一言で済ませる。




〜プロローグ〜

安全で美味しい我が家
カズヒサが種から育てたブロッコリーは、奇跡的な美しさだった。

庭の片隅、100円ショップで買ったプラスチックのプランター。そこで育つ緑の葉は、まるで南カリフォルニアの穏やかな波のように瑞々しく、優雅に広がっていた。

「完全無農薬、無化学肥料。これぞ大人の道楽だね」
カズヒサは、毎朝のルーティンであるコーヒーを片手に、ブロッコリーを眺めて微笑んでいた。

その時である。
五月のうららかな陽気の中を、一匹の白いチョウがひらひらと舞い降りてきた。チョウはブロッコリーの葉の裏にそっと寄り添うと、芸術的な手際で小さな、本当に小さな黄色い真珠のような卵を産み付けた。

普通の本職の農家や、カズヒサの亡き親父――生前、「虫は這い出た瞬間に握り潰せ」が口癖だった頑固一徹の男――が見れば、即座にデストロイ(駆除)の対象となる光景だ。
しかし、還暦を過ぎて世界のすべてが愛おしくなりかけているカズヒサは、顎をさすりながら呟いた。
「はてさて、どうしたものか」

無農薬と決めたのだから、手で除去するのが正解だろう。だが、これもまた一つの道楽、あるいは縁だ。
「彼らもまた、それぞれが授かった一つの命。僕ら人間とは違い、彼らは生きるために必要な分しか食べないはず。どうぞ、お譲りしましょう」

カズヒサはチョウチョに向けて「長生きせよ」と言葉を掛けた。
「まあ、僕らが欲しいのは葉っぱではなく、中央にできるブロッコリーの『実(つぼみ)』なわけだからね。葉っぱくらい、いくらでも分けてあげるさ」

このあまりにも慈悲深く、そして決定的に植物学を無視した勘違いが、銀河系の歴史を大きく塗り替える一歩になるとは、この時のカズヒサは知る由もなかった。



第1章:必要な分(限界突破の貪食)

数日後、卵は孵化し、小さな小さなアオムシたちが誕生した。

最初はミリ単位の可愛い緑の妖精だった。カズヒサは「お、食べてる食べてる」と、まるで孫の成長を見守るかのように目を細めていた。

しかし、一週間が経過した頃、カズヒサの「地球人基準の優しさ」は音を立てて崩壊し始める。

彼らの成長スピードは、明らかに地球の生物学的限界を超えていた。
朝、コーヒーを持って庭に出るたびに、ブロッコリーの葉が「ひと回り」小さくなっているのだ。いや、小さくなっているのではない。消えている。

「……気のせいか? 昨日まで、ここにもう一枚、サーフボードくらい大きな葉があったはずだが」
アオムシたちの食欲は、終齢幼虫に近づくにつれて幾何級数的に跳ね上がった。彼らにとっての「必要な分」とは、人間の言う「お腹いっぱい」ではない。

**【目の前にある有機物を、自らの質量が許す限界まで取り込み、細胞を爆発的に自己複製すること】**だったのだ。
バリ、バリ、バリ、バリ。

静かな住宅街に、まるでシュレッダーに厚紙を連続で通しているかのような不穏な咀嚼音が響き渡る。

見れば、体長15センチ、まるで上質のピーマンのような太さと筋肉質な艶を誇る「アオムシ」たちが、ブロッコリーの茎に鈴なりになっていた。葉っぱはすでにレースのカーテンを通り越し、魚の骨のような「葉脈」だけになっている。

「おいおい、いくら何でも食べすぎじゃないか……?」
カズヒサが冷や汗を流しながらプランターに近づいた、その時。
最も巨大な一匹――背中に「Ⅲ」のような奇妙な模様を持つアオムシが、むんずと上半身(?)を持ち上げた。そして、つぶらな複眼をカズヒサにまっすぐ向けたのだ。

『感謝する、地球の温厚なる知的生命体よ』
「……え?」

カズヒサの脳内に、直接、低く渋いバリトンボイスの通信が響いた。
それは、かつてカズヒサが大学の地学・言語学研究室で一瞬だけ研究した、宇宙共通言語(テレパシー・プロトコル)の周波数そのものだった。

『我々は銀河系第7セクター所属、モンシロ星人偵察分隊である。貴公が提供してくれたこの「超・高効率有機エネルギー貯蔵庫(ブロッコリー)」のおかげで、我が部隊は予定よりも遥かに早く最終進化(バタフライ・モード)への移行準備が整った』

カズヒサは手に持っていたマグカップを落としそうになった。
「君たち……ただの虫じゃなくて、宇宙人だったのか!?」



第2章:光合成なき絶望と「禁断の燃料」

「ちょっと待ってくれ、アオムシ3号!」
カズヒサは勝手に相手を命名し、脳内で怒鳴り返した。

「君たちは『必要な分しか食べない』と言ったな!」
『然り。我々が必要な分とは、この植物の全カロリーである。寸分の狂いもない』

「全然違ーーう! 葉っぱを全部食べられたら、光合成ができなくて、僕が楽しみにしている中央の『実』が育たないじゃないか!」

アオムシ3号は、その青緑色の頭部を小さく傾げた。そして、ブロッコリーの中心部に残された、まだゴルフボールほどの大きさの緑のモコモコを見つめた。

『……実? 貴公は、この中央の構造体を「実」と呼ぶのか?』
「そうだ。茹でてマヨネーズをつけると最高に美味い、僕らの大好物だ」

次の瞬間、アオムシ3号の全身が「ビクッ」と硬直した。周囲の他のアオムシたちも、一斉に咀嚼を止め、カズヒサを凝視した。脳内に、宇宙規模の絶叫が響き渡る。

『正気か、地球人よ!? これは「実」などではない! 我々の超空間センサーが示した数値によれば、これは高濃度に圧縮された【超空間跳躍燃料(テラ・フローレット)】だぞ!』

「は? つぼみだけど」
『つぼみだと!? 貴公らは、宇宙戦艦のワープドライブを30回連続で起動できるほどの超新星エネルギー結晶体を、マヨネーズを塗って胃袋に収めていたというのか!? 恐るべき戦闘種族だ……地球、なんて恐ろしい星だ……!』

カズヒサが良かれと思って放置していたブロッコリーは、モンシロ星人の基準では「一歩間違えれば太陽系が吹き飛ぶレベルの超危険物」だったのだ。彼らが葉っぱを猛烈に食べていたのは、この「テラ・フローレット」が暴走して爆発しないよう、周囲のエネルギー(葉)を吸収して冷却するためでもあったという。

「つまり、何かかい? 君たちが葉っぱを食べ尽くすと、その『テラ・フローレット』とやらが剥き出しになって危ないと?」

『左様だ。周囲の冷却葉(リーフ)が消失すれば、この結晶体は太陽光を直接浴びて臨界点に達する。あと3日で、この住宅街は次元の狭間に消え去るだろう』

「それは困る!」とカズヒサは叫んだ。「カミさんに『庭を爆破したら離婚』と言われているんだ!」



第3章:親父の鉄拳外交(ピンセット無双)

その時である。
ブロロロロロ……と、静かな住宅街に不釣り合いな、けたたましい排気音が響いた。

庭の生垣を大胆になぎ倒し、バックで突っ込んできたのは、見覚えのある錆びだらけの白い軽トラックだった。

運転席から降りてきたのは、ヨレヨレのステテコに麦わら帽子、そして手にはギラリと光る銀色の金属を持った老人――カズヒサの脳内精神世界から具現化した、あるいは近所の本物の頑固親父の生霊か、地球防衛軍の元秘密工作員にしか見えない「親父」だった。

「これだから素人の道楽菜園は困る! アオムシはな、こうするんだ!」
親父の手にあるのは、原始的にして宇宙最強の質量兵器**【ピンセット】**だった。

『ヒィッ! 伝説の対宇宙生物排除兵器「テ・ツミ(手摘み)」だ!』
アオムシたちが一斉にパニックを起こし、短い足をばたつかせた。
「待て、親父!」
カズヒサは咄嗟にプランターの前に立ちはだかり、両手を広げた。
「彼らも命だ! それに、彼らは我が家のブロッコリーを『安全で美味しい』と信頼して選んでくれたんだ。話し合えばわかる!」

「馬鹿者が!」親父はピンセットを鋭く突きつけた。「葉っぱがなくなったら、マヨネーズをつける本体が育たんと言っとるだろうが! 現実を見ろ、現実を! 虫を生かせば野菜が死ぬ、野菜を生かせば虫が死ぬ! これが農の鉄則だ!」
「いや、彼らは宇宙人で、その中央のやつは爆弾らしいんだ!」

「何をわけのわからんことを! 茹で時間が足りんのか!」
カズヒサ(博愛の宇宙言語学者)vs 親父(収穫至上主義の迎撃システム)vs モンシロ星人(ただ腹が減っていて、かつ絶滅の危機)。

庭の片隅で、地球の存亡を賭けた、まったく噛み合わない三つ巴の外交交渉が幕を開けた。



第4章:シェアリング・アース(不可侵条約)

「静かにしてくれ!」
カズヒサは頭を抱え、宇宙言語学の粋を集めた最大出力のテレパシーを放った。

「全員、僕の提案を聞け。これは『シェアリング・エコノミー』だ」
カズヒサはブロッコリーの構造を指差しながら、テキパキと条件を提示した。

「まず、モンシロ星人諸君。下層部にある、大きくて古い葉っぱ5枚を、君たちの『専用割譲テラス』とする。ここにあるカロリーだけで、君たちがサナギ(進化モード)になるには十分なはずだ」

『ふむ……計算中……。確かに、無駄な暴食を抑え、効率的に代謝すれば、下葉5枚でジャストフィットだ』

「ただし!」カズヒサは釘を刺した。「もし一歩でも、中央の上層葉、あるいは『テラ・フローレット(つぼみ)』に近づいてみろ。その時は、僕の後ろにいる親父のピンセットが容赦なく君たちを捕獲し、はるか彼方の『ゴミ袋(デス・ディメンション)』へ送る。いいな?」

親父はピンセットを「カチカチ」と鳴らして威嚇した。その精密な威嚇射撃のような動きに、アオムシたちは一様に震え上がった。

『……交渉成立だ、地球人カズヒサ。我々は銀河のジェントルマンだからな。約束は守る。必要以上の資源は収奪しない。上層の葉は、テラ・フローレットの冷却(光合成)のために残そう』

「よし、親父もそれでいいな?」
親父の幻影は、不満そうにフンと鼻を鳴らした。
「フン、実が採れるなら文句はねえ。だがな、マヨネーズはキューピーの450グラム入りを買っておけよ」

そう言い残すと、親父は軽トラックと共に、もやのようにパッと消え去った。

こうして、カズヒサの庭のプランターにおいて、地球・モンシロ星・昭和の親父による「ブロッコリー不可侵条約」が締結されたのである。



第5章:トランスフォームと羽ばたきの日

条約は厳格に守られた。
アオムシたちは約束通り、下の方の古い葉だけを、まるできれいに彫刻するかのように計画的に平らげていった。カズヒサが毎日「大きくなれよ」と声をかけると、彼らは前足を少しだけ上げて敬礼で応じるようになった。

そして、運命の「その時」がやってくる。
ある朝、庭に出ると、割譲された葉の上に彼らの姿はなかった。
「おや、みんなどこへ行ったんだ?」
カズヒサが探すと、アオムシ3号たちはブロッコリーを離れ、思い思いの場所に移動していた。

ある者はプラスチックプランターの縁で。ある者はエアコンの室外機の裏の、直射日光の当たらない絶妙な陰で。またある者は、カズヒサが干していたサンダルの裏で。
彼らは自らを硬い殻で覆い、静かな「サナギ(スリープ・モード)」へと移行していた。

「なるほど、ここを安全な場所と認めてくれたわけだね」
カズヒサは微笑み、サナギたちを踏まないよう、慎重に庭を歩いた。
それから数週間。ブロッコリーは、残された上層の葉でたっぷりと太陽の光を浴び、中央のモコモコを順調に大きくしていった。

そして、よく晴れた大安の朝。
パキッ、パキパキ。
庭のあちこちから、微小なキャノピー(殻)が開放される音が響いた。
サナギの中から現れたのは、かつての芋虫のような姿ではない。純白のナノ粒子でコーティングされたかのような、まばゆい羽を持つ「チョウチョ(銀河巡洋艦・成虫モード)」たちだった。

朝露を浴びて羽を乾かした彼らは、一斉に大空へと飛び立った。
そして、カズヒサの頭上を、まるで航空ショーのブルーインパルスのように美しい編隊を組んで旋回した。
『感謝する、カズヒサ。貴公の慈悲と宇宙外交能力のおかげで、我が部隊は100%の生存率で羽化に成功した。地球のブロッコリーは、実に安全で、美味しかった』

「いやあ、みんな無事でよかったよ。宇宙へ帰るのかい?」
『然り。母星へと帰還する。お礼と言っては何だが、貴公らが欲しがっていた「実(テラ・フローレット)」の成長エネルギーに、我が艦隊の余剰プラズマを照射してブーストしておいた。あれを食べて、健やかに暮らすがいい。サラバだ、地球の友よ!』

チョウチョたちは、まばゆい光の粒子を振りまきながら、大気圏を突破して宇宙の彼方へと消え去っていった。
「……行ったか。なんだか、少し寂しくなるな」
カズヒサは空を見上げ、目を細めて呟いた。
しかし、彼らが残した「お礼」の真意に気づいた時、カズヒサの感傷は一瞬で吹き飛ぶことになる。



エピローグ:茹でる鍋がない

ゆっくりと視線を庭のプランターへ戻したカズヒサは、そこに広がる光景に硬直した。

「……は?」
プランターがあった場所には、もはやプランターは見えなかった。
アオムシ3号たちが残していった「プラズマ・ブースト」のせいで、中央のブロッコリーが、信じられないスピードで巨大化(インフレーション)を起こしていたのだ。

ミシミシ、ミシミシ、ドカーーーーン!!
それはもはや野菜ではなかった。
住宅街のど真ん中に突如現れた、**【直径2.5メートル、推定重量180キロの緑の巨大要塞】**だった。
あまりの重さにプラスチックプランターは木端微塵に粉砕され、地面のコンクリートにはひびが入っている。モコモコとしたつぼみの一つ一つが、人間の頭くらいの大きさになっていた。

高濃度エネルギー植物「テラ・フローレット」が、完全に覚醒してしまったのだ。
「あなた、これどうするのよ」
いつの間にか後ろに立っていたカミさんが、腕組みをしながら冷たい声で言った。

「うちにある一番大きな寸胴鍋でも、あのつぼみ『一個』すら入らないわよ。それに、明日は燃えるゴミの日だけど、あれゴミ袋に何枚必要なの?」
「あ、いや、これはね……宇宙のチョウチョたちが、心ばかりのお礼にと……」

カズヒサは冷や汗をだらだらと流しながら、ポケットからスマホを取り出し、必死で検索を始めた。

『検索:ブロッコリー 180キロ 茹で方』
『検索:マヨネーズ ドラム缶 販売』
『検索:親父 助けてくれ』

もちろん、そんな非常識な解決策がネットに転がっているはずもない。
カズヒサは、庭を占拠する圧倒的な緑の質量を見上げながら、遠い宇宙の友へ向かって、ぽつりと本日最後のテレパシーを放った。

「……まあ、僕らが欲しかったのは、葉っぱじゃなくて実なわけだから、大成功……って、限度というものを知りなさい、モンシロ星人ーーー!!」

住宅街の平和な空に、カズヒサの悲鳴が虚しく響き渡った。
なお、この巨大ブロッコリーは、その日の夕方に近所の住民30世帯へ「お裾分け」としてノコギリで解体され、向こう三ヶ月間、町内の食卓をブロッコリー尽くしにするという、別の意味での黙示録を引き起こすことになるのだが――それはまた、別の話である。

(完)


Amazon Kindle








〜あとがき〜

最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

この物語を書きながら、
私は何度も、
「なぜブロッコリーが宇宙戦略資源になっているのだろう」
と我に返りました。

ですが、
人間というものは案外、
日常のすぐ隣にある非日常を、
平然と受け入れてしまう生き物なのかもしれません。

庭にアオムシがつく。
親父がピンセットを持って現れる。
カミさんが現実的なことを言う。

そういう極めて日本的な日常と、
銀河規模の大騒動を、
同じ温度で混ぜてみたかったのです。

そして気づけば、
この物語は
「敵を倒す話」ではなく、
「なんとか折り合いをつける話」
になっていました。

少しだけ譲り合い、
少しだけ我慢し、
少しだけ笑う。

もしかすると、
宇宙外交も家庭菜園も、
本質はそんなに変わらないのかもしれません。

もし皆様の庭先に、
やけに堂々としたアオムシが現れた時は、
どうか最初から潰さず、
一度くらい話を聞いてあげてください。

……まあ、
葉っぱは確実に減りますが。