源氏炎上!

タイムスリップ亭主の受難

〜紫式部と清少納言の間で板挟みになった男の話〜


まえがき


人生には、ときどき説明のつかない出来事が起きます。


たとえば、孫が生まれた日に、

寺の奥で不思議な籠を見つけること。


たとえば、その籠にうっかり乗り込んでしまい、

気がつけば平安時代へ行ってしまうこと。


たとえば、紫式部に「我が君」と呼ばれ、

清少納言に助け出されること。


そして、千年前の人々の想いが、

今を生きる自分の人生と、

静かにつながっていること。


本作は、

そんな「ありえない話」を通して、

家族のこと、

夫婦のこと、

言葉のこと、

そして“帰る場所”について書いた物語です。


源氏物語や枕草子を知らなくても、

どうぞ気楽に読んでください。


紫式部も清少納言も、

千年経っても案外、人間くさいのです。


もし読み終えたあと、

少しだけ背筋を伸ばしたくなったなら、

とても嬉しく思います。






第一章 孫が生まれた日、寺で籠を見た

人生というのは、まったく油断のならないものである。

田中善次郎、六十二歳。職業は元営業部長、現・完全なる無職。趣味は将棋と昼寝と、妻に内緒のビール。 身長百六十八センチ、体重は若い頃より十四キロ増えており、その増加分の内訳は脂肪が十三キロ、残りの一キロは人生の哀愁であると本人は主張している。

そんな善次郎に、ある春の朝、一本の電話が入った。

「お父さん!生まれたよ!男の子!」

娘の声は弾んでいた。電話口から赤ちゃんの泣き声も聞こえてくる。善次郎は受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。

祖父。

自分がその言葉で呼ばれる日が来たのだ。

「おい」と、善次郎は隣の部屋に向かって叫んだ。「生まれたぞ!孫が!」

妻の幸子は台所でエプロン姿のまま飛び出してきて、受話器を奪い取り、娘と号泣し始めた。善次郎は取り残されたまま、ぼんやりと窓の外を見た。春の空が、馬鹿みたいに青かった。

そうか。孫か。

善次郎は不覚にも目頭が熱くなるのを感じ、それを悟られないよう、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出した。まだ午前九時だったが、こういう日くらいは許されるはずだ。神様も祖父の朝ビールには目をつぶってくれるだろう。


その日の午後、善次郎は一人で実家のお寺へ向かった。

妻は病院へ直行したが、善次郎は「先に墓参りをしてくる」と言い置いた。これは単なる口実ではなく、本心だった。こういう慶事のときこそ、先祖に報告しなければならない。それが田中家の、というより善次郎個人の、長年の習慣だった。

田中家の菩提寺、宝光院は、駅から徒歩十五分ほどの住宅街の一角にひっそりと建っている。決して大きくはないが、境内の掃除は行き届いており、季節の花が丁寧に植えられている。住職は善次郎より十歳年下の、やたらと早口な男で、会うたびに株の話をしてくる。

善次郎が山門をくぐると、本堂の扉が大きく開け放たれていた。

珍しい。

近づくと、中から掃除機の音がする。業者らしき二人組の男が、せっせと床を磨いていた。

「すみません」と善次郎は声をかけた。「月に一度の掃除ですか」

「そうです」と作業員の一人が顔を上げた。「今日はちょうど第二水曜で。どうぞ、お気になさらず」

善次郎はお墓参りを済ませてから、ふと思い出した。

籠だ。

そういえば昔、おばあちゃんが言っていた。本堂の奥に、立派な籠があるはずだと。江戸時代に、どこかの武家の娘が嫁入りのときに乗ってきた籠で、後に宝光院に寄付されたのだと。子供の頃に一度だけ話を聞いたが、そのときは「ふーん」と聞き流してしまった。

今日は本堂が開いている。業者もいる。

善次郎は作業員に断りを入れ、本堂の奥へと進んだ。

奥の間は薄暗く、古い木の匂いがした。いくつかの什器や、古びた掛け軸、それから―――

あった。

隅に、布をかけられた大きな物体があった。善次郎はそっと布をめくった。

それは確かに、籠だった。

しかし、「籠」という言葉から善次郎が想像するような、質素な輿ではなかった。漆塗りの黒地に金の蒔絵が施され、四方に房飾りがついており、屋根の部分には鶴と松の細工が彫り込まれている。担ぎ棒は太く、重厚な造りで、当時の職人の技術と、依頼主の財力の両方が伝わってくるような代物だった。

善次郎はしばらく、それをじっと見つめた。

これに乗って、どこかの武家の娘が嫁いできた。江戸時代のどこかで、おそらく見知らぬ土地へ、この籠に揺られながら。どんな気持ちだったのだろう。緊張していたか。泣いていたか。それとも、案外けろっとしていたか。

なんだか急に、遠い昔の誰かがすぐそこにいるような気がして、善次郎は思わず手を合わせた。

孫が生まれました。男の子です。田中家は、これからも続きます。

境内に戻ると、春の風が桜をさわさわと揺らしていた。善次郎は背筋を伸ばして、空を見上げた。


夜、布団に入った善次郎は、意外なほど早く眠りに落ちた。

孫の顔を病院で見てきた後だった。しわくちゃで、赤くて、頭が少し尖っていて、それでも紛れもなく命だった。善次郎は三秒で泣いた。妻に「みっともない」と言われたが、泣くなというほうが無理だ。

そして夢を見た。

それは、ごく普通の夢の入り口から始まった。霧がかかったような、輪郭のぼんやりした空間。善次郎は自分が夢を見ていることを、なんとなく察していた。

そこへ、女が現れた。

年齢は四十前後だろうか。十二単を纏い、長い黒髪を後ろに流した、いかにも平安時代の女性という風情の人物だった。ただし顔つきは鋭く、目に強い光がある。物書きの目だ、と善次郎は根拠なく思った。

「主は」と女は言った。声は低く、よく通る。「藤原氏の御方にて候か」

善次郎は困惑した。いきなり何だ。

「いえ」と善次郎は答えた。「私は、まあ、普通の町民といいますか、サラリーマンといいますか」

「町民」と女は静かに繰り返した。「そうおっしゃいますか」

そして、微笑んだ。

その笑みが、なんとも不気味だった。知っている、とでも言いたげな、含みのある笑みだった。

「それは前世のことにて」と女は言った。「今生においては、立派な藤原氏でございましょう。それも……」

女は少し首を傾け、善次郎をじっと見た。

「藤原宣孝様で、いらっしゃいましょう」

善次郎には、その名前に心当たりがなかった。藤原宣孝。聞いたことはある気がするが、誰だったか。

考える間もなく、女はすっと善次郎の隣に寄り添ってきた。

「我が君」と女は言った。「お待ちしておりました」

善次郎は固まった。

これは、まずい。

直感的にそう思った。六十二年の人生経験が、全力で警報を鳴らしていた。この状況は、何か非常にまずい。

「あの」と善次郎は口を開いた。「失礼ですが、あなたは……」

「紫式部にございます」と女は言った。

善次郎の脳内で、中学の国語の授業が猛スピードで再生された。

紫式部。源氏物語の作者。平安時代の女流作家。藤原宣孝の妻。

藤原宣孝の、妻。

「あのですね」と善次郎は額に汗をかきながら言った。「私は、その、実は清少納言が……」

瞬間、紫式部の顔色が変わった。

「出て行けーーーッ!」

それは、千年の文学的品格を完全に投げ捨てた、純粋な怒声だった。


第二章 タイムマシンは籠だった

夢から覚めた善次郎は、天井を見つめながら五分間、微動だにしなかった。

紫式部に怒鳴られた余韻が、まだ耳の奥に残っている。「出て行けーーーッ」という、あの雄叫び。あれは文学史上、最も品のない叫び声だったのではないか。少なくとも善次郎の人生において、あれほどの勢いで怒鳴られたのは、三十年前に当時の上司・加藤部長に「お前の企画書は小学生以下だ!」と言われて以来のことだった。

しかし夢の続きも、なかなかのものだった。

紫式部に追い出された善次郎が、とぼとぼとその場を後にすると、なぜか次の瞬間には別の場所に立っていた。夢とはそういうものだ。場所の移動に理由はない。気がつけば、少し明るい、縁側のある部屋の前にいた。

そこに、もう一人の女がいた。

こちらも十二単を着ているが、雰囲気がまるで違う。表情が生き生きとしており、目がきらきらしており、なんというか、全体的に「面白いことが大好き」という気配が全身から滲み出ている。

「あらま」と女は言った。「我が君、どうなさいましたか?ずいぶんと青い顔をされて」

「いや、その」と善次郎は言った。「カクカクシカジカで」

「まあ」と女は言った。眉がぴくりと動いた。「紫式部が?」

「はい」

「あの女が我が君に向かって」

「出て行けと」

しばらくの沈黙があった。

それから女は、すうっと息を吸い込み、

「おのれ、紫式部ーーーッ!」

と叫んだ。

これが清少納言か、と善次郎は思った。枕草子の作者。平安随一の才女。そして紫式部とは犬猿の仲として名高い。

その後の展開は、善次郎の手に負えなかった。どこからともなく紫式部が現れ、清少納言と対峙した。二人は最初こそ古典的な言い回しで応酬していたが、五分と経たないうちに口調が崩れ始め、十分後には「あなたの文章は冗長よ」「あなたのは薄っぺらい」「源氏物語のあの場面は明らかに構成ミス」「枕草子の第何段は意味不明」という、完全に文学論争の様相を呈してきた。

善次郎には口を挟む余地がまったくなかった。

善次郎はそっと、その場を抜け出した。夢の中で逃げるというのも妙な話だが、とにかく善次郎はひたすら歩いて、気がつくと自宅の玄関前に立っていた。ほっとして扉を開けると、居間におばあちゃんが座っていた。

おばあちゃんは、十二年前に他界している。

しかし夢の中のおばあちゃんは、善次郎が覚えているとおりの顔で、にこにこと微笑んでいた。

「貴方は町民ではないわよ」とおばあちゃんは言った。「武家の血が入ってるの」

「えっ」

「ほら、昨日お寺で見たでしょ。善次郎の祖母は、あのお籠に乗って嫁いできたのよ」

「ああ、あれか!」

そこで目が覚めた。


病院から帰ってきた夕方、善次郎は思い立って、もう一度宝光院へ向かった。

特に理由はない。強いて言えば、もう一度あの籠を見たかった。朝の夢のせいで、なんとなく気になっていた。

住職に声をかけると、快く本堂の鍵を貸してくれた。

「善次郎さん、珍しいですね。昼に来て、また夕方に」と住職は言った。「あ、そういえばNISAの話なんですが、最近オルカンが――」

「また今度」と善次郎は素早く言い、本堂へと向かった。

薄暮の光の中、本堂の奥の間は昼よりもさらに暗かった。善次郎はスマートフォンのライトを使って、例の籠の前に立った。昼間と変わらず、黒漆に金の蒔絵。重厚な担ぎ棒。屋根の鶴と松。

善次郎はしゃがみ込み、籠の扉に手をかけた。引き戸式になっている。昼間は気づかなかった。少し力を入れると、思いのほかするりと開いた。

中は、人一人が膝を抱えて座れるほどの空間だった。善次郎はライトで照らし、座面の隅に小さな金属製のプレートを見つけた。そこにはこう書かれていた。

―――起動方法:内部に乗り込み、行先を明確に念じ、取っ手を三回叩くこと。

「なんだこれ」と善次郎は声に出した。江戸時代の籠に、そんな説明書きがあるはずがない。しかもフォントが、なんとなく現代的だ。

善次郎は首を傾げ、もう少しプレートを調べようとして、その拍子に手が滑り、体ごと籠の中に入ってしまった。そのまま、取っ手に手をついた。

三回、こつこつこつ、と音がした。

そのとき善次郎が念じていたのは「痛い、手が痛い、明日は筋肉痛かな」であったが、その直前の一秒間だけ、なぜか「あの夢の場所、平安京ってどんなところだろう」と考えていた。

籠が、光った。


善次郎が声を出す間もなかった。

光は一瞬で全身を包み、次の瞬間、轟音がした。地面が揺れた。いや、地面ではなく空間そのものが揺れている。善次郎は籠の中で膝を抱え、目をぎゅっとつぶった。

それから、しん、と静かになった。

善次郎はそっと目を開けた。籠の引き戸の隙間から、見知らぬ景色が広がっていた。舗装されていない、土の道。道の両側に、木造の建物が並んでいる。どこからか牛の鳴き声がする。

善次郎は引き戸をそっと開け、外に出た。空気が違う。においが違う。土と木と、それから何か焚いているような煙のにおい。空は夕焼けで、茜色に染まっている。その色の深さが、どこか現代とは違う気がした。

そのとき、背後から声がした。

「目的地は平安京、西暦一〇〇〇年前後。現在位置は京の都、大内裏付近。乗客の到着を確認しました」

善次郎は振り返った。籠が喋っていた。正確には、籠の内側のプレートから、音声が出ていた。声は低く、やや事務的で、そして何故か微妙に感じが悪かった。

「な」と善次郎は言った。「なんだお前は」

「当籠のAIナビゲーションシステムです」と籠は言った。「名称は特にありません。江戸時代に製造、その後各所を転々とし、宝光院に寄贈されました。長らく起動しておりませんでしたが、本日、条件が揃ったため自動起動しました」

「条件?」

「乗客が藤原宣孝の転生者であること。並びに行先を念じた状態で取っ手を三回叩くこと。両条件が本日初めて同時に成立しました」

「ちょっと待ってくれ」と善次郎は言った。「藤原宣孝って、紫式部の旦那の?」

「そうです」

「私が転生者?」

「遺伝子パターン及び魂の固有振動数から判定しています。精度は九十七パーセントです」

「残り三パーセントは?」

「別人の可能性です」

「三パーセントはかなりでかいぞ」

「誤差の範囲です」と籠は涼しく言った。「ほぼ間違いなく藤原宣孝です」

善次郎は額に手を当てた。六十二年の人生で、これほど意味のわからない状況に置かれたことはなかった。

「帰れるのか」と善次郎は聞いた。とにかく、まずそこだ。

「帰れます」と籠は言った。「ただし」

「ただし?」

「この時代に来た目的を果たさないと、帰還機能がロックされます」

「目的? 私は目的なんか持ってないぞ。うっかり入ってしまっただけだ」

「システム上は『平安京での未解決の縁を清算すること』と登録されています」

「誰が登録した」

「製造元です」

「製造元はどこだ」

「企業秘密です」

善次郎は深呼吸をした。落ち着け。落ち着くんだ善次郎。孫が生まれた翌日に平安時代にタイムスリップしてしまったが、落ち着くんだ。

そのとき、通りの向こうから牛車が来るのが見えた。善次郎は慌てて道の端に寄った。牛車はゆっくりと近づいてきた。御簾が下ろされており、中に誰かが乗っているようだ。

牛車が通り過ぎた瞬間、御簾がわずかに開いた。中から、鋭い目が善次郎を見た。

善次郎は固まった。見覚えのある目だった。正確には、昨晩の夢で見た目だった。

牛車が止まった。御簾が上がった。

「そこの御方」と声がした。「もしや……藤原宣孝様にておわすか?」

善次郎は逃げようとした。しかし足がすくんで動かなかった。

「やはり!」

牛車から降りてきた女は、昨晩の夢の中とまったく同じ顔をしていた。十二単。長い黒髪。物書きの鋭い目。

紫式部が、そこにいた。しかも今度は、夢ではなかった。


第三章 紫式部の罠

善次郎の人生において、「逃げる」という選択肢は常に最後の手段だった。

営業部長時代、取引先が無理難題を押しつけてきても、逃げなかった。妻の幸子が「リビングのソファを新しくしたい」と言い出したとき、値段を聞いて逃げたくなったが、逃げなかった。娘の結婚相手の挨拶で、相手の父親がやたらと威圧的な人物だったときも、逃げなかった。

しかし今、善次郎は全力で逃げたかった。なぜなら、目の前に紫式部がいたからだ。しかも現実の、本物の、生身の紫式部が。夢の中ならまだよかった。目が覚めれば終わる。だが今は違う。

「藤原宣孝様」と紫式部は言った。「お久しゅうございます」

声が低い。静かだが、有無を言わさぬ圧がある。

「あ、あの」と善次郎は言った。「人違いではないでしょうか」

「いいえ」と紫式部は即座に言った。「間違いございません」

「私は田中善次郎と申しまして、令和時代の――」

「さあ、参りましょう」と紫式部は言った。善次郎の言葉を完全に無視した。「屋敷へご案内いたします。長旅でお疲れでございましょう」

紫式部は善次郎の袖をつかんだ。その握力が、尋常ではなかった。細腕のどこにこれほどの力があるのか。善次郎は抵抗を試みたが、まったく動けなかった。これが千年の恨みというものか。いや恨みではなく愛情なのかもしれないが、どちらにしても怖い。

善次郎は引きずられるようにして、牛車の方へ連れて行かれた。


紫式部の屋敷は、こぢんまりとしているが、品のある造りだった。庭には梅の木があり、縁側から見ると、夕暮れの空を背景にその枝がくっきりと浮かび上がっていた。なるほど、こういう景色の中で源氏物語を書いたのか、と善次郎は場違いにも感心した。

屋敷の中に通された善次郎は、畳に座らされ、女房たちに囲まれた。全員が一様に善次郎を興味深げに眺めており、その視線が少々居心地悪かった。

「宣孝様のお着物が」と女房の一人が言った。「随分と変わった意匠にございますね」

善次郎はユニクロのフリースと、ジーパンを着ていた。平安時代では確かに奇異に映るだろう。

「これは、遠い国の衣装で」と善次郎はごまかした。「中国の、その、唐の向こうのさらに向こうの国の」

「まあ」と女房たちはどよめいた。「異国の方でございましたか」

「宣孝様は昔から変わったものがお好きでしたから」と紫式部が言った。静かに、しかし確信を持って。「少しも驚きません」

紫式部は善次郎の正面に座り、じっとこちらを見ている。その目の中に、様々な感情が混在しているのが見えた。喜びと、安堵と、それからどこかに怒りのようなものも。

「あの」と善次郎は慎重に言葉を選びながら言った。「紫式部殿、私はその、本当に宣孝様ではなくて――」

「魂は同じでございます」と紫式部は言った。「姿は変われど、魂の色は変わりません。私にはわかります」

「魂の色?」

「私は長年、人の心を書いてまいりました。源氏物語は、人の魂を見つめ続けた物語にございます。その私が見間違えるはずがない」

これは困った、と善次郎は思った。相手の論理が、なまじ筋が通っているだけに反論しにくい。

「では、仮に」と善次郎は迂回することにした。「仮に私が宣孝様だとして、ご用件は何でしょうか」

紫式部の表情が、わずかに変わった。

「用件」と紫式部は繰り返した。「千年待ちましたのに、用件とおっしゃいますか」

「いや、その言い方は語弊が――」

「よろしゅうございます」と紫式部は言った。すっと背筋を伸ばし、表情を整えた。「申し上げます。宣孝様が身罷られてから、私は源氏物語を書き続けました。あなた様への想いを、すべてあの物語に込めました。光源氏は、あなた様です。いくつかの欠点も含めて」

「その物語を」と紫式部は続けた。「あなた様にお読みいただきたいのです。千年越しに」

善次郎は瞬きをした。「源氏物語を、私に?」

「全五十四帖」と紫式部は言った。にっこりと微笑みながら。

善次郎の背中に、冷たいものが走った。全五十四帖。現代語訳でも数千ページある大作だ。原文で読んだら、何ヶ月かかるかわからない。

「お時間でしたら、たっぷりございますよ」と紫式部は言った。笑顔が、全く崩れなかった。

善次郎は悟った。これは罠だ。平安時代の罠だ。千年の歳月をかけて、ゆっくりと仕掛けられた、文学的な罠だ。


その夜、善次郎は屋敷の一室に通された。寝床の用意がされており、女房たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。善次郎は丁寧に礼を言いながら、内心では脱出のことを考えていた。

布団に入り、天井を見上げる。現代の天井と違い、木組みがそのまま見えている。

まったく、なんてことになってしまったのだ。孫が生まれた翌日に、平安時代にタイムスリップして、紫式部に捕まって、源氏物語を五十四帖読まされそうになっている。これを誰かに話しても、絶対に信じてもらえない。

そのとき、縁側の向こうで物音がした。善次郎は身を起こした。縁側の障子が、ほんの少し開いた。

外が暗いため、最初は何も見えなかった。しかしやがて、月明かりの中に、人の影が見えた。女の影だった。

「……田中の御方にておわしますか」と影は言った。声を潜めた、ひそひそ声だった。

「そうだが」と善次郎も声を潜めて答えた。

「清少納言にございます」と影は言った。「少々、よろしゅうございますか」

善次郎は飛び起きた。思わず「おおっ」と声が出そうになり、慌てて口を押さえた。

清少納言。夢で会った、もう一人の才女。枕草子の作者。そして紫式部のライバル。

「どうしてここに」と善次郎は小声で聞いた。

「紫式部の屋敷の周辺に、知人がおりまして」と清少納言は言った。「見慣れぬ御方が連れ込まれたと聞いて、参りました。もしやと思って」

「とにかく」と清少納言は続けた。「あなた様は、紫式部に捕まっておいでですか」

「捕まっている、というか、一応客として――」

「源氏物語を読まされそうになっておいでですか」

「なんでわかるんだ」

「あの女のやることはわかります」と清少納言はきっぱりと言った。「本当に五十四帖読まされますから」

「やっぱりそうなのか」

「私が助けて差し上げましょう」と清少納言は言った。

「お願いします」と善次郎は言った。

「では、夜明け前に」と清少納言は言った。「支度をしておいてください。籠はこちらで用意します」

「籠は私のものがあって――」

「わかっています」と清少納言は言った。「街道に置いてある、変わった籠でしょう。もう確保してあります」

「え、もう?」

「手回しは良い方にございます」と清少納言はさらりと言った。そして障子をそっと閉めた。

善次郎は布団の中に戻り、また天井を見上げた。しかしとにかく、夜明け前に脱出するしかない。

善次郎は目を閉じた。眠れるわけがないと思ったが、意外と三分で眠った。六十二年の人生で培った、どんな状況でも眠れる体質は、こういうときに発揮される。


夜明け前、善次郎は目を覚ました。

善次郎はそっと起き上がり、縁側へと向かった。障子を開けると、外はまだ薄暗く、空の東の端がわずかに白み始めていた。

庭に、清少納言の影があった。そしてその隣に、あの黒漆の籠が置かれていた。

「お早い」と清少納言はひそひそ声で言った。

二人は音を立てないよう、庭を横切った。

屋敷の門に近づいたとき、

「どちらへ参られますか」

という声がした。低く、静かで、しかし空気を切り裂くような声だった。

善次郎と清少納言は、同時に固まった。

振り返ると、屋敷の縁側に、紫式部が立っていた。夜着のままで、髪を下ろし、手に蝋燭を持っている。その蝋燭の炎が、風もないのに揺れていた。

紫式部の目が、ゆっくりと清少納言へ向いた。

「……少納言」と紫式部は言った。「あなたでしたか」

「あら式部」と清少納言は、声を潜めるのをやめて言った。「おはようございます」

「おはよう、ではございません」

「では何と申し上げればよろしいですか」

「なぜここにいるのですか」

「散歩にございます」

「嘘をおっしゃい」

「では正直に」と清少納言は言った。「この御方を助けに参りました。あなたが源氏物語を五十四帖読ませようとしているから」

紫式部の眉が、ぴくりと動いた。「それの何が悪いのですか。名作ですよ」

「名作かどうかは置いておいて」

「置いておかないでください」

「この御方には、帰る場所がおありです」と清少納言は言った。「千年後の世界に、生まれたばかりのお孫さんがいらっしゃるのです」

紫式部の目が、善次郎に向いた。「孫?」

「はい」と善次郎は言った。「昨日、孫が生まれました。男の子で」

紫式部はしばらく、何も言わなかった。蝋燭の炎だけが、静かに揺れていた。

「…………そうですか」とやっと言った。「孫が。それは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「……源氏物語は」と紫式部はぽつりと言った。「千年後の世界でも、読まれておりますか」

「読まれています」と善次郎は言った。「学校の授業でも習いますし、現代語訳もたくさん出ています。映画にもなりました」

「映画?」

「えーと、絵巻物の、動く版です」

紫式部は目を細めた。「千年、読まれ続けているのですね」

「はい」

紫式部は少しの間、夜明けの空を見上げた。それから、すっと善次郎に視線を戻した。

「では」と紫式部は言った。「お帰りなさいませ。孫御のそばに、おいでなさいませ」

「よ、よろしいのですか」

「よろしゅうございます」と紫式部は言った。ただし、そこで目が清少納言に向いた。「ただし、あなたは関係ないでしょう、少納言」

「え、私ですか」

「あなたは何しに来たのです」

「ですから散歩に――」

「嘘をおっしゃい」

清少納言と紫式部の間に、再び火花が散り始めた。善次郎はその隙に、籠へと向かった。

「おかえりなさいませ」と籠が言った。「ずいぶんと早かったですね」

「早いほうがいい」と善次郎は言った。「帰れるか?」

「目的の達成状況を確認します……七十三パーセントです」

「七十三? 百じゃないのか」

「残り二十七パーセント、未達成の縁がございます」

「とりあえず帰れるか」

「七十三パーセントでも帰還は可能です。ただし残り二十七パーセントは、宿題として持ち越されます。後日、何らかの形で清算されます」

「曖昧すぎるぞ」

「仕様です」と籠は言った。「では帰還します。取っ手をお持ちください」

外では、まだ清少納言と紫式部が言い合っている声がした。

「あなたの枕草子は日記ではありませんか」

「源氏物語は長すぎます」

「長さは豊かさです」

「冗長さとも言います」

籠が光った。二人の声が、遠ざかっていった。轟音。空間が揺れる。善次郎はぎゅっと目をつぶった。

次に目を開けたとき、薄暗い木の香りのする部屋にいた。宝光院の、本堂の奥の間だった。

善次郎は籠から這い出した。膝が少し痛かった。外に出ると、境内には誰もいなかった。空は白み始めており、鳥の声が聞こえた。

善次郎は手を合わせ、空を見上げた。令和の空は、平安の空と同じ色をしていた。


第四章 宿題の正体

家に帰った善次郎は、シャワーを浴び、朝食を食べ、妻の幸子に「どこ行ってたの、こんな早くから」と言われた。

「ちょっと散歩に」と善次郎は答えた。

「また寺?」

「まあ、その辺を」

幸子はそれ以上追及しなかった。長年の結婚生活で培った、夫の不審な行動を深掘りしないという、夫婦円満の知恵である。

善次郎は新聞を広げながら、コーヒーを飲んだ。

平安時代から帰ってきた翌朝の、いつもと変わらない朝の光景だった。

しかし善次郎の頭の中では、籠のAIが言った言葉が、ぐるぐると回っていた。

――残り二十七パーセントは、宿題として持ち越されます。

いったい何が未解決なのか。紫式部には一応許してもらった。清少納言とも一応話した。おばあちゃんの夢のメッセージも受け取った。あとは何が残っているというのか。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

「もしもし」

「お父さん? 孫の名前、決まったよ」

娘の声だった。

「なんていう名前にしたんだ」

「源くん」

善次郎は、コーヒーカップを落としそうになった。

「……源?」

「うん。旦那が源氏物語が好きでね。画数もいいし、響きもいいし、って」

善次郎はしばらく黙った。

源。

源氏物語の、源。

光源氏の、源。

紫式部が、千年かけて仕掛けた罠の、最後のひとつがここにあった。

「お父さん? どうしたの」

「いや、いい名前だと思って」と善次郎は言った。「とても、いい名前だ」

電話を切った後、善次郎はしばらくソファに座ったまま、動かなかった。

孫の名前が、源くんか。

ふっ、と笑いが漏れた。

やられた、と善次郎は思った。完全に、千年越しに、やられた。紫式部め。


その日の午後、善次郎は再び宝光院へ向かった。

本堂に入り、奥の間へ。あの籠の前に立った。

「おい」と善次郎は声をかけた。

籠は、しばらく黙っていた。

「……聞こえておりますか」と、ようやく籠が言った。

「聞こえてるか、じゃない。宿題の二十七パーセントは何だ」

「解決されました」と籠は言った。

「え?」

「本日、乗客のお孫様の命名が完了しました。名前に『源』の字が含まれることを確認。これをもって、藤原宣孝様と紫式部様の未解決の縁、正式に清算されました。達成率、百パーセント」

善次郎は目を丸くした。

「孫の名前が、宿題だったのか」

「そのように設定されておりました」

「誰が設定した」

「企業秘密です」

「お前は本当に企業秘密が好きだな」

「仕様です」

善次郎はため息をついた。そして、小さく笑った。

「紫式部め」と善次郎は言った。「したたかな女だ」

籠は何も言わなかった。

善次郎は手を合わせ、籠に向かって言った。

「ありがとう。世話になった」

「こちらこそ」と籠は言った。「千年ぶりの起動でしたが、無事に任務を完了できました」

「これからどうするんだ、お前は」

「ここにおります」と籠は言った。「宝光院の奥の間に。誰かがまた、うっかり乗り込んでくるまで」

「うっかり、は余計だ」

「失礼しました。乗客が現れるまで」

善次郎は立ち上がり、布をかけ直した。黒漆に金の蒔絵。屋根の鶴と松。

立派な籠だ、と善次郎は改めて思った。

江戸時代に製造され、平安時代と令和をつなぎ、孫の誕生に立ち会った、とんでもない籠だ。


第五章 清少納言からの手紙

それから三日後、善次郎の枕元に、一通の手紙が置かれていた。

封筒ではない。巻物だ。細い紐で結ばれた、薄い紙の巻物。

善次郎は目を疑った。昨晩、確かに枕元には何もなかった。幸子が置いたわけでもないだろう。巻物なんてものを幸子は持っていない。

恐る恐る紐を解いて広げると、流麗な筆で、平仮名が連なっていた。

読める。なぜか読める。平安時代の仮名文字なのに、善次郎には意味が理解できた。

そこにはこう書かれていた。

「我が君へ。このたびは大変なご迷惑をおかけいたしました。式部のことは御容赦ください。あれでなかなか寂しがり屋にございますから。孫御の名前、聞き及びました。源くん、よい名にございます。春はあけぼの、とはよく申しますが、命の誕生もまた、あけぼのの清々しさにございますね。どうかお元気で。 清少納言より」

善次郎は巻物を読み終えて、しばらくそのまま座っていた。

春はあけぼの。

枕草子の、冒頭の言葉だ。

清少納言は、孫の誕生を、あけぼのに例えてくれた。

善次郎は静かに、その巻物を折り畳んだ。捨てるのは惜しかった。桐の箱にでも入れて、大事にしまっておこうと思った。

そしてふと思った。もしかして紫式部からも、何か来るのではないか。

しかし紫式部からは、何も来なかった。

一週間待っても、二週間待っても。

来ないのか、と善次郎がやや拍子抜けした頃、娘から電話があった。

「お父さん、源くんね、昨日初めてちゃんと笑ったよ」

「そうか」と善次郎は言った。

「可愛かったよ。目がね、きらきらしてて」

善次郎はその夜、夢を見た。

霧の中に、紫式部が立っていた。

今回は怒っていなかった。ただ静かに立って、こちらを見ていた。

「源くんは」と紫式部は言った。「きっと、ものを書く子になりますよ」

それだけ言って、紫式部は消えた。

善次郎は翌朝目が覚めてから、その夢のことを誰にも話さなかった。

ただ心の中で思った。なるほど、それが紫式部からのメッセージか、と。

手紙よりも、夢の中で告げる方が、いかにも紫式部らしい。


第六章 住職とNISAと平安時代

それからしばらく、善次郎の生活は平穏だった。

孫の源くんは順調に育っており、善次郎は週に一度は病院へ、やがて退院してからは娘の家へと顔を出した。源くんは日を追うごとに表情が豊かになり、善次郎を見ると笑うようになった。もっとも、この時期の赤ちゃんは誰を見ても笑うのだが、善次郎には源くんが特別に自分を認識して笑っているように思えた。祖父というのは、こういう錯覚を当然のように信じる生き物だ。

一方、宝光院の住職は、相変わらず株の話をしてきた。

ある日、善次郎が墓参りに来ると、住職は境内で待ち構えていたかのように現れ、「善次郎さん、オルカンの積立を増やすべきか悩んでいるんですが」と言い出した。

「住職」と善次郎は言った。「少し話があるんですが」

「NISAの話ですか」

「違います」

住職は少し残念そうな顔をしたが、本堂に上げてくれた。お茶を出しながら、「何でしょう」と聞いた。

「奥の間の籠のことなんですが」と善次郎は言った。「あれは、普段から鍵をかけておいた方がいいと思います」

「はあ」と住職は言った。「なぜですか」

善次郎は少し考えてから、言った。

「うっかり乗ってしまうと、困ったことになるかもしれないので」

住職はしばらく善次郎を見た。それから、「善次郎さん、乗ってしまいましたか」と言った。

「え」

「あの籠に」

善次郎は驚いた。「知ってるんですか」

「先代の住職から聞いています」と住職は言った。お茶をひとくち飲んで、続けた。「あれは普通の籠ではないと。たまに、乗り込んだ人間が一晩消えることがあると」

「一晩消える……」

「先代の話では、五十年ほど前にも一人。檀家の老婆が、朝早く本堂に入って、気がついたら翌朝になっていたと。本人は一晩平安時代にいたと主張したそうですが、先代は認知症が始まったのだと思っていたようで」

善次郎は、その老婆のことを思った。五十年前に、一人で平安時代に行ってしまったのか。それは大変だっただろう。

「鍵は、かけておきます」と住職は言った。「ただ、あの籠が選んだ人間には、鍵など関係ないようですが」

「どういうことですか」

「先代も鍵をかけていたんです。それでも老婆は入っていたので」

善次郎はなるほど、と思った。あの籠は、乗せたい人間を乗せるのだ。企業秘密の塊のような代物だ。

「ところで」と住職は言った。目がきらりと光った。「善次郎さん、向こうで何か聞きましたか。平安時代の、経済事情とか」

「聞いてません」

「貨幣の流通とか」

「聞いてません」

「藤原氏の財政基盤とか」

「それをNISAの何に役立てるつもりですか」

住職はにこにこしたまま、「研究です」と言った。

善次郎はお茶を飲み干し、立ち上がった。


第七章 美女大戦争、決着

夏になった。

源くんは寝返りを打てるようになり、善次郎は大喜びした。たかが寝返りだが、初孫の初寝返りというのは、それはもう一大事である。善次郎はスマートフォンで十二枚写真を撮り、妻と娘にそれぞれ送り、その後しばらく一人でにやにやしていた。

そんな夏のある夜、善次郎はまた夢を見た。

今度は二人、同時に現れた。

紫式部と清少納言が、向かい合って座っていた。

場所は、どこかの広い庭だった。縁側があり、池があり、月が水面に映っている。なんとも風雅な場所だが、その場の空気は風雅とはほど遠かった。

二人の間に、相当の緊張感が漂っていた。

善次郎は夢の中で、ああまたか、と思った。

「あなたは」と紫式部が言った。「この方に余計なことを吹き込んだでしょう」

「余計なこととは」と清少納言が言った。「私はただ、真実を申し上げただけです」

「源氏物語を五十四帖読むのが拷問だと、吹き込んだでしょう」

「拷問とは申しておりません。長すぎると申したまでです」

「長さは豊かさです!」

「冗長さです!」

善次郎は、二人の間に割って入った。

「ちょっと待ってください」

二人が同時に善次郎を見た。

「あなた方、千年間ずっとこんな調子で言い争っているんですか」

紫式部と清少納言は、同時に黙った。

「千年ですよ。千年、同じことで言い争って、疲れませんか」

「疲れません」と二人は同時に言った。

声が揃ったことに、二人は互いに驚いたらしく、少しの間お互いを見た。それからほぼ同時に、視線をそらした。

善次郎は、その様子を見て、なんとなく分かった気がした。

この二人は、仲が悪いのではなく、ただただ、お互いを強く意識しているのだ。千年間、意識し続けている。それは、ある意味で、とても深い関係だ。

「紫式部殿」と善次郎は言った。「源氏物語は、本当に素晴らしい作品です。千年後の世界でも、多くの人が読み、感動しています。それはあなたが、真剣に書いたからです」

紫式部は、少し目を伏せた。

「清少納言殿」と善次郎は続けた。「枕草子も、同じです。春はあけぼの、という言葉は、千年後の子供たちも学校で覚えます。あなたの言葉が、千年を生きています」

清少納言は、少し顔を赤らめた。

「お二人とも」と善次郎は言った。「同じ時代に生きて、同じように言葉を愛して、それがどちらも千年残った。それは、奇跡のようなことではないですか」

しばらく、沈黙があった。

それから紫式部が、ゆっくりと口を開いた。

「……枕草子の、第一段は」と紫式部は言った。「嫌いではありません」

清少納言は目を丸くした。

「そ、そうですか」と清少納言は言った。「源氏物語の、桐壺の巻は……悪くないと思います」

紫式部も、少し目を丸くした。

二人はしばらく、お互いを見た。

それから、二人同時に、ふいっとそっぽを向いた。

善次郎は思わず笑った。

これが、千年の決着か。

大した決着だ、と善次郎は思った。これだから文学者というのは、可愛いらしい。


第八章 藤原宣孝の記憶

秋になった。

源くんはお座りができるようになり、善次郎はまた大喜びした。

ある日の夕方、善次郎は一人で縁側に座り、庭を眺めていた。妻は買い物に出かけており、家の中は静かだった。

風が吹いて、庭の柿の木が揺れた。

そのとき、善次郎の中で、何かがふわりと浮かんだ。

記憶、というほど確かなものではない。感覚、というほど薄いものでもない。それはちょうど、夢と現実の間にあるような、曖昧なものだった。

牛車に乗っている。京の都の道を、ゆっくりと揺られながら。

御簾の向こうに、秋の景色が流れていく。黄色く色づいた木々。空の青さ。

向かう先には、小さな屋敷がある。そこに、一人の女が住んでいる。

物を書く女だ。夜中でも灯をともして、何かを書いている。あの女の書くものは、いつも本当のことを書いている。

自分は、あの女のことが、好きだった。

善次郎は、ぱちっと目を開けた。

庭の柿の木が、夕風に揺れていた。

善次郎はしばらく、その揺れを見つめた。

藤原宣孝は、紫式部のことを、好きだったのだ。善次郎の中に残った、かすかな残像がそう言っていた。

当たり前と言えば当たり前だ。夫婦なのだから。しかしその「好き」は、もっと純粋なものだった。物を書く彼女を、書き続ける彼女を、ただそのままに、好きだった。

善次郎は、妻の幸子のことを思った。

三十五年間、一緒にいる。喧嘩もした。すれ違いもあった。それでも、こうして一緒にいる。

幸子は、善次郎が平安時代に行ったことを知らない。知ったとしても、信じないだろう。

だがそれでいい、と善次郎は思った。

大事なことは、隣にいることだ。藤原宣孝が紫式部の隣にいたように。

善次郎は立ち上がり、台所へ向かった。買い物から帰ってきた幸子が、夕飯の支度を始めていた。

「何か手伝おうか」と善次郎は言った。

幸子は少し驚いた顔をした。善次郎が自ら台所に入ることは、めったにない。

「じゃあ、大根おろして」と幸子は言った。

「わかった」と善次郎は言った。

大根をおろしながら、善次郎は思った。これでいい。これが、千年後の、藤原宣孝の姿だ。


第九章 武家の籠の秘密

冬になった。源くんははいはいを始め、善次郎は大喜びした。この調子でいくと、善次郎は源くんの一挙一動ごとに大喜びし続け、やがて立ったときには失神するかもしれない。

ある日、善次郎は宝光院で、住職と向き合っていた。

「実は」と住職は言った。「あの籠についての、古い文書が見つかりまして」

「古い文書?」

「先代の住職が書き残したものです。あの籠が寄贈された経緯について」

住職は一枚の紙を取り出した。コピーらしく、原文はかなり古いもののようだったが、文字は読めた。

そこには、こう書かれていた。

――明治二十三年、旧武家・田中家の末裔より、先祖伝来の乗籠一基を寄贈受く。田中家の話によれば、この籠はもと江戸初期に上方の某家より嫁入りの際に持参したるものにて、代々大切に保管してきたるものなりという。田中家の婦人いわく、この籠には不思議な力があり、乗りし者を望む場所へ連れて行くとの言い伝えあり。真偽のほどは不明なれど、確かに由緒正しき作りの籠にて、当院にて謹んで保管するものなり――

善次郎はその文書を読み終えて、ふうっと息を吐いた。

「田中家の婦人、か」

「善次郎さんのご先祖様ですね」と住職は言った。

「明治二十三年というと、今から百三十年以上前だ。その前の、江戸初期となると……」

「三、四百年前になりますね」

三、四百年前。

平安時代より後、江戸時代の初期に、どこかの武家の娘がこの籠に乗って嫁いできた。その娘が、田中家の先祖だ。

そして籠は代々大切にされ、明治になって寺に寄贈された。

「あの籠が田中家を選んだのか」と善次郎は言った。「それとも、田中家があの籠を選んだのか」

「どちらでしょうね」と住職は言った。「ただ」

「ただ?」

「明治の田中家の婦人が言い残したことが、もう一つあります」と住職は言った。文書の裏側を見せた。「こちらに」

そこには、別の筆跡で、こう書かれていた。

――この籠は、縁のある者の元へ、縁のある時に、縁のある場所から現れる。されど心配なかれ。この籠に選ばれた者は、必ず帰ってくる。なぜならこの籠は、人を迷子にするためではなく、人を帰すために動くのだから――

善次郎は、その言葉をゆっくりと読んだ。

人を帰すために動く。

善次郎は平安時代から、確かに帰ってきた。

おばあちゃんは夢の中で言っていた。武家の血よ、と。その武家とは、あの籠と一緒に嫁いできた、江戸時代の娘の家系だったのかもしれない。

そして籠は、その子孫の善次郎を選んだ。孫が生まれた日に。

「住職」と善次郎は言った。「この籠を、これからも大切に保管してもらえますか」

「もちろんです」と住職は言った。「ただ」

「ただ?」

「善次郎さんのお孫さんが大きくなった頃、また呼ばれるかもしれませんよ。あの籠に」

善次郎は笑った。

「源くんが行くとしたら、どこへ行くんでしょうね」

「さあ」と住職は言った。「でも、帰ってきますよ。必ず」

二人は本堂から出て、冬の境内を歩いた。枯れた木々の向こうに、冬の空が広がっていた。

「ところで」と住職は言った。「善次郎さん、NISAの話なんですが――」

「帰ります」と善次郎は言った。


第十章 背筋を伸ばして

春が来た。

源くんは一歳になった。

誕生日のパーティは、娘の家で行われた。善次郎と幸子、娘夫婦、そして源くん。小さな、しかし賑やかな集まりだった。

源くんはケーキを前にして、目を丸くした。それから手でぐしゃぐしゃにした。全員が笑った。幸子はスマートフォンで動画を撮り、善次郎は写真を撮り、娘は泣き、婿は照れ笑いをした。

一歳か、と善次郎は思った。

一年前の春、孫が生まれた日に、善次郎はあの籠に乗って平安時代に行った。紫式部に捕まり、清少納言に助けられ、二人の言い争いを仲裁し、籠のAIに振り回され、宿題を持ち越して、なんとか帰ってきた。

そして源くんが生まれた。

その源くんが、今、ケーキを手でぐしゃぐしゃにしている。

善次郎は笑いながら、なんだかじんとした。


パーティが終わり、源くんが眠りについた後、善次郎は縁側に出た。婿が「善次郎さん、一杯どうですか」と言って、ビールを持ってきてくれた。

二人で、春の夜空を見上げた。

「源っていう名前」と善次郎は言った。「決めるのに悩みましたか」

「実は最初から決めてたんです」と婿は言った。「源氏物語が好きで。光源氏みたいに、明るく生きてほしいと思って」

善次郎はビールを一口飲んだ。

「いい名前だと思います」と善次郎は言った。「本当に、いい名前だ」

婿は少し照れた顔をして、「ありがとうございます」と言った。

善次郎は夜空を見上げた。星が、思ったよりも多く出ていた。

千年前の空も、こんな星空だったのだろうか。紫式部は、こんな星空の下で、源氏物語を書いていたのだろうか。清少納言は、こんな星を見て、枕草子に何かを書き留めたのだろうか。

そしておばあちゃんは、こんな夜に、籠の話をしてくれた。

善次郎は、遠い記憶の中のおばあちゃんを思った。にこにこした顔。柔らかい声。「武家の血よ」という言葉。

ありがとう、おばあちゃん、と善次郎は心の中で言った。あの話を聞いていて、良かった。


翌日、善次郎は一人で宝光院へ行った。

墓前に手を合わせ、源くんの一歳の誕生日を報告した。元気に育っています。ケーキをぐしゃぐしゃにしました。名前は源くんです。

それから本堂へ入り、奥の間へ。

籠の前に立ち、布をめくった。

黒漆に金の蒔絵。担ぎ棒。屋根の鶴と松。

変わらぬ姿で、籠はそこにあった。

「元気か」と善次郎は声をかけた。

籠は何も言わなかった。もう起動する必要がないから、黙っているのかもしれない。それとも、単純に充電が切れているのかもしれない。

「源くんが一歳になったぞ」と善次郎は言った。「元気だ。ケーキをぐしゃぐしゃにした」

籠は何も言わなかった。

「また頼むかもしれない。二十年後くらいに、源くんが大きくなった頃に」

籠は何も言わなかった。

「そのときはよろしく頼む。ちゃんと帰してやってくれ」

善次郎は、そっと布をかけ直した。

それから、手を合わせた。


境内に出ると、春の風が吹いていた。

桜が咲いていた。一年前、孫が生まれた日と同じように、空は馬鹿みたいに青く、桜は馬鹿みたいに咲いていた。

善次郎はしばらく、その桜を見上げた。

六十三歳になった。元営業部長、現・完全なる無職。祖父。タイムスリップ経験者。藤原宣孝の転生者(推定九十七パーセント)。

肩書きが、だいぶ増えた。

善次郎は、ふっと笑った。

それから、背筋をすっと伸ばした。

千年の縁がある。先祖の血が流れている。孫が育っている。

こりゃあ、もっともっと頑張らねばならない。

善次郎は山門をくぐり、春の日差しの中へ歩き出した。

背後で、かすかな音がした気がした。

こつ、こつ、こつ。

三回。

善次郎は振り返らなかった。ただ、少し口元が緩んだ。

春の空の下、田中善次郎は、家へと向かって歩いていった。





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あとがき

この物語は、ある春の日に孫が生まれ、先祖の籠を発見した、一人の男の実話(の夢)を元にしています。

紫式部と清少納言は、千年経っても仲が悪いようです。ただしお互いを、深く意識していることは確かです。それもまた、一種の絆というものでしょう。

源くんが大きくなって、もし宝光院の奥の間で黒い籠を見つけたとしても、くれぐれも中に入らないようにしてください。取っ手は、絶対に三回叩かないように。

もっとも、あの籠のことですから、乗せたい者は問答無用で乗せるのでしょうが。

春はあけぼの。命の誕生もまた、あけぼのの清々しさ。

孫よ、健やかに育て。