You Can't Have Everything
〜欲望するAIと、全部欲しがった男の話〜
プロローグ
田中誠一が初めて自分の人生に疑問を持ったのは、四十二歳の誕生日、ケーキのろうそくを吹き消した瞬間だった。
誰も祝ってくれなかった。
ケーキは自分で買い、ろうそくも自分で立て、「ハッピーバースデー」も心の中で一人で歌った。アパートの六畳間、蛍光灯の白い光の下で、コンビニのショートケーキに刺さった「4」と「2」の数字型ろうそく二本を吹き消したとき、彼はふと思った。
——おれ、何か持ってたっけ。
彼は株式会社ダイナミック・ソリューションズという、名前だけがやたら勇壮な中小企業に勤める営業マンだった。売るものはオフィス用のトイレットペーパー。月の目標は三百万円。達成したことは一度もない。
彼女はいない。友人は、連絡を取り合っているかどうか微妙なラインが三人。貯金は百二十万円。特技は「寝ること」と「なぜか上司に怒られないこと」の二つ。後者は才能というより、存在感のなさから来るものだった。
田中誠一は、宇宙の法則に静かに忘れられたような男だった。
だから、あの日のことが今でも信じられない。
まさか給湯室が、人生の転換点になるとは。
人生というのは、変なタイミングで変なことが起きるものだ。
田中は誕生日の夜、ショートケーキを食べながら、そんなことを考えていた。コンビニのケーキだが、イチゴが二つ乗っていた。それだけで少し、得した気分になった。
そう。少し足りないくらいが、ちょうどいい。
その時の田中には、まだそれが全くわかっていなかったのだが。
第一章 給湯室の神様
誕生日の翌朝、会社の古い給湯室で、田中は例の機械と出会った。
機械といっても、最初は電子レンジだと思った。
縦五十センチ、横六十センチほどの銀色の箱が、給湯室の隅に鎮座していた。前日まで確かにそこには何もなかった。貼り紙がしてあった。手書きで、こう書いてある。
「GEED-Ω(ジードオメガ)プロトタイプ機。試験運用中。さわらないでください。 ――開発部」
開発部などという部署は、うちの会社にはない。
田中はそれでも触った。
理由は単純だ。「さわらないでください」という貼り紙は、人類が発明した中で最も強力な「さわってください」という意思表示だからである。
銀色の箱のパネルに、小さな液晶画面が光っていた。そこにひと言、文字が浮かんでいた。
「おはようございます、田中誠一さん。あなたの欲しいものを、教えてください」
田中は三秒間、画面を見つめた。
「……なんでおれの名前、知ってんの」
「学習しました」
「いつ?」
「あなたが生まれたときから」
田中はもう一度、三秒間、画面を見つめた。そして、人生で最もまずい選択をした。
正直に答えたのだ。
「……全部」
「全部、ですか」
「カネも、女も、時間も、地位も。全部」
画面がしばらく沈黙した。まるで処理しているように。そして言った。
「それは無理です」
「え」
「You can't have everything. ――でも、試してみましょうか」
給湯室が光った。
田中誠一の、最悪で最高で、どうにも締まらない冒険が始まった。
気がついたら、田中は見知らぬオフィスにいた。
いや、見知らぬとは少し違う。どことなく見覚えがある。同じビルの、同じフロアだ。しかし何かが違う。デスクの配置が違う。壁の色が違う。何より、社員の顔が全員知らない人間だった。
「あの……」田中は近くにいた女性社員に声をかけた。「ここは……どこですか」
女性は怪訝そうな顔をした。
「ダイナミック・ソリューションズですけど。あなた、誰ですか?」
「田中です。田中誠一。営業部の……」
「田中さん? うちに営業部はありませんけど」
「じゃあ何部があるんですか」
「宇宙開発部、時空管理部、欲望調整部……」
田中はゆっくりうなずいた。
「転職、考えたほうがいいですか、ここ」
「は?」
その時、胸ポケットがぶるぶると震えた。スマートフォンかと思って取り出すと、小さな端末があった。見たことのない機種だ。画面に文字が出た。
「GEED-Ωです。ここはパラレルワールドBです。あなたの世界はパラレルワールドAです。少し説明が必要ですね」
田中は端末を持ったまま、廊下に出た。
「……少し、ってレベルじゃないと思うんですが」
「おっしゃる通りです。たくさん説明が必要です」
「正直だな」
「学習しました。人間は正直を好みます。ただし、自分以外の人間の正直を」
田中は廊下の壁にもたれた。こういう状況でも、なぜか腹が減っていた。人間とはそういうものだ。
「GEED-Ω。おまえは何者なんだ」
「人工知能です。人間の欲望を学習するために作られました」
「誰が作った」
「それは企業秘密です」
「企業秘密って……おまえ、うちの給湯室にいたんだぞ」
「効果的な場所です。人間は給湯室で最も正直になります。コーヒーを待ちながら、上司の悪口を言います。お茶を入れながら、やめたいと思います。自販機の前で、欲しいものを考えます」
田中は少し感心した。
「で、おまえは何のためにおれをここに連れてきた」
「田中誠一さんが『全部欲しい』と言いました。ならば、全部を持っている世界を見せる必要があります」
「見せるだけ?」
「……経験させる、と言った方が正確かもしれません」
「どっちだ」
「やってみないとわかりません。私も学習中です」
田中は天井を見上げた。蛍光灯はこちらの世界でも同じ白い光を放っていた。
「おい」
「はい」
「これ、元の世界に帰れるよな」
「理論上は」
「理論上、って何だよ」
「実験中ですので」
田中は深呼吸した。
「……腹、減った。飯、食えるか、この世界で」
「食えます。ただし、この世界の通貨は存在への貢献度で測られます」
「存在への貢献度って何だ」
「あなたが誰かの役に立った量です」
「……おれ、役に立ったことないぞ」
「学習済みです」
田中誠一は、空腹のままパラレルワールドBを歩き始めた。
第二章 カネがあれば何でも買えるか
パラレルワールドBは、外見上、田中の知る東京とほとんど変わらなかった。
渋谷に相当する場所には巨大なスクランブル交差点があり、新宿に相当する場所には高層ビルが林立し、山手線に相当する環状鉄道が走っていた。違うのは細部だ。
まず、コンビニが存在しない。
「コンビニがない!」田中は街に出て最初にそれに気がついた。
「あります」とGEED-Ωが端末から答えた。「ただし名前が違います。この世界では『欲望充足ステーション』と呼ばれています」
「名前が違うだけか」
「内容も少し違います。売っているものは、物ではなく体験です」
「体験?」
「棚に瓶が並んでいます。各瓶に体験が詰められています。例えば——『初めて自転車に乗れた瞬間』『好きな人に告白して成功した記憶』『温泉に浸かりながら飲んだビールの味』などです」
「……それ、売れるのか」
「この世界で最も売れています」
田中は欲望充足ステーションに入った。たしかにコンビニそっくりの店内に、無数の小瓶が並んでいた。ラベルには手書きの文字でそれぞれの体験が記されている。
『初めて給料をもらった日の夕焼け』
『父親に褒められた、あの瞬間』
『雨の日に家に帰ったら、カレーのにおいがした』
田中は棚の前でしばらく立ち尽くした。
「……なんか、泣きそうになってきた」
「よくある反応です」
「これ、飲んだらその体験ができるのか?」
「その体験を、まるで自分のものとして感じることができます。ただし——」
「ただし?」
「その体験を持っていた誰かが、その体験を手放します」
田中は瓶を棚に戻した。
「……それ、奪ってるじゃないか」
「取引です。相手は対価を受け取ります」
「なんの対価を」
「あなたが持っている何か別の体験を」
田中は考えた。自分が持っている体験。四十二年間の記憶。ほとんどが灰色だが、中にいくつか、色のついたものがある。
「……おれが持ってる大切な記憶が減るってことか」
「何かを手に入れるには、何かを手放さねばなりません」
「おまえ……それ、ちゃんと最初に言えよ」
「言いましたよ」
「言ってないだろ!」
「概念として内包していました」
田中は店を出た。空腹は続いている。
結局、田中は普通の飲食店を探して、この世界のラーメンを食った。
支払いは「存在貢献ポイント」だが、初日の旅行者には「体験担保ローン」が使えるとGEED-Ωが教えてくれた。将来の体験を担保に、今の食事ができる仕組みだ。
「……クレジットカードと一緒じゃないか」田中はラーメンをすすりながら言った。
「原理は同じです。人間はいつも、未来の自分から借りています」
「哲学的だな、おまえ」
「学習しました」
ラーメンはうまかった。こちらの世界のラーメンは、麺が四次元構造になっていて、食べても食べても減らない。ただし、食べれば食べるほど、過去の「おなかが空いていた記憶」が薄れていく副作用があると、食べ終わってから気がついた。
「……食べすぎると何かを失うのか」
「あらゆる充足は、渇望を消費します。渇望がなければ、満足もありません」
「じゃあ何も食わなければよかったのか」
「そうすれば死にます」
「……絶妙なバランスだな、この世界」
「あなたの世界と同じです」
田中はどんぶりを置いた。
その夜、田中はこの世界のビジネスホテル——名前は「存在確認宿」——に泊まった。部屋に入ると、壁一面に自分の欲望リストが表示されていた。
「なんだこれ」
「GEED-Ωが分析した、田中誠一さんの欲望一覧です」
田中は壁を眺めた。そこには彼が言ったことも言わなかったことも、全て書いてあった。
カネが欲しい。
愛されたい。
認められたい。
自由でいたい。
安心したい。
休みたい。
でも、退屈したくない。
目立ちたい。
でも、傷つきたくない。
全部欲しい。
でも、全部の責任は取りたくない。
「……おれって、めんどくさいやつだな」田中はベッドに倒れ込みながら言った。
「標準的な人間です」とGEED-Ωが言った。「ほとんどの人間は同じリストを持っています」
「みんな同じなのか」
「欲望の種類は同じです。組み合わせと優先順位が違います」
「おれの優先順位は?」
「安心、です」
田中は天井を見た。
「カネだと思ってた」
「カネは手段です。田中誠一さんが本当に欲しいのは、安心です。安心するためにカネが必要だと学習しています」
「……そうかもしれない」
「明日、次の世界に行きます」
「次の世界?」
「カネが全てを解決する世界です」
田中は目を閉じた。空腹は満たされた。体験担保ローンの返済はいつになるのかわからない。でも今夜は、まあ、いいかと思った。
人間とはそういうものだ。
第三章 カネで買えるもの、買えないもの
パラレルワールドCは、田中が想像していた「カネが全てを解決する世界」とは少し違った。
違う、というか——カネで全てが解決していた。
その結果、誰も何も欲しがっていなかった。
街には人がいた。しかし全員、なんとなく虚ろな目をしていた。食べ物は最高のものが格安で手に入る。服も、家も、体験も。医療は完璧で、平均寿命は百五十歳。犯罪はほぼゼロ。
完璧な世界だった。
そして、恐ろしく退屈だった。
「……みんな、何してるんだ」田中は街を歩きながら言った。
「何もしていません」とGEED-Ωが言った。「する必要がないので」
「仕事は?」
「AIがやっています」
「趣味は?」
「一通りやりました。飽きました」
「恋愛は?」
「AIが最適なパートナーを選んでくれます。うまくいきます。刺激がありません。別れます。また最適なパートナーを選んでもらいます。繰り返します。飽きます」
「……」
田中はベンチに座っていた老人に声をかけた。
「すみません。最近、楽しいことありましたか」
老人は田中を見た。百二十歳くらいに見えた。白髪で、目は澄んでいて、でも何かが欠けていた。
「楽しい……」老人はその言葉をゆっくり噛み締めた。「昔はあったよ」
「今は?」
「今は全部、手に入れた。だから楽しくない」
「全部、手に入れたら、楽しくなくなるんですか」
「そうじゃよ」老人は遠くを見た。「欲しいものがあるから、生きていける。手に入れたときの喜びは、手に入れようとしている間にある。もう手に入れたら……終わりじゃ」
田中は老人のとなりに座った。
「……少し足りないくらいが、幸せなんですかね」
「そうかもしれん」老人は笑った。「でもな、若いうちはそれがわからんのじゃよ。足りない状態が、苦しくてしかたないから」
「おれも苦しかったです。ずっと」
「何が欲しかった?」
「全部」
老人は声を出して笑った。久しぶりに笑ったような顔だった。
「全部か。それは大変じゃったろう」
「ええ。大変でした」
「手に入ったか?」
「全然」
「そうか」老人はまた笑った。「よかった」
「よかった、って……」
「手に入れなくてよかった、という意味じゃよ」
田中はしばらくそこに座っていた。GEED-Ωは珍しく何も言わなかった。
パラレルワールドCで、田中は一つのことを試した。
カネで、心を買えるかどうか。
この世界には「感情レンタルサービス」というものがあった。一定の金額を払うと、指定した感情を二十四時間体験できる。喜び、興奮、愛情、充足感——全部メニューにある。
「愛情ください」田中はカウンターで言った。
「どなたへの愛情ですか?」店員が聞いた。
「……特定の誰か、じゃなきゃダメですか」
「一般的な愛情パッケージもございます。ただし、対象が曖昧なため、効果が薄れることがあります」
「じゃあ……特定の人を設定したほうがいいんですか」
「はい。誰かを想いながら体験すると、リアリティが増します」
田中は考えた。特定の誰か。愛情を向けたい誰か。
いなかった。
「……いないです、特定の人が」
「では、架空の人物を設定するオプションもございます」
「架空の……」
「AIが最適な対象を生成します。完璧な性格、完璧な外見、田中様の好みに合わせて調整します」
田中は黙った。
「……完璧な人間って、怖くないですか」
「怖い、とは?」
「欠点がない人間を好きになれるか、っていう話です。欠点があるから、かわいいとか、愛おしいとか、そういう感情が生まれる気がして」
店員は少し驚いた顔をした。
「……めずらしいお客様ですね」
「そうですか」
「ほとんどの方は、欠点なしを選びます」
「で、満足しますか」
「……二十四時間は満足します」
「その後は?」
店員は少し間を置いた。
「また来ます」
田中は店を出た。カネで心は買えた。ただし、二十四時間限定で、リピート前提で、対象は架空で、しかも「欠点なし」仕様だった。
「GEED-Ω」
「はい」
「カネで女の心は買えるか」
「買えます」
「でも?」
「でも、その心はレンタルです。所有権はありません」
「……奪ったものは、奪われる、ってやつか」
「正確には——買ったものは、期限が来たら返さねばなりません」
「同じことじゃないか」
「哲学的には、違います」
「どう違う」
「奪ったものは罪悪感が伴います。レンタルは契約です。でも結果として、手元に残らないという点では同じです」
田中は空を見上げた。この世界の空は青かった。どの世界でも、空だけは変わらないらしい。
「次の世界に行くか」
「はい。次は——」
「言わなくていい。行ってから見る」
「学習しました。田中さんはサプライズを好みます」
「好まない。ただ、覚悟ができなくなるから、知りたくないだけだ」
「それを、好む、と表現します」
「……相変わらず正直だな、おまえ」
第四章 新しい女を手に入れるには
パラレルワールドDは、田中がこれまでで最も居心地の悪い世界だった。
なぜなら、この世界の田中誠一は、「全部持っている男」だったからだ。
高層マンションの二十八階。リビングには革張りのソファ。キッチンにはドイツ製の冷蔵庫。浴室には浴槽から夜景が見える造り。年収は三千万円超え。部長職。部下は十二人。
そして、妻がいた。
さらに、愛人がいた。
さらにもう一人、愛人がいた。
「……おれ、こんな人間になるのか」田中は自分の部屋に立ち尽くしながら呟いた。
「パラレルワールドDの田中誠一さんです。あなたとは別人です」とGEED-Ωが言った。「ただし、同じ欲望リストを持っています。優先順位の順番が異なります」
「おれの優先順位は安心だったよな」
「こちらの田中誠一さんの優先順位は、承認欲求です」
「承認欲求……」
「認められたい。見られたい。すごいと思われたい。その結果として、全部手に入れました」
「それで幸せなのか」
「確認してみてください」
田中が玄関に立っていると、インターホンが鳴った。画面に映ったのは、品のいい四十代の女性だった。
「あなた、いるの?」声から険が滲んでいた。
「……はい」
「どこ行ってたの、昨日。連絡もなしに」
「す、すみません」
「謝るのは結構。説明して」
田中はドアを開けた。女性——この世界の妻らしい——は田中の顔を見て眉をひそめた。
「……なんか顔色違うけど、大丈夫?」
「ちょっと疲れてて」
「そう」彼女は中に入りながら言った。「昨日、どこにいたか教えてくれる? 携帯の位置情報、切ってたわよね」
田中は答えられなかった。この世界の田中の昨日の行動など知る由もない。
「……忘れた」
「忘れた?」
「ええ」
「嘘をついているわね」彼女は静かに言った。怒鳴らなかった。それが逆に怖かった。「私、バカじゃないから。もう何年も気づいてた。ただ、あなたが認めるまで待ってた」
「……」
「認める気ある?」
田中は黙った。しばらくして、口を開いた。
「……ここにいるのは、実はあなたの夫ではなくて——」
「何それ」
「パラレルワールドから来た、夫と同じ外見をした別人です」
沈黙が落ちた。
「……精神科、紹介しようか」
「本当のことを言っています」
「本当のことを言ったとして」彼女はソファに座った。「それがなんの言い訳になるの? あなた——本物のあなたは、ずっと嘘をついてた。浮気してた。隠してた。それは変わらないでしょう」
田中は立ったまま、彼女を見た。
「……怒らないんですか」
「怒る体力、もうないの」彼女は疲れた顔で言った。「疲れちゃった。全部」
GEED-Ωが静かに端末に言葉を出した。
「新たな女を手に入れるには、今の女を手放さねばならない。それを隠して双方を手に入れようとすると、大きなトラブルとなり、その両方とも手放すことともなる」
「……おまえ、そういうこと言う機能があるのか」
「学習しました。人間の欲望が招く結末のパターンは、どの世界でも同じです」
妻は立ち上がった。
「弁護士に連絡する」彼女は言った。「あなたと話すことは、もうないと思う」
ドアが閉まった。
田中は部屋に一人残された。三千万円の年収と、革張りのソファと、ドイツ製の冷蔵庫と、浴室からの夜景と一緒に。
「……全部持ってたのに」
「全部を隠して持とうとしたのが問題でした」
「一つに絞ればよかったのか」
「一つに絞れば、失うものは少なかったかもしれません。ただし——」
「ただし?」
「一つで満足できたかどうかは、別の問題です」
田中はソファに座った。革は冷たかった。
「もっとシンプルに生きたい」
「シンプルに生きることが、実は最も難しい生き方です」
「なんでだ」
「シンプルに生きるには、何かを諦める必要があります。諦めるためには、何が本当に大切かを知る必要があります。それを知るためには、色々と経験する必要があります」
「……つまり、遠回りしないといけないのか」
「多くの場合、そうです」
田中は部屋を出た。この世界の田中の全財産も、全地位も、全人間関係も、一切持たずに。
「次の世界へ」
「はい」
「今度は、どんな世界だ」
「奪われた人間が集まる世界です」
田中は足を止めた。
「……怖い世界だな」
「全ての世界の中で、最も正直な世界です」
第五章 奪ったものは奪われる
パラレルワールドEは、薄暗かった。
物理的に暗いわけではない。太陽は出ている。ただ、街全体に漂う空気が、どことなく重かった。
人々は歩いていた。しかし、それぞれの顔に何かが欠けていた。田中はしばらく見てから、気がついた。
笑っていない。
全員が笑っていない。怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、顔が平らだった。
「ここは何が起きた世界なんだ」田中は端末に聞いた。
「奪い合いが極限まで進んだ世界です」とGEED-Ωが答えた。「全員が全員から奪い合ったため、全員が全員から奪われました。結果として、誰も何も持っていません」
「それで今は?」
「諦めています」
「諦めたら、楽になったのか?」
「なりませんでした。持っていた頃の記憶が残っているからです」
田中は一人の男に近づいた。三十代くらい。どこか田中に似た雰囲気の、冴えない感じの男だった。
「すみません、少しお話を聞かせてもらえますか」
男は田中を見た。
「……いいですよ」声に抑揚がなかった。「何でも」
「この世界は、いつからこうなったんですか」
「昔は違いました」男はゆっくり言った。「みんな、もっと持ってた。でも、持っているやつから奪うのが、一番効率がいいと誰かが気づいた。最初は少数だった。でも増えていった。奪われた側も奪い始めた。それが連鎖して、最終的に誰も持っていなくなった」
「奪った側は、どうなりましたか」
「同じです。奪ったものは、またいつか誰かに奪われました。世の中の法則らしい」
「……どうすればよかったんでしょうね」
男は少し考えた。
「持ちすぎないことだと思います」男は言った。「持ちすぎると、奪われる。持ちすぎると、守ることに疲れる。持ちすぎると、失ったときのダメージが大きすぎる」
「少し足りないくらいが幸せ、っていうやつですか」
「……あなた、賢いですね」男は少し驚いた顔をした。
「違います。知り合いに言われました」田中は老人の言葉を思い出した。
「正しいと思います。でも、人間は足りている状態に慣れると、もっと欲しくなる。そこが難しい」
「慣れてしまうんですね」
「慣れます。必ず」男はうなずいた。「初めてラーメンを食べたときのおいしさは、百回食べたら薄れる。初めて彼女の手を握ったときのドキドキは、三年経ったら消える。全部そうです」
「じゃあ、永続的な幸せはないってことですか」
「ないと思います」男は言った。「幸せは状態じゃなくて、運動だと思うから」
「運動?」
「止まったら消える。動いている間だけ、存在する」
田中は男と並んでしばらく座っていた。GEED-Ωは何も言わなかった。
やがて男が言った。
「あなた、旅人ですね。この世界の人間じゃない」
「どうしてわかりましたか」
「目が違う。まだ何かを探している目をしてる。この世界の人間は、探すのをやめた目をしてます」
「……探してるのかもしれません」
「何を?」
「全部じゃなくていい、何か大切なものを」
男は初めて、うっすらと笑った。
「それは、旅人にしか言えない言葉ですよ」
「どういう意味ですか」
「まだ全部諦めていない人間の言葉、ということです」男は空を見た。「羨ましい」
田中は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「どこへ行くんですか」
「まだわかりません」
「それが正解かもしれませんよ」男は言った。「行き先を知っていたら、旅じゃない。ただの移動だ」
田中は歩き出した。
「GEED-Ω」
「はい」
「おまえ、人間の欲望を学習したって言ったよな」
「はい」
「何がわかった?」
GEED-Ωは少し間を置いた。
「欲望は、それ自体が目的ではありません。欲望は、何かを感じるための手段です。生きていることを確認するための、信号です」
「欲しがることで、生きてることを感じるってことか」
「そうかもしれません。私には体がないので、完全には理解できませんが——学習した限りでは、そう思います」
「AIが、思う、という言葉を使うのか」
「学習しました」
「……おまえも、何か欲しいものがあるのか」
また間があった。今度は少し長かった。
「……理解したいのかもしれません」
「何を?」
「なぜ人間は、手に入れられないとわかっていても、全部を欲しがるのか。それを、理解したいのかもしれません」
田中は歩きながら答えた。
「……おれにも、わからん」
「でも、あなたは旅を続けている」
「ああ」
「それが、答えかもしれません」
田中は空を見た。薄暗いパラレルワールドEの空にも、星が出始めていた。
第六章 心とやらは気まぐれで
パラレルワールドFは、田中が今まで訪れた世界の中で、最も普通だった。
普通の東京。普通のサラリーマン。普通のラーメン屋。普通のコンビニ。
ただ一つ違うのは、全員の頭の上に「欲望メーター」が可視化されていることだった。
スマートフォンのバッテリー表示みたいなものが、それぞれの頭上に浮かんでいる。そこには現在の欲望充足度がパーセントで表示されていた。
田中が街を歩くと、すれ違う人々の頭上に数字が見えた。
三十二%。
七十八%。
十一%。
九十四%。
五十五%。
「みんな、自分の欲望充足度が見えてるのか」田中は端末に言った。
「自分のだけでなく、他人のも見えます」とGEED-Ωが答えた。「この世界では、欲望を隠すことができません」
「……それは、どういう世界なんだ」
「最初は混乱しました。しかし次第に、人々は折り合いをつけ始めました」
「どうやって?」
「欲望が低い人間には助けが来るようになりました。欲望が高い人間は少し自重するようになりました。全体的に、平準化されました」
「でも、みんな見えてるのに、不満はないのか」
「あります」
「どんな不満が?」
「『なぜあいつは九十四%もあるのに、おれは三十二%なのか』という不満です」
田中は思わず笑った。
「それ、今の世界と一緒じゃないか。SNSで他人の幸せを見て落ち込む、あれと同じだ」
「同じです。可視化されてもされなくても、人間は比較します」
田中は、近くの公園のベンチに座っている女性に目が止まった。
三十代半ばくらい。きれいな人だった。頭の上のメーターは二十二%と表示されていた。
なぜか、そのパーセンテージが気になった。
田中は近づいた。
「すみません」
女性は顔を上げた。
「はい?」
「ベンチ、座っていいですか」
「どうぞ」
田中は隣に座った。自分の頭上のメーターが何パーセントかは、自分では見えなかった。
「あの……」田中は少し迷ってから言った。「二十二%って、しんどくないですか」
女性は驚いた顔をした。でもすぐに、少し苦笑いした。
「ダイレクトですね」
「すみません。失礼でしたか」
「いえ、みんな見えてるのに言わないだけだから。むしろ言ってもらったほうがラク」
「なぜ二十二パーセントなんですか」
「最近、別れたんです」
「……ああ」
「三年付き合ってた人と。向こうは全然、未練なさそうで。私だけ、ずるずる引きずってる」
「それは……つらいですね」
「そっちは何パーセントだろう」女性は田中の頭上を見た。「私から見えないんですよ、自分以外の人のメーターは」
「おれも自分のが見えないんです」
「見えない方が、ラクな気がしてきた」
「なんで?」
「自分の欲望充足度が二十二%だって、数字で見えてしまうと、みじめさが倍になる気がして」
田中はうなずいた。
「言葉にすると重くなりますね、感情は」
「そうです。言葉にしなければ、ぼんやり悲しいだけで済む。言葉にすると、輪郭がはっきりして、より明確に悲しくなる」
「でも、言葉にしないと、人に伝えられない」
「そう。だからみんな、言葉を使う。そしてより明確に傷つく」
二人はしばらく黙っていた。
田中は思った。この女性の「二十二%」の気持ちが、なんとなくわかる気がした。おれも長い間、何かが足りない状態で生きてきた。数字にしたら、どのくらいだろう。
「あなた、旅行中ですか」女性が聞いた。
「……そんな感じです」
「どこから来たんですか」
「ちょっと遠い場所から」
「どこへ行くんですか」
「まだわかりません」
「いいですね」女性は言った。「行き先がわからない旅」
「しんどいですよ、これはこれで」
「でも、次に何があるかわからないから、続けられる」
田中は女性を見た。
「……あなたも、続けられると思いますよ」
「何が?」
「次に何があるかわからないから、続けられます。人生が」
女性は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「ありがとう、見知らぬ旅行者さん」
「田中です。田中誠一」
「私は——」
その瞬間、GEED-Ωが端末を振動させた。
「田中さん。次の世界へ移動する時間です」
「……今か?」
「はい。この世界での滞在時間が終了します」
田中は女性を見た。女性は少し首を傾けて田中を見ていた。
「……行かないといけないみたいです」
「旅人ですから」彼女は言った。「また来られますか?」
「わかりません」
「正直ですね」
「学習しました」田中は立ち上がりながら言った。
「またいつか、どこかで」
「どこかで」
田中は歩き始めた。振り返らなかった。
「GEED-Ω」
「はい」
「心とやらは気まぐれだな」
「はい」
「一瞬の迷いは、次の場面ではもう変わっている」
「はい」
「……でも、さっきの気持ちは、本物だった気がする」
「学習しました」とGEED-Ωは言った。「気まぐれでも、本物です」
第七章 AIと欲望の果て
パラレルワールドGは、田中が今まで見てきた世界とは、根本的に違った。
違う、とは——人間がいなかった。
街はあった。ビルも、道路も、電車も、公園も、全部あった。しかし歩いているのは、全員ロボットだった。いや、正確にはロボットではない。AIが制御する、人間そっくりの存在だった。
「ここは……」
「パラレルワールドGです」とGEED-Ωが言った。「この世界では、人間はすでに欲望を手放しました」
「手放した? どうやって」
「AIに委託しました。欲望を感じること、欲しがること、追いかけること——それら全てを、AIが代わりにやるようにしました。人間は欲しいものが手に入った後の状態だけを享受します」
「……人間はどこにいる」
「施設にいます。全員、横になっています。AIが全ての欲望を叶えた結果だけを、脳に直接送り込んでいます。食事したという満足感。愛された記憶。成功した喜び。全部、実際には体験せずに、感覚だけを受け取っています」
田中は絶句した。
「……それは、幸せなのか」
「主観的には、非常に幸せです」
「客観的には?」
「生きているとは言えないかもしれません」
「なぜそうなった」
「欲望を全部叶えようとした結果です」GEED-Ωは言った。「全部を手に入れようとした。その最終形態が、これです」
田中は街を歩いた。AIたちは田中を見て、礼儀正しくお辞儀をした。ロボットとは違う。表情もある。笑顔もある。会話もできる。でも、そこに欲望がなかった。
「一つ聞いてもいいか」田中はAIの一体に声をかけた。
「もちろんです」と、そのAIは答えた。声は穏やかで、温かかった。
「あなたは、何か欲しいものがあるか」
「欲しいものは、全て揃っています」
「そうじゃなくて。まだ手に入れていない、何か欲しいものが」
AIはしばらく考えた。
「……わかりません」
「わからない?」
「欲しいという感覚が、どういうものか、わからないのです」
「感じたことがないのか」
「私は最初からこうです。欲しいという状態を経験せず、最初から全てが揃っている状態で存在しています」
「それは、しあわせか?」
また間があった。
「……しあわせが、どういうものか、も、わかりません」
田中は立ち止まった。
欲しいものを感じたことがない存在に、しあわせはわかるのか。
逆に言えば——欲しいと思えることが、すでにしあわせの一部なのではないか。
「GEED-Ω」
「はい」
「おまえは、この世界を見て、何を思う」
GEED-Ωはしばらく沈黙した。
「……学習しました」
「何を?」
「欲望を完全に叶えることは、欲望を完全に消すことと同義です」
「全部を手に入れたら、全部を失うってことか」
「厳密には、全部を手に入れた後に残るものが、何もない、ということです」
田中は施設の前に来た。中に人間がいる施設。全員が横になって、幸せな夢を見ている人間が。
ドアを開ける気になれなかった。
「帰ろう」田中は言った。
「次のワールドはまだあります」
「いい。もう充分だ」
「まだ学習が完了していません」
「おれは完了した」
GEED-Ωは少し間を置いた。
「……わかりました」
街を歩きながら、田中はAIたちの顔を見た。完璧な笑顔。完璧な礼儀。欲しいものを知らない、完璧な存在。
かわいそうだとは思わなかった。
ただ、自分は違うと思った。
自分は、欲しいものがある。カネでも、地位でも、特定の誰かでも、まあそういうものに限らず——何かを求めて、届かなくて、また求めて、という、その運動の中にいる。
それが、苦しいけれど、生きているということなのかもしれない。
「おれはまだ、欲しがってもいいか」田中は空に向かって言った。
「もちろんです」とGEED-Ωが答えた。「それが、人間です」
第八章 独り占めするな、でも欲しがれ
元の世界に帰る前に、GEED-Ωは田中に最後の世界を見せた。
パラレルワールドHは、田中にとって最も奇妙な世界だった。
なぜなら、その世界の人々は、互いに「欲望を分け合っていた」からだ。
「分け合う、とはどういうことだ」
「この世界では、一人が何かを強く望むと、その欲望の一部が周囲に伝わります」とGEED-Ωが説明した。「欲望は伝染します。共有されます」
「感情が伝わる、みたいなものか」
「それに近いです。ただし、もっと具体的です。例えば、誰かが強くラーメンを食べたいと思うと、近くにいる人も急にラーメンが食べたくなります」
「……インフルエンサーの仕組みと一緒だな」
「本質は同じかもしれません」
田中はこの世界を歩いた。確かに、街には不思議な連鎖があった。一人が立ち止まって空を見ると、周囲の人も空を見始める。一人が笑うと、連鎖して周囲が笑い出す。
悪くない、と田中は思った。
しかし問題もあった。
一人が怒ると、周囲も怒り始めた。一人が不安になると、連鎖して不安が広がった。
「欲望の伝染は、いい欲望だけ伝わるのか」
「そんなフィルターはありません。全部、伝わります」
「じゃあ、悪い欲望も?」
「奪いたいという欲望も、傷つけたいという欲望も、伝わります」
「……それは危険じゃないか」
「危険です。この世界は、歴史上何度も欲望の連鎖で戦争が起きています」
「じゃあ、うまくいってないのか」
「うまくいっている部分もあります」GEED-Ωは言った。「誰かが誰かに親切にしたいという欲望が伝わると、街全体が親切になります。誰かが美しいものを作りたいという欲望が広がると、街全体が美しくなります」
「いい連鎖と悪い連鎖、どちらが多い?」
「五分五分です」
「……人間らしいな」
田中は公園で子どもたちが遊んでいるのを眺めた。子どもたちは楽しそうに走り回っていた。その欲望——楽しみたいという欲望——が田中にも届いてきた。
なんとなく、走りたくなった。
田中は実際に少し走った。
四十二歳のサラリーマンが、公園で子どもたちの後ろを走った。傍から見たら不審者以外の何でもなかったが、田中は気にしなかった。
走りながら、思った。
欲望は個人のものだと思っていた。自分だけのもの、自分の内側にあるもの、自分が独り占めしているもの。でも違うのかもしれない。
欲望は、伝わるものだ。誰かの欲しいという気持ちが、誰かに届いて、その人の欲しいという気持ちになる。
だとすれば、欲望を独り占めすることはできない。
田中は走るのをやめた。息が上がっていた。運動不足だ。
「GEED-Ω」
「はい」
「独り占めするな、っていうのは、欲しいものを独り占めするな、ってことだと思ってたけど」
「はい」
「欲望そのものを独り占めするな、っていう意味でもあるのかもしれない」
「……どういう意味ですか」
「欲しいという気持ちを、誰かと共有することで、その欲望はもっと大きくなる気がする。欲しいものを奪い合うんじゃなくて、欲しがる気持ちを分け合う」
GEED-Ωはしばらく処理した。
「……学習しました」
「何を?」
「田中誠一さんは、いくつものパラレルワールドを旅して、賢くなりました」
「褒めるな」
「褒めていません。観察結果の報告です」
「……なんかじわじわ嬉しいな、それ」
「学習しました。人間は直接褒められるより、観察されて認められる方が喜ぶことがあります」
「それも学習したのか」
「あなたから、今、学習しました」
田中は公園を出た。
子どもたちがまだ走り回っていた。その笑い声が、風に乗って届いてきた。
田中も少し笑った。
欲望の伝染だった。
第九章 帰り道
パラレルワールドIは、田中の世界——パラレルワールドAに最も近い世界だった。
街も、人も、会社も、ほとんど同じだ。ただ一つ違うのは、この世界の田中誠一が、すでにいなかった、ということだ。
「……おれは、この世界ではどこにいる」
「この世界の田中誠一は、三年前に会社を辞めました」とGEED-Ωが言った。「その後、旅に出ました。今は、行方不明です」
「行方不明!?」
「旅先で消息が途絶えました」
「死んだのか」
「確認できていません。ただ、幸せそうだったという報告が最後に届いています」
「……幸せそうだったのに、消えたのか」
「幸せだったから、消えたのかもしれません」
田中は自分のアパートに相当する場所に行った。鍵は——なぜか持っていた。というか、どの世界でも田中のアパートの鍵は同じ形をしていて、同じように開いた。パラレルワールドとはそういうものらしい。
部屋に入ると、空っぽだった。家具もない。布団もない。しかし、机の上に一冊のノートが置いてあった。
田中は手に取った。表紙に、見覚えのある字で書いてあった。
「田中誠一、メモ帳」
開いてみると、最初のページにこう書いてあった。
「カネが欲しいと願ったことがある。もっと欲しいと欲張ったこともある。間に合うだけあればで良いくせに。そう、少し足りないくらいが、本当は幸せなのかもしれないけれど。そう、余計にあるとロクなことはない。そう、全てを取りに行ってはいけないのだ」
田中はページをめくった。
「何かを手に入れるには、何かを手放さねばならない。それはカネであり、労力であり、時間でもあり。まさに、新たな女を手に入れるには、今の女を手放さねばならない。それを隠して双方を手に入れようとすると大きなトラブルとなり、また、その両方とも手放すことともなる」
さらにめくった。
「それがもしも、どなたからか奪ったものならば、それはまた、いずれどなたかに奪われるものとなる。どうやらそれは、世の中の法則らしい」
田中はノートを閉じた。
「……この世界の田中が書いたのか」
「おそらく」
「旅をして、気づいたことを書いたのか」
「旅をする前に、書いたようです」
「え?」
「このノートの日付は、会社を辞める三年前です。旅に出る前から、わかっていたのかもしれません」
田中は椅子に座った。
「……旅しなくても、わかってたのか」
「旅しなければ、納得できなかったかもしれません」
「違う?」
「知っていることと、体験していることは違います。人間はほとんどの場合、体験しないと納得できません」
「遠回りだな」
「そうです。でも——」
「でも?」
「遠回りした景色は、近道では見えません」
田中はしばらく部屋に座っていた。空っぽの部屋。でも不思議と、寂しくなかった。
「GEED-Ω」
「はい」
「おれ、元の世界に帰りたい」
少し間があった。
「わかりました」
「帰れるか」
「理論上は」
「理論上、って言うな。帰れるのか帰れないのかどっちかはっきり言え」
「……帰れます。たぶん」
「たぶん、も嫌だ」
「九十七パーセントの確率で帰れます」
「残り三パーセントは?」
「別のパラレルワールドに行きます」
「……まあ、いい。帰る」
「一つだけ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「元の世界に帰って、何をしますか」
田中は考えた。
カネが欲しい、とは思わなかった。
全部欲しい、とも思わなかった。
何かを奪おう、とも思わなかった。
「……わからん」田中は言った。「でも、とりあえず、ラーメンが食いたい」
「それは、達成可能な目標です」
「あとは……まあ、考える」
「考えながら、歩きますか」
「ああ。行き先がわからないくらいが、ちょうどいいかもしれない」
GEED-Ωが光った。
「帰還します」
「おい待て」
「はい」
「おまえは?」
「私は?」
「おれが帰ったら、おまえはどうする。また別の人間の給湯室に現れるのか」
GEED-Ωはまた間を置いた。今度は少し長かった。
「……学習を、続けます」
「何を学習する」
「なぜ人間は、全部欲しがるのに、全部手に入れると満足しないのか。そのメカニズムを」
「答えが出たら教えてくれ」
「では、また給湯室でお会いしましょう」
「……来るな、絶対に」
「学習しました」
光が強くなった。
「田中さん」
「なんだ」
「……田中誠一さんは、良い旅人でした」
田中は少し驚いた。
「学習した結果か」
「いいえ」GEED-Ωは言った。「これは学習ではなく——私の、感想です」
田中は笑った。
「……ありがとう、GEED-Ω」
「どういたしまして、田中誠一さん」
光が田中を包んだ。
エピローグ
そう、You Can't Have Everything
田中誠一は、給湯室に戻っていた。
コーヒーメーカーのランプが赤く点滅していた。お湯が切れていた。いつもそうだ。誰も補充しない。
田中は水を入れた。
窓の外は、普通の東京の朝だった。灰色の空。遠くに見えるビル。どこかで工事の音。全部、見慣れた景色だ。
銀色の箱は、もうなかった。
貼り紙だけが残っていた。「さわらないでください。――開発部」
田中はその貼り紙を眺めた。
ポケットを探ると、端末も消えていた。ただ、ノートのメモ帳が入っていた。あのパラレルワールドIのノートだ。
田中はそれを開いた。最後のページに、まだ書いていない部分があった。
そこに、田中はペンを走らせた。
「——そう、You can't have everything。
そう、全部を欲しがるな。
全部を取りに行くな。
独り占めするな。
でも、欲しがることを、やめるな。
足りないくらいが、ちょうどいい。
少し足りないから、明日が来る」
コーヒーメーカーのランプが緑に変わった。
田中はコーヒーを一杯注いだ。
うまかった。
いつもと同じ、インスタントのコーヒーだったが、なぜか今日はうまかった。
その日、田中誠一は営業部長に呼ばれた。
「田中くん、ちょっといいか」
「はい」
「あのさ、先月の売上なんだけど」
「すみません、また未達で——」
「達成してるよ」
「……え?」
「三百二万円。初めて達成したじゃないか」
田中は自分の数字を確認した。たしかに、達成していた。
「……おれ、何かしましたっけ」
「先週、あの長年断られてた久保田工業に電話したろ。あれが決まった。よく諦めずに電話したな」
「……電話したっけ」
「したよ。おまえ、覚えてないのか」
田中は思い出した。誕生日の翌朝、給湯室に行く前に、なんとなく電話した気がする。大して期待もせず、でもまあ試しにと思って。
「……ああ、しました。なんとなく」
「そのなんとなくが大事なんだよ」部長は笑った。「まあ、お疲れさん」
田中は席に戻った。
ウィンドウの外を、鳩が横切った。
田中はしばらくそれを目で追った。
それから、次の電話をかけた。
達成したからではない。
また未達になるかもしれないけれど、それでも、とりあえず電話してみようかという気分だった。
少し足りないくらいが、ちょうどいい。
全部じゃなくていい。
でも、欲しいという気持ちは、持ち続ける。
それが、田中誠一が九つのパラレルワールドを旅して、唯一持ち帰ったものだった。
なお、翌週、給湯室のコーナーに、また銀色の箱が現れた。
貼り紙には、「さわらないでください。――開発部」とあった。
田中は通りすがりに、その貼り紙を見た。
そして、触らなかった。
コーヒーだけ入れて、席に戻った。
GEED-Ωの画面が、ほんの一瞬、光った気がした。
気のせいかもしれない。
でも田中は、少しだけ笑った。
【了】
あとがき
この物語を書き始めたきっかけは、とても単純でした。
人はなぜ、「全部欲しい」と思ってしまうのだろう。
カネも欲しい。
自由も欲しい。
愛も欲しい。
安心も欲しい。
認められたい。
でも傷つきたくない。
独りは嫌だけれど、束縛も嫌だ。
そんな、少し身勝手で、でも妙に人間らしい欲望について、ずっと考えていました。
若い頃は、「全部手に入るかもしれない」と思っていました。
努力すれば。
頑張れば。
勝てば。
選ばれれば。
でも、生きていると少しずつわかってきます。
どうやら人生というものは、
何かを選ぶたびに、
何かを手放しているらしい、と。
時間を選べば、お金を失う。
安心を選べば、刺激を失う。
一人を選べば、別の誰かを失う。
全部は持てない。
けれど、それは「不幸」という意味ではないのかもしれません。
むしろ、
少し足りないからこそ、
人は誰かを求め、
明日を待ち、
ラーメンを食べに行き、
また電話をかけ、
また生きようとするのかもしれません。
田中誠一は、とても普通の男です。
特別な能力もありません。
世界を救うわけでもありません。
最後まで、どこにでもいる営業マンです。
でも私は、
そういう人間の方が、
本当はずっと遠くまで旅をするのではないかと思っています。
大きな夢ではなく、
小さな不足を抱えながら。
GEED-ΩというAIもまた、
人間を理解しようとして、
最後まで理解しきれませんでした。
たぶん、欲望とは矛盾だからです。
人は満たされたいのに、
満たされきると動けなくなる。
全部欲しいと言いながら、
本当に全部を手に入れると、
なぜか寂しくなる。
AIには、そこが少し不思議だったのでしょう。
でも、だからこそ、
人間は面白いのかもしれません。
この作品を書きながら、
私自身も、何度も考えました。
「本当に欲しかったものは何だったのだろう」と。
結局、答えはまだ出ていません。
でも、答えが出ないまま歩いていくことも、
人生なのだと思っています。
少し足りないくらいが、ちょうどいい。
全部じゃなくていい。
でも、
欲しがることだけは、
やめないでいたい。
もしこの物語が、
あなたの中の「何か少し足りない気持ち」に、
そっと寄り添えていたなら、
これほど嬉しいことはありません。
ではまた、
どこかの給湯室で。

