波は、また来る

― Surf's Up ―


波は また来るということ
白いシャツは 白く着るということ
雨の日には 傘をさすということ
楽しいときは 笑うということ
愛は 伝えてこそ叶うということ

色 香り 味 温度
そして 音にも 拘るということ




第一章 白いシャツ

 田原慎吾が最後にサーフボードを手にしたのは、四十二歳の誕生日の三日前だった。

 神奈川の海で育ち、二十代は波に乗って生きた。けれど東京の広告代理店に拾われてから、慎吾の人生は別の波——締め切りと数字と会議の波——に飲み込まれていった。

 離婚したのは三年前。理由は単純だった。妻の陽子は言った。「あなたといると、わたしが透明になっていく気がする」。慎吾には反論できなかった。自分でも、いつの間にか透明になっていたから。

 その日、慎吾は渋谷の百貨店で白いリネンのシャツを買った。特に理由はなかった。ただ、白いシャツが白く見える人間でありたいと、ぼんやりと思っただけだ。
 試着室を出ると、鏡の中に中年の男が立っていた。しかし——珍しいことに——その男は、悪くなかった。

 コーヒーを飲みに入ったのは、百貨店の地下にある小さな喫茶店だった。木のカウンターに、古いエスプレッソマシン。時代錯誤な空間が、却って落ち着いた。

 「いらっしゃいませ」
 振り向いた先に、女がいた。

 四十代だろうか。エプロンをつけ、髪を無造作にまとめている。特別な美しさというより、長い時間をかけて獲得したような、静けさのある顔だった。

 「ハンドドリップで、コスタリカがございます。本日のお勧めです」
 声に、深みがあった。慎吾はそれだけで、頷いた。


第二章 雨の日には

 翌週も、その翌週も、慎吾は地下の喫茶店に通った。
 女の名前は岸本麻子といった。三年前に夫を癌で失い、今はこの店を一人で切り盛りしているという。それを知ったのは、三度目の訪問のときだった。麻子が話してくれたわけではなく、常連の老人がさらりと教えてくれた。

 麻子はよく笑う人ではなかった。けれど、たまに笑うと、その笑いが本物だとわかった。

 ある木曜日、東京に珍しく強い雨が降った。慎吾が傘を持たずに店に飛び込むと、麻子がカウンターの奥から言った。

 「傘、忘れましたか」
 「いつも忘れるんです。天気予報を信じない主義で」
 「信じなくても、雨は降ります」
 それだけのやりとりだった。しかし慎吾は、その言葉を夜中に何度も反芻した。信じなくても、雨は降る。そしてそのとき、傘があるかどうかは、信念ではなく準備の問題だ。

 人を愛することも、同じかもしれない。

 帰り際、麻子は店の傘立てから一本取り出して差し出した。
 「返しに来なくていいです。忘れてきたと思えば」
 「忘れたものを、返す気にはなれません」
 慎吾は傘を受け取った。黒い、何の変哲もないビニール傘だった。
しかし家に帰ってからも、玄関にそれを立てかけたまま、何週間も使えなかった。


第三章 五感について

 慎吾は広告の仕事をしている。色と言葉と音で人の気持ちを動かすのが仕事のはずだったが、いつからか、それが作業になっていた。

 麻子の店に通ってから、何かが変わりはじめた。
 コーヒーの香りを、ちゃんと吸い込むようになった。カップの温もりを、両手で感じるようになった。麻子がポットを傾ける音に、耳を澄ますようになった。

 「いつもそんなに、コーヒーをじっと見てますか」
 ある日、麻子に訊かれた。
 「見てないです。聞いてます」
 「聞いてる?」
 「注ぐ音。今日のは少し、いつもより高い」
 麻子は少し間を置いてから、答えた。
 「豆が古くなってきたのかもしれません。よくわかりましたね」
 慎吾は何も言わなかった。言わなくてよかった。ただ、気づけたことが、嬉しかった。

 その夜、慎吾は久しぶりに、昔使っていたレコードプレーヤーを取り出した。針を落とすと、ビル・エヴァンスが流れた。音に、部屋が変わった。
 色。香り。味。温度。音。
 五つのものを大切にできる人間が、人を大切にできる——そんな気がした。根拠のない確信だったが、慎吾にはそれが真実に思えた。


第四章 波は、また来る

 九月の末、麻子の店が火曜だけ定休になった。理由は教えてもらえなかった。慎吾は水曜日に行くようにした。

 ある水曜日、店に入ると麻子の顔色が悪かった。
 「大丈夫ですか」
 「少し、疲れているだけです」
 「何か、ありましたか」
 麻子は長い沈黙の後、言った。
 「夫の祥月命日が、火曜でした」
 慎吾はしばらく、何も言えなかった。コーヒーが来て、ゆっくり飲んだ。店に他に客はいなかった。
 「波みたいなものですよ」
 慎吾が言うと、麻子は首を傾けた。

 「悲しみが、ですか」
 「そうじゃなくて。波は、また来ます。どんな波のあとにも、次の波が来る。良い波も悪い波も、全部、また来る。それだけを信じれば、沖で待てる」
 麻子は少し目を伏せてから、顔を上げた。その目が、微かに潤んでいた。

 「あなたはサーファーですか」
 「昔は。今は、元サーファーです」
 「また乗ればいい」
 「ええ」
 二人の間に、静けさが落ちた。都会の喧騒が遠くなる静けさだった。


第五章 伝えてこそ

 十月の、雨上がりの夕方だった。
 慎吾は閉店間際の店に入った。麻子は一人でカウンターを拭いていた。
 「今日は遅いですね」
 「言いたいことがあって、来ました」
 麻子の手が、止まった。

 慎吾は、東京に来てから初めて感じる緊張の中で、言葉を探した。うまい言葉は見つからなかった。だから見つかった言葉だけを使った。
 「あなたが淹れるコーヒーが、好きです。あなたと話すことが好きです。あなたと同じ空気の中にいると、自分が透明じゃなくなる。

それが何なのか、ずっと考えていましたが、もう考えなくていいと思っています」
 麻子はしばらく、慎吾を見ていた。
 「返事は、いつでもいいです。急かしません」
 「急かしてください」
 麻子が言った。

 「え?」
 「急がしてもらわないと、わたしはまだ、沖で波を待ち続けてしまいそうなので」
 慎吾は笑った。心の底から笑ったのは、何年ぶりだったかわからなかった。
 麻子も笑った。
 それは小さな笑いだったが、本物だった。


エピローグ

 翌年の五月、慎吾は十八年ぶりにボードを手にした。
 場所は湘南ではなく、千葉の小さなビーチだった。麻子が「見ていてあげます」と言ったので、慎吾は少しだけ恥ずかしかった。

 波は小さかった。けれど、立った。
 沖に出て振り返ると、砂浜に麻子が見えた。白いシャツを着ていた。よく見えたのは、その白さが本物だったからだと、慎吾は思った。
 波が来た。
 また、来た。

     — 了 —




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波は また来るということ
白いシャツは 白く着るということ
雨の日には 傘をさすということ
楽しいときは 笑うということ
愛は 伝えてこそ叶うということ

色 香り 味 温度
そして 音にも 拘るということ

わかった?

以上。。。