『価値観の夜に時計が逆回る』
まえがき
人は、自分が思っている以上に、“価値観”で人生を選んでいるのかもしれません。
若い頃は、お金があれば幸せになれると思っていました。
高級車に乗れば人生が変わる気がしたし、ブランド物を持てば“大人”になれる気もしていました。
けれど年齢を重ねるにつれ、人は少しずつ気づき始めます。
本当に落ち着く店。
本当に心が休まる会話。
本当に自然に笑える相手。
そういうものは、意外と派手ではなく、むしろ地味で、静かで、当たり前の場所にあったりするのだと。
この物語は、そんな“価値観”の話です。
もし、あなたの価値観が今とは少し違っていたら――
もし、別の選択をしていたら――
もし、別の誰かを愛していたら――
あなたの人生は、どんな景色になっていたのでしょう。
高級店に囲まれた人生。
ブランドに包まれた人生。
海外で暮らす人生。
誰もが一度くらいは憧れるような世界。
けれど、そのどれもが“幸せ”とは限らない。
なぜなら人は、最後には“自分が自然に呼吸できる場所”へ戻っていくからです。
還暦を過ぎると、人生は少し静かになります。
ですがその静けさの中で、若い頃には見えなかったものが見えてくる。
この物語は、そんな年齢になったひとりの男が、
いくつもの世界線を巡りながら、
最後に「自分の人生」を見つけ直す話です。
読み終えたあと、
あなた自身の“自然に笑える場所”を、
少しだけ思い出していただけたなら幸いです。
第一章 価値観の夜に時計が逆回る
還暦を越えると、人生は急に“静か”になる。
若い頃は、仕事に追われ、子どもに追われ、時間に追われていた。だが六十を過ぎると、追いかけてくるものが減り、代わりに“思い出”が追いついてくる。
その夜もそうだった。
私は台所のテーブルに肘をつき、孫の写真を眺めていた。
長女の子は、私の若い頃にそっくりだ。眉の形も、笑ったときの口元も、まるでコピーしたようだ。
次女の子は、妻の笑顔をそのまま受け継いでいる。あの、外遊びが好きで、いつも太陽みたいに笑っていた彼女の笑顔だ。
「……大きくなったな」
写真に向かって呟くと、妻が湯呑みを置いた。
「あなた、また写真見てるの? ほんと好きねえ」
「いや、なんか……落ち着くんだよ」
妻は笑った。
「あなたって昔からそうよね。高級なものには興味ないくせに、家族の写真だけは宝物みたいに扱うんだから」
私は苦笑した。
「高級なもんは落ち着かん。どうも性に合わん」
妻は湯呑みをすすりながら言った。
「あなたの“価値観”ってやつね」
その言葉に、私はふと遠い昔を思い出した。
――価値観。
若い頃は、そんな言葉を使う男は嫌いだった。偉そうで、説教臭くて、自分を正当化するための言い訳に聞こえた。
だが六十を過ぎると、その言葉が妙にしっくりくる。
高級店が苦手で、場末の居酒屋が好きで、ブランドより無印の質感を選び、派手さよりも素朴な笑顔を好む。
そんな価値観が、私の人生をゆっくりと形づくってきた。
「……まあ、これで良かったんだろうな」
そう呟いた瞬間だった。
壁の時計が、コチ、コチ、と逆に動き始めた。
最初は老眼のせいかと思った。だが、秒針は確かに逆走している。
分針も、時針も、まるで人生を巻き戻すように回り出した。
「おいおい……なんだこれ」
立ち上がろうとしたが、椅子ごと後ろへ引っ張られるような感覚に襲われた。
視界が白く弾け、耳鳴りがして、身体がふわりと浮いた。
次の瞬間、私はまったく別の世界に立っていた。
第二章 高級フレンチの悪夢
高級フレンチの悪夢から逃げ出した私は、店を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
次に目を開けると、そこは銀座の街角だった。
夜の銀座は、六十を過ぎた今でもどこか落ち着かない。若い頃から、私はこの街が苦手だった。理由は簡単だ。高級店が多すぎる。
私は高級店に入ると、ナプキンの折り方でパニックになる男だ。フォークが三本並んでいるだけで、「これは罠か?」と疑ってしまう。
そんな私が、なぜか銀座のど真ん中に立っている。
しかも、目の前には“絶対に自分とは縁がないはずの店”があった。
店名はフランス語で、読めるようで読めない。ドアマンは黒いスーツで直立不動。店の前には黒塗りの車が並んでいる。
私は思わず後ずさりした。
(いやいや、これは違う。私が来る場所じゃない)
逃げようとしたその瞬間、ドアマンが深々と頭を下げた。
「加藤様、本日もお待ちしておりました」
……加藤様? 私が?
私は思わず周囲を見回した。同じ名字の誰かがいるのかと思ったが、どう見ても私に向かって言っている。
「どうぞ、いつもの席へ」
いつもの? 私が? この店に?
私は半ば強制的に店内へ案内された。
中に入ると、空気が違った。高級店特有の“静かな圧力”がある。
照明は暗く、テーブルには白いクロス。ナプキンは芸術作品のように折られている。
私は思った。
(ああ……これは悪夢だ)
席に案内されると、テーブルには小さな金属プレートが置かれていた。
《KATO》
私は震えた。
(なんで名前が刻まれてるんだ……? ここは私の縄張りじゃないぞ……?)
店員がワインリストを差し出した。
「本日は、ロマネ・コンティのご用意もございます」
私は心の中で叫んだ。
(帰りたい……!)
だが、店員は続ける。
「加藤様は、当店の“プラチナ会員”でございますので、特別にご案内できる銘柄がございます」
プラチナ? 私が? この私が?
私は悟った。
(これは……“価値観が真逆だった場合の人生”だ)
つまり、高級店が大好きで、ブランドを誇らしげに持ち、場末の居酒屋など見向きもしない――そんな“別の私”が生きてきた世界線。
店員が料理の説明を始めた。
「本日の前菜は、北海道産の雲丹を使ったムースでございます。こちらをまず香りでお楽しみいただき……」
私は思った。
(いや、雲丹は軍艦巻きで食べたい……)
料理が運ばれてくるたびに、私は心の中でツッコミを入れ続けた。
「こちらは、フランス産の鴨を四十八時間かけて低温調理したものです」
(焼き鳥の“ねぎま”の方が好きだ……)
「こちらは、トリュフを贅沢に使ったリゾットでございます」
(トリュフより、ラーメンの背脂の方が落ち着く……)
食べれば食べるほど、私は自分が“この世界線の住人ではない”ことを痛感した。
店員が言った。
「加藤様、デザートはどうなさいますか? 本日は特別に、“加藤様専用メニュー”もご用意しております」
私は叫んだ。
「すまん、ちょっと外の空気を吸ってくる!」
店員が驚いた顔をしたが、私は構わず店を飛び出した。
外に出た瞬間、視界が白く弾けた。
(頼む……次はもう少しマシな世界線であってくれ)
第三章 ブランドお嬢様との結婚世界線
ブランドお嬢様の世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
次に目を開けると、そこはマンションのエントランスだった。
白い大理石の床。天井のシャンデリア。空気がやたらと香水の匂いを含んでいる。
私は思わずつぶやいた。
(……これは、絶対に私の生活圏じゃない)
その時、エレベーターが開き、ひとりの女性が現れた。
全身ブランド。バッグはロゴが主張しすぎて、もはや“歩く広告塔”のようだ。
彼女は私を見るなり、当然のように腕を絡めてきた。
「あなた、今日は早かったのね」
……あなた? 私が? このブランドの塊のような女性の夫?
私は心の中で叫んだ。
(やめてくれ、これは絶対に違う世界線だ)
■ブランドの家
部屋に入ると、そこはモデルルームのように整いすぎていた。
生活感が一切ない。雑誌の撮影用かと思うほどだ。
ソファは白。テーブルも白。床も白。
私は思った。
(こんな家で醤油をこぼしたら死刑だな……)
妻(らしい女性)が言った。
「あなた、また無印なんて買ってきてないでしょうね?」
私は反射的に背筋を伸ばした。
「い、いや……」
「あなたの“質感がどうのこうの”っていう価値観、あれ本当にやめてほしいのよね。ブランドじゃないと、気分が上がらないの」
私は悟った。
(ああ、これは“価値観が真逆だった場合の結婚生活”だ)
■休日の過ごし方の地獄
妻は続けた。
「ねえ、今度の休日はどうする? 新作のバッグを見に行きたいの。あなたのカードで」
私は思わず聞き返した。
「……カードで?」
「そうよ。あなた、プラチナカード持ってるじゃない。あれ、使わないと意味ないでしょ?」
私は心の中で叫んだ。
(いや、意味があるとかないとかじゃなくて……そもそも私はプラチナカードなんて持ってない!)
妻はさらに続ける。
「それに、あなたの服も買い替えましょう。その“無印っぽいシャツ”、ほんとやめてほしいの」
私は胸を押さえた。
(無印のシャツを否定されたのは人生で初めてだ……)
■価値観のズレが生む小事件
夕食の時間になった。
妻が言った。
「今日はデリバリーにしたわ。フレンチのコースよ」
私は思わず聞き返した。
「……家でフレンチ?」
「そうよ。あなた、外食ばかりじゃ疲れるでしょ? たまには家でゆっくり高級料理を楽しみたいの」
私は思った。
(いや、家で食べるなら焼き魚と味噌汁がいい……)
料理が運ばれてくると、妻はスマホを構えた。
「ちょっと待って。写真撮るから」
私は箸を持ったまま固まった。
(いや、冷める……)
妻は言った。
「あなた、ほんとセンスないわね。こういうのは“映え”が大事なのよ」
私は悟った。
(ああ……これは無理だ)
■逃走
妻が言った。
「ねえ、来月の記念日だけど、銀座の新しい高級レストランを予約しておいたわ。あなた、ああいう場所が似合うんだから」
似合わない。絶対に似合わない。
私は高級店に入ると、ナプキンの折り方でパニックになる男だ。
私は思わず叫んだ。
「すまん、ちょっと外の空気を吸ってくる!」
玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
(頼む……次はもう少しマシな世界線であってくれ)
第四章 西洋女性と結婚した世界線
ブランドお嬢様の世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
次に目を開けると、そこは――白かった。
壁が白い。床も白い。家具も白い。窓から差し込む光まで白く感じる。
私は思わずつぶやいた。
(……ここはどこだ?)
キッチンから声がした。
「Honey, breakfast is ready!」
……ハニー? 私が? 誰に?
キッチンに立っていたのは、金髪で背の高い女性だった。映画に出てくるような、理想的な西洋の奥さんというやつだ。
彼女は笑顔で言った。
「You always wake up late. Come on, kids are waiting.」
キッズ? 子ども? 私の?
リビングの奥から、ハーフの子どもたちが走ってきた。
「Dad! Dad!」
私は思わず後ずさりした。
(おいおい……これは夢か? それとも、若い頃の“あの妄想”が具現化した世界線か?)
■アメリカナイズされた“別の自分”
妻(らしい女性)が言った。
「Today is your turn to take them to school. Don’t forget their lunch boxes.」
私は震える声で答えた。
「え、ええと……味噌汁は?」
妻は首をかしげた。
「Miso soup? You mean that salty soup you like? I can make it for dinner.」
私は胸を押さえた。味噌汁を“that salty soup”と呼ばれたのは初めてだ。
子どもたちが言った。
「Dad, can we have pancakes again tonight?」
私は思った。
(いや、味噌汁が飲みたい……)
妻が笑顔で言う。
「You know, you’re more American than me now. You never eat Japanese food anymore.」
私は叫びそうになった。
(そんなはずはない! 私は毎日、味噌汁と焼き魚で生きてきた男だ!)
しかし、この世界線の私は、どうやら“アメリカナイズされた男”らしい。
■文化のズレが生む小さな痛み
朝食のテーブルには、パンケーキ、ベーコン、スクランブルエッグ。
私はフォークを持ちながら思った。
(いや、朝は白米と味噌汁だろ……)
妻が言った。
「By the way, your mother called. She said she misses you. You should visit Japan sometime.」
……日本に“帰る”ではなく、“訪れる”と言われた。
その瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。
(ああ……これは違う。これは、私の人生じゃない)
■子どもたちの言葉
子どもたちが学校へ行く準備をしながら言った。
「Dad, can you help me with my homework? It’s about American history.」
私は思わず聞き返した。
「……日本史じゃなくて?」
「Japan? Dad, you’re not from Japan. You were born here!」
私は固まった。
(え……? この世界線の私は、日本に生まれていない?)
妻が笑いながら言った。
「Honey, you always forget. You moved here when you were a baby. You’re basically American.」
私は思った。
(いや、私は“基本的に日本人”だ……!)
■逃走
妻が言った。
「Honey, after you drop the kids, can you pick up some groceries? We’re out of maple syrup.」
私は叫びそうになった。
(いや、味噌が切れてるなら分かるけど……メープルシロップが切れて困る人生なんて知らない!)
私は玄関へ走った。
「Honey? Where are you going?」
振り返る余裕もなく、私は外へ飛び出した。
視界が白く弾けた。
(頼む……次は味噌汁の匂いがする世界線であってくれ)
第五章 ハワイ移住の世界線
西洋女性との世界線から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
次に目を開けると、そこは――青かった。
空が青い。海が青い。ついでに私のサーフパンツも青い。
潮の匂いが鼻をくすぐり、波の音が胸の奥に響く。
私は思わず呟いた。
「……ここは、ハレイワか?」
若い頃、娘たちが外国人と結婚するかもしれないと想像したとき、ついでに自分もハワイに住む妄想をしたことがある。その妄想が、どうやら現実になっているらしい。
■ハレイワの朝
家の前にはサーフボードが立てかけられ、庭にはパパイヤの木が揺れている。
私は自分の腕を見た。真っ黒に焼けている。
(……誰だ、この健康的な腕は)
そこへ、隣の家の男が声をかけてきた。
「Yo, Kato! Waves are perfect today! You coming?」
私は思わず胸を張った。
「Of course!」
……と言ったものの、サーフィンなど一度もやったことがない。
だが、この世界線の私は、どうやら“ハレイワのローカルサーファー”らしい。
■伝説のサーファー(らしい)
海に出ると、周りのサーファーたちが声をかけてくる。
「Kato! Show us your legendary drop-in!」
レジェンダリー? 私が? 何を?
私はボードに乗り、波に向かって漕ぎ出した。
次の瞬間、派手に転んだ。
海の中でぐるぐる回され、鼻に海水が入り、命の危険すら感じた。
浜に戻ると、ローカルたちが笑いながら言った。
「Kato, you okay? You’re not young anymore, man!」
私は思った。
(いや、若くても無理だ……)
■夢の島の“現実”
家に戻ると、妻(らしい女性)が言った。
「あなた、またサーフィンで転んだの? 医療費が高いんだから、気をつけてよ」
医療費。そうだ。ハワイは物価も医療費も高い。
冷蔵庫を開けると、牛乳が日本の倍の値段で、卵は金のように扱われていた。
妻がため息をつく。
「あなた、最近仕事どうなの? 観光業は不安定だし、そろそろ日本に帰ることも考えたら?」
私は胸を押さえた。
(ああ……これも違う。ここは“夢の場所”だけど、私の人生じゃない)
■ハレイワの夕暮れ
夕暮れの海を見ながら、私は思った。
ハワイは美しい。風も、海も、空も、すべてが絵葉書のようだ。
だが――
味噌汁の匂いがしない。
焼き鳥の煙も、裏道のラーメン屋の湯気も、どこにもない。
私は玄関へ向かった。
「どこ行くの?」
妻が聞く。
私は振り返らずに言った。
「味噌汁の匂いがする方へ……」
外へ飛び出した瞬間、視界が白く弾けた。
(頼む……そろそろ“本来の世界線”に戻してくれ)
第六章 本来の世界線の妻との出会い
ハワイの海から逃げ出した私は、玄関を飛び出した瞬間、また視界が白く弾けた。
次に目を開けると、そこは――夕暮れの路地だった。
アスファルトの匂い。遠くで聞こえる自転車のブレーキ音。焼き鳥屋の煙が、ゆっくりと空に溶けていく。
私は思わず深呼吸した。
(ああ……この匂いだ)
高級フレンチでも、ブランドの家でも、ハワイの海でもない。
私がずっと落ち着いてきた、“普通の日本の裏道”の匂いだ。
■彼女の登場
その時、路地の向こうから女性が歩いてきた。
背伸びをしない服装。ブランドのロゴはどこにもない。髪を後ろでひとつに結び、少し日焼けした頬に、自然な笑顔が浮かんでいる。
彼女は私を見ると、軽く手を振った。
「お待たせ。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃって」
私は胸の奥がじんわりと熱くなった。
(……帰ってきた)
この世界線こそ、私が生きてきた“本来の人生”だ。
■初デートの裏道
彼女は言った。
「ねえ、今日はどこ行く? あの焼き鳥屋でもいいし、ラーメンでもいいよ」
私は思わず笑った。
「……焼き鳥にしようか。床がちょっとベタベタしてる店」
彼女はケラケラと笑った。
「あなた、ほんとそういう店好きだよね。でも、私も好きだよ。なんか落ち着くし」
その笑顔を見た瞬間、私は確信した。
(ああ、やっぱりこの人だ)
高級店ではなく、ブランドでもなく、ハワイの海でもなく。
この“普通の裏道で笑う彼女”こそ、私の価値観の終着点だった。
■価値観がぴたりと合う瞬間
焼き鳥屋に入ると、店主が「いらっしゃい」と言いながらタオルで額を拭いた。
床は少しベタつき、壁には昭和のポスター。煙がゆらゆらと漂っている。
彼女は席に座るなり言った。
「こういう店の方が、なんか“生きてる”って感じがするよね」
私は思わず聞き返した。
「……生きてる?」
「うん。高級店って、綺麗だけど“息してない”感じがするの。ここは、ちゃんと人の匂いがする」
私は胸の奥がじんわりと温かくなった。
(価値観が合うって、こういうことなんだな)
■選んだのではなく、選び合った
彼女がビールを飲みながら言った。
「ねえ、あなたってさ、なんでそんなに“普通の店”が好きなの?」
私は少し考えてから答えた。
「……背伸びしなくていいから、かな。それに、君が一番自然に笑う場所だから」
彼女は照れたように笑った。
「そんなこと言うと、また好きになっちゃうよ?」
私は思った。
(いや、もう十分すぎるほど好きだ)
その瞬間、遠くで時計の針が動く音がした。
コチ、コチ、コチ――
今度は、正しい方向へ。
私は悟った。
(ああ……もう旅は終わりだ)
この世界線こそ、私が選び、そして選ばれた人生。
私は彼女の手を取り、夕暮れの裏道を歩き出した。
焼き鳥の煙が、ゆっくりと夜空に溶けていった。
最終章 現代への帰還
夕暮れの裏道を、彼女と並んで歩いていた。
焼き鳥の煙がゆっくりと空へ溶けていき、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
その瞬間、またあの“時計の音”がした。
コチ、コチ、コチ――
今度は、確かに前へ進む音だ。
私は目を閉じた。
(ああ……もう戻る時間か)
目を開けると、私は台所の椅子に座っていた。
壁の時計は、何事もなかったかのように正しい時間を刻んでいる。
テーブルの上には、孫の写真。
私は深く息をついた。
(長い旅だった……)
■娘たちの帰宅
その時、玄関の方から声がした。
「お父さん、ただいまー!」
長女が帰ってきた。その後ろには、背の高い、優しそうな男が立っている。
「こんにちは、お父さん。今日は娘さんをお借りしました」
彼は少し照れたように笑った。
次女も続いて帰ってきた。その後ろには、また背の高い、優しそうな男。
「こんばんは。今日は家族でご飯ですか?」
私は思わず笑った。
(なるほど……うちの娘たちは、“普通で、優しくて、よく笑う男”を選んだのか)
それは、私がずっと大切にしてきた価値観そのものだった。
■妻の笑顔
妻が台所から顔を出した。
「あなた、みんな揃ったわよ。そろそろご飯にしましょう」
私は立ち上がりながら思った。
(ああ……これが“本来の世界線”だ)
娘たちの笑い声。婿たちの穏やかな会話。妻の、昔と変わらない笑顔。
そのすべてが、私の価値観の延長線上にある。
■息子の未来
ふと、まだ独身の息子のことを思う。
(あいつはどんな娘を連れてくるのだろう)
白人でも、黒人でも、ハーフでも。誰でもいい。本人が幸せなら、それでいい。
……だが、きっと彼も、私と同じように“普通の日本女性”を選ぶ気がする。
そんな予感がした。
■小泉八雲の言葉
ふと、小泉八雲の言葉が頭をよぎる。
「日本の女性は、この国の最高傑作だ」
もちろん、それは時代背景のある言葉だ。今の価値観とは違う部分もある。
だが私は思う。
(最高傑作かどうかは知らない。けれど、私は“この国の女性”に救われてきた)
妻が笑いながら言った。
「あなた、何ぼーっとしてるの。早く座って」
私は席に着き、家族の顔を見渡した。
■価値観とは何か
ああ、価値観とは――
派手さでも、正しさでも、理屈でもなく、“自分が自然に笑える場所へ導く癖”のようなものだ。
私は静かに箸を取った。
「いただきます」
その言葉が、長い旅の終わりを告げた。
あとがき
人生を振り返ると、派手な出来事よりも、静かな選択の積み重ねが自分を形づくってきたのだと感じます。
高級店が苦手で、場末の店が好きで、ブランドより質感を選び、派手さより素朴な笑顔を好む。
そんな“価値観”が、私の人生をゆっくりと導いてきました。
もし価値観が違っていたら、私はどんな人生を歩んでいたのか。そんな思いから、この物語は生まれました。
高級フレンチの世界線も、ブランドお嬢様の世界線も、ハワイ移住の世界線も、どれも“ありえたかもしれない人生”です。どれも魅力的で、どれも少し滑稽で、どれもどこか寂しい。
けれど、私は最終的に“普通の裏道で笑う彼女”を選びました。
その選択が、娘たちの笑顔につながり、孫の写真につながり、今の静かな暮らしにつながっています。
価値観とは、派手な旗のようなものではなく、もっと小さくて、もっと静かで、もっと個人的なものです。
自分が自然に笑える場所へ導く癖。
それが価値観の正体なのだと思います。
読んでくださったあなたの人生にも、きっと“自然に笑える場所”があるはずです。
その場所を大切にしてほしい――
そんな願いを込めて、この本を閉じます。

