NO MONEY - NO MISSION

~報酬なき男の使命録~


まえがき

 この物語は、ある平凡な中年男の話である。

 名を田中孝男(四十七歳)という。大手食品メーカーの営業部に勤めて二十三年。妻あり、子二人、ローンあり、薄毛あり、腹回りあり。どこにでもいる、ごく普通の男だ。

 しかし彼には、誰も知らない一面があった。

 それは、世界を密かに、そして勝手に、よりよくしようとする衝動である。

 誰も頼んでいない。報酬もない。称賛もない。

 それでも彼は今日も立つ。公衆トイレの便器の前に。

 これは、そんな男の滑稽にして崇高な記録である。




一章 事の始まり、もしくは最初の使命

 田中孝男が「使命」というものに目覚めたのは、四十五歳の秋のことだった。

 場所は、田町駅近くの居酒屋「鳥よし」の二階トイレ。

 彼は昼食後の恒例行事として小用を足しに入り、そこで運命的な出会いを果たした。

 排水溝の手前に、一本の毛が落ちていたのだ。

 それは間違いなく、前の使用者のものであろう短い縮れ毛だった。通常であれば男というものはそのような物体を無視し、用を足し、去るものである。

 しかし、その日の孝男は違った。

 なぜかは本人にも分からない。強いて言えば、前の晩に録画していた「プロジェクトX」を見たせいかもしれない。あるいは、課長に三度同じ書類の修正を命じられ、密かな鬱憤が溜まっていたせいかもしれない。

 孝男は、その縮れ毛を見つめた。

 そして、思った。

 ――流してやろうか。



 狙いを定めるのに、三秒かかった。

 放物線の計算は経験的なものだ。四十余年の男としての実績がここに活きる。残量の調整もカギとなる。勢いが強すぎてもダメ。弱すぎても届かない。水が細く長く、しかし確実に排水溝へと向かう軌道を描かねばならない。

 孝男は、息を止めた。

 静かな集中。まるで弓道の射。いや、これはもはや一種の禅だ。

 そして――。

 流れた。完璧に。

 縮れ毛は渦を描きながら排水溝に吸い込まれた。

 「よしっ!」

 孝男は思わず呟いた。拳を握っていた。

 これが、始まりだった。


二章 使命の定義、もしくは哲学的考察

 帰宅した孝男は、夕食の卓でぼんやりと考えていた。

 「ねえ、聞いてる?」妻の恵子が言った。「今日、陽太の学校から電話があってさ」

 「うん」孝男は上の空で答えた。

 頭の中には、あの瞬間が繰り返し再生されていた。縮れ毛が排水溝に落ちる、あの美しい弧を描く軌道が。

 使命とは何か。

 広辞苑によれば「与えられた任務」とある。しかし今日の孝男の行為は、誰にも与えられていない。会社でもなく、国でもなく、神でもなく。

 それでも確かに、あれは使命だったと孝男は思った。

 自分の中から湧き出た、抗いがたい命令。そう、NO MISSION ではなく、SELF MISSION だ。

 「ちょっと、聞いてるの?」

 「聞いてる聞いてる。陽太が何かしたんだろ」

 「先生に向かって『おじさん』って言ったらしいの」

 「あははは」

 孝男は笑ったが、頭の中ではすでに次の作戦を考えていた。



 翌朝、孝男は早めに家を出た。

 そして田町の公衆トイレに寄り道した。

 便器の前に立ち、床を確認する。

 あった。また一本。

 「ふっ」

 孝男は鼻から息を吐いた。使命の男は、動じない。


三章 エスカレーション第一段階:紙くずの反乱

 使命は、静かに、しかし着実に拡大していった。

 ある日のこと。孝男が会社近くのコンビニのトイレに入ると、床に小さな紙くずが落ちていた。ゴミ箱から外れたと思しき、くしゃくしゃになったティッシュだ。

 孝男は便器の前に立ちながら、それを見た。

 毛ではない。紙だ。

 しかも排水溝からは三十センチほど離れている。

 通常、これは「不可能」に分類されるミッションだ。

 しかし孝男の頭脳は、すでに解決策を算出していた。

 水圧だ。

 勢いよく放つ水流は一種の水鉄砲にもなり得る。そうすれば紙くずをじわじわと排水溝方向へ誘導できるのではないか。

 問題は精度と残量だ。

 孝男は腰の角度を微妙に調整した。まるでゴルファーがアドレスを取るように、慎重に、丁寧に。

 そして、作戦を開始した。



 七分後。

 孝男はトイレから出てきた。

 シャツの裾が少し湿っていたが、紙くずは排水溝に流れ込んでいた。

 完璧ではなかった。だが成功だ。

 「よしっ!」

 コンビニの入口でそう呟いたため、入ってきた女子大生が怪訝な顔をした。

 孝男は気づかなかった。使命の男は、周囲の視線を気にしない。


四章 エスカレーション第二段階:格闘する男

 問題が発生したのは、師走のある夕方だった。

 孝男が入った百貨店のトイレ。そこには毛でも紙でもなく、なんと一円玉が落ちていた。

 排水溝のそば、五センチ。絶妙な位置だ。

 孝男の使命センサーが、ビリビリと反応した。

 しかし。

 一円玉は硬い。丸い。そして重い。

 水流では動かない。これは物理の問題だ。

 孝男は考えた。足の先で蹴るか?しかし靴の爪先では正確な力加減が難しい。下手をすると排水溝を超えてしまう。あるいは逆方向に飛ぶ。

 孝男は、意を決した。

 腰を屈め、指でつまもうとした。しかしその姿勢で一円玉を「流す」のはどう考えても不自然だ。いや、そもそも一円玉を指でつまんで排水溝に入れるのは「流す」とは言えない。それはただの「捨てる」だ。

 使命の本質が問われた瞬間だった。

 孝男は悩んだ。五分間、便器の前で悩んだ。

 後ろのドアが開き、おじさんが入ってきて、立ちんぼの孝男を見て「あ、失礼」と言って出て行った。



 結論として孝男が出した答えは、「一円玉は対象外」という新ルールの制定だった。

 使命には、スコープが必要だ。

 帰宅後、孝男はメモ帳に書いた。

 『流す使命対象物リスト(暫定版)』

 ・毛類(縮れ・直毛・長短問わず) → 可

 ・紙くず(小) → 可(要技術)

 ・紙くず(大) → 要検討

 ・硬貨 → 対象外(物理的限界)

 ・靴紐 → 仮想敵。いつか挑む

 妻の恵子がそのメモを見て、「病院行く?」と言ったが、孝男は「大丈夫」と答えた。


五章 エスカレーション第三段階:ライバルの登場

 孝男が通うフィットネスクラブのトイレで、事件は起きた。

 いつものように便器の前に立ち、床の確認をした孝男は、目を疑った。

 縮れ毛が……すでにない。

 いや、あったはずだ。三分前に入ったとき、確かにあった。しかし今はもう、排水溝の方向に流れた跡すら残っていない。

 誰かが、先にやった。

 孝男の胸に、複雑な感情が渦巻いた。安堵か。嫉妬か。いや、これは――仲間への驚きではないか。

 世界には、自分以外にも「流す男」がいたのだ。

 孝男は洗面台で手を洗いながら、鏡の中の自分を見た。なんだか感動していた。



 翌週。同じトイレ。

 今度は孝男が先に入り、毛を発見し、見事に流した。

 「よしっ!」

 そしてドアを開けると、五十代とおぼしきがっしりした男性と目が合った。彼もまたトイレに入ろうとしていたのだ。

 男は便器の前に立ち、床を見た。

 孝男は手を洗いながら、その男の背中を見た。

 男は五秒ほど床を見つめ、やがて何かを悟ったように、ゆっくりと用を足し、去っていった。

 二人の間に、言葉はなかった。

 しかしそこには、確かな連帯があった。

 使命の男たちの、無言の握手が。


六章 エスカレーション最終段階:国際ミッション

 翌年の春、孝男は出張でシンガポールへ飛んだ。

 チャンギ国際空港のトイレ。

 世界最高水準の清潔さを誇るその白亜の聖域で、孝男は思いがけないものを発見した。

 縮れ毛、一本。

 国籍不明。人種不明。しかし使命の対象物であることは、明らかだ。

 ここはシンガポール。ポイ捨てには罰金が科される国だ。しかし、トイレの床に落ちた毛を流す行為は……おそらく合法だ。いや、むしろ奨励されるべき行為だろう。

 孝男の胸に、ある感慨が広がった。

 これはもはや日本の問題ではない。人類共通の使命だ。

 言語の壁を超え、文化の壁を超え、地理の壁を超え、男たちはみな同じ便器の前に立ち、同じ床を見る。

 そこに落ちたものを流すのか、流さないのか。

 それが、問題だ。



 孝男は、狙いを定めた。

 国際的な使命の遂行。

 空調の音だけが響く、清潔な白いタイルの空間で、孝男はかつてない集中を高めた。

 そして――流した。

 完璧だった。

 「よしっ!」

 英語でもなく、中国語でもなく、マレー語でもなく、日本語で孝男は呟いた。

 誰かが隣の個室から「ん?」と言ったが、孝男は気にしなかった。


七章 報酬について、もしくは人生の真理

 東京に戻った孝男に、部長から呼び出しがかかった。

 シンガポールの商談がうまくいったのだ。

 「田中君、よくやった。今期のボーナス、少し色をつけよう」

 部長が言った。

 「ありがとうございます」

 孝男は礼を言いながら、思った。

 これがもらえる報酬か。しかし、あのシンガポールの一本の毛を流したことへの報酬は、どこにもない。

 当然だ。誰も頼んでいない。誰も見ていない。誰も知らない。

 NO MONEY - NO MISSION。

 そう、これは金にならない使命だ。

 しかしだ。

 孝男は廊下を歩きながら、改めて考えた。

 金になる仕事のやりがいと、金にならない使命の充実感は、どちらが大きいか。

 答えは明白だった。



 その夜、孝男は晩酌しながら息子の陽太に言った。

 「なあ、陽太」

 「なに」中学生の息子は、スマホから目を離さずに答えた。

 「人生でいちばん大事なことは何か、わかるか」

 「知らん」

 「報酬のない使命を見つけることだ」

 陽太はスマホから顔を上げ、父を見た。

 「……お父さん、また変なこと考えてるの?」

 「変じゃない。崇高だ」

 「お母さーん、お父さんがまたおかしいー」

 恵子が台所から顔を出した。「どうせトイレの話でしょ。ご飯食べて」

 孝男は苦笑した。

 誰にも理解されない。それでいい。

 使命とは、本来そういうものだ。


エピローグ

 田中孝男、四十七歳。今日も公衆トイレに立つ。

 床を確認する。

 あった。

 狙いを定める。

 残量を調整する。

 集中する。

 そして、流す。

 「よしっ!」

 誰も聞いていない呟きが、白いタイルに吸い込まれる。

 報酬? ない。

 指令? ない。

 感謝? ない。

 それでも、孝男の胸には確かな充実感がある。

 使命を果たした男だけが知る、あの静かな高揚感が。

 NO MONEY - NO MISSION。

 しかし男は今日も行く。

 誰も頼んでいないのに。

 あははは。

〈完〉


あとがき

 公衆トイレという日常の聖域で、誰に頼まれるでもなく密かな使命を遂行する男の話。くだらないといえばくだらない。しかし、人生のあらゆる崇高さは、こうした「無償で、無名で、誰にも知られない行為」の積み重ねではないかと、私は思うのです。

 NO MONEY - NO MISSION。

 それでも、今日も男たちはトイレに立ちます。

 どうか笑って読んでいただければ幸いです。

便器の哲人 記



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おまけ

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

” NO MONEY - NO MISSION ”

公衆トイレに立つと
時折
前の方のチO毛が
そこに落ちてるもんで。。。

ならば と
よおおお~~~く狙いを定めて
排水口へと流し込んでやろ~か なんて。。。

それは
長いこと
男とゆ~生き方をして来たもんで
結構 
うまいこといくもんで

残りの残量を 程よく調整なぞしながら
大砲を
いやいや
小銃を構え
ここ1番の狙いを定める

そして
無事 
排水溝に流れ落ちた有様を確認なぞすると

よしっ!! なんて呟き
優越感に浸る 中年男

しかしながら
この ミッションは
どこのどなたからも
指令を受けたものではないもんで

” NO MONEY - NO MISSION ” ってわけには いかんの ダ。。。

そ~よ
これには
報酬なんて不要
カネなんて 受け取れんの ダ

え?
誰も くれない って?

ごもっともで。。。

あははは





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大丈夫かなあ…     笑