── 口約束と、三十年後の夢 ──
【まえがき】
若い頃、誰でも一度くらい、そんな約束をしたことがあるんじゃないだろうか。
「三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会って結婚しよう」なんて。
笑いながら。半分本気で。半分冗談で。
この物語の主人公は、六十二歳の男だ。
ある夜、三十数年前に別れた女が夢に出てきた。
それだけの話だ。
それだけの話なのに、翌朝から、何かがずっと胸の中に引っかかっている。
幸せは向こうからは来ない、探しに行かなければ。
あの頃、そんなことを知っていたら——。
いや、知っていても、きっと同じことをしたんだろう。
第一章 夢の中の「あははは」
◆ 夢
夢を見た。
場所は、昔住んでいた町の、古い喫茶店だ。もうとっくに潰れているはずの店が、夢の中では当たり前のように営業していた。
カウンターに二人で並んで座っていた。
隣にいる女の顔が、なぜかはっきり見えなかった。でも声はわかった。笑い方もわかった。
「ねえ、三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おうよ」
夢の中の俺は笑っていた。
「あははは。いいよ、そうしよう」
そこで目が覚めた。
時計を見ると、朝の四時二十分だった。
隣で妻の佐知子(さちこ)が静かに寝息を立てている。
浅見浩一(あさみこういち)、六十二歳。定年まであと三年。子ども二人は独立している。妻とは三十四年連れ添った。
何の不満もない生活だ。
それなのに、なぜ今夜、あの夢を見たのか。
◆ 三十数年前のこと
浩一がその女——中村亜矢子(なかむらあやこ)——と付き合ったのは、二十一歳から二十四歳までの三年間だった。
出会いは大学のサークルだ。ギタークラブ。浩一はギターが下手で、ほとんど幽霊部員だったが、亜矢子は違った。毎回練習に来て、一番うまかった。
付き合い始めたのは二年生の秋。別れたのは就職して二年目の春。
別れた理由は、今となってはよく覚えていない。いや、正確には覚えているが、あまりにも情けない理由なので、記憶の奥に仕舞い込んできた。
一言で言えば、浩一が逃げたのだ。
亜矢子が真剣になればなるほど、浩一は怖くなった。
真剣に向き合うことが怖かった。責任を持つことが怖かった。
だから、笑って誤魔化した。
「あははは。まあ、お互い頑張ろうよ」
そんな言い方で、別れた。
別れ際に、あの約束をした。
「三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おう。結婚しよう」
それも笑いながら。
亜矢子は笑わなかったけれど。
第二章 新幹線で来た女
◆ 手紙
別れてから三年が経ったころ、浩一は結婚を決めた。
相手は職場の同僚・佐知子だ。穏やかで、一緒にいると楽だった。
婚約が決まった夜、浩一はふと思い出した。
あの約束のことを。
「もしも結婚するときには必ず知らせる」
そんな約束もしていた。
普通の人間なら、そこで止まる。
でも浩一はバカ正直に、手紙を書いた。
亜矢子の実家の住所はまだ知っていた。
短い手紙だった。
「このたび結婚することになりました。以前の約束の手前、ご報告します。お元気で」
書きながら、自分でも何をやっているのかわからなかった。
送ったあと、後悔した。
でも取り消せなかった。
◆ 押し掛けてきた彼女
一週間後、電話が来た。
「浩一くん? 亜矢子です」
声を聞いた瞬間、心臓が止まりかけた。
「……亜矢子」
「手紙、もらったから。会いたい。来ていい?」
来ていい、と言われる前に断るべきだった。
でも、浩一は「……うん」と言ってしまった。
翌週の日曜日、亜矢子は新幹線に乗ってやってきた。
駅の改札口で待っていると、改札から出てきた亜矢子は——三年前とほとんど変わっていなかった。
「来ちゃった」と彼女は言った。笑顔で。でも目が笑っていなかった。
二人で駅近くのカフェに入った。
亜矢子はコーヒーを頼んで、真っすぐに浩一を見た。
「結婚、本当にするの?」
「……する」
「もう決めたの?」
「決めた」
亜矢子はしばらく黙っていた。
コーヒーカップを両手で包んで、テーブルの染みを見つめていた。
「あの約束……覚えてた?」
浩一は答えられなかった。
覚えていた。だから手紙を書いた。
でも、それが何を意味するのかを、浩一は正面から受け取ることができなかった。
◆ 背を向ける
亜矢子は浩一に、あの熱さを持参してきていた。
三年前と変わらない、あの真剣な目。
「浩一くんのことが、まだ好きだよ」
はっきりと、そう言った。
浩一は、また怖くなった。
三年前と同じように。
「……ごめん」
それだけ言って、俯いた。
亜矢子は「そっか」と静かに言った。
カップのコーヒーを最後まで飲んで、立ち上がった。
「幸せになってね」
改札に向かう亜矢子の背中を、浩一は見送った。
追いかけることも、もう一度呼ぶことも、できなかった。
ただ、背を向けるだけしか、できなかった。
罪かな。
罪だよな。
いや、罪ではないよな。
ないはずだよな。
三十数年経った今も、その問いに答えが出ない。
第三章 あははは、の意味
◆ 息子の恋愛相談
夢を見た翌週の土曜日、長男の健太(けんた)が久しぶりに家に来た。三十一歳、独身、都内でシステムエンジニアをやっている。
夕食を食べながら、健太がぽつりと言った。
「好きな人がいるんだけど、なんか怖くて」
「怖い?」
「うん。真剣に好きだから、真剣にぶつかるのが怖い。玉砕したら立ち直れないかもって」
浩一はコップを置いて、息子の顔を見た。
——三十年前の俺だ。
「玉砕するよりも、怖いことがある」と浩一は言った。
「何が」
「逃げたまま歳を取ることだ」
健太は黙っていた。
「笑って誤魔化して、ずっと逃げてると、三十年後に夢を見る。夢の中でまた笑ってる。あははは、ってな」
「……父さんの話?」
「他人の話だ」
浩一はそう言ってビールを飲んだ。
健太は少し考えてから「そっか」と言った。
食事が終わって健太が帰ったあと、佐知子が洗い物をしながら言った。
「健太に、昔のこと話してたの?」
「……聞こえてたか」
「少しだけ」
佐知子は振り返らずに言った。「あの人のこと、時々夢に見るでしょ」
浩一は固まった。
「……なんで知ってる」
「寝言で笑うから。あははは、って」
◆ 佐知子のこと
洗い物を終えた佐知子はタオルで手を拭いながら、テーブルの椅子に座った。
「怒ってない」と彼女は言った。「人間は過去を持って今を生きてるから」
「……悪かった」
「謝らなくていい。それより聞いていい?」
「何を」
「その人に、ちゃんとさよならを言えたの?」
浩一は答えられなかった。
佐知子は静かに続けた。「言えてないから、夢に出てくるんじゃないかな」
浩一はしばらく黙っていた。
言えていなかった。あの日、「ごめん」と俯いただけで、ちゃんと向き合わなかった。亜矢子の目を見なかった。
「……そうかもしれない」
「そういう人って、夢に出てくるよ。私にも一人いるから」
浩一は驚いて妻を見た。
佐知子は少し笑って「お互い様ね」と言った。
三十四年連れ添った妻が、その夜、少しだけ違って見えた。
第四章 三十二で嫁に行ったと聞いたけれど
◆ 旧友からの便り
亜矢子のことを最後に聞いたのは、共通の友人・木下(きのした)からだった。
あれはいつのことだったか。浩一が三十五歳か三十六歳のころだと思う。
木下から電話があって、「そういえば亜矢子さん、去年結婚したって」と言われた。
「そうか」と浩一は言った。
「三十二だって。相手は地元の人らしいよ」
「そうか」と、また言った。
電話を切ってから、ほっとした気持ちと、もやっとした気持ちが混ざり合っていた。
ほっとしたのは、亜矢子が幸せを見つけたからだ。もやっとしたのは——自分でもよくわからなかった。
今になって思う。
あの「もやっと」は何だったのか。
後悔だったのかもしれない。
あるいは、自分が逃げ続けてきたことへの、遅れてきた自覚だったのかもしれない。
◆ 口約束の正体
なぜ、あんな約束をしたのだろう。
三十になってもお互い独身だったら、もう一度出会おう。
浩一はその理由を、六十二歳になった今、ようやく言葉にできる気がする。
それは「滑り止め」ではなかった。
亜矢子への気持ちは本物だった。
ただ、その気持ちに正面から向き合うことが怖かった。
だから、遠い未来に先送りした。「三十になったら」という言葉に、今の責任を押しつけた。
そして笑った。あははは、と。
笑うことで、真剣さを誤魔化した。
若さが、そうさせたのかもしれない。
でも若さのせいにするのは、簡単すぎる。
結局のところ、浩一は逃げたのだ。
怖かったから、逃げた。
それだけだ。
◆ 健太から電話
夢を見た週から十日ほどが経った月曜日の夜、健太から電話があった。
「告白した」
「どうだった」
「付き合うことになった」
「そうか」
「父さんの言葉が背中を押してくれた。逃げたまま歳を取る方が怖い、って」
浩一は電話口で、少し笑った。
「よかった」
「父さんも、幸せにしてもらってるんだよね、母さんに」
「……ああ」
「じゃあね」
電話を切って、浩一はリビングを見渡した。
佐知子がソファで本を読んでいた。
三十四年間、この人と生きてきた。
不満もあった。ぶつかることもあった。それでも続いてきた。
佐知子は顔を上げて「健太から?」と聞いた。
「ああ。彼女ができたって」
「あら」と佐知子は嬉しそうに笑った。「よかった」
その笑顔が、浩一にはありがたかった。
第五章 幸せは探しに行かなければ
◆ すまん
ある夜、浩一は一人でビールを飲みながら、昔のアルバムを引っ張り出した。
段ボールの奥から出てきた、色あせた写真。
大学のサークルの合宿。山の中で、全員がギターを持っている。
その端に、亜矢子が写っていた。
笑顔だった。細くて、まっすぐで、あの頃の熱さがそのまま写真に残っていた。
浩一は写真に向かって、小さく言った。
「すまん」
声に出して言ったのは、初めてだった。
三十数年間、心の中で何度も言いかけて、言えなかった言葉だ。
「あの約束、守れなくてすまん。手紙なんか書いてすまん。ちゃんと向き合えなくて、すまん」
誰も聞いていない。
佐知子は寝室にいる。
だから言えた。
亜矢子は今、どこかで誰かの妻として、あるいは母として、生きているだろう。
幸せでいてほしい、と思った。
心から、そう思った。
◆ 若い衆たちへ
翌日、浩一は部下の若い社員——入社二年目の加藤(かとう)——と昼食をとった。
加藤は二十五歳で、最近失恋したと聞いていた。
「好きな人に、なかなか気持ちを言えなかったんですよ」と加藤は言った。「言おう言おうと思ってるうちに、別の人と付き合い始めちゃって」
「言えばよかった」
「……そうですよね」
「でも言えなかっただろ」
「はい」
浩一は箸を置いた。「幸せは向こうからは来ないんだ。探しに行かなければ、探し続けなければ」
加藤は黙って聞いていた。
「自分から動くのが怖いのはわかる。玉砕が怖いのもわかる。でも、笑って誤魔化して逃げると、三十年後に後悔する」
「三十年後ですか……」
「ああ。俺みたいにな」
加藤は少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になって「そうします」と言った。
◆ 約束というもの
口約束は、守るべきか。守らざるべきか。
浩一には、今もわからない。
あの約束が正しかったのか、間違いだったのか。
手紙を書いたことが正しかったのか、間違いだったのか。
ただひとつ言えることがある。
約束をするなら、笑って誤魔化すな。
あははは、と笑って誤魔化す約束を、言葉にするな。
誤魔化したいなら、最初から言うな。
言うなら、向き合え。
向き合えないなら、黙っていろ。
それが、三十数年かけて浩一がたどり着いた、唯一の答えだ。
◆ 今夜の夢
あの夢を見てから一ヶ月が経った。
今夜は不思議と、穏やかな気持ちで眠れた。
夢は見なかった。
あるいは、夢を見ても覚えていなかった。
朝、目が覚めると、隣に佐知子がいた。
「おはよう」と佐知子が言った。
「おはよう」と浩一は言った。
それだけだ。
三十四年連れ添って、それだけのやり取りで十分になった。
それが幸せというものの、地に足のついた姿なのかもしれない、と浩一は思った。
幸せは向こうからは来ない。探しに行かなければ、探し続けなければ。
でも、探し続けた先に、こうして朝が来る。
それで、十分だ。
〔エピローグ〕
半年後。
健太が彼女を連れてきた。
名前は麻衣(まい)といった。
明るくて、少し不器用で、でも真剣な目をしていた。
食事を終えて健太たちが帰ったあと、佐知子がお茶を淹れながら言った。
「あの子、いいね。真剣な目をしてる」
浩一は「そうだな」と言った。
亜矢子のことを、少しだけ思い出した。
あの日、改札に向かう背中を見送った夜から、三十数年。
人生は続いている。
若い二人の前にも、たくさんの壁があるだろう。口約束をして笑い合う夜もあるかもしれない。
でも、どうか——真剣に向き合ってほしい。
あははは、で誤魔化さないでほしい。
── 了 ──
【あとがき】
若い日の口約束。守るべきか、守らざるべきか。
答えは最後まで出しませんでした。
それは、読んでくださった方それぞれが、自分自身の経験と重ねながら考えてほしいからです。
ひとつだけ言えることがあるとすれば。
幸せは向こうからは来ない。
今日も、探しに行く価値がある…。

