縁の糸は時を超えて
――偶然と必然の狭間で――
プロローグ 縁の始まり
すべての出会いには、
必ず理由がある。
わずかな違いで、
ここにはたどり着かなかったはずのものばかり。
世界の果てに、糸を紡ぐ者がいるという。
その者は、時の流れの中で見えない縁を結び、人と人、人と運命を繋いでゆく。人はその糸に気づかず、ただ偶然と呼ぶ。しかし偶然とは、必然が姿を変えたものに過ぎない。
タリエン王国の歴史書にはこう記されている。
――《縁の糸》は、準備の整った魂にのみ、その端を差し出す。準備なき者が糸を掴もうとすれば、それはすり抜けるか、あるいは縺れて傷となる。――
これは、ひとりの旅人と、ひとりの若き魔法使いの物語である。
ふたりはそれぞれの場所で、それぞれの痛みを抱えながら、長い時間をかけて準備を重ねてきた。そしてある朝、霧深い森の入り口で、何の予告もなく出会った。
それが偶然だったのか、必然だったのか。
問いの答えは、物語の終わりにある。
第一章 旅人の荷物
アルヴァン・セイラスは四十二歳になる年に、旅を再開した。
かつて彼は、タリエン王国随一の剣士として名を馳せた。若い頃は竜を討ち、王の命を救い、数々の武功を立てた。しかしその名声と引き換えに、彼は多くのものを失ってきた。
妻を。
友を。
そして、自分自身の心の一部を。
十年前、妻のリアナが病で逝った夜、アルヴァンは剣を壁に立てかけ、二度と抜かないと誓った。その後の十年は、王都の外れにある小さな農家で、名もなき農夫として過ごした。畑を耕し、羊を飼い、夜には酒を飲んだ。悲しみを忘れるためではなく、悲しみと共に生きることを学ぶために。
だが、春の始まりのある朝、隣人の老婆ヴェラが彼の家を訪ねてきた。
「アルヴァン」と老婆は言った。「お前さんの目が変わったよ」
「どう変わりましたか」
「死んだ目じゃなくなった。ようやく生きようとしとる目だ」
アルヴァンは返す言葉を持たなかった。しかし老婆の言葉が、何かを揺さぶった。その夜、彼は久しぶりに夢を見た。リアナが草原を走っていた。笑いながら振り返って、言った。
「行きなさい。あなたにはまだ、会うべき人がいる」
翌朝、アルヴァンは小さな革袋に必要なものだけを詰め、壁の剣を外した。刃は錆びていたが、柄の革は十年前のままだった。妻が贈ってくれた剣だった。
彼は農家の鍵をヴェラに預け、道へと出た。
どこへ行くかは決めていなかった。ただ、足の向く方へ歩こうと思った。
それが縁の糸の始まりだったと、後に彼は気づく。しかしそのときは、ただの旅の一歩に過ぎなかった。
三日間、彼は北へ歩いた。春の道は柔らかく、鳥の声が山野に満ちていた。道中、いくつかの村を通り過ぎ、水と食料を補充した。村人たちは彼の剣を見て怪訝な顔をしたが、声をかける者はいなかった。
四日目の朝、霧が出た。
珍しい霧だった。春の霧にしては濃く、白というより銀色に光っていた。道が見えなくなり、アルヴァンは立ち止まった。霧の中で方角を失うのは危険だ。それは旅人の基本だった。
しかしそのとき、霧の奥から声が聞こえてきた。
「あっ……くそっ、また失敗した」
若い声だった。女の声だった。怒りと落胆が混じった声だった。
アルヴァンは声の方へ慎重に歩いた。霧が薄くなり、木々の輪郭が現れ始めた頃、彼は森の入り口でうずくまる小さな人影を見つけた。
少女、と思いかけて、すぐに訂正した。二十代の前半だろうか。短く刈り込まれた黒い髪、緑色の瞳、魔法使い特有の銀の紋章が刺繍された薄紫のローブ。膝の前には魔法陣の痕跡――霧の発生源らしい白い灰が円形に散っていた。
彼女は自分の手のひらを見つめ、眉間に深い皺を寄せていた。
「迷子か」と、アルヴァンは声をかけた。
女は顔を上げた。驚きと警戒が半々の目だった。
「違います。実験中です」
「霧の中で?」
「私が霧を出しました。……失敗しましたが」
アルヴァンは彼女の前に屈み込み、白い灰を見た。確かに魔法陣の痕だった。しかし中心が微妙にずれている。それが失敗の原因だろうと、剣士の直感が告げた。魔法は詳しくないが、中心のある技は何でも同じだ。
「中心がずれている」
「……わかってます」
「気分が悪いときは、中心がずれる。体の重心と同じだ」
女はしばらく沈黙した。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「どうして旅人が魔法陣のことを知っているんですか」
「知らない。ただ、体の使い方は知っている」
女は彼をまじまじと見た。革袋、錆びた剣、くたびれた旅靴。
「……名前は?」
「アルヴァン。あなたは?」
「エルダ。エルダ・ルーネンです」
霧が、ゆっくりと晴れていった。
第二章 魔法使いの重荷
エルダ・ルーネンは二十三歳だった。
王都の魔法学院を首席で卒業した彼女は、卒業と同時に宮廷魔法師の職を打診されていた。しかし彼女はそれを断り、一人で各地を旅していた。理由を人に話したことはない。しかし理由はあった。
彼女の師、老魔法師ゴルドが死んだのは半年前のことだった。
ゴルドは彼女に言った。「エルダ、お前にはまだ学ぶべきことがある。それは学院の中にはない。お前が探しに行かねばならない」
師の言葉の意味は、まだよくわからなかった。だが、旅に出ることだけは間違いないと感じた。宮廷に仕えることではない、と。
それから半年、エルダは各地の遺跡を巡り、古い魔法陣を研究し、記録してきた。しかし何かが足りなかった。技術ではない。知識でもない。もっと根本的な何かが。
アルヴァンと出会った日、彼女は七十三回目の《霧の術》に失敗したところだった。
霧の術は初歩の魔法だ。学院の一年生でも習う。しかし最近、彼女はこの術を完成させることができていなかった。原因は自分でもわかっていた。集中できないのだ。師の死後、心の奥底に何かが刺さったまま抜けず、それが術の中心を歪ませていた。
だから見知らぬ旅人に「中心がずれている」と言われたとき、エルダは驚いた。正確だったから。魔法のことではなく、自分の内側のことまで言い当てられたような気がして。
霧が晴れると、森の入り口の風景が現れた。老木が数本、春の芽吹きを見せていた。アルヴァンはその根元に腰を下ろし、水筒を取り出した。
「どこへ行く途中だ?」と彼は尋ねた。
「北の《古都ラエン》の遺跡を調べに。あなたは?」
「特に決めていない」
「……珍しいですね」
「年を取ると、行き先より歩くことの方が大事になる」
エルダは彼の横に座った。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。警戒すべき相手のはずだった。見知らぬ中年の旅人が、霧の中から現れたのだ。しかし彼の声に、不思議なほど危険な気配がなかった。長い時間を生きてきた者の、静けさがあった。
「《古都ラエン》ならば、二日で行ける」とアルヴァンは言った。「同じ方向だ」
「一緒に行くつもりですか?」
「同じ方向に歩くだけだ。一緒とは言っていない」
エルダは笑いそうになるのをこらえた。
「……変な人ですね」
「よく言われる」
そうして、ふたりは同じ方向へ歩き始めた。
距離を保ちながら。しかし確かに、並んで。
第三章 ラエンへの道
道中、ふたりはあまり話さなかった。
アルヴァンは元来、無口な男だった。リアナが生きていた頃はよく話したが、それは妻が話し上手だったからだ。彼女がいなくなってからは、言葉の使い方を忘れてしまったような気がしていた。
エルダは話すことは得意だったが、この旅人に何を話せばいいかわからなかった。師のこと、失敗の連続のこと、宮廷を断ったこと。どれも重すぎて、初対面の相手に言う言葉ではないと思った。
だから、ふたりは黙って歩いた。
それが不思議なほど、苦にならなかった。
初日の夕暮れ、川沿いに野営地を見つけた。アルヴァンが焚火を起こし、エルダが川から水を汲んだ。役割は言葉なしに分かれた。
夕食は乾燥した豆のスープだった。素朴な味だったが、体が温まった。
「ラエンで何を調べるつもりだ?」アルヴァンが炎を見つめながら尋ねた。
「《縁の魔法陣》の痕跡を」
「縁の魔法陣?」
「古代の魔法です。人と人の縁を繋いだり、切ったりできると言われている。ほとんどは伝説の域を出ませんが、ラエンの遺跡に実物が残っているという記録があって」
「信じているのか、その伝説を」
エルダは少し考えてから言った。
「信じているかどうかより、確かめたいんです。縁というものに、実体があるのかどうかを」
「なぜ確かめたい?」
今度は長い沈黙があった。焚火がパチリと音を立てた。
「師が死んだとき、なぜその時期だったのかと思いました。もっと早くでも、もっと後でも、どちらでもよかったはずなのに。なぜあの瞬間に、という疑問が消えなくて。……縁に実体があるなら、理由があるはずだと思って」
アルヴァンはしばらく黙っていた。
「妻が死んだとき、同じことを思った」
エルダは彼を見た。旅人は炎を見つめたまま、表情を変えなかった。しかしその横顔に、十年分の時間が刻まれているのがわかった。
「今は、どう思っていますか?」
「答えはまだ出ていない。だが、問い続けることが大事だと思うようになった」
夜が更けた。ふたりは各自の毛布にくるまって眠った。
エルダは眠る前に、久しぶりに師の顔を思い浮かべた。怒った顔でも、悲しそうな顔でもなく、笑っている顔だった。
何かが、少しだけほぐれた気がした。
第四章 古都ラエン
ラエンは、かつて魔法国家の首都だった都市だ。三百年前に滅び、今は石造りの廃墟のみが残る。しかし廃墟の中心部には今もなお、何らかの魔力が漂っており、魔法使いたちの研究対象となっていた。
ふたりがラエンに着いたのは、翌日の午後だった。
エルダは地図を取り出し、遺跡の中心部へと向かった。アルヴァンは少し後ろを歩きながら、廃墟を観察した。石は古いが丁寧に積まれている。職人の技が感じられた。三百年前の人間も、同じように丁寧に生きていたのだと思うと、妙な親近感があった。
「ここです」
エルダが立ち止まった。円形の広場だった。中心に大きな石板が埋まっており、表面に複雑な文様が刻まれていた。
エルダは石板に近づき、しゃがみ込んで文様を観察した。目が真剣に輝いていた。
「本物だ……」彼女は小さく呟いた。「これが《縁の魔法陣》。記録通りの形をしている」
「どんな魔法陣だ?」
「中心に二つの点があります。ここと、ここ。この二点の間に、縁の力が流れる。ただし――」
エルダは文様の周囲をなぞった。
「――この陣は、双方が揃わないと発動しません。片方だけが準備できていても、もう片方が来るまで、陣は待ち続ける」
「それが《縁の魔法陣》の特性か」
「そうです。縁は、一方的には成立しない。双方の準備が揃って、初めて縁として現れる。古代の魔法師はそれを、この陣に刻んだんだと思います」
アルヴァンは石板を見下ろした。三百年前の誰かが、こんな山奥の廃都に、この真理を刻んだ。それがいまだにここに残っている。
「試してみるか?」と彼は言った。
「……え?」
「二つの点の上に、それぞれ立てばいい。ただそれだけじゃないのか」
エルダは彼を見た。次に石板を見た。それからゆっくりと立ち上がり、一方の点の上に立った。
「あなたも、あちら側に」
アルヴァンは反対側の点に立った。ふたりは石板を挟んで向かい合った。
何も起きなかった。
五秒、十秒と過ぎた。
エルダが「やはり伝説は――」と言いかけたとき、
石板が光った。
淡い金色の光が、文様の溝に沿って走り、二つの点を繋いだ。光は三秒ほど続き、静かに消えた。
エルダは息をのんだ。アルヴァンも動かなかった。
「……発動した」エルダの声が震えた。「双方が揃ったから。三百年、誰かを待っていた」
アルヴァンはその言葉をゆっくりと噛み締めた。
三百年、待っていた。
縁は、準備の整った者同士を待つ。
何かが、彼の胸の奥でほどけていった。
第五章 夜の語らい
その夜、ふたりはラエンの廃墟の中で眠った。
石造りの小屋が残っており、雨風はしのげた。エルダは魔法陣の写本を取りながら、アルヴァンは焚火の前で静かに過去を思い返した。
やがてエルダが写本を終え、火の前に座った。
「あなたは、どうして旅をやめていたんですか?」
突然の問いだったが、アルヴァンは驚かなかった。焚火を見つめたまま、ゆっくりと答えた。
「妻が死んだあと、続ける理由が見えなくなった。剣を持つことも、旅することも、全部リアナと一緒だったから。彼女がいない世界で、それらを続ける意味がわからなくなった」
「十年、農夫をしていたと言っていましたね」
「ああ。農作業は考えなくていい。手を動かせば、結果が出る。それが楽だった」
「でも、また旅に出た」
「夢を見た。妻が、行けと言った」
エルダは炎を見つめた。
「師も、死ぬ前夜に似たようなことを言いました。『お前にはまだ会うべき人がいる』と」
アルヴァンが彼女を見た。
「同じことを言われた」
「え?」
「妻が夢で言った。『あなたにはまだ会うべき人がいる』と」
ふたりは顔を見合わせた。
沈黙が落ちた。しかしその沈黙は空虚ではなかった。何かが満ちていくような静けさだった。
「……偶然ですよね」エルダが言った。
「そうかもしれない」
「でも、偶然にしては、できすぎている」
「ああ」
エルダは膝を抱えた。
「怖いんです。誰かに近づくことが。師を亡くしてから、誰かと深く繋がることを避けてきました。また失うのが怖くて」
アルヴァンは即答しなかった。じっくりと彼女の言葉を受け取った。それから、
「私もそうだった。十年間」
「……今は?」
「今は、失うことより、出会わないことの方が怖い、という気持ちが少しずつ大きくなってきた。それが準備というものかもしれない」
エルダはしばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく言った。
「……あの魔法陣が光ったのは、私たちが準備できていたから、でしょうか」
「石板はそう言っているようだった」
「ロマンチックすぎる解釈ですね」
「そうだな」
エルダは笑った。久しぶりに、心の底から笑った気がした。
第六章 別れの朝
三日間、ふたりはラエンに留まった。
エルダは魔法陣の研究を続け、アルヴァンは廃墟を歩き回った。夜には焚火を囲み、少しずつ話した。互いの過去、師のこと、妻のこと、そして見てきた景色のこと。
エルダが初めて知ったのは、アルヴァンが竜を討ったことのある剣士だということだった。彼は自慢げに語るでもなく、ただ淡々と話した。その淡々さに、彼がどれだけ多くのものを見てきたかが感じられた。
アルヴァンが知ったのは、エルダが孤児であることだった。幼い頃に両親を失い、ゴルド師に拾われ、魔法学院に預けられた。師は親代わりでもあった。だから師の死は、二重の喪失だったのだ。
四日目の朝、エルダは荷物をまとめた。
「次は東の《霊峰セドラ》に向かいます。そこにも古い魔法陣の記録が」
「そうか」
「……あなたは?」
「まだ決めていない」
エルダは彼を見た。旅の三日間、この男の存在が自分の中で少しずつ大きくなっていることに気づいていた。しかし、どう言えばいいかわからなかった。
彼は年上すぎる。旅の方向も違う。そして何より、自分はまだ、誰かと一緒にいる準備ができているかどうかわからない。
「……また、どこかで会えますか?」
アルヴァンは少し驚いた顔をした。しかし、静かに言った。
「縁の糸が繋いでいれば、会えるだろう」
「それは答えになっていません」
「そうだな。……東の《霊峰セドラ》には、私もいつか行こうと思っていた場所がある。時期が合えば」
エルダはその言葉を胸に収めた。約束ではなかった。しかし可能性だった。
「では、また」
「ああ、また」
エルダは道に出た。振り返ると、アルヴァンが廃墟の入り口に立って見送っていた。
彼女は手を振った。彼も手を上げた。
それだけだった。
しかしエルダは、歩きながら気づいた。
胸の奥にあった重いものが、少し軽くなっていた。
第七章 それぞれの道
エルダは東へ向かった。
《霊峰セドラ》への道は長かった。森を抜け、川を渡り、山を越えた。ひとり旅が久しぶりのように感じた。ラエンを出る前は、ひとり旅こそが自分の本来の姿だと思っていた。しかし今は、少し前まで誰かの足音が隣にあったことを思い出す。
それは孤独ではなかった。懐かしさに近いものだった。
途中の村で、エルダは宿に泊まった。宿の女主人が夕食を出しながら言った。
「お嬢さん、いい顔になったね」
「え?」
「去年ここを通ったときより、目が柔らかくなった。誰かに会ったんじゃないか?」
エルダは驚いた。去年もここに寄っていたが、女主人に覚えられているとは思っていなかった。
「……旅の人に会いました」
「そうかい。その人のことを考えてる顔だね」
エルダは否定しなかった。
「不思議な人でした。年が離れているのに、話していると年齢が関係ない気がして。でも、また会えるかどうかはわかりません」
「縁があれば、また会えるよ」
「……みんなそう言いますね」
「みんながそう言うのは、みんなそれを経験してきたからさ」
女主人は温かいスープを置いて去った。
エルダはスープを見つめながら、アルヴァンの言葉を思い出した。
――縁の糸が繋いでいれば、会えるだろう。
今なら、その言葉が少しわかる気がした。
一方、アルヴァンはラエンを離れ、しばらく当てもなく歩いた。
しかし足は、気づくと東へ向いていた。
特に理由はなかった。ただ、東が気になった。
それが縁の糸というものかもしれないと、彼はぼんやりと思った。
第八章 霊峰セドラの試練
霊峰セドラは、冬の名残りを雪として残す山だった。麓の村から見上げると、頂が雲の中に消えており、その神秘的な姿が多くの旅人を惹きつけた。
エルダが麓に着いたとき、地元の案内人が言った。
「今年は雪が深い。遺跡まで行くには、危険かもしれない」
「それでも行きます」
「おひとりで?」
「……ひとりです」
案内人は難しい顔をしたが、止めることはできなかった。エルダは防寒装備を整え、山道を登り始めた。
三時間ほど登ったところで、吹雪になった。
エルダは《結界の術》で吹雪を凌ごうとした。しかし術が安定しない。集中が乱れていた。
体が冷えてきた。足が重くなった。
それでも進んだ。諦めることは、師への裏切りのような気がした。
しかし、岩の陰で体を休めたとき、エルダは思った。
――私は今、準備ができているのか。
身体的な準備ではなく、心の準備のこと。
師が死んで、まだ半年。悲しみはまだ新しい。アルヴァンに会って、少し軽くなったが、まだ重いものは残っている。
これは、無理に進む場面なのか。それとも、待つべき場面なのか。
吹雪が強まった。
そのとき、後ろから声が聞こえた。
「エルダ!」
振り向いた。
雪の中から、黒い影が近づいてきた。
その姿に、エルダは目を見開いた。
「……アルヴァン?」
「馬鹿な旅人だ」と彼は言った。息を切らしながら。「吹雪の中に、ひとりで」
「なぜここに……」
「足が東に向いていた。理由はそれだけだ」
エルダは呆然とした。それから、ようやく気づいた。
目が潤んでいた。
「……泣いているのか?」
「違います。雪が目に入っただけです」
「そうか」
アルヴァンは彼女の横に座り、革袋から防寒の外套を出した。彼女の肩にかけた。
「遺跡は明日にしろ。今夜は安全な場所で休め」
「でも――」
「準備が整っていないときに無理をしても、縁の陣は光らない。あの石板が教えてくれた」
エルダはしばらく沈黙した。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね」
ふたりは岩陰に戻り、夜を越えた。
吹雪は夜明けとともに静まった。
第九章 光の陣
翌朝、霊峰は嘘のように穏やかだった。
雪が光に反射して、山全体が輝いていた。ふたりは再び遺跡へ向かった。今度は並んで。
遺跡は山頂近くの岩壁に刻まれていた。ラエンの石板より古く、文様は半ば風化していたが、基本的な構造は同じだった。中心に二つの点。その間を繋ぐ線。
エルダは石板の前に立ち、じっと見つめた。
「ここには、《縁を解く》陣も刻まれている」彼女は言った。「縁を結ぶだけでなく、縁を解くこともできる。古代の魔法師は、両方を作った」
「なぜ解く必要がある?」
「縁は、必ずしも幸せをもたらすとは限らないから。時に、縁が重荷になることもある。そのときのために、解放の術も用意した、ということだと思います」
アルヴァンは石板を見た。結ぶ陣と解く陣。表裏一体。
「あなたは師との縁を解きたいと思ったことがあるか?」
「……ありました。最初の頃は。失うことが苦しくて、出会わなければよかったと思ったことが」
「今は?」
「今は、違います。どんなに苦しくても、あの縁があったから今の私がいる。解きたいとは思わない」
アルヴァンは静かにうなずいた。
「妻との縁も同じだ」と彼は言った。「失って十年経って、ようやくわかった。解きたいとは思わない。ただ、その縁を抱えて次へ進むことができるようになってきた」
エルダは彼を見た。
「……それが準備というものですか」
「そうかもしれない。過去の縁を否定せず、抱えて進める状態。それが次の縁を受け取れる状態なのかもしれない」
エルダは深く息を吸った。それから、一方の点に立った。
「一緒に立ちますか」
アルヴァンは反対側の点に立った。
石板が光った。
今度の光はラエンより明るく、長く続いた。金色の光が山頂の雪に反射して、あたり一面を輝かせた。
エルダは涙をこらえなかった。
アルヴァンは目を細めた。その光の中に、一瞬、リアナの笑顔が見えた気がした。
光が消えた後、静寂があった。
それから、エルダが言った。
「私、ここで気づきました。師の言っていた『学ぶべきこと』が何か」
「何だ?」
「技術でも知識でもなく、縁の受け取り方です。誰かと深く関わることを怖れず、でも依存しすぎず、ただ共にいることの意味を。師はそれを教えたかったんだと思います。言葉ではなく、私が自分で気づくように」
アルヴァンは彼女を見た。
霊峰の朝の光の中で、エルダの顔は以前より清んで見えた。
「師は賢い人だったんだな」
「……ええ。本当に」
エルダはまた泣いていた。しかし今度は、悲しみではなく、感謝の涙だった。
第十章 縁の告白
セドラの麓の村に戻ったふたりは、宿に二泊した。
エルダは魔法陣の記録を整理し、アルヴァンは宿の主人の頼みで、壊れた農具を直した。十年の農夫生活は、こういうところで役に立った。
二日目の夜、食堂で食事をしながら、エルダが言った。
「次は、どこへ行くつもりですか?」
「決めていない」
「……また同じ方向になるかもしれませんね」
「そうかもしれない」
エルダはワインを一口飲んだ。勇気を集めるように。
「一緒に行きませんか」
アルヴァンは動かなかった。
「旅の同行者として、という意味か?」
「……それ以上の意味も、あります」
沈黙。
エルダは続けた。声が少し震えていた。
「あなたと一緒にいる時間が、今まで感じたことのない安心感をくれます。年が離れているとか、これからどうなるかとか、そういうことはまだわかりません。でも、少なくとも今、あなたと一緒に旅を続けたいと思っています。それは、縁の陣が光ったことよりも確かな気持ちです」
アルヴァンはワインを置いた。
長い沈黙の後、彼は言った。
「私もそう思っている」
エルダは顔を上げた。
「ただ」と彼は続けた。「私は四十二だ。あなたは二十三だ。私が老いていく速さは、あなたより速い。それでも構わないか」
「構いません」
「答えが早すぎる」
「考えてきました。霊峰を登るより前から」
アルヴァンは彼女を見た。真剣な目だった。迷いがない目だった。
彼は思った。この目は、十年前の自分が持っていた目に似ている。何かを決めたときの、揺るぎない目。
「……リアナのことを、話してもいいか」
「聞かせてください」
「彼女がいたから、今の私がいる。その縁は消えない。それを抱えたまま、新しい縁を受け取ろうとしている。それでも構わないか」
「私も、師を抱えたまま旅をしています。お互い様です」
アルヴァンは深く息を吸った。
「……ありがとう」
「何がですか?」
「霧の朝に、声をかけてくれたことへの礼だ。七十三回目の失敗の後に」
エルダは笑った。
「知っていたんですか、七十三回目だということ」
「数えていなかったが、そんなに失敗していた目をしていた」
「……失礼な人ですね」
「そうだな」
食堂に夜の賑わいが戻ってきた。
ふたりは、もう少しだけ同じテーブルに座っていた。
第十一章 共に歩む道
それからのふたりの旅は、以前と少し変わった。
距離が変わった。並んで歩く距離が縮まった。言葉が増えた。沈黙の質が変わった。以前の沈黙は、互いを知らない者同士の静けさだった。今の沈黙は、互いを知った者同士の静けさだった。
旅は続いた。南の森、西の湖、各地の遺跡と市場と村を巡りながら、ふたりはそれぞれの研究と、それぞれの目的を持ちながら、同じ道を行った。
エルダの魔法は変わった。
あれほど失敗が続いていた《霧の術》が、ある朝から安定して成功するようになった。術の中心がぶれなくなった。なぜかはわかっていた。自分の内側の中心が、ぶれなくなったからだ。
失うことへの恐れは消えなかった。しかしそれより大きく、誰かと共にある喜びが育っていた。そのバランスが、術を安定させた。
アルヴァンの剣は変わった。
久しぶりに剣を使う機会があった。旅の途中、山賊に遭遇したのだ。アルヴァンは剣を抜いた。錆びた刃は磨き直されていた。彼の動きは若い頃ほどではなかったが、確かな重みがあった。経験の重みだった。
戦いが終わった後、エルダが言った。
「本当に剣士だったんですね」
「疑っていたのか」
「少しは」
「失礼な魔法使いだ」
「お互い様です」
旅を始めて半年が過ぎた頃、ふたりはある古い神殿を訪れた。縁の神を祀るという神殿だった。神官が言った。
「縁の神は、人の縁を見守り、時が来たときに引き合わせる。しかし縁を結ぶのは、神ではなく人自身です。神は糸を手渡すだけ。糸を受け取り、手で握るのは、人の意志によるものです」
エルダはアルヴァンを見た。
「糸を受け取ったのは、私たちの意志ですよね」
「そうだな」
「では、縁は偶然でも必然でもなく、意志なんですか?」
アルヴァンはしばらく考えた。
「三つ全部だと思う。偶然の出会い、必然の時期、そして意志による選択。三つが重なったとき、縁になる」
神官が微笑んだ。
「お客人、なかなか良いことをおっしゃる。まるで縁の神の代弁者のようです」
エルダは笑った。アルヴァンは照れたように咳払いをした。
それが、ふたりらしい瞬間だった。
第十二章 縁の糸は時を超えて
一年が過ぎた。
エルダの研究は大きく進んでいた。古代の縁の魔法に関する論文を書き始め、各地の魔法師協会から注目されるようになっていた。師が望んでいたことは、これだったのかもしれないと思うようになっていた。
アルヴァンは、旅の中で少しずつ剣術の指南を始めていた。村の若者に頼まれ、基礎を教えた。教えることで、自分の技が整理されていくことを知った。与えることが、受け取ることでもある、ということを。
ある秋の夕暮れ、ふたりは最初に出会った場所、ラエンの廃墟に戻った。
一周回って、戻ってきた。
廃墟は変わっていなかった。石板も、文様も、変わらずそこにあった。
エルダは石板の前に立った。
「一年前、私はここで失敗ばかりしていた魔法使いでした。師を失って、何かを探して、でも何を探しているかもわからなかった。あなたに会うまでは」
アルヴァンは石板の反対側に立った。
「私は十年間、農夫だった。妻を失って、続ける理由がわからなくて。夢の声に従って歩いてきたら、霧の中に七十三回失敗した魔法使いがいた」
「七十三回というのは、本当に失礼ですよ」
「事実だろう」
「……事実ですけど」
エルダは笑った。それから、真剣な目になった。
「ここでもう一度、陣を踏みたいです。今の私たちで」
ふたりはそれぞれの点に立った。
石板が光った。
金色の光が走った。
今度は長く、明るく、暖かく。
一年前よりずっと長く、光は続いた。
光が消えた後、エルダが言った。
「長くなりましたね」
「そうだな」
「縁が深くなったから、ですかね」
「かもしれない」
秋の夕日が廃墟に差し込み、ふたりの影を長く伸ばした。
エルダはアルヴァンの隣に歩いてきた。彼の手に、自分の手を重ねた。
アルヴァンは動かなかった。しかし、その手を握り返した。
「ねえ、アルヴァン」
「何だ」
「私たちは、偶然に出会ったのか、必然に出会ったのか、どちらだと思いますか?」
アルヴァンは夕日を見た。それからエルダを見た。
「必然が偶然を装っていたんだと思う。ずっと近くにいて、時を待っていた。私たちそれぞれが準備を終えた、あの朝に姿を現した」
エルダはその言葉をゆっくりと噛み締めた。
「……だから、大事に生きなければいけませんね」
「ああ。縁は、大事に生きている人のところに来る」
夕日が沈んでいった。
廃墟に夜が訪れ、星が出た。
ふたりはしばらく、そこに並んで座っていた。
言葉がなくても、十分だった。
それが、縁というものだった。
エピローグ
三年後。
エルダの論文『古代縁魔法陣の研究:偶然と必然の接点』は、王国魔法師協会の最優秀論文賞を受賞した。師ゴルドの名を冠した研究室が、王都の魔法学院に設立された。
アルヴァンは王都の近郊に小さな武術道場を開いた。農地の代わりに若者たちの汗が、土の代わりに板張りの床が、羊の代わりに木刀の音が、日常を満たした。
ふたりは、王都から一日の距離にある村に家を持った。
海の見える丘の上の、小さな家だった。
ある日の夕方、エルダは縁の魔法陣の模型を作っていた。研究室の学生たちに見せるためだった。精巧な陣の中心に、二つの小さな点が輝いていた。
アルヴァンが横から覗き込んだ。
「まだそれを作っているのか」
「完璧なものを作りたいんです」
「完璧な陣など存在しない。縁と同じで、常に変わり続けるものだ」
「……それは、研究者への挑戦ですか?」
「いや、詩だ」
エルダは笑った。
「あなた、いつからそんなロマンチックなことを言うようになったんですか」
「農夫の頃からだ。ただ言う相手がいなかった」
夕日が海を赤く染めた。
エルダは模型を置き、窓の外を見た。
「ねえ、アルヴァン。もし私が霧の中で失敗し続けていなかったら、あなたは声をかけてこなかったと思う?」
「声をかけたのはお前じゃない。私が近づいたんだ」
「そうだっけ」
「そうだ」
「でも、私が失敗していなかったら、あなたは気づかなかったかもしれない」
「……そうかもしれない」
エルダは微笑んだ。
「失敗してよかった」
アルヴァンは少し考えて、言った。
「七十三回失敗してよかったな」
「もう本当に失礼な人ですね」
「事実だろう」
ふたりの笑い声が、海風に乗って広がった。
偶然と必然と。
その境界は、どこにあるのだろう。
けれど、確かなことがひとつある。
縁は、大事に生きている人のそばに来る。
だから、大事に生きよう。
必然は偶然を装いながら、
いつも、すぐそこにいるのだから。
――了――


