序章
J’S BAR
村上春樹さんの小説の中に
時折 出没するこの店は
その物語の中では
かなり大事な場所でもあって
若者たちを包み込む
JAY という名の中国人のマスターがいる
そんな小説の中では
すべてが格好良く進行していくわけだけれども
僕らのガキの頃には
なかなかどうして
毎度 突き当たる壁に
右へ逃げたり
左へ折れたり
いやいや
後ろへと引き下がることの方が多かったわけで
そんな僕らの青春の中にも
名前は違えど
その J’S BAR は存在した
細い階段を
薄暗い階段を
足元を確かめながら下りて行くと
その文房具屋さんの地下には
古くて天井の低い
僕らの溜まり場があって
JAY ではないが
年老いてはいたが優しいマスターと
アルバイトの
福島なまりの そりゃあ~綺麗な看板娘
奥には
インベーダーゲームがあったけれど
大好きだったのは
その入り口付近に置かれた
古いモノラルのジュークボックスと
僕らよりも3つ年上の
その皆が憧れた看板娘
サワコねえちゃん
場所は渋谷
明治通りに面した宮下公園の向かい側
名前は
スナック エイト
そして
いつぞやか 僕らは正々堂々と
その恋のレースのスタートラインに並んでいた
良い時代だった
そう
この人生に於いて
とても良い風が吹いていた
結局
授業をさぼってまで通った
イケメンのあいつが彼女を射止め
僕らは仕方なくも涙ぐんだ中で
でも
負けは負けだと祝杯を挙げながら
笑顔は次の機会にと素直に諦められた
そんな70年代の終わりに
そんなそんな 居心地の良い夢を見た
そして
長い長い時は過ぎ
先日 久々に訪れてみたその場所には
もう その店があるはずもなく
すでにそこだけ廃墟化してしまったビル
それでも地下へと通じる その階段だけが
ひっそりと降ろされたシャッターの中にあることを確認などして
あ~~~ っと
ひとつ 溜息をついた
すぐ道路向かいにあったはずの
僕らが勝負したバッティングセンターもなく
向かい側の宮下公園すらもない
時はすでに45年もが流れ
そこにいた すべての人は入れ替わり
そして今も時は流れ続けている
そう
今も いずれ過去となって
また こうして
どなたかが 懐かしく今を
未来で語るのだろう
あの頃
目をつぶっても歩けたほど
知り尽くした渋谷の街は
哀しきかな
もう ひとつもわからない街へと
変わってしまった…
J’S BAR
〜四十五年後に開いた地下〜
——アルト。
四十五年ぶりに、僕の名前が呼ばれた。
第一章 廃墟のシャッター
先週の土曜日、僕は久しぶりに渋谷へ行った。
特別な用事があったわけじゃない。六十三歳になった男が、午後の手持ち無沙汰をもてあまして、なんとなく電車に乗っただけのことだ。定年退職からもう三年が経つ。妻の芙美子は友人たちとランチだと言って出かけていったし、子供たちはとっくに独立している。家の中にひとりで座っていると、時間というものがひどく粘っこいものに感じられて、どこかへ逃げ出したくなる。
渋谷に降り立って最初に思ったのは、やっぱりわからない、ということだった。
ハチ公前の広場に出て、僕は少しの間、ぼんやりと立ち尽くした。スクランブル交差点を渡る人々の波は相変わらず激しく、外国人観光客がスマートフォンを掲げて動画を撮っている。その向こうに聳えるビルの群れは、僕の記憶の中にある渋谷とはまるで別の街だった。
かつて、目をつぶっても歩けたほど知り尽くしていた街。
それがどこにもない。
道玄坂の傾斜だけは昔のままで、登りながら息が少し切れるのも変わっていないけれど、並んでいる店はすべて入れ替わっている。知っている名前がひとつもない。看板の色が、音楽の漏れてくる感じが、人々の歩き方までもが、あの頃とは違う。
僕は明治通りの方へ歩いていった。
宮下公園はもう公園じゃなかった。商業施設になっていた。「ミヤシタパーク」という名前で、おしゃれなショップが並んでいる。それはそれでいいんだろうけれど、あの細長い公園で昼寝をしていた人たちはどこへ行ったんだろう、と僕は思った。ベンチでギターを弾いていた若者たちは。バッティングセンターで汗を流していた連中は。
バッティングセンターも、もちろんなかった。
その向かい側に、目当ての場所があった。
正確に言えば、あったはずの場所、だ。
文房具屋は消えていた。ビルごと残ってはいるのに、一階は完全にシャッターが降りていて、窓ガラスにはクラフト紙が貼られている。二階も三階も同じで、全体的に薄汚れた廃墟めいた雰囲気を漂わせていた。周囲の建物が新しくなっていく中で、そのビルだけが時間から取り残されたみたいに古びている。
でも。
細い路地を入ったところに、地下へ続く階段があった。
あの階段が。
シャッターが降りていた。錆びついた、古いシャッターだ。チェーンが巻かれて南京錠がかかっている。でも確かにそこにあった。半世紀近い歳月を経て、変わらずにそこにあった。
僕はしばらく、そのシャッターの前に立っていた。
秋の午後の光が、路地に斜めに差し込んでいた。どこかで烏が鳴いた。通り過ぎる人は誰もいなかった。
アルト、とどこかで声がした。
一瞬、息が止まった。
僕の昔のあだ名だ。背が高いくせに声が低くて、友達にそう呼ばれていた。でも今や僕をそう呼ぶ人間はいない。妻も、子供も、職場の同僚だった連中も、誰も知らない。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ秋の光と、烏の声と、路地に漂う微かな黴のにおいがあるだけだった。
気のせいだろうと思った。
でも家に帰る道すがら、あの声のことがずっと頭から離れなかった。低くて、少し掠れていて、でも不思議にきれいな声。
その声を、僕はよく知っていた。
家に帰ると芙美子はまだ戻っていなかった。
僕は書斎に入って、本棚の前に立った。村上春樹の文庫が何冊か並んでいる。学生の頃から読んでいて、引越しのたびに持ち歩いてきた本たちだ。背表紙の色があせて、端が擦り切れている。
『1973年のピンボール』を取り出した。
開くと、あのバーの場面が浮かんでくる。J’S BAR。薄暗い照明と、静かなジャズと、ジェイというゆっくりと老いていく中国人のマスター。僕らが十代の頃に読んで、こういう場所があるものかと憧れた。格好よく悩んで、格好よく恋をして、格好よく失って、格好よく生き続ける登場人物たちに、嫉妬にも似た気持ちを抱いた。
現実は、ずっとかっこわるかった。
でも、現実にも場所はあった。
スナック エイト。
今から四十五年前、渋谷の地下にあったその店のことを、僕は久しぶりに思い出していた。薄暗い階段を降りたところにある、天井の低い、古い、煙草の煙が染み付いたような場所。インベーダーゲームの電子音と、古いジュークボックスの音楽と、栃木なまりのやさしいマスターと。
そして、サワコねえちゃん。
澤子さん、というのが本名だったと思う。僕らより三つ年上で、当時は二十一歳か二十ニ歳。アルバイトとして働いていた。顔の造作がとびきりきれいというわけじゃないけれど、笑うと目のあたりに光が集まるような感じがして、みんなが好きになった。
みんなが、本当にみんなが好きだった。
あの路地で聞いた声は、サワコねえちゃんの声に似ていた。
そんなはずはない。あれから四十五年だ。もし彼女が存命なら、今は六十代の後半のはずだ。あの路地にふらりと現れて、アルトと呼びかけるような理由がない。
でも似ていた。
僕は本を閉じて、ソファに横になった。天井を見ながら、目を閉じた。
眠るつもりはなかったけれど、秋の午後のひかりの中で、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢を見た。
地下に続く階段だった。薄暗くて、手すりが古びていて、降りるたびに木が軋む音がした。でも怖くはなかった。むしろ懐かしかった。降りていけばいいものがある、という確信があった。
ジュークボックスの音楽が聞こえてきた。
何の曲だったか、目が覚めたら思い出せなかった。でも確かに聞こえた。古い、少し歪んだモノラルの音で、でも温かみのある音で。
「アルト」
と、声がした。
目が覚めた。
窓の外はもう暗くなっていた。台所から芙美子が夕飯の支度をする音が聞こえてきた。
夢だった。
ただの夢だ。
なのに、僕の心臓は妙に大きく打っていた。
第二章 一九七九年の地下
あれは一九七九年の冬のことだった。
僕は十八歳で、渋谷の予備校に通っていた。大学受験に一度失敗して、浪人生として毎日授業を受けていたけれど、正直なところ勉強はあまり頭に入っていなかった。あの頃の自分に何が足りなかったかと言えば、勉強への情熱ではなくて、何かに熱中する方向がわかっていなかった、ということだと思う。何者になりたいのかが、まるでわからなかった。
スナック エイトを最初に教えてくれたのは、クラスメートの武田だった。
武田勝彦、通称カツ。関西弁のイケメンで、女の子の扱いが上手くて、でも根が真面目なのか成績はわりとよかった。僕とカツは何となく気が合って、授業が終わると一緒にどこかへ行くことが多かった。
「ええとこ見つけたんや」とカツが言ったのは、十一月の終わりだったと思う。「地下にあるスナックやけど、なんか雰囲気がええんよな。ジュークボックスがあってな」
「スナックって、俺ら入れるのか」
「全然入れる。ていうか、客層が若いんや。マスターがやさしいし」
「女の子とかいるのか」
カツがにやっとした。「それが、これがまたすごいんや。アルバイトのねえちゃんが、めちゃくちゃきれいやねん」
それが最初だった。
文房具屋の脇にある路地から、細い階段を降りていく。手すりに触れると冷たくて、下から音楽の音が漏れてきた。あの頃のジュークボックスの音楽は、スピーカーが一つしかないから左右に広がらない。ただ真ん中からまっすぐに、温かく柔らかく音が出てくる。モノラルの音楽というのはなぜか人を安心させる。
扉を開けると、煙草の煙と、酒と、古い木の混ざったにおいがした。
天井が低かった。照明が温かくて、昼間でも夜のような雰囲気だった。カウンターが六席か七席あって、奥に小さなテーブルが三つ。カウンターの奥に、白髪の老人がいた。七十代に見えたけれど、後で聞いたら六十代だった。腰が少し曲がっていて、動作がゆっくりしていた。でも目だけはいつも細くて温かかった。
「いらっしゃい」と老人が言った。「初めてかい」
「はい」と僕が答えると、老人は「好きなとこ座って」と言った。それだけだった。歓迎しているでも拒絶しているでもなく、ただそこにいなさいよ、という感じだった。
カウンターの端に座った。カツはすでに常連めいた態度で「マスター、いつものやつ」と言った。いつものやつ、がコーラだというのが後でわかった。
そしてサワコねえちゃんが奥から出てきた。
印象を正確に伝えるのは難しい。きれいだった、というのは事実だけれど、それだけじゃない何かがあった。動き方がきれいだったのかもしれない。グラスを置く仕草とか、振り向くときの首の角度とか、そういう細かいものが全部、ひとつの調和を作っていた。福島出身で、なまりがあった。でもそのなまりが、彼女の声をより温かくしていた。
「いらっしゃい。初めてね?」
「はい」と僕はまた答えた。
「カツくんの友達?」
「そうです」
「何飲む?」
「コーラで」
サワコねえちゃんはわずかに笑った。「みんなコーラなのね」と言った。非難でも揶揄でもなく、ただ事実として、でも微かにおかしそうに。
それが僕らの最初の会話だった。
その後、スナック エイトは僕らの溜まり場になった。
僕とカツだけじゃなくて、やがて仲間が増えた。同じ予備校の矢島と橋本、それからカツの高校時代の友達だという田村も加わって、五人でいつも地下に集まった。授業をさぼることもあった。いや、正直に言えば、授業をさぼることの方が多かった。
何をするわけでもなかった。
コーラを飲んで、ジュークボックスで音楽をかけて、くだらない話をした。奥のインベーダーゲームをやることもあったけれど、そっちは田村と橋本の専門で、僕はあまりやらなかった。僕が好きだったのはジュークボックスだった。百円玉を入れると、内部でメカニカルな音がして、レコードが選ばれて、針が下りる。あの瞬間が好きだった。
かけた曲は今でも覚えている。
オフコースの「さよなら」。ゴダイゴの「銀河鉄道999」。松山千春の「季節の中で」。あと洋楽も何曲かあって、ポール・マッカートニーの「マイ・ラブ」をよくかけた。なぜかというと、サワコねえちゃんがその曲が流れると必ず少しだけ手を止めるから。
気づいたのは三回目に行ったときだった。
カウンターを拭いていたサワコねえちゃんの手が、「マイ・ラブ」が始まったとき、一瞬だけ止まった。止まってから、また動き始めた。でも確かに止まった。
「その曲、好きですか」と僕は聞いた。
サワコねえちゃんは少し驚いたように僕を見て、それから「好きよ」と言った。「昔、好きだった人がいつもかけてた」
「昔?」
「もう終わった話」
それ以上は聞かなかった。でも、その夜から僕は百円玉を用意しておくと必ず「マイ・ラブ」をかけるようになった。サワコねえちゃんの手が止まる瞬間を見るために。
馬鹿だと思うけれど、十八歳というのはそういうものだ。
冬が深まるにつれて、僕らはますますエイトに入り浸った。
受験はどうなっているんだという話は誰もしなかった。みんなどこかで不安だったと思う。でもエイトの地下に降りていれば、その不安が少し遠のいた。マスターが何も言わずにただそこにいてくれて、サワコねえちゃんが笑ってくれて、ジュークボックスが音楽を流してくれる。
マスターの名前は田所さんといった。出身は栃木で、若い頃は横浜で船員をやっていたらしい。なぜ渋谷で飲み屋をやることになったのかは聞かなかった。いや、一度聞いたことがあるかもしれないけれど、「まあ、なりゆきだな」と言っただけで、それ以上は教えてくれなかった。
田所さんは僕らに説教をしなかった。
こんな時間にこんなところにいていいのかとか、受験はどうなんだとか、そういうことを一切言わなかった。ただ黙って飲み物を出して、カウンターを拭いて、時々短い言葉を挟むだけだった。
一度だけ、こんなことを言った。
「若いうちに、居場所があるのはいいことだよ」
それだけだった。でも僕はその言葉をずっと覚えている。
サワコねえちゃんは、どこから来たのかと言えば、福島の郡山だった。高校を出てから東京に出てきて、昼は服飾の専門学校に通いながら、夜はエイトでバイトをしていた。洋服を作りたいのだという。いつか自分のブランドを持ちたいのだと、話してくれたことがあった。
「どんな服を作りたいんですか」と僕が聞くと、サワコねえちゃんは少し考えてから「長く着られる服」と言った。「流行が変わっても、ちゃんと着られる服。三十年後にも好きだと思える服」
「難しそうですね」
「難しいけど、それがやりたいことだから」
その言葉が、十八歳の僕には眩しかった。やりたいことがわかっている人の言葉の重さが、羨ましかった。
一月になって、僕らの間に変化が起きた。
カツがサワコねえちゃんに告白したのだ。
それほど驚きはしなかった。カツがサワコねえちゃんを好きだということは、誰の目にも明らかだった。問題は、僕らの全員が大なり小なり同じ気持ちを抱えていた、ということだ。
カツが最初に動いた、それだけのことだった。
どういう状況で告白したのかは知らない。カツから後で聞いたところによると、エイトが閉まった後、外まで送っていって、明治通りの路地で言ったらしい。
結果は、断られた。
「ありがとう、でもごめんね」とサワコねえちゃんは言ったらしい。「私には、ちょっと事情があって」
カツはしょんぼりして翌日僕に報告した。でも三日後にはまたエイトに来ていた。振られても来続けるのが僕らのスナック エイトへの愛情の深さで、それはある意味でサワコねえちゃんへの愛情よりも深かったかもしれない。
「やっぱり誰かいるんかなあ」とカツは言った。
「さあ」と僕は言った。
「アルトはどう思う?告白しないの?」
「しないよ」
「なんで?好きやろ」
「好きとか嫌いとか、そういう話じゃないよ」
カツは「よくわからんな」と言ったけれど、僕にもよくわからなかった。好きだった。確かに好きだった。でも告白してどうにかしようという気持ちが不思議となかった。サワコねえちゃんがカウンターの向こうにいて、笑って、「マイ・ラブ」が流れるとき一瞬だけ手を止める。その光景が僕には十分だったのかもしれない。
あるいは、こういうことだったかもしれない。
僕はエイトを失いたくなかった。告白して振られれば、行きにくくなる。告白して上手くいったとしても、それはまた別の関係になる。あの地下の、あの光の中での時間が、変質してしまう。
それが嫌だった。
だから僕は何もしなかった。
賢明だったのかどうかは、今でもわからない。
第三章 ジュークボックスの記憶
先週の渋谷から帰ってきた翌朝、僕は夢の続きを探すように書斎に座っていた。
コーヒーカップを両手で包んで、窓の外の朝の光を見ていた。芙美子が「どうしたの、ぼーっとして」と声をかけてきた。
「渋谷に行ったんだよ、昨日」と僕は言った。
「渋谷?何しに?」
「なんとなく。昔よく行ってた場所を見に」
芙美子は少し黙ってから「変わってた?」と聞いた。
「全部変わってた。宮下公園もなくなってた」
「そう」と彼女は言った。それ以上聞いてこなかった。長年連れ添った妻というのは、相手が立ち入ってほしくない記憶の領域を本能的に察知する。芙美子は僕の学生時代のことをほとんど知らない。知ろうとしてこなかったし、僕も詳しく話さなかった。
コーヒーを飲み終えて、一人になった書斎で、僕はスナック エイトのことを思い出し続けた。
あの地下にいた時間は、人生の中でもっとも濃密な時間の一つだったと思う。濃密というのは、出来事が多かったという意味じゃない。逆だ。何も起きていなかった。ただ座って、飲んで、音楽を聴いて、話していた。でも、その何もない時間が、何かで満ちていた。
若さ、と呼べばいいのかもしれない。あるいは、可能性、と呼ぶべきか。
まだ何者でもなかった僕らが、何者にでもなれると漠然と信じていた。その信念の熱が、空気を温めていた。
サワコねえちゃんは僕らにとって、少し上の世界の人間だった。
三つしか違わないけれど、その三年の差が当時は大きかった。彼女は働いていて、夢を持っていて、東京での暮らしを自分の力で作っていた。そして何か、語られない過去があった。
「昔、好きだった人がいつもかけてた」
「マイ・ラブ」についてそう言った言葉が、ずっと引っかかっていた。過去形だった。「好きな人」ではなく「好きだった人」。それは何を意味するのか。別れたのか、それとも。
聞けなかった。聞かなかった。
二月になって、矢島が「サワコさんのこと、知ってるか」と言った。
放課後、予備校の近くの喫茶店で、矢島はコーヒーを飲みながら声をひそめた。矢島は五人の中では一番情報通で、どこから情報を仕入れてくるのかよくわからないけれど、色々なことを知っていた。
「何を」と僕は聞いた。
「亡くなった恋人がいるらしい」
鼓動が少し変わった。
「事故で」と矢島は続けた。「去年か一昨年に。相手も福島の人で、東京で一緒に暮らすつもりだったらしいんだけど、福島に帰省したときに事故に遭って」
「確かな話なのか」
「田所のマスターから聞いた」
僕は黙っていた。
「だからまあ」と矢島は言った。「カツが振られたのも、そういうことだと思う。そういう状況で、新しく誰かを好きになるのって、難しいと思うから」
「そうだな」
「アルトは?告白する気ないの?」
「ない」
矢島は少し考えてから「なんでだろうな」と言った。非難ではなく、純粋に疑問として。
「わからない」と僕は答えた。「でも、そういう気持ちには、なれない」
その夜、ジュークボックスで「マイ・ラブ」をかけながら、僕はサワコねえちゃんの横顔を見ていた。彼女は手を止めて、カウンターの一点を見ていた。何を見ているのかはわからなかった。遠いところを見ているような目だった。
その人のことを、考えているんだろうと思った。
その人がいつもかけていた曲が流れるたびに、その人のことを思い出しているんだろうと。
それは悲しかった。でもなぜか、きれいだとも思った。誰かをそこまで思い続けられることの、純粋さのようなものが、きれいだと。
春になった。
桜が咲いて、散って、受験の結果が出た。
カツは志望校に受かった。矢島も橋本も受かった。田村は落ちてもう一年やることにした。そして僕は、中堅の私立大学に滑り込んだ。第一志望ではなかったけれど、もうこれでいいと思った。
合格発表の日の夜、五人でエイトに集まった。
田所マスターがコーラの代わりにビールを出してくれた。「めでたいね」と言った。「でも田村くんはもう一杯だ」
「マスター、ひどい」と田村が笑いながら言った。
サワコねえちゃんは笑っていた。本当に笑っていた。「おめでとう」と言った。「よかった。頑張ったね」
「頑張ってないですよ、俺は」とカツが正直に言った。「授業サボってここにいることの方が多かったし」
「それでも受かったんだから、地頭がいいのよ」とサワコねえちゃんは言った。「羨ましいわ」
「サワコさんも大学行けばいいじゃないですか」
「私は服を作る方が先よ」
その夜は遅くまでいた。
帰り際、僕はジュークボックスに最後の百円を入れた。「マイ・ラブ」を選んだ。
サワコねえちゃんの手が、また一瞬だけ止まった。
僕は「ありがとうございました」と言った。
「何が?」とサワコねえちゃんが聞いた。
「ここにいさせてくれて」
彼女は少し間を置いてから「こちらこそ」と言った。「あなたたちがいてくれて、楽しかった」
それが、僕とサワコねえちゃんの最後の会話だった。
大学に入ってからも、最初の頃は何度かエイトに顔を出した。でも新しい友人ができて、新しい場所ができて、自然と足が遠のいた。最後にエイトに行ったのはいつだったか、正確には覚えていない。いつの間にか行かなくなっていた。
サワコねえちゃんがエイトを辞めたのがいつだったかも知らない。
その後の人生で、彼女に会うことは一度もなかった。
第四章 もう一度、あの階段
あれから一週間が経った。
シャッターの前に立って聞いたあの声のことが、どうしても頭を離れなかった。
気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせた。四十五年前の記憶が、なんらかの拍子に聴覚を錯覚させただけだ。そんなことはよくある。特に年齢を重ねると、過去の記憶が妙に生々しく浮かんでくることがある。
でも土曜日の午後、また僕は渋谷に向かっていた。
今度は目的があった。あの場所に、もう一度行く。それだけだった。
明治通りに出て、路地に入る。廃墟めいたビルは、先週と同じようにそこにあった。シャッターも同じだった。南京錠も同じだった。
ただ、今日は何かが違った。
シャッターは、閉まっているはずだった。なのに、下から光が漏れていた。
錯覚かと思って目を凝らした。錯覚じゃなかった。下の隙間が、人が通れるかどうかというくらい、持ち上がっていた。南京錠はどこかに消えていた。チェーンも外れていた。
理由を考えるより先に、体が動いていた。
シャッターに手をかけると、思ったより軽く持ち上がった。錆びていたけれど、動いた。くぐれるくらいの隙間を作って、僕は頭を下げて中に入った。
暗かった。スマートフォンのライトをつけた。
階段があった。
記憶よりも急で、段が多かった。でも確かに、あの階段だった。手すりは錆びていて、触れると赤い粉が手につく。一段一段、注意しながら降りていった。
木が軋む音がした。
音楽が、聞こえた。
最初は空耳だと思った。でも降りるに連れて、はっきりしてきた。古い、モノラルの音楽だった。メロディが聞こえた瞬間、全身に鳥肌が立った。
「マイ・ラブ」だった。
ポール・マッカートニーの「マイ・ラブ」が、地下から流れてきていた。
心臓が激しく打った。ライトを持つ手が少し震えた。
降り切ったところに、扉があった。
古い木の扉。ガラス窓に、ひびが入っている。でも向こう側に光が見えた。電球の、温かみのある、オレンジ色の光が。
ノブを回した。
扉が開いた。
そこはスナック エイトだった。
信じられなかった。でも間違いなかった。
天井の低い、カウンターが六席か七席の、煙草の煙と酒と木の混ざったにおいのする場所。壁のポスターはあの頃のままで、山口百恵と、ゴダイゴと、どこかの洋酒の広告が貼られている。カウンターの端にジュークボックスがあって、「マイ・ラブ」が流れていた。
奥に、インベーダーゲームの筐体が見えた。
客はいなかった。
カウンターの向こうに、女がいた。
背を向けていたから顔は見えなかった。グラスを拭いていた。グレーのエプロンをして、髪を後ろでまとめていた。
僕は声が出なかった。
女がゆっくりと振り向いた。
顔を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「いらっしゃい」とサワコねえちゃんは言った。「初めてかい……じゃなかったね。久しぶりね、アルト」
二十一歳か二十ニ歳のままの顔だった。四十五年前の顔のままで、笑っていた。目のあたりに光が集まるような、あの笑い方で。
「サワコ、ねえちゃん」と僕は言った。声が掠れた。
「そんなに驚かないでよ」と彼女は言った。「まあ、座って。何飲む?」
「コーラで」
思わずそう答えていた。四十五年前と同じ答えを。
サワコねえちゃんは小さく笑った。「みんなコーラなのね」と言った。
あの頃と、まったく同じ言葉で。
第五章 地下の時間
カウンターに座った。
コーラが出てきた。グラスに氷が入って、赤いコースターの上に置かれた。四十五年前と同じコースターだった。エイトのロゴが入った、薄くなった赤いコースター。
「どうして」と僕は言った。「どうしてここが」
「どうして、って何が?」とサワコねえちゃんは聞いた。
「まだあるんですか、この店が。こんな、廃墟みたいになってるのに」
「あるのよ」と彼女は言った。「ずっとあったのよ、ここに。ただ、入ってくる人がいなかっただけで」
「田所マスターは?」
「田所さんはニ十五年前に亡くなったわ。私が引き継いで、一人でやってる」
「引き継いで、一人で」
「変でしょ。客が来ない店を引き継いで、一人でやってる。でも、ここにいたくて」
サワコねえちゃんはカウンターを拭きながら、静かに言った。その仕草は四十五年前と同じだった。同じ速さで、同じ圧力で、カウンターを拭いていた。
「サワコねえちゃん」と僕は言った。「あなたは、どうなってるんですか」
「どうなってる、って?」
「あなたは今、いくつなんですか」
彼女は手を止めた。それからゆっくりと僕を見た。目のあたりに、少し影が差した。
「その質問に答えるのは難しいわ」と彼女は言った。
「難しい?」
「ここはね、アルト」と彼女は言った。「ここは、ちょっと特別な場所なの。外の時間と、ここの時間が、ずれてる」
「ずれてる」
「そう。外では四十五年が経ってるかもしれないけど、ここでは、あの頃のまま。だからここにいる私は、あの頃の私のまま」
「でも、俺は六十三歳だ」
「そうね。あなたは外から来てる。だからあなたはちゃんと六十三歳よ。
「ここにいるとね」
「時間って、あんまり進まないみたいなの」
僕はコーラのグラスを見つめた。氷が溶けて、グラスの表面に水滴がついていた。
「矢島から聞いた」と僕は言った。「恋人のことを」
サワコねえちゃんの手がわずかに止まった。
「田所さんから聞いたって」
「そう」と彼女は静かに言った。「聞いたんだね」
「事故で、亡くなったって」
「うん」
「それで、あなたはここに」
「彼がね」と彼女は言った。「よく来てたのよ、ここに。二人で。だから、ここにいると、会える気がして。会えなくても、近くにいる気がして」
「会えるんですか」
「会えないわ」と彼女は言った。あっさりと、でも哀しみのない声で。「死んだ人には会えない。どこかに行ってしまった人には会えない。ただ、その人がいた場所に自分がいることで、何かを感じることはできる」
ジュークボックスの「マイ・ラブ」が終わった。一瞬の静寂があって、また別の曲が始まった。松山千春だった。「季節の中で」。
「あの頃みたいね」とサワコねえちゃんが言った。
「そうですね」と僕は言った。
「あなたたちが来てた頃の話、覚えてる。あなたはいつも「マイ・ラブ」をかけてた」
「気づいてたんですか」
「気づいてたわ。気遣ってくれてたんでしょ。私がその曲で手を止めるのを見て」
「見てたんですか、俺が見てるのを」
「見てたわ」と彼女は笑った。「あなた、わかりやすかったから」
恥ずかしかった。六十三歳になった今でも、少し恥ずかしかった。
「カツくんは?元気にしてる?」
「元気ですよ。大阪に帰って、会社をやってる。子供が三人いる」
「そう。よかった」サワコねえちゃんは目を細めた。「告白されたのよ、あの子に」
「知ってます。カツから聞きました」
「断ってしまって、悪かったと思ってた。でも、あの頃の私には、どうにもできなかった」
「仕方ないですよ。カツも今は笑って話してますから」
「そう、よかった」
しばらく、二人とも黙っていた。松山千春が歌い続けた。カウンターの上のグラスが、静かに光を受けていた。
「アルトはどうなの?幸せ?」とサワコねえちゃんが聞いた。
唐突な問いだった。でも嫌な問いじゃなかった。
「まあ、そこそこ」と僕は正直に答えた。「悪くない人生だったと思う。妻もいるし、子供たちも独立した。仕事もまあまあやれた。でも、あなたに聞かれると、なんかうまく答えられないですね」
「なんで?」
「あの頃の自分が思い描いてたものと、違う人生を生きてきた気がするから。いや、違うというか、小さくなった、というか」
「小さく?」
「夢が小さくなった。自分が大きくなるにつれて、夢が縮んでいった。変な話ですけど」
サワコねえちゃんは頷いた。「わかる気がする」と言った。「でも、それが普通じゃないの?若い頃の夢って、実際の自分よりずっと大きいでしょ。それで当然で、年を取るって、その夢と現実の折り合いをつけていくことじゃないかな」
「サワコねえちゃんは服のブランドを作りたいって言ってた」
「言ってたね」
「作れましたか」
「作れなかったわ」と彼女はあっさり言った。「専門学校を出たあとで、彼が死んで、そのあとしばらく、何も考えられなかったから。気づいたら時間が経っていた。そしてここにいた」
「後悔してますか」
「してるかもしれないし、してないかもしれない。ここにいる私は、あの頃の私だから、後悔という感情がどういうものか、よくわからなくなってきた」
二時間ほどいた。
コーラを二杯飲んで、ジュークボックスで「マイ・ラブ」をかけて、サワコねえちゃんと話した。他に客は来なかった。田所マスターも来なかった。二人だけで、あの地下にいた。
帰り際、「また来てもいいですか」と僕は聞いた。
サワコねえちゃんは少し考えてから「来れると思う」と言った。「シャッターが開いてれば、来れる。でも毎回開いてるとは限らないから」
「どういうこと?」
「私にも、よくわからないのよ」と彼女は言った。「ここの理屈は。ただ、来てほしいと思った人には、開いてるみたい。あなたがまた来たいと思えば、開いてると思う」
「じゃあ、また来ます」
「待ってる」
階段を登り始めたとき、「アルト」と呼ばれた。
振り返った。サワコねえちゃんがカウンターの向こうから僕を見ていた。
「来てくれてよかった」と彼女は言った。「久しぶりに、誰かと話せた」
外に出ると、秋の夕暮れの空が広がっていた。
シャッターは、いつの間にか元の位置に戻っていた。南京錠もチェーンも、元通りになっていた。
第六章 繰り返す秋
それから、僕は月に一度か二度、渋谷に行くようになった。
必ず明治通りの路地に入って、廃墟のシャッターの前に立った。開いているときと、開いていないときがあった。開いていないときは、ただシャッターを見てから帰った。開いているときは、降りた。
降りるたびに、スナック エイトがあった。
「マイ・ラブ」が流れていることが多かった。「季節の中で」のときも、「さよなら」のときも、「銀河鉄道999」のときもあった。でも「マイ・ラブ」が一番多かった。
サワコねえちゃんは毎回、グラスを拭いていた。
毎回、「いらっしゃい」と言った。
毎回、コーラを出してくれた。
話した。たくさん話した。
あの頃の話をした。カツの話、矢島の話、橋本の話、田村の話。田所マスターの話。どんな音楽をかけていたか。インベーダーゲームで田村がどれほど上手かったか。橋本が一度、コーラをひっくり返して大騒ぎになったこと。
「あったあった」とサワコねえちゃんは笑った。「あのとき、橋本くんの顔が真っ赤になって、田所さんが全然怒らなくて、余計に橋本くんが申し訳なさそうにしてた」
「そうそう。その後しばらく、橋本は来なかったし」
「恥ずかしかったのよ、きっと」
そういう話をするとき、サワコねえちゃんは本当によく笑った。あの頃の記憶が彼女にとっても大切なものだということが、伝わってきた。
現在の話もした。
「今どんな音楽を聴くの?」とサワコねえちゃんは聞いた。
「最近はあまり聴かないですね。若い頃に好きだったものを、たまにまた聴くくらいで」
「ポール・マッカートニーは?」
「たまに聴きますよ。ずいぶん年を取ったけど、まだ活躍してるみたいで」
「そう。よかった」
外の世界の話をするとき、サワコねえちゃんの目はどこか遠くなった。知っていることと知らないことの境界線の向こうを見るような目だった。
「外はずいぶん変わってるのね」と彼女は言った。
「変わってますよ。スマートフォンというものがあって、みんな持ってる。手のひらに入るコンピューターで、電話もできるし、音楽も聴けるし、世界中の情報にアクセスできる」
「すごいわね」
「すごいですよ。でも、なんか、疲れることも多いですよ。情報が多すぎて」
「そう。ここは情報がなくていいわ」とサワコねえちゃんは言った。「ジュークボックスと、酒と、誰かと話すだけ。それで十分」
「確かに」と僕は思った。「それで十分かもしれない」
十一月になった。
その日、シャッターは開いていた。降りると、「マイ・ラブ」が流れていた。
でもサワコねえちゃんの様子が、少し違った。
グラスを拭きながら、どこか上の空だった。返事がいつもより遅かった。
「どうかしましたか」と僕は聞いた。
「ちょっとね」と彼女は言った。「そろそろかなと思って」
「そろそろ?」
「ここにいられなくなるのが、そろそろかなと」
胸が締まった。「どういうこと?」
サワコねえちゃんはグラスを置いて、カウンターに両手をついた。「よくわからないんだけど」と彼女は言った。「感覚的に、わかるの。ここにいられる時間が、終わりに近づいてるって」
「なくなるってこと?この場所が?」
「場所がなくなるというより、私がいられなくなる。外のビルが再開発されるみたいだから、この地下も壊されると思う。壊されたら、私もいられなくなる」
「どこへ行くんですか」
「わからない。でも多分、行くところに行く」
「その人のところへ?」
サワコねえちゃんは少しの間、黙っていた。それからゆっくりと頷いた。「かもしれない。そうだったらいいなとは思ってる」
僕は黙っていた。何も言えなかった。
「悲しそうな顔しないで」とサワコねえちゃんが言った。「私はね、アルト、あなたたちがここに来てくれたあの頃が、とても好きだった。田所さんと三人でやってたあの頃も、田所さんが亡くなって一人になってからも、あの頃の記憶がここにはある。それで十分だったと思う」
「でも寂しかったんじゃないですか、一人で」
「寂しかったわ。でもね」と彼女は言った。「あなたがまた来てくれた。これはよかったと思ってる。終わりの前に、また話せてよかった」
「マイ・ラブ」が、また始まった。
「俺は」と僕は言った。「ここに来るたびに、若い頃に戻れる気がしてた。あの頃の自分に、少し戻れる気がしてた」
「それでよかったじゃない」
「よかったです。本当に」
「あなたはね、アルト」とサワコねえちゃんは言った。「あの頃から、ちゃんとした人だった。告白もしないで、ただ音楽をかけてた。馬鹿みたいだけど、でもそれが、あなたらしかった」
「馬鹿みたいですよ、本当に」
「でも嬉しかったわ」と彼女は笑った。「誰かが、あなたのためじゃなくて私のために音楽をかけてくれてるって、わかったから」
「気づいてたんですか、やっぱり」
「最初から気づいてた」
第七章 最後の百円
十二月に入って、また渋谷に行った。
シャッターの前に立った。
開いていた。
降りた。
「マイ・ラブ」が流れていた。でも今日はそこに、もう一曲混ざっているような気がした。遠くから別の音楽が聞こえるような、重なるような感じ。
サワコねえちゃんはカウンターの向こうにいた。
でも今日は、グラスを拭いていなかった。カウンターの前に立って、こちらを見ていた。エプロンをしていなかった。普通の服を着ていた。
「今日で最後ね」と彼女は言った。
「そうですか」
「来週から工事が入るらしいから。今日がぎりぎりだった」
コーラは、もう用意されていた。カウンターの上に、赤いコースターの上に。
最後のコーラを、ゆっくり飲んだ。
「カツたちに、よろしく言っておいてください」とサワコねえちゃんが言った。「あなたから見てるくらいでいいから、元気でいてくれたらって」
「言います」
「田所さんにも。あの人、優しかったから。私の勝手を何も言わずに認めてくれた」
「田所さんにはどうやって言うんですか」
「どうやってかわからないけど、会えるかもしれないから」
そうか、と思った。彼女の行く先には、田所マスターもいるかもしれない。その人もいるかもしれない。そう考えると、少し気持ちが楽になった。
「俺は」と僕は言った。「あなたに会えてよかった。またこうして会えるとは思わなかったから」
「私も」とサワコねえちゃんは言った。「よかった。本当に」
ジュークボックスに向かった。最後の百円を持って。
入れると、メカニカルな音がした。レコードが選ばれる音が。針が下りる音が。
「マイ・ラブ」が流れ始めた。
振り返ると、サワコねえちゃんが手を止めていた。
カウンターの向こうで、静かに立って、音楽を聴いていた。目を少し閉じて。遠くを見るような表情で。
僕は何も言わなかった。
音楽が終わるまで、ただそこにいた。
曲が終わった。
「行きます」と僕は言った。
「うん」と彼女は言った。
「さよなら、サワコねえちゃん」
「さよなら、アルト。元気でね」
階段を登った。
一段一段、ゆっくりと。木の軋む音がした。
上に出ると、十二月の冷たい空気が顔に当たった。空は青く澄んでいた。
シャッターは、もうきっちりと閉まっていた。
終章 時は流れ続ける
年が明けた。
カツに電話した。久しぶりの電話だった。
「サワコさんのことを話したくて」と僕は言った。
「サワコさん?エイトの?」とカツは言った。「懐かしいな、急に。どうしたん?」
「なんか、会った気がしてな」
「会った?どこで?」
「夢の中みたいな話だよ。気にしないで」
「夢か。でもなんか伝えてくれたんか?」
「よろしくって。あと元気でいてくれたらって」
カツはしばらく黙っていた。それから「そうか」と言った。「律儀やな、サワコさん。ありがとう、アルト」
「よかった」
電話を切って、窓の外を見た。一月の空だった。乾いていて、青かった。
矢島にもメッセージを送った。橋本にも。田村にも。サワコねえちゃんに会った夢を見た、みんなのことを話したら喜んでた、という内容で。三人とも返信をくれた。矢島は「不思議な夢だな」と言い、橋本は「なんかじんとした」と言い、田村は「エイトかあ、懐かしいな。また集まりたいな」と言った。
また集まろうという話になった。どこで、という具体的な話はまだだけれど、春に東京で、ということになりそうだ。
二月になって、僕はまた渋谷に行った。
明治通りの路地に入った。
廃墟のビルは、もうなかった。
更地になっていた。工事用のフェンスが張り巡らされていて、フェンスの向こうに重機が見えた。すでに工事が始まっていた。地下まで掘り返されていた。
あの階段は、もうない。
スナック エイトも、もうない。
サワコねえちゃんも、もうここにはいない。
でも僕は、清々しい気持ちでそこに立っていた。
悲しいかと言えば、もちろん悲しかった。でも、悲しみの下に、温かいものがあった。あれはちゃんとあった、という確信。あの時間は本物だった、という感覚。
風が吹いた。冬の、冷たい風だったけれど、不思議と温かみを感じた。
「さよなら」と僕は声に出さずに言った。
それから、明治通りへ戻った。
宮下公園の代わりにある商業施設の脇を通った。若い人たちが行き来していた。スマートフォンを見ながら歩く人、イヤホンをして音楽を聴いている人、友達と笑いながら歩く人。
みんな、今を生きていた。
この街で、今という時間を過ごしていた。
四十五年後に、この街がどうなっているかは誰にもわからない。あの人たちがどこへ行くかも。でも今この瞬間の、この街での時間は、確かに存在する。やがて記憶になって、誰かの胸に残る。
今も、いずれ過去となって、また誰かが懐かしく今を、未来で語るのだろう。
春になった。
五人で集まった。
カツが大阪から来た。矢島は神奈川から、橋本は埼玉から、田村は東京にいた。渋谷で集合したのは、みんな異存なかった。
でも渋谷のどこへ行くかで少し迷った。
「エイトの跡地を見に行こうか」と僕が言うと、「そうしよう」と全員が言った。
明治通りの路地に、五人で入った。
工事フェンスは外されていて、すでに新しいビルの基礎工事が始まっていた。更地のその場所を、五人で眺めた。
「ここかー」とカツが言った。
「ここやな」
「あの頃は毎週来てたな」と矢島が言った。
「俺、ここで人生で初めてインベーダーをやったんだよな」と橋本が言った。
「俺は全クリしたんやけど」と田村が言った。
「してないしてない」とカツが言って、笑いが起きた。
しばらく、みんなで眺めた。
何も言わない時間があった。でも沈黙は重くなかった。それぞれが、それぞれの思い出の中にいる時間だった。
「サワコさん、どうしてるんかなあ」とカツが言った。
「どこかで元気にしてると思うよ」と僕は言った。
「そうやな」とカツは言った。「そうやったら嬉しいな」
僕は胸の中で、サワコねえちゃんに向かって言った。
この人たちが来てくれましたよ、と。
みんな、元気ですよ、と。
春の風が吹いた。明治通りを渡って、どこかから桜の花びらが一枚、舞ってきた。宮下公園の桜は移植されたと聞いていた。その桜かもしれないし、別の桜かもしれない。
一枚の花びらが、工事フェンスの前に落ちた。
「行こうか」と僕は言った。「飲みに」
「どこで飲むの」と矢島が言った。
「どこでもいい。五人で飲める場所なら」
「エイトみたいなとこがいいな」とカツが言った。
「あったらいいけど、なかなかないよ」と橋本が言った。
「探してみようよ」と田村が言った。「俺、この街はよく知ってるから」
五人で、渋谷の街を歩き始めた。
どこへ向かうかは決まっていなかった。でも方向は同じだった。
時は流れ続けている。
あの頃も、今も、これからも。
でも流れていく時の中で、確かに残るものがある。
地下に降りる細い階段のこと。古いジュークボックスの音のこと。赤いコースターの上に置かれたコーラのグラスのこと。カウンターの向こうで笑っていた、目のあたりに光が集まるような笑い方をした人のこと。
「マイ・ラブ」が流れるたびに一瞬だけ手を止めた、その横顔のこと。
それらはもう過去になった。でも過去は消えない。消えないままで、誰かの胸の中に、静かに生き続ける。
春の渋谷を、五人で歩いた。
どこかから音楽が聞こえてきた。何の曲かはわからなかった。でも温かい音だった。
誰かが百円玉を入れる音が、どこかで聞こえた気がした。
了
後記
この物語に登場するスナック エイトは実在した店です。そして、渋谷の街の記憶、明治通り、宮下公園、そしてバッティングセンター、その向かい側にあったビルの地下へ続く階段——それもまた、かつてこの街に、誰かの記憶の中に確かに存在しました。
失われた場所は、記憶の中に生き続けます。
そして記憶は、語られることで、また誰かの中へと移っていきます。



