今日 届いた
海を越えたキミからの手紙は
一週間も前のキミの気持ちで
すぐに折り返した僕の手紙が
キミへと届くのもまた
一週間も先だった頃
失ったすれ違いの心は
取り戻せないまま終えた
〜プロローグ〜
福沢諭吉は言った。
「一身にして二生を経るが如し」と。
蒸気機関が世界を変えた時代に生きた彼は、馬の背に揺られた少年時代と、汽車が走り電信が結ぶ壮年期とを、同じ一つの肉体の中に収めた。それは確かに、二つの生を生きるに等しい経験だっただろう。
では、われわれはどうだ。
桐島誠は、窓の外を流れる東京の夜景を眺めながら、そんなことを考えた。六十二歳。定年まであと三年。手の中にあるスマートフォンの画面には、Facebookの通知が一件、点滅していた。
差出人の名前を見た瞬間、誠の手が止まった。
Sara Mitchell。
四十年。四十年ぶりに、その名前が現実の時間の中に舞い降りてきた。
誠はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。指先が微かに震えていた。それは老いのせいではなかった。少なくとも、そう思いたかった。
窓の外では、東京の夜が光り続けていた。あの頃には想像もできなかった数の光が、地平線まで広がっている。あの頃、この街はもっと暗かった。そしてもっと、遠かった。
四十年かかった「好きです」
一章 エアメール
一九八四年 大阪・誠、二十二歳
誠がSaraと出会ったのは、梅雨の晴れ間のことだった。
大阪・心斎橋の英会話スクール。誠は父親に言われるままに入学した。商社マンになるつもりだった。英語ができれば、海外駐在のチャンスもある。それだけの理由だった。
Saraは講師だった。ミシガン州出身、二十四歳。亜麻色の髪に、少し鼻の高い、屈託のない笑顔の女性だった。彼女の授業は、教科書を使わなかった。ただ話した。日常の、ありふれた話を。
「ねえ、誠。好きな食べ物は何?」
「た、たこ焼き……」
「Oh! Takoyaki! I love it. Octopus ball, right?」
クラスの笑いが起きた。誠も笑った。英語の授業でこんなに笑ったのは初めてだった。
授業のあと、誠はいつも少し遅くまで残った。テキストを整理するふりをしながら、Saraが教室の黒板を消し終わるのを待った。理由を自分でも説明できなかった。ただ、その場所の空気が好きだった。
「帰らないの?」とSaraは聞いた。
「もう少し……復習を」
「嘘ね」と彼女は笑った。「でも、まあいいか。お茶でも飲もう」
近所の純喫茶で、二人はよく話した。Saraの英語はゆっくりで、誠の拙い言葉をいつも辛抱強く待った。彼女は日本のすべてに興味を持っていた。電車の正確さ、食べ物の丁寧さ、人々の奥ゆかしさ。誠には当たり前すぎて気づかなかったものを、Saraは宝物のように拾い集めた。
「日本人って、言いたいことを言わないんだね」とSaraはある日言った。「気持ちが、どこかに隠れてる」
「アメリカ人は違うの?」
「全然違う。思ったことはすぐ言う。それが正しいかどうかは関係なく」
「それは……羨ましい」
Saraはじっと誠を見た。「誠も、ちゃんと言えるよ。時間がかかるだけで」
その「時間」が、二人の間では致命的な意味を持つことになるとは、その時の誠には分からなかった。
秋が来た。Saraの滞在期限が近づいていた。彼女は十月の末に帰国する予定だった。誠は何も言えなかった。言いたいことは山ほどあった。でも日本語でも言えなかった。まして英語では。
Saraが去る三日前、誠はスクールの廊下で彼女を呼び止めた。
「Sara……あの、住所を、教えてほしい」
彼女は少し驚いた顔をして、それからあの屈託のない笑顔になった。「手紙?」
「うん。書きたい。書いても、いい?」
「もちろん。私も書く」
彼女はノートの切れ端に住所を書いた。ミシガン州アナーバー。誠には呪文のように聞こえた。
Saraが去った日、誠は南海電車の窓から、遠ざかる関西国際空港の方角を見つめた。空港はまだ開港前で、ただの海だったが、その方向に彼女がいると思うだけで、胸が痛かった。
往復、二週間
最初の手紙を書くのに、一週間かかった。
誠は何度も書き直した。英語で書くべきか、日本語で書くべきか。日本語で書けば読んでもらえないかもしれない。英語で書けば、伝えたいことの半分も伝わらないかもしれない。結局、半分ずつにした。前半は英語、後半は日本語。「後半は読めなくていい。でもこれが、俺の言葉だから」と英語で添えた。
エアメールの封筒は、近所の文具屋で買った。薄い青のストライプが縁を走っている、あの独特の封筒。重量を計って、切手を貼った。
投函してから、待った。
ニ週間後、返事が来た。
Saraの文字は大きくて、少し右に傾いていた。書き出しはいつも「Dear Makoto,」だった。「誠へ」ではなく、「Dear Makoto」。その二文字に、誠は毎回、鼓動が速くなった。
彼女の手紙は、誠の英語の勉強になった。知らない単語はノートに書き写した。文法も違う、表現も違う。でも不思議と、意味は分かった。言葉の向こうに、彼女の声が聞こえる気がした。
往復で二週間。誠が手紙を書いて、Saraが受け取って、返事を書いて、誠が受け取るまで、最低でも二週間かかった。
つまり誠は常に、二週間前のSaraと会話していた。
最初の頃、それは気にならなかった。むしろロマンチックですらあった。手紙を待つ間、誠はSaraのことを考え続けた。彼女は今何をしているだろう。何を食べているだろう。この瞬間、誠のことを考えてくれているだろうか。
しかし季節が変わるにつれ、その「ずれ」が少しずつ重くなってきた。
十二月。Saraの手紙に、「同僚のJasonとパーティに行った」という一節があった。誠はその名前が、一週間ずっと頭から離れなかった。次の手紙には「Jason誰?」と書いた。その返事が来るまで、また一週間。返事には「ただの友達。心配しないで」とあった。でも誠はその一節を読みながら思った。「この返事を書いたのも、もう一週間前のことだ」と。
やきもきする時間が、二倍に引き伸ばされていた。
届かなかった手紙
翌年の春、誠は就職した。大手食品会社の営業部。毎朝七時に家を出て、夜は九時、十時まで帰れないことも多かった。手紙を書く時間が、少しずつ削られていった。
Saraからの手紙は変わらず来た。週に一度の律儀さで。でも誠の返事は、二週間に一度になり、三週間に一度になった。
Saraの手紙のトーンが変わり始めたのは、夏の終わりだった。
「最近、どうしてる?忙しいのはわかるけど、心配してる」
誠は心の中で謝った。でも返事を書く時間がない。書こうとすると、疲れた頭が止まった。あんなに頑張って書いた英語が、今は鉛のように重かった。
九月に入ったある夜、誠はようやく長い手紙を書いた。仕事のこと、毎日の疲れ、でもSaraのことをいつも考えていること。来年、絶対に会いに行くこと。アナーバーに行く。ミシガン湖を見たい。
その手紙を投函した翌日、Saraからの手紙が届いた。
読んで、誠は凍りついた。
「Makoto へ。長い間、考えてた。あなたのことが好き。でも、私たちは遠すぎる。あなたの返事がだんだん来なくなって、私はどうすればいいか分からなくなった。Jasonが、私のそばにいてくれる。彼のことを、真剣に考えようと思う。ごめんなさい。でも、あなたのことは忘れない。Sara」
誠は手紙を二度、三度読んだ。
タイミングが、こんなにも残酷だとは思わなかった。誠がアナーバーに行くと書いた手紙は、今ちょうど太平洋の上を飛んでいる。届くのは一週間後。しかしその手紙が届く頃には、もうSaraの心は決まっている。
返事を書くべきだった。すぐに電話すべきだった。でも誠はSaraの電話番号を知らなかった。電話するには、国際電話の番号案内を使わなければならない。あのころ、それは簡単なことではなかった。
誠は一週間後、返事を書いた。でもそれは、すでに遅かった。その返事も、太平洋を渡って一週間後に届いた。Saraからの返事は来なかった。
二週間というタイムラグが、二人の間に取り返しのつかない溝を作った。
もし電話が自由にできたなら。もしメッセージが瞬時に届いたなら。きっとこうはならなかった、と誠は長い間思い続けた。
でも本当にそうだっただろうか。
それは、ずっと後になってから考えることだった。
二章 ポケベルの暗号
一九九三年 東京・誠、三十一歳
バブルが弾けて三年が経っていた。
誠は転職していた。大阪の食品会社を辞め、東京のマーケティング会社に移った。二十八歳の時のことだ。理由は単純で、大阪にいると、Saraと過ごした心斎橋の景色が目に入りすぎた。それだけのことだった。
東京は大阪より速かった。電車も、人の歩き方も、会話の切れ味も。誠はその速さに溶け込もうとしながら、どこかで置いていかれている感覚を持ち続けた。
会社にポケベルが支給されたのは、その頃だった。
「これ、どう使うの?」と誠は先輩社員の平田に聞いた。
「会社から呼び出しがかかるんだよ。ピーっと鳴ったら、すぐ電話しろってこと」
「じゃあ電話機じゃないんだ」
「そう。受信専用。でも最近は数字メッセージも打てるやつが出てきてる。女の子に114106とか送るんだよ」
「何それ?」
「アイシテルの語呂合わせ。1が『ア』、14が『イ』……まあ、若いやつがやる遊びだ」
平田は笑ったが、誠は笑えなかった。数字で気持ちを伝える。なんと不思議な方法だろうと思った。でも、それが今の時代のやり方なのだと、なんとなく分かった。
724106
雪乃と出会ったのは、取引先との会食の席だった。
橘雪乃、二十六歳。広告代理店のプランナー。黒いスーツに、白いブラウス。場慣れした笑顔で、でも目の奥に何か鋭いものを持っていた。
「桐島さんは、どんな音楽が好きですか?」と彼女は唐突に聞いた。
「音楽?……井上陽水、とか」
「渋いですね。私もです。『氷の世界』が特に好きで」
誠は少し驚いた。二十六歳の女性が井上陽水を好むとは思わなかった。「なんで?」
「言葉が、ちゃんと悲しいんです。作った悲しさじゃなくて」
その一言で、誠は雪乃が好きになった。
会食の帰り、誠は名刺を渡した。「もし何かあれば」と言いながら、本当は何かあってほしかった。
一週間後、誠のポケベルが鳴った。数字が並んでいた。
724106。
誠はしばらく眺めた。「ナ、ニ、ア、イ、シ、テ……」。違う。「ナ、ニ、イ、シ……」。
もう一度、ゆっくり数えた。
7が「ナ」。2が「ニ」。4が「シ」。1が「ア」。0が「オ」。6が「ム」。
「ナニシテルノ?」。
誠は苦笑いしながら、受話器を上げた。
電話越しの雪乃の声は、想像より少し低かった。「分かりました?」と彼女は笑った。
「ギリギリ」と誠は答えた。「こういうの、慣れてないから」
「じゃあ練習しましょう。次は問題を出しますね」
その日から、二人はポケベルで話した。数字の暗号で、気持ちを送り合った。
414106。「ヨイシテル」ではなく「コイシテル」だと分かるまで、誠は三分かかった。
726。「ナニ?」。
10951。「アイシタイ」。
数字が言葉になり、言葉が気持ちになった。不思議なことに、直接言うより照れが少なかった。数字という一枚のガラス越しに、本音が滑り込んでくる感じがした。
誠は思った。これが、今の時代の手紙なのかもしれない、と。
バブルの後の、小さな幸福
二人は付き合い始めた。
景気が悪くなっていた。誠の会社でも、プロジェクトのキャンセルが続いた。残業代が削られ、ボーナスが半分になった。取引先の会食も減り、タクシーではなく終電で帰るようになった。
でも不思議と、その時代が暗かったとは思わない。雪乃とよく行ったのは、新宿の小さなバーだった。カウンターに並んで、安いビールを飲んだ。雪乃は仕事の愚痴を言い、誠は相槌を打ち、やがて二人は笑っていた。
「ねえ、桐島さんってさ」と雪乃はある夜言った。「昔、好きだった人がいるでしょ?」
誠は手元のグラスを見た。「なんで分かるの」
「目が、たまに遠くに行くから」
誠は少し考えて、Saraのことを話した。エアメールのこと。二週間のタイムラグのこと。届かなかった、あの最後の手紙のこと。
雪乃は黙って聞いた。最後に言った。「切ないね」
「うん」
「でも、時代のせいにしてる部分、ない?」
誠は答えられなかった。
「電話できたはずでしょ、国際電話。高かったかもしれないけど、やろうと思えば。手紙だって、もっと早く返事できたはず」
「……そうだな」
「時代の限界じゃなくて、あなたの限界だったのかも」
それは優しい言葉ではなかった。でも誠には、正直な言葉として響いた。
雪乃と過ごした三年間は、穏やかだった。派手さはなかったが、毎日がしっかりしていた。しかし三十四歳になった年の春、雪乃は言った。
「私、大阪に転勤になった」
「そうか……」
「一緒に来る?」
誠は大阪に戻ることを考えた。あの街の、あの記憶の中に戻ること。心斎橋の純喫茶。英会話スクールの廊下。Saraの文字が書かれたノートの切れ端。
「俺は……東京を離れられない」
雪乃はうなずいた。「分かった。ありがとう、正直に言ってくれて」
別れは静かだった。ポケベルで最後に届いた数字は、「0833」。
誠はしばらく考えた。「オヤスミ」。
それが、二人の最後の会話だった。
三章 既読のない夜
二〇一二年 東京・誠、五十歳
スマートフォンが、世界を変えた。
誠はその変化を、比較的ゆっくりと受け入れた世代だった。ガラケーで十分だと思っていたが、息子の翔太に「父さん、いい加減変えなよ」と言われて、五十歳の誕生日にiPhoneを買った。
最初は戸惑った。文字の打ち方が違う。電話帳の引き方が違う。何もかもが、慣れた場所から少し右にずれているような感覚だった。
でも気づくと、手放せなくなっていた。
ニュースを見る。天気を調べる。電車の乗り換えを確認する。飯を食う前に写真を撮る。道に迷ったらGPSに聞く。音楽を流す。本を読む。そのすべてが、手の中の小さな板一枚でできた。
便利だと思った。同時に、何かが失われたとも思った。でも何が失われたのか、うまく言葉にできなかった。
「既読」という言葉
ある夜、翔太が珍しく早く帰ってきた。二十三歳。就職して二年目。いつもは深夜まで帰ってこないのに、その夜は九時前に玄関を開けた。
「どうした?」と誠は聞いた。
「別に」
翔太はリビングのソファに倒れ込み、スマートフォンをじっと見つめた。表情がない。
「飯、食うか?」
「いらない」
誠は台所でビールを一本取って、翔太の隣に座った。「彼女と何かあったか」
翔太は答えなかった。ただ画面を見ている。
「既読がついてるのに、返事が来ない」と翔太はようやく言った。「三時間」
「既読?」
「メッセージを読んだかどうかが分かるんだよ、LINEは。読んだって分かってるのに、返事が来ない。それって、どういうことだと思う?」
誠はビールを一口飲んだ。「分からん」
「分からないじゃなくてさ……」
「いや、本当に分からない。俺の時代はそういうものがなかったから」
翔太は呆れたように見た。「父さんの時代って、どうしてたの?」
「手紙を書いて、一週間待った。返事が来るのはさらに一週間後だった」
「一週間?」
「そう。アメリカに手紙を送ったことがある。往復で二週間かかった」
翔太はしばらく黙った。「それ……つらくなかったの?」
「つらかったよ。すごく。でも、それしかなかったから」
「今は既読がついてるのに三時間でつらい。昔は二週間で……そっちの方がよっぽどつらいな」
「慣れの問題だよ。お前の時代では三時間が普通の待ち時間じゃない。俺の時代では二週間がそうだった。でも」
誠は続けた。「つらさの中身は、たぶん同じだ。相手が何を考えてるか分からない。その不安は、時代が変わっても同じだと思う」
翔太はスマートフォンを見た。画面には「既読2」の文字と、青いトーク画面が表示されていた。
「電話、してみたらどうだ」と誠は言った。
「電話は……ハードルが高いんだよ、今は」
「なんで? ボタン一つだろう」
「そういう問題じゃないんだよ、父さん」
誠には分からなかった。電話がハードルになった時代。既読という概念が生まれた時代。それは確かに、誠が育った時代とは別の時代だった。
翔太の恋愛は、その夜のうちに終わったらしかった。翌朝、翔太はいつもより早く家を出た。スマートフォンを見ながら、無言で。
誠は見送りながら、思った。四十年前、自分はSaraへの返事を書くのに一週間かかった。翔太の彼女は、三時間返事を返さなかった。どちらが相手を傷つけたか。どちらが相手を愛していなかったか。
そんなことは、関係なかったのかもしれない。
フェイスブックの通知
翔太の一件から二週間後のことだった。
誠はFacebookのアカウントを作った。翔太に「父さんみたいな世代が使うんだよ」と言われて、半ば強引に登録させられた。
名前を入力して、プロフィール写真を設定して、出身地と職歴を入力した。すると、「知り合いかもしれない人」というリストが現れた。
誠は何気なくリストをスクロールした。同僚の名前、大学の後輩の名前……。
そして止まった。
Sara Mitchell。
プロフィール写真の女性は、あのSaraだった。少し白いものが混じった亜麻色の髪。でも目は同じだった。あの屈託のない目。
誠は長い間、その写真を見つめた。
友達申請を送るべきか。四十年の沈黙の後に、ボタン一つで「友達」になる。その軽さが、なんとも言えない気持ちにさせた。
誠はその夜、申請を送らなかった。
翌朝、Facebookを開くと、通知が来ていた。
「Sara Mitchellさんが友達リクエストを送りました」。
向こうから来た。
誠は画面を見ながら、思わず声が出た。それは笑いとも、驚きとも、どちらとも取れる音だった。
四十年前、自分は返事を書くのに一週間かかった。
今日は、「承認」ボタンを押すのに一時間かかった。
第四章 渋沢栄一の顔
二〇二四年 東京・誠、六十二歳
新しい一万円札が流通し始めた、その夏のことだった。
誠はコンビニのキャッシュディスペンサーでおろした新しい一万円札を、しばらく眺めた。渋沢栄一の顔が、こちらを見ている。
聖徳太子、伊藤博文、福沢諭吉、そして渋沢栄一。誠が物心ついてから、一万円札の顔は三度変わった。それを「三世」と数えるなら、誠はすでに三世を生きている。
スマートフォン、SNS、そして今、AIが日常に入り込んできた。電話が生まれ、ポケベルが生まれ、携帯電話が生まれ、スマホが生まれ、そしてAIが話しかけてくる。
福沢諭吉は二世を生きたという。自分は何世を生きているのだろう。五世か、十世か。数えるのが馬鹿らしくなってきた。
誠はそんなことを考えながら、コンビニを出た。
再会のメッセージ
Saraとは、Facebookで繋がって以来、時折メッセージを交わしていた。最初は短いものだった。
「元気?」
「元気。そっちは?」
「元気よ。日本語、まだ練習してる」
その「日本語まだ練習してる」という一言が、誠には意外だった。あれから四十年、Saraはまだ日本語を学び続けているのか。
「なんで日本語を続けてるの?」と誠は聞いた。
返事が来るまで、三日かかった。
「あなたの手紙の後半が、読みたかったから」
誠は、息が止まった。
あの最初の手紙。前半は英語で、後半は日本語で。「後半は読めなくていい。でもこれが、俺の言葉だから」と書いた、あの手紙。
Saraはそれをずっと持っていた。そして読もうと、四十年間、日本語を学び続けていた。
「読めた?」と誠は書いた。
「だいぶ読めるようになった。でも、一つだけ分からない言葉がある」
「何?」
「『好きです』ってどういう意味?」
誠は笑った。声に出して、笑った。一人でいるのに。
「知ってるくせに」と誠は書いた。
「知らない。教えて」
「……I like you. いや、I love you に近いかな」
「四十年前に言ってくれれば良かったのに」
「書いたじゃないか。手紙に」
「手紙に書いたのと、ちゃんと言うのは違う」
誠は画面を見た。そうだな、と思った。
手紙に書いたのと、ちゃんと言うのは違う。ポケベルで数字を送るのと、ちゃんと言うのは違う。メッセージを打つのと、ちゃんと言うのは違う。
どんなに技術が変わっても、その違いだけは変わらないのかもしれない。
来日
Saraから連絡が来たのは、一万円札を眺めたあの日から三週間後だった。
「来月、東京に行く。娘の結婚式があって」
誠は返事を打つ手が止まった。
「会える?」とSaraは書いた。
誠はしばらく考えた。四十年ぶりの再会。お互い六十代。あのころのSaraではなく、あのころの誠でもない。それでも、会いたいと思った。いや、会わなければならない気がした。あの「後半の手紙」の答えを、ちゃんと口で言うために。
「会おう」と誠は書いた。
返事は一分で来た。「嬉しい」。
四十年前なら、この一言が届くまで一週間かかった。
再会
待ち合わせは、上野公園にした。
八月の終わり。まだ蒸し暑い午後。誠はベンチに座って待った。公園の木々が、微かに揺れていた。スマートフォンを見ると、Saraから「今、公園の入り口にいる」とメッセージが来た。
立ち上がった誠の目に、遠くから歩いてくる女性が見えた。
白いシャツ。少し白くなった亜麻色の髪。でも歩き方が、あのSaraだった。迷いのない、まっすぐな歩き方。
Saraも誠を見つけた。少し早足になった。
十メートル。五メートル。三メートル。
二人は止まった。
「Makoto」
「Sara」
それだけだった。でもその二つの言葉の中に、四十年分が詰まっていた。
Saraは笑った。あのころと同じ、屈託のない笑顔で。「老けたね、お互い」
「そうだな」と誠も笑った。
「手紙、ずっと持ってたよ」とSaraは言った。「後半、全部読めた。最後の方、『ずっと好きでした』って書いてあった」
誠は空を見た。少し雲があった。「よく読めたな」
「四十年かかったけどね」
「遅すぎる」
「あなたが返事を書くのが遅かったんじゃない」
誠は苦笑いした。「そうだな。時代のせいにしてたのかもしれない」
「私もそう。Jasonのことも、本当はあなたへの返事を待ちきれなかっただけだった」
二人はしばらく黙った。上野の木立が風に揺れた。
「Jasonとは?」と誠は聞いた。
「三十年前に離婚した。子供が二人いる。娘が今回、日本人と結婚する」
「そうか」
「あなたは?」
「結婚したことがある。十五年前に離婚した。息子が一人いる」
「そうか」とSaraは言った。今度は日本語で。
誠は笑った。「日本語、うまくなったね」
「あなたの手紙のおかげ」
二人は並んでベンチに座った。公園を行き交う人たちは、誰もスマートフォンを見ていた。写真を撮り、メッセージを打ち、画面の中の世界に半分沈みながら歩いていた。
「これからの三十年、どんな世界になると思う?」とSaraは聞いた。
「分からない」と誠は答えた。「でも、たぶんまた全部変わる」
「怖い?」
「少しね。でも……」
誠は続けた。「変わっても、変わらないものもある気がする」
「何が?」
誠はSaraを見た。四十年越しの、その顔を。
「気持ちを伝えるのに、勇気がいること。それは変わらない」
Saraはしばらく誠を見つめた。それから、また日本語で言った。
「好きです」
誠は、息を飲んだ。
「四十年遅い」
「あなたも四十年遅かった」
誠は笑って、空を見上げた。雲が少し動いていた。
「今からでも遅くないかな」
「分からない」とSaraは言った。「でも、遅すぎるよりはいい」
上野の木々が揺れた。誰かのスマートフォンが鳴った。電車の音が遠くから聞こえた。
誠は手の中のスマートフォンを、ポケットに仕舞った。今この瞬間だけは、画面の外にいたかった。
エピローグ
その夜、誠は一人でビールを飲みながら、窓の外の東京を眺めた。
財布から新しい一万円札を取り出した。渋沢栄一の顔。
聖徳太子が福沢諭吉になり、福沢諭吉が渋沢栄一になった。お札の顔が三度変わる間に、電話が生まれ、ポケベルが生まれ、スマホが生まれ、AIが生まれた。
福沢諭吉は一身にして二生を経ると言った。
自分は何世を生きたのだろう。手紙の世界、ポケベルの世界、スマホの世界、AIの世界。少なくとも四世。いや、もっとかもしれない。
でも、今日のあの再会は、何世分の出来事だったのか。
四十年前の手紙の後半が、ようやく届いた。四十年かかった返事が、今日、上野公園のベンチで口から出た。
これを何世と数えるのか。誠には分からなかった。
スマートフォンが光った。Saraからのメッセージだった。
「今日は、ありがとう」
誠は少し笑った。四十年前なら、この一言が届くまで一週間かかった。
今は一秒だ。
でも、気持ちを打ち明けるのに、四十年かかった。
技術は速くなった。でも人間は、相変わらず時間がかかる。それが、悪いことだとは思わない。時間がかかった分だけ、言葉は重くなる。四十年分の重さを持った「好きです」は、きっとその重さの分だけ本物だった。
誠は返事を打った。
「こちらこそ」
送信ボタンを押した。
一秒で届く言葉。でも、四十年かかって育った気持ち。
誠は一万円札を財布に戻して、ビールを飲んだ。窓の外の東京は、相変わらず光り続けていた。
これからの三十年、また世界は変わるだろう。お札の顔も、また誰かに変わるかもしれない。スマートフォンは何か別のものに置き換わるかもしれない。AIが、今よりずっと深く日常に入り込むかもしれない。
でも。
誠はそう思った。
でも、あの「好きです」の重さだけは、変わらないはずだ。
どの時代を生きていても、それだけは変わらない。
(了)
〜あとがきに代えて〜
福沢諭吉は「一身にして二生を経るが如し」という言葉を残しました。蒸気機関が世界を塗り替えた時代を生き、馬の背に揺られた少年と、電信の時代の壮年とを、同じ一つの体の中に生きた人の言葉です。
この物語は、その言葉を起点にしています。
もし福沢諭吉が二世を生きたなら、わたしたちは何世を生きているのか。手紙からポケベルへ、ポケベルから携帯電話へ、携帯からスマートフォンへ、そして今、AIの時代へ。一人の人間の一生の中で、世界が何度も作り替えられた。
それはまぎれもなく、五世であり、十世であるかもしれません。
でもこの物語を書きながら、思ったことがあります。
技術がどれだけ変わっても、人間が「気持ちを伝えるのに時間がかかる」という事実だけは、変わっていないのではないか、と。
手紙が一週間かかった時代、わたしたちは返事を書くのに躊躇しました。ポケベルで数字を打つ時代、わたしたちは少し間接的に愛を伝えました。メッセージが一秒で届く時代、わたしたちは「既読スルー」に悩みます。
インフラは速くなった。でも、心は変わっていない。
主人公の桐島誠と、Saraの話は、架空の物語です。でも、あのエアメールのすれ違いは、実際に誰かが経験したことではないか、という気がしてなりません。技術の限界ではなく、人間の限界で、大切な誰かとすれ違ってしまった経験を、持っている人は多いはずです。
そして、それでもいい、と今は思います。
時間がかかったぶん、届いた言葉には重みがある。四十年越しの「好きです」は、四十年分の重さを持っている。
お札の顔は変わっても、そういうことだけは変わらないと、この物語は信じています。

