アマゾンのキンドルは
週に10冊の掲載の縛りも
今週で70冊となりました

掲載予定では
今月中に
100冊になるでしょう

今週 悩んで
載せなかった長めのこれを
わずかな間
ここに載せて置きますので
ご意見を頂けたら嬉しく思います


アマゾン キンドル



〜プロローグ〜

僕らの持ち時間は
日に日に縮まり
残りの時間を思った時
他の場所へ行く方と
今を続ける方とに分かれる

光の速さに近い宇宙船の中では
時間に遅れが出て
地球へと戻ると
そこに大きな時間差が出来ると
相対性理論は説明するが
はてさて それすらも分からない…

それは
宇宙船まで速くなくても
日常 急いで動いていると
時間の流れはほんのわずかに遅れ
すれば老化も遅れると

更には
高い場所もそれで
山登りやスカイツリーでもと
それらを積み重ねると
きっとわずかでも
老化は遅れるのかもしれない

記憶では
出来たばかりのコンピューターは
部屋一杯の大きさだった

それが今
手のひらに乗るここまで
小さくなった

それだって
わずか半世紀

すれば
あと半世紀も経てば
想像を越えた時代が
やって来るのだろう

スマホは更に小さくなり
もしかすると
その姿すら消して
身体に埋め込まれたかチップが
即座に脳へと伝達し…

車は空を飛び回り
最短距離で目的地へと

いや
身体は分子になり
一瞬で遠くへと移動し
そちらでまた身体へと戻る

その途中で
悪い細胞は除去され
健康も保たれる

訊けば
電子を半分に分けて
半分をここに置き
半分を遥か彼方に置く

すると
ここに置いた半分に
情報を入れると
瞬時にあちらにもその情報が
届いていると

それは 
まこと不思議かな
間に何ひとつ
繋ぐものは不要だそうで
すでにその実験は
完成していると

すれば
どこにも漏れることなく
情報を送れると

ならば
半分を今日に置き
半分を明日に なんてなれば

明日側からのデータが
今日 届けば
多くのことが間に合うかも
なんて…

はてさて
老いた男が目一杯の想像をしても
せいぜいそんなくらいだけれど
現実は更に上へと進化するのだろう

ただし
僕ら世代は残念ながら
それを見届けることは
出来ないけれど…

すれば
見掛けの若い方々は
日常 速い乗り物で動き回り
高い山にでも登っているのかと
思ってみるが…

それよりも
本当は良い栄養を摂り
規則正しく過ごし
多くの遊びの中で
楽しく
身体を動かしているのだろう





量子テレポーション


序章


——私は、ここにいる。

だが同時に、ここにいない。

モニターの向こうで、もう一人の僕が死んだ。

その瞬間、こちらの僕は——何も感じなかった。

恐怖でも、悲しみでも、安堵でもない。ただ、乾いた確信だけが、胸の奥に積もった。雪のように、音もなく。静かに、確実に。

「次は、こっちだ」

誰に言うでもなく、僕は呟いた。部屋には誰もいなかった。いや、正確には——もう一人の僕が、さっきまでそこにいたはずだった。同じ顔、同じ声、同じ記憶を持った存在が、モニターの中で静かに消えた。

消えた、とは語弊がある。「転送された」と言うべきか。だが転送された先がここなら、転送元が消えたことは——消えた、としか言いようがない。

僕は画面を見続けた。

空になった受け取り側の装置を。

そして——静寂の中で、確信だけが深くなっていった。


一章 時間はズレる


僕らの持ち時間は、日に日に縮まっている。

それは誰にも平等で、誰にも止められない——はずだった。少なくとも、あの研究所に足を踏み入れるまでは、そう信じていた。信じていた、というより、疑う理由がなかった。時間は流れる。それは変えられない前提で、川が海へ向かうように、誰もが同じ速度で老いていくものだと思っていた。

研究所というのは大げさな呼び名で、実態は廃工場の一角を改装した作業場だった。区外れの、人通りの少ない通りに面した古いビルの地下。外から見ると、何かの資材置き場か、あるいは廃業した業者の倉庫のように見えた。表札もなく、インターフォンもなかった。

階段を降りると、鉄製の扉があった。ノックすると、内側から錠が外れる音がした。

最初に感じたのは、温度だった。外気より二、三度、低い。次に気づいたのは、音の消え方だ。外の喧騒が、扉の向こうで完全に遮断された。吸音材でも貼ってあるのか、あるいは構造自体が音を殺す設計なのか——そのどちらかだと思ったが、後者だと男は言った。

「音は情報です」と男は最初の日に言った。「不必要な情報は、実験の精度を下げます」

天井の低い部屋に、古いラックサーバーが並び、ケーブルが床を這い回っていた。窓はなかった。いつが昼で、いつが夜かも、そこにいると分からなくなる。照明は一定で、温度は一定で、音は最小限だった。時間の感覚が溶けていく場所だった。

それは意図的な設計だったのかもしれない、と後になって思う。

「時間は固定されていません」

男はそう言った。

最初の日の、最初の言葉だった。挨拶も、自己紹介も、世間話も——なかった。扉を開け、室内へ招き入れ、椅子を指差して座るよう促し、自分も向かいに座り、そして言った。

「時間は固定されていません」

出会いは偶然ではなかったと、今の僕は思う。だが当時は、偶然だと信じていた。知人の紹介、という体裁だったが、その知人も今は連絡が取れない。半年前に急に連絡が来て、「面白い人がいる、会ってみないか」と言われた。それだけだった。

男は四十代に見えた。正確な年齢は分からない。痩せていて、骨張った指をしていた。髪は短く、眼鏡をかけていなかったが、細い目が常に何かを測っているように動いていた。言葉を選ぶ癖があった。長い沈黙の後に、ようやく一文を出す。その一文が、毎回、的確すぎた。

「速く動けば、時間は遅れます。重力が強い場所では、さらに遅れる。これは仮説ではなく、観測された事実です」

アインシュタインの特殊相対性理論と、一般相対性理論の話だ。知識としては知っていた。光速に近い速度で移動した物体は、静止した観測者から見て時間の進みが遅くなる——ローレンツ収縮と時間の遅延。これは実験で繰り返し確認されている。高速で飛ぶ粒子の寿命が、静止時より長く観測されること。原子時計を乗せた航空機と地上の時計がわずかにズレること。

さらに一般相対性理論では、重力が時間の流れを変える。重力が強いほど、時間は遅れる。地球表面と上空では、わずかだが時間の速さが異なる。この差を補正しなければ、GPS衛星は日々蓄積する誤差で使い物にならなくなる。

だから今も、私たちの生活の中に、時間の相対性は静かに組み込まれている。

だが男は、それを教科書の言葉で語らなかった。

「あなたは今、一秒ごとに一秒を消費しています。誰でもそうです。ですが——消費の速度は、変えられます」

机の上に置かれたのは、黒い箱だった。

金属製で、一辺が三十センチほど。表面は艶消しの加工が施されており、継ぎ目がほとんど見えなかった。前面に小さなパネルがあり、わずかに青白い光を放っていた。接続ポートが左右に複数あり、細いケーブルがラックサーバーへと伸びていた。内部から微細な振動が伝わってくる気がした。心拍とは違う、規則的なリズム。息をしているような、そんな印象だった。

「これは"時間"ではなく、"あなたの状態"を扱います」

僕は箱を見た。箱は、何も言わなかった。

「どういう意味ですか」

「量子状態です」と男は言った。「物質の、最も根本的な記述。それを——移動させます」


二章 量子もつれ


量子力学を、僕は専門家として学んだわけではない。

文系の出身で、数式を追う習慣はなかった。だが男との会話を通じて、僕はいくつかの概念を、骨身に刻むように理解していった。説明を求めると、男は惜しまなかった。むしろ、説明することを、どこか楽しんでいるようだった。数式を使わずに、物理の本質を伝えようとする——そういう種類の人間がいて、男はその典型だった。

「まず、量子もつれから始めましょう」

一九三五年。アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの三人が、ある思考実験を発表した。いわゆるEPRパラドックスだ。量子力学の標準的な解釈に従えば、二つの粒子は「もつれ」の状態に置かれることができる。もつれた粒子の一方を観測すると、瞬時にもう一方の状態が確定する——どれほど遠く離れていても。

東京で一方の粒子を観測すれば、ニューヨークにある対になった粒子の状態が、光の速さすら超えた速度で「確定」する。

「アインシュタインはこれを、"不気味な遠隔作用"と呼んで否定しようとしました」と男は言った。「局所的実在論を信じていた彼は、こんな馬鹿げたことが起きるはずがないと考えた。隠れた変数があるはずだ、と。量子力学は不完全なのだ、と。粒子はもともと状態が決まっていて、私たちがそれを知らないだけなのだ、と」

だが一九六四年、ジョン・ベルが数学的な不等式を導出した。ベルの不等式と呼ばれるそれは、もし隠れた変数が存在するなら必ず満たされるはずの条件を定式化したものだった。実験でこの不等式が破れるならば、隠れた変数はない——量子力学の「不気味さ」は本物だということになる。

一九八二年、アラン・アスペらがパリで行った実験は、不等式の破れを明確に示した。その後、より精度の高い実験が繰り返され、ループホールを次々に塞いでいった。二〇一五年のデルフト工科大学の実験は、事実上すべてのループホールを閉じた最初のものとして知られている。

結論は明確だ。隠れた変数はない。量子力学の「不気味さ」は実在する。

「情報は送れません」と男は続けた。「もつれを使っても、情報を光速より速く伝達することはできない。それは数学的に証明されています。もつれた粒子の状態を観測した結果は、ランダムです。あらかじめ決めておくことができない。だから、信号を載せることができない」

「では、何の役に立つのですか」

「一致させることができます」

男は二つの小さなカプセルを取り出した。直径一センチほどの、透明なアクリル製の筒。内部に微細な構造が見えたが、裸眼では判別できなかった。

片方を箱の左側ポートに接続し、もう片方を三メートルほど離れたパネルの上に置いた。スイッチを入れると、両方が同時にわずかに震えた。二つの光点が、同時に点滅した。

「遠く離れた場所に置かれたこれらは、同時に状態が変化します。原因と結果、という時間的順序が成立しない形で」

理由は説明できる。数式で記述できる。だが直感は拒否する。

「量子テレポーテーションは、このもつれを利用します。送り側でスキャンした量子状態の情報を、もつれたチャンネルを介して受け側に伝える。ただし——」男は箱に手を触れた。「"物"を送るのではありません。"状態の情報"を送るのです。そして——」

「元の状態は、消えます」

「元の状態が消える」と僕は繰り返した。

「はい」と男は言った。「これは量子複製不可能定理によるものです。量子状態は、完全にコピーすることができない。スキャンすることと、複製することは、量子力学の範囲では同時にできない。だから——移動だけが可能です。コピーではなく、移動。移動した先に、元と同じ状態が現れる。元は、なくなる」

僕はその言葉を、最初は抽象的な物理の話として聞いた。

粒子の話、原子の話、微細な量子状態の話。

それが自分の問題になるとは、まだ思っていなかった。


三章 観測という行為


「観測すると、状態が確定する」と男は言った。「観測されていない間、粒子は複数の状態に重ね合わさって存在しています」

量子重ね合わせ。これも難解な概念だ。電子は「どこにあるか」が確定するまで、確率の波として空間に広がっている。観測という行為が、その波を一点に収縮させる。

シュレーディンガーの猫、という有名な思考実験がある。エルヴィン・シュレーディンガーが一九三五年に提示したもので、当初は量子力学の解釈の奇妙さを批判するために作られた。

箱の中に猫を入れる。同時に、量子的な確率——例えば放射性物質の崩壊——によって毒が放出される装置を置く。崩壊するかどうかは、開けてみるまで分からない。では箱を開けるまで、猫は生きているのか、死んでいるのか。

量子力学の標準的な解釈に従えば、観測するまで両方の状態が重ね合わさって存在している。箱を開ける——つまり観測する——という行為が、どちらかに確定させる。

「馬鹿げた話だと思いますか」と男は訊いた。

「思いません」と僕は答えた。正直なところ、思っていたが、それを言う必要はなかった。

「ですが」と男は続けた。「この解釈には、いくつかの流派があります。コペンハーゲン解釈は、観測によって波動関数が収縮すると言う。多世界解釈は、観測のたびに宇宙が分岐すると言う。デコヒーレンス理論は、環境との相互作用が重ね合わせを失わせると説明する。どれが正しいかは——まだ分かっていない」

「それは困りますね」

「困るのは、日常感覚で理解したい人間だけです」と男は言った。淡々とした口調だった。「数式は正しく機能します。どの解釈を採っても、計算結果は一致する。実験の予測も、一致する。解釈の違いは——哲学的な問いです」

多世界解釈については、後日、もう少し詳しく聞いた。

量子的な選択のたびに、宇宙が分岐する。猫が生きている世界と、死んでいる世界が、ともに実在する。観測は現実を選ぶのではなく、観測者がどちらかの世界に属するかを決めるだけだ——あるいは、観測者自身も分岐する。

「あなたは、どの解釈が正しいと思いますか」と僕は訊いた。

男は少し間を置いた。普段より、長い沈黙だった。

「私が正しいと思うことは、あまり意味を持ちません」と彼は言った。「この装置は——どの解釈においても、同じように機能するよう設計されています」

黒い箱が、わずかに振動した。

その振動が、何かの前触れだとは、まだ思っていなかった。


四章 最初の転送


最初はリンゴだった。

小ぶりな、赤いリンゴ。青果店で男が買ってきたもので、特別なものではなかった。それを送り出し側の装置——黒い箱を大型化したような、部屋の隅に置かれた装置——の台座に置いた。

「量子状態の完全なスキャンを行います」と男は説明した。「原子の配置、電子の状態、分子の結合、熱振動——すべての量子状態を記述します。これは膨大な情報量です」

「リンゴ一個で、どのくらいですか」

「現在の理論値では、可観測宇宙の情報量を超えます」と男は言った。「ですが——完全なスキャンは必要ありません。重要な状態だけを選択的にスキャンする。これが、実用的な量子テレポーテーションの鍵です」

「選択的に」

「記憶と行動に関わる情報。構造的な整合性を保つために必要な情報。それ以外——例えば、原子一個の位置の正確な座標——はノイズとして省略できる」

「それは本当に同じと言えるのですか」

「人間の記憶も、同じ意味で完全ではありません」と男は言った。「昨日の朝食を思い出すとき、あなたは箸の角度を分子レベルで再現しているわけではない。それでも、同じ記憶と言える」

スキャンが完了した。

男がスイッチを入れた。

音はなかった。光もなかった。ただ——台座の上のリンゴが、消えた。消えた、というより、存在しなくなった。そこにあったものが、そこにない。それが「消える」という言葉の、正確な意味だと初めて理解した。

三メートル離れた受け取り側の装置に、同じリンゴが現れた。

「同じ?」と僕は訊いた。

「区別がつきません」と男は言った。「物理的に測定可能な範囲では、完全に一致しています」

「味は」

「かじってみますか」

僕はリンゴを手に取った。重さは同じ。手触りは同じ。かじると——甘くて、少し酸っぱかった。ごく普通の、赤いリンゴの味だった。

だがそれが元のリンゴの味かどうかは、確認のしようがなかった。元のリンゴはもう存在しないから。

これが、この問題の核心だ、と今の僕は理解する。検証不可能性。

元と同じかどうかを確かめる手段は、原理的にない。比較対象が消えているから。


五章 マウスの場合


次はマウスだった。

実験用の白いマウス。ケージで二週間、特定のプロトコルで飼育された個体だった。転送前に、迷路実験で学習を施した。左右の選択を、餌の報酬によって強化する。三日間で、正答率が八十五パーセントを超えた。

転送した。

マウスは消え、受け取り側に現れた。外見は変わらなかった。活動も、正常だった。餌を与えると食べた。水を飲んだ。毛繕いもした。

翌日、同じ迷路を置いた。

マウスは、正しく走った。

記憶は移動した。

だが——と男は言った——これが「同じマウス」であることを、どう証明するか。

「行動が同じです」と僕は言った。

「行動パターンが同じ、という観察事実があるだけです」

「記憶が同じです」

「記憶に対応する物理的状態が同じ、ということです」

「それは同じということではないのですか」

「"同じ"とは何か、です」と男は言った。「元のマウスと、転送後のマウスの間に、時間的な連続性があるか。物理的な連続性があるか。元のマウスは消えた。新しいマウスが現れた。間に、断絶がある」

「でも、人間が眠って起きるときも、ある種の断絶では」

「良い観点です」と男は言った。珍しく、評価する言葉だった。「睡眠中は意識が断絶するという意味では、似ています。だが——脳の物理的な連続性は保たれる。ニューロン間の接続は変わらない。量子テレポーテーションは、物理的な連続性すら断ち切ります」

マウスは、自分が転送されたことを知らない。

知る必要もない。

だがそれは——マウスだから成立する話なのかもしれない。マウスに「自分」という概念があるなら、転送後のマウスは自分が同じマウスだと思っているだろうか。

あるいは——何も思っていないかもしれない。


六章 被験者・田中の場合


人間への応用は、三ヶ月後だった。

被験者は、田中と名乗った。二十八歳。職業不詳。実際には職に就いていなかったようだが、詳しくは聞かなかった。男が連れてきた人物で、事前に十分な説明を受けた、とのことだった。書面での同意書もあった。

田中は、転送を「面白い実験」と表現した。最初に会ったとき、彼はどこか能天気な印象を受けた。細身で背が高く、軽い調子で話す癖があった。「まあ、死ぬわけじゃないんでしょう」と言った。男は「死と、どう違うかは議論の余地がある」と答えた。田中は笑った。

「まあ、試してみないと分からないですよね」

転送当日。

田中は送り出し側の装置の前に立った。特別な準備は必要なかった。ただ立つだけ。静かにしていれば、スキャンが始まる。

「緊張しますか」と僕は訊いた。

「しますよ」と田中は言った。「でも——なんか、大丈夫な気がする」

スキャンには十五秒かかった。

その後、一瞬の間があった。

送り出し側の田中が、消えた。

三メートル離れた受け取り側に、田中が現れた。

「どうですか」と男が訊いた。

田中は周囲を見回した。目を瞬かせた。

「普通です」と田中は言った。「何も変わった感じはない」

彼は自分の手を見た。腕を曲げた。足踏みをした。

「ほんとうに何も変わらないな。眠って起きた感じもない。ただ——さっきここにいて、今もここにいる」

記憶も、感情も、そのまま。

話し方、癖、笑い方。すべて転送前と変わらなかった。

僕は安堵した。だが男の表情は、変わらなかった。何かを注意深く観察しているような、静かな緊張が顔に見えた。

翌日も、田中は変わらなかった。

二日後も、変わらなかった。

三日後。

田中は研究所の一角で、自分の手を見つめながら、言った。

「俺は"続いていない"」


七章 連続性の崩壊


「続いていない、とは」と僕は訊いた。

「説明が難しい」と田中は言った。「感覚では分かっているんだけど」

彼は窓の外を見た。研究所に窓はなかったから、視線はただ壁に向かっていた。コンクリートの、冷たい灰色の壁。

「寝て起きると、前の日の自分と今日の自分が——なんとなく繋がってる気がするでしょ。記憶があって、感情が続いていて。朝目を覚ましたとき、自分が誰かを確かめる必要がない。当たり前のように、昨日の続きから始められる」

「そうですね」

「それが自分が同じだと思える根拠だと思うんですよ。証明とかじゃなくて、感覚として。俺が俺であるという——なんとなくの確信みたいなもの」

「転送してから、それがない」

田中は手のひらを閉じ、また開いた。

「記憶はあります。転送前のことも、昨日のことも。田中健太として生きてきた三十年近くのことも、全部ある。でも——どこかで、糸が切れた感じがする」

彼は言葉を探すように、少し間を置いた。

「向こうの俺が消えた瞬間、こっちの俺が始まった。それは分かってる。論理的には分かってる。向こうの俺が経験したことを、俺は記憶として持っている。でも、それを経験した"俺"と、今の俺が——同じかどうかが、分からなくなってきた」

「同じじゃないと思いますか」

「同じかもしれない。でも——同じじゃないかもしれない。その区別が、前はなかった。区別する必要がなかった。転送前は、俺は確実に俺だった。今は——確実じゃない」

「それは認識の問題では」と僕は言った。「物理的には同じなのだから」

「でも、認識がズレているということは——何かが変わったということじゃないですか」

田中は手を見続けた。

「俺は"続いていない"んです。向こうの田中の記憶を持った、別の何かが始まった。そういう感覚が——消えない」

その夜、田中は姿を消した。

荷物も、連絡先も、何も残さなかった。研究所のあった廃工場の近くの小さなホテルに泊まっていたが、チェックアウトもせずに出ていった。精算は後日、現金が封筒に入って郵送されてきた。差出人の住所はなかった。

男は特に慌てた様子を見せなかった。「想定内です」と言った。「精神的な適応には、個人差があります」

だが僕は、田中の言葉を長く引きずった。

俺は"続いていない"。

その感覚の意味を、僕は自分の言葉で理解しようとした。

転送前の田中は、転送を経験した。その記憶は移動した。だが、転送を経験した"連続性"——ここからそこへ移動した、という感覚——は、転送後の田中には存在しない。なぜなら、経験した本人は消えているから。

転送後の田中は、記憶として「転送した」ことを知っている。だが、それは経験として「覚えている」のではなく、記録として「持っている」だけかもしれない。

その差が、田中を苦しめた。


八章 デレク・パーフィットの問い


男は翌日、一冊の本を持ってきた。

英語の、厚い本だった。表紙は地味で、タイトルと著者名だけが印字されていた。"Reasons and

Persons"。デレク・パーフィット著。一九八四年刊。オックスフォード大学出版局。

「第三部を読んでください」と男は言った。「個人の同一性について書かれています」

僕は英語が得意ではなかったが、男が日本語で要約してくれた。

パーフィットはこう問う。

ある男性の脳を分割し、左半球と右半球をそれぞれ別の身体に移植した場合、どちらが元の人物か。

常識的な答えは——どちらかだ、もしくはどちらでもない、だ。

だがパーフィットは、その問い自体を疑う。

個人の同一性は、「ある」か「ない」かの二値ではないかもしれない、と彼は言う。何かがある程度続いている、という意味での同一性があるだけで、「完全に同じ」か「全く別」かというのは、程度の問題かもしれない。

さらに彼は言う。

個人の同一性は、実は、私たちが思うほど重要ではないかもしれない。

生き残るとは何か。記憶と性格が続くこと——それが脳の物理的な連続性の上にある必要は、ないかもしれない。

「田中は、これを理解しなかった」と僕は言った。

「理解していたと思います」と男は答えた。「だからこそ、耐えられなかったのでしょう」

「理解して、なお——」

「感覚は、理解とは別のところで動きます。論理では、転送前後の自分が連続していると説明できる。だが感覚は、断絶を感じる。その乖離が——耐えられなかった」

「あなたは、パーフィットの考えに同意しますか」と僕は訊いた。

「同意の枠組みで考えることに、あまり意味を感じません」と男は言った。「私が問いたいのは——転送後の存在が、転送前の存在と"十分に連続している"かどうかです。完全にではなく。十分に」

「田中は、十分でなかったと感じた」

「そうです」

「あなたは耐えられると思いますか。もし転送するとしたら」

男は少し間を置いた。

「私は転送しません」と彼は言った。

その理由は、訊かなかった。訊いたとしても、答えなかっただろうと思う。


九章 装置の拡張


転送装置の能力は、空間だけではなかった。

男は三ヶ月後、装置の改良を終えた。新しい機能は、わずかな時間的な移動を可能にするものだった。正確には、「時間的な方向への量子状態の転写」だが、男はそれを「時間移動」と、やや不正確に呼んでいた。

「時間と空間は、本質的に同じ構造を持っています」と男は言った。「相対性理論が示す通り、時空間は一つの連続体です。x、y、z、tの四次元。空間の三方向と、時間の一方向。数学的には、これらは同じ枠組みで記述されます」

「だが現実では、時間は一方向にしか流れない」

「そう見えます」と男は言った。「エントロピーの増大——熱力学の第二法則が、時間に方向性を与えています。コップが割れることはあっても、割れたコップが元に戻ることはない。この非対称性が、時間の矢を作っています」

「しかし」

「量子力学の基本方程式は——時間対称です。シュレーディンガー方程式は、時間の向きを逆にしても成立する。CPT対称性と呼ばれる性質があって——電荷の反転、空間の反転、時間の反転、この三つを同時に行うと、物理法則は変わらない」

「つまり」

「時間対称な理論と、時間非対称な現実の間に、何かがある。その何かの隙間に——装置は干渉します」

一日、三日、一週間。

それが、改良された装置の仕様だった。ただし——方向は「未来へ」のみだった。過去への移動は、理論的にも実験的にも、実現していなかった。

「ただし」と男は付け加えた。「情報の漏れは——双方向に起こりえます」

その意味を、僕はすぐには理解しなかった。


十章 未来からのノイズ


最初に気づいたのは、受信側モニターの異常だった。

送受信を同期させるためのチャンネルに、ノイズが混じっていた。定期的に、一定のパターンで。単なる電気的な干渉だと思っていたが、ある夜、男がそれを詳細に解析した。

「これは自然発生的なノイズではありません」と男は言った。

解析結果をプリントアウトしたグラフを、僕に渡した。グラフには不規則に見えるが、拡大すると規則性のある波形が記録されていた。

「エントロピーが低すぎます。自然のノイズは、もっとランダムに分布します。このノイズには——構造があります」

「構造とは」

「情報です」と男は言った。「誰かが送った情報です」

さらに解析を進めると、その情報は文字に変換できた。日本語の文字列。ただし断片的で、完全には復元できなかった。

モニターに、文字の断片が現れた。

——来るな

「誰が送ったのですか」と僕は訊いた。

男は答える前に、別の解析を走らせた。筆跡解析——デジタル化された文字の、筆圧分布、線の引き方の癖、文字間隔のパターン。AIによる比較照合。

「あなたです」と男は言った。

「僕が?」

「将来のあなたが、このチャンネルを通じて送信した、と考えられます」

僕は画面を見た。——来るな。

自分の字だとは、思えなかった。思えなかったが——言われてみれば、確かに、自分の字の特徴がいくつかあった。「な」の最後の払い方。「来」の二画目の終わりの癖。

「九十三パーセントの一致です」と男は言った。

「将来の僕が」と僕は繰り返した。

「時間移動の実験を開始して以来、チャンネルには微細な干渉が生じています。それを情報として解釈すると——この文字列になります」

「——来るな」

「何に来るな、ということですか」

「解釈は、お任せします」と男は言った。


十一章 複数の時間軸からの干渉


ログを徹底的に解析すると、最初のノイズだけではなかった。

過去六ヶ月のデータを遡ると、複数の時点から類似した信号が観測されていた。それらはすべて、ノイズとして処理され、自動的にフィルタリングされていた。アーカイブの底に眠っていたそれらを、男は一日かけて掘り起こした。

——選ぶな

——戻れない

——もう遅い

すべて、僕の筆跡だった。

九十一パーセント、八十七パーセント、九十五パーセント——照合率は、いずれも高かった。

信号が届いた時刻を整理すると、パターンが見えた。

田中が転送される一時間前。

装置の時間拡張実験を開始した日の朝。

別の被験者が強行転送を行った直後。

そして——今日。

「将来の複数の時間軸から、干渉が来ています」と男は言った。

「複数の時間軸」

「時間が分岐している可能性があります。複数の未来の"あなた"が、それぞれの時点からメッセージを送ってきている」

「だが内容が矛盾している」

「矛盾しているように見えます」と男は言った。「——戻れない、と——来るな、では、時制が違う。前者は已然の事実——既に戻れなくなっている状態からの告知。後者は未来への警告——まだ起きていないことを止めようとしている」

「どちらが正しいのですか」

「どちらかが正しく、どちらかが——消えた世界からの残滓かもしれません」

「消えた世界」

「はい」と男は言った。「収束の話をするタイミングが来たようです」


十二章 収束という概念


男は古いホワイトボードを引き出してきた。マーカーで、いくつかの線を引いた。

一点から始まる、分岐する線。木の枝のような図。

「多世界解釈に従えば、量子的な選択のたびに宇宙は分岐します。実験でボタンを押す。Aの宇宙では結果が出る。Bの宇宙では別の結果が出る。両方が実在する」

「どちらも等しく」

「理論上は、等しく実在します」と男は言った。「ですが——」彼はマーカーを止めた。「実際には、すべての分岐が等しく持続するわけではないかもしれない」

「なぜ」

「観測と観測者の問題です。多世界解釈では、観測者自身も分岐します。あなたも、Aの宇宙のあなたと、Bの宇宙のあなたに分かれる。ですが——ある条件下では、二つの分岐が互いに干渉し、どちらかに収束する可能性がある」

「どちらかが消える」

「そうです」と男は言った。「これを私は"収束"と呼んでいます。正式な物理的概念ではありません。私の仮説です。観測や実験で確認されてはいない」

「その仮説に基づけば」

「——来るな、というメッセージは」男はホワイトボードに向き直った。「転送を選んだ世界から、転送しなかった世界への干渉かもしれません。あるいは——転送しなかった世界が、転送した世界に向けて送っているかもしれない」

「どちらが消えようとしているのですか」

「両方が、相手を消そうとしているのかもしれません」と男は言った。「収束は——選ばれなかった時間の排除です。排除される前に、排除を止めようとする。あるいは排除から逃げようとする」

「——来るな、は、どちらから来た言葉ですか」

男は答えなかった。

「どちらの世界の僕が書いたのですか」と僕は訊いた。

「転送した世界の"あなた"が書いた可能性と」と男はゆっくりと言った。「転送しなかった世界の"あなた"が書いた可能性が、両方あります」

「そして、どちらかが消える」

「そうです」

「そして今——」

「まだ、どちらも存在しています」と男は言った。「収束は——起きていない」


十三章 別の被験者


田中の後、もう一人、強行した者がいた。

名前は聞いていない。三十代後半の男性で、技術的な背景を持っていた——詳細は分からないが、装置の操作を独自に習得し、男の監督なしに実験を行おうとした。田中とは別の経路で男と接触した人物で、僕が研究所に通う前から何らかの関わりがあったようだった。

彼は、時間移動を要求した。未来へ七日。

空間的な転送ではなく、時間的な移動。改良後の装置が持つ、「時間方向への転写」機能の使用。

男は反対した。完全な安全確認ができていない、と言った。意識に関わる量子状態の時間移動は、空間移動より遥かに不安定で、理論的なモデルがまだ確立されていないと言った。

だが彼は聞かなかった。

ある深夜、研究所に一人で入り、自分でスイッチを入れた。

転送は——成功したはずだった。

七日後の朝、受け取り側に何かが現れた。

男が確認に来たとき、僕も立ち会った。

脳の活動は正常だった。EEGのパターンは、覚醒時の通常値を示していた。心拍も、血圧も、生体機能に異常はなかった。瞳孔反応も正常。

だが彼は、一度も話さなかった。

目を開けていた。視線が動いた。光源の方向に向く。音に反応する。だが——

内側に、誰もいなかった。

「何が起きたのですか」と僕は訊いた。

「量子コヒーレンスの喪失です」と男は言った。「正確には、意識に関わる量子状態のコヒーレンスが、時間移動の過程で失われた」

「意識に関わる量子状態、とは」

「まだ理論が確立されていません。ペンローズやハメロフの量子意識論を参照しましたが——実証はされていない。ただ——何らかの量子的なプロセスが意識に関与しており、それが時間移動の負荷に耐えられなかった」

「では、彼は死んだのですか」

「身体は生きています」

「彼は」

男は少し間を置いた。

「"どこにも"いません」と男は言った。「意識が存在しなくなった、とも言えます。あるいは——意識だけが、七日後に飛んでしまって、身体が残された、とも言えます。後者であれば、七日後——この身体が到着した時点——に、どこかに意識があるはずですが」

「七日後に来ましたか」

「来ませんでした」と男は言った。

それ以上は聞かなかった。


十四章 コピーか連続か


ボタンは目の前にある。

「押しますか」と男は訊いた。

いつからそこにあったのか、気づいていなかった。装置の前に立っていた。台座の上には何もない。自分がいつここに来て、どのような経緯でこの体勢になったか——記憶は続いているが、どこかで選択が起きていた。

「元の個体は消えます」と男は言った。「念のため、確認です」

「分かっています」

「連続性は、転送先で"そう感じる"だけです。転送された側は、眠って目を覚ましたように感じます。断絶の感覚はほとんどない——場合があります」

「田中は感じた」

「田中は感じました。感じる人と、感じない人がいます。どう違うのかは——まだ分かっていません」

「だが——」

「ここにいる僕は、消える」

「はい」と男は言った。「確実に」

つまり——ここでボタンを押せば、僕は消える。

向こうで"僕だと思っている何か"が目を覚ます。

そいつは僕の記憶を持つ。僕の癖を持つ。今この瞬間考えていることを考えており、昨日の朝食を覚えており、田中の言葉を引きずっており、パーフィットの問いを頭の隅に置いており、もう一人の被験者が「どこにもいない」という事実を知っており——そのすべてを「自分の経験」として持つ。

だがここにいる僕は、存在しなくなる。

「それでも同一だと言えるのですか」と僕は訊いた。自分に向けて。

「パーフィットはそれを重要だと思わなかった」と男は言った。

「パーフィットは自分では試していない」

男は、珍しく笑った。口元だけの、小さな笑みだった。

「そうですね」と彼は言った。「試していない」

「あなたも試さない」と僕は言った。

「はい」

「なぜですか」

男はしばらく沈黙した。

「私には——続かなければならない理由があります」と彼は言った。

それ以上は言わなかった。


十五章 逡巡


僕は三日、考えた。

研究所から出て、普通の場所で——カフェで、公園で、自室で——ただ坐って考えた。

何故転送したいのか、という問いから始めた。最初はそこが不明瞭だった。なんとなく、成り行きで、ここまで来てしまった気がした。半年前に知人から「面白い人がいる」と言われ、研究所を訪れ、男の話を聞き、実験を見守り、田中が消え、警告が届き——気づけば「ボタンを押す」という前提で物事を考えるようになっていた。

それは、誰かに操作されていたのか。男に。装置に。あるいは——未来の自分に。

だが三日間、ひとりで考えると、少しずつ形が見えてきた。

僕は——確認したかったのだと思う。

田中が感じた"断絶"を、自分が感じるかどうか。あるいは感じないかもしれない——その違いが、何を意味するのか。パーフィットの言うように、連続性は重要でないのか。転送後の自分が、それを確認できるかどうか。

試さなければ分からない。だが試したら、試した僕はもういない。

これは死と同じかもしれない。死んでみなければ、死がどのようなものかは分からない。だが死んだ後に「分かった」と報告することは、おそらくできない。

転送の場合も、似ている。転送した後の自分は、「分かった」と思うかもしれない。だがそれを確認する元の自分は、消えている。

未来からの警告——来るな——が、頭から離れなかった。

あれは誰が書いたのか。転送した世界の僕が、転送しなかった世界の僕に向けて書いたのか。それとも逆か。

「来るな」という言葉は——どちらの意図を持っているのか。

転送した世界の僕が書いたなら:「転送するな。転送した先で、何か恐ろしいことが起きた」という警告かもしれない。

転送しなかった世界の僕が書いたなら:「転送するな。転送しなかった方が良かった」という後悔かもしれない。

どちらにせよ、メッセージを送るほど追い詰められた状況がある、ということだ。

それでも——

指が、伸びた。

三日目の夜、僕は研究所に電話した。

「明日、行きます」

「分かりました」と男は言った。


十六章 転送


四日目の朝。

研究所は、いつも通りだった。低い天井、ラックサーバー、這うケーブル、青白い光。男が、いつもの椅子に座っていた。コーヒーを飲んでいた。

「準備はいいですか」と男は訊いた。

「はい」

特別な準備は、必要なかった。

装置の前に立つ。台座の上に乗る。静かにしていれば、スキャンが始まる。

「一つだけ訊いていいですか」と僕は言った。

「どうぞ」

「転送した後の僕が——断絶を感じたとして。それは誰に言えばいいですか」

「私に言ってください」と男は言った。

「あなたは、それを解決できますか」

「できません」と男は言った。「ただ——聞くことはできます」

それで十分だと、何故か思った。

スキャンが始まった。

十五秒間、静かにしていた。

その十五秒が、どのくらい長く感じたか——今は覚えていない。

スキャンが終了した。

処理が走った。

ボタンは、今度は男が押した。

光はない。

音もない。

タイムラグも、感覚の空白も——なかった。

ただ、世界が一度だけ"途切れた"。

瞬きよりも短い、断絶。

それだけだった。


十七章 到着


目を開ける。

同じ部屋。

同じ机。

同じ男が、同じ場所に立っている。コーヒーのカップを持っていた。

だが——空気が違う。

言葉にできない。気圧が変わった、とか、匂いが違う、とかではない。もっと根本的な何か。世界の解像度が、一ミリだけ下がったような。手触りが、わずかに変わったような。あるいは——僕の側の認識が、わずかに変わったのか。

「どうですか」と男は訊いた。

「普通です」と僕は答えた。田中と同じ言葉を、使った。

田中と同じ言葉を使っていることに気づいたとき、背筋に何かが走った。恐怖でも、安堵でも、奇妙な符合への興味でもない。何か、言語化できない感覚。

自分の手を見た。手は、あった。手のひらを閉じた。開いた。昨日の記憶も、田中の言葉も、パーフィットの本も、三日間の逡巡も、ボタンを押した感触も——全部あった。

「田中のように感じますか」と男は訊いた。

「まだ分かりません」

モニターに、映像が残っていた。

転送の映像が、自動的に記録されていた。送り出し側のカメラが、スキャン開始から転送完了までを撮影していた。

——僕が、台座に乗る瞬間。

スキャンが始まる。

十五秒。

男がボタンを押す。

その直後。

僕は映像の続きを見た。

何も起きなかった世界。

ボタンを押した後、台座の上には——何もなかった。僕の姿は消えていた。

それが正常だ。転送は成功した。

だが——三メートル離れた受け取り側のカメラも確認すると。

転送された直後のはずの時間に、受け取り側に何かが現れた映像——がなかった。

「どういうことですか」と僕は訊いた。

男は画面を見た。長い沈黙があった。

「少し待ってください」と彼は言った。初めて、不確かな声で。


十八章 ログの解析


解析に、二時間かかった。

その二時間、僕は椅子に座って待った。

何を考えていたか——あまり覚えていない。手を見ていた気がする。壁を見ていた気がする。男のキーボードを打つ音を聞いていた。規則的な、乾いた音。

「結果が出ました」と男は言った。

彼は画面を向けた。数値とグラフが並んでいた。

「転送は発生していません」

「どういう意味ですか」と僕は訊いた。

「量子状態の移動が、観測されていません。送り出し側のスキャンは完了しています。正常に処理されました。ですが——受け取り側への転写が、ログ上では発生していない」

「映像では、消えていました」

「はい。台座から、姿が消えています」

「では——」

「消えた後に、受け取り側に現れた記録がありません」

「では、ここにいる僕は何ですか」

「それが——」男は画面から目を上げた。「分かりません」

僕は自分の手を見た。手は、あった。脈はあった。

「もう一度、解析してください」

男は首を振った。「ログは明確です。転送装置のすべてのセンサーが、同じ結果を示しています。転送は——起きていない」

「だが僕は——」

「消えた、という映像がある。ここにいる、という事実がある。だが転送の記録がない」

「どちらかが誤りだということですか」

「あるいは」と男は言った。「転送とは別の何かが、起きたということです」


十九章 未来側が過去を書き換えた


「仮説があります」と男は言った。

彼は改めてホワイトボードの前に立った。今度は、複雑な図を描いた。時間軸を示す矢印。分岐する線。そして、矢印が逆向きに描かれた部分。

「時間移動の実験を通じて、装置は時間軸に干渉する能力を持った、と考えています。空間的な転送だけでなく、時間的な方向への影響が——記録には残っていないが、発生していた可能性があります」

「収束の話ですね」

「はい。転送を選んだ世界と、選ばなかった世界が、収束しようとしている。どちらかが選ばれ、どちらかが消えていく」

「そして——」

「転送が成功した世界では」と男は続けた。「転送後の"あなた"が存在しています。その"あなた"が、装置を通じて過去の時点に干渉した。"来るな"というメッセージは、転送後の世界から届いていた」

「だが転送は起きていない、と」

「起きていない——ように見えます」と男は言った。「それが書き換えの結果かもしれない」

「どういう意味ですか」

「転送が成功した世界の"あなた"が、過去に干渉した。その干渉の結果として——転送が起きなかった、という事実が、この世界に上書きされた」

「上書き」

「収束です。転送した世界と、しなかった世界が収束した。残ったのは——転送しなかった、という事実のある世界です。だが——」

「だが、ここに僕がいる」

「そうです」と男は言った。「収束後の世界にいる"あなた"は——どちらの世界の"あなた"かが、分からない」


二十章 残滓


ここにいる僕は、何だ。

転送した世界の残滓か。転送しなかった世界の継続か。

転送ログは、転送が起きていないと言う。だが"来るな"というメッセージを送ったのは、転送した後の僕だ——もしあの仮説が正しければ。

二つのことが同時に成立しているように見える。

転送は起きた。そして、起きなかった。

「シュレーディンガーの猫のようですね」と僕は言った。

男は少し考えてから言った。「そうかもしれません。ただし——箱を開けた観測者自身が、猫と同じ状態にある、という点が異なります」

「観測者は自分が生きているか死んでいるか、決められない」

「そうです。通常、シュレーディンガーの実験では、観測者は外にいます。箱を開ける側にいる。ですが——今の状況では、あなたが箱の中にいます」

「外から観測してください」と僕は言った。

「観測しています」と男は言った。「だが——観測によって確定するのは、外から見た事実だけです。あなたの内側——あなたが何の継続であるか——は、観測できません」

「では、この問いは永遠に答えが出ない」

男は答えなかった。

ただ、画面を見ていた。

ログが、淡々とスクロールしていた。転送は発生していない、という記録が、繰り返し、繰り返し、残されていた。


二十一章 真実の形


その日の夜、僕は一人で研究所に残った。

男は帰った。「考えてみてください」とだけ言って。

僕は、ログを一人で読み返した。過去六ヶ月のデータを、時系列で追った。

田中が転送された日。警告の最初の断片が記録された時刻。装置の改良が完了した日。もう一人の被験者が強行した夜。そして今日。

時系列で並べると、パターンが見えた。

警告は——重要な選択の直前に集中していた。

「選ぶな」が届いたのは、田中の転送の前日。

「戻れない」が届いたのは、強行転送の直後。

「来るな」が届いたのは、今日——僕がボタンを押す前日。

これらは、未来から届いた。

未来の僕が書いた。

だとすれば——どの未来の僕が書いたのか。

転送した世界の僕が、「来るな」と書いたとする。それはなぜか。転送した後に、何か恐ろしいことが待っていたから——あるいは、転送した世界が収束によって消えそうになっていたから。消えまいとして、過去の自分に叫んでいた。

転送しなかった世界の僕が、「来るな」と書いたとする。それはなぜか。転送しなかったことで、何か別の問題が起きたから——あるいは、転送しなかった世界も収束によって消えそうになっていたから。消えまいとして、過去の自分に叫んでいた。

どちらにせよ、叫んでいたのは——消えることへの恐怖からだ。

真実は——こうだったのかもしれない、と今の僕は思う。

多世界解釈が正しいなら、転送の瞬間に世界は分岐した。一方では転送が成功し、僕の量子状態が移動した。もう一方では、何らかの理由で失敗し、僕は元の場所に留まった。

だが——収束が起きた。

どちらかの世界が「選ばれ」、どちらかが消えた。

消えた世界からの"残滓"は、チャンネルを通じて漏れ出した。——来るな。——選ぶな。——戻れない。

それらは、消えゆく時間軸の声だった。

だとすれば——未来からの警告は、届いていたのではない。

消えゆく世界が、消えながら、叫んでいた。

収束とは——選ばれなかった時間の排除だ。

そして今、ここに残っているのが——どちらの世界なのかは。

分からない。

恐らく、永遠に分からない。


二十二章 問いの果て


翌朝、男に電話した。

「一つだけ訊いていいですか」

「どうぞ」

「僕は——転送したのですか」

長い沈黙があった。

「ログは、転送が発生していないと言っています」

「ログが正しいとして」と僕は言った。「転送しなかった世界の僕は、今どこにいますか」

「あなたが、そこにいます」

「転送した世界の僕は」

「どこにもいません——あるいは、あなたがそこにいます」

「どちらかが正しいはずです」

「どちらかが正しいはずです」と男は繰り返した。「ですが——観測によって確定できる根拠が、ありません。ログは転送が起きていないと言う。だが収束が起きたとすれば、ログ自体が書き換えられている可能性がある」

「信頼できるものが、何もない」

「ひとつあります」と男は言った。

「何ですか」

「あなたが、今朝目を覚ましたという事実です」と男は言った。「昨日の記憶があるという事実です。それは——どちらの世界においても、同じです」

電話を切った。

窓から外を見た。

普通の朝だった。


二十三章 終わりと始まり


研究所は閉鎖された。

二週間後のことだった。ある朝、男から短い連絡があった。「実験を終了します。研究所は閉鎖します」それだけだった。以来、連絡はない。装置は回収された——誰が回収したのかは、知らない。男なのか、男の背後にいる誰かなのか、あるいは別の組織なのか。

僕はあの場所を、一度だけ訪れた。

廃工場の一角。鉄製の扉は封鎖されていた。新しい南京錠がかかっていた。隙間から内部を覗くと、何も見えなかった。暗かった。

床の、矩形の跡。

装置が置かれていた場所の、かすかな色の違い。

それだけが残っていた。

——来るな。

その言葉が、なぜ届いたのか。

いや——届いたのではなく、収束の過程で漏れ出したのだとすれば。

消えた世界が、消えながら、叫んでいた。

それが「僕の字」だったのは——どの分岐においても、書いたのが僕だったからだ。転送した世界の僕も、しなかった世界の僕も、同じように、警告を書いた。

どちらの世界も消えることを恐れていた。

どちらの世界も、残ろうとしていた。

それは——人間的な反応だと思った。どの世界においても、存在は続きたいと思う。続くことが唯一の善だという前提なしに、生きていくことはできない。


二十四章 時間の外側


研究所を出て、繁華街を歩いた。

平日の午後。人が多かった。学生、会社員、子供を連れた親、老人。みんな、それぞれの速度で歩いていた。

若い人たちが、軽やかに見えた。

時間を遅らせているわけでもなく。未来へ飛んでいるわけでもない。量子状態を転送しているわけでも、分岐を心配しているわけでも、収束を恐れているわけでもない。

ただ——

よく食べて、よく眠り、よく動き、よく笑っていた。

それだけだ。

どの分岐にも依らない、唯一の生き方とは、そういうことかもしれない。観測されているかどうかに関わらず、世界が分岐しているかどうかに関わらず、連続性があるかどうかに関わらず——

今、ここで生きている。

それは、どの解釈においても、変わらない事実だ。

量子力学がどれほど奇妙な世界を記述していても、コーヒーは熱くて苦い。空は青く、雨は濡らす。その事実は変わらない。マクロな世界は、ミクロの奇妙さから切り離されたように、安定して存在している——デコヒーレンスがそれを保証している。

そして、人は生きる。

観測されても、されなくても。

連続していても、していなくても。

転送されても、されなくても。

ただ、生きる。

最終章 余韻の毒

だが、ときどき思う。

あの瞬間、僕は本当に押したのか?

男が押した——そう記憶している。だが、その記憶は——転送前から持っていた記憶か、転送後に上書きされた記憶か。

それとも——

押さなかった僕が、ここにいるのか。

時間は遅らせられる。空間を越えて状態は移動できる。世界は分岐し、収束する。

だが——問いは残る。

あのボタンは——まだ押されていない。

あるいは、既に押されていて、その結果がここだ。

どちらであっても、ここにいる僕は、明日も目を覚ます。昨日の記憶を持ち、明日を生きる。それは変わらない。

連続性があるかどうかは——関係ない。

それが、この問いの、唯一の答えかもしれない。

時間は遅らせられる。

だが人生は——

どこにも逃がしてはくれない。

ここにいる。

今も、ここにいる。

それだけが、確かだ。

——私は、ここにいる。