左の道

— 記憶を奪われた浪人 —

その三年間、
誰が——彼の魂を書き換えたのか。





第一章 灰色の夜明け

文政七年、秋。

目が覚めた瞬間、男は——自分の名前を持っていなかった。

天井は見覚えがある。煤けた板目、角に溜まった煤、ゆっくりと揺れる蜘蛛の巣の影。だが、それを見ている自分が、誰なのかが抜け落ちている。

息を吸う。吐く。

心の臓は動いている。体も動く。だが、その中心だけが空白だった。

——ここはどこだ。

声に出そうとして、やめた。音にした途端、何かが壊れる気がした。

男はゆっくりと身を起こした。四畳半の狭い部屋。古い畳。薄い夜具。壁際に積まれた反故紙の束。見覚えはある。だが、それが自分の暮らしだという実感が、遅れてついてくる。

枕元の行灯が、ちろちろと揺れていた。

その炎を見つめているうちに、不意に——言葉が戻った。

「……桐島」

その名が、自分の口から出たことに、わずかな不自然さが残った。

喉の奥で、誰かの声のように転がった。

桐島修二。

それが自分の名だと、理解するまでに数秒かかった。思い出したというより、与えられたような感覚だった。

男——桐島修二は、自分の手の甲を見つめた。

節くれ立った指。古い刀傷の痕。皮膚の皺。見慣れているはずのそれが、まるで他人のもののように感じられる。

なぜ、これが自分の手だと分かるのか。

その理由が、分からない。

「……また、か」

呟きは、やけに乾いていた。

そのとき、不意に——

視界の端で、何かが動いた気がした。

桐島は顔を上げた。障子の向こうに、夜明けの薄い光が滲んでいる。だが、それだけだった。人影はない。音もない。

それでも、確かに今——見られていた気がした。

桐島はしばらく動かずにいた。

やがてゆっくりと立ち上がり、障子に近づく。わずかに開ける。外には、まだ人通りの少ない裏長屋の路地があるだけだった。

誰もいない。

だが、胸の奥に残った違和感は、消えなかった。

まるで、自分の知らぬところで、何かが始まっているような——そんな感覚だった。

桐島は障子を閉め、背を向けた。

そのとき、畳の上に落ちていた瓦版が、わずかに視界に入った。

見出しには、「江戸打ち壊し、鎮圧さる」の文字。

桐島には、その夏の記憶がなかった。

どこで、何をしていたのか。

何もない。

きれいに、切り取られたように。


第二章 依頼人

その日の午後、依頼人が来た。

三十路半ば、地味な紺の小袖を着た女だった。名を高瀬澄江と言った。目の下に隈があり、唇をきつく結んでいた。修二の狭い部屋にある粗末な床几に腰かけ、しばらく何も言わなかった。

その手は、膝の上で何度も小さく震えていた。

「夫が、消えました」

修二は煙管に火をつけた。

「いつのことです」

「三週間前。十月七日、お勤めに出たきり戻りません。町奉行所には届けましたが、借財もなく、囲い者もなく、出奔する理由が見当たらぬと言われました。お調べはしていただけておりません」

「ご主人の御職は」

「幕府の御典医でございます。表向きは薬草の研究をしておりましたが、深川の外れにある御蔵屋敷に勤めておりました」

「御蔵屋敷、ですか」

何かが、胸の中で引っかかった。御典医。屋敷。その言葉が、記憶の霧の奥で微かに光った気がした。修二は煙管を灰吹きに当てた。

「ご主人のお名は」

「高瀬……高瀬隆庵と申します。三十八にございます」

絵姿を受け取った。几帳面そうな顔の男だった。医者らしく頭巾をかぶり、薬箱を脇に抱えて立っている。その顔を見た瞬間、修二の心の臓が一度だけ大きく跳ねた。

知っている——そう思った。いや、知っているような気がした。

いつ、どこで。

「手間賃は一日二百文と実費でございます。前払いで三日分いただきます」

修二は自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。


第三章 深川への道

翌朝、修二は深川へ向かった。

大川を渡る渡し舟の上から、鈍色の川面が見えた。波は穏やかで、向こう岸に霞む材木町の屋根がある。修二はその景色を眺めながら、自分がどこかでこれと同じ眺めを見たことがあるような気がしてならなかった。

深川・六間堀の外れにある御蔵屋敷は、材木置き場に紛れるようにひっそりとあった。白漆喰の二階建てで、表に看板もなく、知らねば通り過ぎてしまいそうな場所だった。

門番に高瀬澄江からもらった書付を見せ、夫の同僚に話を聞きたいと告げた。しばらく待たされた後、御蔵役人という肩書きの男が出てきた。五十がらみ、白髪交じりの総髪、表情のない顔。

「高瀬のことでしたら、奉行所にはすでにお話しいたしました」

「奥方から頼まれた者です。高瀬殿が姿を消した前後に、何か変わったことはありませんでしたか」

男は少し間を置いた。その間が、修二には長すぎるように思えた。

「格別には。真面目な典医でした。突然おらぬようになって、我らも困惑しております」

「いかような研究をしておりましたか」

「それは……御公儀の御用でございます。お答えできかねます」

修二は役人の目を見た。目が、少し泳いでいた。

帰り際、屋敷の裏手を歩いていると、頭巾を被った若い男が煙管を吸っていた。修二が近づくと、男は驚いたように身を固くした。

「高瀬殿をご存知ですか」

修二が声をかけると、若い男はあたりを見回してから、小声で言った。

「……あなた、本当に奥方の頼みで来られたのですか」

「さよう」

「ならば、屋敷の地下に何があるか、お調べなされ。高瀬さんが消えた夜、私は見たのです。黒羽織の男たちが、何かを——誰かを、運び出すのを」


第四章 封じられた名

修二はその夜、深川の木賃宿に泊まった。

夜具の上に横になり、天井を見上げながら、若い男の言葉を反芻した。誰かを運び出した。高瀬隆庵は出奔したのではなく、連れ去られたのか。

だが、それよりも修二の心を占めていたのは、別のことだった。

高瀬隆庵の絵姿——あの顔を、自分はどこかで知っている。それは確信に近かった。しかし記憶はいつもそうだ。手を伸ばせば逃げる。追えば消える。

修二はふところから古い手控えを取り出した。表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。三年前から持ち歩いているが、中身は自分で書いたはずの覚書なのに、読んでも何の記憶も呼び起こさない言葉が並んでいる。

そのうちの一行。

「深川の御蔵。〈消魂の法〉。記憶を奪う秘術——要確かめ」

修二は何度もその一行を読んだ。深川の御蔵。高瀬が勤めていた屋敷は深川ではないのか。〈消魂の法〉とは何か。そして——記憶を奪う、とはいかなる意味か。

眠れなかった。

夜明け前、修二は起き上がって宿を出た。まだ暗い深川の路地を歩きながら、左と右の分かれ道に何度も差し掛かった。そのたびに彼は、あえて右を選ばなかった。左へ。また左へ。

理由は分からない。ただ、そうすることが自分の性分だと、どこかで思っていた。直感と逆の道を行くこと。それが——いつから始まった習慣なのか。

気がつくと、御蔵屋敷の裏手に出ていた。

建物は静まりかえっていた。裏口の潜り戸に、頑丈な錠前がかかっていた。修二はふところから細い針金を取り出し、錠を外した。自分でも、なぜそんな技を持っているのか分からなかった。体が、覚えていた。


第五章 地下の真実

地下への梯子段は、薄暗かった。

蝋燭の赤い光だけが、土壁を染めていた。修二は足音を殺して降りていった。地下の一段目には薬部屋らしき間が並んでいたが、すべて錠がかかっていた。さらに奥に、もう一段下る梯子があった。

最も深い場所に、一つだけ戸が開いている間があった。

中に入った瞬間、修二は立ち止まった。

壁一面に、人相書きと書付が貼り付けられていた。男たちの顔。薬師のような紙。そしてその中央に、一枚の大きな図が広げられていた。「〈消魂の法〉——段階的記憶除去秘術覚書」と書かれていた。

修二の足が、震えた。

図には、数人の男の名が記されていた。符牒で呼ばれているが、その下に本名が小書きされているものもあった。そして、そのうちの一つに——

「術体参番(桐島修二)——記憶除去 済。追跡継続」

と、あった。

修二は壁に手をついた。頭の中で何かが崩れる音がした。膝が、力を失いそうになった。

術体。記憶除去。

自分の記憶が霧に包まれているのは、病でも老いでもない。誰かに——意図的に、消されたのだ。

床に、一冊の書物が落ちていた。拾い上げると、表紙に「高瀬隆庵——研究覚書 極秘」と書かれていた。

修二は震える手でそれを開いた。

高瀬隆庵は、〈消魂の法〉の術師だった。しかし三月前から、研究の非道を上役に訴えていた。記録によれば、彼は「術体たちには、己の記憶が奪われていることを知る権利がある」と主張し続けていた。そして——失踪の七日前、高瀬は外への訴えを試みたとある。

修二は長い息を吐いた。

高瀬隆庵が消えた理由が、分かった。そして同時に、自分が何者であるかの輪郭が、霧の中から少しだけ浮かび上がってきた。


挿入章 記録の蔵

地下の通路を進んだ先に、もう一つ間があった。

札も何もない、ただの鉄扉。

錠はかかっていなかった。

修二はゆっくりと押し開けた。

中は薄暗く、薬草のような匂いがした。棚が並び、その一つ一つに、書付と木箱が無造作に置かれている。

札が貼られていた。

「術体壱番」

「術体弐番」

「術体四番」

指が止まる。

参番が、ない。

修二は一番手前の木箱を開けた。中に丸められた紙束があった。広げると、男の筆跡だった。息が荒いかのような、乱れた字で書かれている。

『……儂の名は、なんだ』

次の紙。

『昨日も分からなかった。今日も分からない。明日も、たぶん分からぬ』

また別の紙。

『鏡を見ると、知らぬ男がいる。あれが儂だと、説明された。されど、納得できぬ』

その下に、墨が叩きつけられた跡。

『頼む、やめてくれ。全部消すならば、いっそ——』

そこで、文は途切れていた。

修二は動かなかった。

次の箱を開けた。

今度は、別の筆跡だった。

『今日は、名を思い出せた。嬉しゅうございました。されど、三刻後にはまた消えた』

笑っている——そう読める。

だが、その言葉はどこか壊れていた。

『消える前に、紙に書いた。「儂は——」と。されど、その字を見ても、何も感じませぬ。知らぬ者の辞世のようでございました』

長い空白。

『これを読む儂へ。そなたはたぶん、もう儂ではない』

修二の胸の奥で、説明のつかぬ寒気が走った。

棚に並ぶ無数の記録。

これは研究ではない。

積み重ねられた崩壊だった。

そして、その延長線上に——自分がいる。


第六章 もう一人の桐島

書物をふところに押し込み、修二は地下を出ようとした。

梯子段の下から、足音が聞こえた。

複数。草履の重い音。

修二は咄嗟に、間の隅の暗がりに身を潜めた。二人の男が入ってきた。一人は医者装束の五十がらみの男。もう一人は黒羽織を着た、修二よりも若い男だった。

医者装束の男が燭台に火を入れた。間が明るくなった瞬間、黒羽織の男が壁の図を見て、低く舌打ちした。

「誰かが入った。術体参番の書物がない」

「……桐島が来たのか」

「あ奴以外に誰がおる。まだ記憶を取り戻そうとしておる。三年経っても諦めておらぬ」

「追跡の者は」

「本所におる。すぐ呼べる」

修二は暗がりの中で、息を止めた。体の奥で、何かが目を覚ます感覚があった。恐怖ではない。むしろ逆の——怒りに似た、透明な感情だった。

医者装束の男が続けた。

「高瀬が外に出した書付も回収せねばならぬ。あれを公にされると、御法が露見する」

「高瀬は」

「まだ生きておる。使える」

修二は奥歯を噛んだ。高瀬隆庵は生きている。捕らわれているが、生きている。

二人が間を出て行った後、修二は暗がりから出た。ふところの書物に手を当てた。これが証となる。高瀬が命がけで守ろうとした証が、ここにある。

問題は、これをどう使うかだ。奉行所には信用できる伝手がない。瓦版屋——そうだ、確か浅草に、骨のある書き手がいたはずだと、霧の向こうに薄い記憶があった。


第七章 一文銭に託す夜

屋敷を抜け出した修二は、深川の夜の町を歩いた。

大川の方から潮の匂いがしていた。辻行灯の下で立ち止まり、ふところに手を入れると、一文銭が指先に触れた。

修二は銭を取り出し、掌の上で見つめた。

右か、左か——今夜の分かれ道は、もっと重い。このまま本所に戻り、証を抱えてどこかに潜むか。それとも、高瀬が捕らわれているはずの場所を突き止め、今夜中に動くか。

銭を親指で弾いた。

空中で回転し、掌に落ちた。表。

修二は少し笑った。表なら本所へ戻れ。そう決めていた。しかし——自分はいつも、出た目とは逆の道を行く。

今夜は、高瀬を探す。

それが正解かどうかは、分からない。だが、記憶を奪われ、三年間霧の中を生きてきた男には、もはや安全な道を選ぶ理由がなかった。間違った道の先にしか、本当の景色はない——そう信じて生きてきた。それだけが、自分の確かな性分だった。

修二は大川の方へ歩き出した。

川沿いの蔵屋敷。人気のない河岸。荷揚げ用の滑車が、夜空に黒い腕を伸ばしていた。岡場所の情報屋から得た断片的な手がかりを繋ぎ合わせると、御蔵屋敷が管する蔵の一つに、見覚えのない駕籠が二挺止まっているという話だった。

三番蔵。錆びた札。修二は建物の周りを半周し、明かり取りの窓を見つけた。中から、灯りが漏れていた。


第八章 記憶の残骸

蔵の中に入る口を探しながら、修二の頭に断片的な映像が浮かんだ。

白い部屋。冷たい床几。腕に刺された鍼。そして——誰かの声。「これで楽になる。全部忘れられる」

修二は立ち止まった。

忘れたかったのだ——かつての自分は。

そこまでは思い出せた。何か取り返しのつかぬことがあって、自分から記憶を消してほしいと願ったのかもしれない。しかし〈消魂の法〉は、そこから先も続いた。単なる手当てではなく、研究の道具として使い続けられた。自分の意志で始まったことが、いつの間にか牢になっていた。

蔵の裏手に、小さな明かり取りがあった。内錠を針金で外し、体をねじ込むように入った。

積み上げられた俵の影から覗くと、広い土間の中央に、粗末な寝台が置かれていた。そこに、頭巾を被った男が横になっていた。絵姿で見た顔——高瀬隆庵だった。手首に縄がかかり、傍らに男が一人、床几に座って居眠りをしていた。

修二は音もなく近づいた。

番をする男の首筋を、素早く押さえた。数秒で気を失わせた技も——体が覚えていた。かつての自分が何者だったか、少し分かるような気がした。

「高瀬殿」

縄を解きながら呼びかけると、男は目を開けた。焦点の合わぬ目が、しばらくして修二を捉えた。

「……そなたは」

「桐島修二。奥方に頼まれました」

高瀬は唇を震わせた。

「桐島……桐島殿。そなたのことを、存じております。〈消魂の法〉の——」

「話は後で。まず、ここを出ましょう」


第九章 夜明けと告白

二人は夜の深川を歩いた。

高瀬は足を引きずっていたが、転ばなかった。修二は時折後ろを振り返りながら、大川から離れた。

夜明け前の水茶屋。戸を開けると、煮立つ茶の音がしていた。隅の席に腰を下ろし、茶を二つ頼んだ。

「そなたは、自ら〈消魂の法〉を望んだのですよ」

高瀬が言った。声は静かだったが、それがかえって修二の胸に刺さった。

「……さようですか」

「五年前のことです。そなたは、ある火事で女房と子を亡くした。自分の不覚で、と思い込んでいた。記憶を消してほしいと、屋敷に来たのです」

雨の中、焼け跡に膝をついていたそなたを、私は記録で見ました。

修二は茶碗を両手で包んだ。

「それは……本当に、自分の不覚だったのですか」

「違います。そなたは火事を防ごうとして、他の者を救った。そなたに咎はなかった。されど当時のそなたは、そう思えなかった。記憶を消してほしいと、泣いておったと聞きました」

修二の目の奥が、熱くなった。

「〈消魂の法〉は、そなたを最初の術体として、記憶除去の技を完成させました。その後、他の術体を集め、今度は本人の承知なく実験を続けた。私はそれに気づいて、訴えようとした。結果、あの蔵に閉じ込められました」

「記憶は——戻りますか」

「完全には難しいかもしれません。されど欠片は、ずっと残っております。そなたが三年間追い続けてきたものが、その証でございます」

窓の外が、少しずつ白んでいた。深川の朝が来ていた。

修二は窓の外を見た。見知らぬ町の夜明け。霧が、少しだけ薄れていた。


第十章 左の道の先に

七日後、〈消魂の法〉は、江戸中に貼られた瓦版の一面に載った。

高瀬隆庵が外に送っていた書付と、修二が持ち出した書物が証となった。浅草の書き手——薄い記憶の中にあった名の男——が、命がけで書いた。御蔵屋敷の関係者数名が町奉行所に召喚され、幕府は緊急の沙汰を下した。

修二はその朝、本所の路地を歩いていた。

いつもの道。いつもの景色。しかし何かが違った。霧が、薄れている。完全には晴れないが、確かに薄れている。

女房の名は、まだ思い出せなかった。子の顔も、まだ霞んでいた。だが、自分がなぜその記憶を手放したかったのか——その痛みの輪郭だけは、今は感じることができた。痛みを感じられるということは、もしかすると、生きているということかもしれない。

路地の突き当たりに、分かれ道があった。

右に行けば、いつもの煮売屋。

左に行けば、知らない方角。

修二はふところの一文銭を握りしめた。

——弾かなかった。

その代わり、目を閉じた。

一瞬だけ、何かが浮かんだ。

小さな手。

笑い声。

呼ばれた気がした、自分の名ではない名で。

「……」

目を開ける。

今のは、記憶だったのか、それとも願いだったのか。

分からない。

だが——

さっきよりも、少しだけ確かに何かがそこにあった。

修二は、わずかに息を吐いた。

「……悪くない」

誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、自分の中のどこかに向けて。

そして、顔を上げる。

左の道。

今度は、理由はいらなかった。

逆だからでもない。正しいからでもない。

ただ——行きたいと思ったからだ。

修二は一歩、踏み出した。

その足裏に、確かに重さが戻っていた。

文政七年、秋。

霧はまだ、完全には晴れない。

だがその中に、確かに温度が戻り始めていた。

風が、わずかに匂いを運んできた。

どこかで嗅いだことのある——

懐かしい、朝の匂いだった。


〜あとがき〜

 ——間違った道の先にしか、自分はなかった

この物語は、江戸という時代の空気の中に、記憶と自己同一性という普遍的な問いを織り込んだ時代小説です。

「コインに託す」という詩からインスピレーションを受け、直感の逆を行くこと、あえて左の道を選ぶことの意味を、一人の浪人の物語として描きました。

記憶は、人を縛ることもあれば、解放することもある。忘れることは弱さではなく、時に生きるための知恵かもしれません。しかし、記憶の先にある痛みと向き合うとき、人は初めて本当の意味で前に進めるのかもしれません。

桐島修二のように、霧の中を歩きながらも、左の道の先に何があるかを見たいと思える——そんな読者の一歩の背中を、この物語が少し押せれば幸いです。


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〜あらすじ〜

文政七年、江戸。

浪人・桐島修二は、ある朝に気づく。——自分の人生から三年間が消えていることに。

思い出せぬ夏。欠け落ちた記憶。そして、自分自身に対する得体の知れぬ違和感。

そんな折、舞い込んだ依頼。失踪した幕府御典医の行方を探せ、と。

調べを進めるほどに浮かび上がるのは、人の記憶を意図的に消す幕府の極秘御法——〈消魂の法〉。

そして、その生き人形にされた者の一人が——自分だった。

なぜ記憶は消されたのか。なぜ自分は選ばれたのか。

すべてを追うほどに、過去は牙を剥く。

これは、失われた魂を取り戻すため、間違った道を選び続けた男の物語。