Kindle 予定



『朝茶の湯気にまぎれて』

〜まえがき〜

朝、一番に淹れるお茶の湯気の中に、
ふと懐かしい誰かの気配を感じることはないでしょうか。

お湯を沸かす音。
茶葉の香り。
器がテーブルに触れる、小さな音。

そんな何気ない朝の所作の中に、
もう会えないはずの人の記憶が、静かに息づいていることがあります。

本作は、ある朝の台所から始まる、
小さなお別れと再生の物語です。

読み終えたあと、あなたの淹れる一杯が、
いつもよりほんの少しだけ温かく感じられたなら、 嬉しく思います。




一章
朝茶の湯気にまぎれて

朝いちばんの台所には、まだ誰の気配もない。
水道の音だけが、小さく響いている。

浄水器を通した水をヤカンに注ぎ、火をつける。
青い炎が、ゆらりと揺れた。

この瞬間が好きだ。
今日も一日が始まる。そう思える。

湯が沸くまでのあいだに、茶葉をすくう。
いつもの癖で、少し多めに入れてしまった。

「ほら、あんた。茶葉が多いよ。もったいない」

背中のほうから、聞き慣れた声がした。

驚かない。
もう何度目だろう。
朝茶の湯気が立つと、当たり前みたいに現れるのだ。この人は。

振り返ると、台所の椅子にバアちゃんが座っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
座っているようで、どこか少し浮いている。その曖昧さが、妙に“らしい”。

「そんな急いで飲んだら、味が逃げるよ」
「仏壇の水、昨日のままだろ。バレてるよ」
「顔がむくんでるね。寝不足だよ」

朝の小言三連発。
生きていたころと、何ひとつ変わらない。

「はいはい」と返しながら、急須に湯を注ぐ。
湯気がふわりと立ちのぼり、その向こうでバアちゃんの輪郭がやわらいだ。

「……あんたの淹れる茶は、やっぱりいい匂いだね」

小言のあとに、必ずひとつだけ混じるやわらかい言葉。
それが、いつも胸に残る。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、と小さな音がした。

その音に、バアちゃんがふと目を細めた。

「その湯呑み……まだ使ってるんだね」

「うん。気に入ってるから」

そう言うと、バアちゃんは何か言いかけて、やめた。
湯気が少し薄くなる。

「……あんたにね、言いそびれたことがあるんだよ」

その一言だけを残して、バアちゃんは湯気の向こうへ溶けていった。

台所に静けさが戻る。
僕は湯呑みを両手で包みながら、ひとつ息をついた。

今日も、いつも通りの朝だ。
けれど胸のどこかに、小さな引っかかりだけが残った。


二章
小言の中にまぎれる影

翌朝も、台所は同じように静かだった。
ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた途端、背後の空気がわずかに動いた。

「ほら、あんた。今日も茶葉が多いよ」

やっぱり来た。

「昨日よりは少ないよ」

「そういう問題じゃないよ」

バアちゃんはいつもの椅子に腰を下ろし、台所を見回した。
幽霊になってまで、生活の細かいところによく気がつく。

「そこ、拭きなさい。水の跡が残るよ」
「仏壇の花、少ししおれてるよ」
「冷蔵庫の卵、賞味期限が近いよ」

「幽霊になっても生活感すごいね」

そう言うと、バアちゃんは鼻を鳴らした。

「生きてる人間のほうが、よっぽど雑なんだよ」

湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気の向こうで、バアちゃんの表情が少しだけほどけた。

「……いい匂いだね」

ぽつりと落ちるその一言が、小言よりずっと胸に残る。

湯呑みを置く。
コトン、という音に、バアちゃんの視線が吸い寄せられた。

「その湯呑み……大事にしてるんだね」

「うん。バアちゃんが使ってたやつだし」

そう言うと、バアちゃんは少し目を伏せた。
いつもなら「当たり前だよ」と言いそうなのに、その日は違った。

「……しまわれたままだと思ってたよ」

「仏壇の奥にあったやつ?」

「そう。あれは……」

そこで言葉が切れる。
湯気が揺れ、輪郭がにじんだ。

「バアちゃん?」

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ。
でも、まだ言えないんだよ」

「どうして」

「言ったら、消えちゃいそうでさ」

その声だけを残して、バアちゃんは朝の湯気にまぎれて消えた。

残された台所には、さっきまでの気配だけが、ほんのり温かく漂っていた。

僕は湯呑みを手に取り、底をそっとのぞき込む。
何かがそこに沈んでいる気がした。
まだ形にはならない、言葉の影のようなものが。


三章
湯呑みの底に沈んだもの

翌朝、台所に立つと、まだ外は薄暗かった。
春のはじまりの空気はひやりとして、指先が少しかじかむ。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れると、背後の空気がふっとやわらいだ。

「おはようさん。今日も早いね」

「早起きは三文の得だよ」

「三文なんて、今ならいくらだい」

幽霊になっても、その返しは変わらない。

僕は苦笑しながら、バアちゃんの言葉を心の中でなぞる。

「バアちゃん子は三文安いなんて言われるけどさ。それを取り戻すために、僕は毎朝早起きしてるんだよ」

バアちゃんは、一瞬だけ意外そうに目を見開いてから、いつものように鼻を鳴らした。

「ふん、取り戻すのに何年かかるんだい。あんたが子供のころから計算したら、一生分早起きしても足りないよ」

口は悪いが、その横顔はどこか誇らしげに見えた。
湯が沸き始めるころ、バアちゃんはいつもの椅子に座り、台所を見回した。

湯が沸き始めるころ、バアちゃんはいつもの椅子に座り、台所を見回した。

「仏壇の花、替えたね。いい匂いだよ」
「昨日の茶碗、ちゃんと伏せて乾かしたね」
「……あんた、やればできるじゃないか」

褒めているのか、からかっているのか分からない。
でも、その曖昧さが心地いい。

茶葉を急須に入れ、湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼり、バアちゃんの輪郭が少しだけ揺れた。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、と音がした。

その瞬間、バアちゃんの表情がふっと変わった。

「……その湯呑み、覚えてるよ」

「バアちゃんが使ってたやつだよね」

「そうだよ。あれはね……あんたが初めて淹れてくれたお茶を飲んだ湯呑みなんだよ」

僕は手を止めた。

「そんなこと、言われたことなかった」

「言ってないからね」
バアちゃんは懐かしそうに笑った。
「あんた、小さかったのに、ずいぶん真剣な顔をして茶葉を入れてね。
お湯が熱すぎて、泣きそうになってたよ」

その笑い方が、生きていたころのままで、息が少し詰まる。

「仏壇の奥にしまったままだと思ってたよ」

「出してきたんだ。使わないのも違う気がして」

「そうかい……」

バアちゃんは湯呑みをじっと見つめた。
その目は、目の前の器を見ているのに、もっと遠い時間を見ているようだった。

「……あれはね、あんたに返したかったんだよ」

「返す?」

「最初にもらったものをさ。
あんたが淹れてくれた、あの最初のお茶の気持ちをね」

僕は黙ったまま、湯呑みを見た。

「でも言いそびれたまま、あたしゃ先に行っちまった」

湯気が細く揺れる。
バアちゃんの輪郭が少し薄くなる。

「だからね……まだ、ここにいるんだよ」

その言葉が、台所の静けさにゆっくり沈んでいった。

気づけば、僕は湯呑みの底をじっと見ていた。
そこに沈んでいるものの形が、昨日より少しだけはっきりして見えた。


四章
言い残したひとことの影

その翌朝は、少し寝坊した。
窓から差し込む光が、いつもより白く見える。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れたあと、背後の空気が少し遅れて動いた。

「遅いよ、あんた。今日は寝坊かい」

「たまにはいいでしょ」

「たまにが増えると、たまにじゃなくなるんだよ」

声はいつも通りなのに、どこか弱い。
それに気づいた瞬間、胸のあたりが少しざわついた。

その日のバアちゃんは、小言が少なかった。

「仏壇の水、替えたね」
「花も新しいね」

それだけ言うと、黙り込む。

湯が沸き、急須に湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気の向こうで、バアちゃんの姿がふわりと揺れた。

湯呑みをテーブルに置く。
コトン、という音に、バアちゃんが目を細めた。

「……その音、好きなんだよ」

「湯呑みの音?」

「そう。あんたが淹れてくれたお茶の音だよ。
あれを聞くとね、生きてたころの朝を思い出すんだよ」

それから、しばらく沈黙が続いた。
いつもより長い沈黙だった。

「バアちゃん?」

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

昨日と同じ言葉。
けれど今日は、その声がかすかに震えていた。

「でもね、言うと、ほんとに消えちゃいそうでさ」

「消えるって……」

「そういうもんなんだよ。
言い残したことを言ったら、もうここにはいられないんだよ」

湯気が細くなり、輪郭がにじむ。

「でも、あんたにだけは伝えたいんだよ。
あの湯呑みのことも……あの日のことも……」

そこまで言って、バアちゃんは黙った。
言葉の先が、湯気の中にほどけていく。

「バアちゃん」

呼びかけても、返事はなかった。
気づけば、台所にはお茶の香りだけが残っていた。

僕は湯呑みを見つめながら思う。
そのひとことは、もう、すぐそこまで来ている。


五章
理由の輪郭

その朝は、珍しく風が強かった。
窓ガラスがかすかに鳴り、外の木々がざわざわと騒いでいる。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた瞬間、背後の空気がゆっくり動いた。

「……おはようさん」

声に張りがない。
振り返ると、バアちゃんはいつもより静かに座っていた。

「どうしたの。元気ないね」

「元気もなにも、あたしゃ幽霊だよ」

そう言って笑う。
けれど、その笑い方は少し弱かった。

湯が沸き、茶葉にそっと湯を注ぐ。
湯気が立つ。
バアちゃんは台所ではなく、湯呑みのほうだけを見ていた。

「……あんた、覚えてるかい」

「何を?」

「最後にあたしが飲んだお茶のことだよ」

僕は手を止めた。

思い返そうとしても、うまく思い出せない。
湯呑みを置いた自分の手つきばかりが浮かんで、
あの日、ちゃんとバアちゃんの顔を見たかどうかさえ曖昧だった。

「……正直、覚えてない」

バアちゃんは少しだけ寂しそうに笑った。

「そうだろうね。あんた、あのころ忙しかったからね」

責める響きは、まるでなかった。
それがかえって胸に痛かった。

「でもね、あたしは覚えてるんだよ。
あんたが最後に淹れてくれたお茶の味を」

「どんな味だったの」

「……薄かったよ」

思わず、小さく笑いそうになる。
けれど次の言葉で、その笑いは消えた。

「薄かったけどね……嬉しかったんだよ」

バアちゃんは、湯呑みを見つめたまま続けた。

「あんた、急いでたろう。
でも、それでも淹れてくれた。
あれがね……たまらなく嬉しかったんだよ」

喉の奥が詰まる。
あの日の僕は、きっと「あとでゆっくり」と思っていた。
その“あとで”が来なかっただけだ。

「でもね……言えなかったんだよ。
“ありがとう”って」

湯気が揺れる。
バアちゃんの輪郭が、さらに薄くなる。

「あの時、言いそびれたまま……あたしゃ先に行っちまった。
だから、まだここにいるんだよ」

僕は思わず顔を上げた。

「バアちゃん。言えばいいじゃないか。今」

するとバアちゃんは、ゆっくり首を横に振った。

「言ったらね、もう来られなくなるんだよ。
あんたの朝茶の湯気に、もう乗れなくなる」

その声は、風にさらわれそうなくらい小さかった。

「でもね……そろそろ言わなきゃいけないんだよ。
あんたが、新しい湯呑みを買う前にね」

「新しい湯呑み?」

「そうだよ。そろそろ探しに行こうとしてるだろう?」

図星だった。
昨日、ふとそんなことを考えたばかりだ。

「……なんで分かるの」

「分かるさ。あんたのことだもの」

そう言って笑った顔が、どこか別れの匂いを含んでいた。

残された湯呑みの底に、沈んだ影が見える。
それはもう、ただの影ではなかった。
“ありがとう”という言葉の形に、少しずつ近づいていた。


六章
最後の朝へ向かう気配

その朝は、やけに静かだった。
風もなく、鳥の声もない。
台所の空気だけが、少しひんやりしていた。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れたとき、背後の空気がかすかに震えた。

「……おはようさん」

バアちゃんの声は遠かった。
まるで、ひとつ向こうの部屋から聞こえてくるみたいだった。

「バアちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。幽霊に大丈夫も何もないよ」

そう言って笑う。
けれど、いつもの調子ではない。

その日は、小言がひとつもなかった。
台所も見回さず、ただ湯呑みのほうを見ている。

湯が沸き、茶葉にそっと注ぐ。
湯気が立ちのぼると、バアちゃんの輪郭は今まででいちばん薄く揺れた。

「……あんた、湯呑みを買いに行くんだろう?」

「うん。そろそろ新しいのが欲しいなと思って」

「そうかい……」

ゆっくりとうなずく。
その仕草が、妙に終わりを思わせた。

「新しい湯呑みが来たらね、あたしゃもう来られないよ」

「どうして」

「そういうもんなんだよ。
新しい器が来たら、古い器の役目は終わる。
あたしの役目も、たぶん同じなんだよ」

胸のあたりが、きゅっと縮む。

「でもね、それでいいんだよ。
あんたが新しい朝を始めるなら、あたしもそろそろ行かなきゃいけない」

「バアちゃん……」

「泣くんじゃないよ。あんた、昔から涙もろいんだから」

「泣いてないよ」

「嘘つき」

少しだけ笑う。
その笑顔が、生きていたころと同じで、かえって苦しい。

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

その言葉が落ちた瞬間、台所の空気がすっと静まった。

「でも、それはあんたが湯呑みを買ってきた朝に言うよ」

「どうして今日じゃないの」

「今日言ったら、今日で終わっちまうからだよ」

湯気の向こうで、バアちゃんが微笑む。

「最後くらい、あんたの淹れたお茶を、もう一度ゆっくり味わいたいんだよ」

そのまま輪郭がほどけるように薄れていき、
気づけば、椅子の向こうには誰もいなかった。

僕は湯呑みを見つめた。
そこに沈んでいたものは、もう影ではなく、言葉の輪郭になりつつあった。

次の朝、きっとそれが形になる。


七章
新しい湯呑みを探しに

その日は、朝からよく晴れていた。
雲ひとつない空が、妙に背中を押してくる。

「……そろそろ行くか」

そうつぶやいて外に出る。
朝茶を淹れていないから、バアちゃんは現れない。
湯気が立たない限り、あの人は来ない。
それが、いつのまにか分かるようになっていた。

商店街の奥にある小さな陶器屋は、昔のままだった。
バアちゃんと一緒に来たことのある店だ。

暖簾をくぐると、店の中には土の匂いが満ちていた。
棚にはさまざまな湯呑みが並んでいる。
白いもの、藍色のもの、丸いもの、少し背の高いもの。

どれも悪くない。
けれど、どれもしっくりこない。

「……バアちゃん、どれがいいかな」

思わずこぼれた独り言に、店主がやわらかく笑った。

「誰かのために選んでるんですか」

「まあ……そんなところです」

「なら、手に取ったときに“これだ”と思うものがいいですよ。
器は、不思議と人を選びますから」

その言葉に背中を押されて、棚の奥に目をやる。

ひとつだけ、目が留まった。

淡い緑色の湯呑みだった。
釉薬の流れがやわらかくて、朝の湯気みたいに見えた。

手に取った瞬間、すとんと馴染む。

「……これだ」

口にした途端、胸の奥の重みが少しだけ軽くなった。

会計を済ませて店を出る。
紙袋の中で、新しい湯呑みが小さく揺れる。

帰り道、ふと空を見上げた。
澄みきった青の向こうに、もう答えが待っている気がした。

明日の朝、バアちゃんは何を言うのだろう。
そのことを思うと、寂しさと温かさが、同じ場所で静かに混ざり合った。


八章
最後の朝の湯気

翌朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は、あの日だ。

寂しさとも、悲しみとも少し違う。
ただ静かに、終わりが近いことだけを告げるような感覚があった。

台所に立つ。
昨日買ってきた新しい湯呑みが、紙袋の中でひっそり待っていた。

淡い緑色。
朝の光を受けて、やわらかく光っている。

「……今日から、よろしく」

そう言って取り出すと、不思議なくらい手に馴染んだ。

ヤカンに水を入れ、火をつける。
青い炎が揺れた瞬間、背後の空気がふっと震えた。

「……おはようさん」

振り返る。
バアちゃんが、いつもの椅子に座っていた。
けれど、その輪郭は今まででいちばん薄かった。

「新しい湯呑み、買ってきたんだね」

「うん。昨日」

「いい色だよ。あんたに似合ってる」

その笑顔は、どこか安心した人の顔だった。

湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼる。

新しい湯呑みに、お茶を注ぐ。
テーブルに置くと、コトン、と小さな音がした。

その音に、バアちゃんが目を細める。

「……いい音だね」

「うん。気に入ったよ」

「そうかい」

しばらく、誰も何も言わなかった。
その沈黙だけで、もう十分な気がした。

「バアちゃん……」

呼びかけると、バアちゃんはゆっくり顔を上げた。

「……あんたにね、言わなきゃいけないことがあるんだよ」

僕は黙ってうなずいた。

「最後に淹れてくれたお茶……あれは薄かったよ」

思わず、少しだけ笑ってしまう。
でも、バアちゃんはまっすぐこちらを見ていた。

「薄かったけどね。
いちばん美味しかったんだよ」

湯気が細く揺れる。

「忙しいのに、あたしのために淹れてくれたろう。
それがね、嬉しかったんだよ」

そこで一度、バアちゃんは言葉を切った。
長いあいだ胸の奥にしまっていたものを、そっと取り出すみたいに。

「だからね……」

目が、やわらかく細くなる。

「——ありがとう」

その瞬間、台所の空気がふっと温かくなった。

「バアちゃん……」

「泣くんじゃないよ。
あんたの朝茶は、これからも続くんだから」

声が少しずつ遠くなる。

「新しい湯呑みでね……
あんたの新しい朝を、ちゃんと生きなさいよ」

最後に、バアちゃんはいつもの調子で、少しだけ意地悪そうに笑った。

「……あんたの淹れる茶は、世界一だよ」

その言葉を残して、バアちゃんは湯気の中へ静かにほどけていった。

あとに残ったのは、新しい湯呑みと、やさしいお茶の香りだけだった。


終章
湯気の向こうに残ったもの

バアちゃんが消えた台所は、不思議なくらい静かだった。

それでも朝は来る。
僕はいつものようにヤカンに水を入れ、火をつけた。
青い炎が揺れる。
湯が沸く。
茶葉にそっと湯を注ぐ。

湯気が立ちのぼる。

思わず振り返る。

——いない。

分かっていたのに、胸の奥が少しだけきゅっとした。

新しい湯呑みにお茶を注ぐ。
テーブルに置く。
コトン、と小さな音がする。

その音が、返事みたいに聞こえた。

「……ありがとう」

気づけば、そう口にしていた。

声も姿もない。
けれど、湯気の揺れも、茶葉の香りも、器の音も、
もう何ひとつ空っぽではなかった。

湯呑みを両手で包む。
温かさが、ゆっくりと手のひらから染みてくる。

「バアちゃん……行ったんだな」

そう言ってみると、寂しさより先に、静かな満ち足りた気持ちが広がった。

朝茶の湯気は、今日もやわらかく立ちのぼる。
その向こうに、もうバアちゃんの姿はない。
けれど、湯気の揺れ方も、湯呑みの音も、茶葉の香りも、
どれも確かにあの人につながっていた。

僕は湯呑みを置き、軽く背筋を伸ばす。

「よし。今日も行くか」

玄関で靴を履き、ふと鏡を見る。
少しだけむくんだ顔が映っていた。

「……顔がむくんでるね。寝不足だよ」

今朝なら、そう言われそうだ。
思わず苦笑いがこぼれる。

外へ出ると、春の光が街をやわらかく包んでいた。
すれ違った近所の人に「おはようございます」と声をかける。
いつもより、少しだけ明るい声が出た気がした。

今朝淹れたお茶の味を思い出す。
茶葉の量は、もう間違えなかった。
温度もちょうどよかった。

でも、もしこれから先、忙しさに追われて、
また少し薄いお茶を淹れてしまう朝があったとしても。
そのたび僕は、寂しさではなく、あの人の「ありがとう」を思い出すのだろう。

台所には、新しい緑色の湯呑みが残っている。
鼻先には、茶の香りがまだ少しだけ残っていた。

それだけで、今日という一日を丁寧に生きるには、もう十分だった。





〜幸せな余韻 〜
朝茶のあとに

バアちゃんが姿を消してから、数日が過ぎた。

台所には、相変わらず朝いちばんの静けさが満ちている。
ヤカンの立てる音も、青い炎の揺れも、何ひとつ変わらない。

けれど、ひとつだけ変わったことがある。

「……よし、今日はこのくらいだな」

僕は、茶葉をすくう手をそこで止める。
以前みたいに、無意識に少し多めに入れることがなくなった。

小言が聞こえなくなった寂しさを、
きっちり量った茶葉で埋めているような、妙な気分だ。

新しい緑色の湯呑みにお茶を注ぐ。
立ちのぼる湯気は、もう誰の形も作らない。

それでも、その向こう側が空っぽだと思ったことは一度もなかった。

ひとくち、お茶を啜る。

「……熱いな」

独り言が、静かな台所に溶けていく。

ふと、最後に聞いた言葉を思い出す。

『あんたの淹れる茶は、世界一だよ』

あれはきっと、バアちゃんが一生かけてためていた、
いちばんやわらかい言葉だったのだと思う。

数えきれない小言は、
みんな、あの一言へたどり着くための長い助走だったのかもしれない。

新しい湯呑みの縁に、朝の光が小さく反射していた。
それが、少し意地悪で、とびきり優しいあの笑顔の残像みたいに見える。

僕は湯呑みを置き、深く息を吸う。

寂しさは消えない。
でも、それは冷たいものではなくなっていた。
お茶の熱みたいに、時間をかけて体の内側を温めてくれるものに変わっていた。

今日も、いい朝だ。

すすぎ終えた湯呑みを、いつもの場所にそっと伏せる。
コトン、という音がした。

その音は、これまででいちばんまっすぐに、僕の心へ届いた。


アマゾン キンドル



〜あとがき〜

お読みいただき、ありがとうございました。

『朝茶の湯気にまぎれて』は、
日常の隙間に残り続ける「記憶」を描きたいと思って書いた物語です。

お湯を沸かす音。
茶葉の香り。
器を置く音。
そんな何気ない所作の中に、
もう会えない人のぬくもりが、ふいによみがえることがあります。

齢を重ねるほど、
あのときは疎ましく思っていた小言が、
あとになって宝物のように思い出されることがあります。
同じように、伝えそびれた感謝の言葉もまた、
時間を越えて心のどこかに残り続けるのだと思います。

作中に何度も出てくる湯呑みの「コトン」という音は、
別れのあとも日常を生きていくための、小さな合図として書きました。

失ったものは戻りません。
けれど、誰かが残してくれた温もりは、
新しい器の中で、新しい朝の中で、
形を変えながら生き続けていく。
私はそう信じています。

この物語が、
日々を懸命に生きる誰かの、ひとときの休息になれたなら、
とても嬉しく思います。

また次の朝茶の湯気とともに、
別の物語でお会いできれば幸いです。