パーティーナイト
〜火のないところに、煙を立てた結果〜
〜まえがき〜
人は、なぜ動けないのだろう。
好きな人がいても、声をかけられない。
隣に座れる距離にいても、何も言えない。
傷つくのが怖いのか。
関係が壊れるのが怖いのか。
それとも、ただ少し臆病なだけなのか。
理由はいくつもあるのに、結果はいつも同じで、
「何も起きないまま時間だけが過ぎていく」。
この物語は、そんな夜に、
ひとつだけ小さな嘘を置いてみたらどうなるか、という話です。
大げさな奇跡は起きません。
世界も変わりません。
けれど、ほんの少しだけ、
誰かの人生が動くかもしれない。
そんな夜が、どこかにあってもいいと思いました。
第一章 孤独な企み
一
十二月に入ると、東京の街はいっせいに赤と金色に染まった。
イルミネーションに彩られたケヤキ並木。デパートの入口で流れるジングルベル。コートの襟を立てたカップルたちが、肩を寄せ合いながら歩いていく。
翔は煙草の煙を長く吐き出して、その光景をガラス越しに眺めた。
——このまま何もしなければ、誰も何も変わらない気がした。
事務所の窓から見えるのは、新宿の南口だ。夜の七時。残業で残っているのは翔ひとりで、フロアの蛍光灯は半分が消えていた。デスクの上には仕事の書類と、それと一緒に届いたエアメールが一通。
差出人はケイト。ロサンゼルス在住、二十四歳。翔が去年の夏にサンフランシスコで知り合い、一週間だけ一緒にいた、アメリカの女だ。
一週間しかいなかったのに、他の誰より長く残った。
封筒を手に取り、裏返した。何度も何度も触ったせいで、封の縁がすこし毛羽立っていた。
「会いたい」
それだけ書いてあった。英語で三語。
I miss you.
翔はもう一度だけ煙草を吸い、灰皿に押しつけた。
二
翔が言うところの「奥手な連中」は、だいたい十人ほどいた。
大学時代からの仲間に、その仲間の友達、さらにその友達の知り合い、という具合に輪が広がって、気づけばそのくらいの人数になっていた。週末ごとに誰かの部屋に集まり、酒を飲み、マージャンをして、深夜に解散した。男が七人、女が三人。一見すると賑やかな集団だったが、その中でカップルはひとりもいなかった。
それぞれ好きな人くらいいるだろうが、誰も動かない。
誰かが誰かを好きそうにしていても、みんな空気を読んで何も言わない。自分が傷つくのが怖いのか、仲間関係が壊れるのが怖いのか、それとも単純に臆病なのか。翔にはよくわからなかったが、なんとなくもったいないとは思っていた。
ケイトの手紙を受け取ったその夜、翔は帰りの電車の中でずっと考えていた。
クリスマスイブが三週間後に迫っていた。
三
翌朝、龍に電話した。
「パーティーやろう」
「は?」
「クリスマスイブ。店、借り切って。仲間を集めて、その先の友達まで呼んで。三十人くらい」
電話口で龍が黙った。翔は続けた。
「一緒に企んでくれ」
「お前、ケイトのことで頭おかしくなったか」
「なってない」
「なってる。声で分かる」
翔は笑った。龍には何でもすぐ見抜かれる。大学一年のときからずっとそうだ。
「……まあ、面白そうではある」と龍は言った。「店の心当たりはあるか」
「渋谷に小さいビストロがある。オーナーが大学の先輩で、平日なら話を聞いてくれるはずだ」
「費用は」
「折半。儲けを出す必要はない。集まってくれれば、それでいい」
また沈黙があった。
「分かった」と龍は言った。「でも一個だけ条件がある」
「なんだ」
「お前が当日、ちゃんと楽しそうにしてろ。暗い顔で幹事やられたら、こっちまで惨めになる」
翔は少しだけ考えて、「わかった」と答えた。
受話器を置いたあと、翔はもう一度ケイトの手紙を引き出しから取り出した。三語を読んだ。窓の外、十二月の空は低く、灰色だった。
それでもなぜか、少しだけ気持ちが軽くなっていた。
火のないところに、煙を立てることにした。
* * *
第二章 満席のレストラン
一 健太
健太は三回、鏡の前でネクタイを結び直した。
一回目は曲がった。二回目は結び目が大きすぎた。三回目でようやくましになったが、それでもどこか締まりがない気がして、結局外してコートのポケットに突っ込んだ。
クリスマスイブにネクタイはおかしいか。でも普段着では軽すぎるか。
鏡の中の自分が、情けない顔をしていた。
翔から電話が来たのは二週間前だ。「クリスマス、パーティーやるから来い。友達も連れてこい」。それだけだった。翔に「来い」と言われたら断れない。健太はそういう人間だ。大学のころからずっとそうだ。
友達は連れてこなかった。そんな友達が、都合よくいるわけがない。
渋谷のビストロは駅から歩いて七分だった。健太は地図を三度確認して、それでも一度だけ道を間違えた。路地を曲がると、小さな灯りが見えてきた。木の看板に手書きの店名。窓の内側が、オレンジ色に滲んでいた。
扉を開けると、笑い声と熱気が一度に押し寄せてきた。
三十人近くが、もう来ていた。
健太は入口に立ち尽くした。知っている顔は半分くらいで、あとは初めて見る顔ばかりだった。その中に、一人だけ、酷く目を引く女がいた。
カウンター席に腰掛けて、グラスを両手で包むようにして持ち、窓の外を見ていた。黒いセーター。短く切った髪。笑ってもいないのに、なぜか場の中心にいるような存在感があった。
健太は上着を脱ぐふりをしながら、もう一度その横顔を確認した。
名前も知らない。
ただ、この夜が少しだけ、長くなればいいと思った。
二 麻衣
麻衣がビストロに着いたのは、七時を少し回ったころだった。
誘ってくれたのは、職場の先輩の佐藤さんだ。「いいパーティーがあるから」と言われて、断る理由もなかった。クリスマスイブをひとりで過ごすくらいなら、知らない人間がいる場所のほうがまだましだと思った。
店に入ると、予想よりずっと人が多かった。麻衣は少し面食らいながら、カウンターの端に座った。
隣の席は空いていた。
グラスにミネラルウォーターを注いでもらい、窓の外を眺めた。イルミネーションが、雨に濡れたアスファルトに映って滲んでいた。綺麗だと思った。と同時に、なぜ自分はこんなところに来てしまったのだろう、という気持ちもあった。
人の多い場所が嫌いなわけではない。ただ、知らない人間に声をかけるのが、死ぬほど苦手だった。
しばらくして、入口のほうが少し騒がしくなった。
上着を脱ぎあぐねている男が一人、入口に立っていた。背が高くて、少し困ったような顔をしていた。ネクタイをしていないのに、シャツの第一ボタンが几帳面に閉まっていた。
麻衣はなんとなく、その男から目が離せなかった。
理由は分からなかった。ただ、この人も少し、場違いな感じがすると思った。自分と同じように。
三 翔
八時になると、店はほぼ満席になった。
翔はカウンターの奥から、全体を見渡した。来た。本当に来た。三十二人。借り切ったテーブルがすべて埋まり、笑い声が層を重ねていた。
龍が隣に立った。
「上出来じゃないか」と龍は言った。
「ああ」
「楽しそうにしろよ、って言っただろ」
「してる」
「してない。目が泳いでる」
翔は苦笑して、赤ワインを一口飲んだ。ケイトのことを考えていた。今ごろロサンゼルスは朝だろう。彼女は何をしているだろう。コーヒーを飲んで、窓から太平洋を眺めているだろうか。
「なあ」と龍が言った。「入口のとこにいる背の高い男、健太か」
「そう」
「あいつ、ずっとカウンターの女を見てるぞ」
翔は視線を動かした。確かに。健太がカウンターの端に目をやっては、すぐ逸らし、またやっては逸らしていた。カウンターには、翔の仲間の仲間で来た女が座っていた。名前は確か、麻衣。
翔はグラスを置いた。
「よし」と言った。
「よし、って何が」
「煙を立てる」
龍が少しだけ笑った。「どっちからやる」
「男からだ。女に先に言ったら、待つのが辛くなる」
「なるほど」と龍は言い、そして付け加えた。「お前、こういうとき本当に生き生きするな」
翔は何も答えなかった。でも、それは本当のことだと思った。
ケイトへの寂しさは、まだ胸の底にあった。けれど今夜だけは、それを燃料にすることができる気がした。
人混みをかき分けて、翔は健太のほうへ歩いていった。
* * *
第三章 火のないところに煙を
一
健太は壁際に立って、ビールを飲んでいた。
飲む速度が少し速すぎる、と自分でも思った。でも手持ち無沙汰にしているよりましだった。近くにいた仲間と二言三言しゃべって、笑って、また黙った。笑い方が少し大きすぎた気もした。
カウンターの女は、まだそこにいた。
誰かと話しているときもあれば、グラスを眺めているときもあった。健太が盗み見るたびに、違う角度の横顔があった。そのたびに目を逸らした。
「よお」
背中を叩かれた。振り返ると、翔がいた。
「楽しんでるか」と翔は言った。
「ああ、まあ」
「嘘つくな。さっきから壁と友達になってるじゃないか」
健太は苦笑した。「うるさい」
翔がグラスで口元を隠しながら、ひそめた声で言った。「なあ、カウンターにいる女、気づいてるか」
心臓が一拍、余分に打った。
「……どの」
「黒いセーターの。麻衣ちゃん。おれの友達の友達なんだけど」翔は何でもないような口調で続けた。「あの娘、お前のことちょっと気にしてるみたいだぞ」
健太は固まった。
「は」
「入ってきたとき、見てたって。さっき聞いた」
「……誰に」
「麻衣ちゃんの友達に」
翔はそれだけ言うと、「まあ、どうするかはお前次第だけどな」と付け加えて、人混みの中に消えた。
健太はしばらくそのまま立っていた。
ビールのグラスが、汗をかいていた。
二
翔は人混みをかき分けて、龍を見つけた。
「男に言った」
「反応は」と龍が聞いた。
「固まってた。悪くない」
龍が小さく笑った。「次は女か」
「頼む。お前のほうが自然に入れる」
龍は少し考えて、「分かった」と言い、グラスを持ってカウンターのほうへ歩いていった。
翔は柱に背中を預けて、それを遠くから見ていた。
龍は麻衣の隣に自然に立って、何か話しかけた。麻衣が少し驚いたような顔をして、それから笑った。龍はうまい。初対面の人間をすぐ笑わせる才能がある。翔にはそれができない。翔にできるのは、人を動かす算段を立てることだけだ。
しばらくして龍が戻ってきた。
「言った。『入口に立ってた背の高い人、あなたのこと見てたみたいですよ』って」
「反応は」
「耳が赤くなった」
翔はうなずいた。
「あとは化学反応に任せる」
「お前、本当に悪いやつだな」と龍は言った。
「そうか」
「いや、褒めてる」
三
麻衣は、グラスの中の気泡を数えていた。
さっき龍というひとが話しかけてきて、いろんなことをしゃべった。店のこと、翔のこと、今夜集まった人たちのこと。聞いていると自然と笑えた。感じのいいひとだった。
そして帰り際に、さらりと言った。
「入口に立ってた背の高い人、あなたのこと見てたみたいですよ」
麻衣は「そうですか」と答えた。それしか言えなかった。
背の高い人。入口に立っていた。ネクタイをしていなくて、第一ボタンが閉まっていた。
麻衣はそっとカウンターから首を動かした。
いた。壁際に、さっきと同じ場所に、同じ少し困ったような顔で立っていた。
見てた、というのは本当だろうか。
こういう話は、たいてい社交辞令か、場を盛り上げるための方便だ。麻衣はそれをよく知っていた。だから信じるつもりはなかった。
ただ。
その男が、ちょうどそのとき、こちらを見た。
一瞬だった。目が合った。男はすぐに逸らした。麻衣も逸らした。
頬が、少し熱かった。
方便でもいい、と思った。今夜だけは。
四
九時を過ぎると、店の中の空気が変わった。
最初の緊張がほぐれて、笑い声が大きくなり、席の移動が始まった。知らない同士が隣に座り、話し始めた。翔はそれをカウンターの奥から眺めていた。
健太が、麻衣のそばに移動したのが見えた。
翔は小さく息を吐いた。
火は、ついた。
あとは本物かどうかだ。嘘から始まったものが本物になるかどうかは、翔には分からない。それは二人の問題だ。翔にできることは、最初の一手を置くことだけだった。
コートのポケットに手を入れると、ケイトの手紙が指先に触れた。
三語。
翔はそっとそれを握ったまま、もう少しだけこの夜の中にいることにした。
窓の外では、東京のクリスマスイブが、音もなく更けていった。
* * *
第四章 嘘が転じて誠になる
一 健太
健太が麻衣のそばに移ったのは、半分は勢いで、半分は酒のせいだった。
「ここ、座ってもいいですか」
自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。麻衣は少し驚いたような顔をして、それから「どうぞ」と言った。声が思ったより低くて、落ち着いていた。
最初の五分は、店の話だった。料理のこと、混み具合のこと、翔とはどういう知り合いかということ。健太は相槌を打ちながら、内心では自分が普通に会話しているという事実に驚いていた。
「さっき、入口のところで困ってましたよね」と麻衣が言った。
健太は固まった。「見てましたか」
「少し」
「ネクタイ、持ってきたんですけど、やめたんです」
「なんで」
「おかしいかと思って」
麻衣が小さく笑った。「おかしくないと思いますよ。していたほうが、むしろ」
「そうですか」
「はい。几帳面な感じがして」
几帳面。健太はその言葉を頭の中で繰り返した。褒められているのか、からかわれているのか判断できなかった。でも、悪い気はしなかった。
話しているうちに、気づいたら一時間が過ぎていた。
料理の話から、仕事の話になり、子供のころの話になり、好きな本の話になった。麻衣は本をよく読むらしく、健太の知らないタイトルをいくつも挙げた。メモしておきたいと思ったが、手帳を持ってきていなかった。
「また教えてもらえますか」と健太は言った。
「また?」
「今度、どこかで」
口から出てから、少し言いすぎたかと思った。でも麻衣は怒らなかった。少し間を置いて、「いいですよ」と言った。
その「いいですよ」の言い方が、社交辞令には聞こえなかった。
少なくとも、健太にはそう聞こえた。
二 麻衣
麻衣は帰りの電車の中で、さっきの会話を順番に思い出していた。
健太という名前だと分かったのは、一時間ほど話してからだった。名前を交換するタイミングを、二人ともずっと逃していた。最後に龍が「健太、そろそろお開きだぞ」と声をかけてきて、それで初めて分かった。
健太。
声に出してみたら、なんとなく似合っている気がした。
龍から「あなたのこと見てた」と言われたとき、麻衣は半信半疑だった。でも今は、少し違う気持ちになっていた。あの会話は、誰かに仕掛けられたものだったかもしれない。でも、会話そのものは本物だったと思う。
健太は聞き方が丁寧だった。麻衣が話すとき、ちゃんと待った。笑うタイミングが少し遅れるのも、作った笑いではないからだと分かった。
几帳面と言ったら、本当に困った顔をしていた。褒め言葉として受け取れなかったのだろう。それが可笑しくて、麻衣はあのとき初めて、本当に笑えた気がした。
電車が駅に着いた。ホームに降りると、冷たい空気が頬に触れた。
また、と言っていた。
また会えるかどうかは分からない。でも、また会いたいとは思った。自分でも、少し驚きながら。
連絡先を交換しなかったことに気づいたのは、改札を出てからだった。
麻衣はしばらく立ち止まって、それから歩き出した。
次があるなら、次のときに交換すればいい。
そう思えた自分が、今夜だけの特別な自分のような気がした。
三 健太
翔が「どうだった」と聞いてきたのは、店の外に出たあとだった。
「何が」
「麻衣ちゃんと話してただろ。ずっと」
健太は少し考えた。どう答えればいいか分からなかった。
「……楽しかった」と言った。
翔はそれを聞いて、「そうか」とだけ言った。
「なあ翔」
「何だ」
「さっき言ってたこと、本当か。あの人が、おれのことを見てたって」
翔は少し間を置いた。冬の路地に、二人の吐く息が白く浮かんだ。
「さあな」と翔は言った。「でも、今夜話してみて、どうだった」
「それは……」
「本当かどうかより、そっちのほうが大事だろ」
健太は黙った。翔の言っていることは、正しいと思った。
入口に立ったとき、あの横顔を見た。それは本当だ。龍から何を言われたかとは関係なく、あの瞬間に何かが動いたのも本当だ。
「連絡先、聞かなかった」と健太は言った。
「ばか」
「分かってる」
「翔の友達の友達だから、ルートはある。俺に言え」
「……頼む」
翔が笑った。街灯の下で、少し意地悪そうに、でも温かく笑った。
「お前みたいなやつが動いたときは、たいてい上手くいくんだよ」
「なんでそんなこと分かる」
「勘だ」と翔は言った。「それと、経験」
二人は並んで歩いた。渋谷の夜は、まだ騒がしかった。
健太はコートのポケットに手を入れて、今夜の会話をもう一度、最初から辿り直した。
几帳面。
その言葉だけが、ポケットの底に残っているみたいに、温かかった。
* * *
第五章 サンタクロースの気分
一
あれから、三十年が過ぎた。
翔は今、横浜の小さな家に住んでいる。庭に柿の木が一本あって、今年もよく実った。妻は去年から始めた陶芸教室に週二回通っていて、玄関には歪んだ形の皿がいくつも並んでいる。それが翔には、なぜかひどく好きだった。
ケイトとは、あの冬が終わる前に別れた。
別れたというより、自然に遠のいた。春になってエアメールが来なくなり、翔も書かなくなった。寂しかったが、しばらくすると別の寂しさに変わり、それも時間が解決した。人の心はそういうふうにできている。
翔が妻と出会ったのは、その翌年の夏だった。あのパーティーとは関係のない場所で、まったく関係のない縁で出会った。今思えば、あのクリスマスイブに自分が仕掛けたことと、自分の恋愛は、まるで別の話だった。
それでいいと思っている。
人を動かすことと、自分が動くことは、別の筋肉を使う。翔はどうやら、他人の恋には向いていたが、自分の恋には不器用だった。妻にそれを言ったら、「今さら」と笑われた。
二
健太と麻衣が結婚したのは、パーティーから二年後だった。
翔が仲人を頼まれたとき、少し笑ってしまった。火をつけたのが仲人をやるとは、と思った。でも断る理由はなかった。むしろ、引き受けることが筋だと思った。
式の日、健太はまたネクタイを曲げていた。控室で翔が直してやりながら、あの夜のことを思い出した。壁際でビールを飲んでいた健太。困ったような顔で入口に立っていた健太。
「緊張してるか」と翔は聞いた。
「してる」と健太は即答した。
「あのとき、カウンターに声かけに行ったときも、そんな顔してたぞ」
「してないよ」
「してた。でも、行った」
健太はネクタイを直されながら、小さく笑った。「翔があのとき、嘘をついたんだろ」
翔は手を止めた。「何の話だ」
「麻衣が俺のことを見てた、って。あれ、本当じゃなかったんだろ」
翔はしばらく黙って、それから「さあな」と言った。
「さあなって」
「本当かもしれないだろ。麻衣さんに聞いたか」
「聞いてない」
「じゃあ分からない」
健太は翔の顔を見て、それ以上追及しなかった。ネクタイはまっすぐになっていた。
式は、晴れた日だった。
三
健太と麻衣の子供は、二人いる。
上の子が去年、子供を産んだ。つまり健太と麻衣は祖父母になった。翔はその知らせを電話で受けたとき、受話器を持ったまましばらく動けなかった。
孫。
あの夜、壁際で困った顔をしていた男の、孫。
翔が「おめでとう」と言うと、健太は電話口で「お前のせいだぞ」と言った。怒っているのではなく、笑っていた。
「俺のせいじゃない」と翔は言った。
「嘘つくな」
「動いたのはお前だ」
「最初の一手はお前だろ」
翔は笑った。電話の向こうで健太も笑っていた。
あのパーティーから生まれたカップルは、健太と麻衣だけではなかった。あの夜、翔と龍が動いたのは一組だけだったが、あの場の空気が何かを後押ししたのか、翌月から翌年にかけて、仲間の中でいくつかの芽が出た。知らせを聞くたびに翔は、自分が何かしたとは思わなかった。ただ、煙を立てたら、どこかに本物の火があったのだ、と思った。
火のないところに煙を立てる。
それは嘘だった。でも嘘が場を作り、場が本物を引き出した。人間はそういう生き物なのかもしれない。少し背中を押されると、自分でも知らなかった本物が出てくる。
四
十二月になると、翔は毎年あの夜を思い出す。
渋谷の小さなビストロ。オレンジ色の灯り。満席のテーブルと、層を重ねた笑い声。コートのポケットの中のエアメール。三語。
I miss you.
ケイトは今ごろ、どこにいるだろう。
三十年前、遠距離の寂しさを埋めようとして、他人の恋に火をつけた。自分の孤独を燃料にして、他人を温めた。そういう冬だった。
おかしな話だと思う。でも、それが翔という人間のやり方だったのだろう。
庭の柿の木が、夕暮れの中に黒く浮かんでいた。
妻が台所で何か作っている音がした。玄関には歪んだ皿。居間には、子供たちが残していった玩具がまだ出しっぱなしになっている。
翔はソファに深く座って、目を閉じた。
あの夜の店の中が、まぶたの裏に浮かんだ。三十二人。笑い声。ワインのグラス。壁際の健太。カウンターの麻衣。龍の横顔。自分の手の中の煙草。
サンタクロースというのは、こういう気分なのかもしれない。
与えた本人は、もらわない。与えたことも、たいていは忘れられる。でも、どこかで誰かの家に灯りがついている。
それで十分だ、と翔は思った。
十分すぎるくらいだ。
〜エピローグ〜
その年のクリスマスイブ、健太から一通のメッセージが届いた。
「孫の名前、決まった。翔、って言うんだ」
翔は長いこと、その文字を眺めた。
それから、妻を呼んだ。
「ちょっと来い」
「どうしたの」
「何でもない。ちょっと来い」
妻が居間に入ってきて、翔の顔を見て、「泣いてるの」と言った。
「泣いてない」
「泣いてる」
翔は何も言わなかった。妻が隣に座った。
窓の外に、冬の夜があった。
どこか遠くで、クリスマスの鐘が鳴っていた。
了
〜あとがき〜
この物語の中で起きたことは、
とても小さな出来事です。
誰かが嘘をひとつついて、
誰かがほんの少し勇気を出した。
それだけです。
けれど振り返ってみると、
人の人生は、そういう些細なきっかけで
大きく変わっていくのかもしれません。
あの夜、もし誰も何も言わなかったら。
もし、ほんの一言がなかったら。
きっと、何も起きなかった。
でも実際には、何かが起きた。
その違いは、ほんのわずかです。
この物語を読み終えたあと、
もし思い出す人がいるなら。
もし、少しだけ動いてみようと思うなら。
それはきっと、この物語にとって
いちばん嬉しい続きです。
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〜あらすじ〜
十二月、東京。
誰もが誰かと過ごす夜。
それでも、動けない人たちがいた。
同じ仲間で集まりながら、
想いを抱えたまま、誰も一歩を踏み出さない——
その空気に、ひとりだけ耐えられなかった男がいた。
翔。
彼はクリスマスイブ、三十人のパーティーを仕掛ける。
そして、ひとつだけ“嘘”をついた。
「――あの人、あなたのこと見てたよ」
たったそれだけの一言が、
止まっていた時間を動かし始める。
偶然か、必然か。
嘘から始まった会話は、本物になるのか。
そして三十年後。
あの夜の選択が、静かに回収される。
これは、
火のないところに煙を立てた夜の、
小さくて、確かな奇跡の話。
これは
22の時
僕らが仕掛けた
本当の話です… 笑

