知ることすらなかった人


— あなたの隣に、前の誰かがいた —


〜序章〜

世界には、誰も気づかない入れ替わりがある。
あなたの隣にも、かつて別の誰かがいた。

ある朝、コーヒーカップが二つ並んでいた食卓が、次の朝には一つになる。クローゼットの右半分を占めていた服が、ある日を境に消える。シャワーの後に曇った鏡に残る、見知らぬ人の息の跡。

そういう空白は、静かにやってくる。

そして静かに、埋まっていく。

去った人は知らない。自分がいた場所に、誰かが来たことを。

来た人は知らない。自分がいる場所に、誰かがいたことを。

ただ一人、神だけが見ている。

二人の女が、同じ男を挟んで、すれ違う風景を。




前半 彩の章——去っていく人

第一章 コーヒーと、雨の匂い

別れというものは、たいてい予告なしにやってくるわけではない。

坂本彩は、それを知っていた。知っていながら、見ないふりをしていた。

彼——宮本健一と付き合い始めて、三年と四ヶ月。最初の一年は、すべてが眩しかった。待ち合わせの駅の改札で、遠くから走ってくる彼の姿を見つけるたびに、胸の奥が締まるような感覚があった。あの感覚は、本物だった。今でも、そう思う。

だがいつからか——おそらく二年目の秋あたりから——何かが少しずつ、ずれ始めていた。

一緒にいるのに、遠い。

そういう感覚を、彩は何度か覚えた。たとえば、二人でテーブルを挟んで座っているのに、健一の視線がどこか遠くを向いている夜。たとえば、彩が何かを話しているのに、「うん、うん」と相槌だけが返ってくる夜。そういう夜が、少しずつ増えていった。

それでも彩は、待った。

待てとは申しません——と、誰かが言ってくれれば、楽になれたかもしれない。でも誰もそんなことは言ってくれない。だから彩は自分で、待つことを選んだ。

雨の降る土曜日だった。

健一のアパートのキッチンで、彩はコーヒーを淹れていた。二人分。豆から挽いて、ペーパーフィルターで丁寧に落とす。それが彩の習慣で、健一も最初は「うまい」と言って喜んでいた。

リビングから、健一の声がした。

「彩」

なんとなく、わかった。声の質が、いつもと違う。

コーヒーを持って入っていくと、健一はソファに座って、膝の上で手を組んでいた。目が、合わない。

「話がある」

彩はカップを二つ、テーブルに置いた。自分のカップを両手で包んで、座った。

「うん」

「ごめん」

窓の外で、雨が静かに降り続けていた。

 

第二章 振る側の痛み

健一は、長い時間をかけて話した。

好きじゃなくなったわけじゃない、でも、このままでいることが正直じゃない気がして、彩には申し訳なくて、自分でもよくわからないんだけど——

彩は聞きながら、健一の顔を見ていた。

泣きそうだ、と思った。健一が、泣きそうだった。

振る側にも痛みがある——彩はそのとき、初めてそれを本当の意味で理解した。健一の声は震えていた。言葉を選びながら、それでも傷つけてしまうことを恐れながら、話している。その様子が、かえって胸に刺さった。

「わかった」と彩は言った。

健一が顔を上げた。

「ごめん、彩」

「謝らないで」彩は言った。「謝られると、もっと辛い」

窓ガラスに、雨粒がぶつかる音がした。

彩はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。いつもより、苦く感じた。

「出会いの風景、覚えてる?」と彩は聞いた。

「え?」

「最初に会ったとき。友達の飲み会で、隣の席になったじゃない」

「……覚えてる」

「あのとき健一、私のグラスが空いてるのに気づいて、何も言わずに注いでくれたんだよね」

健一は何も言わなかった。

「あの瞬間が好きだった」彩は言った。「言葉じゃなくて、動作で気にかけてくれるひとだって、思ったから」

今もそういう人だ、と彩は思った。別れ話でも、言葉を丁寧に選んで、相手を傷つけないように話している。

だからこそ、もっと痛かった。

 

第三章 1番近くにいた人が、遠のく

帰り道、彩は傘を持っていなかった。

健一が「傘、持ってくか」と言った。彩は「いい」と言った。濡れて帰ることが、なんとなく、今の自分には似合っている気がした。

駅までの道を、一人で歩いた。

雨は細かくて、冷たかった。髪が湿って、コートの肩が暗く濡れた。

振り返りたい衝動が、何度かあった。健一のアパートの窓に、まだ電気がついているかどうか、確かめたかった。でも振り返らなかった。振り返っても、何も変わらないことを知っていたから。

昨日まで、世界で一番近くにいた人が、今日から一番遠くなる。

その理不尽さを、頭では理解できる。でも体の方が、まだついてこない。

改札を通るとき、彩は泣いた。声は出なかった。ただ、涙だけが出た。周りの人たちはそれぞれの夜に急いでいて、誰も気づかなかった。

プラットフォームで電車を待ちながら、彩は思った。

この痛みは、どのくらいで消えるだろう。

一週間か。一ヶ月か。それとも、もっと長いか。

答えを知っている人はいない。みんな、自分の痛みの中で、一人で数えるしかない。

電車が来た。

扉が開いて、彩は乗り込んだ。

窓の外を、雨に濡れた街が流れていった。

 

第四章 空になっていくもの

別れてから、一週間が過ぎた。

彩は普通に生活した。朝起きて、仕事に行き、夜帰って、眠る。泣くのは夜だけ、と自分に決めた。昼間に泣くと仕事にならないから。

健一のアパートに置いてきたものが、少しあった。歯ブラシ、化粧ポーチ、読みかけの文庫本。健一から「取りに来る?」とメッセージが来たが、彩は「コンビニの袋に入れて、玄関に出しておいて」と返した。取りに行けば、また顔を見ることになる。顔を見たら、また泣く自信があった。

袋を受け取ったのは、雨上がりの夕方だった。

健一はちゃんと、玄関の外に出しておいてくれた。袋の中には、歯ブラシと化粧ポーチと文庫本、それから——彩が忘れていた、小さなヘアゴムが一つ。

そのヘアゴムで、彩は泣いた。

こんなものまで、拾っておいてくれたのか、と思ったら。

二週間が過ぎた。

彩は、健一のスマートフォンの番号を削除した。SNSのフォローも外した。見えないようにした。見えると、確認したくなるから。

でも健一がどこかで生きていることは、変わらない。同じ街のどこかで、同じ空の下で。それが、たまらなくなる夜があった。

三週間が過ぎた。

彩は、コーヒーを一人分だけ淹れることに、少し慣れた。

それだけが、今の彩の小さな前進だった。

 

第五章 出会いの風景は、どこかに残る

一ヶ月が過ぎた頃、彩は久しぶりに友人と会った。

「大丈夫?」と友人の由香が聞いた。

「大丈夫」と彩は言った。嘘ではなかった。完全な本当でもなかったが。

「健一くんのこと、恨んでる?」

彩はしばらく考えた。

「恨んでない」

「なんで」

「振る側にも、痛みがあるから」彩は言った。「あの人も、ちゃんと苦しんで、あの話をしてた。それは本物だったと思う」

由香は黙って聞いていた。

「出会いの風景も、本物だったと思う」彩は続けた。「最初に会ったとき、グラスに気づいて注いでくれたこと。あの人の優しさは、本物だった。それが最後まで変わらなかったことが、かえって悲しいんだけど」

窓の外に、夕暮れが広がっていた。

「彩はさ」と由香が言った。「次の恋愛、できる?」

「できると思う」彩は言った。「いつかは」

「いつか、ね」

「うん。でも今はまだ、この痛みの中にいたい」

由香が少し驚いた顔をした。

「痛みの中に、いたい?」

「健一と過ごした時間が、本物だった証拠だから」彩は言った。「痛くなくなった瞬間に、全部が夢みたいになる気がして。それが怖い」

由香は何も言わなかった。代わりに、彩の手を、そっと握った。

夕暮れが、窓の外で深くなっていった。

 

第六章 彩の最後の日

三ヶ月が過ぎた。

彩はある朝、目が覚めたとき、健一のことをすぐに思い出さなかった。

起き上がって、コーヒーを淹れて、窓を開けて——そこで初めて、「そういえば」と思った。

その「そういえば」が来た日を、彩はずっと待っていた。痛みが薄れる日ではなく、痛みを思い出す前に一日が始まる日。それが来たとき、少しだけ前に進めた気がした。

窓の外には、街が広がっていた。

どこかで誰かが、今日も誰かと別れている。どこかで誰かが、今日も誰かと出会っている。そういう入れ替わりが、この街のあちこちで静かに起きている。

彩は知らなかった。

この同じ朝、宮本健一のアパートの近くに、一人の女が引っ越してきたことを。

名前を、澪という。

 

後半 澪の章——やってくる人

第七章 知ることすらなかった人

中村澪は、その街のことを何も知らなかった。

仕事の都合で引っ越してきたのは、秋の初めだった。段ボールを積み上げたアパートの部屋で、澪は窓を開けた。知らない街の、知らない空気が入ってきた。

隣の駅まで歩いて十分。スーパーが近くにある。コインランドリーも徒歩圏内。不動産屋が説明していた条件は、確かに揃っていた。でもそれ以上のことは、何もわからない。

この街に、どんな人が住んでいるか。

どんな空気が流れているか。

どんな別れが、少し前にここであったか——そんなことは、澪には知る由もなかった。

近所のコーヒーショップを見つけたのは、引っ越して三日目だった。

駅から少し外れた、小さな店。カウンター席が四つと、二人がけのテーブルが三つ。豆を選んで、一杯ずつ丁寧に淹れてくれる。澪はそういう店が好きだった。

カウンターに座って、エチオピアのシングルオリジンを頼んだ。

「よく来るんですか」と、隣に座っていた男が言った。

振り向くと、三十代前半ぐらい。地味なジャケット。少し疲れた目をしている。

「いえ、今日が初めてで」

「この辺、引っ越してきたんですか」

「三日前に」

男は少し驚いたような顔をして、「そうですか」と言った。

名前は、宮本健一といった。

 

第八章 空白の場所

健一と二度目に会ったのは、一週間後だった。

同じ店で、同じ時間に、偶然。

澪はカウンターの端に座っていて、健一が入ってきたとき、二人は同時に気づいた。健一が少し笑って、「また会いましたね」と言った。澪も笑った。

それから二人は、他愛のない話をした。仕事のこと、この街のおすすめの場所、どこのパン屋がうまいか——そういう話。

澪は、健一の中にある空白に、最初から気づいていた。

うまく言葉にはできないのだが、この人は何かを最近失った、という感じがした。目の奥に、まだ癒えていない傷のようなものがある。でも丁寧な人だ、とも思った。話を聞くとき、ちゃんとこちらを向く。

澪自身も、失ったものがあった。

前の街に、五年付き合った男がいた。別れたのは半年前。仕事の都合での引っ越しは事実だが、この街を選んだのは、前の街から遠ざかりたかったからでもある。

だから澪には、健一の空白が、少しわかった。

その空白の意味を、澪はまだ知らなかったけれど。

 

第九章 コーヒーの香りと、はじまり

三度目に会ったのは、澪から誘った。

「この辺、おすすめの店って他にありますか」とコーヒーショップで聞いたら、健一が「何店か知ってますよ」と言った。「今度、案内しましょうか」

澪は「ぜひ」と言った。

休日の午後、二人で街を歩いた。健一は知っている店をいくつか教えてくれた。古本屋、小さなギャラリー、夕方になると行列ができるベーカリー。

歩きながら、健一が言った。

「この街、住みやすいですよ。慣れたら」

「宮本さんは長いんですか、ここ」

「四年ぐらい」

「一人で?」

少し間があった。

「今は一人で」

澪は、それ以上聞かなかった。今は、という言葉の重さを、澪はちゃんと受け取った。

夕暮れの中を、二人で歩いた。健一の歩くペースは、澪に合わせてくれていた。それが自然で、澪は少し、胸の中が温かくなった。

出会いというものは、いつも静かにやってくる。

ドラマチックな演出もなく、予告もなく。ただ、ある日の午後、誰かの隣を歩いていて、気づいたらその人のことが少し気になっている——そういうふうに。

 

第十章 空いた場所に、収まるということ

二ヶ月が過ぎた。

澪と健一は、週に一度か二度、会うようになっていた。コーヒーを飲んで、街を歩いて、たまに夕食を食べた。付き合っているとは言っていなかった。でも澪の中では、何かが少しずつ育ち始めていた。

ある夜、健一のアパートで澪がコーヒーを淹れた。

豆を挽いて、ペーパーフィルターで落とす。健一が「うまいな」と言った。

澪はそのとき気づかなかった。健一がその言葉を言ったときの、一瞬の間を。

健一は思い出していた。同じキッチンで、同じようにコーヒーを淹れていた人のことを。雨の降る土曜日のことを。

でも健一は、何も言わなかった。

その痛みは、健一の中だけにある。澪には関係のないことだ——そう思った。澪には澪の過去があって、それは澪の中にある。お互いの傷を、お互いが静かに持ち寄って、それでも今ここにいる。

「澪さん」と健一は言った。

「うん」

「ここに来てくれてよかった。この街に」

澪はコーヒーカップを両手で包んで、健一の顔を見た。

「私も」と澪は言った。「よかったと思ってる」

窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。

二つのコーヒーカップが、テーブルの上に並んでいた。

 

第十一章 澪の知らない痛み

澪は知らない。

かつてこのアパートに、別の女がいたことを。

同じキッチンでコーヒーを淹れ、同じソファに座り、同じカップを両手で包んでいた人がいたことを。

その人の名前を、澪は知らない。顔も知らない。その別れがどのくらい痛かったか、二人のどちらがより傷ついたか、そういうことも何も知らない。

そして、彩もまた知らない。

自分がいた場所に、今、別の女がいることを。同じカップで、同じコーヒーの香りの中に、自分と同じように座っている人がいることを。

二人は出会わない。名前も知らない。交わることのない二つの人生が、ただ一人の男を介して、静かに隣り合っている。

男の数ほど女はいて、女の数ほど男もいる——誰かが言ったその言葉の意味を、健一は今少しだけ、理解しているかもしれない。

人は誰かを失って、誰かに出会う。その繰り返しの中で、少しずつ、生きていく。

それは残酷なことか。

あるいは——救いのことか。

 

終章 雨の交差点

雨が降っていた。

秋の終わりの、細い雨。

坂本彩は、傘を持って駅へ向かっていた。

別れてから、もうすぐ一年になる。痛みは消えていなかったが、薄くなっていた。日常の中に、ちゃんと溶け込める程度に。

今日は由香と会う約束がある。久しぶりに、あの頃よく行っていた駅の近くのカフェで。

彩は傘を開いて、歩き出した。

——同じ時刻、少し離れた場所で。

中村澪は、コーヒーショップから出るところだった。

健一を待たせている。今日は二人で映画を見に行く予定で、待ち合わせは駅の前だ。

澪は傘を開いて、駅に向かった。

二人は、同じ交差点に差し掛かった。

信号が赤だった。

彩は信号の手前で立ち止まった。傘の雫が、アスファルトに落ちた。

澪も、その隣に立った。

二人は、互いを見なかった。それぞれの傘の下で、それぞれの雨音を聞いていた。

信号が、青になった。

彩は右に渡った。澪は左に曲がった。

二人の背中が、雨の中に遠ざかった。

それだけだった。

ただそれだけの、一瞬だった。

二人は知らない。今この瞬間、隣に立っていたのが誰かを。どんな痛みを持っていて、どんな場所から来て、どんな場所へ向かっているのかを。

知ることすらなかった。
それでも、確かに繋がっていた。

雨は降り続けた。

街は静かに、濡れていった。

そしてどこかで誰かが、また誰かと出会い、また誰かと別れ——この夜も、世界は静かに、回り続けていた。


〜あとがき〜

振る側にも、振られる側と同じだけの痛みが残る。

その言葉が、この小説の始まりだった。

去っていく人がいる。やってくる人がいる。その二人は、決して出会わない。でも同じ空の下で、同じ雨に濡れながら、それぞれの傷を抱えて歩いている。

恋愛とは、入れ替わりの繰り返しなのかもしれない。誰かの空白に、誰かが入る。その人がまた空白を作って、また誰かが入る。その連鎖の中で、人は傷つきながら、少しずつ深くなっていく。

彩のことを書きながら、痛かった。

澪のことを書きながら、温かかった。

健一のことを書きながら、その両方を感じた。

諦めろとは、申せない。

そう思いながら、この物語を閉じる。

ー了ー



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〜おまけ〜

これは以前
ブログで書いたものを
物語に膨らましたものです
それをここに載せて置きます

別れ際の風景

待てとは 申しません
耐えろとも 申しません
でも
諦めろとは…   申せません

翳りが出始めた恋愛には
振る側にも
振られる側と同じだけの痛みは
きっと残るはずで

その
別れの風景の中には
出会いの風景も
きっと一瞬はあったはずで
あったと思いたいわけで

その日まで
1番近くにいたはずの人が
その瞬間から
1番遠くに遠のく場面の中で涙し

そして
その日
知ることすらなかった人が
1番近くの場所へと
その空いた場所へと収まるわけで

そんなことの繰り返しの中で
男の数ほど 女はいて
女の数ほど 男もいると

僕らは 気付いてきたわけで…




〜あらすじ〜

あなたの隣にいる人には、
“前の誰か”がいたかもしれない。

彼と別れた女・彩。
そのあとに現れた女・澪。

二人は出会わない。
名前も知らない。

それでも同じ場所で、
同じ人を通して、人生が交差している。

知ることのなかった、もう一人の存在。

静かに胸に残る、
すれ違いの物語。