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夢物語
ー眼鏡を外す、その直前で目が覚める —
第一章 波と麻雀と単位のあいだで
湘南の海は、今日もうまそうにうねっていた。
——単位なんて、どうでもよくなるくらいに。
田村浩二は、大学の時間割表を自転車のカゴに突っ込んだまま、サーフボードを抱えて砂浜を歩いていた。午前十時。本来ならば「現代社会論」の講義が始まっている時間である。
「うねりが来てるのに、教室に座ってられるか」
それが浩二の、三年間変わらぬ哲学だった。
東海道線の各駅停車で四十分、神奈川県の海沿いにあるT大学に入学したのは三年前。合格通知を受け取った夜、父親が「よくやった」と言いながら出してくれたビールの缶を、浩二はまだ覚えている。あのときは確かに、ちゃんと勉強するつもりだったのだ。
だが大学というのは、恐ろしい場所だった。
サークルの先輩に連れられて初めて海に入ったのが四月。五月には麻雀を覚え、六月にはクラブのバイトを始め、夏には中古のバイクを手に入れた。勉強する隙間が、物理的に存在しなかった。
三年生になった今、浩二の取得単位数は、同期の平均をおそらく四十単位ほど下回っていた。
「コウジさん、波来てますよ!」
サークルの後輩、大輔が沖から手を振っている。浩二はボードを抱えて走った。嫌なことは、とりあえず海に入れば忘れられる。
忘れられるのだが。
秋になれば、また現実がやってくる。
第二章 ジョニ黒とオールドパーを持って
十一月の末、浩二はついに腹を括った。
事の発端は担任教員——といっても大学にそんな制度はないのだが、なんとなく相談役になってくれている事務局の田中さんからの一言だった。
「田村くん、このままだと来年も留年だよ」
来年も、ということは今年すでに留年しているわけで、それは浩二も知っていた。問題は「来年も」という部分だ。つまり二年連続留年コースが確定しかけているということである。
「単位、足りないのいくつですか」
「えーと……」田中さんはファイルをめくった。「必修が四つ。選択が六つ。合計十単位」
十単位。
浩二は頭の中でざっと計算した。残りの学期で取れる単位の上限を考えると、普通に授業を受けても間に合わない。
そこで浩二が思いついたのが、レポートだ。担当教員に直接交渉して、特別レポートで単位を認定してもらう。そういう抜け道が、ないわけでもない——と先輩から聞いたことがあった。
問題は、手土産である。
浩二はバイト先のクラブのマスターに相談した。マスターは苦笑しながら、棚の奥からボトルを二本出してきた。ジョニーウォーカー黒ラベルと、オールドパー。どちらも客が飲みきらずに置いていったボトルキープだが、もう三ヶ月以上誰も引き取りに来ていない。
「持っていけ。ただし次のシフト、土曜の深夜も入れ」
「わかりました」
浩二はスーツを引っ張り出した。袖が少し短くなっていたが、まあいい。ウイスキー二本を紙袋に入れ、教員棟に向かった。十二月の朝、キャンパスは銀杏の葉が散り積もって、妙に荘厳な空気が漂っていた。
第三章 教授室の扉を、ノックする
最初は、経済学の村上教授だった。
村上教授はドアを開けるなり、浩二の顔と紙袋を交互に見て、「なんだ」と言った。七十近い、白髪の老教授である。
「あの、田村と申します。三年の……」
「知らん」
「現代経済論、取っておりまして」
「出席日数は?」
「……三回です」
「十五回中?」
「はい」
沈黙。村上教授は眼鏡を押し上げ、「帰れ」と言った。
ドアが閉まった。
浩二は廊下に立ち尽くした。紙袋の中でウイスキーが、かすかに揺れた。
次は社会学の田所教授。こちらは話を聞いてはくれたが、「うちの学部のシステム上、特別措置は一切認められておりましてね」と丁寧に断られた。丁寧な分だけ、かえってこたえた。
廊下のベンチに腰を下ろし、浩二はため息をついた。紙袋を膝に乗せ、空を見上げる。曇り空だった。波は、今日もいいうねりだったろうに。
「ダメか……」
残るはあと四人。
浩二は立ち上がり、次のフロアへと向かった。
第四章 NFLと、人生と
三人目は、英語の必修を担当するスミス教授だった。アメリカ人で、五十がらみ、体格がいい。
ドアをノックすると、「カモン」という声がした。
スミス教授は机の前で、ノートパソコンを開いていた。画面には、見覚えのあるフォーメーション図が映っている。
「あ」と浩二は言った。「NFLですか」
スミス教授が顔を上げた。「ユー・ウォッチ・NFL?」
「はい。チーフスのファンです」
スミス教授の顔が、ぱっと明るくなった。
それから二十分、ふたりはNFLの話をした。今季のAFCの展望、クォーターバックの話、スーパーボウルの予想。スミス教授は身を乗り出し、浩二も負けじと意見を言った。気がつけば、単位の話など一度もしていなかった。
「ところで」とスミス教授は言った。「ユー、ホワット・ドゥー・ユー・ウォント?」
浩二は正直に話した。英語の単位が足りないこと、レポートで補えないかということ。スミス教授はしばらく考えてから、「オーケー」と言った。
「英語でNFLの分析レポート、三千ワード。それで認めよう」
「書きます!」
浩二は紙袋を差し出した。スミス教授は笑って「ノー・サンキュー」と断った。「レポートで十分だ」
廊下に出た浩二は、思わずガッツポーズをした。ウイスキーの紙袋を抱えたまま。
第五章 フン、という顔の女教授
次の相手は、難関だった。
日本文学の桐島教授、五十代前半。廊下ですれ違うと、いつも鼻先を少し上げて、「フン」という空気をまとっている。学生の間では「女王様」と呼ばれていた。浩二も何度かすれ違ったことがあるが、一度として話しかけようと思ったことはなかった。
だが残る選択肢は少ない。
浩二はドアの前で深呼吸し、ノックした。
「はい」という声は、予想通り涼しかった。
部屋に入ると、桐島教授は窓際のデスクで何かを読んでいた。眼鏡をかけ、きっちりとしたジャケット姿。顔を上げた瞬間の表情は、やはり「フン」だった。
「田村と申します。日本近代文学を履修しておりまして——」
「出席は?」
「……五回です」
「十五回中」
「はい」
桐島教授は本を閉じ、浩二をまじまじと見た。浩二は、帰れと言われると思った。
ところが。
教授は静かに立ち上がり、浩二に近づいてきた。
「どのくらい足りないの?」
声が、さっきより少しやわらかくなっている。
浩二は驚きながら、カバンから書類を出した。担当科目の単位数、今の取得状況、必要な補填数。
桐島教授は書類を受け取り、一枚一枚丁寧に見た。そして、
「あらまあ」と言った。「こんなに?」
その声は、もはや「女王様」のものではなかった。なんというか——困ったような、呆れたような、それでいてどこかおかしそうな、そういう声だった。
微笑んでいた。
第六章 取り引き
「じゃあね」と桐島教授は言った。「取り引きしましょうか」
浩二は固まった。
取り引き。
その言葉の意味を、浩二の脳が一生懸命処理しようとした。だが処理しきれなかった。
桐島教授は、上着を脱いだ。
そして、眼鏡を外した。
浩二は息を飲んだ。
眼鏡をかけ、きっちりとしたジャケットで武装していた人物が、その二つを取り去ると——びっくりするほど、きれいだった。髪が肩に落ち、目元が穏やかに細くなって、口元には意地悪そうな笑みがある。四十代か五十代か、年齢がうまく読めない。ただ、間違いなく、美しかった。
「ほら、わかるでしょ?」
桐島教授は言いながら、浩二の手を取った。
浩二は、何も言えなかった。脳が完全に機能停止していた。
「取り引き、ってね」と教授は続けた。手が、浩二の手を包む。「あなたに書いてもらいたいものがあるの」
「……書く?」
「そう。レポートじゃなくて、小説。短いものでいいわ。あなた、文章が書けそうな顔をしてる」
浩二は自分の顔が文章を書けそうかどうか、まったく判断がつかなかった。
「私ね、学生の書いた小説を集めてるの。論文じゃなくて、物語。あなたが今まで経験したこと——波乗りでも麻雀でも、なんでもいい——それを、正直に書いてきなさい」
教授の頬が、ほんの少し浩二の方に寄った。
「書いてきてくれたら、単位をあげる。ちゃんと必要な分だけ」
「……それだけですか?」
浩二は、少し残念そうに聞いてしまった。
桐島教授は、声を出して笑った。品のある、でも本物の笑い声だった。
「それだけよ」と言って、手を離した。「何を期待してたの?」
浩二は真っ赤になった。
第七章 波と文章と、卒業のあいだで
浩二は書いた。
生まれて初めて、真剣に文章を書いた。
波乗りのこと。ボードが初めて波に乗った瞬間の、あの浮遊感。麻雀で徹夜した朝、負けたくせになぜか清々しかった理由。バイクで夜中の国道を走ったときの、風の冷たさと自由の感触。そしてクラブのバイト、マスターの背中、ジョニ黒とオールドパーを持って教授室を回った、あの滑稽な朝のこと。
書いていると、おかしくなってきた。こんなに無駄な三年間を過ごしてきたのかと思うと、なぜか笑えた。いや、無駄ではなかったかもしれない。ただ、教室の外で学んでいたのかもしれない。
四十枚の原稿を、浩二は桐島教授の部屋に持っていった。
教授はその場で読んだ。浩二は部屋の隅に座って、じっと待った。
「……ここ」と教授は途中で言った。「スミス先生とNFLの話をするくだり。もう少し、会話を足しなさい。面白いから」
「はい」
「あとここ。波の描写。『うまそうにうねっていた』って書いてるけど——これ、すごくいい表現ね」
浩二は少し照れた。
最後まで読んだ桐島教授は、原稿をデスクに置き、眼鏡を外した。
——また外した。
浩二は思わず姿勢を正した。
「合格」と教授は言った。「単位、出しましょう」
「ありがとうございます」
「あなたね」教授は言った。「文章、続けなさい。波乗りも麻雀も、素材として悪くないから」
浩二は部屋を出た。廊下の窓から、海の方角の空が見えた。雲が切れて、冬の青空が覗いている。
なんだか、少し、足が軽くなっていた。
終章 夢の続きは、どこへ行った
それから四十年が過ぎた。
田村浩二は今、コピーライターをやっている。会社を定年退職してから、小さな事務所を構えて、細々と続けている。妻と子供と、平凡な日々だ。
今も時々、夢を見る。
単位が足りない夢。教授室の廊下を、ウイスキーの紙袋を持って歩く夢。そして——桐島教授が眼鏡を外す、その直前で目が覚める夢。
目が覚めるたびに、浩二は思う。
あの人は今、どうしているだろう。
桐島教授のことは、卒業してから一度も会っていない。名前で検索すると、いくつか論文がヒットする。今も大学で教えているらしい。それだけはわかった。
もう一つ、浩二が長年探しているものがある。
子供の頃に読んだ漫画だ。眼鏡をかけた地味な女の子が、眼鏡を外すととびきりきれいな顔をしている——そんな話だったと思う。タイトルが思い出せない。作者も出版社も。雑誌のどのあたりに載っていたかすら、定かでない。
何十年も探しているが、見つからない。
もしかしたら、と浩二はたまに思う。
あれも夢だったのかもしれない。子供の頃に見た、誰かが眼鏡を外す夢。それがずっと頭の中に残って、桐島教授の記憶と混ざって——
夢と現実の境目なんて、四十年も経てばわからなくなる。
だが一つだけ、確かなことがある。
あの冬の朝、ウイスキーを二本抱えて廊下を歩いた二十歳の自分は、確かに存在した。波と麻雀とバイトと、少しの後悔と、思いがけない出会いの中に——確かに、生きていた。
あの朝の空気の冷たさや、紙袋の重さは、もう思い出せない。
けれど、あのとき胸の奥で何かが少しだけ変わったことだけは、いまでもはっきりと覚えている。
それが何だったのかは、うまく言葉にできない。
たぶん——
ああいうものは、言葉にしてしまった瞬間に、少しだけ嘘になるのだろう。
今夜も、きっと夢を見る。
眼鏡を外す、その瞬間の手前で、目が覚める夢を。
残念だなあ、と浩二は思いながら。
でも——
あの続きを知らないままでいるのも、悪くない。
そう思えるようになったのは、いつからだっただろう。
あの人が眼鏡を外したあと、
本当はどんな顔で笑ったのか。
それだけは、いまだに知らない。
了
ーあとがきー
人生には、最後までいかない話がある。
あと一歩のところで終わるからこそ、
ずっと残り続ける記憶がある。
この物語は、そんな「途中で目が覚めてしまった夢」の話です。


