誰にも届かないことを、今日も書いている。

評価もいらない。
共感もいらない。
誰の心にも届かなくていい。

それでも、書いてしまう。

競争、比較、承認。
「そちら側」に疲れた男が選んだのは、
何も目指さないという生き方だった。

意味のない行為を、ただ繰り返す日々。
進歩もなく、結果もない。

それでも——

なぜ、人はやめられないのか。

これは、
誰にも届かないことを、
それでも書き続けてしまう人間の記録。




 目が覚めたとき、理由がなかった。

 いや、理由はあるはずだった。
 仕事もあるし、やるべきこともある。

 だがその朝に限って、それらはどれも、
自分とは関係のないもののように思えた。

 義務だけが残り、意味だけが抜け落ちている。

 そんな奇妙な感覚だった。




 これまで、何もしてこなかったわけではない。

 むしろ、積み上げてきた方だと思う。

 仕事を覚え、評価を得て、
それなりの位置に立ち、
それなりの言葉を使うようになった。

 「順調ですね」と言われることもあった。

 だが、その言葉が増えるほどに、
どこかで違和感も増えていった。

 順調、という言葉の中に、
自分の実感が含まれていなかった。




 ある日の昼休み、
弁当を食べ終えたあと、やることがなくなった。

 スマホを見るでもなく、
誰かと話すでもなく、
ただ、座っていた。

 五分ほどだったと思う。

 だがその五分間は、
これまでのどの時間よりも静かだった。

 そのとき、思った。

 ——この時間、いらないのか?

 いや、むしろ、これだけでいいのではないか。




 それは、決断というほどのものではなかった。

 少しずつ、少しずつ、
やらなくてもいいことをやめていった。

 意味のある行動を減らしていく。

 すると、不思議なことに、
空いたはずの時間が、空白にはならなかった。

 そこに、何かが入り込んできた。

 名前のつかない何か。




 駅へ向かう道すがら、
人は皆、急いでいるように見えた。

 信号が変わる瞬間、
わずかな時間を詰めるように歩く人たち。

 電車の中では、
誰もが何かを見ている。

 情報、数字、他人の言葉。

 その流れの中で、自分だけが少しずれている。

 そう感じた。

 だが、不安ではなかった。

 むしろ、どこか楽だった。




 夜、ふと考える。

 ——このままでいいのか。

 何も積み上げず、
何も残さず、
ただ過ごしていくだけで。

 その問いは、鋭くはなかった。

 むしろ、弱々しかった。

 そして、その弱さゆえに、
簡単に消えていった。

 いいかどうかではなく、
もう、戻る理由が見つからなかった。




 気づけば、書いている。

 何かを伝えるためではなく、
何かを残すためでもない。

 ただ、書く。

 言葉を並べる。

 意味があるかどうかは、あとで考える。

 いや、考えないようにしている。

 意味を考えた瞬間、
それはもう「そちら側」になってしまうからだ。




 見ない、というのは、簡単ではない。

 評価は、あらゆる場所に転がっている。

 数字、順位、反応、称賛、批判。

 それらは常に、こちらを見ている。

 だが、こちらから見なければ、
関係は成立しない。

 そう思うことにした。




 何もしていないようで、
この時間には重さがあった。

 軽くはない。

 だが、重苦しくもない。

 ただ、静かに存在している。

 意味がないからこそ、
他の何にも置き換えられない時間。




 時には、目的のないことを。

 意味などなく、
どこにも辿り着かず、
進歩などあるはずもないことを。

 誰も傷つけず、
誰も追い越さず、
誰にも追い越されない中で。

 ただ、やりたいからやる。

 ここに、こうして、
日々、書き込むように。

 そちら側を見ず、
そちら側を気にせず、
そちら側に影響すら与えず。

 どなたの心にも染みず、
どなたの動きをも変えず。

 単なる、自己満足な中で。

 ……それでも。

 その無意味の奥にだけ、
触れられる何かがあると、

 いまは、思っている。


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