森羅万象 第2部


 ――時の川――
 過去は変えられないが、未来は渡せる




過去は変えられない。
しかし、過去が今に渡したものは、変えられない。

プロローグ ―― 時間という名の墓場

 時間とは、墓場だ。
 過去は死んでいる。変えられない。取り戻せない。だから墓場だ。
 そう信じていた。ユイ・カラスマは、27歳になった今も、そう信じていた。
 だが、宮本隼が一枚のディスクを差し出したとき、その確信が、音を立てて崩れ始めた。
「祖母が残したものの中に、もう一つあった」と隼は言った。「データではない。設計図だ」
「何の?」
 隼は答えた。
「時間の、扉の」


1章  静香の遺産

 宮本静香が残した設計図は、暗号化された光学ディスクの中に眠っていた。
 隼がそれを発見したのは、祖母の死から30年後のことだ。膨大な日記データを整理している最中に、1つだけ異質なファイルを見つけた。暗号キーは、日記の特定の日付と、静香の娘(隼の母)の名前を組み合わせたものだった。
「解読に3年かかった」と隼はユイに語った。蜂の巣の会議室、廃列車の中で。「設計図を見たとき、最初は信じられなかった。これが本当に機能するものなら……祖母はとんでもないものを作っていたことになる」
「静香さんは、物理学者でもあったんですか?」
「環境研究者だ。だが、彼女の研究室には当時の最先端の物理学者たちが出入りしていた。気候シミュレーションのために、量子コンピューティングの研究者と共同プロジェクトを組んでいた。その中の一人が……時間の理論を持っていたらしい」
「らしい、というのは?」
「その物理学者の記録は、すでに消されている。UGAが消した。あるいはUGAの前身組織が。名前も、論文も、存在の痕跡も何もかも」隼の目が暗くなった。「だが、静香の設計図だけは残った。彼女が誰にも言わずに、1人で保存し続けたから」
 ユイは設計図のコピーを見た。
 量子力学の数式と、回路図と、注釈が入り混じった複雑な文書だ。ユイには半分も理解できない。だが、端の方に静香の手書きが残っていた。
「もし誰かがこれを完成させることができたなら、どうか慎重に使ってほしい。時間を変えることは、正義ではないかもしれない。それでも私は、可能性を残したかった」
 ユイはその文字を、長い間見つめた。
「完成させられますか?」
「リョウが言うには、あと半年あれば」と隼は答えた。「基本的な機構は設計図通りに作れる。問題は、エネルギー源だ。この装置を起動するには、莫大なエネルギーが必要になる」
「どこから調達する?」
「UGAの旧世代核融合炉が、廃棄区画F-3に眠っている。まだ起動できるはずだ」
 ユイはケンを見た。ケンは肩をすくめた。「また無茶な話になってきたな」
「最初から無茶しかしてないでしょ」ユイは言って、立ち上がった。「やろう」


2章  装置

 半年間、蜂の巣は変わった。
 リョウを中心に、装置の製作が始まった。設計図を解読し、部品を廃墟から調達し、何度も失敗しながら組み上げていく作業は、まるで別の時代の錬金術師たちのようだとユイは思った。
 廃棄区画F-3の核融合炉は、驚くほど原型を保っていた。ダンが3人のチームを率いて2週間かけて修復し、最小出力での起動に成功した。
 装置が完成した日の夜、リョウは興奮と疲労の入り混じった顔でユイに言った。
「動くと思う。理論上は」
「理論上は、というのが気になる」
「時間移動なんて、誰もやったことがないんだから、『理論上は』以上のことは言えない」リョウは苦笑した。「でも、静香さんの数式は完璧だ。あの人は天才だったよ」
 装置は、人が1人入れる程度の球形の筐体だった。内側は量子干渉素子に覆われ、外側には冷却システムと電力供給ラインが繋がっている。見た目は、錆びた卵のようだ。
「目的地の時間と場所を指定して、起動する」リョウが説明した。「帰還は自動だ。6時間後に強制帰還するように設定してある。それ以上向こうにいることはできない」
「変えたことの影響は、いつ出る?」
「わからない」リョウは正直に言った。「時間の変更が、この時代に反映されるまでにラグがあるのか、それとも即時なのか、理論的には諸説ある。ただ……」
「ただ?」
「もし過去が変わったなら、今のこの時代も変わる。つまり……俺たちの記憶が変わるか、あるいは俺たち自身が存在しなくなるか」
 沈黙が落ちた。
 全員がその意味を理解していた。
 過去を変えることに成功したなら、地球崩壊が起きなかった世界が生まれる。そこには蜂の巣もなく、メモリー・ダイバーもなく、ユイもケンもオバアも、この形では存在しないかもしれない。
「それでも、行くか?」ケンが静かに聞いた。
 ユイは答えた。
「行く。でも、1つだけ確かめてから」


3章  オバアの言葉

 その夜、ユイはオバアを訪ねた。
 83歳になったキクコ・ナカムラは、相変わらず蜂の巣の奥に座っていた。古い写真に囲まれて。
「聞いたよ」オバアは言った。「時間の扉を作ったって」
「噂が早いですね」
「狭いところだからね」老女は微笑んだ。「それで、私に何を確かめに来た?」
 ユイは膝を折り、オバアと目線を合わせた。
「もし過去が変わったら、オバアはいなくなるかもしれない。この形では」
「そうだね」
「怖くないですか」
 オバアは少し考えた。皺の深い顔が、静かに動いた。
「怖い、というより……」老女はゆっくり言葉を選んだ。「私はね、ユイ、7歳のときに見た海を、まだ覚えてる。砂浜の白さ。水の透明さ。魚の影。あの美しさは、本物だった」
「はい」
「もしその世界が取り戻せるなら、私がこの形でいなくなっても……それはそれで、いいんじゃないかと思う」オバアの目が、遠くを見た。「でも」
「でも?」
「過去を変えることが、本当に正解かどうか、私にはわからない。人間ってのはね、同じ失敗を繰り返す生き物だよ。2035年を変えても、また別の2035年が来るかもしれない」
 ユイは黙って聞いた。
「それでも行くなら」オバアは続けた。「怒りだけで行かないでおくれ。見てきなさい。あの時代の人間たちを、ちゃんと見てきなさい。バカな連中だと思うかもしれない。でも、あの人たちも人間だ。なぜ変えられなかったか、その目で確かめてきなさい」
 ユイはうなずいた。
「帰ってきます」
「帰ってこなくても、いい」オバアは静かに言った。「あなたがすべきことをしなさい。それだけでいい」
 ユイは老女の手を握った。骨ばった、しかし温かい手だった。
 これが最後になるかもしれない、と思いながら。


4章  2035年・春

 装置が起動した瞬間、世界が溶けた。
 音が消え、光が歪み、重力の感覚がなくなった。ユイは球形の筐体の中で息を止めた。1秒か、1時間か、わからない時間が経過した後、衝撃とともに感覚が戻ってきた。
 扉を開けると、そこは廃墟ではなかった。
 コンクリートの路地。遠くにビルが見える。空が……青い。
 ユイは思わず立ちつくした。
 青い空。27年間、1度も見たことのなかった色が、そこにあった。雲が白い。太陽の光が、痛いほど眩しい。空気が……冷たい。清潔だ。防護スーツなしに、そのまま呼吸できる。
 目から涙が出た。
 怒りではなく、何か別のもので。これが、失われた世界だ。これが、あの時代の人間たちが当たり前に持っていた空だ。
 ユイは涙を拭い、周囲を確認した。2035年、3月。設定通りだ。場所は旧東京、霞が関周辺。当時の環境省が近くにある。
 人々が行き交っていた。
 スマートフォンを見ながら歩く人、コーヒーカップを手にした人、スーツ姿のビジネスマン。全員が、何の疑いもなく生きている。この空が、この空気が、永遠に続くものだと信じながら。
 ユイは胸が痛んだ。
 怒りではなかった。もっと複雑なものだった。
 この人たちは、知らないのだ。自分たちが何を失いつつあるか。あるいは、知っていても、実感できないのだ。200年後の灰色の空を、脳が想像できないのだ。
 環境省の建物に近づいた。入口に、スーツ姿の人々が出入りしている。
 ユイは迷った後、1人の女性に声をかけた。60代と見える、白髪交じりの、疲れた目をした女性。
「すみません。今日、環境省で何か会議がありますか?」
 女性は少し驚いた顔をしてから、答えた。「ええ、気候対策の省内会議が……なぜそれを?」
「関係者です」ユイは咄嗟に嘘をついた。「少し遅れてしまって」
 女性は何かを考えるように目を細めた。それから、思い切ったように言った。「会議の結果を変えることはできないと思います。でも……中に入れてあげましょう。私も、今日の決定には反対なので」
 その女性が、宮本静香だと気づくまで、ユイには数秒かかった。
 日記の写真で見た顔より、ずっと若い。しかし、あの目だ。揺るぎない、燃えるような目。
 ユイは息をのんだ。


5章  変えられない壁

 会議室の外廊下で、ユイは静香の隣に座った。
 扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。大臣の声、次官の声、誰かが数字を読み上げる声。
「今日、何が決まるんですか」ユイは静かに聞いた。
「排出量削減の実施を、先送りにすることが決まります」静香は淡々と言った。「私は反対意見書を提出しましたが、却下されました。シミュレーション結果も見せました。それでも」
「それでも、変わらない」
「変わらない」
 静香はユイを横目で見た。「あなた、本当に関係者? 顔を見たことがない」
「……遠いところから来ました」
「どこから?」
 ユイは一瞬だけ迷った。それから言った。「未来から」
 静香は笑わなかった。ただ、静かにユイを見つめた。それから、小さく頷いた。
「そう」
「信じるんですか?」
「信じるかどうかより、あなたの目が本物だと思う」静香は言った。「未来は、どうなりましたか」
 ユイは答えた。全部を。空の色が変わったこと。海が死んだこと。森が消えたこと。人類が地下に追いやられたこと。
 静香は黙って聞いた。涙は出なかった。ただ、顔が少しずつ固くなっていった。
「……やはり、そうなったか」やがて静香は言った。「私のシミュレーションでは、最悪のケースがそれだった」
「止められますか? 今日の会議を。決定を変えることは」
 静香は長い間沈黙した。
「あなたが未来から来たことを、今すぐ大臣に告げましょうか。証拠を見せましょうか。それで変わると思いますか?」
 ユイは何も言えなかった。
「変わらない」静香は静かに答えた。「私は10年間、データを示し続けた。論文を書いた。警告を出し続けた。それでも変わらなかった。なぜか、わかりますか?」
「なぜですか」
「あの人たちには、見えないから」静香の声に、怒りではなく、深い疲労があった。「今日の生活が脅かされることへの恐怖は、100年後の地球が死ぬことへの恐怖より、ずっとリアルなんです。人間の脳は、遠い未来を、近い現在と同じ重さで感じることができない。それは……悪意じゃない。構造なんです」
 ユイは胸を突かれた。
「じゃあ、どうすればよかった?」
「わからない」静香は首を振った。「私にも、わからない。もっと違うやり方があったかもしれない。でも、私が生きている間には、答えが見つからなかった」
 扉が開いた。会議が終わったのだ。スーツ姿の人々が出てきた。その顔に、特別な罪悪感はない。疲れた顔、満足した顔、次の予定を考えている顔。
 彼らは普通の人間だった。
 怪物ではなかった。
 ただ、普通の人間が普通の判断をした結果が、200年後の灰色の空になったのだ。
 ユイはその事実を、全身で受け止めた。


6章  2100年・夏

 装置が再起動した。
 今度の目的地は2100年。崩壊が始まった時代だ。
 扉を開けると、熱気が押し寄せてきた。
 空はすでに変わっていた。青ではない。薄い、黄みがかった白だ。太陽が白く燃えている。気温は体感で五十度を超えているかもしれない。
 街はまだあった。しかし、人の気配が薄い。建物の多くに「避難勧告」の張り紙がある。道路はひび割れ、植物は枯れている。
 川があった。かつては清流だったはずの川が、褐色に濁っている。
 ユイは防護スーツなしにここへ来たことを後悔した。空気はまだかろうじて呼吸できる。しかし、目が痛い。喉が焼けるような感覚がある。
 広場に、人々が集まっていた。
 100人ほど。テントを張り、給水車を囲んでいる。気候難民だ。沿岸部が水没し、農地が砂漠化し、逃げてきた人々だ。
 その中に、子供がいた。
 5歳くらいの女の子が、母親の手を握りながら、空を見上げていた。あの白い空を、不思議そうに見上げていた。
 ユイは立ちつくした。
 この子は、ユイが生きた世界をさらに悪化させた先にいる。この子が50歳になる頃、地球はどうなっているか。
 怒りが来た。しかし、誰に向ければいいかわからない怒りだった。
 2035年の会議室の人々に向ければいいのか。しかし、彼らは怪物ではなかった。普通の人間だった。
 人間という種全体に向ければいいのか。しかし、目の前のこの母親も、この女の子も、人間だ。
 老人が近づいてきた。70代と見える、痩せた男だ。
「よそ者だね」男は言った。「この時代の人間じゃない顔をしてる」
 ユイは驚いた。「なぜわかるんですか」
「目だよ。あなたの目は、絶望してない。今の時代の人間はみんな、目に絶望が住んでる。あなたにはない」
 男は続けた。「未来から来たのか、過去から来たのか、どっちだ?」
「未来から」
「そうか。どうだった? もっとひどくなったか?」
「……はい」
 男はうなずいた。悲しそうでも、驚いた様子でもなかった。ただ、静かに受け入れた。
「変えようとして来たのか?」
「そうです」
「できなかったか?」
「……どうすればいいか、わからなくなりました」
 男は広場を見渡した。難民たちを、子供たちを、白い空を。
「変えようとした人間は、いたよ」男は言った。「たくさんいた。デモをした人間、論文を書いた人間、政治家に掛け合った人間、自分の生活を変えた人間。でも、足りなかった」
「なぜ足りなかったんですか」
「1人1人は変わった。でも、システムが変わらなかった」男は空を見上げた。「電力会社が、石油会社が、自動車会社が、金融が、政治が……そのシステム全体が、惰性で動き続けた。1人の人間がどれだけ変わっても、システムが変わらなければ、焼け石に水だった」
 ユイは黙って聞いた。
「あなたが変えに来るなら」男は続けた。「1つの決定を変えるんじゃなく、そのシステムを変えなければならない。でも、システムを変えるには……それこそ、100年かかる」
 6時間が経過しようとしていた。
 装置が自動帰還のシグナルを発した。
 ユイはその老人の顔を、目に焼き付けた。
「名前を教えてください」
「田中だ。ありふれた名前だろう」男は苦笑した。「覚えなくていい。ただ……未来で、諦めないでくれ。それだけだ」
 世界が溶けた。


7章  帰還

 2287年に戻ったユイは、装置の中で長い間動けなかった。
 扉を開けると、いつもの灰色の空があった。錆びた廃墟があった。オレンジ色の大気があった。
 ケンが待っていた。リョウも、アキも、ダンも。
「大丈夫か?」ケンが駆け寄った。
 ユイは頷いた。それから、地面に膝をついた。
 泣いていた。
 声を上げて泣いた。怒りで、悲しみで、それから何か別のもので。
 仲間たちは黙ってそこにいた。誰も何も言わなかった。ただ、ユイの傍にいた。
 やがてユイは立ち上がった。目を拭い、空を見た。
「変えられなかった」ユイは言った。「1つの決定を変えることは、できなかった。システムが問題だった。人間の脳の構造が問題だった。1点を変えても……」
「でも」ケンが促した。
「でも」ユイは続けた。「静香さんに会った。本物の静香さんに」
 全員が静かになった。
「彼女は……知っていた。全部知っていて、それでも戦い続けていた。そして、諦めずにデータを残した。私たちが見つけるために」
「それは……」リョウが言いかけた。
「つまり」ユイは続けた。「静香さんは知っていたんだと思う。1人では変えられないことを。自分の時代では変えられないことを。だから、未来の誰かに渡すことを選んだ」
 沈黙が広がった。
「過去は変えられない」ユイは言った。「でも、過去が私たちに渡したものがある。宮本静香のデータ。あの老研究員の言葉。田中さんという名前の老人の、諦めるなという声。それは、変えられない。どこにでも届いた」
「じゃあ、俺たちは何をする?」ダンが聞いた。
「続ける」ユイは答えた。「静香さんがデータを渡したように、私たちは次に渡す。情報を、怒りを、希望を。1世代では変わらなくても、5世代、10世代かければ、システムは変わるかもしれない」
「何100年かかる話だ」ダンが言った。
「そう」ユイは頷いた。「でも、始めなければ、何100年経っても始まらない」
 ケンが口を開いた。「田中さん、って誰だ?」
「2100年で会った老人。名前だけ聞いた。田中、というありふれた名前の」
「その人は、何て言ってた?」
「諦めないでくれ、って」
 ユイは空を見上げた。灰色の、オレンジの、毒の色の空。
 でも、その向こうに、かつて青があったことをユイは知っている。今は知っている。
「諦めない」とユイは言った。
 それは宣言ではなく、確認だった。自分自身への、静香への、田中という老人への、そしてまだ生まれていない未来の誰かへの。


終章  バトンの形

 それから6ヶ月が経った。
 タイムマシンの存在は、蜂の巣の外には漏らさなかった。
 ユイはオバアにだけ、旅のことを話した。静香に会ったこと、2100年の白い空のこと、田中という老人のことを。
 オバアは黙って聞いた。
「過去は変えられなかった」とユイは言った。「ごめんなさい」
「謝らなくていい」オバアは言った。「あなたは見てきた。それで十分だ」
「でも——」
「ユイ」オバアは静かに遮った。「私はね、今日の夕飯が食べられることが嬉しい。あなたたちが元気でいることが嬉しい。蜂の巣の子供たちが笑っているのが嬉しい」
 老女の目が、穏やかに光った。
「大きなことを変えようとすることも大事だ。でも、目の前の小さなことを続けることも、同じくらい大事だよ。静香さんだって、大きなことを変えようとして、できなかった。でも、データを残すという小さなことをした。それがあなたたちに届いた」
 ユイはうなずいた。
「バトンは、どんな形でもいい」オバアは続けた。「大きなバトンでも、小さなバトンでも。次の誰かが受け取れる形であれば」
 ユイは立ち上がり、オバアの部屋を出た。
 蜂の巣の通路を歩く。子供たちの声がする。水耕栽培の緑の匂いがする。誰かが歌っている。
 地上へ出ると、灰色の空があった。
 ユイはその空を見上げた。
 飛べるものたちが、かつてここを飛んでいた。泳げるものたちが、海を満たしていた。走れるものたちが、大地を駆けていた。
 それぞれに進化して、それぞれの命を生きていた。
 人間は、その全てを変えてしまった。
 しかし、人間もまた、命だ。
 変えようとする命、諦めない命、次に渡そうとする命。
 宮本静香がユイに渡したように。ユイが次の誰かに渡すように。
 時間は、墓場ではないかもしれない、とユイは思った。
 むしろ、川だ。
 流れ続ける川。過去から未来へ。1人から次の1人へ。
 止めることはできない。しかし、何を流すかは、今生きている自分が決める。
 ユイは空に向かって、小さく頷いた。
 灰色の空の向こうに、静香がいる気がした。田中老人がいる気がした。オバアが7歳の時に見た白い砂浜がある気がした。
 そして、まだ見ぬ未来の誰かが、どこかで空を見上げている気がした。
 その空が、少しでも青くなっていることを願いながら。
――その空を、まだ知らない誰かのために。

                ――了――


〜あとがき〜

 第2部を書きながら、1つの問いが頭を離れませんでした。
 もし過去に戻れたとして、何を変えられるだろうか、と。
 ユイは2035年に行き、宮本静香に会いました。そして気づきました。あの時代の人間たちは、怪物ではなかった。悪意があったわけでもなかった。ただ、人間の脳が持つ構造的な限界の中で、普通の判断をした。それが積み重なって、地球を変えてしまった。
 怒りは正当です。しかし、怒りだけでは見えないものがある。
 バトンという言葉を、この物語の中心に置きました。宮本静香からユイへ。ユイから次の誰かへ。1世代では変えられなくても、渡し続けることで、何かが変わるかもしれない。
 時間は墓場ではなく、川だ――それが、この第2部の結論です。
 流れは止まらない。でも、何を流すかは、今生きている私たちが決める。


2026年 春


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