これもまた

長編にせねばと

格闘中なわけですが


なかなか

長編にならず

半分 諦め顔


忘れる前に

とりあえずここに…



まえがき

「もし、あの時に戻れるなら」
そんなありふれた願いが、もしも物理的な質量を持って動き出したとしたら、世界はどう変わってしまうのでしょうか。
因果の鎖を断ち切り、観測されない歴史を修正する。
それが救済なのか、あるいは冒涜なのか。その答えは、まだ誰も知りません。
私たちは、時間の海に投げ出された漂流者です。
これから始まる物語が、あなたの心にある「止まった時計」を動かす小さなきっかけになることを願って。



序章

昨晩
夢に
着物姿の学者風な男が現れて
幕府転覆に力を貸してくれないか
と言う

えっ?
貴方は? と問うと

私の名は
由井正雪 と微笑んだ

正雪?
もしや
ここは江戸か
そして
家綱の時代か と問うと

そうだ
これ以上の機会はない
お前さんの力を借りたい

何が狙いだ?
そして
何をしろと?

まあ
待ってろ!
今に分かる

400年も遡ってしまったらしい
そうだ
慶安太平記だ!
そこへと
巻き込まれてしまった

しかし
正雪さんよ
あんた
これは失策となる
やめときなはれ!

馬鹿を言うな!
今 やらねばならん

僕は
未来から来たらしい
あんたらの
結末を知っている

ならば良い
気が変わったら来い
駿府で待つ!

ダメだ
無駄死にとなる
ダメだ
ダメだ
ダメだ…

そこで
目が覚めた

昨今
講談や落語の聴き過ぎか
それとも
玉響たちが
運んで来たのか…

もしや
今の時代もまた
それかと
ふと思ってもみるが
正雪ほど
命を張る者は現れないのだろう

武士道とは
立派なもんだったらしい



慶安転生記
〜由井正雪と時をこえた男 〜


 夢の中で由井正雪に出会い、歴史の悲劇を止めようとした男の話。

 慶安太平記の幕が、今、新たに開く。


プロローグ 夢の中の招待状

 夜明け前の闇の中で、男は夢を見ていた。
 東京の片隅にある古いアパートの一室。積み上げられた講談本、落語のCDが並ぶ棚、壁に貼られた江戸時代の地図。歴史に取り憑かれた四十二歳の男――榊原 凪(さかきばら なぎ)の日常の残骸が、夢の入り口を飾っていた。
 だが夢の中の景色は、そこではなかった。
 見渡す限りの松林。空気が違う。煙のにおい、土のにおい、人の汗と動物の混じり合った匂い。凪はそれを感じながら、自分が夢を見ていると気づいていた。夢の中でも意識がある、と彼はいつも思う。それが彼の少し奇妙な特質だった。
 松林の向こうに、人影があった。
 黒羽二重の着物をきちんと身に纏い、書物を小脇に抱えた男。顔は整っていた。眼光が鋭く、しかしその唇には微かな微笑みが浮かんでいた。学者風、とでも言えばいいか。あるいは、武士とも儒者ともつかぬ風格を持った人物。
 男が口を開いた。
「幕府転覆に、力を貸してくれないか」
 凪は思わず立ち止まった。夢の中であっても、その言葉の重みは本物に感じられた。
「えっ……貴方は、誰ですか」
 男は静かに微笑んだ。
「私の名は、由井正雪」
 凪の胸が、跳ねた。
 由井正雪。慶安の変。寛永二十一年――いや、慶安四年(一六五一年)、三代将軍・徳川家光の死の直後に計画された倒幕クーデター。主謀者の名を、凪は知っていた。講談で、落語で、歴史の本で、何度も聞いた名前だった。
「もしや……ここは江戸ですか。そして今は、家綱の時代ですか」
 正雪は目を細めた。
「そうだ。これ以上の機会はない。徳川の世の理不尽を正す、千載一遇の好機だ。お前さんの力を、借りたい」
「何が狙いだ? そして、俺に何をしろと?」
「まあ、待ってろ。今に分かる」
 正雪は踵を返して松林の奥へと歩き始めた。
 凪は追いかけながら、頭の中に数字が浮かんでいた。
 慶安四年。西暦一六五一年。今が二〇二五年なら、四百年近く遡ったことになる。
 だがそれよりも、凪が気になったのは別のことだった。
 由井正雪の乱は、失敗する。
 主謀者は自決し、仲間は処刑される。歴史はそう記録している。
 凪は夢の中で叫んでいた。
「正雪さんよ、あんた、これは失策となる。やめときなはれ!」
 正雪は振り返らずに答えた。
「馬鹿を言うな。今やらねばならん」
「俺は、未来から来たらしい。あんたらの結末を、知っている」
 ようやく正雪が立ち止まった。彼はゆっくりと凪を振り向いた。その目に、驚きとも好奇とも取れる光が宿った。
「ならば良い。気が変わったら来い。駿府で待つ」
「ダメだ。無駄死にとなる。ダメだ、ダメだ、ダメだ……」
 松林が揺れた。世界が歪んだ。凪は暗闇の中に落ちていった。
 そして、目が覚めた。
 天井を見つめながら、凪は長い間、動けなかった。
 夢だ、と思った。だが、夢にしては鮮明すぎた。松の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
 窓の外で、東京の夜明けが始まっていた。


一章 玉響(たまゆら)の運び手

 榊原凪がタイムトラベラーになったのは、自分でも気づかぬうちのことだった。
 彼はもともと、ITエンジニアである。中規模のシステム開発会社に勤め、仕事は並、給料は並、生活も並。ただひとつ、江戸時代の歴史への偏愛だけが他人より飛び抜けていた。
 講談は月に一度の神田連雀亭通い。落語は寄席のマクラ一つで演目を当てられる。慶安太平記なら台詞を諳んじられる。そんな男だった。
 夢の翌朝、凪は普段通りにコーヒーを淹れ、普段通りに出勤し、普段通りに仕事をこなした。だが帰り道、彼は何かに引っ張られるような感覚を覚えた。
 行きつけの古書店の前を通ったとき、それは起きた。
 店の薄暗い奥から、光が見えた。まるで月光のような、青白い光。普段ならそんなものがあるはずがない。凪は吸い込まれるように店内へ入り、光の方向へ歩いた。
 棚の隅に、一冊の本があった。
 古い、非常に古い本だった。表紙は擦り切れ、文字は掠れていた。しかしそれが何であるか、凪には分かった。
 慶安太平記。
 手に取った瞬間、世界が揺れた。
 揺れ、歪み、暗転した。


 気づいたとき、凪は土の上に倒れていた。
 周囲の匂いが違う。空気が違う。遠くから、馬のいななきが聞こえる。
 ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
 江戸だ、と凪は思った。否、江戸に違いない。
 目の前に広がるのは、整然と区切られた町並み。木造の家々が立ち並び、着物姿の人々が往来している。上空には、現代的な構造物は何もない。空は広く、澄んでいた。
 凪は自分の服装を見下ろした。現代のジャケットとスラックス。完全に場違いだった。
 「おい、お主は何者だ」
 背後から声がかかった。振り向くと、二人の侍が立っていた。腰に刀を差し、厳しい目で凪を見ている。
 凪は咄嗟に頭を下げた。
 「申し訳ありません。私は……旅の者で」
 「その装束は何だ。見慣れぬ。どこの国の者だ」
 凪は必死に頭を働かせた。ここで捕まれば、おそらく牢に入れられる。異装の不審者として処刑されるかもしれない。
 「蝦夷の……奥地から参りました。文明から遠い地でして」
 侍たちは顔を見合わせた。そのわずかな隙に、凪は路地へと走り込んだ。
 追いかけてくる足音。凪は必死に走った。曲がり角を抜け、商家の軒先をかわし、路地の奥へ。
 そして、行き止まりになった壁の前で、彼は蹲った。
 背後の足音が消えていく。運が良かった。
 凪は息を整えながら、状況を整理しようとした。
 タイムトラベル。実際に起きてしまった。夢ではない。本の力か、それとも別の何かか。
 そして今がいつかを知る必要があった。
 慶安四年なのか、あるいは別の時代なのか。
 凪は慎重に路地を出た。


二章 駿府への旅

 凪は三日かけて、江戸の暮らし方を学んだ。
 幸いにして、彼の服装の問題は意外な形で解決した。路地で行き倒れになっていた武家奉公人の男が着ていた着物を、男が死んだあとに借りることができた――いや、正確には男の主人が気の毒に思って凪に与えたのだ。食事も、ある寺で施しを受けた。
 凪は頭を使った。現代の常識は捨てる。江戸の論理で動く。
 江戸の人々は、不審者に見えない者には案外優しかった。礼儀正しく頭を下げ、言葉を選び、決して多くを語らなければ、溶け込むことができた。
 そして三日目の夜、凪はある決断をした。
 駿府へ行く。
 夢の中で、正雪は言っていた。「駿府で待つ」と。
 由井正雪は、史実では駿府に拠点を置いていた。兵法を教える道場を構え、弟子を集めていた。慶安の変の計画は、その駿府から始まったのだ。
 凪は講談の記憶を総動員して、当時の状況を思い起こした。
 慶安四年(一六五一年)四月二十日。三代将軍・徳川家光が死去する。将軍の死は、幕府の弱体化の瞬間でもあった。正雪はそこに乗じて決起しようとした。
 その動機は何だったか。凪は知っていた。
 牢人(浪人)問題だ。
 徳川の世が安定するにつれ、武家の数は減り、仕官の口も減った。行き場を失った牢人が全国に溢れ、社会不安の種となっていた。正雪自身、師の弟子として兵法を教える立場にあったが、その思想の根底には、この牢人たちへの共感があった。
 歴史の通り、この乱は失敗する。
 だが凪がここにいる。それは偶然か、必然か。
 凪は東海道を歩いた。現代の新幹線なら数十分の距離を、彼は十日以上かけて歩いた。足がただれ、日に焼け、しかし不思議と気力は衰えなかった。沿道の景色が、圧倒的なほどに美しかったのだ。
 富士山が、見える。
 現代でも見えるが、この時代の富士山は違った。大気が澄み切り、人工物が何もない地平に、山がそのままの姿で立っていた。凪は思わず立ち止まり、長い間その姿を見つめた。
 これを守りたい、と思った。
 いや、正確には違う。これを生きた人々の時代の流れを、少しでもより良い方向へ変えられるなら、と思った。
 駿府に着いたのは、旅立ちから十二日目だった。


三章 正雪との問答

 由井正雪の道場は、駿府城下の静かな一角にあった。
 凪がそこを訪ねると、弟子たちが怪訝な顔で彼を見た。しかし凪は落ち着いて言った。
「由井先生に、お目にかかりたい。先生はご存知のはずです。夢の中でお会いした者だ、とお伝えください」
 弟子たちは顔を見合わせたが、やがて一人が奥へ消えた。
 少しして、正雪が現れた。
 夢の中で見た顔と同じだった。整った顔立ち、鋭い目、しかし口元には穏やかな微笑み。彼は凪を見て、静かに頷いた。
「来たか」
「来ました」と凪は答えた。「やめなさい、と言うために」
 正雪は苦笑した。
「まあ、上がれ」
 道場の奥座敷で、二人は向かい合った。弟子たちは遠ざけられた。茶が運ばれた。
「お前さんは、未来から来たと言った」と正雪は静かに言った。「では聞こう。我らの挙兵は、どうなる」
 凪は一息ついてから答えた。
「失敗します。正雪殿は駿府で追い詰められ、自刃される。丸橋忠弥殿は江戸で捕縛され、磔刑に処される。仲間の多くが処刑される」
 正雪の表情は変わらなかった。しかし目の奥に、何かが揺れた。
「それを知って、お前は我らを止めに来た」
「止めるだけではなく」と凪は続けた。「別の道を考えたいんです」
「別の道?」
「正雪殿の真の目的は何ですか。幕府を倒すことが目的ですか。それとも、牢人たちの苦境を救うことが目的ですか」
 その問いに、正雪はしばし黙った。
 沈黙は長かった。遠くで弟子たちが稽古をする音が聞こえた。木刀が打ち合う乾いた音。
「……後者だ」と正雪はやがて言った。「牢人たちが報われる世を作りたい。それだけだ」
「ならば」と凪は言った。「武力ではなく、言葉で戦う方法があります」
 正雪が顔を上げた。
「聞かせろ」
 凪は話し始めた。未来の知識を、使える形で言葉に変えながら。
 社会改革とはいかに行われるか。変革は血ではなく、制度の改変によって成される場合がある。幕府は頑固な組織だが、内側から変えることのできる人物がいれば。たとえば、老中・松平信綱のような人物に、牢人問題の深刻さを認識させることができれば。
「幕府を倒すのではなく、幕府を動かす」
 正雪は長い間、凪を見つめていた。
「お前は、奇妙な男だな」
「私も、こんな立場になるとは思っていませんでした」
 正雪は初めて、声を出して笑った。


四章 動き始めた歯車

 凪は駿府に留まることになった。
 正雪は彼を弟子の一人として扱い、道場での生活を許した。凪は剣術の稽古こそできなかったが、読み書きと計算は得意だったため、正雪の事務仕事を手伝う形で居場所を得た。
 しかし問題があった。
 歴史の流れは、凪が介入しても動こうとしないのだ。
 丸橋忠弥は江戸で、依然として決起の準備を進めていた。正雪の制止の書状を送っても、忠弥からの返信は「今さら止められない」というものだった。仲間たちはすでに動き出していた。
「正雪殿」と凪は言った。「江戸へ行かなければならない」
「お前が行ってどうする」
「忠弥殿を直接説得します。そして、幕府の重臣に密書を届ける。牢人問題を、武力ではなく政策で解決するよう求める嘆願書です」
 正雪は眉を寄せた。
「幕府に近づくのは、危険だ」
「分かっています。しかし、動かなければ歴史は変わらない」
 凪は、自分でもなぜこれほど必死になっているのか、よく分からなかった。元の時代に帰れるかどうかも分からない。この時代での自分の立場も不安定だ。
 しかしここに来てしまったのは、偶然ではない気がした。
 何かが自分をここへ送り込んだ。玉響――魂の微かな揺らぎのような何か――が、自分を運んできた。
 そうであるならば、やり遂げなければならない。
「分かった」と正雪は言った。「行け。しかし一つ、約束してくれ」
「何でしょう」
「必ず生きて戻れ。お前の話には、まだ続きがある」
 凪は頷いた。
 翌朝、彼は江戸へ向けて出発した。
 今度は、商人の荷物運びの一員に混じって、東海道を北上した。道中、凪は頭の中で計画を練り続けた。
 松平信綱に嘆願書を届けるためには、彼の屋敷の近くにいる人間のコネクションが必要だ。
 丸橋忠弥を説得するためには、彼の信頼できる人物を通じなければならない。
 凪はこれを、まるでプロジェクト管理のように整理した。タスク、リソース、リスク。ITエンジニアとしての頭の使い方が、ここでも役に立った。
 江戸が近づくにつれ、空気が変わっていくのを感じた。
 大きな都市の匂い。人の多さ。活気と、その裏にある緊張感。
 慶安四年の江戸は、将軍家光の死後、微妙な均衡の上に立っていた。凪はその空気を、肌で感じた。


五章 江戸の夜

 江戸に着いた凪が最初に接触したのは、丸橋忠弥ではなかった。
 偶然の出会いが、別の道を開いた。
 凪が神田の裏路地で雨宿りをしていたとき、隣に蹲った老人があった。着物は粗末だが、目が鋭い。浪人者だと凪は思った。
「お侍様、どちらへ」と凪は声をかけた。
「侍ではない。ただの老いぼれだ」と老人は言った。「お前こそ、見慣れぬ顔だな。どこから来た」
「駿府から」
「ほう。それならば、由井先生のところか」
 凪は驚いた。
「ご存知で?」
「知っている。昔、世話になった。しかし、あの御仁の計画は無謀だと思っている。なぜ止めない」
 凪は正直に言った。
「止めようとしています。しかし一人では難しい。力を貸してもらえませんか」
 老人は長い間、凪を見つめた。
 名は、柳沢六右衛門と言った。かつて大名家に仕えたが、改易で牢人になった。今は神田の長屋で細々と暮らしていた。老人は牢人問題の当事者であり、正雪の計画に共感しながらも、その無謀さを知っていた。
「儂に何をしろと言う」
「松平信綱様の屋敷に近い人物を、ご存知でありませんか。嘆願書を、直接届けたい」
 柳沢は首を傾けた。
「……一人、思い当たる者がいる。だが、約束はできぬ。動いてみよう」
 その夜から、物事が動き始めた。
 柳沢の伝手を通じて、松平信綱の家老の一人と接触できることになった。秘密の会合。場所は神田の小料理屋の座敷。
 凪は嘆願書を書いた。
 現代的な論理構成で、しかし江戸時代の言葉で。牢人問題の規模、社会への影響、放置すれば何が起きるか、そして政策的解決の可能性。凪は夜を徹して書き、柳沢が添削した。
「お主の文は、妙だな」と柳沢は言った。「まるで別の世の者が書いたようだ」
「実は」と凪は言いかけて、止めた。「旅をして、色々な考えを学びました」
 柳沢はそれ以上は聞かなかった。
 会合は、五日後に設定された。
 その間に、凪はもう一つの仕事をしなければならなかった。丸橋忠弥への接触だ。


六章 忠弥との対決

 丸橋忠弥は、凪の想像より遥かに大きな男だった。
 六尺(約百八十センチ)を超える体躯。豪快な笑い声。そして、剣に生きる者の研ぎ澄まされた気配。
 柳沢の伝手で面会の機会を得たとき、忠弥は警戒しながらも凪を迎え入れた。
「由井先生の使いと聞いたが」
「使いであり、それ以上のものです」と凪は言った。「私は先生の命で来ましたが、先生も私を完全には信用していない。ただ、伝えなければならないことがある」
「何だ」
「この計画は、失敗する」
 座敷に、静寂が落ちた。忠弥の目が、細く鋭くなった。
「何を根拠にそう言う」
 凪は深呼吸した。ここが正念場だと分かっていた。
「私は、未来から来た者です」
 忠弥は表情を変えなかった。ただ、続けろという目をした。
「慶安四年に由井正雪の乱は起きます。しかし幕府側に密告者が現れる。計画が漏れ、挙兵は失敗する。正雪殿は駿府で自刃し、忠弥殿は捕縛されて処刑される」
「……お前は、本当に変な男だな」と忠弥はゆっくり言った。「しかし」
 彼は立ち上がり、窓の外を見た。
「仮にそれが真だとして、俺はどうすれば良い」
「武力を捨て、訴えに変える」
「侍が、武力を捨てるか」
「捨てるのではない」と凪は言った。「使い方を変えるんです。剣は人を斬るためだけにあるのではない。守るためにもある。あなたの剣は、牢人たちを守るために使える」
 忠弥は長い間、窓の外を見ていた。
 やがて彼は振り向いた。その目に、何かが変わっていた。
「……一つ、聞いていいか」
「何でしょう」
「俺たちは、歴史に残るか」
 凪は少し考えてから答えた。
「残ります。慶安太平記として、講談に、落語に、物語として語り継がれます。ただ、それが悲劇の英雄としてか、それとも別の形かは、今ここで決まる」
 忠弥は、また長い間黙っていた。
「……分かった。先生に従う。だが」と彼は付け加えた。「もし道が違ったとしても、俺は侍として死ぬ覚悟はできている。それだけは変わらない」
「それで十分です」と凪は言った。



七章 嘆願書の行方

 松平信綱の家老・片岡右近との会合は、雨の夜に行われた。
 神田の小料理屋。座敷には三人。凪、柳沢、そして片岡。
 片岡は五十がらみの、目の細い慎重そうな男だった。凪が嘆願書を差し出すと、彼は音も立てずにそれを開き、ゆっくりと読み始めた。
 長い沈黙。
「……牢人の数が、これほどとは」と片岡はやがて言った。
「私の調べでは、全国で数十万に上ります」と凪は言った。「多くが食い詰めており、社会の不安定要因となっています。これを放置すれば、いずれ大きな騒乱が生じます」
「それは、脅しか」
「警告です。そして、解決策の提案です」
 凪は続けた。牢人を再雇用するための政策、大名家の召し抱えを促す制度、開拓地への移住奨励。現代の政策立案の知識を、江戸時代の文脈に合わせて言葉にした。
 片岡は再び、書状に目を落とした。
「この提案を書いたのは、お前か」
「はい」
「お前は、どこの何者だ」
 凪は答えた。「旅の者です。しかし、この問題を解決したいと思っている者です」
 片岡は書状を畳み、懐に入れた。
「持ち帰る。信綱様にお見せできるかどうかは約束できない。だが、この内容は……考えさせられる」
 それが会合の結論だった。
 帰り道、柳沢が言った。
「うまくいくかの」
「分かりません」と凪は言った。「でも、動かなければ何も変わらない」
 その夜、凪は宿に戻って、ようやく疲れが出た。畳の上に倒れ込み、天井を見つめた。
 どれほど時間が経ったか、分からなかった。江戸に来てからどれだけ経ったのかも、正確には把握できていなかった。
 元の時代に帰れるのか。帰る方法は何か。
 凪にはまだ、何も分からなかった。
 しかし今はそれより、目の前のことを終わらせなければならない。



八章 分岐点

 歴史は、凪の介入によって揺れ始めていた。
 しかしそれは、簡単には変わらなかった。
 正雪への密告は、史実通り起きた。稲葉正利という武士が、正雪の計画を幕府に告発した。江戸城は緊張し、勘定奉行が動いた。
 凪は駿府に急使を送った。
「正雪殿、今すぐ逃げてください。密告が入りました」
 しかし歴史の重力は強かった。正雪は逃げなかった。あるいは、逃げられなかった。
 幕府の使者が駿府に到着したのは、その二日後だった。
 凪は道場の外で、遠くから見ていた。使者たちが道場を包囲していく様子を。
 史実では、正雪はここで自刃する。
 凪は動いた。
 考える間もなく、体が動いていた。
 彼は使者たちの前に出た。着物姿で、腰に刀はない。非武装の、ただの文人として。
「待ってください」と凪は叫んだ。「私は、松平信綱様の家老・片岡右近様とお会いした者です。お取次ぎをお願いしたい」
 使者たちは戸惑った。
 凪は懐から書状を出した。片岡との会合の証となる、柳沢が用意した証文だった。
「由井殿は、すでに計画を中止しています。証拠を持っています。どうか、話を聞いてください」
 緊迫した時間が流れた。
 使者の一人が、書状を確認した。別の一人が、馬で何処かへ走った。
 やがて、正雪が道場から出てきた。
 彼は凪を見た。凪は彼を見た。
「馬鹿なことをするな」と正雪は静かに言った。
「生きていてください」と凪は言った。「あなたが生きて訴え続ける方が、牢人たちのためになります」
 正雪は長い間、凪の目を見た。
 そして、頷いた。
 彼は刀を地面に置いた。
 使者たちが前に出た。しかし大きな混乱は起きなかった。
 後日、判明したことだが、片岡が信綱に嘆願書を届けていた。信綱は内容を興味深く読み、使者たちに「穏便に」という指示を加えていたのだ。
 歴史が、変わり始めた。



九章 新しい慶安

 由井正雪は、処刑されなかった。
 取調べは長期に及んだが、計画の中止が証明され、また嘆願書の内容が幕府内の一部の者の心を動かしたこともあって、正雪は流罪に処された。遠島だった。しかし生きた。
 丸橋忠弥も、同様だった。計画への関与は認められたが、実行前に止まっていたため、重罪は免れた。
 そして不思議なことが起きた。
 松平信綱が、牢人問題への対策を検討し始めたのだ。
 嘆願書の内容が、直接の原因だったかどうかは分からない。しかし凪の書いた提案の幾つかは、信綱の政策立案の中に影を落とした。史実では「慶安の変」をきっかけとした末期養子の禁の緩和も、この時代では異なる形で実現していった。
 凪はそれを、駿府で聞いた。
 流罪になる前の数日、正雪は道場で凪と話した。
「お前のおかげだ」と正雪は言った。
「いいえ」と凪は言った。「あなたが刀を置いたからです。それができたのは、あなたの中に本当の目的があったからです。武力ではなく、牢人を救うという」
「しかし、結果として俺は流罪になる」
「生きています」
 正雪は苦笑した。
「武士として、それが誇りと言えるかどうか」
「生きて訴え続けることが、最大の武士道だと私は思います」
 正雪は長い間、黙っていた。
「お前は、いつか元の場所へ戻るのか」
「……そうだと思います。いつかは」
「お前の時代に、牢人問題は解決しているか」
 凪は少し考えた。
「形を変えた牢人問題は、あります。仕事のない者、社会からはじき出された者。それはいつの時代にも存在する。しかし、少しずつ、社会は変わっています」
「少しずつ、か」と正雪は繰り返した。「それで良いのかもしれない」
 それが、二人の最後の会話だった。
 翌日、正雪は護送されて駿府を去った。凪は道の端に立って、その行列を見送った。


十章 帰還

 正雪が去った後、凪は目的を失ったように、しばらく駿府に留まった。
 柳沢も江戸へ戻った。忠弥は、信綱の取り計らいで、ある大名家に仕官できることになったと風の便りに聞いた。
 凪は一人、道場の片隅に残された。
 どうやって帰るのか、分からなかった。
 来たときは、古書の本を手に取った瞬間に飛ばされた。逆のことをすれば戻れるのか。しかし同じ本は手元にない。
 ある夜、凪は富士山の見える丘に登った。
 月が出ていた。空が広かった。虫の声がした。
 玉響、と凪は思った。魂の微かな揺らぎ。自分をここへ送り込んだ何か。
「仕事は終わったぞ」と彼は空に向かって言った。「あとは頼む」
 風が吹いた。
 凪は目を閉じた。
 世界が揺れた。


 気づいたとき、凪は古書店の前に立っていた。
 東京の、夜の街。ネオンの光。車の音。スマートフォンを持った人々が行き交う。
 凪は自分の服装を確認した。現代の服だった。江戸の着物は、消えていた。
 夢だったのか、と彼はしばらく思った。
 しかし足の裏には、東海道を歩いた記憶がある。手のひらには、嘆願書を書き続けた記憶がある。
 古書店の中を覗いた。先ほどまで光を放っていた棚の辺りに、何もなかった。本は消えていた。
 凪は空を見上げた。東京の夜空に、星はほとんど見えない。しかし月はあった。同じ月が、四百年の時間を超えて、ここにある。
 携帯電話を取り出すと、電源が入った。日付は、古書店に入る前の日と同じだった。
 時間は、戻っていた。
 凪は歩き始めた。帰り道を、ゆっくりと。
 彼の頭の中には、由井正雪の言葉が残っていた。
「少しずつ、か。それで良いのかもしれない」
 そうだ、と凪は思った。大きな変革は、小さな意思の積み重ねから生まれる。一枚の嘆願書が、一つの会話が、歴史を少しだけ変えることがある。
 彼は歩きながら、ふと思った。
 今の時代にも、正雪のような問題は存在する。行き場のない人々。不公平な制度。力を持たない者たちの声。
 正雪ほど命を張る者は、この時代には現れないかもしれない。
 しかし、言葉を持つ者はいる。
 凪は家に帰ると、パソコンを開いた。そして、書き始めた。
 自分が見てきた江戸のこと。牢人問題のこと。正雪のこと。そしてそれが今の時代に何を示唆するか。
 それが彼の、新しい戦い方だった。



エピローグ 慶安太平記、新章

 数ヶ月後。
 榊原凪は神田連雀亭の座席にいた。いつもの定席、いつもの場所。しかし今日は少し、違う気持ちでいた。
 高座に、講釈師が上がった。演目は「慶安太平記」。
 凪は目を閉じた。
 语り口が始まった。
「……由井正雪、その名を歴史に刻んだ男。しかし諸説あり、一説には――正雪は武力を捨て、言葉によって牢人の救済を訴えたとも伝えられております……」
 凪は目を開けた。
 「一説には」。
 歴史は変わった。完全にではない。しかし、語り継がれる物語の中に、新しい声が混じっていた。
 彼は小さく、笑った。
 講釈師の語りが続く中で、凪の脳裏には、あの丘の上で見た月が浮かんでいた。富士山のシルエット。松林の匂い。
 そして、正雪の言葉。
「お前さんの力を、借りたい」
 力は貸した。できる限りのことをした。それで十分だ。
 武士道とは立派なものだった、と凪は思う。
 しかし、武士道だけが誇りある生き方ではない。言葉を持ち、考え、諦めずに訴え続けること。それもまた、一つの道だ。
 いつの時代も、人は同じ問題に直面する。格差、不公平、声の届かない人々。そしていつの時代も、それを変えようとする者が現れる。
 小さく、静かに。しかし確かに。
 玉響たちが、運ぶように。

           ――了――




【作者注】
本作は慶安の変を題材としたフィクションです。由井正雪、丸橋忠弥、松平信綱などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の慶安の変(慶安四年、一六五一年)では、正雪は駿府で自刃し、忠弥は江戸で磔刑に処されました。この小説は、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。

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