素人が
素人なりに
あれこれと試してみる今日
少しづつ
短編から中編へと
移行出来ないかと
文字と格闘しながら 試行錯誤中
それでも
力不足ゆえ
なかなか長編へは届かず
来週
Kindleへと掲載予定のこれを
少しの間
ここへと載せてみます
わずかでも
ご意見頂けたら
有り難いと思っています
星の光が届く場所
〜選ばなかった道の先で〜ーまえがきー
人生には、二つの道がある。
自分が選んだ道と、選ばなかった道だ。
五十八歳になった今、振り返れば、選ばなかった道の先はいつも眩しく、美しく見える。あの時、別の仕事を選んでいたら。あの時、もっと家族と向き合っていたら。そんな「もしも」の数々が、今の自分を追い越していくような気がすることがある。
この物語は、そんな一人の男が、八日間の旅を通じて、自分の「現在地」を確かめる記録である。
特別な事件は起きない。ただ、歩き、見つめ、考える。
あなたが今、どの道を歩んでいても、あるいはどの道を諦めたとしても、この物語が、夜空を見上げるひとときのような静かな安らぎになれば幸いである。
ー序ー
特に
旅先などで
歴史的なものに出会うと
何かを
深く
考えさせられるもんで...
おい
お前
何かを考えてみろ?... と
おい
お前
も1度
残りの人生を...と
自分の中の
も~ひとりの自分が
突然
直球で 問い掛けてくる
そして
僕らは
一時的に そんな想いに浸り
わずかな後悔と
この先の不安とを
改めて 思い知らされる
大きな木も
建造物も
美術館の絵画もまた それで
僕らが
ここに来る前から
生まれ来る
ず~~~っと前から
そこで
いくつもの
様々な場面を
多くの先祖たちを
ず~~~っと見届けて来たはずで
僕らが今
ここに佇む
この
ほんのわずかなひと時なんて
単なる
ひとつの
たった1点の
歴史にも残らない
通過点にしか過ぎないわけで
僕らが過ぎ去った後も
また
明日には
誰かがここへと訪れ
また
同じことを 思い 悩み
また
過ぎ去って行く
時代もまた 同じことで
この平成という
厄介な時代さえも
もうすぐに消え去って
また
新たな時代がやってくる
昭和は 狂った時代だったと
一方的に 唱える方がおるけれども
僕らが生きた
この平成 って世も
ただ単に
この国から戦争を失くしただけのもの
しかしながら
人々の心を襲う戦いは
昭和以上に深刻で
いつの世も
皆
賛否両論な中を
敵や障害を避けながら
でも
時折
一瞬の油断から かすり傷を負う
おそらく
大して違わない時代を
何度も何度も
この人間たちは 繰り返すだけで
世代変われば
皆
過去の失態を忘れ
また
そこへと陥る愚かさ
僕らは
あと
何度の夏を迎えるのだろ~か?
あと
何度の桜を見れるのだろ~か?
あと
何度の戦いを見てしまうのだろ~か?... と
ぶ厚く 長い
そんな長編小説に のめり込んで
残りが
ほんのわずかなペ~ジ数だと
突然 気付いたとき
寂しくもなって
なんともいえない気持ちに浸る
地球時間も
なんだか
そんな時期に
迫っているかのよ~で...
一章 出発
ー始まりの空虚ー
十月の朝は、いつもより早く明けた気がした。
田中誠司は、カーテンの隙間から差し込む薄い光の中で目を覚ました。五十八歳。その数字が、今朝はやけに重く感じられた。
天井を見つめる。見慣れた白い天井。三十年近く見続けてきた天井だ。この家に越してきたのは、まだ息子が小学生のころだった。あのころ、天井はもっと白かった気がする。あるいは、見上げる目がもっと若かったのかもしれない。
六時十五分。目覚まし時計は鳴る前に止めてある。もうずいぶん前から、誠司は目覚ましよりも先に目が覚めるようになっていた。眠れていないのではない。ただ、夜明けとともに目が開く。それだけのことだ。体が年を知っているのだろう、と誠司は思う。
隣の布団は、もうずっと空のままだ。
妻の泉が出ていったのは、去年の春のことだった。大きな喧嘩があったわけではない。長い、静かな、疲弊だった。三十年間、ふたりはそれなりに一緒に生きてきた。しかしある夜、泉は静かにこう言った。「私、もう少し自分のための時間が欲しい」。それだけだった。誠司は何も言い返せなかった。言い返す言葉を持っていなかったのではなく、言い返すべき何かを、とうに失っていたことに、そのとき初めて気づいたのだ。
息子の慶介は、今は大阪にいる。IT系の会社に勤め、三年前に結婚した。孫はまだいない。慶介から電話がかかってくるのは、正月と父の日くらいのものだ。それでいいと思っている。いや、それでいい、と自分に言い聞かせている。
誠司は布団を払いのけ、起き上がった。
台所でお湯を沸かしながら、窓の外を見る。東京の住宅地の朝。銀杏並木の葉が、少しずつ黄色く染まり始めていた。隣の家の犬が、短く吠えた。どこかで自転車が走り去る音。それだけだ。
誠司はコーヒーを一杯だけ飲んだ。
テーブルの上には、昨夜から出しっぱなしになっている旅行鞄がある。中身はもう詰めてある。着替えが三日分。常備薬。文庫本を二冊。財布とスマートフォン。それだけだ。どこへ行くかは、まだ決めていない。新幹線に乗り、気の向いた駅で降りる。そういう旅だ。
五十八歳になって、誠司は初めて、行き先のない旅をしようと思った。
定年まで、あと二年。勤め先の広告代理店では、今は部長という肩書きがついているが、実際のところは閑職に近い。三十代のころ、誠司はそれなりに仕事に燃えていた。コピーライターとして、いくつかの賞も取った。しかし、あるときから、何かが少しずつ擦り切れていくような感覚があった。それがいつからだったか、もう正確には思い出せない。気づいたときには、もう遠くまで来ていた。
コーヒーカップを洗い、鞄を手に取った。
玄関を出る前に、一度だけ部屋を振り返った。誰もいない。何もない。ただ、十月の朝の光が、フローリングの床に静かに落ちていた。
*
東京駅は、朝の通勤ラッシュが少し落ち着いたころに着いた。
誠司は、みどりの窓口の前に立ち、しばらく電光掲示板を眺めた。新幹線の行き先が、次々と表示されては消えていく。仙台、名古屋、新大阪、博多、金沢。どれも行ったことのある場所だ。出張で、家族旅行で、同窓会で。それぞれの駅に、それぞれの記憶がある。しかし今日は、その記憶の重さが少し邪魔だった。
誠司は少し考えてから、京都行きの乗車券を買った。
特に理由はなかった。ただ、古いものが見たかった。自分よりずっと長く、この地上に立ち続けているものを。
新幹線の窓際の席に座り、誠司は外を見た。東京の街が、ゆっくりと後ろに流れていく。ビルが、住宅が、川が、工場が。どれも見慣れた風景だ。しかしこうして動く窓の外に見ると、何かが違って見える。まるで、自分が静止していて、世界の方が流れていくような感覚だ。
スマートフォンに、泉からメッセージが来ていた。「元気ですか」。それだけだった。誠司は少し迷ってから、「旅に出ます」とだけ返した。既読がついた。返信はなかった。
車内は空いていた。隣の席には誰もいない。誠司はコートを畳んで膝の上に置き、目を閉じた。
走馬灯、という言葉を思い出した。死ぬ間際に、人生の記憶が走馬灯のように流れると言う。誠司はまだ死にかけているわけではないが、五十八歳という年齢の中に、ときどき、そういう感覚が混じる。何かの拍子に、古い記憶が不意に甦る。それは必ずしも美しい記憶ではない。後悔や、恥ずかしさや、消えてしまいたかった瞬間もある。
人間は、なぜ過去を持つのだろう、と誠司は思う。
記憶があるから、後悔ができる。記憶があるから、失ったものを知っている。記憶がなければ、もっと楽に生きられるのではないか。しかしそれは、生きていることにならないのかもしれない。
新幹線は、静かに加速した。
*
京都駅に着いたのは、昼前だった。
駅を出ると、空が広かった。東京よりも空が広い、という気がいつもする。実際には同じ空なのだろうが、建物の高さや密度のせいか、ここでは空が体に近く感じられる。
誠司は地図を見ずに歩き始めた。北の方角へ。古い寺の多い方向へ。
観光客が多かった。外国からの旅行者の声が、あちこちから聞こえてくる。英語、中国語、韓国語。聞き慣れない言語も混じっている。彼らはそれぞれに、カメラを構え、地図を見て、何かを探している。誠司は少し羨ましくなった。初めて見るものの多さが、彼らの目に輝きを与えているのだ。
自分は何を探しているのだろう。
答えは出ない。ただ歩く。石畳の道を、古い家の間を、抜けていく。
小さな神社の前に来たとき、誠司は足を止めた。観光地図には載っていないような、地元の人たちのための小さな社だった。境内に、大きなケヤキの木が立っていた。幹の太さは、大人が三人で抱えてもまだ足りないくらいだ。
誠司は木の前に立ち、上を見上げた。
葉が、風に揺れていた。十月の光が、その葉の間を透けて落ちてきた。木の根元には、長い年月で磨り減った石の台座がある。苔が生えている。雨水で刻まれた細い溝がある。
この木は、いつからここに立っているのだろう。
百年か。二百年か。あるいはもっと長いか。
誠司が生まれる前から、ここにいる。誠司の父が生まれる前から。その父の父が生まれる前から。この木は、ずっとここに立ち、風を受け、雨を受け、雪を受け、季節が変わるたびに葉を茂らせ、落とし、また茂らせてきた。
その長い時間の中に、誠司がここに立っている今という瞬間は、どれほどの重さを持つのだろう。
木は答えない。ただ、葉が揺れる。
誠司は、しばらくそこに立っていた。何かを考えようとしていたが、言葉にならなかった。ただ、胸の中に何か静かなものが満ちてくるような感覚があった。それが何なのか、うまく説明できない。悲しみとも違う。寂しさとも違う。ただ、自分が小さいということ。この地上の時間の中で、自分という存在がどれほど一瞬のものかということ。そのことが、言葉ではなく、体の奥に直接届いてくるような感じがした。
木の向こうに、空が見えた。
青い空だった。雲が一片、ゆっくりと流れていた。
*
昼食は、路地裏の小さな定食屋で食べた。
カウンターだけの店で、誠司の他には老いた男が一人いた。ふたりとも無言で、それぞれの飯を食べた。テレビがついていたが、音量は低かった。誰かがニュースを読んでいた。政治の話。経済の話。誠司はほとんど聞いていなかった。
焼き魚定食を食べながら、誠司は窓の外を見た。狭い路地に、猫が一匹、日向ぼっこをしていた。その猫は、誠司が見ても動じなかった。ただ、薄目を開けたまま、日の当たる石の上に体を伸ばしていた。
あの猫には、過去の重さがないのだろうか。
馬鹿げた問いだと思いながら、誠司はそんなことを考えた。
定食屋を出て、また歩いた。今度は川沿いの道を選んだ。鴨川の支流だろうか、細い流れが石の間を縫うように走っていた。水はきれいだった。底の小石が見えた。誠司は立ち止まり、流れを見た。
水は常に動いている。しかし川は、そこにある。
ヘラクレイトスが言ったとか言わなかったとか、そんな話を誠司は学生時代に習った気がした。同じ川に二度は入れない。川を流れる水は常に新しい。しかし川はある。それは何なのか。
誠司はあまり哲学には詳しくない。広告の仕事を三十年やってきた男だ。言葉を扱う仕事だったが、それは哲学の言葉ではなかった。商品の言葉だった。人の心を動かすための言葉だった。それはそれで意味のある仕事だと思っていたし、今も否定はしない。しかし、ときどき思う。あの三十年間に、自分は何か本質的なものを見ていただろうか、と。
川の水が光を受けて、細かく揺れていた。
誠司は、コートのポケットに手を入れた。手帳があった。広告会社の手帳だ。来週の会議のスケジュールが書いてある。取引先の名前が書いてある。数字が書いてある。誠司はそれを見て、また閉じた。
今日は、この旅の間だけは、あの手帳の世界から離れていたかった。
*
夕方になった。
誠司は宿を探した。観光ホテルではなく、小さな旅館がよかった。路地の奥にある、看板も小さな、地味な宿を見つけた。部屋は六畳の和室だった。窓から小さな庭が見えた。
風呂に入り、浴衣に着替えた。
縁側に出て、庭を見た。植木が二本。石燈籠が一つ。苔が生えている。もみじが一本、まだ完全には赤くなっていないが、端から色が入り始めていた。
風が吹いた。もみじの葉が、小さく揺れた。
誠司はそこに座り、しばらく何も考えなかった。
正確には、考えようとしなかった。ただ、目の前の庭を見ていた。植木が揺れる。石燈籠が静かに立っている。空が少しずつ暗くなっていく。どこかで鳥が鳴いた。遠くで子供の声がした。そして、また静かになった。
誠司は、自分の中で何かが、ゆっくりと緩んでいくような感覚を持った。
何が緩んでいるのかは、よくわからない。ずっと張り続けていた何かが、少しだけ息をついているような感じだ。それは解放ではない。もっと小さな、静かな変化だ。
夕食が運ばれてきた。小さな膳に、いくつかの小鉢が並んでいた。湯豆腐と、焼き茄子と、煮物と、小さな魚の干物。それだけで充分だと思った。誠司はゆっくりと食べた。
食べながら、誠司はあの大きなケヤキの木のことを考えた。
あの木は、今夜もあそこに立っている。誠司がここにいることなど、知らない。誠司がどんな人間であるかも、関係ない。誠司がかつて何をして、何を失ったかも。ただ、立っている。それだけだ。
それが、誠司には少しだけ、羨ましかった。
食後、誠司は文庫本を取り出した。持ってきたのは、川端康成の「山の音」だった。以前に一度読んだことがあるが、あのころとは違う読み方ができる気がして、また持ってきた。
しかし、数ページ読んだところで、本を伏せた。
眠くなったわけではない。ただ、今夜は文字よりも、この部屋の静けさの中にいたかった。
電気を消した。
闇の中で、もみじの気配がした。
誠司は布団の中で目を開けたまま、天井を見た。見慣れない天井だ。東京の自分の部屋の天井とは違う。木の目が見える。古い木の、温かな色の天井。誰かがここで同じように天井を見た夜が、何百回あっただろう。どんな人が、どんな気持ちで、ここに寝ていたのだろう。
自分は今、その長い連なりの、一点に過ぎない。
その思いは、今朝よりも、少し穏やかな重さで、誠司の胸に落ちた。
目を閉じると、ケヤキの木が見えた。風に揺れる葉が見えた。その葉の間から、青い空が見えた。
誠司はゆっくりと、眠りに落ちた。
旅はまだ、始まったばかりだった。
二章 石の記憶
ー時間の重さー
翌朝、誠司は早く目が覚めた。
まだ暗いうちだった。旅館の窓から空を見ると、東の端が、わずかに白み始めていた。誠司は浴衣のまま縁側に出て、昨夜と同じ庭を眺めた。もみじは暗がりの中で輪郭だけが見え、石燈籠は夜露を受けて濡れていた。
静かだった。
東京では、この時間にも街の音がある。遠くを走る車の音、換気扇の音、どこかの犬の声。しかしここでは、本当に何も聞こえなかった。ただ、風が植木の葉をかすかに揺らす音だけがあった。
誠司はそこに座り、夜明けを待った。
空がゆっくりと明るくなっていく。最初は灰色だったものが、やがて薄い水色になり、そこに橙色が混じり始める。雲が一筋、横に長く伸びていた。その雲が、下から光を受けて、じわじわと金色に染まっていく。誠司はそれを見ながら、何も考えなかった。考えないというより、考える必要がなかった。ただ、空が変わっていくのを見ていればよかった。
夜明けは、毎日起きている。誠司が見ていようといまいと、空は同じように明けていく。しかし人は、なかなかそれを見ない。急ぎすぎているか、眠り続けているかだ。誠司もそうだった。この三十年間、夜明けをこんなふうに眺めたことが、果たして何度あっただろうか。
朝食を済ませ、誠司は寺へ向かった。
*
その寺は、嵐山の奥の方にあった。
観光客が多く集まる有名な竹林からは少し離れた場所に、ひっそりと山門を構えていた。石畳の参道が、緩やかな上り坂になっていて、両側に古い杉の木が並んでいた。杉の根元には、苔が厚く積もっていた。踏みしめるたびに、足の裏から、その重さが伝わってくるような気がした。
平日の朝だったせいか、参拝者はほとんどいなかった。
山門をくぐり、境内に入ると、正面に本堂があった。古い建物だった。柱は黒く、屋根の反りは緩やかで、どこか疲れたような静けさがあった。しかしその疲れは、衰えではなく、長い年月を生き抜いた者の落ち着きのように見えた。
誠司は本堂の前に立ち、しばらくそこを見上げた。
この建物は、いつ建てられたのだろう。
案内板を読むと、創建は平安時代まで遡るとあった。もちろん、その後に何度も修復されてはいるが、この場所に寺が立ち続けてきた歴史は、千年以上に及ぶという。
千年。
誠司はその数字を、頭の中で転がしてみた。千年前、この場所に人がいた。灯明をともし、手を合わせ、何かを祈った。その人は、何を祈ったのだろう。病の回復か。戦の平安か。愛する者の幸せか。誠司には想像するしかないが、それが自分の祈りと、根本では違わないような気がした。人間が祈ることの内容は、千年でそれほど変わらないのではないか。
本堂の脇に、古い石畳の回廊があった。誠司はそこを歩きながら、庭を見た。
枯山水の庭だった。白い砂が、緩やかな波紋を描くように均されている。その中に、いくつかの石が置かれていた。大きさも形もバラバラな石が、しかし不思議な調和の中に並んでいた。
石は動かない。
当たり前のことだ。しかし誠司は、その当たり前のことに、妙に心を打たれた。あの石は、千年前もあそこにあったのだろうか。少なくとも、誠司が生まれる前から、ずっとあそこにいる。雨の日も、雪の日も、真夏の炎天下も。人が来ても来なくても。戦があっても。疫病が流行っても。時代が変わっても。石はそこにいる。
それが、誠司には少し眩しかった。
*
回廊の端に、縁台が一つ置いてあった。
誠司はそこに腰を下ろした。誰もいない庭を前に、ただ座っていた。
しばらくして、足音が聞こえた。振り返ると、老いた僧侶が一人、回廊を歩いてくるところだった。白い作務衣を着た、腰の少し曲がった老人だった。年齢は、七十を超えているだろう。しかし歩き方には迷いがなく、足音は静かで確かだった。
老僧は誠司の前を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。
「遠くからおいでですか」
穏やかな声だった。
「東京から」と誠司は答えた。
「そうですか」老僧は庭を見た。「いい朝でしたね、今日は」
「ええ」
老僧はそれ以上何も言わず、また歩き始めた。しかし二、三歩行ったところで、振り返った。
「あの石は」老僧は庭の石を指した。「江戸の初めから、あそこにあります」
「そうですか」
「人が来て、去って。また来て、去って。石は動かない」老僧は静かに言った。「それが石の仕事なんでしょうな」
そして今度こそ、老僧は去った。
誠司はしばらく、その言葉を反芻した。
石の仕事。
石には仕事がある。動かないことが、石の仕事だ。では人の仕事は何か。動くことか。変わることか。あるいは、変わらないものを守ることか。
誠司には答えが出なかった。ただ、あの老僧の言葉が、静かな波紋のように胸の中に広がっていった。
*
本堂の中に入ることができた。
薄暗い堂内に、本尊の仏像が安置されていた。金色の光が、蝋燭の炎に揺れていた。線香の煙が、細く上に伸びていた。誠司は賽銭を入れ、手を合わせた。
何を祈ったか、あとから思い出せなかった。
祈ったというより、ただ目を閉じていた。闇の中で、自分の呼吸だけが聞こえた。息を吸う。息を吐く。それが繰り返される。その単純なことが、今は妙にありがたく感じられた。
誠司は、自分がまだここにいるということを、改めて思った。
五十八年間、ここにいた。ここというのは、この寺ではなく、この地上に、という意味だ。五十八年間、息を吸い、息を吐いてきた。それがどれほどのことか、普段は考えない。しかし今、薄暗い堂内で目を閉じていると、その重さがじわじわと伝わってきた。
父が死んだのは、誠司が四十二のときだった。七十四歳だった。末期癌で、最後の三ヶ月は病院で過ごした。誠司は仕事の合間を縫って見舞いに行ったが、それで充分だったとは今も思えない。父は最後まで、息子に弱みを見せることを嫌がった。痛みをこらえ、「お前は仕事をしろ」と言い続けた。その父の顔が、今、暗い堂内に浮かんだ。
父も、若い頃は旅をしたのだろうか。
誠司は知らない。父の若い頃を、ほとんど知らない。父は多くを語らない人だった。戦後の混乱期を生き、働き、家族を養い、そして死んだ。その内側に何があったかを、誠司は一度もきちんと聞かなかった。
もう聞けない。
目を開けると、仏像の金色の光が揺れていた。
*
境内を出て、誠司は山の方へ続く道を歩いた。
人気のない道だった。舗装されていない、土の道だ。両側に竹が生えていた。竹の間から、山の斜面が見えた。秋の光の中で、葉が黄色や橙に染まり始めていた。
歩きながら、誠司は平成という時代のことを考えた。
自分が社会に出たのは昭和の終わりごろだった。バブルの匂いがまだかすかに残っていたあの時代。それがはじけて、長い停滞が来た。阪神の震災があり、地下鉄の事件があり、リーマンがあり、東北の震災があった。そのたびに日本は揺れ、しかしまた元に戻ろうとした。戻れたのか、戻れなかったのかは、今もよくわからない。
詩の一節が、頭に浮かんだ。自分が書いたものではない。旅に出る前の夜、誰かのブログで読んだ言葉だ。「人々の心を襲う戦いは、昭和以上に深刻で」。そうかもしれない、と誠司は思う。銃も爆弾もない戦いが、あの時代にはあった。今もある。見えない傷を負って、しかし傷ついたとも言えず、ただ続けていく人々の姿を、誠司はいくつも見てきた。
自分自身も、その一人だったかもしれない。
竹の葉が、さわさわと鳴った。
道が緩やかに上り、やがて小さな峠のような場所に出た。そこから、京都の街が見渡せた。屋根が連なり、遠くに山が見えた。川が光っていた。空は青く、雲は白く、風は冷たかった。
誠司はそこに立ち、しばらく街を見た。
この街も、長い時間を生きてきた。戦で焼かれ、疫病に苦しめられ、それでも人が来て、暮らし、また去っていった。誰かが生まれ、誰かが死に、子供が育ち、老人になった。それが繰り返されて、今この街がある。
そして今日、誠司がここに立っている。
明日には、また別の誰かがここに立つだろう。同じ景色を見て、同じような何かを感じるかもしれない。あるいは全く違うことを思うかもしれない。それでもこの場所は、変わらずここにある。
誠司は深く息を吸った。
冷たい空気が、肺に入ってきた。山の匂いがした。土の匂い、木の匂い、枯れ葉の匂いが混じっていた。誠司はそれを、ゆっくりと吐いた。
もう一度、吸った。
これだけでいい、と思った。今この瞬間、ここで息をしているということ。それだけで、何かが充分だという気がした。それが何に対して充分なのかは、うまく言えない。しかし、そういう感覚があった。
*
昼を過ぎたころ、誠司は寺を後にした。
山門を出るとき、石畳の参道を振り返った。杉の木が、静かに立っていた。その根元の苔が、朝よりも深い色に見えた。日が傾いて、光の角度が変わったせいだろう。
誠司は一礼して、参道を下った。
街の方に戻る途中、小さな川に橋がかかっていた。欄干に手をついて、流れを見た。水は澄んでいた。川底の石が、水を通して歪んで見えた。
石、とまた思った。
動かないことが仕事、と老僧は言った。
では、動き続けることしかできない人間は、何を仕事とするのだろう。
答えは出ない。しかし、問いがあることは悪くない。答えのない問いを持ち歩くことが、旅の意味かもしれないと、誠司は思った。
橋を渡り、街の方へ歩き続けた。
空がまた、少し傾いていた。
西の空に、橙色が混じり始めていた。今日も、夕暮れが来ようとしていた。
誠司は歩きながら、父のことを、また考えた。泉のことを考えた。慶介のことを考えた。そして、自分のことを考えた。五十八年間、この地上にいた自分という人間が、何を残し、何を失い、今どこへ向かっているのかを。
答えは、まだなかった。
しかし、今日一日、古い石と、古い木と、古い建物と、静かな老僧と共に過ごした後で、誠司の中に何かが少し変わっていた。何が変わったのかは、言葉にできない。ただ、昨日よりも少し、自分が地上にいることの意味を、落ち着いて考えられるような気がした。
旅はまだ続く。
誠司は宿への道を、ゆっくりと歩いた。
三章 錆びた線路
ー忘れられたものー
京都を発ったのは、三日目の朝だった。
次の目的地は、決めていなかった。ただ、海の方ではなく、山の方へ行きたいという気持ちがあった。人が少なく、古く、静かな場所へ。
誠司は在来線の窓口で、一日乗車券を買った。どこへでも行けて、どこでも降りられる。そういう自由さが、今の自分には合っていた。
山陰の方向へ向かう列車に乗り、窓の外を眺めながら揺られた。京都の街が後ろに遠ざかり、やがて田畑が広がり、山が近くなった。川が見えた。集落が見えた。柿の木が、橙色の実をつけたまま葉を落としかけていた。
誠司は何となく、目についた小さな駅で降りた。
駅名は「梅田口」といった。ホームに降り立ったとき、他に降りる客はいなかった。列車はすぐに扉を閉め、また走り去った。ホームに、誠司一人が残された。
静かだった。
虫の声が聞こえた。十月というのに、まだ虫が鳴いていた。山が近いせいだろう。風が吹くたびに、枯れ葉の匂いがした。
駅舎は小さく、古かった。木造の平屋で、白いペンキがところどころ剥がれていた。待合室に、木のベンチが二つ。時刻表が壁に貼ってあった。次の列車まで、一時間以上ある。
誠司は改札を出て、駅前の道を歩き始めた。
*
町は、静かすぎるほど静かだった。
商店街らしき通りがあったが、開いている店は少なかった。シャッターが下りたままの店が続いた。理髪店だったらしい場所、小さな食堂だったらしい場所、荒物屋だったらしい場所。看板だけが残り、中はもぬけの殻だった。
それでも、通りを歩いていると、ときおり生活の気配があった。花屋が一軒、細々と開いていた。老いた女性が一人で店番をしていた。誠司が目礼すると、女性は黙って頷いた。豆腐屋が開いていて、湯気が出ていた。自転車に乗った中学生が、誠司の横を通り過ぎた。
町は死んでいるわけではない。ただ、縮んでいる。
誠司はそう思いながら歩いた。かつてここには、もっと多くの人がいただろう。子供の声が聞こえ、荷物を積んだ車が行き交い、店に人が出入りし、夜は灯りが連なっていたはずだ。それがゆっくりと失われ、今のこの静けさになった。その過程に、どれだけの人の一生があったか。
商店街を抜けると、川があった。
橋を渡り、川沿いの道を歩いていると、線路が見えた。
草に埋もれた線路だった。
*
廃線になって、もう随分経つのだろう。
線路は錆び、枕木は朽ちかけていた。草が線路の間から伸び、一部は線路を完全に覆っていた。かつての踏切だったらしい場所には、遮断機の柱だけが残り、腕木はとうに失われていた。柱は傾き、蔓草に絡まれていた。
誠司は草をかき分けて、線路に近づいた。
しゃがみこんで、錆びた鉄のレールに触れた。冷たかった。ざらざらしていた。指先に、赤錆が付いた。
この線路の上を、かつて列車が走っていた。
当たり前のことだが、その当たり前が、今は不思議なことのように感じられた。ここに列車が来て、人が乗り降りした。学校帰りの子供が乗った。買い物に行く主婦が乗った。出稼ぎに行く若者が乗った。年老いた親に会いに帰る誰かが乗った。その人たちは今、どこにいるのだろう。もうほとんどは、死んでいるかもしれない。
列車の音も、改札のスタンプの音も、ホームで交わされた言葉も、全部消えた。
残ったのは、錆びた線路と、傾いた柱と、草だけだ。
誠司は立ち上がり、線路の跡に沿って歩いた。どこへ続いているのかは知らない。ただ歩いた。草をかき分け、枕木をまたいで、どこへとも知れない方向へ。
*
しばらく歩くと、小さな駅の跡が現れた。
ホームだけが残っていた。コンクリートのホームは、草に侵食されながらも形を保っていた。屋根はなく、柱の根元だけが残っていた。かつて駅名標があったであろう場所には、錆びた鉄骨だけがあった。
誠司はホームに上がった。
そこから、周囲の風景が見渡せた。田畑と、山と、集落の屋根と。秋の空が広かった。雲が高く、薄く伸びていた。
誠司はホームのコンクリートに腰を下ろした。
ここで、誰かが列車を待っていた。雨の日には、軒下で傘を畳んで。暑い夏には、日陰を探して。冬には、吐く息が白く見えて。その人たちの顔は、もちろん知らない。しかし、誠司には何となくその気配が感じられるような気がした。人が長く使った場所には、何かが残る。形ではなく、匂いでもなく、もっと目に見えない何かが。
誠司は子供のころを思い出した。
父に連れられて、汽車に乗った記憶がある。まだ蒸気機関車が走っていたころのことだ。誠司が五歳か六歳のころだったと思う。父の大きな手に引かれて、煙の匂いのするホームに立った。蒸気機関車が来たとき、誠司は怖くて父の脚にしがみついた。父は笑って、誠司を抱き上げた。「怖くない、怖くない」と言いながら、誠司の頭を撫でた。
その父の手の感触を、今も覚えている。
大きくて、少し荒れた手だった。工場で働いていた父の手は、いつもどこかに傷があった。誠司はその手が好きだった。子供のころは、父の手を握っていれば、何も怖くなかった。
父が死んで、十六年が経った。
誠司は空を見上げた。
雲が、ゆっくりと流れていた。
*
ホームを降りて、また歩いた。
線路跡を離れ、山の方へ続く細い道を登った。舗装されていない、砂利の道だ。両側に木が生えていた。クヌギとコナラが多かった。どんぐりが地面に落ちていた。誠司は一つ拾い、手のひらで転がした。丸く、小さく、重かった。
道の途中に、古い石碑があった。
苔に覆われて、文字がほとんど読めなかった。辛うじて、何かの名前と、数字が見えた。明治、という文字だけがかろうじて読み取れた。誰かが、明治のころにここに碑を建てた。何のための碑かは、もうわからない。建てた人も、建てられた理由も、受け取るべき誰かも、全部消えた。碑だけが残っている。
忘れられたものは、静かだ。
誠司はそう思った。怒りもなく、悲しみもなく、ただそこにある。忘れられたことも、知らないかのように。あるいは、忘れられることを最初から知っていたかのように。
人間は、忘れられることを怖れる。誠司もそうだ。自分が死んだあと、自分のことを覚えている人間がいなくなることを、どこかで怖れている。しかし、この石碑を見ていると、忘れられることがそれほど悲しいことなのかどうか、わからなくなる。忘れられた石碑は、それでもここに立っている。雨を受け、風を受け、苔を纏って。それはそれで、一つの在り方ではないか。
*
山を下りて、また町に戻った。
昼を過ぎていた。開いている食堂を一軒見つけ、入った。
カウンターだけの店だった。老いた夫婦が切り盛りしていた。定食は一種類だけ。その日の定食は、鯖の塩焼きだった。誠司はそれを頼んだ。
待つ間、店内を見回した。壁にカレンダーが貼ってあった。地元の農協のカレンダーだ。その横に、古い写真が額に入って飾られていた。白黒の写真で、にぎやかな商店街が写っていた。人が大勢いた。子供も、老人も、着飾った女性も。写真の端に、「昭和三十八年、秋の祭り」と書いてあった。
誠司はその写真を、しばらく見ていた。
昭和三十八年。誠司が生まれる前の年だ。写真の中の人たちは、みな生き生きとしていた。笑っている人がいた。荷物を持って歩いている人がいた。誰かと話している人がいた。その全員が、今はいない。少なくとも、ほとんどは死んでいるだろう。しかし写真の中では、みな今この瞬間のように生きている。
写真というのは、不思議なものだと思った。
過去を現在に引き留める装置だ。あるいは、現在を未来に届ける瓶に入れた手紙だ。あの写真を撮った人は、六十年後に誠司がこれを見るとは思っていなかっただろう。しかし写真は届いた。時間を超えて。
定食が出てきた。
鯖は旨かった。塩加減がよく、身がふっくらしていた。味噌汁は、豆腐と若布だった。漬物は、糠漬けだった。誠司は丁寧に食べた。一口一口、ゆっくりと。
食べながら、老いた女将と少し話した。
「お一人で旅ですか」と女将は聞いた。
「ええ」
「どちらから」
「東京から」
「遠いとこから」女将は少し目を細めた。「この辺、何もないでしょう」
「いいえ」誠司は言った。「いろいろあります」
女将は少し考えてから、「そうですかねえ」と言った。自分の町に何があるか、長く住みすぎて見えなくなっているのかもしれない。あるいは、あったものが少しずつ失われていく寂しさを、そう言うことで覆い隠しているのかもしれない。
誠司には、どちらとも言えなかった。
「廃線の跡を歩いてきました」と誠司は言った。
女将の顔が、少し変わった。「ああ、あの線路ね」しみじみとした声だった。「昔はね、みんなあれに乗って学校へ行ったんですよ。私も、主人も。懐かしいわ」
「いつ廃線になったんですか」
「もう三十年近くになりますかね。過疎化が進んで、乗る人がいなくなってね」女将は少し遠くを見た。「最後の日、みんなで見送りに行ったんですよ。泣いてる人もいてね」
誠司は黙って聞いた。
「でも」女将は続けた。「なくなっても、みんな覚えてるんですよね。線路の音とか、汽笛の音とか。体が覚えてるんですかね」
体が覚えている。
誠司は、その言葉を心の中で繰り返した。
*
駅に戻る道、誠司は再び廃線跡の傍を通った。
夕方になり、光の角度が変わっていた。西日が錆びた線路を照らし、金色に光らせていた。草の影が長く伸びていた。
誠司はしばらく、その光景を眺めた。
錆びた線路が、金色に輝いていた。忘れられた線路が、夕日の中で美しかった。それは矛盾のように思えたが、そうではないかもしれない。忘れられたものが美しいのではなく、すべてのものは、光の当たり方次第で輝く。それだけのことかもしれない。
あるいは、忘れられることと、美しいことは、両立するのかもしれない。
人は誰も、いつかは忘れられる。どれほど偉大な人物も、百年後には名前だけになり、二百年後には歴史の一行になり、やがては消える。それでも、その人が生きた事実は消えない。生きたということ自体が、何かを変え、次の何かへと繋がる。その繋がりは、名前が消えたあとも続いていく。
誠司自身も、そういう繋がりの中にいる。
父から受け取ったものを持ち、息子へ何かを渡した。それが何であるかは、自分ではよくわからない。しかし、何かは渡った。必ず渡った。それでいいのかもしれない。
列車が来る時間になった。
誠司は駅に戻り、ホームで待った。誰もいないホームで、一人で立っていた。風が吹き、誠司のコートの裾を揺らした。
やがて、遠くから列車の音が聞こえてきた。
誠司は、その音を静かに聞いた。
廃線の向こうから聞こえてくるような気がした。錆びた線路の上を、かつての列車が走ってくるような気がした。もちろん、そんなことはない。音は現役の線路から来ている。しかし今日一日、あの廃線跡を歩いた誠司には、生きている線路と死んだ線路が、どこかで繋がっているような気がしてならなかった。
列車が入ってきた。
誠司は乗り込んだ。席に座り、窓の外を見た。
夕日の中で、小さな町が遠ざかっていった。
シャッターの降りた商店街が見えた。川が光った。山が暗くなり始めた。そして、草に埋もれた廃線の跡が、一瞬だけ見えた。
誠司は、その一瞬を、目に焼き付けた。
忘れまい、と思った。
忘れられた線路のことを、自分だけは忘れまいと思った。
列車は走り続けた。
夜が、山の向こうから静かに下りてきた。
四章 波の数だけ
ー孤独と静けさー
海が見たくなったのは、特に理由のないことだった。
山陰の在来線を乗り継ぎ、日本海側へ出た。車窓から海が見えた瞬間、誠司は思わず身を乗り出した。十月の日本海は、鉛色だった。波が高く、白い泡が砂浜に打ち寄せていた。空と海の境界が曖昧で、どこまでが空でどこからが海なのか、遠くでは判然としなかった。
誠司はその景色を見ながら、これだ、と思った。
何がこれだ、なのかは説明できない。ただ、自分が今必要としているものがここにある、という感覚があった。
海沿いの小さな町で降りた。観光地ではない。漁港のある、素朴な町だった。旅館を一軒見つけ、飛び込みで部屋を頼んだ。年配の女将が出てきて、少し驚いた顔をしたが、「どうぞ」と通してくれた。
部屋は二階だった。窓を開けると、海が見えた。
誠司は窓枠に手をついて、しばらく海を見た。波が来て、砕けて、引いていく。また波が来て、砕けて、引いていく。その繰り返しが、果てしなく続いていた。
誠司はそれを見ながら、何かが少しずつほぐれていくような感覚を持った。
*
夕方、浜辺を歩いた。
人は誰もいなかった。十月の日本海の浜辺に、観光客は来ない。地元の人も、この時間にここへは来ないらしかった。誠司一人が、波打ち際を歩いた。
砂は濡れていた。足が少し沈んだ。波が来るたびに、足元まで水が届いた。靴が濡れるのも構わず、誠司は歩き続けた。
波の音が大きかった。
打ち寄せる波の音は、他の全ての音を消した。風の音も、自分の呼吸の音も、頭の中で鳴り続けていた様々な声も。波の音だけが、体の周りを満たした。
誠司はふと立ち止まり、目を閉じた。
波の音だけがあった。
規則的なようで、不規則だった。同じ波は二つとない。それでも、打ち寄せるという事実だけは変わらない。波は繰り返す。しかし、繰り返される波のひとつひとつは、世界に一度しかない。
人の一生も、そういうものかもしれない、と誠司は思った。
似たような人生が繰り返される。生まれ、育ち、働き、老い、死ぬ。その繰り返しの中で、しかしひとつひとつの命は、世界に一度しかない。誠司という人間が生きたこの五十八年間は、宇宙の歴史の中では砂粒ほどの時間だ。しかし、誠司にとっては全てだ。誰かの五十八年間と取り替えることのできない、誠司だけの時間だ。
目を開けると、波が来ていた。
誠司は一歩後ろに引いた。波は靴の先まで来て、引いていった。
*
浜辺の端に、防波堤があった。
誠司はそこまで歩き、コンクリートの上に腰を下ろした。海を正面に見る形で座った。風が強く、コートの前をはためかせた。誠司はボタンを閉め、首をすくめた。
空が、夕暮れの色に染まり始めていた。
雲の切れ間から、細い光の筋が海に落ちていた。その光が当たった部分だけ、海面が金色に輝いた。周りは依然として鉛色だったが、その一点だけが光っていた。
誠司はその光を見ながら、泉のことを考えた。
泉と最後に海に来たのは、いつのことだったろうか。記憶を辿ると、息子の慶介がまだ小学生のころだった。夏休みに、千葉の海水浴場へ行った。慶介は水を怖がって、なかなか入ろうとしなかった。泉が手を引いて、少しずつ連れて行った。慶介が初めて波に乗れたとき、泉は大きな声で笑った。その笑い声を、誠司は今でも覚えている。
あのころの泉は、よく笑っていた。
いつから笑わなくなったのか、誠司には正確にはわからない。少しずつ、だったと思う。仕事が忙しくなり、誠司が家を空けることが増えた。泉は子育てと家事を一人でこなした。文句は言わなかった。ただ、笑う回数が少しずつ減っていった。誠司はそれに気づいていたが、どうすればいいかわからなかった。いや、わかろうとしなかったのかもしれない。
去年、泉が出ていく前の夜、ふたりで食卓についていた。誠司はテレビを見ていた。泉は黙って食器を洗っていた。その背中を見ながら、誠司は何か言わなければならないと思っていた。しかし言葉が出てこなかった。三十年間、言葉を扱う仕事をしてきた男が、最も大切な瞬間に、言葉を持っていなかった。
波が打ち寄せた。
砕けて、引いていった。
誠司は海を見続けた。
*
暗くなる前に宿に戻った。
風呂に入り、体を温めた。湯船に浸かりながら、天井を見た。木の天井だった。節があった。その節の模様が、何かの顔に見えた。誠司は少し笑った。子供のころ、天井の節を怖がったことを思い出した。夜中に目が覚めると、天井の節が顔に見えて、布団を頭まで被った。
あのころは、夜が怖かった。
今は、夜が怖くない。代わりに、別の何かが怖い。先のことが怖い。残りの時間が怖い。自分が何者であるかが、わからなくなることが怖い。
子供のころの恐怖は単純だった。暗いことが怖い。知らないものが怖い。しかし大人になると、恐怖は複雑になる。見えないものではなく、見えすぎるものが怖くなる。
夕食は部屋に運ばれてきた。
刺身が出た。地の魚だった。鯛と、烏賊と、鰤だった。どれも新鮮で、歯ごたえがあった。蟹の味噌汁が出た。香りが強く、体が温まった。誠司は丁寧に食べた。
食べながら、窓の外を見た。もう暗くなっていた。海は見えないが、波の音は聞こえた。部屋の中まで、低い波の音が届いてきた。
その音を聞きながら、誠司は一人でいることの意味を考えた。
孤独、という言葉がある。誠司は今、客観的には孤独だ。妻はおらず、子供は遠くにおり、友人もここにはいない。しかし、孤独を感じているかというと、そうでもない。むしろ、この一人でいることの静けさの中に、何か満ちてくるものがある。
一人でいることと、孤独であることは、違う。
誠司はそう思った。一人でいることは、状態だ。孤独は、感覚だ。状態が感覚を決めるわけではない。人の中にいても孤独なことがある。一人でいても、孤独でないことがある。
今の誠司は、一人でいる。しかし波の音が聞こえ、夕食の温かさが体にあり、この宿の、この部屋の、この夜の静けさが周りを包んでいる。それだけで、何かが充分だという気がする。
*
夜が更けた。
誠司は床に就いたが、眠れなかった。眠れないというほどではないが、目が覚めていた。波の音が続いていた。
誠司は布団の中で、自分のこれまでの人生を、静かに振り返った。
大学を出て、広告会社に入った。最初の数年は辛かった。仕事がわからず、先輩に叱られ、泣きそうになった夜もあった。しかしあるとき、コピーを書くことの面白さに気づいた。言葉で人の心を動かすことができる。その発見が、誠司を仕事に向かわせた。
泉と出会ったのは、二十八のときだった。同じ会社の、違う部署にいた。最初に話したのは、社員食堂でのことだった。誠司が持ったトレーが不安定で、味噌汁をこぼしそうになったとき、泉が「危ない」と言って手を添えてくれた。それが最初だった。
その泉が、今はいない。
いない、という言い方は正確ではない。泉は生きている。どこかで、誠司とは別の時間を生きている。しかしここにはいない。誠司の日常の中にいない。三十年間、そこにあった何かが、もうない。
それが寂しいかというと、寂しい。
正直に言えば、寂しい。しかしその寂しさは、以前に感じていた寂しさとは少し質が違う。以前の寂しさは、焦りや怒りや後悔が混じっていた。しかし今感じている寂しさは、もっと静かだ。波の音のように、繰り返し来ては引いていく。
波の音が、また聞こえた。
誠司はその音に、耳を澄ました。
波は何も解決しない。何も変えない。ただ、打ち寄せて、引いていく。それだけだ。しかしその繰り返しの中に、何か途方もない忍耐がある。海は何千万年も、この繰り返しを続けてきた。人間の歴史など、その中のほんの一瞬に過ぎない。
誠司はその忍耐を、少し分けてもらえるような気がした。
*
翌朝、夜明け前に目が覚めた。
誠司は着替えて、浜辺に出た。まだ暗かった。波の音だけがあった。空の端が、かすかに白み始めていた。
誠司は砂の上に立ち、海を向いた。
何も見えなかった。暗い海と、暗い空があるだけだった。しかし波の音は聞こえた。足元まで波が来て、砂を濡らして、引いていった。
誠司は、声に出さずに、泉に話しかけた。
ごめん、と思った。何に対してのごめんかは、うまく言えない。全部に対して、だと思う。気づくのが遅すぎたことに対して。言葉を持っていなかったことに対して。三十年間、大切なものを大切にできなかったことに対して。
謝って、どうなるわけでもない。泉には聞こえない。しかし誠司は、この暗い海の前で、言わなければならなかった。誰かに向けてではなく、ただ自分自身に向けて。
空が少しずつ明るくなっていった。
暗かった海が、少しずつ形を現した。波の白さが見えてきた。水平線が、ぼんやりと見え始めた。そして、水平線の向こうから、薄い橙色が滲み出してきた。
夜明けだった。
誠司は、その夜明けを見た。
昨日の京都でも夜明けを見た。しかし今日の夜明けは、また違った。海から来る夜明けは、大きかった。遮るものが何もない水平線から、光がゆっくりと、しかし確実に広がってきた。
誠司の目に、薄く涙が滲んだ。
泣いているわけではなかった。ただ、目が潤んだ。風が強かったせいかもしれない。あるいは、光があまりに静かで、あまりに大きかったせいかもしれない。
波が来た。
今度は少し大きな波で、誠司の足先を完全に覆った。冷たかった。十月の日本海の水は、もう冬の冷たさだった。しかし誠司は動かなかった。その冷たさの中に、確かに自分がいるという感覚があった。
生きている、と思った。
ただそれだけのことが、今この瞬間、途方もなく大きなことのように感じられた。
波が引いた。
空が、どんどん明るくなっていった。
誠司はしばらくそこに立ち続けた。足が冷たかった。風が強かった。しかし動く気になれなかった。この場所に、もう少しいたかった。この夜明けの、この波の音の中に。
やがて、宿の方から朝食の匂いが漂ってきた。
誠司は海に向かって、小さく頭を下げた。
それから踵を返し、宿へと戻った。
砂に残った足跡が、波にゆっくりと消されていった。
五章 春の名前
ー若い頃の恋、失ったものー
海辺の宿を出て、誠司は少し内陸の方へ向かった。
特に目的地はなかった。ただ、昨夜の海があまりに大きかったせいか、今日はもう少し小さなものの中にいたかった。山の間の、静かな集落のような場所に。
バスに乗り、終点まで行った。終点は、山あいの小さな温泉地だった。観光客が少し来ているらしく、旅館が数軒並んでいた。誠司は日帰り入浴ができる宿を一軒見つけ、昼前に湯に浸かった。
誰もいない湯船だった。
窓から、小さな川が見えた。川の向こうに、紅葉した山が見えた。赤と橙と黄色が混じり、空の青に映えていた。湯の温度はちょうどよく、誠司はゆっくりと体を沈めた。
目を閉じると、名前が浮かんだ。
朝倉明美。
三十五年ぶりに、その名前を声に出さずに思った。
*
誠司が二十三歳のとき、明美は二十一歳だった。
大学の先輩後輩という関係ではなく、同じアルバイト先で知り合った。当時の誠司は、広告代理店への就職が内定していた年で、卒業までの時間を惜しむように遊んでいた。明美は文学部の学生で、詩を書いていた。
最初に話したのは、バイトの休憩室だった。明美が文庫本を読んでいた。誠司が表紙を見ると、中原中也の詩集だった。「好きなんですか」と誠司は聞いた。明美は本から顔を上げて、「好きというより、必要なんです」と言った。
その答えが、誠司には強く刺さった。
好きなのではなく、必要。その言葉の重さが、誠司には新鮮だった。自分はこれまで、何かを必要だと思ったことがあったか。好きなものはあった。しかし必要なものは、あまり考えたことがなかった。
明美との付き合いは、半年ほど続いた。
毎週末、どこかへ出かけた。映画を見た。古本屋を巡った。川沿いを歩いた。明美はよく詩の話をした。誠司はそれをうまく理解できなかったが、聞くことは好きだった。明美が話すとき、その目に何かが灯った。それを見ることが、誠司には嬉しかった。
ある秋の日、ふたりで多摩川の土手に座っていた。
夕日が川を橙色に染めていた。明美は川を見ながら、こんなことを言った。「私ね、詩で食べていきたいんです。馬鹿だって思うでしょ」。誠司は少し考えてから、「馬鹿じゃない」と言った。「でも、難しいとは思う」。明美は苦笑いして、「そうですよね」と言った。
あのとき、誠司は何と言うべきだったのか。
今でも時々、考える。「馬鹿じゃない、やればいい」と言えばよかったのか。あるいは何も言わずに、ただ頷けばよかったのか。言葉を扱う仕事を三十年やった今も、あの瞬間の正解がわからない。
*
別れたのは、誠司が就職して半年が経ったころだった。
仕事が忙しくなり、会う回数が減った。誠司は新しい環境に追われ、明美のことを考える余裕を失っていた。そのことに、当時は気づかなかった。ただ流れに乗って、気づけば遠くまで来ていた。
最後に会ったのは、居酒屋だった。
明美は「もういいです」と言った。怒っているわけではなかった。ただ、静かにそう言った。誠司は何も言い返せなかった。謝ることはできたが、それが正しいとも思えなかった。ただ、コップのビールを見つめていた。
明美が席を立ったとき、誠司は「ごめん」とだけ言った。
明美は振り返らなかった。
それが最後だった。
誠司はその後、仕事に没頭し、数年後に泉と出会い、結婚した。明美のことを考える時間は、少しずつ少なくなっていった。しかし、完全に消えたわけではない。何かの拍子に、ふと浮かぶことがある。多摩川の夕日の色を見たとき。詩集の表紙を見かけたとき。あるいは今夜のように、一人で湯に浸かっているとき。
*
湯から上がり、誠司は宿の縁側に座った。
川の音が聞こえた。紅葉した山が、午後の光を受けていた。色が、朝よりも深くなっていた。
明美は今、どこにいるのだろう。
結婚したのか、していないのか。詩を書き続けているのか。幸せなのか。誠司には何もわからない。三十五年という時間は、完全に別の人生を作るのに十分な長さだ。
しかし誠司は、明美に幸せでいてほしいと思った。
それは未練ではない。少なくとも、今の誠司が感じているのは未練ではないと思う。ただ、かつて自分と時間を共にした人が、今もどこかでちゃんと生きていてほしい、という願いだ。それは泉に対しても、慶介に対しても、父に対しても——父はもうこの世にいないが——同じように感じることだ。
人は、誰かと時間を共にすることで、その人の中に何かを残す。
明美は誠司の中に、「必要なものを持て」という言葉を残した。あの居酒屋での別れのあと、誠司はしばらくその言葉を忘れていた。しかし三十年の仕事の末に、今、その言葉の意味がわかるような気がする。
好きなものではなく、必要なものを。
誠司にとって、必要なものは何か。
仕事か。家族か。言葉か。それとも、もっと別の何かか。
答えは、まだ出ない。しかし、問いを持っていることが大事だと、今は思う。
*
夕方、温泉地の小さな食堂で夕食を食べた。
隣のテーブルに、若いカップルが座っていた。二十代半ばくらいだろうか。ふたりは小声で話しながら、時折笑い合っていた。楽しそうだった。
誠司はその様子を、盗み見るように見た。
あのふたりは、今が一番輝いている時期かもしれない。これから何が待っているかを知らずに、ただ今この瞬間の幸せの中にいる。それはとても美しいことだ。しかし同時に、誠司には複雑な気持ちもあった。
あのころに戻りたいか、と問われれば、正直なところ、よくわからない。
若さは美しい。しかし若いころの誠司は、多くのことに気づいていなかった。目の前にあるものの重さを、受け取りそこねていた。年を重ねた今の方が、少なくとも、見えているものは多い。それが老いることの、ひとつの意味なのかもしれない。
若いカップルが笑った。
誠司も、つられるように、少し口元が緩んだ。
*
その夜、誠司は宿の部屋で文庫本を開いた。
川端康成の「山の音」だ。京都の旅館で数ページ読んで、そのままになっていた本だ。
主人公の信吾は、六十代の男だ。老いを感じ、記憶の中に生き、若い頃の恋を時折思い出す。誠司はその信吾に、今の自分を重ねた。
小説の中で、信吾はこんなことを思う。人間は何かを失いながら生きていく。しかし失ったものが、消えるわけではない。失ったものは、自分の中のどこかに沈んでいて、ときおり浮かび上がってくる。
誠司は本を閉じ、天井を見た。
失ったもの。
明美との時間。父の手の感触。泉の笑い声。慶介の幼いころの顔。仕事に燃えていたあの頃の自分。そういうものが、全部自分の中のどこかにある。失ったのではなく、沈んでいる。
沈んでいるものは、旅の中で少しずつ浮かんでくる。
それが、旅の意味なのかもしれない。日常の慌ただしさの中では、沈んだままのものが、こうして一人で静かにいると、ゆっくりと上がってくる。それは時に痛みを伴う。しかし、痛みの中にも、確かに何かがある。自分がここまで生きてきたという、証のようなものが。
川の音が聞こえた。
誠司は目を閉じた。
明美の声が、遠くで聞こえるような気がした。「好きというより、必要なんです」。その声は若く、はっきりしていた。三十五年の時間を経て、それでも色褪せなかった。
人の声というものは、不思議だ。
顔は忘れる。しかし声は残る。あるいは、声に乗った言葉が残る。明美が残した言葉は、三十五年間、誠司の中に沈んでいて、今夜ここで浮かび上がった。
誠司はその言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。
必要なもの。
旅はまだ、答えを出していない。しかし、問いは深くなっている。深くなることが、今は大切な気がした。
川の音が続いていた。
山の闇が、窓の外で静かに呼吸していた。
誠司は、いつの間にか眠っていた。
夢の中に、多摩川の夕日があった。橙色の川を、二十三歳の誠司と二十一歳の明美が、黙って並んで見ていた。ふたりの間には、何も言葉がなかった。しかし夢の中で誠司は、あのときよりもずっとはっきりと、隣にいる人の温もりを感じていた。
夢は、朝まで続いた。

