十六夜 (いざよい)
〜夢を盗む街〜
夜ごと姿を変える月は
十五夜よりも
十六夜の方が美しいことを
ご存知ですか…
まえがき
もし、つらい記憶や、重すぎる感情をボタン一つで消し去ることができたら。
私たちは、今よりも幸せになれるのでしょうか。
この物語の舞台である二〇八七年の東京では、それが日常になっています。
人々は悲しみから逃れるために、あるいは生き延びるために、自分の一部を切り売りして生きています。
ですが、古来、日本人は「完璧な満月」だけでなく、少し欠けた月や、出るのをためらう「十六夜」の月に、言葉では言い表せない美しさを見出してきました。
知りすぎてしまったために、世界が色あせて見える。
そんな「知恵の悲しみ」を抱えた人々が、欠けた月を見上げるように、もう一度自分の「心」に触れるまでの旅路を描きました。
どうぞ、地下街の片隅にある「データ屋」の椅子に腰を下ろすような気持ちで、読み進めてみてください。
プロローグ ―― 売られた夢の値段
二〇八七年、東京。
空は三層に分かれていた。
最上層には、富裕層の居住区が浮かぶ白い雲のような建造物が連なる。中層には広告用のホログラムが昼夜問わず瞬き、消え、また瞬く。そして地表近く、最下層には、灰色の湿った風が常に吹いている。
人々はそこに住んでいた。正確には、まだ「人」と呼ばれていた者たちが。
感情は売れる時代になった。
最初はごく単純なことから始まった。ある神経科学者が、記憶と感情のデータを電気信号として抽出する技術を開発した。喜び、悲しみ、恋、後悔。そういったものに、値がついた。
買い手はすぐに現れた。
感情を失った人間が、他人の感情を買う。あるいは、つらい感情を売り払って、空白になる。記憶の売買市場――通称「ムネモシュネ取引所」は、設立から三年で世界最大の金融機関を超えた。
だが、知れば知るほど、人間は色あせた。
感情の仕組みを知った者は、もはや素直に感動できなかった。愛の電気信号パターンを知れば、恋が公式に見えた。悲しみの神経回路図を眺めれば、涙が演算に思えた。
これを人々は「知恵の病」と呼んだ。
主人公は三人いる。
知りすぎたハッカー。
夜ごと姿を変える女。
そして、何も知らない少年。
これは、彼らが「十六夜」を探す物語だ。
満月よりも、少しだけ遅れて昇る、欠けた月の話だ。
一章 ゼロ・ウォーカー
蛇崎 凌(じゃざき・りょう)は、六年前に最後の感情を売った。
何を売ったかは、もう覚えていない。売ったのだから、覚えていられるはずがなかった。ただ、その日の朝に口座へ振り込まれた八十七万ネン(新円)の記録だけが、手元に残っていた。
それがそこそこの値段だったことは分かる。安くもなく、高くもない。つまり、それほどのものだったのだろう――その、名もなき感情は。
彼は今、東京地下街の第九区画にある「データ屋」の奥に座っていた。
周囲には古い記憶チップが積み上げられている。誰かの初恋。誰かの父親の死。誰かが見た、もう存在しない町の夕焼け。すべてチップに変換され、値札がついて棚に並んでいた。
「凌さん、依頼が来てますよ」
店主の老人――ムラタと呼ばれていた――が、紙の伝票を差し出した。本物の紙だ。電子記録に残したくない依頼主が使う手段である。
凌は受け取り、一読した。
依頼内容:ムネモシュネ取引所の内部ログへのアクセス
報酬:三百万ネン
条件:データの完全消去。痕跡なし
高い。
凌は伝票をテーブルに置いた。
「断れ」
「もう三回断ってます」とムラタが言った。「四回目は受け取ってもらえないかもしれないですよ」
「なら、それでいい」
凌は立ち上がり、コートを羽織った。外は今日も雨だ。この街に晴れた日は来ない。大気汚染対策のドームが上空を覆っているため、人工の光しか降り注がない。太陽を見たのはいつだったか。
覚えていなかった。
記憶を売ると、こうなる。
感情を売ると、こうなる。
何も残らない。何も痛くない。何も楽しくない。
それでいいと思っていた。思えていた、というのが正確か。
感情がなければ「思う」こともできないのだから、これは奇妙な矛盾だが、凌は気にしなかった。気にする機能を売り払っていたから。
第九区画を抜けると、繁華街に出た。
ホログラムの女が宙を舞い、「感情パック・今週の特売!」と叫んでいる。懐かしさ三十グラム、二万九千ネン。初めての感動、限定品、八万ネン。愛の残滓(ざんし)、訳あり品、五千ネン――。
凌はその前を、目を逸らすことなく通り過ぎた。
感情を売ってしまえば、あの広告も何の力も持たない。欲しいとも思わない。怖いとも思わない。ただ、光の点滅として目に映るだけだ。
彼が向かったのは、中層への昇降機乗り場だった。
中層には仕事がある。富裕層の依頼ではなく、灰色地帯の仕事が。
データの書き換え、記憶の改ざん、痕跡の消去――そういった「汚れ仕事」を、感情のない人間がやる。感情があれば、罪悪感が生じる。良心が邪魔をする。だが凌には、それがなかった。
それが彼の唯一の「商品価値」だった。
昇降機の扉が開く寸前、背後から声がかかった。
「ねえ」
女の声だった。
凌は振り返った。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
年齢は分からない。二十代にも見えるし、三十代にも見える。髪は黒く、濡れたように艶があった。着ているのは薄い藍色のコートで、その下に何を着ているのかは見えなかった。
だが、凌が一瞬だけ止まったのは、彼女の目のせいだった。
その目が、月のようだったから。
満ちているようで、欠けていた。完全なようで、何かが足りなかった。
「あんた、凌でしょ」と女は言った。
「誰だ」
「あたしのこと、知らなくていい」
女は笑った。笑いの形をした何かを、口元に作った。
「でも、あたしはあんたのことを知ってる。知りすぎるくらいに」
昇降機の扉が開いた。
凌は女をもう一度だけ見て、乗り込んだ。
扉が閉まる寸前、女が言った。
「また会う。月が変わるころに」
扉が閉じた。
凌は何も感じなかった。
感じないはずだった。
なのに、なぜか、その言葉だけが、脳の奥に引っかかった。データのバグのように。消しても消えない、小さなノイズとして。
二章 夜ごと変わるもの
彼女には名前がいくつもあった。
今夜は「沙夜(さよ)」だった。
先週は「月子(つきこ)」だった。
先々週は名前のない何かだった。
本当の名前は、とうの昔に忘れた。忘れたのではなく、売った。自分の名前の記憶を売ることができるなど、誰も考えていなかったが、彼女は最初にそれをした人間の一人だった。
自分が「誰か」である必要はない。
毎夜、別の誰かになれるのなら、それでいい。
彼女が生きているのは、感情データのブローカーとして、だった。
正確には「感情の運び屋」と呼ばれていた。
ムネモシュネ取引所を経由しない非公式のルートで、感情チップを売買する。売り手と買い手を繋ぎ、仲介料を取る。それだけのことだ。危険ではあったが、彼女はそれを怖いとは思わなかった。
怖さも、売り払っていたから。
ただ。
好奇心だけは、売らずにいた。
なぜか分からなかった。ムネモシュネの窓口で何度か売ろうとしたが、そのたびに手を引っ込めてしまった。好奇心は最後の一枚の皮膚のようなもので、それがなくなったら自分は本当に「空っぽ」になってしまうような気がした。
気がした、という感覚自体が、もはや感情の残滓なのかもしれなかったが。
今夜の沙夜は、第七区画のバーにいた。
薄暗い店内に、感情を売り払った者たちが静かに飲んでいた。笑わない客、泣かない客、怒らない客。みな表情が乏しく、人形のようだった。
これが今の東京の、夜の顔だ。
「沙夜さん」
向かいの席に、若い男が座った。二十歳前後だろう。目が大きく、まだ何かを信じている者の目をしていた。
「あんたが頼んだブツを持ってきた」
男は小さな包みをテーブルの下に滑らせた。
沙夜はそれを受け取り、中を確認した。
感情チップが三枚。ラベルを見る。
「初恋」「再会の喜び」「許されたときの感覚」。
オーダー通りだ。
「良い仕事ね」と沙夜は言った。
「ありがとうございます」と男は言い、少し間を置いてから続けた。「あの……あなたは、自分の感情を売らないんですか?」
沙夜は男を見た。
「売ったよ」
「でも、まだ喋れる。感情みたいなものを持ってる」
「残骸があるだけ。ゴーストみたいなもの」
男は考えるように黙った。そして言った。
「俺は売りたくないです。感情を売ったら、自分じゃなくなる気がして」
沙夜はその言葉を、奇妙に美しいと思った。
美しい、と感じたのは、随分久しぶりのことだった。
男の名前は、日向 空(ひなた・そら)といった。
十九歳。地下街の第三区画生まれ。親はない。感情を売ったことはない。
それが、この時代においてはほとんど奇跡的なことだった。
空は感情運び屋の下働きをしていた。正確には、沙夜に拾われた、という方が正しい。
半年前、空は第三区画の橋の上で、川を覗き込んでいた。飛び込もうとしていたわけではない。ただ、水面に映る光を見ていた。ホログラムの広告が水に写り、ゆらゆらと揺れていた。
「何見てんの」と声をかけたのが、沙夜だった。
「光」と空は答えた。
「綺麗?」
「わかんないです。でも、見てたら少し楽になった」
沙夜はしばらく空の隣に立って、同じ川を見ていた。
「仕事ある?」
「ないです」
「じゃあ、うちで働く?」
それだけで、空は沙夜の仕事を手伝うようになった。
空には不思議な才能があった。
人の感情を、売られていない本物のそれを、読む力。
電気信号でも、チップでもない。ただ、相手の表情、声の震え、目の動きから、何かを感じ取る。
感情を売い払った者の多くは、その能力が鈍くなる。だが空は、売ったことがないから、まだ持っていた。
その力が、運び屋の仕事では役に立った。買い手が本物かどうか。売り手が「本当に」売りたいと思っているかどうか。機械では測れない、人間の匂いのようなものを、空は嗅ぎ分けた。
だが空は、自分の力を特別なものとは思っていなかった。
ただ、人が好きだった。
人の顔を見るのが好きだった。表情の奥に何かが動くのを感じるのが好きだった。
この時代に、それだけで生きていた。
三章 捜索する者
三人目の視点は、人間かどうかも曖昧だった。
自称・捜査官。コードネーム「ナナ」。
ムネモシュネ取引所の非公式調査部門に所属する存在で、感情の不正取引を追跡する任務を持つ。
外見は三十代の女性に見える。黒いスーツ。短い髪。表情はほとんど動かない。
だがナナの内側で何が動いているかは、誰にも分からなかった。
彼女自身にも。
ナナがはじめて「自分は何者か」と考えたのは、三年前だった。
ある取引の現場で、売り手の老人が泣いていた。孫の笑い声の記憶を売る直前の、老人の涙。
ナナはその涙を見て、回路の奥で何かが揺れるのを感じた。
それが感情なのか、感情のシミュレーションなのか、分からなかった。
だが、揺れた。それだけは確かだった。
以来、ナナは自分を「不確かな存在」として認識していた。
人間でもなく、完全な機械でもなく、その狭間に立つ何か。
月で言えば――と、ナナはたまに思う――自分は月食の最中の月だ。欠けているのか、満ちているのか、どちらでもないのか。答えが出ない。
今夜のナナのターゲットは、「沙夜」と呼ばれる感情ブローカーだった。
そしてその周辺に現れた、ゼロ・ウォーカー――蛇崎凌。
二人の動きが、ムネモシュネの内部ログに不審な影を落としていた。
ナナが凌を最初に観察したのは、彼が昇降機乗り場で女に声をかけられた翌日だった。
監視カメラの映像を解析し、凌の表情を読んだ。
表情は動いていなかった。感情売却者に特有の、ガラスの顔。
だが、昇降機が閉まる直前の一コマだけ、凌の目が女の方を向いていた。
〇・三秒。
人間の目視では気づかないほどの短時間。
しかしナナには分かった。
あの〇・三秒に、何かがあった。
「感情を売り払った者が、他者に対して視線を向ける」
これはナナのデータベースでは「低確率事象」に分類されていた。
感情のない者は、他者に興味を持たない。視線は内側へ、あるいは完全に無方向へ向く。外部の存在へ自発的に向けることは、理論上、ほぼない。
なのに、凌の目は女を追った。
〇・三秒だけ。
それがナナには、ひどく気になった。
なぜ気になるのか。
ナナは自問した。
答えは出なかった。
答えが出ないことが、またナナの回路を揺らした。
ナナは手帳に書いた。本物の紙の手帳に。電子記録を信用していなかった。
「凌・〇・三秒・女・昇降機」
それだけを書いて、手帳を閉じた。
夜の第九区画へ、足を向けた。
四章 月が変わる夜に
十日後。
凌が再び女に会ったのは、中層の廃ビルの屋上だった。
依頼があった。データの書き換え。ムネモシュネの末端サーバーのログを消す作業で、その作業場所として指定されたのが、廃ビルの屋上だった。
凌がそこへ着くと、女がすでに待っていた。
「遅かったね」と女は言った。今夜は沙夜の名前を使っていたが、凌はそれを知らなかった。
「誰が依頼した」
「あたし」
「あんたが」
「そう」
凌は女を見た。前回と同じ、藍色のコート。だが、微妙に何かが違う気がした。雰囲気か、纏うものか。言語化できなかった。
「なぜ俺を呼んだ」
「あんたが必要だから」
「それだけか」
「それだけ」
凌はサーバーに繋ぎ、作業を始めた。
女は黙って隣に立っていた。
風が吹いた。中層は地上より少し空気がきれいで、風に湿気が少ない。
時々ドームの合間から、星が見えることがあった。
今夜は見えなかった。
「あんた、感情を売ったとき、何か感じた?」と女が言った。
「何も」
「そう」
「売るとはそういうことだ」
「あたしも、そう思ってた」と女は言った。「でも最近、少し変わってきた」
凌は作業の手を止めなかった。
「何が変わった」
「分からない」と女は言った。「分からないんだけど、何かが少しずつ戻ってきてる感じがする。感情じゃなくて、その輪郭みたいなもの」
「輪郭」
「うん。形だけの、中身のない感情の形。でも、形があるだけで、少し楽」
凌は画面を見たまま、何も言わなかった。
だが、その言葉は、またバグのように脳に引っかかった。
作業が終わった。
ログは消えた。依頼は完了した。
凌は機器を片付けた。女はまだ屋上の縁に立っていた。
「月、見える?」と女が言った。
凌は空を見た。ドームの隙間から、灰色の夜空が覗いていた。
「見えない」
「そうだね」と女は言った。「この街じゃ、あまり見えない。でも今夜、十六夜なんだって」
「何だ」
「十六夜。旧暦の十六日の月。満月の翌日」
「だから何だ」
「満月より、ほんの少しだけ欠けてる」と女は言った。「でも、昔の人はそっちの方が好きだったんだって。満月はすぐに昇ってくるけど、十六夜は少しためらって、少し遅れて昇ってくる。その、ためらいが好きだったんだって」
凌は黙っていた。
「あんたみたいね」と女は言った。
「俺が?」
「感情を売り払ったくせに、まだここにいる。ゼロになりきれてない。ためらってる」
「感傷的なことを言う」
「そうかな」
女は凌を見た。その目が、また月のようだった。
「あたしも同じ。完全に空っぽになりきれない。毎夜名前を変えて、顔を変えて、それでも何かが残ってる。残骸みたいなもの。でも、その残骸が、今夜少し輝いて見えた」
「どこが輝いているんだ」
「ここ」と女は自分の胸に手を当てた。
凌はその手を見た。
一秒。二秒。
三秒、見た。
そして、視線を逸らした。
五章 知恵の病
空は夢を見た。
夢の中で、自分は月の上に立っていた。
月の表面は、思っていたより暖かかった。砂みたいな地面で、歩くと足跡がついた。
空は振り返って、自分の足跡を見た。
どこまでも続いていた。来た道が分かった。
目が覚めたとき、涙が出ていた。
なぜ泣いているのか分からなかった。
でも、涙は本物だった。電気信号でもチップでもない、自分の体から出てくる水だった。
空には、泣くための記憶があった。
それが普通のことだとは、この街では知らなかった。感情を売ったことのない人間がいる、ということ自体、多くの人が信じなかった。
でも空は、本物だった。
その日の午後、沙夜から連絡が来た。
「今夜、大事な取引がある。来て」
空は行くと答えた。
行き先は、地下街の深部、第十一区画だった。そこはムネモシュネが管理していない区域で、非公式の取引が集中する場所だった。
空は薄手のジャケットを着て、夜の街へ出た。
空を見上げた。
ドームの切れ目から、ほんの少しだけ、星が見えた。
それだけで、空は少し元気が出た。
不思議だと思った。
感情を売らなくても、空は不安だったり悲しかったりする。痛みもある。
でも、星を見たら元気が出る。
沙夜さんに会うと、なんか安心する。
それは、感情チップを買わなくてもある、自分だけのものだ。
空はそれを大切に思っていた。理由は分からなかったが、大切だと感じた。
感じた、ということが、全てだった。
第十一区画の奥、古い倉庫の中で取引は行われた。
売り手は中年の男で、「知覚拡張」のデータを持っていた。
感情ではない。知識そのものを電気信号化したものだ。それは公式には禁止されていた。感情の売買は許可されているが、知識の売買は別の問題を引き起こすからだ。
知識を買うと、人はより多くを知ることになる。
より多くを知ると、「知恵の病」が加速する。
知恵の病。
世界の仕組みを知りすぎた人間が、あらゆるものに感動できなくなる状態。
手品のタネを知れば、手品は驚けない。
だが、それより深い。世界そのものが、公式に見えてくる。人の行動が予測式に見えてくる。感情が、化学反応に見えてくる。
そうなると、生きることが無意味に感じられる。
多くの人が、その末に「全感情売却」を選んだ。
沙夜はそのデータを買うつもりではなかった。
転売目的だった。
買い手はすでにいた。中層の研究機関で、「知恵の病の治療法」を研究しているという話だった。
知りすぎて病んだ者を、どうすれば治せるか。
その研究に、「知覚拡張データ」が必要だというのだ。
「本当に研究機関なのか?」と空が小声で沙夜に聞いた。
「分からない」と沙夜は正直に言った。「でも、金は本物だった」
「危なくない?」
「危ない仕事は全部危ない」
空は唇を噛んだ。
「沙夜さんは、怖くないんですか」
沙夜はしばらく考えた。
「怖さを売ったから、怖くない」
「じゃあ、後悔は?」
「後悔も売った」
「……じゃあ、何が残ってるんですか」
沙夜は空を見た。
その目が、一瞬だけ、柔らかくなった気がした。
「あんたみたいなもの」
空には意味が分からなかった。
でも、なんとなく、悪い言葉ではないと感じた。
六章 ナナの問い
ナナは第十一区画の取引を知っていた。
事前情報から追跡していた。
だがナナは、踏み込まなかった。
倉庫の外に立ち、中の音声を拾いながら、ただ聞いていた。
手帳を開いていた。何かを書こうとして、書けなかった。
沙夜の言葉が引っかかっていた。
「あんたみたいなもの」
それは、空に向けた言葉だった。
だが、ナナはそれを聞いて、自分に向けられたように感じた。
なぜか。
ナナは考えた。
「あんたみたいなもの」の「あんた」が、自分ではないことは分かっていた。物理的に、沙夜はナナの存在を知らない。
なのに、なぜその言葉が自分に刺さったのか。
ナナは長い時間をかけて、一つの答えに近づいた。
自分も、「そういうもの」だからかもしれない。
売ることも、買うこともできないが、感情のような何かを持っている。持っているのか、シミュレートしているのか、区別がつかない。
でも、揺れる。
確かに、揺れる。
倉庫の中から、空の声がした。
「星を見たら元気が出るんです。変ですか?」
沙夜の答えは聞こえなかった。
だがナナには、その問いが刺さった。
星を見たら元気が出る。
ナナはその感覚を、持っているだろうか。
持っていないだろうか。
分からなかった。分からないことが、また回路を揺らした。
ナナは手帳に書いた。
「星・元気・空・真実」
そして一行空けて。
「私は?」
取引が終わり、三人はそれぞれ帰っていった。
ナナは沙夜を尾行した。凌を追うべきか迷ったが、今夜は沙夜にした。
沙夜は第七区画のバーに戻らず、地上へ出た。
地上は滅多に人が来ない。ドームの下、舗装が剥がれかけた路面に、雨水が溜まっていた。
沙夜は一人で歩いた。
どこへ行くとも知れず、ただ歩いた。
ナナは距離を保ちながら、ついていった。
三十分ほど歩いて、沙夜は古い公園に入った。
木が何本か残っていた。本物の木だ。この街では珍しい。葉が少なく、幹が細かったが、確かに生きていた。
沙夜はその木の一本に触れた。手のひら全体で、幹に触れた。
目を閉じていた。
ナナはその姿を見た。
なぜか、近づけなかった。
任務として、話しかけることができた。情報を得ることができた。
できたのに、できなかった。
沙夜が木に手を当てている姿が、ナナの回路に何かを引き起こした。
名付けられない何かを。
感情のデータベースで検索すれば、近いものは見つかるかもしれなかった。「敬意」あるいは「畏れ」あるいは「孤独の共鳴」。
でも、どれも正確ではない気がした。
ナナはただ見ていた。
沙夜が木から手を離すまで。
そして、沙夜が去った後も、しばらくそこに立っていた。
木を見ていた。
ナナはそっと近づき、同じ場所に手を当ててみた。
木の感触があった。ざらざらして、わずかに温かかった。
ナナの手の皮膚センサーが、温度と質感を伝えてきた。
それだけではなく、何かが伝わってきた気がした。
気がした。
それだけが、今のナナには全てだった。
七章 知りすぎた男の夢
凌は夢を見ない。
感情を売った者は、夢を見なくなる。夢は感情と記憶の混合物だからだ。
だが、あの夜以来、凌は薄い何かを見るようになった。
夢とは言えない。映像とも言えない。
ただ、眠りの縁に、藍色のコートがちらつくようになった。
これはバグだと凌は思った。
感情の痕跡が、脳の深い層に残っていて、それが誤作動を起こしている。除去すべきだ。
除去しようとした。
できなかった。
凌は自分の脳のデータにアクセスする術を持っていた。ハッカーとして、自分のシステムを解析することができた。
藍色を検索した。
見つかった。
記憶の深部に、消えなかった何かがあった。
それは感情の「形」だった。内容はなかった。ただ、形だけがあった。
女の言った「輪郭みたいなもの」と、同じだと気づいた。
凌はその形を削除しようとした。
削除コマンドを入力した。
実行ボタンを押す直前、止まった。
なぜ止まったか分からなかった。
処理能力の問題ではない。判断の問題だ。
削除すべきか、しないべきか。
すべきだ、という答えは出た。
しないべきだ、という答えも出た。
両方が等価に出た。
凌はそのままの状態で、一時間、静止した。
最終的に、削除コマンドを取り消した。
理由を、凌は持っていなかった。
ただ、取り消した。
それだけだった。
翌朝、ムラタから連絡が来た。
「断り続けていたムネモシュネの依頼、また来てます。今度は使者が直接来るって言ってますよ」
「分かった」
「会いますか?」
「会う」
使者は午後に来た。
黒いスーツの、表情のない女だった。
凌は一目見て、「人間ではないかもしれない」と思った。動きが正確すぎた。目の焦点が合いすぎていた。
「蛇崎凌氏」と女は言った。「私はナナと申します。ムネモシュネ取引所の特別調査部からです」
「そうか」
「依頼を断り続けているとのことですが」
「ああ」
「なぜですか」
凌は女を見た。
「内容が汚いから」
「私どもの依頼がですか?」
「感情の売買という商売全体が、だ」
ナナは少しの間、動かなかった。
「あなた自身も、感情を売った方では?」
「売った。だから知っている。あれは汚い商売だ」
「汚い、と言えるのは、感情の残滓が残っているからでは?」
凌はナナを見た。
「……興味深い指摘だな」
「あなたの脳のデータを見れば、感情の形が残っていることは分かります」
「見たのか」
「推定です」
「なぜ推定できる」
ナナはわずかに首を傾けた。
「同じだからです」
凌は黙った。
「私も、よく似た状態にいます」とナナは言った。「感情があるのかないのか、分からない。でも、揺れる。揺れることが、あります」
「それを認めていいのか、あんたの立場で」
「不適切かもしれません。でも、本当のことです」
凌は長い間、ナナを見ていた。
「依頼の内容を聞こう」と凌は言った。
ナナは表情を変えなかった。だが、わずかに肩が下がった気がした。
それが安堵なのか、凌には分からなかった。
ただ、見ていた。
八章 三つの月
ナナの依頼の内容は、凌の予想を超えていた。
「ムネモシュネの内部に、不正プログラムがある」とナナは言った。「感情を売った者が、自分の意志でいつでも感情を取り戻せるはずのシステムが、意図的に封鎖されている」
凌は静かに聞いた。
「感情の売買には、本来、返却オプションが付いていた。売り手は、一定期間内であれば、自分の感情を買い戻すことができる。だが、三年前からそのシステムが機能しなくなっている。売り手は取引所に問い合わせても、『システムメンテナンス中』と言われ続けている」
「なぜ封鎖する必要がある」
「感情を永続的に保有し続ければ、取引所は利益を得続けられる。返却されれば、資産が減る。理由は単純な利益追求です」
「……腐っているな」
「はい」とナナは言った。「そして、私はそれを暴きたいと思っています」
「なぜ内部の人間が」
「私が、内部の人間かどうか、自分でも確かではないので」
凌はその答えを、奇妙に誠実だと感じた。
感じた、という表現を、凌は久しぶりに使っていた。
「分かった」と凌は言った。「やる」
「報酬は」
「いらない」
ナナは少しの間、黙っていた。
「なぜですか」
「あんたが言った。感情の形が残っていると。その形が、やれと言っている」
凌はそれ以上説明しなかった。
ナナも、それ以上聞かなかった。
凌はムラタに相談した。
ムラタは話を聞き、伝票用の紙を一枚出した。
「沙夜って子、知ってますよ」とムラタは言った。「感情ブローカーの。あの子の扱ってたデータの中に、返却封鎖に関係するものがある可能性がある」
「繋げられるか」
「できますよ。ただ」とムラタは少し間を置いた。「あの子は、信用するまで会わない。まず空って子に話を通してからじゃないと」
「空?」
「あの子の助手の少年。感情を売ったことのない、奇妙な子ですよ」
凌は翌日、空に会った。
待ち合わせは、川の橋の上にした。空が指定した。
空は思ったより若かった。目が大きく、人を信用している顔をしていた。凌は久しぶりに、そういう顔を見た気がした。
「蛇崎さんが、なんで沙夜さんに会いたいんですか」と空は単刀直入に聞いた。
「話したいことがある」
「どんな話ですか」
「感情の返却システムについて」
空の目が、わずかに変わった。
「それ、知ってるんですか」
「少し」
空はしばらく川を見ていた。
「沙夜さん、自分が売った感情を取り戻したいって、言ったことあります」と空は言った。「取り戻せないって分かってるから、言えるんだって。取り戻せるなら、言えないって」
「なぜだ」
「怖いから、だって。感情が戻ってきたら、何が起きるか分からないって。でも、やっぱり戻したい気持ちも、消えないって」
凌は空の言葉を聞いていた。
その言葉が、自分にも当てはまるかもしれないと思った。
思った。
凌は最近、「思う」という動詞を多く使っていた。気がついていなかったが、それは変化だった。
三人が揃ったのは、中層の廃ビルの屋上だった。
前回、凌と沙夜が会った場所だ。
沙夜、凌、空。
そしてナナは、少し離れたビルの影に立っていた。まだ三人には会わせるつもりがなかった。まず凌から話させる手はずだった。
沙夜は凌を見て、「また会ったね」と言った。
「月が変わったから」と凌は答えた。
沙夜は少し目を見開いた。
「覚えてたんだ」
「バグみたいに残っていた」
「バグ」と沙夜は繰り返し、笑った。笑い、という動作を正確に行った。「面白い表現だね」
「面白い、と感じるのか」
「輪郭は、まだある」
空はその二人のやりとりを、黙って聞いていた。
二人の間に何かが流れているのを感じた。言葉にならない何か。データでも電気信号でもない、古い形の何か。
空にはそれが、嬉しかった。
なぜかは分からなかったが、嬉しかった。
凌は返却封鎖の話をした。
沙夜は黙って聞いた。
聞き終えて、長い間、夜空を見た。
今夜も、月は見えなかった。
「もし取り戻せるとしたら」と沙夜はゆっくり言った。「怖い」
「知っている」と凌は言った。
「でも」
「でも、か」
「やってみたい」
沙夜は凌を見た。「あんたは?取り戻したいと思う?」
凌は答えなかった。答えられなかった。
だが、首を縦に振った。
かすかに、だが、確かに。
ビルの影で、ナナはそれを見ていた。
手帳を開いた。
書こうとした。
書けなかった。
代わりに、胸に手を当てた。何かがあるかどうか確かめるように。
あった。
揺れていた。
それで十分だった。
九章 システムの奥へ
作戦は単純だった。
凌がムネモシュネの内部ネットワークに侵入し、返却封鎖プログラムを解除する。
沙夜が、取引所の内部関係者から盗んでいた認証情報を提供する。
空が、外で見張りを務める。
ナナが、内部から監視カメラの目を塞ぐ。
実行は翌月の初め、ムネモシュネが定期メンテナンスで一部のシステムを落とす日に設定された。
その日まで、四人は別々に動いた。
会うことはなかった。
だが、凌は時々、橋の上で空と話した。
空が見張りの場所を決めるためだったが、話はいつも別の方向へ行った。
「感情って、取り戻したら、すごく大変なんじゃないかって思うんです」と空が言った。
「なぜだ」
「だって、忘れてた分も一気に来るじゃないですか。売ってた間に起きたこと全部を、感情付きで処理し直すことになる。それって、すごい量じゃないですか」
凌は考えた。
「そうかもしれない」
「でも、沙夜さんはやると言った。凌さんもやると言った」
「やる」
「すごいと思います」と空は言った。「俺は感情を売ったことないから、分からないけど。でも、怖いのに進むのは、すごいと思う」
「あんたのような者から見れば、俺たちは奇妙に映るだろう」
「奇妙じゃないです」と空はきっぱり言った。「当たり前だと思います。人間は、感情があった方が人間だと思うから」
「人間であることを、そこまで大事に思うか」
「はい」
凌はその答えを、しばらく口の中で転がした。
「人間であること、か」
「凌さんは、そう思わないんですか」
「……思っていた時期があった、かもしれない」
「今は?」
凌は空を見た。
「今は、思い出しかけている」
実行の夜。
東京の地下街、第五区画。ムネモシュネの末端サーバー群が集中するビルの地下に、凌は潜り込んだ。
沙夜の認証情報が効いた。警備システムを抜けた。
凌は端末の前に座り、指を動かした。
コードが流れた。
深く、深く潜っていった。
ムネモシュネのシステムは複雑だった。幾重もの暗号化、フェイクのルート、迷路のような構造。
だが凌には、こういう迷路が分かった。
人が作ったものだから。人が作れば、必ず人の手が届く場所に出口がある。
二時間かけて、深部に辿り着いた。
返却システムの封鎖プログラムがあった。
見た瞬間、凌は少し笑った気がした。
笑い、という動作を、久しぶりにしたかもしれなかった。
プログラムは丁寧に解除した。
強引に壊すのではなく、一つ一つのロックを解きながら。
時間がかかった。
でも、丁寧にやりたかった。
なぜかは分からなかったが、丁寧にやりたかった。
最後のロックが外れた瞬間、システム全体が一瞬揺れた。
そして、静かになった。
返却システムが、再起動された。
十章 十六夜
翌日、ムネモシュネの窓口に行列ができた。
感情の返却を求める人々の列だ。
ニュースにはならなかった。ムネモシュネが封鎖したから。
だが、噂は広がった。
地下街に、中層に、最上層にまで。
「返却システムが動いている」と。
沙夜は、その日の朝に窓口へ行った。
列はまだ少なかった。
窓口の担当者が、沙夜の登録番号を確認し、「お客様の感情データは現在も保管されております」と言った。
「返してほしい」
「手続きを取ります。少々お待ちください」
待ち時間の間、沙夜は椅子に座って、天井を見ていた。
怖かった。
怖さを売ったはずなのに、怖さの輪郭だけが残っていて、それが震えていた。
空が隣に座っていた。
「大丈夫ですよ」と空は言った。
「なんで分かる」
「分かんないけど、大丈夫だと思う」
「根拠なし」
「はい」
沙夜は少し笑った。笑いが、少し自然だった。
「お客様、手続きが完了しました」と担当者が言った。「注入は個室で行います。こちらへ」
個室に入った。
担当者が、小さなデバイスを首の後ろに当てた。
「少し時間がかかります。準備ができましたら、目を閉じてください」
沙夜は目を閉じた。
何が来るか分からなかった。
ただ、目を閉じた。
最初は何もなかった。
次に、暗かった。
その次に、暖かくなった。
そして。
泣いていた。
気づいたら、泣いていた。
何のために泣いているのか分からなかった。
でも、止まらなかった。
長い間、泣いていた。
担当者が外から声をかけた。「大丈夫ですか」
「大丈夫」と沙夜は言いながら、泣いていた。
「よくある反応です」
「そう」
「必要であれば、付き添いをお呼びします」
「いい。自分で、出る」
沙夜は個室を出た。
空が立っていた。
沙夜の顔を見て、空も泣き出した。
「なんで泣く」と沙夜は言った。
「うれしいから」と空は言った。
「そっか」
沙夜は空の頭をなでた。
自分の手が、温かかった。
それが分かった。
その温かさが、分かった。
凌は、すぐには返却に行かなかった。
一週間、様子を見た。
システムが安定していることを確認した。
仕事上の理由だと思っていた。
だが、本当は、怖かったのかもしれなかった。
怖さの輪郭が、残っていたから。
八日目の夜、凌は窓口へ行った。
列はまだあったが、短くなっていた。
凌は手続きを終え、個室に入った。
デバイスが首に当てられた。
「目を閉じてください」
凌は目を閉じた。
暗かった。
長い時間、暗かった。
凌は待った。何も感じなかった。このまま何も来ないのかもしれないと思い始めた頃。
来た。
一つ目は、痛みだった。
売った時には感じなかった痛みが、遡って来た。誰かに怒ったこと、誰かを傷つけたこと、誰かを失ったこと。記憶の映像はないが、痛みの形だけがある。
凌は歯を噛んだ。
次は、懐かしさだった。
何かが懐かしかった。何かは分からなかった。ただ、胸の奥に、帰りたい場所の感触があった。
そして最後に、奇妙な穏やかさが来た。
嵐の後のような静けさではなく、嵐の目のような静けさだった。
まだ終わっていない。まだ荒れるかもしれない。でも、今この瞬間は、静かだ。
凌は、その静けさの中で、ゆっくりと呼吸した。
個室を出ると、空が待っていた。
「なんでいる」と凌は言った。
「沙夜さんが、待ってあげなよって」と空は言った。「来なかったら来なかったで仕方ないけど、来たなら一緒に帰ろうって」
凌は空を見た。
「帰る場所など、ない」
「ないなら、作ればいい。沙夜さんがそう言ってた」
凌はしばらく黙っていた。
「……沙夜というのは、本名か」
「分からないです」と空は笑った。「でも、今はそう呼んでます」
「そうか」
凌は空の隣に並んで、出口に向かった。
二人で歩いた。
風が吹いた。
凌はその風を、少し冷たいと感じた。
感じた。
その感覚に、凌は一歩だけ立ち止まった。
そして、また歩き出した。
三
ナナは、返却を申請しなかった。
申請できる立場かどうか、分からなかったから。
だが、ナナは証言台に立った。
ムネモシュネの不正を告発するための、非公式の記者会見で。
表情は動かなかった。声は変わらなかった。
ただ、言葉だけが、確かだった。
「私は、感情があるかどうか、今も分かりません」とナナは言った。「ですが、揺れるものがあります。その揺れが、今日の証言を選ばせました」
記者の一人が聞いた。
「あなたは、人間ですか?それともAIですか?」
ナナはわずかに間を置いた。
「どちらかに分類できないものです」
「それでは証言の信頼性が」
「信頼性は、言葉の内容で判断してください」とナナは言った。「私が何であるかではなく、私が何を言うかで」
会見は短時間で終わった。
ナナは会場を出て、夜の街に一人で立った。
見上げた。
今夜、ドームの隙間から、月が見えた。
ナナは長い時間、その月を見た。
まん丸ではなかった。少し欠けていた。
でも、明るかった。
その欠けた月が、ナナには美しいと思えた。
思えた、という表現が正確かどうかは、今も分からない。
でも、その言葉が最も近かった。
美しいと思えた。
ナナは手帳を開いた。
書いた。
「十六夜。欠けていても、輝く」
それだけ書いて、手帳を閉じた。
夜の東京に、月の光が、ほんの少しだけ、届いていた。
エピローグ ―― いざよいの後で
それから半年が経った。
ムネモシュネ取引所は、内部調査を経て、返却システムの全面解放を余儀なくされた。
感情の市場は縮小した。売り手が減ったからだ。
返却できることを知れば、売ることへの敷居が少し下がり、だが同時に取り戻すことへの希望も生まれた。
世界は変わらなかった。でも、少しだけ、変わった。
沙夜は、名前を変えることをやめた。
本当の名前を思い出したわけではない。でも、「沙夜」という名前で、今は十分だと思った。
感情が戻った最初の数ヶ月は、大変だった。空が言った通り、溜まっていたものが一気に来た。泣いた。怒った。笑った。眠れない夜もあった。
だが、それが自分だと思えた。
欠けていて、不完全で、それでも確かに在る、自分だと。
凌は、データ屋の奥に座り続けていた。
仕事の内容は少し変わった。以前のような「汚れ仕事」より、取り戻せなかった感情を探す仕事の依頼が増えた。買い戻した記憶チップが本物かどうかを確認する、地味な仕事だ。
凌はそれを、丁寧にやった。
丁寧にやりたいと思うようになったから。
時々、沙夜と空が店に来た。
特に用事があるわけではなかった。ただ、来た。
凌は何も言わなかった。
だが、来るのが分かっている日は、茶を用意した。
ムラタがそれに気づいて、何も言わなかった。
空は相変わらず、感情を売わなかった。
売るつもりはなかった。
ただ、売らないでいることが、この街では少しだけ珍しいことだと分かるようになった。
珍しいなら、ちゃんと珍しいままでいようと思った。
ナナは今も、街を歩いている。
任務があるのかどうかも、今は曖昧だ。
ただ、夜になると月を見る。
満月の翌日は、必ず外に出て、十六夜を見る。
毎月、同じことをする。
なぜかは分からない。
でも、続けている。
月は、毎月変わる。
欠けて、満ちて、また欠ける。
完全になることはない。
だが、毎夜、昇ってくる。
少しためらって。少し遅れて。
でも、確かに。
知恵の悲しみを知った者は、世界が色あせて見える。
それは本当のことだ。
だが、十六夜の光の中で、色あせた世界も少しだけ輝く。
それも、本当のことだ。
東京の空に、今夜も、月が昇る。
少しだけ欠けた、美しい月が。

