あの日

目の前のキミに

その ひと言が言えず

長いこと 後悔してませんか?


伝えられなかった その言葉を

今まだ 持ち続けてませんか?


若さとは

きっと そんなことなのです…


Kindle



限定一個の恋 

〜良い、悔い、残そう〜


〜冒頭に〜

 悔いを残すな!! と
 先輩方は言う

 悔いを残した人生は
 辛いもんだと 確かに思う

 特に
 異性に関しての感情の中での悔いは
 とても 深く
 そして 重く
 尚も 永く残る

 それは
 たった1つのもので
 たった1人の
 まさに 限定1個なものだから…

 一瞬 時を間違えると
 その列車に乗り遅れると
 たった  ひと言の
 ひと文字の言葉の置き違えで

 その後の生き方が
 大きく
 生涯
 方向を変えることとなる

 それを恐れて
 日々
 一生懸命に努力をしてはみても
 人間たちは
 必ずや
 心のどこかに悔いを残す

 ならば
 いっそ
 それも運命
 仕方ないと割り切って

 そのつど
 燃え尽きるかの如く
 決して後ろを向かず
 前向きで生きていけたのならば

 その悔いもまた
 少しは
 マシな悔いともなろうもんだと…

 そう
 言葉にして
 伝えねば
 その熱さは
 相手には伝わらない ってこと

 さあ~皆
 今日も
 良い 悔い 残そう…




〜プロローグ〜

古いノートは、祖父の匂いがした。

墨と、煙草と、それからもう一つ——言葉にできない何か。三十二歳の私、瀬川美里は、段ボール箱の底からそれを取り出した時、なぜか手が震えた。

祖父、瀬川誠一が逝って四十九日が過ぎた、十一月の午後のことだった。

実家の書斎は、祖父が生きていた頃のまま残されていた。木の机、古い椅子、壁一面の本棚。本棚には国語の教科書、古典文学の全集、辞書が何冊も並んでいた。祖父は定年まで国語教師を勤め、退職後もずっと言葉の海の中で生きていた人だった。

片付けを頼まれたのは私だった。父は仕事が忙しく、母は「あなたが一番おじいちゃんと気が合ったから」と言った。

確かにそうかもしれなかった。

私は子供の頃から、この書斎が好きだった。祖父に呼ばれもしないのに入り込んで、背伸びして本棚の本を眺め、知らない言葉を辞書で引いた。祖父は追い払いもせず、かといって歓迎もせず、ただ静かに自分の仕事を続けていた。その静けさが、居心地よかった。

段ボール箱の三箱目を開けた時、それは出てきた。

大学ノートだった。表紙は日焼けして茶色くなり、角が擦り切れ、背表紙の糸がほつれかけていた。五十年以上は経っているだろうと、見ただけでわかった。

開くのをためらった。

他人の日記を覗くような後ろめたさがあった。たとえ祖父のものであっても——いや、祖父のものだからこそ、そこに何か深いものがあるような気がして、踏み込んでいいものかどうか、迷った。

でも。

表紙を見た時、迷いは消えた。

そこに、一行だけ書いてあった。

  美里へ

私の名前だった。



〜登場人物一覧〜

 瀬川美里(せがわ・みさと)……主人公。32歳。広告代理店コピーライター。

 瀬川誠一(せがわ・せいいち)……美里の祖父。享年78歳。元国語教師・詩人。

 高村澄子(たかむら・すみこ)……誠一の生涯の想い人。80代。元国語教師。

 田島康介(たじま・こうすけ)……美里の恋人。36歳。広告代理店先輩社員。

 村田(むらた)………………………誠一の親友。法学部出身。


一章 祖父のノート

祖父は口数の少ない人だった。

饒舌な人間というものを、祖父は少し軽く見ていたふしがあった。「言葉は数より重さだ」と、珍しく口を開いた時に言っていた。その言葉自体が、祖父らしく短くて重かった。

定年まで国語教師を勤め、退職後は小さな菜園を耕し、夕方になると縁側で一人、何かを書いていた。何を書いているのか、誰も知らなかった。祖母は十五年前に他界していて、父も母も「お義父さんの趣味」と言って、深く踏み込まなかった。

私だけが、少し気になっていた。

子供の頃、縁側に近づくと、祖父はノートをそっと閉じた。怒るでもなく、隠すでもなく、ただ静かに閉じて、「美里は勉強したか」と聞いた。それだけだった。勉強のことなど聞きたくなかったが、祖父の目が穏やかだったので、怒る気にもなれなかった。

「何を書いてるの?」と一度だけ聞いたことがある。

祖父は少し間を置いた後、「昔のこと」と言った。

「昔って、どんな昔?」

「お前にはまだ早い」

「いつになったら早くなくなるの?」

祖父はその問いに、答えなかった。ただかすかに笑って、また縁側の向こうの庭を見た。

その祖父が、このノートを私に残した。

遺言書には、財産分与の他に一行だけ追記があった。

  書斎の棚、左から三番目のノートを、美里に。

なぜ私に。なぜ父や母ではなく。

遺言書を見た時から、ずっと気になっていた。そしてついに今日、そのノートが手の中にある。

表紙を開いた。

最初のページに詩が一篇、書かれていた。タイトルは「悔いを残そう!」とあった。

私は最後まで読んだ。

読み終わった時、気がついたら泣いていた。

なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、この詩を書いた人が——あの無口な祖父が——どれほど深いところで何かを抱えて生きてきたのか、その重さだけが、確かに伝わってきた。

  限定一個なものだから。

その一行が、胸に刺さって抜けなかった。

詩の次のページから、細かい文字で何かが書き続けられていた。日記でも、手紙でもない。それはまるで、誰かへの長い長い——告白のようだった。

窓の外で、枯れ葉が一枚、風に舞った。

私は読み始めた。


二章 三十二歳の私のこと

少し、自分のことを話しておく必要がある。

瀬川美里、三十二歳。東京の中堅広告代理店で、コピーライターとして働いている。仕事は好きだ。言葉を使う仕事だから、祖父譲りかもしれないと思う。

恋愛については——正直なことを言えば、うまくない。

二十代の頃に二度、付き合った人がいた。一人目は大学の同級生で、二年続いて、彼の転勤を機に自然に終わった。二人目は職場の先輩で、これも一年ほどで「方向性が違う」と言われて終わった。

どちらも、後悔していないと言えば嘘になる。

しかし、本当の意味で「この人だ」と思ったことが、まだ一度もなかった。それが正直なところだった。

三十を過ぎてから、周囲の結婚ラッシュが始まった。友人たちが次々と式の招待状を送ってきた。嬉しい反面、どこかで焦りが生まれていた。焦っているくせに、行動できない。それが自分でもどかしかった。

その「どかしさ」の原因は、たぶんわかっていた。

今の会社に、田島康介という人がいる。

三十六歳。チームの先輩。背が高く、声が低く、仕事が丁寧で、部下への気遣いが自然だった。私に対してだけ、少し——やさしい気がした。「気がした」というのが、また問題だった。

確信がなかった。

勘違いかもしれなかった。こちらから何か言って、空気が変わってしまったら。今の関係が壊れたら。毎朝の何気ない会話が、ぎこちなくなったら——。

考えるだけで怖かった。

だから私は一年間、何もしなかった。

祖父のノートを読んだその夜、私は久しぶりに田島さんのことを正直に考えた。

臆病な自分のことを。

そして祖父の詩の言葉を、繰り返し思った。

  その列車に乗り遅れると——。

私はまだ、ホームに立っているだろうか。それとも——もうすでに、乗り遅れているだろうか。


三章 母との電話

翌朝、実家に残っていた母に電話した。

「もしもし、お母さん。昨日、おじいちゃんのノートを見つけたんだけど」

「ああ、あったの? 遺言にあったやつね。どんなことが書いてあった?」

「それがね——」私は少し間を置いた。「お母さん、おじいちゃんって、おばあちゃんのこと、好きだったと思う?」

電話の向こうで、母が少し黙った。

「好きだったんじゃないの。長年連れ添ったんだから」

「そうじゃなくて。本当に、心の底から、好きだったと思う?」

また間があった。今度は長かった。

「……正直なことを言うとね」と母はゆっくり言った。「お義父さんは、おばあちゃんに対して、いつも少し、遠い人だったのよ。優しかったし、文句も言わなかったし、ちゃんとした旦那さんだったけど。でもどこか、別の場所を見ているような……そんな人だったわ」

私は受話器を強く握った。

「おじいちゃんの若い頃のこと、何か知ってる? 大学時代とか」

「知らないわよ、そんな昔のこと。あなたのお父さんだって知らないんじゃないかしら。ものを言わない人だったから」

「一度も、何も話さなかった?」

母はまた少し沈黙した。記憶を探るような間があった。

「あ……一度だけ」と母が言った。「おばあちゃんが亡くなった後の年に、ちょっとした法事があってね。その帰りに、珍しくお義父さんが少しお酒を飲んで。で、ぽつりと言ったの。『人生で一番大事な列車を、俺は乗り過ごした』って」

私の手が、少し震えた。

「……それで?」

「それだけよ。意味がわからなくて、聞き返す雰囲気でもなかったし、そのままにしてた。あなたのお父さんも聞こえてたと思うけど、誰も何も言わなかったわ」

「そう」と私は言った。

「なんでそんなこと聞くの? ノートに何か書いてあったの?」

「うん。ちょっと、いろいろ」

「気になるわね。今度見せてくれる?」

「……うん、いつか」

電話を切った後、私はすぐにノートを開いた。

祖父の「列車」は——いつ、どこで走っていたのだろう。


四章 田島さんとの朝

ノートの本文を読み進めるうちに、夜が明けた。

翌朝、目を腫らしたまま会社に行くと、田島さんが先に来ていた。コーヒーを淹れながら、振り向いて言った。

「おはよう、瀬川さん。顔色悪いけど、大丈夫?」

「徹夜したんです」

「え、仕事で?」

「違います。本を……ノートを読んでいたら、夜が明けてしまって」

田島さんは少し笑った。目が細くなる、あの笑い方で。

「瀬川さんらしいね。何のノート?」

「祖父が残してくれたものです。昔のことが、いろいろ書いてあって」

「へえ」田島さんはコーヒーカップを二つ持って、私の席の前に来た。「一つ、どうぞ」

「ありがとうございます」

私はカップを受け取りながら、田島さんの手を一瞬見た。大きくて、落ち着いた手だった。

「おじいさん、どんな人だったの?」

「口数の少ない人でした。でもノートを読んで——全然知らなかった面があって」

「人って、知ってるつもりで知らないよね」田島さんは自分の席に戻りながら言った。「俺の親父もそうだよ。死んでから、知らないことがいっぱい出てきた」

「田島さんのお父さんも?」

「うん。母親が片付けをしてたら、昔の恋文が出てきたんだって。母親に出したやつじゃない、別の人への」田島さんは苦笑いした。「母親、複雑な顔してたけどな」

私は少し笑った。

「人はみんな、言えなかった言葉を持ってるんですね」

「そうかもな」

田島さんはパソコンを開いた。私も自分の席でパソコンを立ち上げた。

でも画面を見ながら、別のことを考えていた。

祖父のことを。澄子さんのことを。そして——自分のことを。


五章 ノートの冒頭

その夜、改めて最初から丁寧にノートを読んだ。

詩のページの次に、こう書いてあった。

昭和三十八年 春、記す

 美里へ

 これを読んでいるということは、じいちゃんはもうこの世にいないということだな。

 遺言にお前の名前を書いた時、お前がどんな顔をするかと、少し想像した。驚くだろうな。なぜ自分に、と思うだろうな。

 父さんには向かない話だ。男というものは、父親の恋愛話を聞きたくない生き物だ。母さんには、なおさら向かない。嫁という立場では、受け取りにくかろう。

 しかしお前——美里、お前は昔から、じいちゃんが縁側で書いている時に、そっと近くに来ていたな。追い払っても、また来た。「何を書いてるの?」と聞いた。「いつになったら早くなくなるの?」と言った。

 あの目が、何かを知りたがっていた。

 あの目が、言葉というものの重さを知りたがっていた。

 だからこれを、お前に残す。

 お前なら受け取れると思った。

 これは、じいちゃんの、生涯ただ一つの恋の話だ。

 うまく伝わるかどうか、じいちゃんにはわからない。じいちゃんは詩を書いてきたくせに、自分の気持ちを言葉にするのが、誰よりも下手だったから。

 でも、書く。

 書かないまま死ぬよりも、書いて死にたいと思った。

 それだけが、じいちゃんの「良い悔い」への、せめてもの抵抗だ。

 読んでくれ、美里。


私は顔を上げた。

窓の外に、夜の街の光が広がっていた。

祖父がこれを書いた時——何歳だったのだろう。どんな気持ちで、「美里へ」と表紙に書いたのだろう。

私はゆっくりと、次のページをめくった。


 〜昭和三十八年〜

六章 春、桜並木の出会い

昭和三十八年。

瀬川誠一は二十二歳だった。

東京の私立大学の文学部に通い、詩と小説と、それから友人たちとの熱い議論を愛する青年だった。故郷は群馬の小さな町で、仕送りは最低限、アルバイトで食いつないでいた。貧しかったが、それが気にならないくらい、毎日が濃かった。

文芸部に所属し、同人誌を年に二回出していた。部員は十二人。誠一はその中で最も詩に熱心で、最も批評に厳しく、最も議論が長かった。

図書館が好きだった。

金のかからない娯楽として通い始めたが、次第に図書館の空気そのものが好きになった。静けさと、紙と埃の匂いと、時間の密度が違う感覚。カウンターの司書のおじさんは口数が少なく、誠一のことを顔で覚えていて、いつも黙って入館証を受け取った。

その図書館の文学部の棚の前で、彼女をよく見かけた。

最初に気づいたのは、二月の終わりだった。

ベージュのコートを着た女が、背筋をまっすぐに伸ばして、本棚を見上げていた。指先で背表紙をなぞりながら、静かに本を選んでいた。顔立ちは整っていて、目が涼しくて、口元が少し厳しかった。しかし本を手に取り、ページを開いた瞬間だけ——表情が柔らかくなった。

その一瞬が、誠一には印象的だった。

それから何度か、同じ棚の前で顔を合わせた。

向こうも誠一に気づいているようだったが、目が合うと視線を本に戻した。誠一も何となく声をかけそびれていた。同じ大学の学生だろうとは思っていたが、確信はなかった。

四月になり、桜が満開になった日のことだった。

図書館からの帰り道、桜並木の下で彼女を見かけた。

今日は一人で、立ち止まって桜を見上げていた。花びらが風に舞って、彼女の黒い髪に何枚か落ちた。それを払いもせずに、ただ空を見ていた。

誠一は気がついたら歩み寄っていた。

「また図書館の人だ」と彼女は言った。

視線をこちらに向けずに、桜を見たまま言った。驚いた。向こうも気づいていたとは思っていなかった。

「君も気づいてたのか」と誠一は言った。

「当たり前よ。いつも私の方を見てるんだもの」

直球だった。誠一は少し赤くなった。

「悪かった」

「謝らなくていい。私も見てたから」

そう言って、彼女はようやく誠一の方を見た。

目が合った。涼しくて、しかし温度のある目だった。

「私は高村澄子。文学部の三年」

「瀬川誠一。同じく文学部、三年」

「知ってる」と澄子は言った。「詩を書いてるでしょう」

「なんで知ってる」

「文芸部の同人誌、読んだから」

誠一は黙った。同人誌など、部員とその知り合いに配るだけのもので、何十部しか刷らない。その小さな冊子を、この女は読んでいた。

「どうだった」と、聞かずにはいられなかった。

澄子は少し考えた。桜の花びらが一枚、彼女の肩に落ちた。

「熱くて、若くて、少し恥ずかしい。でも——本物だと思った」

誠一は、その言葉の意味を確かめるように、もう一度澄子の顔を見た。

澄子は既に桜に視線を戻していた。

「本物、か」と誠一は呟いた。

「そう。ごまかしがない。自分の言葉で書いてる。それが伝わる」

誠一の胸の中で、何かが動いた。

それが何かを、その時の誠一はまだわからなかった。ただ——この女と、もっと話したいと思った。


七章 初夏、文学論争

それから二人は、よく話すようになった。

図書館の帰り道、食堂の隅、大学の中庭のベンチで。最初は文学の話だった。澄子は国文学を専攻し、古典から現代文学まで幅広く読んでいた。好みが明確で、気に入らないものは気に入らないとはっきり言った。

「川端康成は好きか?」と誠一が聞いた。

「美しいとは思う。でも、女の描き方がどこか標本みたい」と澄子は言った。

「標本?」

「ガラスケースの中に飾られてる感じ。生きてない」

「じゃあ誰が好きだ」

「樋口一葉」澄子はすぐに答えた。「あの人は生きてる言葉を書く。貧しさも、悔しさも、恋も——全部が本物の重さを持ってる」

「女性作家だから肩入れしてるんじゃないのか」

澄子は少し眉を上げた。

「そういう見方をするあなたこそ、偏ってると思うけど」

「……それはそうだな」

誠一は素直に認めた。澄子の前では、変な見栄を張る気にならなかった。

誠一が書いたものを持っていくと、澄子は必ず読んで感想を言った。褒める時は少なく、批評は容赦なかった。しかし批評の中に、必ず一筋、光が見えた。

「ここだけは本物ね」

澄子がそう言う一行のために、誠一は書いているような気がした。

五月になり、木々が濃い緑になった頃、誠一の親友の村田が澄子のことを聞いてきた。

村田は法学部の男で、誠一の中学からの友人だった。がさつで陽気で、しかし義理堅い。

「お前、最近よく一緒にいる女、誰だ」

「文学部の高村」

「付き合ってるのか?」

「違う」

「じゃあ何なんだ」

誠一は少し考えた。

「……友人、だと思う」

「お前の顔が友人の顔じゃないぞ」村田は笑った。「好きなんだろ、はっきり言えよ」

「うるさい」

「言わないと後悔するぞ」

「わかってる」

「わかってるなら言え」

誠一は答えなかった。

しかし——わかっていた。自分の中に、何かが育ちつつあることを。


八章 夏、多摩川の夕暮れ

夏になった。

七月の終わり、二人で多摩川に行った。澄子が「川を見たい」と言い出したのだった。特に深い理由はないようだった。ただ、たまに澄子はそういうことを言った。「海が見たい」「山が見たい」——言葉で飯を食おうとしている人間のくせに、言葉より景色を欲する瞬間があった。

誠一はその感覚が好きだった。

多摩川の土手に着いた時、夕方が近かった。

川面が橙色に光り、対岸の空が赤く染まり始めていた。土手の草は長く伸びていて、風が吹くとさわさわと揺れた。

澄子は草の上に腰を下ろした。膝を抱えて、ただ川を見ていた。誠一もその横に座った。二人の間に、半メートルほどの距離があった。

しばらく、何も言わなかった。

黙っていられるのが、澄子といると心地よかった。沈黙を埋めようとしなくていい。ただそこにいるだけで、何かが満ちてくる。

「誠一は将来、どうするの?」と澄子が言った。

「詩人になりたい。なれるかどうかはわからないけど」

「なれると思う」と澄子はすぐに言った。「私じゃなくて、あなたの詩がそう言ってる」

誠一は川を見たまま、胸の中で何かが揺れるのを感じた。

「澄子は?」

「先生」澄子も迷わず答えた。「国語の先生。子供たちに言葉の力を教えたい。言葉があれば、孤独じゃなくなれる。誰かに届けることができる。そのことを、教えたい」

「それはいい」と誠一は言った。心から、そう思った。

日が傾いた。川面の色が変わった。橙から、薄い紫へ。

誠一は言おうとした。

今がその時だと、体の奥の何かが言っていた。

「澄子——」

声に出した。しかし、続かなかった。

澄子が振り向いた。

「何?」

誠一はその顔を見た。夕暮れの光の中で、澄子の目が静かに誠一を見ていた。待っていた。

——言えなかった。

「いや、何でもない」と誠一は言った。

澄子はほんの一瞬、何か言いたそうな顔をした。しかしすぐに川に視線を戻した。

「そう」とだけ言った。

日が沈んだ。川面が暗くなった。

二人は並んで土手を下った。肩が触れそうな距離で、触れなかった。

誠一は後に、あの夕暮れを何百回も思い返すことになる。

なぜ言えなかったのか。

怖かったのだ。この関係が変わることが。澄子に「違う」と言われることよりも、あの静かで豊かな時間が終わることの方が、怖かった。

しかし——その「怖さ」こそが、誠一の生涯を変えた。


九章 夏の終わり、文芸部の夜

八月の終わり、文芸部の合宿があった。

奥多摩の古い旅館を借りて、二泊三日で各自の原稿を持ち寄り、朝から夜まで読み合わせをした。誠一は詩を五篇持っていった。

澄子は文芸部ではなかったが、部員の一人の友人として参加した。

夜、縁側で涼んでいた時、澄子が誠一の詩稿を読んでいた。

「これ」と澄子が言った。「この詩、誰への詩?」

誠一が覗くと、夏の終わりの詩だった。川面と夕暮れと、言えなかった言葉——をテーマにして書いた詩だった。まさか澄子に気づかれるとは思っていなかった。

「……誰への、ということはない」と誠一は言った。

「嘘つき」澄子は詩稿をそっと置いた。「詩は嘘をつかないのに、詩人は嘘をつく」

「……」

「いい詩よ。あなたの中でいちばんいい」

それだけ言って、澄子は立ち上がった。

「おやすみ、誠一」

「おやすみ」

澄子の足音が廊下の奥に消えた後、誠一は一人で夜の山を見ていた。

虫が鳴いていた。

遠くで川の音がした。

誠一は拳を握った。


十章 秋、影の男

九月になって、変化が起きた。

澄子の周りに、別の男が現れた。

法学部の男で、名前は田中という。誠一の友人の村田から聞いた。「弁護士志望の、頭のいい男だ。あいつ、高村に惚れてるらしい」

誠一は何も言わなかった。

しかし、図書館で二人が話しているのを、離れた棚の陰から見た時——胸の中に、黒いものが広がった。

澄子が笑っていた。

あの、本のページをめくる時だけ見せる、柔らかい表情を——その男に向けていた。

嫉妬、とはっきりわかった。みっともないとわかった。しかし止められなかった。

その日から、誠一は澄子から距離を置いた。

図書館に行く時間をずらした。食堂で顔を合わせても、会釈だけして席を別にした。澄子は何も言わなかった。ただ、一緒にいる回数が自然と減った。

村田に相談した。

「はっきり言えばよかったんだよ」村田は言った。「夏にチャンスがあったんだろ。なんで言わなかったんだ」

「怖かった」

「それだけか?」

「それだけだ」

村田は呆れたような顔をした。

「お前みたいな男が、なんで詩で人の心を動かせるんだ。自分の気持ちも言えないくせに」

「……うるさい」

「言えよ、まだ遅くない」

誠一は答えなかった。

田中という男が澄子に近づいている。今更自分が「好きだ」と言っても、後出しじゃないか。卑怯じゃないか。——そう思っていた。

しかしそれは、言い訳だった。

本当のところは——まだ怖かっただけだ。


十一章 冬、澄子の手紙

十一月になり、銀杏が黄色く色づいた。

誠一は相変わらず、澄子との距離を縮められないでいた。田中という男が澄子とどういう関係なのか——友人以上になったのかどうか——知りたいような、知りたくないような。

十二月に入ったある日、澄子から手紙が届いた。

大学の学生課の私書箱に入っていた。封筒の宛名は誠一の名前で、差出人に「高村澄子」とあった。

誠一は図書館のテーブルで封を開けた。


  誠一へ

  今月で私は郷里に帰ります。
  実家の近くの中学校で、来春から国語を教えることになりました。
  夢だった仕事に就けること、嬉しく思っています。

  誠一の詩を、ずっと読んでいました。
  これからも書き続けてください。
  あなたの言葉は、本物だから。

  最後に、一つだけ聞かせてください。
  あの夏の多摩川で、何か言いかけて、やめたことがあったでしょう。
  あの時、何を言おうとしていたのですか。

  返事を待っています。

           高村澄子


誠一は手紙を持ったまま、長い時間、動けなかった。

図書館の時計が、秒を刻んでいた。

あの時、何を言おうとしていたのですか——。

澄子は知っていた。あの夕暮れに、誠一が何かを言いかけたことを、ずっと知っていた。そして今、直接に聞いてきた。

返事を書こうとした。

その日の夜、下宿の机に向かって、何度も書いた。

「あの時、君に言おうとしていたのは——」

途中で破り捨てた。

「澄子へ、俺は君のことが——」

また破り捨てた。

言いたいことが多すぎた。一年分の気持ちが、手紙という小さな枠に収まらなかった。直接に、顔を見て、声で伝えなければならない気がした。だから——会いに行こうと思った。

しかし。

行かなかった。

なぜ行かなかったのか。

誠一は生涯をかけて、その問いと向き合い続けた。最後まで、すっきりとした答えは出なかった。ただ確かなのは——臆病だったということだ。

もし直接会って「好きだ」と言って、澄子に断られたら——その瞬間に、すべてが終わる。その怖さが、誠一の足を止めた。

返事のないまま、澄子は郷里へ帰った。

十二月の終わりのことだった。


十二章 その後の誠一

翌春、誠一は大学を卒業した。

詩人になる夢は、現実の前に静かに退いた。

詩で食えぬとは最初からわかっていた。しかしもう少し抵抗できると思っていた。しかし父が病気になり、仕送りの逆流が必要になり、誠一は安定した職を探した。

採用試験を受けて、国語教師になった。

澄子と同じ道を、澄子のいない場所で歩き始めた。

最初の赴任先は、東京郊外の中学校だった。教壇に立ちながら、「澄子も今、同じ場所に立っているのだろう」と思った。

子供たちに言葉を教えながら、心の奥の誰にも見せない場所では、あの夏の多摩川と、冬の手紙が、変わらず光り続けていた。

三年後、誠一は見合いをした。

相手は同僚の紹介で、名前を佐藤みつ子といった。穏やかで、笑顔の多い人だった。澄子とは似ていなかった。しかしだからこそ、誠一は前を向けた。

みつ子との結婚を決めた時、誠一は心の中で澄子に別れを告げた。

——澄子、俺は別の道を行く。お前のいない道を、誠実に生きる。

それは嘘ではなかった。

誠一はみつ子に対して、誠実な夫であろうとした。それは果たせたと思う。みつ子は良い妻だったし、誠一も良い夫であろうとした。子供が生まれ——美里の父が生まれ——家族ができた。

ただ、あの一行だけが、ずっと心の奥に残り続けた。

  あの時、何を言おうとしていたのですか。


十三章 六十代の誠一

定年退職した年の秋、誠一は詩を書き始めた。

若い頃に書いていた詩を、何十年ぶりかで。

退職のお祝いに、みつ子が万年筆をくれた。

「ずっと書きたそうにしてたから」とみつ子は言った。「書けばいいのよ、好きなだけ」

誠一は少し驚いた。みつ子はそういうことに、あまり口を出さない人だった。

「書いていい?」と誠一は聞いた。

「どうして聞くの」みつ子は笑った。「あなたのものを書くのに、許可はいらないわ」

翌日から誠一は縁側に出て、ノートに向かった。

書いては消し、書いては消した。

若い頃の詩は熱くて荒削りだった。今の自分の言葉は——もう少し静かで、しかし深い場所から来る気がした。

いくつもの詩を書いた。

その中に、あの夏のことを書いた詩があった。多摩川の夕暮れ。言えなかった言葉。帰ってこなかった手紙。それを正面から書いた。

書いて初めて、誠一は気づいた。

この気持ちは、消えていなかった。

薄くなっていた。遠くなっていた。しかし——消えてはいなかった。

それが悲しいことなのか、それとも人間として当然のことなのか、誠一にはわからなかった。ただ、書くことで少し、楽になった。


十四章 みつ子の死と、ノートの決意

みつ子が亡くなったのは、誠一が六十八歳の時だった。

癌だった。発見から一年半、穏やかに、最後まで誠一を気遣いながら逝った。

みつ子が逝った後、誠一は半年間、縁側に出なかった。詩も書かなかった。ただ、菜園の世話だけをした。土を触っていると、何も考えなくて済んだ。

半年が過ぎた春、庭の梅が白く咲いた。

誠一はまた縁側に座った。

万年筆を取り出した。みつ子がくれたあの万年筆を。

そして——新しいノートを開いた。

表紙の裏に、誠一は書いた。

  美里へ

孫の顔を思い浮かべた。あの子なら——受け取れると思った。あの目が、言葉の重さを知りたがっていた。

その夜から、ノートへの記述が始まった。

昭和三十八年の春から、書き始めた。あの桜並木から。図書館の棚の前から。澄子の横顔から。

書きながら、誠一は何度も泣いた。

それが恥ずかしかった。七十近い老人が、五十年前の恋を思い出して泣くのが、みっともないと思った。

しかしやめなかった。

書くことが——「良い悔い」を残すことだと、誠一は思っていた。

悔いを消すことはできない。しかし形にすることはできる。

形にした悔いは、次の誰かに届くかもしれない。


十五章 返事を待ちながら

昭和三十八年、十二月。

高村澄子は諏訪の実家に帰った。

荷物は大きなトランク一つと、本が詰まったダンボール二箱だった。父が駅まで迎えに来ていた。「お帰り」とだけ言って、荷物を持ってくれた。それだけで十分だった。

実家は諏訪湖から歩いて十分の場所にある古い家だった。縁側から湖が見えた。冬の湖は鉛色で、静かだった。

返事を待った。

一週間。二週間。年が明けた。

誠一からの手紙は来なかった。

澄子は毎日、郵便受けを確認した。それが習慣になった。来ない日の方が多くても、確認をやめなかった。

三月になり、春の便りが届き始めた。

誠一からの手紙だけが、来なかった。

澄子は、ある日の夕方、諏訪湖の岸辺に一人で行った。冬の名残を引きずった風が冷たかった。湖の水面を眺めながら、澄子は静かに結論を出した。

——返事は来ない。

それが答えだ。

泣かなかった。泣くのは家に帰ってからにしようと思っていたが、家に帰っても泣かなかった。

ただ——あの夏の多摩川を思った。

誠一が「澄子——」と言いかけて、やめた瞬間を。

あの時、誠一が続きを言っていたら。自分が先に言っていたら。どちらかが、一言だけ踏み出していたら——。

「たったの一言で、変わっていたんだよ」と澄子は、五十年後に美里に言う。「でも私たちは、両方とも、踏み出せなかった」


十六章 諏訪の教師

翌春、澄子は中学校の国語教師になった。

最初の授業で、澄子はこう言った。

「言葉には力がある。誰かに届けることができる力が。今日からみなさんに、その力の使い方を教えます」

生徒たちはきょとんとした顔をしていた。

澄子は笑った。

それから三十五年間、澄子は諏訪の子供たちに言葉を教えた。

詩の授業が得意だった。生徒に詩を書かせ、声に出して読ませた。「上手い下手じゃない、本物かどうかだ」と言い続けた。——誠一が自分に言った言葉を、子供たちに伝え続けた。

三十代の頃、一度だけ、結婚の話があった。

地元の銀行員で、真面目な人だった。断った理由を、澄子は誰にも言わなかった。

ただ、誠一のことを引きずっていたとは、自分では思っていなかった。

「その人が私の相手じゃなかった、それだけのこと」と後に言った。

しかし——心の奥の引き出しの中に、誠一の面影がしまわれていたことは、否定しなかった。


十七章 七十歳の澄子

七十歳で退職した澄子は、諏訪湖の見える小さなアパートに移った。

一人で暮らし、本を読み、時々元教え子が訪ねてきた。

孤独ではなかった。

言葉の仕事をして、言葉で人と繋がって——澄子の人生は、ちゃんと満ちていた。

しかし時々、秋の夕暮れに湖を眺めながら、思い出すことがあった。

あの桜並木。図書館の棚。多摩川の夕暮れ。

「本物だと思った」と言った、あの日の自分の言葉を。

誠一が詩人になったかどうか——澄子は知らなかった。

名前を検索する手段が今はあるが、澄子はしなかった。知って何かが変わるわけでもないし、何より——知ることで、あの頃の記憶が変質してしまいそうで、怖かった。

ただ、誠一がどこかで今も生きていて、今も言葉と共にいてくれると——そう信じていた。

その信念は、間違っていなかった。


十八章 美里、諏訪へ

ノートを読み終えた時、夜が明けていた。

私は長い間、動けなかった。

高村澄子。

その名前が、頭の中で光っていた。

祖父は澄子に会いに行かなかった。手紙に返事を出さなかった。その後五十年、自分の「限定一個」を胸に抱えたまま、七十八年の人生を終えた。

何かを確かめたくなった。

澄子さんが、今もどこかにいるのかどうか。あるいは、もうこの世にいないのか。それだけでも知りたかった。

ノートの末尾に、小さく書いてあった。

  澄子が帰ったのは、長野の諏訪だと聞いた。
  諏訪の中学校で教えると言っていた。
  それだけしか知らない。

私はスマートフォンで調べ始めた。「高村澄子」「諏訪」「元教師」「国語」——いくつものキーワードを試したが、それらしい人物は見つからなかった。

当然だった。七十代の元教師が、ネット上に情報を残しているわけがない。

でも——行ってみようと思った。

諏訪湖の見える町に。祖父が心に刻んでいた場所に。

何も見つからなくてもいい。ただ、その空気を感じてみたかった。

週末、私は特急あずさの切符を買った。


十九章 諏訪湖の岸辺

十一月の終わり、諏訪に着いた。

駅を出ると、冷たい風が吹いていた。山に囲まれた盆地の、澄んだ冷気だった。

諏訪湖は駅から歩いて十分ほどの場所にあった。

湖が見えた時、足が止まった。

鉛色で、広くて、静かだった。山が遠くに白く光っていた。空が高かった。

祖父の詩の言葉が、頭の中で鳴った。

  一瞬の時間を間違えると
  その列車に乗り遅れると——

祖父はここを知らなかった。しかし澄子さんはここで生きた。この湖を見ながら、返事を待った。

私は岸辺を歩いた。

観光客は少なかった。地元の老人が犬を散歩させていた。遠くで子供たちが自転車で走っていた。

「もしかして——東京の方?」

背後から声がした。

振り向くと、白髪の小柄な老婦人が立っていた。八十代だろうか。真っ直ぐな背筋で、目が澄んでいた。厚いコートを着て、一人で湖を見ていた。

「はい、東京から来ました」と私は言った。「なぜわかったんですか?」

「雰囲気ね」と老婦人は言った。「東京の人は、景色を見る目が違う。少し急いでいる。それでも、今日のあなたは違った。ここにいる理由が、観光じゃない目をしてたから」

私は少し驚いた。

「あの——」と私は言った。声が少し震えた。「高村澄子さん、という方を探しているんですが。昔、この辺りの中学校で国語を教えていた方で——」

老婦人の表情が、ゆっくりと変わった。

何か深いところで、扉が開くような変化だった。

「……私ですよ」と老婦人は言った。静かに。「あなたは誰?」

「瀬川誠一の——孫です。瀬川美里と申します」

澄子さんが、黙った。

三秒か、五秒か。

その沈黙の間、諏訪湖の風が吹いた。

「……来たのね」と澄子さんは小さく言った。「誰かが来ると思ってた。誠一さん本人じゃないかもしれないとは思ってたけど——来ると思ってた」

「なぜですか?」

「あの人の詩を読んだから。本物の言葉は、必ず誰かに届く。形を変えて、時間を越えて、必ず届く」

澄子さんの目が、少し光った。

「誠一さんは、いつ亡くなったの?」


二十章 喫茶店の午後

湖畔の小さな喫茶店に入った。

地元の常連らしい老人が二人、隅のテーブルで将棋を指していた。カウンターの奥で、マスターが静かにコーヒーを淹れていた。

私と澄子さんは窓際に向かい合って座った。

「二ヶ月前です。七十八歳でした」私は言った。

澄子さんは頷いた。

「そう」とだけ言った。その二文字に、長い時間が詰まっていた。

「おじいちゃんのノートを読みました」と私は言った。「澄子さんのことが、たくさん書いてありました。桜並木のこと、多摩川のこと、手紙のこと——」

「手紙の返事は、来なかったわ」澄子さんは言った。静かな声で。「ずっと待ったけど、来なかった」

「ごめんなさい」と私は言った。

「謝らなくていいわよ」澄子さんは微笑んだ。「あなたのせいじゃない。誠一さんのせいでもない、本当は。人間というのは——言えない生き物なのよ、大事なことは。言えるようになるのに、時間がかかりすぎる」

「澄子さんは——おじいちゃんのことが、好きでしたか?」

直接すぎる問いだと思った。しかし聞かずにはいられなかった。

澄子さんはコーヒーを一口飲んだ。それから正直に言った。

「好きだったわよ。あの人の詩が好きで、あの人の真剣な目が好きで、あの人の前でだけ、本当のことが言えた。あんな人は、後にも先にもいなかった」

私は胸が痛かった。

「でも」と澄子さんは続けた。「悔いていないの。不思議でしょう?」

「……どういうことですか?」

「あの手紙を書いた時、私は正直だった。『あの時、何を言おうとしていたの』と直接聞いた。言えないなら言えないで、それが答えだと思った。私は自分の気持ちに正直だった。それだけで——十分だったと、今は思う」

「でもおじいちゃんは言えなかった。澄子さんは待ち続けた」

「そう」澄子さんは頷いた。「それが誠一さんの悔いになったのね。あなたがここに来たのが、その証拠よ」

私は窓の外の湖を見た。

「澄子さん」と私は言った。「おじいちゃんは、ノートの末尾にこう書いていました。『悔いは次の誰かへのバトンになる』と」

澄子さんが少し目を細めた。

「いい言葉ね」

「私がここに来たのが——そのバトンを受け取ったからだと思います。そしてもう一つ——私自身の話を、聞いてもらえますか」

「もちろん」

私は田島さんのことを話した。一年間、言えなかったこと。祖父のノートを読んで、背中を押されたこと。

澄子さんは静かに聞いていた。

最後に、こう言った。

「言いなさい」

シンプルに、それだけだった。

「でも怖いんです。拒否されたら——」

「怖くていい」澄子さんは言った。「怖くないなら、大事じゃないってこと。怖いのは、大事な証拠。大事だから、言わないといけない」

「澄子さんは——後悔していないんですか、本当に」

澄子さんはしばらく考えた。

「後悔はある。でも、悔いとは違う。後悔というのは、自分のした選択を憎むこと。悔いは——自分の限界を知ること。私は正直に生きた。誠一さんも、誠実に生きたと思う。その上で残った悔いは——美しい悔いよ」

「美しい悔い」

「燃え尽きるように生きて、それでも残ったものだから」

窓の外で、諏訪湖が光っていた。

山の向こうに、夕暮れが近づいていた。


二十一章 帰りの列車

特急あずさに乗った。

車窓の外を、暗くなりかけた山が流れていった。

私は田島さんにメッセージを送った。

 「来週の土曜日、空いていますか。話したいことがあります」

すぐに返信が来た。

 「空いてます。どこにする?」

私は少し笑った。

祖父は言えなかった。澄子さんの手紙に返事が書けなかった。その言えなかった言葉が、五十年の時を越えて、今の私の背中を押している。

言えなかった誰かの悔いが、言える誰かを作る。

それが「良い悔い」というものかもしれない。

私は返信を打った。

 「諏訪湖が好きになりました。いつか一緒に行きませんか。その前に、まず近くのカフェで話せますか」

送信ボタンを押した。

列車は走り続けた。

甲府を過ぎ、笹子トンネルを抜け、東京へと向かった。

夜の街の光が見え始めた頃、また返信が来た。

 「諏訪湖、行ったことない。いいね。土曜日、楽しみにしてます」

私は窓に映る自分の顔を見た。

泣きそうになっているのに、笑っていた。


二十二章 土曜日の朝

土曜日の朝、私はいつもより一時間早く起きた。

着る服を三回変えた。鏡を見るたびに「違う」と思って、また変えた。最終的に、一番最初に選んだ服に戻った。

自分がおかしくて、少し笑った。

待ち合わせは駅前の、明るくて静かなカフェだった。

田島さんは先に来ていた。窓際の席で、珈琲を飲みながら外を眺めていた。こちらに気づくと立ち上がって、「おはよう」と言った。

「おはようございます」

向かいに座った。

珈琲を注文して、少しの間、当たり障りない話をした。天気のこと、先週の仕事のこと。田島さんはいつも通りで、それが逆に、私を落ち着かせた。

しばらくして、田島さんが言った。

「で——何を話したかったの?」

真っ直ぐな問いだった。田島さんはいつも、こういう人だ。

私は深呼吸した。

祖父の声が聞こえた気がした。

  言え。怖くても、言え。

「ずっと言えなかったことがあって」と私は言った。

「うん」

「田島さんのことが——好きです。一年くらい前から、ずっと」

田島さんは黙った。

珈琲カップをテーブルに置いて、私を見た。

三秒間。

その三秒間に、私は祖父のことを思った。あの夏の多摩川。夕暮れの中で「澄子——」と言いかけて、止まった誠一。

私は止まらなかった。

田島さんが言った。

「気づいてなかった——と言ったら、嘘になる」

「え」

「なんとなく、わかってた。こちらから切り出すのもどうかと思って、ずっと様子を見てた」

私は思わず笑ってしまった。

「おかしい?」と田島さんが言った。

「おかしくないです。ただ——二人とも、同じだったんだなって思って」

「そうだな」田島さんも笑った。「で——どうする?」

「ちゃんとお付き合いしたいです」と私は言った。

「それを聞きたかった」

窓の外で、朝の光が街を照らしていた。

冬の澄んだ光だった。


二十三章 ノートの末尾

その夜、私はまたノートを開いた。

最後のページを、もう一度読んだ。亡くなる少し前に書いたらしく、文字が少し乱れていた。


  美里へ

  じいちゃんは一つだけ、悔いている。
  澄子に会いに行かなかったこと。
  手紙を返さなかったこと。
  あの夏に、言わなかったこと。

  しかし不思議なことに、その悔いがあったから、じいちゃんはずっと正直に生きようとした。
  言葉の力を信じ続けた。
  教え子たちに「言葉を大切にしろ」と言い続けた。

  悔いは人を動かす。
  悔いは次の誰かへのバトンになる。

  お前に伝えたいことは一つだけだ。

  好きな人がいたら、言え。
  怖くても、言え。
  その列車に、乗れ。

  じいちゃんは乗り遅れた。
  お前は乗れ。

  さあ、良い悔いを残せ。

          瀬川誠一


私は声を出して泣いた。

誰もいない部屋で、一人で、声を出して泣いた。

泣きながら、笑っていた。

祖父の悔いが、私の背中を押してくれた。

祖父の言えなかった言葉が、私に言葉を使う勇気をくれた。

祖父が乗り遅れたから——私は乗ることができた。

これが、「良い悔い」というものだろうか。

澄子さんの言葉が蘇った。

  燃え尽きるように生きて、それでも残った悔いは——次の誰かへのバトンになる。

祖父は乗り遅れた。

でも、そのバトンを私が受け取った。

私は乗った。



〜エピローグ〜

翌年の春、私は田島さんと諏訪湖を訪れた。

桜が咲き始めた四月の週末だった。

特急あずさで並んで座りながら、田島さんは窓の外の山を眺めていた。

「なんで諏訪湖に来たかったの?」と田島さんが聞いた。

「祖父が残したノートに、出てくる場所だから」と私は言った。

「おじいさん、諏訪に縁があったの?」

「縁というか——ここで生きた人が、祖父の心の中にずっといたんです」

田島さんは少し考えてから、「そっか」と言った。

「怒らない?」と私は聞いた。

「何で俺が怒るんだ」田島さんは笑った。「過去を大切にしてる人は、今も大切にできる。俺はそう思う」

私は田島さんの横顔を見た。

好きだなと思った。素直に、そう思えた。


澄子さんには事前に連絡をしていた。

「また来るかもしれません」と諏訪を去る前に伝えていたら、澄子さんが「いつでも来なさい」と言ってくれた。

湖畔の喫茶店で、三人で会った。

田島さんを紹介すると、澄子さんは目を細めて笑った。

「誠一さんに少し似た目をしてるわね」

「え、誠一さんって?」と田島さんが不思議そうに聞いた。

「美里さんのおじいさんよ」澄子さんは言った。「私の——大切な人」

田島さんは私を見た。私は少し頷いた。

田島さんは何も言わなかった。ただ澄子さんに向かって、「そうですか」と静かに言った。

三人で湖岸を歩いた。

澄子さんが少し遅れて歩いていた。田島さんと私は並んで歩きながら、時々後ろを振り返った。

澄子さんは湖を見ていた。

静かに、遠くを見ていた。

その目に、何が映っているのかは、わからなかった。

でも——穏やかだった。

美しい穏やかさだった。

燃え尽きた後の、静かな明るさのような。


湖の対岸に、雪をかぶった山が白く輝いていた。

風が渡った。

水面が光った。

私は田島さんの手を、そっと握った。

田島さんが少し驚いて、私を見た。それから笑って、握り返してくれた。

祖父に話しかけた。声には出さなかったが。

 おじいちゃん、乗ったよ。

 おじいちゃんの悔いが、私を乗せてくれた。

 ありがとう。

 良い悔いを残してくれて、ありがとう。

遠くで澄子さんが、湖に向かって何か呟いていた。

聞こえなかった。

聞こえなくて、よかった。

それは澄子さんと誠一さんの——二人だけの言葉だから。

諏訪湖の風が、空へ向かって吹き上がった。

どこか遠い場所へと、運ばれていくように。

ー了ー



〜あとがき〜

「悔いを残すな」と人は言います。しかし人は必ず悔いを残す。ならばいっそ、「良い悔い」を残そうではないか——そんな逆説的な問いかけが、この小説の出発点です。

 誠一の悔いは美里に届きました。言えなかった言葉は失われたのではなく、形を変えて次の世代に受け継がれました。

 澄子は五十年待ちました。しかし悔いていないと言いました。自分の気持ちに正直だったから。その正直さが、彼女の人生を豊かにしました。

 誠一は乗り遅れました。しかしその悔いがバトンになりました。美里がそのバトンを受け取り、列車に乗りました。

 悔いには二種類あります。

 ただ苦く残るだけの悔いと、誰かの背中を押す悔いと。

 その違いは、どれだけ正直に、燃え尽きるように生きたか——ではないかと思います。

 あなたの心の中に、まだ言えていない言葉はありますか。

 まだ乗っていない列車は、ホームに停まっていますか。

 今日もどうか——良い悔いを残してください。