見掛けの良い男に

中身の良い男はいないと

モテない僕らは知っている


でも

それでも

ひとりくらい

例外があることも知っている…


振り返れば

この65年間

モテたことなど

1度もなかったけれど


心を拾ってくれた

数人の彼女たちと

カミさんとに

感謝してみる今日…



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It’s Magic
〜外見と中身と、魔法が解けたあとの物語 〜

見えない魔法、見つけた
お皿の裏を洗う、その人


男は外見ではなく中身だって いつぞやかどなたかが言ってたけれども 残念ながら、中身の前には やはり外見が ってことなよ~だ…





ーまえがきー
あなたの人生に、澄子のような人はいましたか。

特別なことを言うわけではない。何か大きなことをしてくれるわけでもない。でもいつも同じ場所にいて、何も訊かずに、ただ静かに微笑んでいる人。

そういう人が、不思議と記憶に残ります。

派手な言葉より、静かな存在が。劇的な出来事より、繰り返される日常が。

この物語に登場する人たちは、みな普通の人間です。

特別に美しい人も、特別に賢い人も、特別に強い人も、いません。外見がよすぎることに悩む男がいて、外見が怖くて踏み出せない女がいて、外見の平凡さを抱えて生きている男がいて、年をとってからようやく外見に意味を見出した女がいます。

みんな、どこかに傷を持っていて、どこかに丁寧さを持っていて、どこかで誰かのことを思っています。

読み終えたとき、あなたの隣にいる人の「見えないところ」が、少し見えるようになったなら、これほどうれしいことはありません。



ー登場人物ー

桐島 澄子(きりしま すみこ) ― 昭和三十八年生まれ。現在六十歳。小料理屋「あさぎ」の女将。

桐島 誠一(きりしま せいいち) ― 澄子の亡夫。享年五十八歳。

椎名 凛(しいな りん) ― 二十七歳。澄子の姪。出版社勤務。

谷口 壮介(たにぐち そうすけ) ― 二十九歳。凛の同僚。外見に恵まれた男。

田中 哲也(たなか てつや) ― 三十歳。凛の幼馴染。平凡な外見の男。


序章 微笑みの理由

令和六年、初秋。

東京・神楽坂の路地裏に、暖簾をくぐると十二席だけの小さな店がある。屋号は「あさぎ」。浅葱色の暖簾が夕暮れの風にゆれるその店の女将は、いつも同じ場所に立っていた。カウンターの内側、ちょうど燗酒の徳利を手にとれる位置。そしていつも、同じように微笑んでいた。

桐島澄子、六十歳。

若い頃の写真を見ると、それはなかなかの美人だったと誰もが言う。いや、今でも十分に品があって、年齢を重ねた女性の持つ独特の凛とした美しさがある。しかし澄子自身は、自分の顔についてとうの昔に興味をなくしていた。

「女将さんって、なんでいつもそんなに穏やかなんですか」

その夜、カウンターに座った常連の編集者・川上が、燗酒の三杯目を傾けながら訊いた。五十がらみの男で、澄子の店に十年以上通っている。

「穏やか、ですか」

澄子はすこし首を傾けた。

「怒ってないだけですよ。怒るのが面倒になっただけで」

「それが穏やかってことでしょう」

川上は笑った。澄子も笑った。

その笑顔の裏に何十年分の話が詰まっているか、川上は知らない。澄子も話すつもりはなかった。ただ、その夜に限っては、姪の凛から届いたメッセージが、スマートフォンの画面の中で点滅していた。

『おばさん、相談がある。明日、行っていい?』

澄子は親指で「どうぞ」とだけ打ち返し、また徳利を手にとった。


一章 器量というもの

昭和五十三年、春。

澄子が十五歳のとき、母親にこう言われた。

「澄子、あんたは顔で得をする子やから、ちゃんとしなさい」

台所で夕飯の支度をしながら、母はそれだけ言って振り返らなかった。澄子は宿題のノートから顔を上げ、母の背中を見た。何か答えようとして、やめた。

顔で得をする、という言葉の意味を、十五歳の澄子はすでに知っていた。知っていたからこそ、うまく答えられなかった。

クラスには美しい子がいた。名前は西村恵子。色白で目が大きく、笑うと小さな八重歯が見えた。男子はみな恵子を見た。先生でさえ、恵子が発言すると少しだけ声の温度が上がった。体育祭の応援団長は恵子を中心に決まり、文化祭のポスターには当然のように恵子が描かれた。

恵子は特別賢いわけではなかった。運動が飛び抜けてできるわけでもなかった。ただ、美しかった。それだけで、世界の扱いが違った。

澄子はそれを、羨ましいとも思わなかった。ただ観察していた。

自分は恵子ほど美しくはない。しかし、そこそこには整っている。母が「顔で得をする」と言うのはそういう意味だ。では自分は、この「そこそこ」をどう使えばいいのか。それとも使わないべきなのか。

その問いの答えを出すのに、澄子は結局、四十年以上かかることになる。

高校を卒業した澄子は、地元の信用金庫に就職した。窓口に立つ澄子を見て、支店長が言った。

「桐島さんは愛想もいいし顔もいいから、うちの窓口の顔になってもらえるよ」

澄子は「よろしくお願いします」と頭を下げた。喜んでいいのかどうか、よくわからなかった。

その頃、同期入社の男に桐島誠一がいた。

誠一は、はっきり言ってぱっとしない顔をしていた。背は平均より少し低く、目は小さく、笑うと歯並びの悪さが気になった。同期の女性たちの間で彼の話題が出ることはまずなかった。

しかし誠一は、仕事ができた。

それも、派手にできるのではなく、地味に、丁寧に、どこまでも確実にできた。書類の数字に間違いがなく、客の名前を必ず覚えており、頼まれたことは翌日には済んでいた。誰かが困っていると静かに手を差し伸べ、手柄を主張することなく引いた。

澄子が最初に誠一を意識したのは、入社から三ヶ月が経った夏のことだった。

その日、澄子は窓口で複雑な手続きをしている高齢の女性の対応に手間取っていた。後ろに列ができはじめ、澄子は焦った。汗が背中を伝った。

「桐島さん、僕が代わります」

誠一が隣に来た。低い声で、しかし穏やかに。

彼は高齢の女性の隣に座り、ゆっくりと、書類の一行ずつを指で追いながら説明した。女性は途中で目を潤ませた。孫のような年齢の男が、これほど丁寧に向き合ってくれると思っていなかったのかもしれない。

澄子はその背中を見ていた。

格好よくはない。でも、なぜだろう。目が離せなかった。

付き合いはじめたのは、入社二年目の秋だった。

誠一から告白された。職場の自動販売機の前で、缶コーヒーを二本持って立っていた誠一は、「好きです、付き合ってください」と言った。飾りのない、真っ直ぐな言葉だった。

澄子はしばらく考えてから「はい」と答えた。

その夜、澄子は自分の気持ちを確かめようとした。誠一の何が好きなのか。顔ではない。それは正直に認めた。では何か。

誠一は、お皿の裏側を洗う人だ、と澄子は思った。

それは比喩ではなく、文字通りの話だった。ある日、二人でうどんを食べた店で、誠一が丼を返すとき、さりげなく裏を確認して、汚れていたので紙ナプキンで拭いてから返した。誰も見ていなかった。誰かに褒めてもらいたかったわけでもないだろう。ただ、そういう人なのだった。

澄子はそのとき、この人と生きていけると思った。



二章 魔法と呼ばれるもの

令和六年、秋。

翌朝、凛が「あさぎ」にやってきたのは昼前だった。日曜日で店は休みだった。澄子はエプロン姿で出汁をとっていた。

凛は澄子の妹の娘で、今年二十七歳になる。母親似の顔立ちで、小柄だが目鼻立ちがはっきりしており、若い男性からはよく振り返られる。本人はそれを「別に」と思っている風だが、澄子には分かる。分かった上で、何も言わない。

「おばさん、相談があって」

凛はカウンターに座り、澄子の入れたほうじ茶を両手で包んだ。

「聞いてる」

「好きな人ができた」

「うん」

「でもその人、外見が……すごく、整ってるんだよね」

澄子は手を止めなかった。出汁こぶを鍋から取り出しながら、「それで?」と訊いた。

「なんか、怖いんだ」と凛は言った。「きれいすぎる人って、信用できる気がしなくて」

澄子はそこで初めて手を止め、姪の顔を見た。

谷口壮介は、凛の職場の同僚だった。

身長百八十二センチ、肩幅が広く、顔の造りが映画俳優のようだと社内では専らの評判だった。しかし壮介はそれを鼻にかけることなく、礼儀正しく、仕事も真面目にこなした。

問題は、彼が「きれいすぎる」ことで、周囲の女性が放っておかないことだった。昼食に誘われ、残業を手伝うと申し出られ、差し入れをされ、飲み会では常に隣の席を争われた。壮介はそのすべてに、柔らかく、しかし一定の距離を置いて接した。

凛は当初、そういう男に興味がなかった。

きれいな男は、きれいな女と生きればいい。自分には関係ない話だ、と思っていた。

転機は、残業続きの深夜に起きた。

凛が一人でデータの打ち直しをしていたとき、壮介がデスクに来た。

「手伝います」

「いや、大丈夫です」

「大丈夫じゃないですよね」

壮介は断られても、椅子を引いて座った。そして凛のパソコン画面を見て、黙って作業を始めた。二時間後、二人で仕事を終えた。

「ありがとうございました」と凛が言うと、壮介は「お互い様です」と答えた。

それだけだった。しかしその夜から、凛の中で何かが変わった。

「外見がいい人が怖い、か」

澄子は湯呑みを持って、凛の向かいに座った。

「おばさんはどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」澄子はすこし考えた。「おじさんのこと、話したことなかったっけ」

「誠一おじさん?あんまり詳しくは」

「そう」

澄子はほうじ茶を一口飲んだ。

「おじさんはね、お世辞にも格好いい人じゃなかったの。でも、一緒にいると安心した。なんでだろうって、ずっと考えてたんだけど」

凛は黙って聞いていた。

「ある日わかったの。あの人は、見えないところを丁寧にする人だったから」

「見えないところ?」

「そう。誰も見てないときに、ちゃんとする人。お皿の裏を洗うとか、返却口のお盆をまっすぐ置くとか、そういうこと」

凛はすこし考えてから、「壮介さんも、そういうところがある気がする」と言った。

「たとえば?」

「会議室使ったあと、椅子を全部もとに戻す。ゴミ箱のゴミが溢れてたら、頼まれてもないのに交換する。それ、私しか気づいてないと思う」

澄子はすこし笑った。

「じゃあ、外見は関係ないじゃない」

「でも」と凛は言った。「外見がいいと、どうしても構えちゃう。絶対もてるんだろうって。遊ばれるんじゃないかって」

澄子はしばらく沈黙した。窓の外で、神楽坂の路地をスズメが横切った。

「凛、化粧してる?」

「え?してるけど」

「それ、素顔と違うでしょ」

凛は少し面食らった顔をした。

「別人、とまでは言わないけど、違う」

「……うん」

「じゃあ、あなたも外見で人を騙してることになる?」

凛は答えなかった。

「外見なんてね」と澄子は続けた。「みんな多少は盛ったり隠したりしてる。大事なのは、その人が日常のどこに丁寧さを置いてるかよ。誰も見てないときに、どうふるまうか」



三章 中身の前の外見、外見の奥の中身

凛が帰ったあと、澄子は仕込みを続けながら、誠一のことを思い出していた。

誠一が癌になったのは五十三歳のときだった。発見が遅れた。それから五年、治療と緩解と再発を繰り返し、五十八歳で逝った。

最後の一年、誠一はほとんど動けなくなった。澄子は店を細々と続けながら、夫の傍に居た。

ある夜、誠一が澄子の手を握って言った。

「澄子、俺と結婚して、損したか」

澄子は笑った。

「何言ってるの、あなた」

「顔もよくないし、出世もしなかったし」

「うるさいわね」

澄子は誠一の手を握り返した。

「あなたと結婚して、一度も損したと思ったことないわよ」

誠一はそれを聞いて、子どものように笑った。歯並びが悪く、目が細くなって、どこからどう見ても格好いいとは言えない顔で、本当に嬉しそうに笑った。

澄子は今でも、その笑顔が好きだった。

翌週の月曜日。

凛は昼休みに、壮介と話した。

社内の小さな公園のベンチで、二人でサンドイッチを食べた。それだけだった。しかしそのとき、壮介がこんなことを言った。

「椎名さんって、すごく仕事丁寧ですよね」

「え?」

「データの処理、毎回ファイル名に日付と内容書いてるじゃないですか。おかげで引継ぎのとき助かりました。誰も気づかないと思うけど、ちゃんと見てますよ」

凛は一瞬、固まった。

自分が丁寧にやっていることを、誰かが見ていた。見てほしくてやっていたわけではない。でも、見ていてくれた人がいた。

「ありがとうございます」とだけ言った。

壮介は「こちらこそ」と言って、サンドイッチを一口食べた。

その横顔を見ながら、凛は思った。顔が整っているとか整っていないとか、そういうことより先に、この人は「見える人」だ、と。見えないものを見る人。

それが怖かったのかもしれない。見られることが。

その夜、凛はおばさんにメッセージを送った。

『話してよかった。ありがとう』

しばらくして返信が来た。

『若い男どもよ、お皿の裏も洗える人を選びなさい、って言いたいんだけど、最近は若い女の子にも同じことを言いたくなってきた』

凛は声を出して笑った。

『どういう意味?』

『見てもらえる人になりなさい、ってこと。見せるんじゃなくて』

凛はそのメッセージをしばらく眺めた。

それから、壮介に短いメッセージを送った。

『今度、ちゃんとお礼がしたいです。ご飯でもどうですか』

既読がついた。

返信まで、三分かかった。

『ぜひ。どこか好きな店はありますか』

凛はスマートフォンを胸に抱えて、天井を見た。



四章 もう一人の男

田中哲也は、凛の幼馴染だった。

小学校から高校まで同じ学校に通い、大学は別々になったが、実家が近かったので正月や盆に顔を合わせた。現在は地元の工務店に勤めており、家の建て付けや修繕を仕事にしていた。

哲也は、ごく平凡な顔をしていた。

背は普通。顔も普通。笑い方が少し豪快なのと、手が大きいのが目立つくらいで、街を歩いても誰も振り返らない種類の男だった。

しかし哲也は、昔から凛のことが好きだった。

好きだという気持ちは、高校二年のとき自覚した。しかしそれから十年以上、一度も口に出したことはなかった。なぜか。

凛が自分を「幼馴染」としか見ていないことを知っていたからだ。

哲也はそれを、不満に思っていなかった。少なくとも、そう思おうとしていた。好きな人が幸せならそれでいい、という陳腐な文句が、哲也の場合は嘘ではなかった。

そして今、凛が誰かを好きになっているらしい、ということを、哲也は実家の母経由で聞いた。

久しぶりに凛と会ったのは、十月の連休だった。

実家近くの定食屋で昼飯を食べた。凛はひさしぶりに会う幼馴染に、職場のことや東京の話をしながら、自然と壮介の話をした。哲也は黙って聞いていた。

「なんか、変な感じなんだよね」と凛は言った。「好きなのに、怖いっていうか」

「それって、その人が怖いんじゃなくて、自分が怖いんじゃないか」

哲也が言うと、凛は「どういうこと?」と眉を寄せた。

「傷つくのが怖いんだろ。だから外見のせいにしてる」

凛は黙った。

「俺は別に、専門家でも何でもないけど」と哲也は続けた。「その人がちゃんとした人間かどうかは、外見関係ないだろ。時間かけてみればわかる。怖くても、進んでみればいいじゃないか」

定食の鯖の煮付けをつつきながら、哲也はそれだけ言った。

凛はしばらく考えてから、「哲ちゃんって、たまにすごいこと言うよね」と笑った。

哲也も笑った。笑いながら、自分が言っていることは、自分自身へのアドバイスでもあると思っていた。

怖くても、進んでみればいい。

わかってる。わかってるんだけどな。

その夜、哲也は長い時間、風呂に入ったあとで縁側に座っていた。

空に星が出ていた。秋の星は冷たく、鋭い。

俺は外見がいいわけじゃない。お金があるわけでもない。特別な才能があるわけでもない。

それでも、誰かに「この人でよかった」と言ってもらえる人間になれるだろうか。

誠一おじさんのことを、哲也は凛から聞いたことがあった。格好よくないけど、一番信頼できた人、と凛は言っていた。

そういう人間に、なれるだろうか。

哲也は星を見上げたまま、しばらくそこにいた。



五章 It’s Magic

十一月、神楽坂。

凛と壮介の初めてのデートは、なんということもない夕食だった。壮介が「おいしい鶏の店を知ってます」と言い、凛が「じゃあそこで」と答えた。

店は小さく、混んでいた。二人は端の席に座り、串を頼み、ビールを飲んだ。

壮介は、凛が思っていたより話しやすかった。

格好いい人と話すときの独特の緊張、あの「なんで私がこの人と話しているんだろう」という感覚が、不思議と薄かった。

「椎名さんって、なんで出版社に?」

「本が好きだから、っていう単純な理由です」

「どんな本が好きですか」

「昔の小説が多いかな。昭和の。ちょっと古いかもしれないけど」

「いいじゃないですか。何が好きですか?」

凛が好きな作家の名前をあげると、壮介は「それ、読んだことあります」と言った。凛は少し驚いた。

「意外ですか」

「すこし」正直に言った。

「外見で判断された」と壮介は言ったが、怒った様子はなかった。むしろ、おかしそうに笑っていた。

凛は謝ろうとしたが、壮介が先に言った。

「慣れてるので大丈夫です。でも、慣れたくはないな、とも思ってます」

その一言が、凛の胸に刺さった。

「慣れたくない」という言葉を、凛は帰り道に何度も繰り返した。

外見で判断されることに慣れたくない。それは、外見以外で見てほしいという願いだ。

自分が壮介に抱いていた「怖さ」は何だったのか。

きれいな顔の裏に何があるか、信用できないという気持ち。しかしそれは、裏を見ようとする前に「きれいな顔」だけを見て完結させていたということではないか。

自分がやっていたことと、何が違う。

外見で判断されたくないという壮介の気持ちは、凛の気持ちと同じだった。ただ、立場が逆なだけで。

「おばさん、一個聞いていい?」

次の週、凛は「あさぎ」に夕食を食べに来た。平日の夜で、他に客はいなかった。

「なに?」

「化粧って、魔法みたいなものじゃない。別人になれる」

「そうね」と澄子は言った。

「じゃあ、化粧したほうが得なの?外見が大事なら」

澄子は小皿におひたしを盛りながら、しばらく考えた。

「得、という話をしたら」と澄子は言った。「そりゃあ、きれいなほうが得をする場面はある。それは本当のことよ。若い頃に女の幸せの九割は器量だって言われた時代もあったし、今だってゼロじゃない」

「うん」

「でもね」と澄子は続けた。「化粧が魔法なら、外見なんてそもそも魔法みたいなものよ。若い頃は自然にきれいで、年とったら変わって、化粧で誤魔化して。みんなそうやって生きてる。だから外見に正直もへったくれもないの」

「じゃあ、何が正直なの」

澄子はおひたしを凛の前に置いた。

「行動よ」と澄子は言った。「誰も見てないところで何をするか。それだけは、魔法でもなんでもない、本物」

凛は黙って、おひたしを食べた。出汁がよく染みていた。

「おばさんって、料理上手だよね」

「そりゃあ、誠一さんのためにずっと作ってたから」

「おじさん、料理好きだったの?」

「食べることが好きな人でね。でも好き嫌いは言わなかった。何を出しても『おいしい』って言ってくれた。お世辞じゃなく、本当に」

澄子はすこし遠くを見た。

「お世辞を言わない人だったの。格好つけない人。だから『おいしい』って言ってくれると、本当においしいんだって思えた」

凛はその横顔を見た。六十歳の女将の顔に、少女のような柔らかさが一瞬だけ浮かんで、消え



六章 壮介の過去

十二月に入ると、凛と壮介は週に一度か二度、一緒に昼飯を食べるようになっていた。

恋人、と呼んでいいのかどうか、凛にはまだわからなかった。壮介は凛に対して、いつも丁寧で、しかし踏み込みすぎなかった。距離の測り方が、不思議なほど上手かった。

ある日の昼休み、凛は思い切って訊いた。

「谷口さんって、昔から……もてましたよね」

「まあ」と壮介は少し困った顔をした。「そう見られることは多かったです」

「付き合ってた人、多いんですか」

直接的すぎたかな、と思ったが、壮介は表情を変えなかった。

「三人です。大学で二人、社会人になってから一人」

「みんな、きれいな人?」

「きれいかどうかは……よくわからないけど」壮介は少し考えた。「最初の二人は、正直、俺のことを顔だけで好きだったんだと思います。後から気づいた。三人目は、俺の顔が嫌いでした」

凛は目を丸くした。

「嫌い?」

「俺の顔のせいで、いつも女が寄ってくるって。それが嫌だったみたいで。最終的には『あなたの顔が憎い』って言われた」

壮介はそれを、笑いながら話した。笑い方が少し苦かった。

「それって……つらくなかったですか」

「つらかったですよ」壮介はそう答えた。「でも、そのとき初めてわかった気がします。外見って、本人にとってはただの与件で、どうにもならないものなのに、なんで全部自分のせいにされるんだろうって」

凛はその言葉を、胸に収めた。

壮介の話を聞いた夜、凛は「あさぎ」に電話した。

「おばさん、今いい?」

「いいわよ。どうしたの」

「壮介さんの話、聞いた。外見のせいで傷ついてた」

澄子はすこし間を置いた。

「そう」

「外見って、得もあるけど、損もあるんだね。当たり前だけど、気づいてなかった」

「そうよ」と澄子は言った。「美しく生まれた人は、美しいゆえの孤独がある。美しくない人には、別の孤独がある。どっちが得かなんて、外から見てる人間が決めることじゃないわ」

「うん」

「でも凛、一つだけ言っていい?」

「なに?」

「その人が、あなたに自分の傷を話したこと。それは大事にしなさい。格好いい人間が弱いところを見せるのは、簡単じゃないから」

凛はしばらく黙っていた。

「……ありがとう、おばさん」

電話を切ったあと、凛はもう一度、壮介に短いメッセージを送った。

『話してくれてありがとうございました。大事にします』

しばらくして、既読がついた。

返信はなかった。

しかし翌朝、出社した凛のデスクに、小さな付箋が貼ってあった。

『こちらこそ』

たった五文字だった。それだけで十分だった。

師走の半ば、壮介は凛を映画に誘った。

古い邦画のリバイバル上映で、昭和四十年代に作られた白黒映画だった。

「椎名さん、昭和の映画好きですか」

「好きだけど、なんで?」

「俺も好きで。でも誘える人があまりいなくて」

映画館は小さく、客もまばらだった。二人は並んで、二時間の白黒映画を観た。

ストーリーは単純だった。地方から上京した若い女が、都会の男に翻弄され、傷ついて、それでも前を向いて生きていく話。ヒロインは飛び抜けた美人ではなかった。しかし、表情が豊かで、泣いても笑っても、画面に引きつけられた。

「あの女優さん、きれいですよね」と凛は言った。

「うん」と壮介は言った。「顔がきれいというより、生き方がきれいな感じがする」

映画が終わったあと、二人は近くの喫茶店に入った。

「谷口さん、こういうの好きなんだ」と凛は言った。

「昔の映画って、外見以外のところで勝負してる感じがして、好きなんです。今の映画、顔のきれいな人しか出てこないじゃないですか」

「確かに」

「でも昔の映画の人は、顔より何かを持ってる感じがする。言葉にできないけど」

凛は温かいコーヒーを一口飲んで言った。

「それって、中身ってことじゃないですかね」

壮介はすこし笑った。

「そうかもしれない。でも中身って言葉、なんか陳腐に聞こえてもったいない気がして」

「じゃあ何て言えばいい?」

壮介は少し考えた。

「……その人の、においかな」

凛は笑った。

「においって、どういう意味ですか」

「その人が長い時間をかけて染みついたもの、っていうか。生き方のにおい。会ってすぐわかるものじゃなくて、一緒にいる時間が長くなるほどわかってくるもの」

凛はその言葉を、しばらく転がした。

生き方のにおい。

「谷口さんは、私のにおい、わかりますか」と凛は訊いた。

壮介は少し驚いた顔をして、それからまた笑った。

「少しずつ、わかってきてる気がします」



七章 昭和の話

年が明けた。

一月の神楽坂は、空気が透き通るほど冷たかった。

「あさぎ」には、この時期になると決まって訪れる常連がいた。名前は宮川雪江、七十三歳。元は料亭の仲居をしていたという、細身で背筋の伸びた老女だった。

雪江は澄子の母の知人で、澄子が「あさぎ」を開いてからずっと通い続けている。毎年一月の第一週に来て、熱燗を一本だけ飲んで帰る。それが決まりのようになっていた。

「澄子さん、また一年経ちましたね」

雪江は熱燗の徳利を傾けながら言った。

「そうですね」

「お顔がますます澄んできた」

「年をとっただけですよ」と澄子は笑った。

「年をとっても澄む人と、濁る人がいるの。澄子さんは澄む人ね」

澄子は黙って、雪江のお猪口に燗酒を注いだ。

「昔のことを思い出してたの」と雪江は言った。「若い頃ね、私はそれなりに顔に自信があって、それで得をしようとしてたことがあった」

「そうですか」

「料亭の仕事は、顔がものを言うでしょ。きれいな子が贔屓にされる。私はそれをよく知ってたから、顔を武器にしようとしてた。でも途中から嫌になったの」

「なぜですか」

「顔で好かれると、顔が衰えたときに怖いから」

澄子は手を止めた。

「顔じゃない何かで好かれないと、年をとったときに何も残らない。そう気づいたのが三十過ぎてからで、遅かったけど」

雪江はお猪口を置いた。

「澄子さんは、誠一さんに顔で好かれてましたか」

「いいえ」と澄子は即座に言った。「あの人、私の顔を一度もほめたことなかったですよ」

「あら」

「料理はほめてくれたし、字がきれいだってほめてくれたし、話の聞き方がいいってほめてくれた。でも顔は一度も」

「それはいい男ね」

澄子はすこし笑った。

「最初は少し寂しかったんです。でも後から、ああ、この人は顔以外のところで私を好きでいてくれてるんだ、ってわかって。そのほうがずっと安心しました」

雪江はしみじみとうなずいた。

「顔をほめない男は、顔が衰えても去らないものよ」

雪江が帰ったあと、澄子は一人で片付けをしながら、誠一との初めての正月を思い出した。

昭和五十九年、一月。

結婚して初めての正月を、二人は誠一の実家で過ごした。誠一の母は小柄で、気の強い女性だった。最初の挨拶のとき、澄子の顔をじっと見て言った。

「まあ、きれいな嫁さんだこと。誠一、よかったね」

誠一は「そうかな」と言って、澄子を見た。そして「顔よりいい嫁さんですよ」と言った。

母は「あら」と目を丸くした。澄子も少し驚いた。

しかし誠一は、それ以上何も言わなかった。

その夜、布団の中で澄子は誠一に訊いた。

「さっき、顔よりいい嫁さん、って言ったのはどういう意味?」

誠一はしばらく考えてから言った。

「顔より、一緒にいて気持ちがいい、ってこと」

澄子はそれが、自分が今まで言われた中で一番うれしい言葉かもしれないと思った。

「一緒にいて気持ちがいい」

顔をほめられることより、ずっと、ずっと、うれしかった。

二月。

凛が「あさぎ」に来たのは、バレンタインの翌日だった。

「チョコ、渡した?」と澄子は訊いた。

「渡した」と凛は笑った。「手作りじゃないけど」

「反応は?」

「すごく喜んでくれた。でも大げさじゃなく、静かに」

「それでいいじゃない」

凛は燗酒をひとくち飲んだ。最近、お酒が少し飲めるようになってきた。

「おばさんは、おじさんにバレンタインって渡してたの?」

「最初の数年はね。でもそのうちやめた」

「なんで?」

「誠一さんがね」と澄子は言った。「バレンタインにもらったチョコを、お返しのホワイトデーまで食べないで取っておく人だったの」

「え?」

「お返しを渡すとき、一緒に食べようって言って。で、二人でホワイトデーに二十日古いチョコを食べた」

凛は笑い出した。

「それ、普通じゃないですね」

「そうなの。でもなんか、それが嬉しくて。チョコを食べないでいてくれた、その一ヶ月が嬉しかった。だから逆に、渡すのがプレッシャーになっちゃって、やめた」

「おじさんらしいな」

澄子は小さく笑った。

「そういうことを平気でする人だったの。誰かの誕生日を、三ヶ月後まで覚えてたり。去年あなたが言ってたこと、を一年後に引用してきたり。記憶力があったわけじゃない。ただ、大事なことを大事にしてる人だった」

凛は黙ってそれを聞いた。

「壮介さんも、そういうところあります」と凛はすこし照れながら言った。「私が話したことを、次に会ったとき自然に覚えてて。大事にしてくれてる気がする」

「そう」と澄子は言った。「それが、中身ってもんよ」



八章 哲也の決断

二月の末、哲也は凛に電話した。

「ちょっと聞きたいんだけど」

「なに?」

「その、職場の後輩……あのさ、付き合ってみようかと思って」

凛は一瞬、返答に詰まった。

「え、急じゃない?」

「急じゃないよ。三ヶ月考えた」

「三ヶ月」と凛は繰り返した。「で、結論が付き合ってみようか、って。すごい慎重な人だね」

「うるさい」

哲也はぶっきらぼうに言ったが、声の奥がすこし柔らかかった。

「後輩って、どんな子なの」と凛は訊いた。

「普通の子。顔が飛び抜けてきれいなわけでも、めちゃくちゃ賢いわけでも、特技があるわけでもない。ただ、真面目で、仕事が丁寧で」

「哲ちゃんが好きな感じじゃん」

「だから悩んでた」

「なんで悩むの?」

哲也は少し黙った。

「こういう人を好きになっていいのか、なんか、わからなくて」

凛は笑いそうになって、こらえた。

「どういう意味?」

「目立つ理由がなくても、好きになっていいのか、って。なんかもっと、わかりやすい理由があるべきじゃないのかなって」

凛は電話口でしばらく考えた。それから、澄子の言葉を思い出した。

「ねえ哲ちゃん、おばさんの旦那さん、覚えてる?」

「誠一さん?ちょっとしか会ったことないけど」

「おじさんって、顔もよくないし、背も高くないし、出世もしなかったし、目立つ理由が全然なかった人らしいよ。でもおばさん、この人と生きていけるって思ったって」

「そうなの?」

「理由は、お皿の裏を洗う人だったから、って」

哲也は黙った。

「見えないところを丁寧にする人。誰も見てないときにちゃんとする人。目立つ理由なんてなくていい。その人がどこを丁寧にしてるか、それだけ見ればいいんじゃない?」

哲也はしばらく沈黙した。

「……凛、ちょっと最近かしこくなった?」

「誰のおかげだと思ってるの」

「おばさんのおかげ」

「正解」

二人で笑った。

後輩の名前は、木下さつきと言った。

二十五歳。工務店の事務職で、哲也より五年後に入社した。

背は低く、丸顔で、笑うと目が細くなる。職場では「さっちゃん」と呼ばれており、誰からも好かれていた。嫌われる要素がないというより、誰に対しても誠実に接するので、自然と人が寄ってきた。

さつきは哲也に告白したとき、こう言った。

「田中さんが好きです。理由は、田中さんが仕事で失敗した後輩を、誰もいないところでフォローしているのを見たからです」

哲也は、そんな場面があったかどうか、よく覚えていなかった。

「それ、いつの話?」

「去年の夏です。新人の鈴木くんが配送ミスして、お客さんに怒られたとき。田中さん、誰も見てないうちに鈴木くんに謝り方を教えてました」

哲也は、そんなことをしたっけな、と思った。していたかもしれない。覚えていないだけで。

さつきは続けた。

「あのとき、田中さんが鈴木くんの肩をぽんって叩いて、行くぞ、って言った。それが、すごくかっこよかったです」

哲也は少し赤くなった。

「それだけ?」

「それだけで十分です」とさつきは言った。迷いのない顔で。

三月のはじめ、哲也はさつきに「付き合ってください」と言った。

場所は職場の駐車場で、帰り際だった。何の飾りもない、ごく平凡な場所だった。

さつきは「はい」と言った。

帰り道、哲也は空を見上げながら、不思議な気持ちになった。

自分の顔がよくないことは知っている。背が特別高いわけでもない。稼ぎも普通だ。しかし、さつきは「田中さんが好きです」と言った。理由は、誰も見ていないところで、後輩の肩を叩いたから。

お皿の裏側を洗う、ということ。

自分はそれを、意識してやったわけではなかった。ただ、そういう人間でありたいと、ずっと思っていた。

そのことが、誰かに届いた。

哲也はその夜、縁側に座って星を見た。冬の終わりの星は、少し柔らかくなっていた。

あのとき澄子の話を思い出してよかった、と哲也は思った。凛に相談してよかったと思った。そして凛が、おばさんのことを教えてくれてよかった、と。

人は、誰かの話の中で、少しずつ変わっていく。



九章 澄子の春

三月の中頃、澄子は誠一の墓参りに行った。

お彼岸前の、平日の午前中だった。墓地は静かで、澄子のほかに人影はなかった。

墓石に水をかけ、線香に火をつけ、澄子はしばらく手を合わせた。

「凛が、いい人と付き合いはじめたみたいよ」

返事はない。

「外見がよすぎる人で、最初は怖いって言ってたんだけどね。でも、ちゃんと見たら、ちゃんとした人だったって」

風が吹いて、線香の煙が揺れた。

「哲也くんも、彼女ができたって。あの子、ずっと凛のことが好きだったんじゃないかと思ってたけど、違うところに気持ちが向いたみたい。よかったわ」

澄子は少し間を置いた。

「あなたがいたら、なんて言うかしらね。また『そうか』って言うだけかしら」

誠一は多弁ではなかった。何を話しても「そうか」か「うん」か「よかったな」のどれかで返ってきた。

最初の頃はそれが物足りなかった。もっと言葉をくれればいいのに、と思っていた。

でも長い年月をかけて、澄子はわかった。

「そうか」と言う人は、ちゃんと聞いている人だ。

言葉が少ないのは、聞くことに全力を使っているからだ。

「あなたは、聞いてくれる人だったね」

線香の煙が、静かに空に向かった。

春の「あさぎ」は、少し忙しくなる。

花見の季節になると、神楽坂近辺の人々が外へ出てきて、夕方から路地を歩いた。店も賑わう。

ある夜、澄子のカウンターに若い男が一人で来た。

二十代半ばか。背が高く、顔立ちが整っていた。しかし、何かを抱えているように、表情が硬かった。

「お一人ですか」

「はい」

「何になさいますか」

「燗酒を。あと、お任せで何か」

澄子は小鯛の昆布締めを出した。男はそれを食べて、「おいしいですね」と言った。

「ありがとうございます。お仕事帰りですか」

「そうです。少し、考えることがあって」

「そうですか」

澄子はそれ以上、何も訊かなかった。

男は燗酒を二杯飲み、出汁巻き卵を食べ、小さな鍋を食べた。食べながら、少しずつ表情が和らいだ。

会計のとき、男は言った。

「ここ、また来ていいですか」

「どうぞ」

「女将さん、なんか……ちゃんと聞いてくれてる感じがして」

澄子は少し笑った。

「何もお話しになってないですよ」

「そうなんですけど」と男は言った。「何も訊かないところが、ちゃんと聞いてくれてる感じがして」

澄子はその言葉を、胸のどこかにそっとしまった。

その夜、店を閉めてから、澄子は誠一の写真の前に座った。

若い男の言葉を、何度か繰り返した。

「何も訊かないところが、ちゃんと聞いてくれてる感じ」

それは、誠一がしてくれたことだった。

澄子がつらいとき、誠一は訊かなかった。ただ、傍にいた。お茶を入れてくれるか、黙って肩に手を置くか、それだけだった。

最初はそれが不満だった。もっと「どうしたの」と訊いてほしかった。でも、訊かれると余計に泣いてしまう自分がいた。訊かれずに傍にいてもらうことで、澄子は自分のペースで泣けた。

誠一はそれを知っていたのか、知らなかったのか。

どちらでも、同じだ、と澄子は今は思う。

結果として、あの人は正しい距離にいてくれた。

「上手だったわね、あなた」

写真の誠一は、笑ったままだった。


十章 二つの食卓

四月になった。

凛と壮介が付き合いはじめて、四ヶ月が経った。

ある土曜日の昼、壮介が凛のアパートに来た。初めてだった。

壮介は手土産に、ケーキを持ってきた。有名店のものではなく、駅前の小さな洋菓子店のものだった。

「ここ、知ってたんですか?」と凛は訊いた。

「前に椎名さんが、あそこのシュークリーム好きって言ってたから」

凛は少し考えた。そんなことを言っただろうか。言ったかもしれない。ずいぶん前に、何気なく言ったことを。

「覚えてたんですか」

「覚えてます」と壮介は言った。「大事なことは、なるべく覚えるようにしてる」

凛はそのシュークリームを食べながら、これは甘い、と思った。ケーキが、ではなく、この状況が。

昼を食べて、二人でしばらくテレビを見た。

古い映画をやっていた。昭和の、白黒の。

「また昭和だ」と凛は笑った。

「好きなんですよ」

「知ってる」

二人は並んでソファに座り、映画を見た。ヒロインが泣く場面で、凛はすこし目頭が熱くなった。隣を見ると、壮介も黙って画面を見ていた。

映画が終わったあと、壮介が言った。

「昔の映画って、泣かせ方が丁寧ですよね」

「どういう意味?」

「今の映画は、わかりやすく泣かせにくる。音楽が大きくなるとか、スローモーションになるとか。でも昔の映画は、ただそこにいるだけで泣ける」

凛はその言葉をしばらく考えた。

「それって、人間も同じかもしれない」

「どういうこと?」

「感動させようとしてる人より、ただそこにいるだけで、なんか、気持ちが動く人がいる」

壮介は少し間を置いて、「そうですね」と言った。

凛は自分の言葉が、誠一おじさんのことを言っているのだと気づいた。ただそこにいて、ちゃんと聞いて、何も言わなくても傍にいた人。

外見は、関係なかった。

その夜、凛はおばさんにメッセージを送った。

『今日、壮介さんが家に来た』

しばらくして返信が来た。

『どうだった?』

『普通にいい時間だった。それがよかった』

『それが一番いいの』

凛はそのメッセージをしばらく眺めた。

『おばさんも、おじさんと普通の時間を一番大事にしてたの?』

少し間があった。

『普通の時間しかなかったけど、それで十分だったわ。特別な日より、毎日の夕飯のほうが、ずっとたくさんあったから』

凛はその言葉を、スマートフォンの画面で読んで、もう一度読んだ。

毎日の夕飯のほうが、ずっとたくさんあった。

そうだ。人生は、特別な日より普通の日のほうが、圧倒的に多い。その普通の日を、誰と過ごすかが、大事なのだ。


続く…