4章「気取る男」

 十二月二十五日、誠は昼過ぎから落ち着かなかった。

 マンションの中をうろうろした。コーヒーを淹れ、飲み切らないうちに流しに捨てた。本を開いたが、一ページも頭に入らなかった。窓の外を見た。昨夜の雪は積もらずに溶けていた。道路が濡れて光っている。曇り空だが、雨は降っていない。

 何をそんなに緊張しているのか、と誠は自分に言い聞かせた。

 ただ、いつもの喫茶店へ行くだけだ。コーヒーを飲んで、少し話して、帰る。それだけのことだ。クリスマスだからといって、何かが特別なわけではない。芽依は「ぜひ」と言った。だがそれは、客を歓迎する店主の言葉だ。そこに余計な意味を見出すのは、四十七の男のすることではない。

 誠は時計を見た。

 午後四時。

 営業は夕方からだと言っていた。五時頃に行けばいい。まだ一時間ある。

 誠はソファに座り、足を組み、また本を開いた。今度は少し読めた。三ページ読んで、内容が頭に入っていないことに気づいた。同じページを読み返した。やはり入らなかった。

 本を閉じた。

 四十七年生きてきて、これほど情けない午後があっただろうか。


 喫茶ソラに着いたのは、五時十分だった。

 引き戸を開けると、店の中はいつもと少し違う雰囲気だった。カウンターに小さなキャンドルが灯っている。テーブルにも同じように。天井の照明を少し落として、キャンドルの光が揺れている。クリスマスだからといって派手な飾りはない。ただ、あの小さな炎だけが、静かに店を変えていた。

 客は誠の他に一組だけ。奥のテーブルで、老夫婦が向かい合ってコーヒーを飲んでいた。

 「来てくれた」と芽依が言った。

 「来ました」

 芽依は今日、いつもと少し違う格好をしていた。エプロンは同じだが、その下が白いブラウスだった。髪も、いつもより丁寧にまとめてある。化粧が少し、濃いわけではないが、今日は少し手をかけている、そういう違いだった。

 誠は気づいていた。

 気づいていたが、何も言わなかった。

 言えばよかった、と後になって思うのだが、その瞬間は言えなかった。


 「今日は、特別なメニューがあるんです」

 芽依がカウンターに小さなカードを置いた。手書きで、クリスマスのケーキと、ホットワインが書いてある。

 「ホットワインを」と誠は言った。「コーヒーの前に」

 「初めてですね、コーヒー以外を頼むの」

 「クリスマスなので」

 芽依がホットワインを作り始めた。シナモンとクローブの香りが、店の中に広がった。スパイスの匂いと、キャンドルの光と、窓の外の冬の夜。誠は静かにそれを受け取り、両手で包んだ。

 温かかった。

 一口飲むと、甘みの中にスパイスの刺激があった。身体の中から温まる感じがした。

 「うまい」

 「よかった。初めて作ったので」

 「初めて?」

 「クリスマスにホットワインを出すのが、ずっとやりたかったんです。今年初めてやってみました」

 やりたかったことを今年初めてやった。その言葉の裏に、去年まではできなかった何かがある気がした。誠は聞こうとして、また止めた。

 止める癖が、今日は特に出ていた。

 なぜ止めるのか。自分でもわかっていた。踏み込めば、その分だけ、引き返せなくなる。だから止める。距離を保つ。軌道の上をぐるぐると回り続ける。

 誠はホットワインを飲みながら、自分のその癖を、冷静に観察していた。


 老夫婦が帰った。

 店には誠と芽依だけになった。

 芽依はカウンターの内側で、クリスマスケーキを切り分けながら言った。

 「今日は来てくれてよかったです。本当に」

 「一人でしたか、来る前は」

 「ええ」

 「寂しくなかったですか」

 「寂しい、と思う前に忙しかったので」と芽依は言った。「でも、静かになると、少し」

 「少し」

 「思うこともあります」と芽依は言った。曖昧に、しかし正直に。

 誠は黙った。

 何か言えばよかった。たとえば、「私も同じです」と言えばよかった。あるいは、「来年もここで過ごしましょう」と言えばよかった。どちらも嘘ではなかった。だが誠は、何も言わなかった。

 ケーキを一口食べた。イチゴのショートケーキだった。地元の洋菓子屋のものだと芽依は言った。甘すぎず、生クリームが軽かった。

 「おいしい」

 「よかった」

 また、それだけになった。

 沈黙が流れた。いつもならこの沈黙は心地よかった。だが今夜の沈黙は、少し違った。何かが言われるのを待っているような、あるいは何かが言われるべきなのに言われていないような、そういう沈黙だった。

 誠はそれを感じていた。

 芽依も感じているかもしれない、とも思った。

 だが誠は、格好をつけた。

 正確には、格好をつけるという意識さえなかった。ただ、踏み込むことへの恐れが、自然に言葉を引き留めた。四十七年かけて身についた、感情の蛇口を締める習慣が、今夜も静かに働いた。


 「少し聞いていいですか」

 芽依が言ったのは、九時を過ぎた頃だった。

 「どうぞ」

 「柏木さんは」と芽依は言った。カウンターを拭きながら、しかし目は誠の方を向いていた。「この街で、何かを待っていますか」

 誠は少し考えた。

 「待っている、というのは」

 「なんとなく、そう見えることがあって」と芽依は言った。「何かを待ちながら、でも自分では気づいていないような。そういう人に見える時がある」

 「鋭いですね、相変わらず」

 「そうじゃなくて」と芽依は言った。少し真剣な顔で。「気になっているんです。柏木さんのことが」

 誠は、その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが動いた。

 気になっている。

 その言葉の重さが、どのくらいのものなのか。芽依の言う「気になっている」は、どういう意味の気になっているなのか。誠はまた考えた。分析した。距離を測った。

 そして言った。

 「私も、ここへ来るのが楽しみになっています」

 楽しみになっています。

 我ながら、情けない言葉だと思った。

 芽依が言いたいことの半分にも応えていない。もっと正直に言えばよかった。気になっている、と言われたなら、私もあなたのことを考えている、と言えばよかった。だが誠は、「楽しみになっています」という、どこまでも当たり障りのない言葉を選んだ。

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 何かを言いかけて、止めたような気がした。

 「それはよかったです」と芽依は言った。静かに、微笑みながら。

 その微笑みの奥に、何があったのか。

 誠には読めなかった。あるいは、読もうとしなかった。


 翌朝、誠は目が覚めてすぐ、昨夜のことを後悔した。

 後悔というのは正確ではないかもしれない。後悔するほどのことは、何も起きていない。ただ、できたはずのことをしなかった、という感覚が、胸の奥にじんわりと残っていた。

 「気になっている」と言われた。

 それに対して「楽しみになっています」と答えた。

 誠は布団の中で天井を見ながら、自分のその答えを反芻した。なぜそう言ったのか。なぜ正直に言えなかったのか。

 怖かったのだ、と誠は認めた。

 芽依が気になっている、というのが、客として気になっているという意味だったとしたら。誠が踏み込んで、的外れだったとしたら。その恥ずかしさが怖かった。それだけではない。もし正直に言って、受け入れられたとしても、その先が怖かった。また誰かを透明にするかもしれない。また誰かを傷つけるかもしれない。

 誠は四十七年かけて、傷つくことを上手に避けてきた。

 その代わりに、何も得なかった。

 布団から出て、洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見た。四十七の男の顔だった。そのことを今更どうこう言うつもりはない。だが、この顔をした男が、感情の蛇口を締めたまま、残りの人生を生きていくのか。

 誠はそれを、初めて、本気で考えた。


 年が明けた。

 一月の金沢は、雪が多い。誠は雪かきをしながら、営業所へ通った。仕事は年始から忙しかった。新年の挨拶回りがあり、福井の件の続きがあり、本社からの年間計画の提出期限があった。

 喫茶ソラへは、週に一度行った。

 芽依はいつもと変わらなかった。誠を見て、「いらっしゃいませ」と言い、コーヒーを淹れ、時々話をした。クリスマスの夜のことは、どちらも触れなかった。

 触れなかったのは、誠の方が先に避けたからだ。

 あの夜以来、誠は意識して、踏み込まないようにしていた。芽依が何か個人的なことを話しそうになると、少し話題を変えた。芽依が誠に何かを聞こうとすると、表面的な答えを返した。

 気取っていた。

 自分でそれを知っていた。

 大人として振る舞っていた。分別がある男として、感情に流されない男として、自分を演じていた。なぜそうするのか。理由は明快だった。踏み込めば傷つく可能性がある。だから踏み込まない。合理的な判断だと、誠は自分に言い聞かせた。

 だがある夜、帰り際に芽依が言った言葉が、誠の胸に刺さった。

 「最近、柏木さんが遠い気がします」

 さりげない一言だった。責めているのではない。ただ、気づいたことを言った、そういう口調だった。

 誠は立ち上がりながら、「そんなことはないですよ」と言った。

 嘘だった。

 芽依はそれ以上何も言わなかった。ただ、いつものように「また」と言った。

 誠も「また」と言い、引き戸を閉めた。

 鈴の音が、今夜はどこか寂しく聞こえた。


 一月の終わり、誠は本社から電話を受けた。

 人事部の担当者からだった。「来月、本社へ来ていただけますか。少し話があります」。その言い方が、誠には引っかかった。来月の東京出張は予定になかった。話があります、という含みのある言い方。

 転勤の話か、と誠はすぐに思った。

 北陸への赴任は三年が目安だと、最初から言われていた。もう三年が経った。次の赴任地がどこかはわからないが、動く時期が来ているのかもしれない。

 誠はその電話を切ってから、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。

 転勤になれば、金沢を出る。

 金沢を出れば、喫茶ソラへは来られない。

 芽依に会えなくなる。

 そのことが、誠には予想外の重さで感じられた。仕事の話として受け止めようとしたが、そうならなかった。金沢を離れるということが、まず最初に意味したのは、仕事の環境の変化ではなく、芽依と会えなくなるということだった。

 誠はそのことを、しばらくぼんやりと考えた。

 自分はいつから、この女のことをそこまで大切に思うようになったのか。


 二月の第一週、誠は東京へ出張した。

 本社の会議室で、人事部長と向かい合った。話は誠が予想したとおりだった。「三月末で北陸営業所長の任期を終え、四月から本社の営業企画部へ異動してほしい」。東京への帰還だった。役職は上がる。給与も上がる。キャリアとしては、明らかにステップアップだ。

 「考える時間はありますか」と誠は言った。

 人事部長は少し驚いた顔をした。これまでの誠なら、即座に「わかりました」と言っただろう。実際、これまでの赴任では全部そうだった。辞令に逆らったことはなかった。

 「一週間、もらえますか」

 「構いませんが、どうかされましたか」

 「個人的なことです」と誠は言った。

 人事部長はそれ以上聞かなかった。


 東京から金沢へ戻る新幹線の中で、誠は窓の外を見続けた。

 冬の北陸の景色が流れていく。田んぼに雪が残っている。鉛色の空が、水平線まで続いている。誠はその景色を見ながら、考えた。

 転勤を断るという選択肢は、現実的にはほぼない。会社員としての自分には、それはできない。もし断れば、キャリアに傷がつく。左遷の可能性もある。それはわかっている。

 ではどうするか。

 受け入れて、東京へ戻る。それが現実的な答えだ。

 だがそうなれば、芽依のことはどうなる。

 誠はそこで、自分に正直になろうとした。

 芽依のことを、どう思っているのか。

 ただの行きつけの喫茶店の店主か。それとも。

 答えは出ていた。ずっと前から、出ていた。ただ認めていなかっただけだ。

 誠は芽依のことが、好きだった。

 その言葉を、頭の中で声に出してみた。

 好きだ。

 四十七の男が、三十一の女を。十六歳の年の差があって、一度離婚していて、感情の蛇口を長い間締め続けてきた男が。

 好きだ。

 窓の外を景色が流れた。雪の白が、目に染みた。

 好きだと気づいた。

 だがそれだけでは、何も変わらない。

 気づいたからといって、どうすればいい。三月末には金沢を離れる可能性が高い。残り二ヶ月もない。その間に何ができる。何をすべきか。

 誠はまた、考えた。分析した。リスクを計算した。

 そしてまた、格好をつけた。

 答えを出さないことが、最も賢明な選択だと、自分に言い聞かせた。もう少し様子を見よう。時間が解決するかもしれない。あるいは、何もしないまま金沢を去る方が、お互いのためにいいかもしれない。

 惑星は、太陽に落ちない。

 軌道の上を回り続ける。それが安全だ。

 誠は目を閉じた。

 新幹線は金沢へ向かって、速度を上げた。


 金沢に戻った夜、誠はまっすぐマンションへ帰った。

 喫茶ソラへは行かなかった。

 行けなかった、というのが正確だった。芽依の顔を見たら、正直に言ってしまいそうだった。東京への転勤の話が出ていること。金沢を去るかもしれないこと。そしてそれよりも、あなたのことが好きだということ。

 全部言いそうだった。

 だから行かなかった。

 マンションのソファに座って、缶ビールを開けながら、誠は自分を情けないと思った。四十七年生きてきて、喫茶店に行けない。好きな女に会いに行けない。

 気取っている。

 自分でわかっている。

 では、気取るのをやめればいい。簡単な話だ。

 しかし、それができない。

 長い間かけて作り上げた壁は、意志の力だけでは崩せない。わかっていても、動けない。頭の中では正解がわかっているのに、身体が動かない。それが今の誠だった。

 ビールを飲み干して、二本目を取りに立った。

 冷蔵庫の扉を開けながら、誠はふと思った。

 このまま、何もしないで終わるのか。

 また軌道を回り続けて、やがて転勤して、金沢を去って、また東京で一人で生きていくのか。

 答えは出なかった。

 だが、その問い自体が、誠の中で少しずつ大きくなっていた。


5章「芽依の過去」

 二月に入ると、金沢の雪は本格的になった。

 朝、目が覚めると窓の外が白い。そういう日が続いた。誠は雪かきをしながら、営業所へ向かった。北陸の冬に慣れたとはいえ、この時期の寒さは骨に染みる。息を吐くと白くなり、手袋をしていても指先が痛くなる。

 誠は喫茶ソラへ行く間隔を、少し空けるようになっていた。

 意図的に、ではなかった。少なくとも最初は。仕事が忙しかったことも確かだった。だが正直に言えば、東京転勤の話が出てから、芽依の顔を見ることが、少し怖くなっていた。

 見れば、言いたくなる。

 言えば、何かが変わる。

 何かが変わることへの恐れが、誠の足を鈍らせていた。

 それでも、二週間に一度は店へ行った。行かないでいると、もっと遠くなる気がして。距離を保つことと、完全に離れることは違う。誠はその微妙な線の上を、綱渡りのように歩いていた。


 二月の中旬、誠が店へ行くと、芽依の様子がいつもと少し違った。

 表情は穏やかだった。接客も丁寧だった。だがどこか、いつもより疲れている気がした。目の下に、うっすらと疲労の影がある。動きは変わらないが、少し重い。

 客が自分だけになったとき、誠は聞いた。

 「疲れていますか」

 芽依は少し驚いた顔をした。

 「そんなに見えますか」

 「少しだけ」

 芽依はカウンターを拭きながら、「昨日、あまり眠れなくて」と言った。

 「何かあったんですか」

 「昔の友人から、連絡があって」

 それだけ言って、芽依は少し黙った。続けるかどうか迷っているような間だった。誠は急かさなかった。ただ、コーヒーカップを両手で包んで、待った。

 「友人というか」と芽依はやがて言った。「昔、付き合っていた人です」

 誠は何も言わなかった。

 「結婚したと、連絡が来て。報告したかったんだと思います。子どもも生まれると」

 「それで眠れなかった」

 「眠れなかった、というのとは少し違うんですけど」と芽依は言った。「なんだろう、うまく言えないんですが。悲しいとか、悔しいとか、そういうのとも違って。ただ、何かが締まるような感じがして」

 「締まる」

 「心の何かが、きゅっと締まる感じ。痛みとも違う。ただ、締まる」

 誠はその言い方を、黙って聞いた。

 締まる感じ。それは誠にも、なんとなくわかる気がした。終わったと思っていたものが、終わったことを改めて告げられる。それは悲しみではない。だが確かに、何かが閉じる音がする。

 「その人と別れたのは、いつですか」

 「三年前です」と芽依は言った。「ちょうど、父が亡くなった頃に」


 その夜、芽依は少しだけ、過去の話をした。

 誠が急かしたわけではなかった。芽依が、自分から話し始めた。話したかったのかもしれないし、話す相手が誠しかいなかったのかもしれない。あるいは、誠だから話せたのかもしれない。どれが本当かは、誠にはわからなかった。

 「大学の同級生でした」と芽依は言った。「金沢の出身で、私とは地元が同じで。卒業してから、東京でそれぞれ就職して、また会うようになって」

 「東京にいたんですか」

 「三年ほど。父が病気になってから、戻ってきました」

 「その人とは、東京で付き合っていた」

 「はい。四年間」

 四年間、と誠は心の中で繰り返した。それは短くない時間だ。

 「別れたのは」

 「私が金沢へ戻ることになったとき」と芽依は言った。少し間を置いてから。「彼は東京を離れたくなかった。仕事があって、それは理解できました。私も強く求めはしませんでした。遠距離でもいいと最初は言っていたんですが、父の病気が進んで、私が金沢に戻りっきりになって、そのうちに自然と、連絡が減って」

 「自然と」

 「自然と、という言い方が正確かどうかわからないですが」と芽依は言った。「彼も悪い人ではなかったし、私も無理を言えなかった。ただ、お互いの場所が違ってしまった」

 「それで終わった」

 「終わりました」と芽依は言った。静かに。感情を抑えているのではなく、本当に静かに。「父が亡くなった三ヶ月後に、正式に別れました」

 誠は黙っていた。

 父親の死と、四年間の恋の終わりが、同じ時期に重なった。それがどれほどの重さだったか、誠には想像するしかない。だがあの「整理の途中」という言葉の意味が、今少しわかった気がした。

 「辛かったですね」と誠は言った。

 芽依はしばらく黙ってから、「辛かったです」と言った。「素直に言えば」

 「素直に言えば?」

 「あの頃は、素直に辛いと言えなかったので」と芽依は言った。「お母さんに心配かけたくなかったし、妹には子どもが生まれたばかりで、店を続けることで精一杯で。だから、辛いという気持ちをどこに置けばいいかわからなくて」

 「ここに置いていたんですか」と誠は言った。店を見回しながら。「この店に」

 芽依が少し驚いた顔をした。

 「そうかもしれません」と芽依は言った。「父が作った店を続けることが、何かを支えてくれていたので。この場所が、私を保ってくれていた」


 コーヒーを二杯目に替えながら、誠は少し考えてから言った。

 「その人のことを、まだ好きですか」

 芽依はすぐには答えなかった。

 誠は聞きすぎたかと思った。まだそこまでの話をする間柄ではないかもしれない。だが聞いてしまった。

 「好きかどうか、というのとは違うと思います」と芽依はやがて言った。「四年間、一緒にいた人だから、消えるわけはないんですが。でも、戻りたいとか、悔しいとか、そういうのはもうない。ただ、昨日連絡が来て、結婚すると聞いて、何かが完全に終わった気がして」

 「締まった」

 「そう。締まった感じ」と芽依は言った。そして少し笑った。「うまく言語化してくれる人が初めていました」

 「私も似たような経験があるので」

 「離婚のことですか」

 「妻に、私といると透明になっていく気がすると言われました。最後に」

 芽依は黙って、誠を見た。

 「それを聞いたとき、どう思いましたか」と芽依は言った。

 「わからなかった。当時は。今はわかります」

 「今は」

 「私が彼女を見ていなかった。隣にいる人間の存在を、ちゃんと受け取っていなかった。仕事に逃げていた」

 「逃げていた、と今は思うんですか」

 「そう思います」と誠は言った。「仕事が大事だというのは本当だったが、それだけが理由じゃなかった。誰かに深く関わることへの恐れがあって、仕事はその言い訳になっていた」

 芽依はしばらく、誠の顔を見ていた。

 「正直な人ですね」と芽依は言った。

 「今だから言える話です。当時は気づいていなかったので、正直でもなんでもない」

 「それでも」と芽依は言った。「今、正直に言えるということは、変わったということだと思います」

 誠はその言葉を、静かに受け取った。


 その夜の帰り際、誠はコートを着ながら、ふと壁の水彩画を見た。

 六枚の海の絵。能登の海。朝の海、夕暮れの海、嵐の前の海。

 「木村さんは、最近来ていますか」と誠は言った。

 芽依の動きが、少し止まった。

 「木村さん?」

 「いつも窓際で文庫本を読んでいる、年配の方です。私が初めて来た夜もいらっしゃって」

 芽依はしばらく黙った。

 「実は」と芽依はやがて言った。「先週から、来ていなくて」

 「そうですか」

 「ご家族から連絡があって」と芽依は言った。少し声が落ちた。「木村さん、先週の水曜日に、亡くなられたそうです」

 誠は動きを止めた。

 「先週の水曜日」

 「はい。その日も、ここへ来てくれていたんです」と芽依は言った。「いつものコーヒーを飲んで、いつもの文庫本を読んで、帰り際に『また来ます』と言って帰って。それが、最後になってしまって」

 また来ます、と言って。

 誠はその言葉を、静かに受け取った。

 また来ます、という言葉は、約束ではない。ただの挨拶だ。だが人はその言葉を信じる。次もここへ来られると、当たり前のように思っている。

 だが当たり前ではない。

 「木村さんは、何年来てくれていたんですか」

 「十三年です」と芽依は言った。「父が店を始めた頃からの、最初のお客さんの一人で」

 「十三年」

 「詩集を読みながら、コーヒーを飲むのが好きな方で。若い頃から詩が好きだったと、一度話してくれたことがあって。それ以来、詩集が入ったときは、木村さんに話すようにしていました」

 誠は窓際のテーブルを見た。

 木村さんが座っていた席だった。

 そこに誰もいなかった。

 文庫本もなかった。ただ、白いテーブルがあるだけだった。

 「あなたが守っていたんですね」と誠は言った。「その時間を」

 芽依は下を向いた。

 肩が、少し震えた。

 誠はコートを着たまま、カウンターに戻った。

 芽依の手に、そっと自分の手を重ねた。

 芽依は顔を上げなかった。

 だが手を引かなかった。

 しばらく、そのままでいた。

 雨の音が、外で始まっていた。

 誠はその雨の音を聞きながら、思った。

 時間は、有限だ。

 木村さんは「また来ます」と言って、来られなかった。誠にも、また来ますと言える保証はない。誰にも、ない。

 ならば今、できることをしなければならない。言えることを、言わなければならない。今しかないことを、今しなければならない。

 誠は芽依の手の温かさを感じながら、その当たり前のことを、初めて骨の髄まで感じた。


 やがて芽依が顔を上げた。

 目が少し赤かった。

 今夜は、泣いていた。

 誠が芽依の涙を見たのは、初めてだった。

 「すみません」と芽依は言った。

 「謝らないでください」と誠は言った。

 「柏木さんの前で、こんな」

 「いいんです」と誠は言った。「ここにいるので」

 芽依はしばらく、誠を見た。

 それから、小さく「ありがとうございます」と言った。

 その言葉が、今夜は以前とは違う重さで、誠に届いた。


 帰り道、誠は雪の中を歩いた。

 木村さんのことを考えながら歩いた。

 十三年間、詩集を読みながらコーヒーを飲んだ老人。「また来ます」と言った老人。来られなかった老人。

 誠は空を見上げた。

 雪が、また降り始めていた。

 街灯の光の中で、白いものがひらひらと落ちてくる。

 時間は有限だ。

 その言葉が、雪のように、誠の中に静かに積もっていった。



6章「遠ざかる軌道」

 来週、と言ったのに、誠はすぐには行けなかった。

 理由は仕事だった。少なくとも、表向きは。月末の数字の締めがあり、福井の取引先でトラブルが起きて、田中が体調を崩して誠が直接動かなければならない場面が続いた。気づけば、芽依に「来週来ます」と言った日から十日が過ぎていた。

 だが正直に言えば、仕事だけが理由ではなかった。

 行けば、何かを言わなければならない気がした。

 芽依が「返事をする前に来てください」と言った。その言葉の意味を、誠はずっと考えていた。考えれば考えるほど、重くなった。あれは単なる常連客への気遣いだったのか。それとも、もっと別の何かを含んでいたのか。

 どちらだとしても、行けば向き合わなければならない。

 向き合うことへの怖さが、誠の足を止めていた。

 人事部への返事の期限は、今週末だった。


 そこへ、木曜日の朝、スマートフォンが鳴った。

 母親からだった。

 こんな時間に母親から電話が来ることは、ほとんどない。誠は胸に何かが走るのを感じながら、電話を取った。

 「誠、落ち着いて聞いてね」

 その一言で、わかった。

 「親父か」

 「昨夜、胸が痛いと言って。今、病院にいるんだけど」

 「心臓か」

 「先生が、軽い心筋梗塞だって。でも、処置が早かったから、命に別状はないって言ってくれていて」

 誠は椅子から立ち上がっていた。

 「今すぐ行く」

 「仕事は」

 「関係ない」

 電話を切って、田中を呼んだ。

 「父親が倒れた。今日から数日、頼む」

 田中は「わかりました、行ってきてください」と即座に言った。迷いがなかった。誠はその即座さが、ありがたかった。

 荷物をまとめながら、誠はスマートフォンを見た。

 芽依に連絡しようとして、少し止まった。

 なぜ芽依に連絡しようとしているのか。

 緊急の場面で、最初に連絡したいと思った相手が、芽依だった。

 その事実を、誠は一瞬、静かに受け取った。

 仕事の連絡は、田中にした。だが個人として、誰かに伝えたいと思ったとき、浮かんだのが芽依だった。

 それが何を意味するか。

 誠は考えかけて、止めた。今は考えている場合ではない。

 メッセージを送った。

 「父が倒れました。大阪へ行きます」

 返信はすぐに来た。

 「大丈夫ですか。気をつけて」

 たった二文だった。だがその二文が、誠には十分だった。

 走るように、営業所を出た。


 大阪の病院へ着いたのは、夕方だった。

 父親は個室のベッドに寝ていた。点滴がつながれて、顔色が悪かった。だが目は開いていた。誠が入ってきた気配で、ゆっくりと顔を向けた。

 「来たか」

 「来た」

 「大げさやな」と父親は言った。大阪弁で。「命に別状ないって言われたのに」

 「うるさい」と誠は言った。

 父親が少し、笑った。

 誠は椅子を引いて、ベッドの横に座った。

 しばらく、何も言わなかった。父親も何も言わなかった。だがその沈黙は、以前の二人の間にあった沈黙とは違った。あの頃の沈黙は、お互いに何も言うことがない沈黙だった。今夜の沈黙は、言葉の前にある沈黙だった。

 「心配したか」と父親が言った。

 「した」と誠は言った。

 「そうか」

 また少し、黙った。

 「親父」と誠は言った。

 「なんや」

 「もう少し、連絡する。これから」

 父親はしばらく、点滴の管を見ていた。

 「ああ」と父親はやがて言った。「待っとる」


 大阪に三日いた。

 父親の容態は安定していた。医師から「しばらく安静にしていれば問題ない」と言われた。母親が「あんた、顔が変わったね」と言った。「良い方に」と付け加えた。

 三日間、毎晩芽依からメッセージが来た。

 「お父さん、今日はどうでしたか」

 「顔色が良くなってきたと言っていました」と誠は返した。

 「よかったです。あなたも、ちゃんと食べてください」

 あなたも、という言葉が、誠には温かかった。

 父親のことを心配しながら、誠のことも心配している。その両方が、あなたも、という二文字の中に入っていた。

 三日目の夜、父親が少し回復して、二人で話した。

 「金沢は、どうやった」と父親が聞いた。

 「良かった」と誠は言った。「人に恵まれた」

 「女か」

 誠は少し驚いた。

 「なんでわかる」

 「顔に出とる」と父親は言った。「お前、昔からそういうのが顔に出る」

 誠は苦笑した。

 「来月、金沢を離れる」

 「それで、どうするんや」

 「どうするか、考えています」

 父親はしばらく黙った。

 「誠」と父親は言った。

 「なんや」

 「お前、若い頃から考えすぎるとこがあったからな」と父親は言った。「頭で考えて、感情を後回しにして。仕事はそれでうまくいくかもしれんけど、人間関係はそれじゃあかんことがある」

 誠は父親を見た。

 「知っとる」

 「知っとるなら、ええ」と父親は言った。「後は、動くだけや」

 「親父に言われたくないな」

 「そうやな」と父親は笑った。「わしも人のこと言えんから」

 二人で笑った。

 病院の個室で、点滴がつながれたベッドの横で、父と息子が笑った。

 誠は、それがいつぶりのことか、思い出せなかった。

 だがそれでいいと思った。

 今日笑えた。それで十分だ。


 大阪から金沢へ戻った夜、誠はまっすぐ喫茶ソラへ向かった。

 引き戸を開けると、芽依がカウンターの奥にいた。

 誠を見て、少し安堵したような顔をした。

 「帰ってきた」と芽依は言った。

 「帰ってきました」と誠は言った。

 「お父さんは」

 「大丈夫です。少し、話もできた」

 「よかった」と芽依は言った。「本当に」

 誠はカウンターの端に座った。

 いつもの席。帰ってきた場所。

 コーヒーを受け取って、一口飲んだ。

 「帰ってきた気がします」と誠は言った。「ここへ来ると」

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 「ここは」と芽依は言った。静かに。「いつでも、あります」

 誠はその言葉を、静かに受け取った。

 いつでも、ある。

 父親が倒れた朝、最初に連絡したいと思った相手が芽依だった。三日間、毎晩メッセージが来た。大阪から戻って、まっすぐここへ来た。

 自分にとってここが何なのか、もう言葉にする必要もなかった。

 「もう一つ、正直に言っていいですか」と誠は言った。

 「どうぞ」

 「父が倒れた朝、最初に連絡したいと思ったのが、あなたでした」

 芽依は少し、動きを止めた。

 「それを言うんですか」

 「言いたかったので」

 芽依はしばらく、カウンターの木目を見ていた。

 「私も」と芽依はやがて言った。「毎晩、連絡しながら、早く帰ってきてほしいと思っていました」

 「帰ってきましたよ」

 「知っています」と芽依は言った。「だから、よかったと言ったんです」

 店の中が、静かだった。

 雨の音が、外で始まっていた。

 誠はコーヒーを飲みながら、父親の言葉を思い返した。

 考えすぎるとこがあった。後は、動くだけや。

 動く。

 そうだ。もう十分、考えた。

 あとは動くだけだ。


 木曜日の夜、誠はようやく喫茶ソラへ向かった。

 意を決した、というほど大げさなものでもない。ただ、このまま行かずに週末を迎えるのは違う、という感覚があった。芽依と話さないまま返事をするのは、何かを間違える気がした。

 引き戸を開けると、店の中は静かだった。

 客が一人、奥のテーブルにいた。誠より少し年上に見える男性が、一人でグラスを傾けている。赤ワインだろうか。静かに、何かを考えながら飲んでいる様子だった。

 芽依がカウンターの奥から出てきた。

 誠を見た瞬間、何かが顔に浮かんだ。安堵のようなもの、あるいは、来たか、というような表情。一瞬だったが、誠にはそれが見えた。

 「来るのが遅かったですね」と芽依は言った。責める口調ではなく、ただ事実として。

 「すみません。仕事が立て込んで」

 「そうですか」

 芽依はコーヒーを淹れ始めた。誠はいつもの席に座った。

 カウンターに肘をついて、芽依の後ろ姿を見た。慣れた手つきでコーヒーを淹れる。その動きが、誠にはいつもより少し緊張して見えた。あるいは、自分が緊張しているから、そう見えるのかもしれない。

 「返事は、しましたか」と芽依が聞いた。背中を向けたまま。

 「まだです。今週末までに」

 芽依は何も言わなかった。

 コーヒーがカップに注がれる音だけが、静かな店の中に響いた。


 奥の客が帰ったのは、九時を少し前だった。

 店には誠と芽依だけになった。

 芽依はカウンターの内側に立ったまま、しばらく誠を見ていた。何かを言おうとして、どう言おうか測っているような、そういう表情だった。

 誠も黙っていた。

 先に口を開いたのは、芽依だった。

 「聞いてもいいですか」

 「どうぞ」

 「迷っているのは、仕事のことですか」

 誠はコーヒーカップを置いた。

 「仕事のことだけではないです」

 「金沢に、残る理由があると言っていましたね」

 「はい」

 「それは」と芽依は言った。少し間を置いて。「この店のことですか」

 誠は芽依を見た。

 芽依は真剣な顔をしていた。探るような目ではない。確かめようとしている目だった。自分が感じていることを、正確に確かめようとしている。

 「この店のことでもあります」と誠は言った。「そして」

 「そして」

 誠は少し間を置いた。

 言えるか、と自分に問いかけた。

 言え、と自分に言い聞かせた。

 父親の言葉が、頭の中で響いた。

 後は、動くだけや。

 「あなたのことでもあります」

 店の中が、しんとした。

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 誠もまた芽依を見た。目を逸らさなかった。これまでの自分なら、言った瞬間に目を逸らしていた。だが今夜は、逸らさなかった。

 「柏木さん」と芽依はやがて言った。

 「はい」

 「それは、どういう意味で言っていますか」

 「そのままの意味で言っています」

 芽依はまた黙った。

 誠は続けた。言い始めたら、止まれなかった。

 「あなたのことが気になっています。ここへ来るたびに、あなたと話すたびに、それは大きくなっている。私は長い間、こういうことを感じないようにしてきたので、うまく言葉にできないですが。ただ、正直に言えば、そういうことです」

 芽依は下を向いた。

 カウンターの木目を、見ているのか、見ていないのかわからない。

 誠は待った。

 長い沈黙だった。十秒か、二十秒か。誠には長く感じられた。

 「ありがとうございます」と芽依はやがて言った。

 「ありがとう、というのは」

 「正直に言ってくれて」と芽依は言った。顔を上げて、誠を見て。「うれしかったです。本当に」

 「でも」と誠は言った。「でも、があるんですね」

 芽依は少し、困ったような顔をした。

 「でも、があります」


 芽依が話し始めたのは、しばらく経ってからだった。

 誠のコーヒーカップに、二杯目を注ぎながら。自分の手を動かしていた方が、話しやすいのかもしれなかった。

 「私も」と芽依は言った。「柏木さんのことは、気になっていました」

 「気になっていた、と過去形で言う」

 「今も、です」と芽依は少し苦笑しながら言った。「ただ」

 「ただ」

 「私は、一度同じことをして、うまくいかなかったので」と芽依は言った。「場所が違う人と。どちらかが動かなければならなくて、でもどちらも動けなくて、そのまま終わった。また同じになるのが、怖いんです」

 誠は黙って聞いた。

 「柏木さんは東京へ行く話が出ている。私はここを離れられない。また同じだと思うと、最初から踏み込めない自分がいて」

 「それは」と誠は言った。「正直な話をありがとうございます」

 「お互い様です」と芽依は言った。

 「東京へ行くことは、決まったわけではないです」

 「でも、可能性は高い」

 「そうです」と誠は認めた。「高い」

 芽依はカップを置いて、両腕をカウンターの上でゆっくりと組んだ。

 「柏木さんは、どうしたいんですか」と芽依は言った。「仕事のことじゃなくて。自分が、どうしたいか」

 誠はすぐには答えられなかった。

 どうしたいか。

 その問いに、誠はこれまで正面から向き合ってこなかった。何が得か、何が損か、何が合理的か。そういう軸でしか考えてこなかった。

 だが今夜は、木村さんのことが頭にあった。

 また来ます、と言って、来られなかった老人のことが。

 時間は有限だ。

 「ここにいたい」と誠はやがて言った。「正直に言えば」

 「金沢に、ですか」

 「金沢に。そして、ここに。あなたのそばに」

 芽依は少し、目を伏せた。

 「それを言われると」と芽依は言った。小さな声で。「困ります」

 「困る、というのは」

 「うれしくて、困ります」

 誠は、その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが動いた。

 うれしくて、困る。

 芽依も同じ場所にいた。誠と同じように、踏み込むことへの怖さを持ちながら、しかし引かれている。その事実が、誠には重かった。重かったが、温かかった。


 だがその夜、二人は答えを出さなかった。

 出せなかった、というのが正確だった。

 芽依には怖さがあった。場所が違う男と、また同じ轍を踏むことへの怖さ。誠には返事の期限があった。今週末。選択が迫っている。

 「今週末に、返事をしてから」と誠は言った。「また来てもいいですか」

 「もちろんです」と芽依は言った。「ただ」

 「ただ」

 「返事の前でも、後でも」と芽依は言った。「柏木さんが決めることは、仕事のことだけで決めてください。私のことを、理由にしないでください」

 誠は少し、面食らった。

 「それは」

 「私がいるから金沢に残る、という理由で決めてほしくないんです」と芽依は言った。まっすぐに、しかし柔らかく。「私はまだ、柏木さんに何かを約束できる立場にないから。だから、私を理由にしないでほしい」

 誠はその言葉の意味を、ゆっくりと受け取った。

 芽依は誠を突き放しているのではない。誠の人生の決断を、自分という不確かなものの上に乗せてほしくない、ということだ。

 「わかりました」と誠は言った。

 「ごめんなさい」と芽依は言った。「難しいことを言って」

 「難しくないです」と誠は言った。「正しいと思います」

 芽依は少し、安堵したような顔をした。


 マンションへ帰る道、誠は重い足取りで歩いた。

 雪はなかった。乾いた冷たい空気の中を、コートの襟を立てて歩いた。

 うれしくて、困る、と芽依は言った。

 誠は何度もその言葉を反芻した。

 芽依も、誠のことを気にかけていた。それは確かだった。

 詩の一節が、頭の中で繰り返された。

 惑星の軌道の如く、すぐにまた遠ざかり。

 まさにそれだ、と誠は思った。

 近づいたと思ったら、また遠ざかる。引力に引かれながら、しかし軌道を外れることができない。

 だが今夜は、以前と少し違った。

 木村さんの「また来ます」が、頭の中にあった。

 父親の「後は、動くだけや」が、頭の中にあった。

 二つの言葉が、誠の中で静かに重なっていた。

 誠は空を見上げた。

 冬の空に、星が見えた。


 土曜日の朝、誠は人事部長に電話をした。

 「受けます」

 言ってから、少し驚いた。自分の口からその言葉が出たことに。

 「ただ」と誠は続けた。

 「はい」

 「三月末まで、金沢でやるべきことがあります。それはやり切らせてください」

 「もちろんです。引き継ぎも含めて、三月末まではそちらで」

 電話を切った。

 窓の外を見た。曇り空だった。雪がまた、降り始めていた。

 受けた。

 東京へ行く。

 それが現実になった。

 誠はソファに座って、しばらく動かなかった。

 だがその夜、喫茶ソラへ行くと、芽依が「返事をした前でも後でも、柏木さんが決めることは仕事のことだけで」と言った通りになった。

 誠はそれを、正しい選択だと思った。

 そしてもう一つ、正しい選択が残っていることも、わかっていた。

 それはこれから、しなければならない選択だった。



7章「決断の夜」

 三月に入った。

 金沢の三月は、まだ冬の匂いがする。雪は減るが、完全には消えない。日によっては真冬のような寒さが戻ってくる。だが光は確かに変わっていた。朝の光が、二月とは違う角度で差し込んでくる。夕方の空が、少しだけ長く明るい。春は、まだ遠いようで、しかし確実に近づいていた。

 誠の残り時間も、確実に減っていた。

 三月末まで、あと一ヶ月を切っていた。

 引き継ぎの準備が本格的に始まった。田中が次の所長候補として本社から認められ、誠は田中に仕事を渡していく作業を、毎日少しずつ進めた。取引先への挨拶回りも始まった。長年付き合いのあった福井の担当者が、「柏木さんがいなくなるのは寂しい」と言った。誠は「お世話になりました」と言い、頭を下げた。

 仕事の上での金沢との別れは、淡々と進んでいた。

 だが誠の頭の中では、別の問いが大きくなり続けていた。

 芽依のことを、このまま終わらせていいのか。


 三月の第一週、誠は週に二度、喫茶ソラへ行った。

 芽依はいつもと変わらなかった。コーヒーを淹れ、時々話をし、静かな時間を作った。東京転勤の話が出てから、二人の間の空気は変わっていた。変わった、というのは悪い意味ではない。ただ、何かが決まっていない宙ぶらりんな感じが、常にどこかにあった。

 誠はそれを感じながら、しかし踏み込めずにいた。

 芽依に「私のことを理由にしないでください」と言われた。その言葉は正しかった。誠もそう思う。だが東京行きを決めた今、その言葉の意味は変わっていた。

 もう決断は終わった。

 仕事の決断は、した。

 残っているのは、別の決断だ。

 誠は毎夜、マンションのソファに座って、その別の決断と向き合った。

 言うべきか。

 言うべきだ、と頭ではわかっていた。このまま三月末を迎えて、「お世話になりました」と頭を下げて金沢を去る。それは最も楽な選択だ。傷つかない。傷つけない。誰も何も失わない。

 だが本当にそうか。

 何も失わないのか。

 誠はそこで立ち止まった。

 何も言わずに去ることは、何かを失うことだ。言葉にしなかった感情は、言葉にしなかったという事実として残る。あの惑星の軌道の話ではないが、今ここで動かなければ、この機会は遠ざかる。人生くらいの時間では、二度と戻らないかもしれない距離へ。


 三月の第二週の水曜日、誠は仕事を早めに切り上げた。

 田中に「今日は直帰する」と伝えた。田中は「わかりました」と言い、それ以上聞かなかった。

 誠はマンションへ戻り、コートを脱いで、ソファに座った。

 窓の外では、雪が少し舞っていた。三月の雪は儚い。降ってもすぐに溶ける。それでも降る。春になりきれない空が、最後の冬を手放せずにいるような雪だった。

 誠はしばらく、その雪を見ていた。

 何かが、今夜決まる気がした。

 根拠はなかった。ただ、そういう感覚があった。これ以上先送りにできない、という感覚。もう時間がない、という感覚。そして、今夜言わなければ、永遠に言えないかもしれない、という感覚。

 誠は立ち上がった。

 コートを羽織った。

 玄関で靴を履きながら、鏡に映る自分の顔を見た。

 四十七の男の顔だった。

 情けないとは思わなかった。今夜は。ただ、この顔をした男が、今から何かをしようとしている。それは、この顔に似合うことだと思った。

 扉を開けた。


  喫茶ソラへ向かう道を、誠は歩いた。

 いつもの道だった。営業所を出て、片町を抜けて、犀川の方へ向かう道。三年間、何度歩いたかわからない道。最初の頃は、ただの帰り道だった。それがいつの間にか、目的地のある道になっていた。

 雪が少し、強くなっていた。

 誠は傘を差さなかった。

 なぜかは自分でもわからなかった。ただ、今夜は傘を差したくなかった。雪に打たれながら歩きたかった。身体で何かを感じながら、この道を歩きたかった。

 頭の中に、言葉が浮かんでいた。

 何を言うか、は決めていなかった。

 決めすぎると、また格好をつけ始める。言葉を選びすぎて、肝心のことを言えなくなる。だから決めなかった。ただ、正直に言おう、とだけ思った。思っていることを、飾らずに、正直に。

 それだけでいい。

 路地の角を曲がると、喫茶ソラの明かりが見えた。

 引き戸の磨りガラスの向こうで、温かい光が揺れている。

 誠は立ち止まった。

 一呼吸置いた。

 それから、引き戸に手をかけた。


 カランコロン、と鈴が鳴った。

 店の中には、客がいなかった。

 平日の夜の、少し早い時間だった。芽依がカウンターの奥で、何かを書いていた。帳簿か、メモか。誠が入ってきた音で顔を上げた。

 「いらっしゃい」と言いかけて、止まった。

 誠の顔を見て、何かを感じたのかもしれない。いつもと違う、という何かを。

 「どうかしましたか」と芽依は言った。

 「少し、話してもいいですか」

 「もちろん」

 「座る前に、話したいことがあって」

 芽依はペンを置いた。カウンターの前に立ち、誠を見た。

 誠は引き戸の前に立ったまま、コートについた雪を少し払った。それから、芽依を見た。

 「あなたのことが、好きです」

 店の中が、しんとした。

 雪の音もしない。街の音も遠い。ただ、二人の間に、その言葉だけがあった。

 芽依は動かなかった。

 誠も動かなかった。

 「四十七の男が、何を言っているんだと思うかもしれないですが」と誠は続けた。「十六歳の差があって、一度離婚していて、来月には金沢を去る男が。それはわかっています。だから言うべきではないかもしれない。ずっとそう思っていた。でも言わないまま金沢を去ることの方が、ずっと間違いだと今夜思ったので」

 芽依はまだ、動かなかった。

 誠は続けた。

 「金沢に来て、この店に来て、あなたと話すようになって、私は少し変わった気がしています。長い間閉めていた何かが、少しずつ開いてきた。それがあなたのおかげだとは、図々しくて言えないですが。ただ、あなたと話す時間が、私には大切だった。それだけは正直に言いたかった」

 言い終えた。

 誠は芽依を見た。目を逸らさなかった。

 芽依は下を向いていた。

 十秒ほど、沈黙があった。

 それから芽依が顔を上げた。

 目が、少し赤かった。泣いているわけではなかった。だが、何かをこらえている目だった。

 「座ってください」と芽依は言った。静かに。「コーヒーを淹れます」


 誠はカウンターの端に座った。

 いつもの席だった。最初の夜からずっと、この席に座ってきた。

 芽依がコーヒーを淹れる音がした。豆を挽く音。お湯を注ぐ音。それらがいつもより丁寧に聞こえた。

 コーヒーが来た。

 誠はそれを受け取り、一口飲んだ。

 いつも通りのコーヒーだった。変わらない味。だが今夜は、その味がいつもより深く感じられた。

 芽依はカウンターの内側で、誠と向かい合うように立った。

 「柏木さん」と芽依は言った。

 「はい」

 「正直に言っていいですか」

 「もちろんです」

 芽依はしばらく間を置いた。

 「私も」と芽依は言った。「柏木さんのことが、好きです」

 誠は息を止めた。

 「最初に気づいたのは、たぶんクリスマスの頃でした」と芽依は続けた。「はっきりとは言えないですが、あの夜、気になっていると言ったとき、本当はもっと別のことを言いたかった。でも言えなかった」

 「なぜ言えなかったんですか」

 「怖かったから」と芽依は言った。「また同じことになるのが。場所が違う人と、また同じことになるのが。それに」

 「それに」

 「柏木さんが、遠い気がしていたので」と芽依は言った。少し苦笑しながら。「こちらが踏み込もうとすると、するっと引いてしまう感じがして。だから、私も踏み込めなかった」

 誠は、その言葉を正直に受け取った。

 「私が格好をつけていたからですね」

 「格好をつけていた」

 「自分でもわかっていました。踏み込まれそうになると、引いていた。怖かったので」

 「何が怖かったんですか」

 誠は少し考えた。

 「また誰かを透明にするのが、怖かった。あなたを透明にするのが」

 芽依は、その言葉を聞いて、少し目を伏せた。

 「透明にはなりませんよ」と芽依は言った。「私は、なりません」

 「わかっています」と誠は言った。「あなたは、根がある人だから」

 芽依が少し、驚いた顔をした。

 「根が、ある」

 「この店に。この場所に。どれだけ揺れても、倒れない根が」

 芽依はしばらく、その言葉を受け取っているようだった。

 「それを言われたのは、初めてです」と芽依は言った。

 「本当のことです」

 「柏木さんも」と芽依は言った。「根が、できてきていると思います。ここへ来る度に、そう思っていました」

 誠はその言葉に、何も言えなかった。

 ただ、コーヒーカップを両手で包んで、温かさを感じた。


 だがやがて、芽依が言った。

 「でも」と。

 「でも」と誠は繰り返した。「あります。私にも」

 「柏木さんは、東京へ行く」

 「行きます」

 「私は、ここを離れられない」

 「そうですね」

 「お互いの気持ちは、わかった」と芽依は言った。「でも、それだけでは、どうにもならないことが、あります」

 誠は黙った。

 芽依の言う通りだった。気持ちがわかっても、現実は変わらない。誠は来月、金沢を去る。芽依はここに残る。その事実は、言葉では変えられない。

 「わかっています」と誠は言った。「だから、答えを求めて来たわけではないです」

 「では、なぜ」

 「言わないまま去るのは、違うと思ったから」と誠は言った。「言葉にしないまま終わるのは、間違いだと思ったから。それだけです」

 芽依はしばらく、誠を見ていた。

 「言ってくれて、よかったです」と芽依はやがて言った。「本当に」

 「よかったと思えますか。こんな話をされて」

 「こんな話、というのは」と芽依は少し笑った。「来月去る男に好きだと言われて、という意味ですか」

 「そうです」

 「困りますよ」と芽依は言った。「すごく困る。でも、よかったとも思います。言ってくれなかったら、もっと困っていたと思うので」

 「もっと困る、というのは」

 「言ってくれなかった方が、ずっと気になり続けたと思うので」と芽依は言った。「言葉にしてもらえた方が、ちゃんと向き合える気がします。気持ちに」


 その夜、二人は長い時間、話した。

 これまで話せなかったことを、話した。

 誠は美和との結婚について、もう少し詳しく話した。どこで間違えたか。何が足りなかったか。それを今の自分がどう見ているか。芽依は静かに聞いていた。

 芽依は、父親が亡くなる前の二年間について話した。病院への送り迎え。店を閉める日が続いたこと。父親が最後まで「店を頼む」と言わなかったこと。言わなかったけれど、それが父親の信頼だとわかったこと。

 誠はそれを、静かに聞いた。

 二人は、お互いの過去を少しずつ、丁寧に手渡し合った。

 それはとても静かな時間だった。

 劇的なことは何も起きなかった。誰かが泣いたわけでも、抱き合ったわけでも、何かを誓い合ったわけでもない。ただ、二つの人間が、それぞれの時間を持ち寄って、テーブルの上に広げた。そういう夜だった。

 十一時を過ぎた頃、芽依が「そろそろ閉める時間です」と言った。

 誠は立ち上がり、コートを着た。

 「また来ます」

 「来てください」と芽依は言った。「残りの時間、来てください」

 「来ます」

 誠は引き戸に手をかけた。

 「柏木さん」

 振り返った。

 芽依がカウンターの前に立っていた。エプロン姿で、髪が少し乱れていた。一日店に立ち続けた後の顔だった。それが、誠には美しかった。

 「東京へ行っても」と芽依は言った。「連絡してください」

 誠は少し、驚いた。

 これまで芽依は、先のことを言わなかった。金沢を去った後のことを、意図的に話題にしなかった。だから今夜もそうなると思っていた。

 「していいんですか」

 「していいです」と芽依は言った。はっきりと。「したいです、私も」

 誠はしばらく、芽依の顔を見た。

 「わかりました」と誠は言った。

 「おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 引き戸を閉めた。

 鈴がカランコロンと鳴った。


 外へ出ると、雪は止んでいた。

 路地に、薄く雪が積もっていた。誠の靴が、その雪を踏んで、小さく音を立てた。

 誠は少し、歩く速度を落とした。

 言えた、と思った。

 格好をつけずに、言えた。

 返ってきた言葉は、簡単なものではなかった。東京に行く現実は変わらない。二人の間にある距離は、まだある。何かが解決したわけではない。

 だが何かが、確かに変わった。

 言葉にしたことで、何かが実体を持ち始めた。靄の中にあったものが、少しだけ輪郭を持ち始めた。それがこれからどうなるかは、わからない。芽依との間にどんな未来があるかも、まだわからない。

 ただ、「連絡してください」と言ってくれた。

 「したいです、私も」と言ってくれた。

 それで今夜は、十分だった。

 誠は空を見上げた。

 雪が止んだ後の空は、澄んでいた。星が、いくつか見えた。

 惑星は、軌道の上を回り続ける。だが今夜、誠は少しだけ、その軌道から外れた気がした。太陽の引力に、少しだけ、身を委ねた気がした。

 燃え尽きるかもしれない。

 それでもいい、と思った。

 四十七年かけて、初めてそう思えた。


 翌朝、誠は早く目が覚めた。

 いつもより一時間ほど早かった。だが眠れなかったわけではない。むしろ、よく眠れた。ただ、目が自然に覚めた。

 カーテンを開けると、外が明るかった。

 雪は溶けていた。道路が光っていた。空が、薄い青色をしていた。

 誠はコーヒーを淹れた。

 マグカップに注いで、窓の前に立って、飲んだ。

 芽依のコーヒーには及ばない、と思った。

 だがそれでいい。及ばないから、また飲みに行ける。

 誠は残り三週間を、頭の中で数えた。

 三週間。

 短い。

 だが何もないわけではない。言葉にしたことで、時間の密度が変わった気がした。これまでの三年間より、この三週間の方が、濃いかもしれない。

 誠はマグカップを置いて、着替えを始めた。

 仕事がある。引き継ぎがある。取引先への挨拶もある。やるべきことは山積みだ。

 だが今日は、それらが少し違って見えた。

 終わりに向かう作業ではなく、次へ向かうための準備として。

 誠は玄関で靴を履きながら、昨夜のことを思い返した。

 芽依の「おやすみなさい」という言葉。カウンターの前に立っていた、その顔。

 まだ、何も終わっていない。

 むしろ、始まったばかりかもしれない。

 そう思いながら、誠は扉を開けた。

 三月の朝の空気が、冷たく、しかし確かに春の匂いを含んで、顔に当たった。


続く