Kindle 予定
もう少し手直しが必要ですが…
シガラミを捨てる夏
〜持ち時間と白紙という自由〜
ーまえがきー
私たちはいつから、これほど多くの「しがらみ」を背負って歩くようになったのでしょうか。
現役時代の役職、義理だけの付き合い、惰性で続く飲み会。
それらに追われるうちに、私たちは自分自身の「持ち時間」が有限であることを、どこか忘れてしまっているのかもしれません。
この物語の主人公・誠一は、私の分身であり、そしておそらく、現代を生きる多くの「大人たち」の分身でもあります。
彼がスマホの連絡先を消去し、古い友人の足跡を辿り、歪んだ湯飲みに温もりを見出すまでの過程は、私自身が心の奥底で求めていた「心の掃除」でもありました。
もし今、あなたが何かに息苦しさを感じているのなら、ほんの少しだけ誠一の夏に付き合ってみてください。
読み終えたとき、あなたの手帳にある「空白」が、少しだけ愛おしく見えることを願っています。
一、定年という名の牢獄
七月の朝、桐島誠一は背広のボタンを留めながら鏡の中の自分を見た。
六十二歳。白髪が増えた。顎の下にたるみができた。それでも背広を着れば、どこかまだ現役のような気がした。そういう気がしたかった。
再雇用という制度が始まってから丸一年が過ぎていた。定年退職後、かつて部下だった者たちに交じって会議に出る。意見を求められることはほとんどない。資料を印刷し、コーヒーを淹れ、夕方になれば「お先に失礼します」と言う。二十八年間勤めた会社で、誠一はいつの間にか「邪魔にならないように存在する」ことを覚えてしまっていた。
その日の午前、会議室で後輩の大島が言った。
「桐島さん、この資料、フォント間違ってますよ。明朝体じゃなくてゴシック体でお願いします」
三十七歳の大島は、かつて誠一の直属の部下だった。課長になったのは三年前のことだ。誠一はうなずき、「すみません、直します」と言って会議室を出た。廊下の角を曲がったところで、誠一は立ち止まった。
胸の中で何かがゆっくりと煮えていた。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かで重いもの。それが何かを誠一はその時まだ言葉にできなかった。
昼休み、誠一は一人で近くの公園のベンチに座った。弁当を開く気にもなれず、ただ鳩の群れを眺めた。
ポケットから手帳を出した。ページを繰ると、びっしりと予定が書き込まれていた。〇〇部長との懇親会。△△取引先のゴルフ。元同僚の息子の結婚式二次会。送別会。歓迎会。飲み会。飲み会。飲み会。
誠一は手帳を閉じた。
これのどれが、本当に行きたいものだろう。
答えは出なかった。いや、出ていた。ただ認めたくなかっただけだ。
公園のベンチで、誠一はボールペンを取り出し、手帳の余白に何かを書き始めた。詩、と呼べるものではなかった。ただの言葉の断片だった。
「シガラミを捨てる」
と書いた。
その四文字を眺めていると、胸の中で煮えていたものが、少しだけ静かになった気がした。
二、シガラミの地図
家に帰ると、妻の久美子はキッチンにいた。
「今日は早いのね」
「まあな」
それだけの会話だった。誠一と久美子の間には、長い年月をかけて作られた「適切な距離感」があった。激しい喧嘩をしたことはない。しかし深い話をしたこともない。子供たちは独立し、それぞれの生活を持っている。この家に残ったのは二人と、猫のムギだけだった。
風呂から上がり、誠一は書斎に入った。
机の引き出しから一枚の白紙を取り出し、広げた。そして思いつくままに人の名前を書き始めた。自分の人間関係の「地図」を作るつもりだった。
最初に書いたのは会社関係だ。大島。田中専務。営業部の連中。再雇用仲間の松岡。次に近所付き合い。町内会長の北川。奥さんのPTA仲間の夫たち。それから妻の実家の親族。誠一の親族。
書き終えると、紙はびっしりと名前で埋まった。
誠一はその紙を眺め、一人ひとりの顔を思い浮かべた。
笑顔で会いたいと思える人間が、何人いるか数えてみた。
指が止まった。
翌朝、誠一はもう一枚紙を取り出した。
昨日の「地図」を横に置き、新しい紙に線を引いた。左に「会いたい人間」、右に「会いたくない人間」と書いた。
そして移し始めた。
「会いたくない人間」の欄が埋まっていくのは早かった。大島の名前を書いた時、少しだけ手が止まった。嫌いというわけではない。ただ、あの男と過ごす時間が自分の命を削っているような気がしてならなかった。
「会いたい人間」の欄に書いた名前は、三つだけだった。
田村 浩二。
松本 哲也。
そして、空白。
三人目の名前が書けなかった。もう一人いたはずだった。顔は覚えている。声も覚えている。しかし名前が、ぼんやりとかすんでいた。
三、削除
七月の三連休の初日、誠一はスマートフォンを手に取った。
連絡先一覧を開く。スクロールすると、次々と名前が現れた。
大島雅之。誠一は一秒だけ考え、削除した。
田中専務。削除。
町内会長・北川。削除。
再雇用仲間の松岡。少し迷った。松岡は悪い人間ではない。ただ、会うたびに会社の愚痴を二時間聞かされる。それが誠一には耐えられなかった。削除。
一つ消えるたびに、誠一の肩が軽くなるような気がした。奇妙な感覚だった。罪悪感もあった。しかしそれを上回る、奇妙な爽快感があった。
「気がつくと、陽はすっかり傾いていた。数時間かけて整理された連絡先は、半分以下になっていた」
久美子が書斎をのぞいた。
「何してるの?」
「掃除」
「スマホの?」
「ああ」
久美子は何も言わずに引っ込んだ。誠一は画面を見つめた。
残った名前の中に、「田村浩二」はいなかった。
当然だ。四十年近く連絡を取っていないのだから。
その夜、誠一は久しぶりに酒を一人で飲んだ。
冷蔵庫にあった缶ビールを三本空け、ぼんやりとした頭で天井を見上げた。
田村浩二。松本哲也。
あの頃の仲間だった。中学から高校にかけての、無礼講で笑い合えた仲間だった。どんな馬鹿話も言えた。建前なんてものがなかった。ただそこに三人がいれば、それだけで笑えた。
いつから、人間関係がこんなにも重いものになったのだろう。
誠一は缶ビールの最後の一口を飲み干した。
四、古い写真
お盆が近づいたある夜、誠一は押し入れの奥を整理し始めた。
段ボールが三箱出てきた。一番古い箱を開けると、黄ばんだアルバムが出てきた。
中学の卒業アルバムだった。
誠一はそれをめくった。制服姿の子供たちの顔が並んでいる。クラスの集合写真。クラブ活動の写真。卒業式の日の写真。
田村浩二の顔を見つけた。
丸い顔で笑っている。眉が太い。いかにも人懐っこそうな顔だった。
隣のページに、松本哲也がいた。
背が高く、どこか斜に構えたような表情。しかし目は笑っている。クールなふりをしていつも茶目っ気があった。それが松本だった。
三人が並んで写っている写真があった。
夏祭りの夜だったと思う。商店街のスピーカーからは、その夏に発売されたばかりのサザンの「いとしのエリー」が、少し割れた音で流れていた。
中学三年の夏休み。発売されたばかりのウォークマンを誰が最初に手に入れるか、そんな馬鹿げたことで競い合っていた。
三人とも浴衣を着て、金魚すくいのポイを持って笑っていた。誠一は十五歳で、田村も松本も同い年だった。
あの夏から、もう四十七年が経っていた。
誠一は写真をしばらく眺めた。それから静かにアルバムを閉じた。
翌朝、誠一はパソコンを開き、SNSの検索窓に「田村浩二」と入力した。
五、四十年ぶりの声
検索結果に、それらしきアカウントが出てきた。
プロフィール写真は風景画だった。しかし「大阪在住。元会社員。釣りと山が好き」という一行に、誠一は確信を持った。田村は高校の時から釣りが好きだった。
誠一は画面の前で十分間、動けなかった。
メッセージを送ることを考えると、手が震えた。四十年近くも連絡を取っていなかった。向こうは覚えているだろうか。いや、田村なら覚えている。そういう男だった。でも迷惑ではないだろうか。突然連絡してきた老いた元友人を、迷惑に思わないだろうか。
誠一は深呼吸をした。
そして打ち込んだ。
「田村か。桐島誠一だ。急に連絡してすまない。元気にしてるか」
送信ボタンを押した瞬間、誠一はスマートフォンを机に伏せた。心臓がうるさかった。
返信が来たのは翌日の昼だった。
「誠一! おまえか! 生きてたか! 笑」
それだけだった。それだけで十分だった。
誠一は一人で笑った。声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
それからメッセージのやり取りが始まった。
田村は定年退職後、大阪で妻と二人暮らしをしていること。釣りと登山を楽しんでいること。孫が二人いること。体の節々が痛いこと。
誠一は東京で再雇用中であること。妻と猫と暮らしていること。最近、人間関係を整理したくなっていること。
最後の一文を打った後、誠一は少し迷った。こんなことを書いても大丈夫だろうか。
田村の返信は早かった。
「わかる。俺もそれやった。六十過ぎたら、付き合う人間を選ぶ権利があると思う」
誠一はその言葉を三回読んだ。
六、もう一人の行方
田村とのやり取りが数日続いたある夜、誠一は書いた。
「松本はどうしてる。連絡取ってるか」
返信はすぐには来なかった。
一時間後、田村から電話が来た。メッセージではなく、電話で。
誠一は嫌な予感を感じながら画面を見た。
「誠一、松本のことなんだが」
田村の声は、メッセージの時と違って少しくぐもっていた。
「知らないか」
「何を」
短い沈黙があった。
「松本、もう…いないんだ。三年前に」
誠一は言葉が出なかった。
「病気だったらしい。俺も風の便りで聞いたんだが、確認したくなくてな。しばらく経ってから、向こうの奥さんに連絡してやっとわかった」
スマートフォンを持つ手に力が入った。
「そうか」
それしか言えなかった。
電話を切った後、誠一はしばらく書斎の椅子に座ったまま動かなかった。
松本哲也。
いつも斜に構えていて、でも一番まっすぐだった男。泣き虫のくせに泣いたところを見せなかった男。卒業の日、「じゃあな」とだけ言って去っていった男。
三年前。誠一が再雇用でへとへとになっていた頃、松本はもうこの世にいなかった。
知らなかった。
知ろうとしなかった。
それが胸に刺さった。
七、再会、居酒屋の個室
八月の終わり、田村が東京に来た。
品川の居酒屋、個室を予約した。誠一が先に着いて、生ビールを一口飲んだところで田村が現れた。
太った。髪が白い。でも笑うと眉が太くて、目が細くなって、あの頃の田村だった。
「でかくなったな」と誠一は言った。
「おまえこそ爺さんになったな」と田村は言った。
それで二人は笑った。ぎこちない挨拶は必要なかった。
ビールが進むにつれて、話は昔に戻っていった。
松本が授業中に先生の物真似をして怒られたこと。田村が初めての彼女と映画に行って緊張のあまり二時間一言も話せなかったこと。誠一が試験前夜に三人で川沿いを歩き回ったこと。
笑い話ばかりだった。でも笑いながら、二人は松本の名前を出すたびに少しだけ沈黙した。
「会いに行けばよかった」と田村が言った。
「ああ」と誠一は言った。
「忙しいとか、なんか気恥ずかしいとか、そんなことで後回しにしてた」
「同じだ」
誠一はビールを一口飲んだ。
「でも、もう後悔しても仕方ない」と田村は続けた。「松本の娘さんに会ってみないか。向こうもそれを望んでるかもしれない」
夜が深くなった。締めのラーメンを食べながら、二人は次の約束をした。
松本の娘に連絡を取る。会いに行く。それだけのことが、何より大切に思えた。
八、松本を探して
田村が松本の娘・松本亜紀に連絡を取ってくれた。
亜紀は三十代の半ばで、神奈川の茅ヶ崎に住んでいた。父の昔の友人が会いに来ると聞いて、「ぜひ」と言ってくれたらしかった。
九月の週末、誠一と田村は茅ヶ崎に向かった。
電車の中で田村は車窓を眺めながら言った。
「松本ってさ、死ぬ前、わりと穏やかだったらしいな」
「そうか」
「会社辞めてから、趣味に生きてたみたいだ。陶芸とか、畑とか。俺らが知ってる松本より、ずっとのんびりしてたらしい」
誠一は窓の外の海を眺めた。青かった。
茅ヶ崎の駅前で亜紀が待っていた。
背が高くて、少し斜に構えたような立ち姿が、確かに松本に似ていた。でも目は柔らかかった。
「父の話をしてくださる方に会えて、嬉しいです」と亜紀は言った。
三人で近くの喫茶店に入った。
九、喪失
亜紀は父のことを静かに話した。
胃がんが見つかったのは六十一歳の時だった。手術をしたが、転移していた。二年間闘った後、昨日のように眠るように逝った、と亜紀は言った。
「痛かった時期もあったみたいですけど、最後の方は穏やかでした。海が見える部屋で、好きな音楽を聴きながら、まるで眠るように。」
誠一は何も言えなかった。
田村が言った。「お父さん、俺たちのこと、覚えてくれてたかな」
亜紀は微笑んだ。「覚えてましたよ。桐島さんと田村さんの名前、何度か出てきました。中学の頃の思い出話が好きで、よく話してましたから」
その言葉が、誠一の胸に重く落ちた。
覚えていた。忘れていなかった。向こうも、こちらのことを、ずっとどこかで覚えていたのだ。
なのに誠一は、会いに行かなかった。
忙しいという言い訳があった。照れくさいという感情があった。連絡先を知らないというごまかしがあった。本当は全部、後回しにしていただけだった。
誠一は窓の外を見た。海が光っていた。松本の好きだった海だったかもしれない。
十、松本の娘
喫茶店を出た後、亜紀が言った。「父の工房、見ますか。陶芸をやってた小屋が庭にあって、道具がそのままになってるんです」
二人は亜紀の家に向かった。
庭の隅に小さな木造の小屋があった。中に入ると、轆轤(ろくろ)と、乾きかけの粘土と、棚に並んだいくつかの器があった。素朴な器だった。素人の作品だったが、どれも温かみがあった。
「父が定年後に始めたんです。最初は下手くそで、割れてばかりで笑ってました。でも最後の方は、友人にあげられるくらいになって。嬉しそうでしたよ」
棚の一番端に、少し歪んだ小さな湯飲みがあった。
「それ、父が一番気に入ってた器です。歪んでるから失敗作なんですけど、なぜか愛着があるって言って」
誠一は湯飲みを手に取った。
たしかに歪んでいた。焼き物のざらりとした肌が、驚くほどしっくりと掌に吸い付いた。
松本の手が作ったものだ、と思った。器用ではなかったけれど、あいつはいつも、本物だけを掴もうとしていた。
「いただいていいですか」と誠一は言った。声が少し震えた。
「ぜひ。父も喜ぶと思います」と亜紀は言った。
帰り道の電車の中、誠一は湯飲みを膝の上の紙袋の中に入れて、ずっとそれを手で包んでいた。
田村は隣で目を閉じていた。
誠一は窓の外を見た。夕陽が海を赤く染めていた。
松本は最後の方、わがままに生きたのだ、と誠一は思った。
会社を辞めて、海の見える場所に住んで、下手な陶芸を続けて、好きな音楽を聴いて逝った。
それで良かったのだと、誠一には思えた。
十一、持ち時間
茅ヶ崎から帰った夜、誠一は久美子に話しかけた。
久美子はソファでテレビを見ていた。ムギが膝の上で丸くなっていた。
「少し、話していいか」
久美子はテレビを消した。何も言わずに誠一の方を向いた。
誠一は、再雇用をやめようと思っていること。人間関係を整理したこと。松本が死んでいたこと。田村に会ったこと。茅ヶ崎に行ったこと。歪んだ湯飲みのこと。
全部話した。こんなに話したのは何年ぶりだろう、と自分で思った。
久美子はずっと黙って聞いていた。
最後まで聞いて、久美子は言った。
「辞めていいよ、再雇用」
「いいのか」
「あなたがいなくても家計は困らない。年金で足りる。私も少し仕事してるし」
誠一は久美子の顔を見た。
いつから、こんなに老いたのだろう。いや、自分もそうなのだ。二人でゆっくりと年を取っていたのだ。
「ありがとう」と誠一は言った。
久美子は照れたように「ムギが太ってきたから、ご飯減らそうと思って」と言って、話題を変えた。それが久美子のやり方だった。
誠一は笑った。
その夜、書斎で誠一は手帳を開いた。
びっしりと書き込まれていた予定を、一つひとつ線で消した。
飲み会。懇親会。ゴルフ。二次会。
消していくと、白いページが増えた。
白いページは怖くなかった。むしろ美しかった。
誠一は、かつて地図の右側に残していた「空白」を思い出した。
あの時書けなかった名前を、今は迷わず書き込める気がした。
誠一はペンを執り、さらさらと二つの名前を書いた。
『久美子』
そして、
『自分自身』。
この白さの中に、本当に行きたい場所と、本当に会いたい人間だけを書こう、と誠一は思った。
十二、シガラミを捨てる夏
十月の連休、誠一は一人で海に行った。
茅ヶ崎ではなく、千葉の小さな漁村だった。特に意味はない。ただ海が見たかっただけだ。
砂浜に折り畳みの椅子を置き、水平線を眺めた。波の音だけが聞こえた。
ポケットから手帳を取り出した。ボールペンを持った。
書き始めた。
「シガラミを捨てる」
以前も同じ言葉を書いた。しかし今回は続きがあった。
捨てた後に残るものが
怖かった
でも残ったのは
海と
田村の笑い顔と
松本の歪んだ湯飲みと
久美子の「いいよ」という声だった
持ち時間はもう
多くない
だから
好きなものだけで
埋めていこう
わがままに
心のままに
それが
松本が教えてくれたことだ
波が来ては引いていった。
空が高かった。
誠一はペンを置き、目を閉じた。
潮の匂いがした。
六十二年生きてきて、今日が一番自由な気がした。
時間とは、そんなことだよ
──了──
ーおまけー
これは
いつか心が落ちた時
ふと
ブログに書いたものを
物語に挿げ替えたものです
それをここに載せて置きます
ーシガラミを捨てるー
還暦を越せば
もう良いじゃあないかと
目の前の厄介な連中との
無理した付き合いを断つ
ストレスに思う連中を
すべて排除する
更には
新たな友達を作ることなく
ガキの頃からの
嘘偽りない無礼講な仲間たちとだけ
微笑んでいたらそれで良い
昨今
そう思うばかり
更には
ご無沙汰してしまった
あの頃の連中に
今
会いたくもなって
連絡をと急ぐ
もう
あの頃って頃からと
同じだけの時間さえ
残っていない
持ち時間は
更に加速し
何もせずとも
目の前を過ぎて行く
老後というものが
こんなにも早く
ここへと来るとは思わなかった
本当はもう
わがままに生きて良いのだろう
心のままで良いのだろう
制御などせず
思うがままが良いのだろう
時間とは
そんなことだよ
ーあとがきー
この物語は、私がかつて心が折れそうになった時、ふとブログに書き留めた一篇の詩が種となって生まれました。
「還暦を越せば、もう良いじゃあないかと」
その一行を書いた時、私の胸の中にいた桐島誠一が、ようやく深い呼吸を始めたような気がしました。
私たちは、誰かのために生きる時期を十分に過ごしてきました。ならば、残りの時間は、少しぐらい「わがまま」に、そして「心のまま」に生きても良いはずです。
作中に登場する松本の歪んだ湯飲みは、完璧ではない私たちの人生そのものです。
不格好で、少し歪んでいる。けれど、だからこそ掌にしっくりと馴染む。
そんな人生の愛おしさを、誠一という男を通して描きたいと思いました。
最後になりましたが、この物語を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を捧げます。
あなたの「持ち時間」が、あなた自身の笑顔で埋まっていくことを、茅ヶ崎の海のような穏やかな心で見守っております。
令和八年
カトウかづひさ
ー紹介文ー
「持ち時間は、もう多くない。」
六十二歳、再雇用。かつての部下に頭を下げ、会議室の片隅で「邪魔にならないように存在する」ことを覚えた桐島誠一。
ある夏の朝、彼は手帳に書き込まれた膨大な予定を眺め、自問する。
「これのどれが、本当に行きたいものだろう」
スマートフォンから消し去った数百の連絡先。
代わりに手に取ったのは、中学時代の古いアルバムと、今は亡き親友が遺した一客の「歪んだ湯飲み」だった。
還暦を越え、しがらみを脱ぎ捨てた先に残ったのは、孤独ではなく、あまりに美しく白い自由。
一篇の詩から生まれた、人生の「持ち時間」を愛おしむ大人のための物語。

