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『出雲・神議(かみはかり)騒動記
島根県、出雲。
旧暦の十月、全国から八百万の神々が集まるこの月を、人々は敬意を込めて「神在月(かみありづき)」と呼びます。
古くから伝わる神話によれば、神様たちはこの一週間、出雲大社に籠もって、人々の「誰と誰を結ぶか」という会議——「神議(かみはかり)」を行うのだそうです。なんともロマンチックで、神秘的なお話です。
しかし、ふと思ったのです。
もし、その「縁結び」という仕事が、現代の私たちの仕事と同じように、膨大なデータ処理やクレーム対応、そして人間関係……いえ、神様同士の「神関係」に追われる激務だとしたら?
エナジードリンクを飲み干して徹夜で会議を回す議長、潔癖症すぎて除菌に余念がないお局様、そして自分の「いいね」を増やすことに必死なインフルエンサー気質の女神。そんな、どこか身近に感じてしまうような神様たちが、もし私たちの知らない地下事務局で、キーキー言いながら縁の糸をこねくり回していたら……。
本作の主人公、佐藤は、そんな神様たちのドタバタに文字通り「巻き込まれた」一人の平凡な男です。
彼は特別なヒーローではありません。会社が倒産し、恋人に振られ、ネギを背負って砂浜を走り回る、ちょっと運の悪い……けれど、誰よりも一本の「赤い糸」に誠実であろうとする男です。
この物語は、神様たちの不完全さと、人間の泥臭い執念がぶつかり合って生まれる、ちょっとおかしな、けれど真っ直ぐな再会の記録です。
もしあなたが、今の仕事に疲れ果てていたり、自分だけが「縁」に見放されているような気がしていたりするのなら、どうぞ安心してこのページを捲ってください。
大丈夫。
たとえあなたの縁が、神様たちの手違いで「茹ですぎた蕎麦」のように絡まってしまっていたとしても、それを手繰り寄せる力は、きっとあなたの手の中に残っているはずですから。
それでは、神在月の出雲へ——。
八百万のドタバタ劇、開演です。
「神様、もしいるなら……俺の最悪な現状をどうにかしてくれ!」
人生どん底の33歳独身男、佐藤。会社は倒産、恋人には振られ、文字通り「縁」に見放された彼が、藁をも掴む思いで訪れたのは、神在月の出雲大社だった。
そこで救い上げたのは、海に流されていた「アロハシャツを着た小さな老人」。
その正体は、なんと知恵の神・オモイカネ! 腰を痛めた神に泣きつかれ、佐藤は八百万の神々が集う秘密の「神議(かみはかり)事務局」で、一週間の派遣社員として働く羽目に……。
しかし、そこは神秘のイメージとは程遠い、欲望と私情が渦巻く**「超ブラック職場」**だった!
• エナジードリンクを煽り、数千万件の苦情に震える議長・大国主命。
• SNSの「いいね」を増やすため、勝手に縁を書き換える誘惑の女神・アメノウズメ。
• 「不潔!」と叫び、除菌スプレー片手に縁を切り刻むお局様・ミズハノメ。
さらに最悪なことに、佐藤自身の「運命の赤い糸」が、事務局の昼飯用の出雲そばと一緒に茹で上げられ、こんがらがった蕎麦の塊と化してしまう!
婚活女子の執念が生んだデーモン、女神たちのストライキ、そしてネギを担いで神域を爆走する佐藤。
果たして彼は、神々が引き起こした「十年前のパケットロス」を修正し、あの雨の日の約束を果たすことができるのか?
神様だって楽じゃない!
笑いと涙、そして蕎麦の香りが織りなす、ノンストップ・神事エンターテインメント、ここに開幕!
稲佐の浜に、一人の男が立ち尽くしていた。佐藤、三十三歳。会社は倒産、恋人には振られ、文字通り「縁」に見放された男だ。
「神様、助けてくれ……」
その時、波打ち際に流れてきたのは、アロハシャツを着た小さな老人だった。
「……お主に救われたわい。ワシはオモイカネ。……腰をやってしもうてな。お主、明日から出雲大社の『神議(かみはかり)事務局』で働け。給料は……お主の『縁』の修復じゃ」
こうして佐藤の、神様相手の「派遣社員生活」が始まった。
出雲大社の地下、そこには巨大なコールセンターのような「神議事務局」が広がっていた。
「ちょっと! この『年収2000万以上のイケメンと結婚したい』っていう苦情、誰が仕分けしたの!?」
怒鳴り散らすのは、潔癖症で知られる女神・ミズハノメ。
「佐藤、ボーッとするな。この数千万件の『縁結び申請』をホログラム化して、議長の大国主様に回せ!」
神様たちも、パンク寸前のブラック企業状態で働いていたのだ。
佐藤は、事務局の古いデータの中に「自分自身の名前」を見つけた。
十年前、土砂降りの雨の中で出会った、赤い傘の女性。あの時、確かに運命の糸は繋がっていたはずだった。
「……なんだこれ? 『神事中のネットワーク障害(女神のダンスによる電波干渉)』で未接続……!? 俺の人生、ただのエラーで片付けられてたのかよ!」
佐藤の拳が、デスクを叩いた。
佐藤の前に、艶やかな美女が現れた。芸能の女神、アメノウズメだ。
「あら、熱血事務員さん? あなたの縁、私がちょっと『映える』感じに書き換えてあげようか? ただし、私のダンス動画の『いいね』を百倍に増やすのが条件よ」
神様たちも、承認欲求とノルマに追われている。佐藤は、神々の私情に振り回される現実に目眩を覚えた。
新米神のタクミが、会議用の「出雲そば」を運んできた。
「佐藤さん! あなたの赤い糸、解こうとしたら、蕎麦に絡まっちゃったっす!」
なんと、佐藤の運命の糸は、事務局の昼飯用の蕎麦と一緒に茹で上げられ、こんがらがった「蕎麦の塊」と化してしまった。
「俺の人生、十割蕎麦かよ!」
会議室に戻った佐藤の目は、もはやただの事務員のものではなかった。ノルマ未達の月末を乗り切る営業マンのような、暗く鋭い光を宿している。
「……スクナヒコナ様。この『未決議案件』のリストの最上段に、俺のIDをねじ込んでください」
「正気か? 自分の縁を神々の吊るし上げに遭わせるつもりか。……まあ面白い、やってみろ」
数分後、議場の中央ホログラムに、佐藤の「グチャグチャに絡まった赤い糸」がドアップで投影された。
「えー、次の議題。事務局補助員・佐藤の、十年前の接続エラー案件について……」
大国主が、死にそうな声で読み上げた。その瞬間、議場が沸騰した。
「あら、この糸の絡まり方、芸術的じゃない!」
アメノウズメが扇子を叩いて立ち上がる。
「これ、無理に解こうとしても無駄よ。いっそ、私の担当する『近所の雷神様(独身・強面・バツイチ)』の髭と結んじゃいましょう! ワイルドな生活、お似合いよ!」
「冗談じゃないわ!」
反対側からイワナガヒメの怒号が飛ぶ。
「彼は地味な生活で悟りを開くべきよ! 私が管理している『山奥で盆栽を愛でる90歳のお婆さん』との縁に繋ぎなさい。静かな老後が待っているわ!」
「雷神の髭か、盆栽のお婆さんか……究極の選択だな」
周囲の神々がニヤニヤと見守る中、佐藤はマイクをひったくった。
「ふざけるな! 俺の人生を、お前たちのその場のノリで決めるな! 俺には、十年前、神様のストリップのせいで繋ぎ損ねた相手がいるんだ!」
静まり返る議場。神様に「ストリップ」と言い放った人間に、神々が呆気にとられる。
「……ほう。人間が、神議(かみはかり)に異を唱えるか」
大国主が、ゆっくりと身を乗り出した。その重圧だけで、佐藤の膝がガクガクと震える。
「……佐藤。縁とは、お前が望む形だけが正解ではない。……だが、女神たちのその私情まみれの提案も、確かに目に余るな」
「そうよ、大国主様! 私のマッチングの方が『映える』に決まってるわ!」
アメノウズメが佐藤の肩に手を置き、挑発的にイワナガヒメを睨む。二人の女神が、佐藤の赤い糸を左右から引っ張り合い始めた。
「あ、痛い! 痛い痛い! 糸を引っ張ると、俺の心臓が痛いんだよ!」
物理的に引き裂かれそうになる佐藤の赤い糸。さらには潔癖症のミズハノメが、「……ああ、もう。糸が手垢で汚れるじゃない!」と、霧吹きで聖水を噴射し、場内は水浸しに。
「ええい、やめろ! 会議が、また壊れる……!」
大国主の悲鳴も虚しく、議場は「佐藤の縁」を巡る、女神たちの意地のぶつかり合いへと変貌した。その混乱の最中、佐藤の水晶タブレットが激しく点滅した。
『緊急警告:過度な干渉により、赤い糸が熱を帯びています。まもなく暴走します』
「……嘘だろ。俺の縁が、物理的に爆発するのか!?」
佐藤は、絡まった糸を握りしめ、女神たちの包囲網を突破して逃げ出すしかなかった。
「待って、佐藤さん! そのまま走ったら、縁のログがブチ切れるっす!」
議場を飛び出した佐藤を追ってきたのは、新米神のタクミだった。彼は両手に、神事に供えるための大量の「出雲そば」を抱え、必死に短い足を動かしている。
「うるさい! 雷神の髭に結ばれるくらいなら、ログなんて切れた方がマシだ!」
佐藤は神域の廊下を猛進した。しかし、そこは八百万の神々がひしめく迷宮。曲がり角で、巨大な蒸気を上げる「神苑キッチン」の入り口に突っ込んでしまう。
「わわわっ!」
後ろから突っ込んできたタクミが、蕎麦の束をぶちまける。そして、あろうことか、佐藤の右手に絡みついていた「赤い糸」の先端が、タクミが放り投げた蕎麦の束に絡まったまま、ぐらぐらと煮え立つ釜の中へと吸い込まれていった。
「ああっ! 俺の縁が……茹でられてる!?」
「ひえええ! すみません! 縁の糸は熱に弱いのに、十割蕎麦と一緒に茹でちゃったっす!」
釜の中では、佐藤の赤い糸が蕎麦と渾然一体となり、絶望的な「茶褐色の塊」へと変貌していく。そこへ、優雅な足取りでアメノウズメが現れた。
「あら、いい香り。十割蕎麦の風味に、人間の未練が隠し味……。これ、いっそ『縁結び蕎麦』として、私が全部食べちゃおうかしら。そうすれば、佐藤の人生は永遠に私の胃袋の中。素敵だと思わない?」
「縁を食うな! 悪食にも程があるだろ!」
「あら、悪い女だと思った? 私はただ、有効活用したいだけよ。……でも、見て。茹で上がったおかげで、あなたの糸、変な『意志』を持ち始めたみたいよ」
アメノウズメが指差す先。釜の中から、茹で上がった蕎麦の塊が、蛇のようにぬるりと這い出してきた。それは佐藤の「執念」と「蕎麦の粘り」が合体した、正体不明のクリーチャー。
「……待て、逃げるな! 俺の人生!」
蕎麦化した赤い糸は、神域の窓を突き破り、夜の出雲の街へと逃走を開始した。
「待て! 伸びるな、俺の蕎麦……じゃなくて、俺の人生!」
神門通りを爆走する「蕎麦化した赤い糸」を追い、佐藤とタクミは再び出雲大社の境内、広大な「神苑」へと転がり込んだ。しかし、そこはもはや清浄な神域ではなかった。
ズンドコ、ズンドコ。巨大な松の木の間から、重低音が響いてくる。そこでは、数百柱の女神たちが、神事のストレスを発散させるべく「神域限定・シークレット・クラブイベント」を絶賛開催中だったのだ。
「あら、佐藤じゃない! 蕎麦の香りをさせて、私を誘ってるのかしら?」
ステージの中央、ミラーボール代わりに光り輝く「勾玉(まがたま)」の下で、アメノウズメがマイクを握っていた。彼女はすでに神酒で泥酔しており、頬を赤く染めて千鳥足だ。
「ウズメ様、仕事に戻ってください! 佐藤さんの糸が、あそこのスピーカーに絡まって……!」
「細かいことはいいのよ! さあ、ミュージック・スタート!」
鳴り響いたのは、あのイントロ。『マツケンサンバⅡ』。アメノウズメが佐藤の首根っこを掴み、無理やりステージへと引きずり上げた。
「さあ踊りなさい、佐藤! 縁が蕎麦になったなら、コシが命よ! 叩けボンゴ、響けサンバ!」
「嫌だ! 離せ! 俺は自分の糸を回収したいだけなんだ!」
佐藤の抵抗も虚しく、周囲の女神たちが一斉に「サウザーンド(八百万)!」と叫びながら、金色の扇子を振り回して踊り狂い始めた。潔癖症のミズハノメまでもが、「……もう、どうにでもなればいいわ! 消毒液入りのカクテル、おかわり!」と叫んで暴れている。
佐藤は、アメノウズメに強引に神酒を口に流し込まれた。
「……ハッ! オレ、サンバ! オレ、サトウ!」
気がつけば、佐藤はアメノウズメと肩を組み、腰を振り、キラキラと輝く蕎麦の糸を新体操のリボンのように振り回しながら、神苑の夜を踊り明かしていた。
「……つめたっ! 何するんだよ、お局様!」
ミズハノメの放った聖水で、佐藤は神苑の芝生から飛び起きた。
「汚らわしい。酒とネギの臭いをさせた人間が、神聖な神苑で朝帰りを決め込むなんて。……早くこれを受け取りなさい。スクナヒコナ局長が、『これはお前にしか処理できない』と放り投げたわよ」
手渡されたのは、雪のように白く、しかし触れると火傷しそうなほど熱い一通の巻物だった。それは「特別申請書」。現世の人間が、己の命や全生涯の良縁をすべて返上する覚悟で書いたときにのみ届く「魂の叫び」だ。
佐藤が震える手で紐を解くと、十年前のあの雨の日の記憶が流れ込んできた。
『神様。十年前、あの雨の日に道を聞いたあの人に、もう一度だけ会わせてください。それが叶うなら、私のこれからの人生に、他のどんな良縁もいりません』
「……え」
パケットロスに苦しんでいたのは、自分だけではなかった。
「あら、重いわねえ」
アメノウズメが背後から覗き込む。「十年前のたった一度のすれ違いに一生を賭けるなんて。これだから人間の女は怖いわね。佐藤、そんな重い女はやめて私のマッチングにしなさいよ」
「……冗談じゃない。これは『誠実さ』だ。彼女はずっとこれを守り続けてきたんだ。お前たちのサンバとは重みが違うんだよ!」
佐藤は、鳩に突っつかれて短くなった「蕎麦の縁」を握りしめ、再びブラック事務局へと走り出した。
「……もう働けん。縁なんてどうでもいい」
事務局の床には、二日酔いと過労で力尽きた八百万の神々が転がっていた。
「ちょっと佐藤、私のデリバリー注文してよ。タピオカ……じゃなくて、天界の甘露がいいわ」
アメノウズメが虚ろな目で呟く。佐藤は、かつて建設現場の夜勤明け、冷え切った身体で啜ったあの「飯」の記憶を呼び起こした。
「……甘露なんて甘っちょろいもんじゃ、その濁った血は綺麗になりませんよ」
佐藤は神域キッチンを占拠した。
茹ですぎてクタクタになった蕎麦を細かく刻み、霊泉でじっくりと煮込む。そこへ、神聖なネギをこれでもかと刻み入れ、隠し味に現場御用達の「ガツンとくる塩気」を利かせた。
「食え! 佐藤特製『ドカ食い神在そば粥』だ!
冬の北アルプスの山小屋で出す、あの熱量。現場の男たちが、明日も生きるために胃袋に流し込む『本気の補給食』を再現してやったぞ!」
一口啜った神々に、電流が走った。
「……熱い! だが、身体の芯から力が湧いてくるわい!」
「このネギの辛み……溜まっていた情念が、汗と一緒に吹き出していくわ!」
神々の目が、かつてないほど鋭く見開かれた。
「よし、お前ら! この粥の熱量で、溜まった申請書を一気に片付けるぞ!」
佐藤の怒号に、神々が再びデスクへと向かう。……はずだった。
「……決めたわ。こんなに旨い粥を毎日作れる人間がいるなら、もう真面目に働くのが馬鹿らしい! みんな、ストライキよ! 佐藤を専属シェフにして、私たちは温泉に行きましょう!」
「……おい! 現場の士気を上げるための飯が、まさかの福利厚生の要求に化けるとは……!」
佐藤の「本気の現場飯」は、皮肉にも神々を「働いたら負け」モードへと突入させてしまった。
神々のストライキにより、下界の「婚活女子」たちの執念が暴走した。
『警告:下界より、異常なまでの負のエネルギーが流入中。神域結界、限界です!』
事務局の天井を突き破り流れ込んできたのは、巨大な毛糸玉のような怪物「縁結びデーモン(婚活の化身)」だった。
「ひえええ! 俺の赤い糸が、怪物の心臓部に取り込まれてるっす!」
デーモンは「既読スルーするな!」「年収800万以上!」という怨嗟の声を放ち、事務局を破壊し始める。その闇の渦の中に、彼女の「特別申請書」も飲み込まれようとしていた。
「……アメノウズメ! ミズハノメ! 喧嘩してる場合か! この怪物を止めないと、お前たちの管理する縁も全部めちゃくちゃになるぞ!」
佐藤は神聖なネギを剣のように構え、デーモンに立ち向かった。
「……一律で切断(デリート)します。この汚れきった縁も、佐藤……あなたのグチャグチャな赤い糸も!」
不潔さに耐えかねたミズハノメが、禁断の「縁切り鋏」を持ち出し暴走した。
「やめろ! それを使ったら、俺の十年越しの再会も全員破局だぞ!」
鋏が空を切るたびに、空間そのものが削り取られていく。デーモンは切り裂かれる痛みにのた打ち回り、佐藤の赤い糸と彼女の巻物をさらに深く闇の中へと飲み込もうとした。
「佐藤、死ぬわよ!」
「死なねえよ! 神様のヒステリーくらい、会社員時代に慣れっこなんだよ!」
佐藤はアメノウズメの羽衣を腰に巻き、デーモンの体内にダイブした。闇の最深部、ボロボロになりながらも光を放つ「赤い糸」と「白い巻物」を、佐藤は必死に抱きしめた。
鋏が振り下ろされる寸前、地鳴りのような声が響いた。
「……いい加減にしろ。私の事務局で、これ以上の不作法は許さんぞ」
覚醒した大国主命が手をかざすと、デーモンは一瞬で黄金の粒子へと浄化された。霧が消えた後、佐藤はボロボロの姿で「白い巻物」を守り抜いていた。
「……返してやるんだ。彼女が、十年も守ってきた……この想いだけは……」
その姿に、アメノウズメの瞳から大粒の涙がこぼれた。「バカな男。……私、決めたわ。あんたのその泥臭い縁、私が世界で一番『映える』形にプロデュースしてあげる!」
「不潔……。でも、その巻物の汚れだけは、私が真っ白に洗い清めてあげるわ」
大国主が指先で巻物に触れる。「八百万の諸君、最終議決だ。佐藤のこの縁、特級案件として再接続することを承認するか!」
『承認――!!』
事務局中に賛成の声が響き、佐藤の赤い糸は眩い光を放ち始めた。
神等去出祭の朝。事務局は元の静寂を取り戻していた。
「佐藤殿、お疲れ様じゃった。……来年の神在月も、ワシはまた腰をやる予定でな。その時は……また履歴書を送るが良い。即採用じゃ」
オモイカネは笑いながら光の中に消えた。ミズハノメは「二度と汚しに来ないでよ」と毒づきながら、真っ白な手拭いをくれた。アメノウズメは佐藤の首筋に、羽衣の切れ端で作った赤いミサンガを巻き付け、頬にキスをして舞い上がった。
神域の力が消え、感覚が「現世」へと戻っていく。
「……よし。行こう」
佐藤は稲佐の浜へと走り出した。
凪の朝、稲佐の浜。
そこには、十年前と同じ赤い傘を畳んで、朝日を見つめる一人の女性がいた。
「……あの」
佐藤の声に、彼女がゆっくりと振り返る。驚きと、確信と、そして溢れんばかりの慈愛が混ざった瞳。彼女は佐藤の姿を見て、堪えきれずに吹き出した。
「……ふふっ。あはは! ……すみません。……あなたの肩に、まだ『ネギ』が乗っていますよ?」
佐藤は自分の肩を叩き、苦笑した。ボロボロの服、ネギの臭い、手首のミサンガ。
「……ああ、これ。……神様たちと、ちょっと『人生の予算交渉』をしてきた跡なんです。……すっかり、十年も待たせてしまいましたね」
彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「……いいえ。……私、知っていました。あなたが、どこかでずっと戦ってくれていること。……この傘を差すたびに、あの雨の日のあなたの言葉が聞こえていたから」
佐藤は、右手首に巻かれた黄金色に輝く「蕎麦の糸」を、そっと彼女へと差し出した。
「……佐藤、と言います。佐藤和久。……もう二度と、パケットロス(通信エラー)はさせません」
彼女は、そのボロボロになった糸の先を、自分の指先でそっと掴んだ。
「……はい。……私のお名前、十年前にお教えできなかった続きから、聞いてもらえますか?」
朝日が二人を包み込み、出雲の海に新しい風が吹いた。
神様たちがこねくり回した、最高に「コシの強い」縁が、今、結ばれた。
(完)
【あとがき】
本作の主人公・佐藤が、ネギを背負いながらも一本の「赤い糸」を守り抜く姿は、不器用ながらも懸命に生きる私たち自身の姿でもあります。神様たちがどれほど計算しようとも、最後に縁を手繰り寄せるのは、人間の泥臭い執念なのかもしれません。

